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終戦、廃校


 
昭和20815日の江田島は無風快晴であった。平日よ15分早い1130分「食事ラツパ」が鳴り響いた。不思議に思いながら食堂に急いだ生徒に対して,当直監事は「本日,1200から,天皇陛下の御放送がある。全員急いで食事をすませて、第二種軍装に着替えておけ」と命令してから着席を命じた。食後歯を磨き、入浴して身を渚めてから,新しい下着と軍装に着替えて部監事室に集合した。玉音放送はほとんど聞取れなかったが,ただ玉音から伝わってくる悲壮感と,途切れ途切れに聞き取れる「堪え難きを堪え,忍び難きを忍び」「……止むなきに至れり」というような言々句々に肺腑を衝かれて,両眼に涙を浮かべ,放心したように玉音放送に耳を傾けた。
 
午後1,千代田艦橋前に整列した在校生徒4,500名に対して,副校長大西新蔵少将は次のように訓示した。「只今の陛下の御放送は,さきに米英ソ支4か国によって共同宣言されたポツダム宣言を受諾した旨のものであった。実に降服ということは,三千年来のわが国史上空前の大汚点であり,将来も永久に忘れることのできない痛恨事である。われわれは最も信頼ある天皇陛下の股肱として,今日の事態を迎えざるを得なかったことは,上御一人に対し奉り,全く不忠きわまることで,これを思うと,苛責の念に堪えない。また数百万人の我々の同胞を殺し,非戦闘員である国民の家財を焼いた敵国に対しては,激昂のあまり血は逆流するかと覚える。しかし……,われわれの祖国は降服した。日本は完全に敗れたのである。このような冷い現実の前に立ったわれわれが,血気にはやって軽挙すれば,却って日本の立場を不利にする口実をつくらせるだけである。諸子はくれぐれも白重せよ。今日の午後の課業は中止する。その他のことは追って達する」副校長の話が終わったとき,広い練兵場を埋めつくした生徒達は全員泣いていた。
 
江田島本校はこうして終戦を迎えたのである。午後2時頃江田島本校の上空へ海軍の夜間戦闘機月光が2機現れ,低空で旋回しながら伝単をまいた。その伝単にはガリ版で次のような文句が印刷してあった。

 
「戦争終結の事,聖断に出ずれば我等何をか言わん。然れども,こは敵のかいらいたる君側の奸の策謀に過ぎず。帝国海軍航空隊○○基地は断じて降服を肯んずるものに非ず。これにより本機は沖縄に突入せんとす。諸子は七十余年の光輝ある海軍兵学校の伝統を体し,最後の一員となるまで本土を死守し,以て祖国防衛の防波堤たるべし」

 その夜自習後,生徒隊監事花田卓夫大佐は全校生徒を干代田艦橋の前に集めて,伝単を撒いた航空隊員のような軽挙妄動は絶対に慎しむべきであると懇々と諭した。

 終戦3日目の818,司令塔に菊水のマークをつけ,八幡大菩薩の幟を立てた潜水艦3隻が江田内に入つてきて,白鉢巻姿の乗員が手に日本刀を振りかざしながら,悲痛な声で徹底抗戦を呼びかけたが,生徒は礼儀正しく答礼したのみであった。休暇帰省が発令されて,821日朝,四国地方出身生徒の一団が表桟橋から「第1まいづる」に乗船,江田鳥を離れたのを皮切りに,次々と故郷に向けて復員していった。

 
江田島本校の終戦処理では,重要資料を如何にして守るかが問題になって,何度も教官会議が開かれた。その結果,大講堂2階と教育参考館に展示してあった御下賜品,戦死した先輩が残した遺品,軍の機密に属する文書などは大部分焼却処分することとなり,生徒たちは3日問にわたって練兵場で焼却作業を行ったが,燃えあがる炎を囲んで両眼から涙を流しながら軍歌を合唱し続けた。東郷元帥の遺影その他の貴重品は宮島の厳島神社や大三島の大山祗神社に奉納して,国外に持ち去られることを防ぎ,赤煉瓦造りの門柱に嵌めてあった青銅製の「海軍兵学校」の門標は江田島本浦の八幡神社に預けた。
 
海軍兵学校生徒の復員は824日をもってほぼ完了した。その後,その年の101日に,75期生徒には卒業証書,76,77,78期生徒には修業証書を渡された。それには次のような校長訓示が添えられていた。

 「百戦効空しく,四年に亘る大東亜戦争すでに終結を告げ,停戦の約成りて帝国は軍備を全廃するの止むなきに至り,海軍兵学校も亦近く閉校され全校生徒は来る十月一日を以て差免のことに決定せられたり。
 諾子は時恰も大東亜戦争中志を立て身を挺して皇国護持の御楯たらんことを期し選ばれて本校に入るや厳格なる校規の下,加うるに日夜を分たざる敵の空襲下に在りて,克く将校生徒たるの本分を自覚し拮据精励,一日も早く実戦場裡に特攻の華として活躍せんことを願いたり。又本年三月より防空緊急諸作業開始せらるるや,鉄槌を振るつて堅巌に挑み,或は物品の疎開に建造物の解毀作業に,或は又簡易教室の建造に,白活諸作業に酷暑と闘い労を厭わず尽瘁之努めたり。然るに天運我に利非ず。今や諸子は積年の宿望を捨て,諸子が揺藍の地たりし海軍兵学校と永久に離別せざるべからざるに至れり。惜別の情,何ぞ云うに忍びん。又諸子が人生の第一歩に於て,目的変更を余儀なくせられたこと誠に気の毒に堪えず。然りと雖も,諸子は年歯尚若く頑建なる身体と優秀なる才能を兼備し,加うるに海軍兵学校に於て体得し得たる軍人精神を有するを以て,必ずや将来帝国の中堅として,有為の臣民と為り得ることを信じて疑わざるなり。生徒差免に際し,海軍大臣は特に諸子のために訓示せらるるところあり,又政府は諸子の為に門戸を開放して,進学の途を開き,就職に関しても一般軍人と同様に其特典を与えらる。兵学校亦監事たる教官を各地に派遣して,洩れなく諸子に対し海軍の好意を伝達せしむる次第なり。

 
惟うに諸子の先途には,幾多の苦難と障碍とが充満しあるべし。諸子克く考え克く図り,将来の方針を誤ることなく,一旦決心せば目的の完遂に勇征適進せよ。忍苦に堪えず中道にして挫折するが如きは男子の最も恥辱とする処なり。大凡ものは成る時に成るにあらずして,其因たるや遠く且微なり。諸子の苦難に対する敢闘はやがて帝国興隆の光明とならん。終戦に際し下し賜える詔勅の御主旨を体し,海軍大臣の訓示を守り,海軍兵学校生徒たりし誇を忘れず,忠良なる臣民として,有終の美を済さんことを希望して止まず。

 
茲に相別るるに際し、言わんと欲すること多きも,又言うを得ず。唯々諸子の健康と奮闘とを祈る。

昭和20923

                     海軍兵学校長栗田健男」

 創立以来77年の歴史を持つ海軍兵学校は昭和20(1945)1020日付を以つて廃校となった。

 
海軍兵学校が明治2(1869)に創立されてから77年間における卒業生は,総計11,182名に上り,戦公死者総数は4,012柱に達し,全卒業生の33%が護国の英霊と化した。この英霊のうち,支那事変までの73年問の戦公死者が5%であるのに対し,38か月の太平洋戦争における戦公死者は95%に達している。

 
以上のうち期別の戦公死者数では72期の337名がもっとも多く,戦公死率では68期と70期が66%でもっとも高い。また,昭和193月卒業の73期は,終戦まで僅か15か月の間にクラス総員898名の33.4%にあたる300名が「水漬く屍」となった。これは,2日に1人の割りで戦死者が出たことになる

 一方,終戦時の在校生は4期合計で15,12977年間の卒業生より4,000名も多い。この多くの在校生は戦後日本再建の原動力となり,現在も各界の要職を占めている。これ等の人達こそ目本海軍が残した最大の遺産ではあるまいか。

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