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なにわ会のブログ 23年10月の3

1021

日本軍第二遊撃部隊(巡洋艦3隻基幹、通称志摩艦隊)が馬公を出撃。フィリピン、ルソン島マニラへ向かう。

この日の朝、海軍の神風特別攻撃隊は各地から出撃したが、天候不良などで会敵出来ず。

戦没者なし

 

戦後物故者

鈴木 哲郎   19791021日逝去

桂 理平の「鈴木 哲郎を悼む」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-suzukiteturou-katura1.html

 

東條 重道の「鈴木 哲郎への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-suzukiteturou-toujyou1.html

 

 

小沢 尚介   20011021日逝去

中村 元一の「小沢 尚介君への弔辞」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ozawa-nakamura1.html

 

大谷 友之の小沢尚介 急逝す「」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ozawa-ootani1.html

 

山田 良彦の「球友を失って」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ozawa-yamada1.html

 

伊藤 正敬の「ゴルフを通じて小沢尚介君を偲ぶ」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ozawa-itou1.html

 

奥山 寿一の「小沢尚介君をおくる」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ozawa-okuyama1.html

 

宇野 俊夫   20061021日逝去

樋口 幹の「宇野俊夫君を悼む」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-uno-higuti1.html

上野三郎君から電話で安藤昌彦君東京クラス会欠席に変更との連絡あり。

10月22日

第1遊撃部隊

0800 栗田艦隊 ブルネイを抜錨 夜半パラワン水道の南口に到着

 1530 西村艦隊 ブルネイ抜錨、出撃

 

戦没者 67年前 昭和19

池上 勝也(佐伯空 偵察)九州南方海面で索敵中敵機の攻撃を受け戦死

 

戦後物故者なし

一昨日東郷神社で行われた潜水艦殉国者慰霊祭が行われ、泉 五郎君が元帝国海軍潜水艦乗組員を代表して祭文奏上を行った。

この件、74期の談話室の次の記事から。

慰霊祭は、10月20日(木)午後1時から東郷神社境内にある潜水艦殉国碑前において東郷神社宮司をはじめとする神官、元帝国海軍潜水艦乗組員、その遺族、海上自衛隊出身元潜水艦関係者等々が参列し斎行された。この慰霊祭は、大東亜戦争で戦没された潜水艦、特殊潜航艇、、回天の乗組員、それらの艦艇の公試等で殉職された技術者等の鎮魂のため、昭和33年5月に潜水艦殉国碑が建立され、このことを契機として、それ以後毎年10月20日に斎行されている。

10月23日

第1遊撃部隊(栗田艦隊)

0632 「愛宕」に魚雷4命中、

0653沈没。(重森光明 戦死)栗田長官「大和」に移乗 旗艦変更

 0633 「高雄」に魚雷2命中 大破。駆逐艦「朝霜」と「長波」水雷艇「鵯」に護衛されブルネイに後退。

 0657 「摩耶」に魚雷4命中、

0708 沈没(東郷良一 戦死)

志摩艦隊コロン湾着。油槽船を発見できず、巡洋艦から駆逐艦に燃料を給油。

 

戦没者 67年前 昭和19

重森 光明 (愛宕 巡洋艦 )

捷一号作戦:レイテ湾に向かう途中パラワン水道で敵潜の攻撃を受け沈没戦死

詫間 一郎の「戦友を偲ぶ」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-isii-inoyama-sigemori1.html

 

東郷 良一(摩耶 巡洋艦)

捷一号作戦:レイテ湾に向かう途中パラワン水道で敵潜の攻撃を受け沈没戦死

「」一場の夢 東郷良一生徒の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-tougou-andou.html

 

市川  繁(攻5 偵察)

捷一号作戦:比島沖で敵機動部隊に突入戦死(彗星)

 

戦後物故者なし

 

齋藤義衛君から巡洋艦能代の最後のプリントを送って貰い、その著者である掛井様に電話して当時の状況をお聞きした。その結果を周参見様に次の通りメールしました。

「今月初めに尋ねのあった能代の水上偵察機で戦死された永岡惣一郎さんの事ですが、本日齋藤義衛君から資料のコピーを送って貰いました。その資料を書いた方に電話して当時の状況をお尋ねしました。その方は掛井松壽さんで住所等は・・・・・です。

電話かお手紙でお尋ねになれば何か分ると思います。なにわ会    伊藤 正敬

 

1024

第1遊撃部隊(栗田艦隊)

 1026 第1次対空戦闘 「武蔵」に魚雷1命中。妙高に魚雷1命中戦列離脱

 1206 第2次対空戦闘 「武蔵」に魚雷3、爆弾4命中。

 1330 第3次対空戦闘 「武蔵」に魚雷5、爆弾4命中。

 1430 第4次対空戦闘 「武蔵」に魚雷5、爆弾4命中。

 1459 第5次対空戦闘 武蔵」に魚雷11、爆弾10命中。

 1530 西方に反転 一時空襲を避ける

 1714 東方に再反転

 1935 「武蔵」魚雷、爆弾、至近弾多数を受けて遂に沈没

志摩艦隊  コロン湾出撃

西村艦隊  

米艦上機27機来襲、栗田艦隊に25日0400突入の予定と打電

 「時雨」魚雷艇3隻発見 同時に射撃開始

小沢艦隊

 0600 予定地点に到達 索敵機10機発進

 1145 攻撃隊76機(実動58機)発進

 1305 「瑞鳳」「千歳」「千代田」攻撃隊、グラマン戦闘機と空戦

      攻撃隊は敵空母発見できず3機のみ帰投

 1350 「瑞鶴」攻撃隊敵空母発見、正規空母と軽空母各1隻に命中弾(実際は米空母に損害なし)

 1515 航空戦艦「日向」「伊勢」以下は主隊から分離、南下して牽制行動開始 

戦没者

 67年前 昭和19

西岡  弘 (攻5 偵察)

   捷一号作戦:比島沖の敵機動部隊に突入戦死(彗星)

 

森 多久二 (901空 艦攻操)

  捷一号作戦:比島沖夜間索敵中、敵機と交戦戦死(九七大艇)

金枝 健三の「森 中尉」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-mori-kaneeda1.html

 

吉富  清( 戦317 戦闘機)

  捷一号作戦:敵機勤部隊を攻撃した後、消息を絶つ(零戦)

 

相沢  昇(戦804 偵察)

  捷一号作戦:敵機動部隊と交戦戦死

 

小岩井 博(豊橋空 陸攻操)

  捷一号作戦:豊橋空より比島作戦に参加、交戦戦死(一式陸攻)

 

幡井 重丈(攻702 偵察)

捷一号作戦:比島アゴーで敵機と交戦戦死(一式陸攻)

 

戦後物故者なし

 

なにわ会HPを見て、羽黒で戦死した白石精市中尉の孫にあたる濱田武樹様からメールで祖父の事を尋ねられ、羽黒関係の資料を送った。

 

10月25日

67年前のこの日は帝国海軍が全力を挙げて比島レイテに突入した日である。

この日、我が期友は21名(兵科19名、機関科3名)が戦死している。

左近允尚敏の「昭和191025日の戦死者」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/191025nosensisya.1.html

 

この日の作戦状況は次のとおりであった。

 第1遊撃部隊

  0030 栗田艦隊 サンベルナルジノ海峡通過

  0220 栗田長官 西村艦隊のレイテ突入電受信

  0522 西村艦隊全滅の報 志摩艦隊から入電

  0659 「大和」前部主砲発射 続いて「長門」「榛名」砲撃開始

       空母群と水上艦隊との砲撃戦は空前絶後のことであった。

  0730 「鈴谷」 被爆し落伍

  0802 「金剛」追撃中の空母に射撃開始、「筑摩」「利根」続いて攻撃

  0853 「筑摩」魚雷1命中 0902反転落伍沈没(精島勝義、高橋英敏、服部健三 戦死)

  0855 駆逐艦(ホーエル)撃沈

  0907 空母(ガンビアベイ)火災爆発 沈没

  0911 追撃戦闘中止 北方集結を指示

  1005 駆逐艦(ロバーツ)撃沈

  1010 駆逐艦(ジョンストン)撃沈

  1045 陣形を立て直す

  1105 空母(セントロー) 特攻機によって沈没

  1120 栗田長官 『レイテ突入』を豊田聯合艦隊長官に打電

  1226 北方反転を下令 レイテ突入断念を決意

  1230 「鈴谷」 沈没。(吉岡慶治 戦死)

  1236 栗田長官 聯合艦隊司令部に『レイテ泊地突入を止め、敵機動部隊を求め決戦』を打電

  1257 「大和」 航路0度(真北)に変針 反転

  1313 第1次空襲70機(通算第9次) 以後1706の第11次空襲まで連続攻撃を受ける

  1817 日没 空襲終了

「野分」 筑摩乗員を救助、帰投中、比島東方海面(サンベルナジノ海峡東沖)で敵艦隊と交戦、沈没(小林正一 戦死)

第1遊撃部隊支隊と第2遊撃部隊 

 「扶桑」雷撃を受け速力低下、航行不能となり大爆発、船体は2つに折れ炎上、沈没。

  (後藤一郎、林 和男 戦死)

 「山雲」魚雷命中轟沈、(若林立夫戦死)

 「満潮」航行不能、

 「朝雲」艦首切断、

 「山城」左舷後部に命中、速力低下、その後左舷中部に魚雷命中 艦内通信不能、やがて転覆し艦尾から沈没。(江本義一、藤井 勉 戦死)

 「阿武隈」 左舷前部に魚雷命中 

 「満潮」沈没

 「最上」艦橋と防空指揮所に3発直撃 艦長、副長、航海長、水雷長ほかほとんど戦死、 砲術長 砲撃指揮所から指揮をとり、南方に離脱を決意。その後、米雷撃機17機の攻撃受け直撃弾2、自沈(僚艦「曙」の雷撃による)(鷲野幹男 戦死) 

  志摩長官 戦況不明のため反転の命令

 「時雨」 単独南下、戦線を離脱

 「朝雲」沈没

 

  西村艦隊は「時雨」1艦を除いて全滅し、志摩艦隊は米艦隊に一撃を加えることもなく反転した。

小沢艦隊

  0815 第1次空襲170機 

「瑞鳳」直撃弾2、至近弾6、「瑞鶴」魚雷1、直撃弾3 通信不能

  0856 「秋月」沈没。

  0937 「千歳」沈没。(柄沢節夫、未岡信彦 戦死)

  0958  第2次空襲36機 「伊勢」直撃弾1、至近弾8

  1016 「千代田」航行不能。

  1054  小沢長官 「大淀」に旗艦変更。

  1306  第3次空襲200機 「瑞鶴」魚雷7、直撃弾4命中

  1414 「瑞鶴」沈没。(都野隆司、佐野 寛 戦死)

  1655 米巡洋艦の攻撃を受け、「千代田」沈没。(稲葉 博、甲賀公夫、西 尚男 戦死)

  1722 第4次空襲85機。

     「伊勢」至近弾34、「日向」至近弾7、「大淀」至近弾4。

  2059 「初月」沈没 単艦で敵艦13隻と交戦沈没。(島本紀久一 戦死)

  2300 「多摩」沈没 敵潜攻撃による。(増田 弘 戦死)

  2345  夜戦を断念、北上して離脱

  この日の米軍延べ総攻撃機数は527機にのぼり、 空襲によって空母4、戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦6が撃沈された。

 67年前 昭和19

戦死者。

江本 義一 ・藤井  勉 (山城  戦艦)

 レイテ湾に突入、敵艦隊と交戦沈没戦死

 

後藤 一郎・林  和男(扶桑  戦艦)

 レイテ湾に突入、敵艦隊と交戦沈没戦死

 

若林 立夫 (山雲 駆逐艦)

 レイテ湾に突入、敵艦隊と交戦沈没戦死

 

松山 実の35年目の再会「」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-wakabayasi-matuyama.html

 

鷲野 幹男( 最上 巡洋艦)

  レイテ湾に突入、敵艦隊と交戦離脱後、空襲を受け沈没戦死

 

都野 隆司・佐野  寛(瑞鶴 空母)

  敵機動部隊の空襲により沈没戦死

 

柄沢 節夫・ 未岡 信彦(千歳 空母)

  敵機動部隊の空襲により沈没戦死

 

矢田次夫の「何時までも御元気で」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-karasawa-yada.html

 

岩松 重裕の「柄澤節夫、末岡信彦の御霊に祈る」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-karasawasueoka-iwamatu1.html

 

稲葉  博・甲賀 公夫・西  尚男( 千代田 空母)

   敵機動部隊の空襲により沈没戦死

 

増田  弘( 多摩 巡洋艦)

 敵機動部隊と交戦、損傷後敵潜の雷撃を受け沈没戦死

 

島本紀久一 (初月 駆逐艦)

 優勢な敵艦隊に単独突入、砲撃を受け沈没戦死

 

精島 勝義・高橋 英敏・服部 健三(筑摩 巡洋艦)

 比島東方海面(サマール沖)にて敵機動部隊の空襲を受け損傷、沈没戦死

 

村上 義長の「服部健三君を偲んで」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-hattori-murakami1.html

 

吉岡 慶治(鈴谷 巡洋艦)

 比島東方海面(サマール沖)にて敵機動部隊の空襲を受け損傷、沈没戦死

故吉岡 慶治君の母上宛の手紙の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/iboku-yosiokakeiji-hahaue1.html

 

 

小林 正一 (野分 駆逐艦)

 比島東方海面(サンベルナジノ海峡東沖にて筑摩乗員を救助、帰投中敵艦隊と交戦、沈没戦死

都竹 卓郎の「野分の最後と小林の戦死」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-kobayasi-tuduku.html

 

小嶋 辰雄(攻3 艦爆操)・仮屋 久雄( 攻3 偵察)

  比島東方洋上 レガスピー東方海面を索敵攻撃に発進後、消息を絶つ(彗星)

 

 924日に呉水交会で行われた秋季行事の記事が1021日発行の海上自衛隊新聞に掲載された。この行事の一環として左近允尚敏君が行った講演の事が次のように掲載されていた。

『元海軍大尉の左近允尚敏氏の講演会は、午後零時15分から同ホテル「あき東の間」で行われ、寺田稔元防衛政務官、坂田竜三幹部候補生学校長、勝然呉病院長等各級指揮官等と会員が埋め準備した椅子がほぼ満席となった。定刻松藤信清常務監事の司会により開始され、勝山拓会長の講師紹介の後、元海軍大尉左近允尚敏氏が登壇して演題「体験した海上の戦闘」で講演が行われた。』

10月26日

 67年前 昭和19

 この日の戦闘

 0834 「大和」対空射撃開始。

以後1212まで、B24陸上機を含む連続した空襲を受ける

0850 「能代」魚雷1、直撃弾1 この日の被害担当艦となる

1113 「能代」沈没

 

戦没者

伊藤比良雄(矢矧 巡洋艦)

捷一号作戦;比島シブヤン海で敵機動部隊と交戦中戦死

 

池田武邦の「比島沖海戦」の記事 ↓ の中に伊藤比良雄のことがある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-itouhirao-ikedatakekuni1.htm

 

戦後物故者なし。

 

1027

67年前の戦没者

 西  金蔵・伊藤 利治(鳥海 巡洋艦)・

 敵機動部隊と交戦、比島サマール島沖で沈没、藤波に救助された後、同艦沈没の際戦死

藏元 正浩の「伊藤利治君を偲んで」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-itou-kuramoto1.html

 

 實吉 安志(藤波 駆逐艦)

 鳥海の乗員を救助、帰投中、敵機の爆撃を受け沈没戦死

 

 沼田 寛三(不知火 駆逐艦)

比島ミンドロ沖で敵艦上機の攻撃を受け沈没戦死

 

 比古田宏進(戦317 戦闘機)

比島方面航空戦でレガスピー付近にて墜落戦死(零戦)

 

 近藤 寿男(攻5 艦爆操)

神風特別攻撃隊義烈隊として、レイテ在泊敵艦に突入戦死(彗星)

 

弟 近藤 国雄様の「兄近藤 寿男のこと」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-kondouhisao-otouto1.html

 

小暮 新八の「近藤寿男少佐出撃直前の思い出に寄せて」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-kondou-ogure1.html

 

 高野末五郎(901空 陸攻操)

南西太平洋で船団護衛中、敵機の攻撃を受け墜落戦死(一式陸攻)

 

 片岡 政士(攻702 偵察)

比島沖海戦に於いて、敵空襲部隊と交戦戦死(一式陸攻)

 

戦後物故者

後藤  脩   20091027日逝去

 

55期訃報

石戸谷茂生様 1013日逝去   渡邊  晃様 1022日逝去

 

1028

2150 栗田艦隊主隊 ブルネイ帰港

 

戦没者

67年前 昭和19

 寺岡 恭平(伊45 潜水艦)

191013比島東方海面に向け呉出撃、敵機勤部隊を攻撃後、消息を絶つ(191121戦死認定)(米潜シーデェビットの雷撃により191028沈没:米軍資料)

故寺岡 恭平本人の便りの記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-tegami-teraoka1.html

 

上田 敦の「寺岡恭平君のこと」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-teraoka-ueda.html

 

戦後物故者なし。

 

 

 

1029

戦没者

67年前 昭和19

 藤井 弘元(那智 巡洋艦)

マニラ湾で敵大編隊の攻撃を受け被弾戦死

 

 風見 芳郎(254空 戦闘機)

比島クラーク アンへレス南飛行場付近で敵機を迎撃、交戦戦死(零戦)

 

 安保 寿夫(戦315 戦闘機)比島タクロバン攻撃中戦死(零戦)

戦後物故者なし

昨日泉君から広瀬晴雄さんの手紙の写を送ってもらった。その中のあった随筆である。

随筆
『百舌が枯れ木で鳴いている』

先日のNHK深夜放送で、戦中、或る小学校の国語時間の冒頭、教壇に直立不動の姿勢をとり涙ながらにこの歌を歌った先生の思い出を語る人があった。

作詞家はあの容貌魁偉のサトウハチローである。彼は有名な小説家佐藤紅緑の長男だ。紅緑は大正生まれのロートルには懐かしい少年倶楽部に連載の「あヽ玉杯に花うけて」の著者だった。美男子の紅緑にどうしてこんなデブの容貌が生まれたのか、何時も不思議だったのであるが話を戻そう。

 

『枯れ木に百舌が鳴いている。・・・

みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ・・・

兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ』

作曲は当時中学校教師の徳冨繁だ。当時は良く歌われたものと言うが私は聞いたことがないのでパソコンで聞いてみた。静かに胸を打つ良い唄だ。現在これは「厭戦歌」と称されているらしい。しかし、当時の軍部が良く我慢して許していたのは、おそらくハチローの髭づらだが何処か無邪気さに溢れる人徳の賜物だと思うのである。

平成231024

広瀬 晴雄

頂いたのは上の通りである。

広瀬 晴雄様は昭和20428日ウルシー上空で戦死した故広瀬遼太郎君の弟である。1925年、「少年倶楽部」の僕等の詩集欄に掲載された詩に、茨城の中学教師だった作曲者が曲を付け、生徒たちに教えた。当初は「百舌よ泣くな」という題であった。戦後うたごえ運動の中で取り上げられ、全国に広まった曲。

〜みんな去年と同じだよ けれども。元は「百舌よ泣くな」の題で詩人サトウハチロー(1903-73)が1935(昭和10)年に発表し、茨城県の中学教師・徳富繁が作曲した歌。戦地で辛酸を嘗める兄を思う弟の心を歌う内容だが、出来た頃は中国侵略戦争が本格化。「愛国行進曲」がミリオンセラーなど好戦的な軍歌が一世を風塵し、この歌が歌われたのはもっぱら茨城県内にとどまった。
 戦後、急速に全国に広まる中で歌詞が変わってしまい、茨城県民謡とみなされた時期もあった。

ハチローは、民謡とされなければ広く親しまれている歌詞でいいよと語ったという。普及した詞との相違は以下の部分。

〜百舌が枯木に泣いて枯れ木に百舌が鳴いて

鉄砲が涙に鉄砲が涙で

百舌よ寒くも泣くでねえもずよ寒いと 鳴くがよい

 寒いだぞ→寒いだろ

 

 

 

1030

戦没者なし

 

戦後物故者

斎藤 五郎   19721030日逝去

大岡要四郎の「斎藤五郎君の死を悼む」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-saitou-oooka1.html

 

山田 穣の「斎藤 五郎君の死を悼む」の記事 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-saitougorou-yamada1.html

 

なにわ会のHPを立ち上げたのが200411月、それからから7年目、閲覧者数が今月291800200,124となり20万を超えた。1日平均の閲覧数は平均76件であった。

他のクラスのHPの閲覧数は同じ29日現在で次の通りである。

7T期 45,555  兵73期 51,397  兵74 22,290

55期 15,004  経36期 34,525

その他のクラスの訪問数はHPでは分らない。

そして、今までに取り込んだ数は1500件を超えている。これは殆どなにわ会ニュースの記事であり、貴重な戦時記録である。現在までも、クラス以外の方が良くご覧頂いているようで、問い合わせのメールを多数頂いている。今後も貴重な資料として活用されるものと期待している。

 

HP訪問数数

 

訪問数

71

 

72

 

73

 

 

 

75

76

77

36

 

 

1031

戦没者

 67年前の昭和19

 羽原  寛(伊364 潜水艦)

 ウエーク島への緊急作戦輸送のため19914横須賀出撃以後消息を絶つ(戦死認定)

(房総半島東方250浬で米潜シ―デェビットの雷撃により19915沈没:米軍資料)

 

 出雲 凡夫(801空 大艇操)

本邦南方洋上哨戒のため発進、300浬地点進出報告後消息を絶つ(二式大艇) 

 

 東浦登代治(大湊空 偵察)

索敵の為基地発進後、台湾沖で消息を絶つ

 

戦後物故者なし

訃  報
 氏名 畑 種治郎 君(兵科)(名簿26頁)
 平成231005日(水)大腸がんから腎臓に転移して逝去
(娘さんから阿久根 正君に電話、阿久根君からの電話で知った。)
 葬儀は家族葬で済んでいる。

喪主    妻 畑 幾子様

備考 1学年同分隊 大槻 敏直 塩見 頴一  

2学年同分隊 門松 安彦  後藤 俊夫

3学年同分隊 宝納 徳一  松下 太郎

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