TOPへ    戦没目次

平成22年4月24日 校正すみ

伊藤利治君を偲んで

藏元 正浩

藏元 正浩 伊藤 利治 巡洋艦 鳥海

 彼は昭和十九年十月二十七日、サマール沖、鳥海で戦死となっている。生徒時代四回の分隊編成替えがあったが彼と同じ分隊になったのは一号の時だけであったが、教務・訓練共によく同じようにやっていたので割合に彼のことについては書けるのではないかと思っている。それでも彼とは一期の候補生実習が終って「トラック」島で着任して以降というものは一度会ったことがあるかないかではないかと思っている。

 入校式があるまで、われわれは生徒採用予定者ということで、それぞれ生徒クラブで寝泊りしており、父兄達は旅館その他に宿泊ということになっていた。海軍の外套に似た金モールのついたオーバーを着ている二人が仲良く話をしているのを見てこちらは鹿児島弁かそれに近いものならば兎に角、こちらには判り難いような物凄く早口で何やらしゃべっているみたいに見えたものである。この二人こそは東京府立四中から来た国生君と伊藤君であり非常に仲の良い二人に見えた。こちらは都会の人から見れば田舎の中学校から来た関係もあり今様の言葉で言ぇばダサイな恰好をしていたに違いない。彼等二人共五十三期の中ではどちらかと言えば色は白く目鼻立ちの整った好男子の部類に属する方で、海軍士官の服装がよく似合う方であったから、金モールのついた外套を着けているとなかなか立派であり、これからはこんな秀才ヅラをした者達と一緒にやらなくてはならないのかなあと思ったわけである。

 鹿児島から出て来て一番困ったのは言葉の問題であった。東京から来た者の中には(北九州出身の人にもこういう人がいたが)われこそが日本語を喋っているのだというような顔をしている者もいたし、時にはこちらが何か言うと周りの者がドッと笑うような事もあったが、彼はやさしい顔を浮かべたような顔をして言葉の違いを熱心に教えてくれたりした。「オッコッチヤゥ」とか「オッコッテル」などという言葉はこうだという具合に教えられたものである。「ヤクヮン」ではなく「ヤカン」といぅ具合に演習に行った時などはよく注意してくれたものである。

 舞鶴という処は天気の悪い処で冬は好天と言える日は少なく、靴下と「フンドシ」は各人が必ず洗うようになっていたものだから乾き切らないと乾燥室に持って行くようになっていた。また訓練中に雨に降られた雨合羽も乾燥室に入れるようになっており、よく伊藤君と一緒になったものである。最下級生時代はその取込みをよく忘れたものであり、授業時間中忘れたことに気がついた時は既に遅く、すべて週番生徒に没収されていて、鉄拳制裁と引きかえに返してもらったものである。人間を殴るなら殴るで、その理由があって然るべきであるのに、こんな些細なことで他人を殴るなどと今でも残念に思っている。士官を養成する教育の場ならばもう少し大きいところに目をつけるような教育をする必要があったのではないかと現在でも思っている。

 夏になると水泳訓練が始まり、下級生にとっては忙しい事には変りはない。水泳帯は毎日洗わなければならないが当時は火薬の洗滌で舞鶴湾は汚れに汚れていた。また水泳訓練が終わると蛇島からの帰りはカッターによる橈漕となっていたので上級生は各カッターを競争させていたので尻の皮はむけてパンツは血がにじんでいた。洗濯場では伊藤君ともよく一緒であったが、無駄話をしていると上級生に叱られたりしたが、時折石鹸などを忘れても彼はいやな顔をすることなく気持よく貸してくれ、大らかなところがあり、さすがは上流家庭育ちという感じがしたものである。

 二号時代、彼は十四分隊で、こちらは十六分隊であったので、分隊毎の整列は常にこちらが後に整列していた。十四分隊、十六分隊共に一号生徒(五十二期)にはうるさい人もいないようで、全般的に上級生は温順しい人が揃っていた関係で第二生徒館(十三分隊〜十六分隊)は平穏であったようである。十四分隊の二号は全部背の高い人が揃っていたようで伊藤君は分隊では一番脊の低い方であった。ラグビーの訓練などよく一緒にやり、道具を収納する所も近く練習試合もよく一緒にやったようである。当時ラグビーをやるという学校が少なかった時代、ましてや軍隊の学校の中でラグビーが行なわれるということは珍しい事ではなかったかと思っている。しかもあの物資不足の昭和十六年、十七年頃には靴などはすぐにチビてくるし、足に靴を合わすのではなく靴に足を合わす時代だったのでスパイク靴などは革をただ釘でうちつけてあるだけで、釘が入り込んでくるとそれが足にささって来て痛いものであった。

 一号になって分隊編成替えがあり彼とは同じ分隊になったが、彼は分隊の生徒長であった。同じ分隊の一号には椎野君がいて、物凄く張り切っていてしかも新入生を鍛えに鍛えていた。最初の分隊競技は短艇競技であったが、短艇競技には分隊から二つのカッターを出すわけであるが、艇長は概ね身体の小さい者か訓練の上手でない者がなる事が多かったが、彼はストロークの一番難しいところを漕いでいたようである。短艇競技の事については小跡君のところに書いたので省略することにしたい。

 次の分隊対抗はラグビーであった。ラグビー訓練が始まると椎野君がファードを一人減らしてバックに廻し、セブンシステムにしようではないかと提案した。ファードのサードロウの両サイドを一号の青木君と伊藤君がやるわけであるが、ポールをすぐにスクラムハーフに蹴り出しバックに廻し敵を撹(かく)乱するという戦法であった。天気のよい地面が乾いている時は極めてうまくいくが、雨が降ってドロンコ試合になるとファードは一人足りないうえに分隊のファードには猛者と言える程の者は一人もいないので、ボールを入れる時から既に押され放しでどうにもならなかった。同じファード同志で古前君と三人して叱咤激励していたようである。優勝こそ逸したが好成績がとれたのは分隊員一同訓練止め後の自由時間、土曜日の自由時間、日曜日の外出点検後は誰もが何も言わなくてもラグビー服に着替えて練習に励んだせいではないかと思っている。そのような事から外出は一緒にして帰りも一緒という風習になりこれは卒業後の一期の候補生期間中まで続き実習艦が違ってもお互いに上陸桟橋で待ち合わせをして特に用事がなければ常に一緒に行動していたところをみると余程気が合っていたのではないかと思われる。

 卒業式には両親が参列することになっていたが将官又はそれ以上の待遇の人には学校から迎えの車が出されていたようである。彼の父親は陸軍士官学校の勅任教授であった (或は間違っているかも知れない)らしく分隊監事が舞鶴到着の時間と列車を聞いておられたが、学校としては時間を間違えたり、失礼なことがないようにしたのかも知れない。この辺の事は真実を知っている人か、くわしい人に譲るとして、われわれは当時としては伊藤君の父親は唯々えらい人だなぁと思っていた。卒業当日食事する時に同じテーブルであったが伊藤君の父親は大分年をとっておられたというふうにも感ぜられた。

 一期の候補生実習期間中も同じ艦であり、拝謁が終って工機学校における乗艦待ちの期間、翔鶴に便乗してトラックで別れるまでの間はずっと一緒であった筈であるが余り記憶にない。唯上陸する時は一緒であったのを記憶している。丁度その頃横須賀では開戦当初特殊潜航艇の横山少佐をモデルにした映画「海軍」が上映されていたのでこれも一緒に見に行ったに相違ないと思っている。工機学校に滞在中分隊監事であった久馬少佐を一緒に訊ねて行った記憶がある。逗子の駅を降りて鎌倉の方に随分と長い間歩いて行ったように記憶しているが、今葉山にゴルフに行く時に同じ道を自動車で通って行くけれども少しも記憶にないし、当時は随分と歩いた記憶があるが今はアッと言う間に通り過ぎてしまう。また、トラック島で別れた以降は何処で会ったか記憶にないが、彼が長髪になっていたのを見た記憶があるので、それが何時何処であったかも定かでない。

 伊藤君と福嶋君は生徒時代から非常に仲がよかったようである。候補生の時、東京に出た時など福嶋君は伊藤君の家に泊った事もあるという位だから、御両親にもよく御世話になったのではないかと思っている。何時だったかは忘れたが、まだ昭和三十年代の頃と思うが、靖国神社におけるなにわ会の慰霊祭のあとと思うけれども、福嶋君が伊藤君の母親の処に行こうではないかということで二人して出掛けた。当時、福嶋君は岐阜で商売をやっていて相当に裕福であり、なにわ会の慰霊祭の時など御遺族、生存者に対し果物を送ったりしていた時分でもあった。当時伊藤君の母親は姉さんの嫁ぎ先に寄寓しておられた。

 姉さんの家は歯科医をやっておられ、丁度着いた時には姉さんは外出して家におられず、その娘さん(丁度高校生位に感ぜられた)が、おられて案内された。お母さんがタンスの袋棚から伊藤君の位牌をとり出して、こうして守っているのですよと言って涙ぐんでおられた。福嶋君が岐阜からの果物一籠をさしだし、どうか食べて下さいと言うとこんなに沢山頂いて、いつもながらと非常に感謝しておられたのを記憶している。

 五十三期が一号の時の第三分隊会を昭和六十年に開こうではないかという話が五十五期の人達から盛り上った時、彼等三号生徒のうち関東出身者が多くて、伊藤君が生徒長として都会育ちらしい指導をしていたと思ったので折角の事だと思い中野の姉さんに電話して分隊会に参列して戴いた。分隊会には東北・関西からも参加し非常に盛大であった。勿論中には昭和十八年以降始めて会うという人もいて、各人からはいろいろな思い出話が述べられたが、伊藤君については姉さんから「あんな弱虫な子が軍人になるなんて」というお話を承って、こちらの方がびっくりした。姉さんがそう思う位に伊藤君というのは良い家庭の育ちである上に本当に心やさしい人ではなかったかと思っている。姉さんにはその次の分隊会の案内状は出したが参加されなかったので却って迷惑ではないかと思ってその後は案内状も差上げていない。

(機53期記念誌 52頁)

TOPへ    戦没目次