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平成22年4月27日 校正すみ

近藤寿男少佐出撃直前の思い出に寄せて

小暮 新八

昭和19年6月30日、飛行機整備学生の教程を修了した私は、第141海軍航空隊附となり、7月1日に三重県鈴鹿基地で錬成中の141空(偵察第3、第4飛行隊が所属)に着任した。9月頃から鹿屋基地に移り、比島進出に備えて身辺があわただしくなってきた。更に今迄の使用機彗星に加えて、新たに彩雲が加わることになったのである。彩雲の整備実習のため、下士官兵数名を引率して相模空に10日程派遣された私は、誠に目まぐるしい程の慌しい毎日の連続であった。

実習を修了して鹿屋基地に帰隊してから間もなくの朝、鶴丸分隊長(機48期)より、「今日1000ニコルス基地行きの便が鹿屋基地を出発する。実習を修了した下士官兵を引率して出発せよ。ニコルス基地に先発している部隊に合流して、池田整備長(機47期)の指揮を受けよ」という命令を受領した。

即刻、先任下士官を通じて引率兵員の準備整列を下命し、命令通り鳩部隊のダグラス機に便乗して内地を後にしたのである。

輸送機には大本営陸軍部の参謀肩章をつけた人達が数名同乗しており、比島陸軍の作戦指導に行かれる方々であった。途中沖縄の小禄基地と比島のクラーク基地に立ち寄りニコルス基地に到着したのは夕方近くであった。クラーク基地では同期の吉盛中尉が病院に入っていると聞いたので、早速病室に見舞に寄ったのであるが、マラリヤにかかり毛布にくるまって寝転んでいた。「二コルスへの途中でありすぐ出発しなければならないので別れるが、早く全快するように祈っているよ」と激励して別れた。その彼が翌20年2月に、台中上空において戦死してしまったのだ!

残念なことに当時の記録類は総て紛失してしまったので、詳しい日時は不明であるが、レイテ湾作戦が始まって間もない時期であった。航空隊司令中村大佐に着任の申告を済ませ、池田整備長から指示を受けた後、一先ず身辺整理をしておこうと宿舎間近に来た折、けたたましい半鐘の音が鳴り出したので、何事ならんと仰ぎ見ると、敵のP38が数機で基地上空に突入して来るところである。彼我の機銃発射音が響きわたった。急いで宿舎で身仕度を済ませて飛行場にとって返すと、我々の便乗してきた鳩部隊のダグラス輸送機が炎上しているではないか。戦場に到着したことを実感した次第である。

当時偵察第3飛行隊の小山 力中尉もニコルスに進出しており、レイテ湾偵察に元気に活躍していた。敵機の来襲も日を追って益々激しくなり、飛行機の分散収納を徹底して実施せざるを得なくなった。従って我々整備員は分散収納場所近くに天幕生活をするようになり、小山中尉とも顔を合わせることも少なくなってきたのである。ニコルス基地では黎明または日没時の偵察飛行の連続であり、整備員は昼夜の区別など殆どない程の作業の連続であった。整備科先任分隊士の私は、独楽鼠のように分散している整備各機と飛行指揮所との間を駆け回っていたのである。

そのような或る日、基地指揮所の方へ出掛けた私は、一種異様な雰囲気がただよう普段の何倍もの人だかりに気付いた。何事ならんと人垣ごしに覗いて見ると、神風特攻隊の出撃前の整列であった。命令受領を終えて、指揮官が司令に敬礼して最後の挨拶を述べ終えたところである。指揮官は隊員の方に向きを変えて、拳骨を前上方に突き出して「やるぞうツー」と一声鋭く発し、隊員は「ウォーッ」と応じた。何と指揮官は近藤寿男中尉である。

彼は静かに乗機の方へ歩き始め、隊員も夫々整々と移動をはじめた。私は思わず人垣を掻き分けて近藤中尉の後姿を追った。いつの間にか彼の隣に小山中尉が寄り添っていた。

漸く搭乗直前に追いついたのである。「近藤中尉成功を祈ります」と彼の顔を直視して静かに、しかし渾身の気魄(きはく)を込めて訣別の挨拶を口にした。その他は何も言えず、また言う必要もなかった。彼は私の顔を見返して「オーッ」と手を差し出した。あとは無言で手を握り合ったのである。

彼はすぐ整備員の待つ愛機に搭乗した。私もすぐ後に続いて主翼の上に昇り、黙って風房の外側を拭いたのであるが、全く無意識のうちにそうしたのである。座席の整理を終えた彼は顔を上げて軽く敬礼し領いたので、私は地上に降り小山中尉と2人並んで機体整備員と共に彼の試運転を見守った。

やがて彼は「チョーク外せ」の合図をして私達の方を振り向いてから滑走路に移動を開始し、列機もこれに倣って移動して行った。私共が滑走路に沿って並んで待っていると、指揮官機より離陸を開始し見事な離陸を続けて全機無事離陸を完了した。

見送りの列は万歳、万歳を叫びながら帽振れの別れを繰り返している小山中尉と私は2人並んで無言で帽子を振って見送ったのである。基地上空で編隊を組んだ特攻の勇士隊は、南の方に消えて行ってしまった。

戦後、この日が昭和191027日であったことを確認した次第である。その後私は飛行隊付となり、航空隊司令以下の方々と別れて小山中尉等飛行隊の人々と共に都城基地に帰着した。その時夜トラックに乗って出発し、夜明け前にキャビテの水上基地から二式大艇に便乗して比島を離れたことを覚えている。

都城基地で第4飛行隊付の私は、第3飛行隊付の小山中尉とついに袂を分かったのであるが、その小山中尉も20年4月には喜界島附近上空にて帰らぬ人となろうとは、

偵察第4飛行隊は都城基地から鹿児島基地に移り、新隊員と飛行機の補充を得ながら錬成に励みつつあるときに、米軍のリンガエン湾上陸の報に接したのである。比島に残留している中村大佐以下の方々の労苦を偲びながら、錬成に励んでいたのである。しかし時既に遅く、再進出は台湾の帰仁基地までであった。

その後、偵察第4飛行隊は20年3月に第343航空隊(松山基地)に、更に6月には第171航空隊(鹿屋基地)に転属して行ったのである。私は終戦間近に第723航空隊に転属となり、陸路木更津基地に向けて旅立ったのである。途中広島駅通過の際は、被爆間もない広島の惨状を垣間見た。かくして、終戦は木更津基地で迎えたのである。

(機関記念誌86頁)

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