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五十年夢幻(4)

 41期飛行学生

 本誌66号に大谷友之が「艦艇班2期候補生」と題して、練習艦隊が終り第1線部隊に配置されたなにわ会員の乗組みや所轄を書いた。

 それにならって、飛行学生を纏めてみた。

 使用した資料は「秘海軍辞令公報甲第1555号」(昭和19729日発令分)である。

既に本誌3834頁に発表したように、41期飛行学生は最初兵学佼7T期4名、72311名、機関学校5320名計335名が発令された。その内5名(注1)が中途転科し、訓練中5名(注2)の殉職者と1名の戦死者を出したので、飛行機乗りとして巣立ったのは324名だったはずである。

しかし、この辞令公報には319名が発令されており、5名(注4)が載っていない。ともあれ、これから僅か1年の間に、その七割近くが空に散った。

(注1)小原正義、今田勝治、真鍋良弥、山本省吾、江本義一

(注2)北植一男、伴 弘次、鈴江 理、平田義光、山中 盤(53期)

(注3)今村一敏

(注1)浅沼 薫、三谷吉甫、石井利徳、三浦八郎、石川幸夫

 

(公報 略 6733頁参照)

 

あ と が き

昭和18915日、兵学校卒業後の飛行学生の足取りは、霞ヶ浦航空隊にまとまって入隊。

929日、水上機と陸上機が別れ、水上組は鹿島航空隊に、次いで118日、操縦と偵察が分離し、偵察専修者は百里原航空隊に、さらに19226日、練習機教程終了後、戦闘機学生は茨城県の神池(こうのいけ)、艦攻、艦爆は百里、中攻は宮崎でそれぞれの訓練を受け、729日卒業した。

その間の事情を伴弘次の記録(本誌3749ページ)から抄録すれば、

飛行学生拝命  昭和18915

卒業式を終りロングサインに艀は表桟橋を離れて行く。(中略)那沙美の瀬戸で山城、八雲と別れて阿多田は宇品に向かう。(中略)

 八時五十分広島発呉経由で東京に向う。賑やかな列車に雑談の華が咲く。

 916日、東京駅で下車。八時五十分上野発。常磐線は横揺れがひどい。十時十分頃、荒川沖駅着。航空隊のバスで霞空の学生舎に入る。

 918日(土)午後一時、軍艦旗掲揚後始業式あり。

 

水陸分難  929日(水)

 准士官以上の見送りを受け退隊。バス三台で丁度三十分かかって鹿島航空隊に着いた。

 

操偵分離 118

 斎田元春の「追想と回想」(海行かば、53期記念誌)を抄録すれば、

 操偵分離により、偵察学生は百里原航空隊に移動した。機関学校出身者二十名中、阿部順男、岡本操、山下宏君と私の四名。

 

練習機教程終了 昭和19226

 出雲凡夫の修業日記(3753ページ)。

 軍艦旗掲揚後司令訓示あり。終って記念撮影を行う。一〇四五、一同会食。最後の食事とてなかなかの御馳走なり。

 

卒業式  昭和19729

 第41期飛行学生の教程卒業式は霞ヶ浦航空隊(11聯空総隊)で行われた。

 各機種の首席学生に御賜の銀時計が贈られた。それが誰であったかは省略するが、ただ偵察学生だった土屋睦の御両親は、彼の戦死した後に、その遺品の中に御賜の時計を発見

なさったそうである。

 

赴任

 霞空での卒業式を終ったクラスは、それぞれの任地に向って勇躍出発した。

 谷内能孝はその時の模様を、「流星のごとく−富士栄一追悼録−」の中に、南方赴任と題して次のように書いている。

 『たまたま同じ方向に行くことになった鹿児島基地のK三(攻撃第三飛行隊)に赴任の小島辰雄、田辺正、長尾栄二郎、仮屋久雄、山下宏、台南航空隊の宮地栄一、マニラのニコルス基地の高鳴肇、さらにミンダナオ島のK一〇五(攻撃第一〇五飛行隊)赴任の岡田次男と小生の計9名のために、海軍省は九七式大艇を特別に仕立て、八月初めにそれぞれの任地に向けて出発することになった。

 われわれは出発前日、桜木町駅に何とはなしに集まり、徒歩で宿泊場所の横浜ホテル・ニューグランドに行くことになった。(中略)

 翌朝はホテル・ニューグランド近くの海岸に繋留されていた飛行艇まで、ランチで送られた。

 この飛行艇はわれわれ9人のみ乗艇して離水した。最初の目的地である鹿児島湾に着水、その日は鹿児島にて一泊。鹿児島基地のK三に配属された五名と別れ、残る四名が台湾、マニラ、タバオに向けて出発した。

 機中、岡田が、われわれが最初にあの世行きだなと呟いていたのが印象的だった。宮地は反対に豪放磊落で如何にも強気ではあったがあれでなかなか淋しがり屋で、意外な面があったようだ。

 飛行艇は相変わらずこまかい振動をしながら次の目的地台湾の淡水河口に着水。温泉地みたいなところで一泊し、翌日ここで宮地と別れ、宮地は別便で空路台南航空隊に着任し

た模様で、その間の事情は不明である。

 残された三名はさらに南下し、あの夕陽で有名なマニラ湾に着水、初めて外地の雰囲気に触れた。ニコルス基地に向かう高鳴と別れ、翌日は岡田と二人でこのマニラを後にして樹海の続くミンダナオ島を横断、ダバオ湾に着水、九七艦攻に乗り換え、さらに南のサランガニー基地に主力をおくK一〇五に無事着任した。』

 

 昭和1710月、第十一航空艦隊司令長官に任命された兵学校長草鹿任一中将は、江田内から九七大艇に乗って生徒に見送られ、ラバウルに赴任したが、谷内少尉等もこれと同じ

く特別仕立ての飛行艇で前線に巣立って行った訳である。

 

 谷内少尉等の巣立ちは劇的であったが、神池空や百里空の教官配置を命ぜられた者たちは、あわれであった。霞ヶ浦に来たバスに再び乗って引返し、それぞれの航空隊の学生舎から士官室に移っただけであった。

 さらに悲劇的だったのは、霞空教官に任ぜられた多胡と安藤であった。卒業式が終るとそのまま霞ヶ浦空のガンルームに着任しただけのことであったからだ。

  番号航空隊・飛行隊の当時の所在地、すなわち赴任地で判明しているのはつぎの通り。

(略   6735頁参照)

  参考までに当時の航空部隊の編成及び41期飛行学生の機種別配属部隊を表示した。

 なお、この頃は航空隊の新設開隊・廃止閉隊が頻繁に行われ、編成表に無い部隊がある。例えば宮崎空は81日に廃止されて松島空になり、両表にない。

 

(なにわ会ニュース第66号33頁  平成4年9月)

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