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五十年夢幻(1)

押本 直正

 二、三年前から「私史稿」と題して、いわゆる自分史を書いている。と言っても大袈裟の物ではなく、思い出した事を、思い付いた時にワープロに入れているだけである。

 会員諸兄と「共通の歴史と思い出」であると思うので、貴重な紙面を潰す無礼をお許し願いたい。

 

賢所・おすべらかし

 平年二(一九九〇)年六月二十九日、礼宮文仁親王と川嶋紀子嬢との結婚の儀が宮中の賢所で行われた。二人の衣裳は平安時代の衣冠束帯と十二単に「おすべらかし」であった。

 私の海軍奉職履歴の昭和十八年十一月十八日の項に、拝謁被仰付、賢所参拝被仰付、振天府拝観披差許というのがある。

 これは一期の候補生を終了し(平時は練習艦隊内地巡幸を終り遠洋航海出発前)第一線の艦隊・部隊に配属される前に宮中に参代、天皇に拝謁するという恒例に因ったものである。

 天皇の拝謁は「西溜の間」で行われた。兵科七十二期六二五名、機関科五十三期一一一名、主計科三十三期五十一名の各科少尉候補生が列立し、「入御」という合図で一同最敬

礼、頭を上げると海軍軍装の陛下が壇上にお立ちになって居た。軽く御会釈のあと「出御」という合図で再び最敬礼、頭を上げると壇上には誰も居なかった。まるで魔術に掛ったような気分の「列立拝謁」という簡単な儀式であった。

続いて賢所の参拝、そこでどんな儀式があつたかは忘れたが、御神酒を一杯とそれを注いだ土器(かわらけ)、菊の紋章入りの煙草・落雁を戴いた。御神酒は甘口でうまかったのを今でも覚えている。土器は霞ケ浦に帰る途中、上野の「衆楽」というレストランで割ってしまったので捨てた。

煙草も落雁もその場で吸ったり食べたり。あとで聞くと「御賜」の菓子や煙草は近親や近所の人に見せたり、配ったりするものだそうだが後の祭り。

 振天府拝観については全く記憶がない。皇室の宝物館ではなかったろうか。

 今回の礼宮の結婚式のテレビ放送で、賢所を拝見した。昔も今も同じ型式のものに違いないので、五十年前に紅顔可憐の美少年たちが、あの御殿で美酒に酔ったのかと思うと目

頭が熱くなった。その美少年たちの六割が、前の戦争に散ったからである。

 

 「おすべらかし」という言葉にも、もう一つの思い出がある。

 兵学校生徒時代、四大節などの祝祭日には最上級生徒が、その祝日のいわれなどに就いて、一席の訓話を行うのならわしがあった。卒業後、部下に対する訓話の練習のためと思われる。そして賢所で行われる儀式についても事細かに話したが、その中に「おすべらかしの髪」(おんすべらかしと発音したように記憶)というのが必ず出てきた。

 今思うと、二十歳前後の若者が女性の髪かたち等を知るはずがないが、前からの引継ぎでその儘を踏襲して話していたのであろう。何か微笑ましい感じさえするではないか。

 賢所での二つの門出の儀式。礼宮の御婚儀は「生」への祝いの門出であり、半世紀前の少尉候補生のそれは「死」への喪の門出であった。

 平和の有難さ、戦争の悲惨さを対照的につくづくと感じた一日であった。鳴呼。

90630

 なぐられ・なぐり

昨夜、始めて本当の兵学校の伝統生活を味いました。と言うのは例の鉄拳を三つ程(三人で一個ずつ)いただいたのです。然し乍らこれで此処に来た甲斐があったと考えられます。一学年の二分隊員全員が同じ二分隊の上級生から(上級生は泣きながらお説教)やられました。生れて始めて鉄拳を食ったのですが、痛いのは打たれた時だけ、後は実に好い気持でした。先ずは、お便り下さい」

  これは昭和十五年十二月十一日江田島局消印の絵葉書に書かれた、母宛ての私の便りであるが、要するに始めて殴られた時の有様を家郷に報じたものである。

 この文面で見ると、鉄拳制裁は兵学校の伝統と書いてあるから、入校前からその事は覚悟していたものと思われる。

 この時の状況は今でも覚えている。二階の寝室に集められて、伍長の山田進生徒はお達示をしながら泣いていた。恐らく何度同じことを注意しても繰返すので情無くなったのであろう。そして自分の指導力の不足を嘆いたためであろう。もう一人は前田義隆生徒であったが、三人目は思い出せない。

 「娑婆気を抜いてやる」というのが、入校当初の上級生の口癖であった。早く一人前の兵学校生徒にしようとする一号(最上級生徒)の気持ちが鉄拳制裁となったのであろう。

 然し、この葉書は「娑婆気満々」である。第一に殴られたことを家郷に告げ口することが娑婆気の最たるものである。「お説教」という言葉も娑婆の言葉で、兵学校では「お達示」と言った。「打たれる」と言うのも中学時代のことで「なぐる」が海軍用語。

  それはともあれ、泣きながら殴ると言うのは正しく青春の感動である。理性を超越した感激である。指導力欠如の自己を反省して泣く、現代の教育者に欠けた理念である。

 最初の鉄拳をいただいた山田生徒は六十九期のクラスヘッド、昭和十八年十一月駆逐艦涼波の水雷長でソロモン海に沈んだ。前田生徒は十七年六月駆逐艦山風乗組みで、そしてこの時の一号生徒八名の内、七名はそれから五年足らずの間に若い命を散らせてしまった。

そして殴られた方の七十二期四号生徒十三名の内、六名が同じ運命を辿った。鳴呼 


 「自習止メ後二号総員千代田艦橋前集合 一号モ総員集レ」で生徒館は騒然。

 十一月末の江田島の練兵場の夜はすでにかなり冷えていただろうが、九百人の影を六百人の影が黒々と取囲んだ熱気の立ちこもる中で、どんなお達示をしたのか、今となっては記憶に無い。ただ、「二号総員カカレ」の号令に十二分の気合が入っていたことには間違いない」。

 これは級友の後藤脩がクラス会誌三十二号(一九七四年九月)に書いた文章の一部である。

 昭和十七年十一月十七日の私の日記に「本日第二学年生徒総員ヲ集合セシメテ第七十二期ノ生徒館生活二関スルクラスノ所信ヲ表明セリ」と書いているのは、その時のことである。

七十三期がそのクラス会で「七十二期はおとなしいお嬢さんクラスであるから、新入生徒の七十四期の訓育が出来ない」と誹謗したという噂が立った。それを聞いた前記の後藤脩がクラスの面目にかかわると憤慨して総員制裁ということになった次第。

 六百人が一人で三十人を殴ったとすると、鉄拳の数は一万八千発、それを九百で割ると一人当り二十発殴られた計算になる。この事件は両クラスの問に後々までもシコリを残した。七十三期の中には今でもその怨み言を言う輩がある。

兵学校では連帯責任が強調された。分隊員の中の一人、クラスの中で一人がへマをやれば残り全員も責任をとらされて修正制裁をうけることになる。従って何の為に殴られたのか解らないというのが常であった。個人対個人の私的制裁はほとんど無かった。

  その例外として思い出したことがある。

 平成二年のNHKテレビ大河ドラマ「翔ぶが如く」は幕末の鹿児島が舞台で、西郷と大久保が主役である。薩摩隼人は感激すると「チェストー」と叫ぶ場面が多く出る。

 「温習時間に薩摩琵琶を聞かせてくれた。当直監事が掛声許すと特許した。一号の鹿児島男児らしいのがチェストと蛮声をはり上げた」(大西新蔵著 海軍生活放談 昭和五十四年原書房63P)。大西は兵学校四十二期、これは明治四十四年の話である。

これと全く同じことが3。年後の昭和十七年にもあった。剣道場で薩摩琵琶が演奏され、鹿児島出身の当直監事が「チェスト」と呼ぶことを許可した。数人のものがこれに応じた。

 ところがその夜、「本日チェストと言いたるものは集合せよ」と言うことになり、集まった者は鉄拳制裁を受けた。教官が許可したものを生徒が認めなかったわけであるが、恐らく集合を命じた生徒は幕府の旗本か会津の出身者で、薩摩に対して反感を抱いていたのではあるまいか。そうだとすると私の怨みを公の揚で晴らした訳で戴き兼ねる。

 「私は江田島で二年生の時に千二百回なぐられた」と豊田穣(六十八期)は、その著「海の紋章」(昭和五十五年光文杜)の追記に書いている。よく数えていたものだと感心するが、小説家特有の誇張としか思えぬ節もある。もつとも六十八期の一号の六十五期、そのまた一号の六十二期は親・子・孫とかなりねい猛(海軍ではドウモウと読まず何故かネーモーと発音)なクラスであったようなので、あるいはその通りかも知れない。

 幸か不幸か七十二期の一号の六十九期は紳士クラスといわれたほど、おとなしいクラスの気風だったので私等の受けた鉄拳は豊田の十分の一程度では無かったろうか。 鉄拳制裁はイギリス海軍の野蛮な習慣とされ、我々が最上級生徒の時は一応教官の許可を必要としていた。

 兵学校の七不思議

 他に色々あったけど

 今でも不思議に思うのは

 お達示されて殴られて

 それで気持ちがすっとして

 有難涙の出たことだ

 

 乗艦実習

 海軍兵学校は海軍士官を養成する学校である。海軍士官は船乗りである。船乗りを育てるには海上での演練が必須である。その意味で毎年一回約一週間の乗艦実習が行われた。従って在校三年間に三回の乗艦実習があったわけだが、最も記憶に残っているのは一年生の時のそれである。

それは昭和十六(一九四一)年三月三日(月)から八日までであった。

三日 江田内で軽巡洋艦「鬼怒」に乗り込み出港、大分県杵築湾に錨泊

四日 杵築出港、豊後水道を南下、佐伯航空隊艦爆の急降下爆撃、
   高知県宿毛湾に錨泊

五日 太平洋に出撃、実弾射撃、魚雷発射

六日 宿毛出港、豊後水道を北上、高速試験運転、山口県屋代島安下庄錨泊

七日 潜水艦艦底通過訓練

八日 安下庄出港 一六三〇呉入港 一七一〇帰校

 乗艦「鬼怒」は大正十一年竣工、排水量五一七○屯、速力三十六節 十四センチ砲七門、魚雷発射管二聯装×四 三本煙突の旧式の軽巡洋艦。これに我々二部の生徒100名が乗った。

同伴したのは「八雲」、明治三十三年ドイツで建造された9000屯の日露戦争当時の戦艦、既に老朽艦で速力は四十八節(始終八節)と悪態をつかれていたが五部の生徒が乗り組んだ。

 もともと一年生の実習は停泊中の旧式軍艦八雲か磐手で、下士官兵の仕事を経験する事が主体であったが、この年は何故か艦隊の小演習に参加した。

 江田島を出た両艦は別府の近くの杵築湾に停泊、翌日は豊後水道を太平洋に打って出た。途中、鬼怒の曳航する霧中標的に対し佐伯航空隊を発進した九九式艦爆三機が急降下、爆弾を投下した。標的を収納するため、曳索を駆け足のラッパに合せて甲板上を引張った。

 宿毛は艦隊の訓練基地である。深海投錨をした。普通水深の三倍+九十Mの錨鎖で済むところを、五倍+一四五Mと長く錨鎖を出すわけである。
三D九〇は五倍で一四五と暗記)

 この実習の圧巻は何といっても五日の実弾射撃と魚雷発射訓練であった。十四センチの艦砲が一斉に火蓋を切ると、艦は大きく振動し天井や隔壁のペンキがバラバラ落ちた。遥か彼方の標的付近に水柱が上った。魚雷は八雲を目掛けて発射され、その艦底を潜った。

翌朝宿毛を出港した鬼怒は公試運転のため、最高速力で豊後水道を一気に北上した。その日は天気晴朗で海はデッドカーム(平水)に近かったが、艦首からの飛沫は艦橋を越え、

高速のため大きくピッチング、水の子島の灯台を眺めながら軽い船酔いを覚えたのを記憶している。その日は伊予灘の屋代島安下庄に入港、商船学校の沖合に錨を入れた。

 安下庄に停泊している鬼怒の艦底を、潜水艦が通過する訓練が七日に行われ見学。八日呉に回航され、呉で退艦した。

 その週末の私の生徒作業簿の所感には

 「余等ノ安住ノ地タルベキ軍艦 生クベク而シテ死スベキ軍艦 生来最初ノ艦内生活ノ乗艦実習 思へバ何卜収穫多ク且有益ニシテ愉快ナル一週問ナリシカ 余ハ本実習ニ於テ帝国海軍ノ如何二厳正ニシテ頼モシク而シテ目的クル軍艦ノ大要ヲ知リ得 生徒館生活ノ目的ノ奈辺ニ存スルカヲ明確二修得シ得シ事ヲ喜ブ」と書いてあるが、某生徒は「近代海戦の大要を会得したり」と書いたと言う。誠に「簡にして要を得た」所感と言えよう。

 お恥ずかしい話であるが、卒業後艦隊勤務をすること無く航空に進んだ私は、軍艦で大砲を打ったり魚雷を発射したり、三十六ノットの高速で航海するなどは、阜の後の海軍生活では体験することが無かった。この一年生の乗艦実習が最初にして最後の経験であった。

 二学年生徒の時の乗艦実習は十七年六月八日から十三日まで、軍艦八雲で呉〜小郡湾〜高松〜鞆〜新居浜〜本浦〜江田島と内海中部を巡航した記録はあるが、具体的に何をしたは不明。高松で鬼が島(女木島)に行けなくて残念だった記憶が微かに残っている。

ただ生徒作業簿には「軍艦旗ヲ斜桁二掲ゲタル軍艦八雲ノ実習ニテ帝国海軍ハ現在戦ヒツツアリノ感ヲ一段卜深ウスルヲ得クリ」と書いてある。斜桁(Gaff)とは「マストノ後面ニ斜ニ装着セル円材ニシテ戦闘中或ヒハ必要ニ応ジ之ニ軍艦旗ヲ掲グ」と運用術教科書巻一に書いてあるが、老朽軍艦八雲も戦闘態勢を取っていたのである。

最後の実習は十八年五月三十日から六月五日まで八雲で、磐手と同行。この実習は日記や写真が残っている。三十一日には岩国航空隊の中攻二機と機練十機に対して対空射撃訓練、坂出湾仮泊。一日は明石海峡通過、天測練習、大阪港二号桟橋横付。二日は関西急行で伊勢神宮参拝。三日大阪出港、天測訓練、粟島投錨。四日機関(石炭投入)実習、岩国沖投錨。五日江田島入港、退艦となっている。

要約すれば対空射撃、天測航海、航海士・副直将校勤務等を主体とし、序でに、伊勢神宮に参拝したわけである。

 二日の日記:伊勢神宮参拝〇六三〇艦発 関西急行にて一一〇〇山田駅着。外宮・内宮参拝 内宮にて大和舞なる神楽を奏す。昼食は如雪園。二見ケ浦には行かず。一四三〇より約一時間自由散歩。 一五四〇宇治山田発。一九一〇帰艦 諸勤務なし。

四日の日記 機関料勤務 〇七〇〇粟島出港 石炭くべを行い真っ黒になる。一六〇〇岩国沖投錨 

所感記注 一八四五より考査

今回の実習は甚だ多忙にして生徒室にて自習の時間少なく成績は一般に不良なるものの如し。終って研究会。十時就寝

 

附・・練習艦隊と遠洋航海

海軍兵学校入校の目的に、卒業後練習艦隊で遠洋航海に行けるという夢があった。ところが私達の時は戦争のため、その夢は消えた。実際にこの遠洋航海に出たのは昭和十四年七月に卒業した五クラス上の六十七期までであった。十五年八月卒業の六十八期は、それまでの日露戦争当時の八雲・磐手などの老朽艦に代る鹿島・香取という新鋭艦で練習艦隊を編成したが、満州・支那辺りの近海航海が終ったところで、第二次世界大戦が勃発し外国巡航は取止めになっている。

何も知らなかった私は兵学校合格後の昭和十五年の秋、田舎の歯医者で見かけた写真グラフに、このクラスの旅順での日露戦争戦跡巡りの報道写真があって、自分も間も無く遠洋航海に出られると密かにほくそ笑んだのを覚えている。

 我々七十二期の入校後に最初に卒業した六十九期は、那智・羽黒・北上・木曽・山城の特別編成の艦隊で日本近海、アモイ、バラオなどを短期間巡航したに過ぎなかった。

七十期が卒業したのは昭和十六年十一月十五日。まるでこのクラスの卒業を待ったように帝国海軍は戦争を始めた。卒業と同時に聯合艦隊に乗組み、ハワイ攻撃やその他の海戦に参加・遠洋航海などは夢のまた夢。

 戦争が始まって最初に卒業した七十一期は、長門・伊勢・日向・扶桑・山城・武蔵などの第一艦隊に配乗し、二ケ月間瀬戸内海で訓練を受けた。まだ恵まれていたといえよう。 

さて、我々七十二期が卒業したのは十八年九月十五日、戦局は大分落目になっていた。航空要員の養成が急がれたと見えて、飛行学生に採用された者は艦隊勤務を経験すること無く、江田島から霞ケ浦航空隊に直行。残りの半分が伊勢・山城・龍田・八雲に分乗しての実務練習艦隊に入った。

 この内、八雲を除く各艦は十月十三日、宇品において陸軍部隊を搭載、三十二駆逐隊を同伴してトラックに輸送、丁三号輸送作戦に参加して十一月五日徳山に帰着した。

 この航海はわがクラスの候補生にとっては、かなり苛酷なものであったようだ。

 卒業前、江田島に入港した練習艦隊に、級友の荷物搬入を手伝ったことがある。候補生の居住区はまるで蒸し風呂のように暑かった。あの暑さの中で「下士官兵・牛馬・候補生」と言われた牛馬以下の待遇と訓練を受けるのかと思ぅと、ゾッとした。そして密かにこの暑さを逃れて霞ケ浦に行ける我身の幸を思った記憶がある。

 事実、十一月十八日、拝謁のため東京に集まった艦隊の候補生は、相当消耗していた。

 我々飛行学生は日焼けして血色も良いのに比べ、艦隊の連中は青白く元気がなかったのが印象的であった。八雲の候補生は、真っ黒になって昔ながらの石炭搭載もやらされたそうである。      (9。・916 

 高 御 座

一九九〇(平成二)年十一月十二日、天皇陛下の「即位礼正殿の儀」が行われた。

 天皇は「高御座(たかみくら)」の中から「さきに日本憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします」と述べられた。この間皇后陛下は「御帳台(みちょうだい)」にお立ちになっていた。

久方振りに「たかみくら」という言葉を聞いた。「軍人二賜ハリシ勅諭」(明治十五年一月)の冒頭に「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふところにそある 昔神武天皇みつから大伴物部の兵どもを率い 中国のまつろはぬものともを討ち平け給い 高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ」とあるが、「たかみくら」の言葉を聞くのは恐らく戦後初めての事であろう。

  十一月十八日、恒例の三浦半島を歩く会でクラスの幸田正仁曰く

「俺は兵学校で高御座の実物を見たような気がする それは大講堂の二階だったと思う」 この幸田の言葉はかなり信用できるが正確ではない。
以下は小生の見解。(所感は原文)

 御物ヲ拝観シテ所感

        第二分隊第一学年生徒 安藤直正

 謹ミテ大講堂御物ヲ拝観シ歴代天皇皇室ノ海軍こ垂レサセ給フ有難キ大御心ヲ拝察シ奉ル 多数ニ個亘ラセ給フ御下賜品 嘗テハ兵学校二御在学遊バサレタル各宮殿下ノ御行跡ヲ拝シ奉ル御用品 殊二有栖川威仁親王殿下英国御留学中ノ御苦心ノ結晶卜拝スル学習「ノート」ノ御見事ニ整理遊バサレ給ヒタル 又東伏見宮依仁親王殿下御関係ノ御用品等 畏レ多キ事ナレドモ吾人ノ活模範トシテ仰ギ奉ル御品々ナリ

 掛ケマクモカシコキ金枝玉葉ノ御身ヲ以テ賎ガ子等卜御同様ノ御生活ヲナシ拾フ 是ニ帝国海軍ノ光輝アル伝統ノ下 世界二冠クル所以ヲ知ル 吾等生徒タルモノ豈滅私奉公尽忠報国ノ赤誠ヲ誓ハザランヤ

 大講堂御物ヲ拝観シ兵学校二学ビ得ル光栄卜名誉トヲ思ヒ 愈感奮興起 生徒ノ本分ヲ自覚シ聖恩ノ萬分ノ一ニモ報ヒ奉ラン事ヲ期ス

 これは入校後間もない昭和十六年初頭の事だったろう。えらく感激した大仰な所感を書いているが、私が今でも記憶しているのは、明治天皇・皇后の寝台のことだけである。

 明治天皇が東北巡幸に使用された寝台が並べてあった。今流に言うと、天皇のベッドはシングルで、皇后のそれはダブルサイズであったことである。それを私は成程と納得感心したのである。早熟多感な少年の日の思い出である。

幸田生徒の見た高御座とは、この両陛下の帳(とばり)の掛かった寝台に違いない。

   (なにわ会ニュース第64号 28頁  平成3年3月)

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