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  五十年夢幻(3)

飛行機野郎

初飛行

初めて飛行機に乗ったのは昭和161941)年82日、海軍兵学校1年生の夏休み、場所は宇佐海軍航空隊である。

その日の休暇記録の一節。

  行動概要=午前宇佐海軍航空隊見学

       午後伯父(大分県長洲町)訪問

 所感=昨日ノ気分ヲ一掃シ得タルハ本日ノ航空隊見学ナリ 下士官兵ノ敬礼モ頗ル厳正ニシテ此ノ時局ニ休暇ヲ賜り10日間ノ訓育ヲ休ム 生徒トシテ恥シミヲ覚へ夕リ

 猛訓練中ノ学生機ニ同乗ヲスルヲ得タリ 地上ノ騒音ヲ隔テタル神聖ナル空中ヲ飛行シ 飛行将校ヘノ憧憬ヲ愈深メタリ 又校長教頭ノ面識ナキ一生徒ニ恰モ己ガ子ニ対スルガ如キ親シ見ヲ以テ接セラル 帝国海軍ノ団結ノ強サニ頼モシサヲ感ジタリ

兵科将校ノ必要性、重要性ヲ聞キ最モ有意義ニ一日ヲ過シ得タリ 吾人ハ先輩諸氏及ビ世間一般人ノ期待ニ副ヒ以テ国軍ノ驫イクルノ修養錬磨ヲナサン

この時の飛行機は97式艦上攻撃機の三機編隊の一番機で、操縦してくれたのは肥田真幸中尉、彼は67期で飛行学生の卒業直前だった。20分程度の飛行だったろうか、試みに手を窓の外に出してみたら、はね飛ばされそうになったのを記憶している。海軍では兵学校生徒は正しく「金の卵」であったから、先輩の司令や教官学生が親切にしてくれ昼飯を御馳走になった。十数年前、肥田さんにその話をしたら、すっかりお忘れのようだった。

休暇記録によれば、17年の86日と1814日にも宇佐空を訪ね、特に181月は、飛行初めの日で17分の同乗飛行をしたと書いてあるが、具体的な記憶は全くない0

自分で操縦捍を握ったのは昭和18216日。27臼から20日まで航空実習が岩国航空隊で行われ、航空適性の検査のための飛行作業。機種は三式初歩練習機、巡航速力は60ノット、着陸速度32ノット、尾そりの付いた羽布張り複葉の凧みたいな赤とんぼ。

 16日の日記。「本日より飛行作業開始 第一回三原教員 B区を飛ぶ 午後室園兵曹長 C区を飛ぶ 大体可なりとのこと クジに当り幸運にも夜間飛行 三機編隊の二番機 後藤教員 三番機は西尾 非常に気持ちよし

飛行場−阿多田島−兜島―飛行場

以上は、いわばアマチュア時代である。プロとしての修行を始めたのは昭和189月、飛行学生として霞ヶ浦航空隊に入隊してからである。

 その前に、なぜ飛行機乗りになったのか?

その動機は? と聞かれると返事に困る。

 昭和14年(中学四年生の時)に宇佐航空隊が開隊され、毎日訓練中の飛行機を眺めながら通学した。その頃から海軍への、空への憧憬が生まれたとも言えるかもしれない。

飛行機乗りの修業

 昭和18年、兵学校卒業を前にして、潜水艦乗組と飛行機搭乗員のいずれを希望するかを聞かれたことがあった。当時この両者は、普通の軍艦乗組に比べて危険度が多かったから

である。飛行機熱望、潜水艦望と書いたような気がするがはっきり覚えてはいない。

 いずれにせよ、長い命ではない時代であったので、死ぬなら華々しく空に散ったほうが、水中で息苦しく死ぬより楽だと思ったことに相違はない。

 その通り望みがかなえられて、卒業と同時に飛行学生を命ぜられ、霞ヶ浦航空隊に入隊したのは昭和18916日のことであった。(それまで飛行学生は、一〜二年の艦隊勤務を済ませて任命されたものであるが、時局逼迫のため我々のクラスは江田島から霞ケ浦に直行した)。

 幸いなことに手許に「航空記録」というのが残っている。「航空機搭乗員自ラ航空ニ関スル要件」を記載したもので、何時・如何なる飛行機に・何分間・何の為に飛んだかを記録したものである。その第一ページには、「昭和18101日(金)カー四一五 〇−二〇 慣熟飛行(同乗)」と記載されている。

 要するに教官に二〇分間乗せて貰ったということで、機種は九三式陸上中間練習機、カ(霞空) 四一五号、複葉・羽布張り、巡航速度七五ノットのいわゆる「赤とんぼ」である。これが飛行機乗りになるための第一歩であったわけだ。

 プロの飛行機乗りになるための修業はどんなものだったろうか。

 昭和409月に発行された72期クラス会誌「なにわ会バイパスニュース」六号に「艦爆隊戦記」として、詳しく書いたが、それを要約すると、九三式中間練習機を使用して約半年、離着陸の練習から始めて、特殊飛行(垂直旋回、宙返り、宙返り反転、上昇反転、急横転、緩横転、背面飛行、錐揉みなどの曲芸飛行で空中の勘を養うために行う)、編隊飛行、夜間飛行、計器飛行、航法通信訓練など総飛行時間は九四時間、飛行回数一七八回である。

 1111日、待望の単独飛行。後席に積んだ百斤バラストは、教官のように文句は言わぬ。尾翼につけた小さな吹き流しは、処女単独飛行を意味する危険信号。飛行作業を始めて四〇日目。それまでの飛行時間は一四時間三〇分。

 練習機の教程を終る前に、実用機の希望機種が問われた。戦闘機、艦爆(急降下爆撃)、艦攻(水平爆撃・魚雷発射)、陸攻(大形機、水平爆撃・魚雷発射)等があったが、艦爆を選んだ理由はどうもはっきりしない。多分、当時の艦爆の訓練航空隊が宇佐であったので、故郷に近くて家に帰る機会が多いという単純な理由であったと思われる。

 ところが、宇佐空は上のクラスで満員のため、茨城県の百里原航空隊ということになり、昭和1931日、霞ヶ浦空から百里空に移った。現在、航空自衛隊の百里基地である。

 当時の百里は全くの田舎、常磐線の石岡駅からバスで一時問、砂埃の酷い原っぱの中の新設航空隊、学生舎も急造のバラック。三五名のクラスメイトが艦爆乗りの修業を始めた。

ヘルダイバー

 艦爆乗りの使命は急降下爆撃、いわゆるヘルダイブである。使用機種は九九式艦上爆撃機、当時の実戦機。再び「艦爆隊戦記」からの抜粋引用。

 51日(月)

 いよいよ待望の降爆訓練開始。二ケ月間に亘る離着陸、特殊飛行、計器飛行、夜間定着訓練で約三五時間のなじみを持った九九艦爆は、大体われわれの手足のように思い通りに動かすことができ始めた。

 「降爆」、艦爆乗りの本職である。そしてまた何と良いひびきを持った言葉であろうか。三機編隊で離陸する。高度三〜四千、接敵運動開始、一番機がかすかにバンクを振る(翼を上げ下げする)。「爆撃針路に入る、爆撃隊形作れ」の合図である。

一番機を先頭に単縦陣、機間隔二百米に占位。目標の十字的がエンジンカバーの右側に沿って翼下に移動しょうとする刹那、右三〇度に変針、エンジンを絞りながら空気抵抗坂を出す。標的は再び機首に移る。

 操縦捍を押す、機首がグッと下がる。速度計の針が動き始める。一五〇、一八〇ノット・・・・。右手でスティックをさらに倒す、左手は爆弾の投下索をまさぐる。

 スティックを握る右手とフットバーを踏む両足は、照準器を覗く目と連動して絶えず機位の修正を行う。飛行機を傾けたり滑らせたりすると弾看がとぶからである。降下角度五〇度、尻が座席から浮き上がるような感じ。

 後席からは、伝声管を通して高度が知らされる。「二五〇〇 二〇〇〇 一五〇〇」・・・・ 速度計の針は二百ノットを越す。照準満星。機はピタリとセット。「一五〇〇 七〇〇 用意 五〇〇 打テ」、左手の投下索をぐいと引く。

一粁の演習爆弾が翼を離れる。エンジンを入れると同時にスティックをぐいと引く。一瞬貧血を起し目の前が暗くなり、頬の肉が下がるのが感じられ、体は機体に嫌というほど押付けられる。普通の重力の5倍位のGがかかる。

 急降下から急上昇へ。五百米から一挙三千米に。ちらりと下を見やる。爆弾は標的に直撃、白煙が上るのが見える。歌の文句ではないが、「ニッコリ笑ってダイブに入る 友の艦爆勇ましや 上る黒煙消えさる中に 見たぞ轟沈天晴な」。

百里空での操縦訓練一六二回五二時間45分、爆撃訓練三四回三七時間三五分、夜間飛行一二回八時間、計器飛行一一回四時間三〇分、合計二一九回一〇二時間五〇分。

霞ケ浦の練習機教程九四時間と合わせて一九六時問五〇分。かくして一〇ヶ月余りの飛行学生全教程を終了したわけであるが、これではやっと飛行機に一人で乗れるというだけで、直ぐ実戦に役に立つとはいえない。

 しかし、戦局は我々の錬成を待つ余裕はなかった。昭和19729日の卒業と同時に、多くのクラスメイトは第一線の部隊へと飛び立っていった。

あかとんぼ

ところが何ということか、私は霞ヶ浦航空隊教官を命ぜられてしまったのである。当時の飛行機乗りの若い士官の感覚では、内地勤務のしかも赤とんぼの教官とは、貧乏くじの最たるものであった。第41期飛行学生の卒業式は霞ヶ浦航空隊で行われたが、私は勇躍前線に赴任する級友たちを羨望の眼で見送り、多胡という級友と二人で、そのまま霞ヶ浦に着任したのであった(あるいは操縦が下手で、実戦には使えないからもう一度最初からやり直せということだったかも知れなかったが、私の卒業成績は三五人中九番、もう一人の多胡は六番であったから、そうとも言えない)。

 教官の仕事は後進の教育育成指導である。最初に受持ったのは42期飛行学生(兵学校73期)、中間練習機教程卒業前の一月の短期間だったので印象が薄い。

 9月からは13期甲種予科練習生を初歩から教えた。このクラスは約二ヶ月教えたが、燃料不足が主な理由で、単独飛行を前に訓練を中止し、一部は他の航空隊で飛行作業を続けたが、水上特攻隊に編入された者もあったらしい。

 本格的に教えたのは43期の飛行学生、このクラスは兵学校74期で、生徒の身分で霞ヶ浦に入隊してきたのは昭和1912月であった。 (203月霞ヶ浦で卒業式)。

 飛行訓練は教官一人に学生四〜五人、個人指導の大量生産のできない随分と効率の悪い教育である。しかし教える方は、同じことを続けて四、五回線返すわけだから、毎日やっていると飽きてしまう。それで時々罵声を発して学生を叱咤激励し、あるいは鉄拳を使用して眠気を覚ますということになる。

 19年暮から204月までこの状態が続いたが、関東地方も空襲が激しくなり、訓練が思うようにできなくなった。そこで5月には、北海道の千歳基地に移動疎開して、飛行作業を続け、6月には美幌基地に移り、九九艦爆の実用機教程を教えた。

 20815日の終戦は美幌で迎えた。88日付で神町航空隊分隊長に発令され、20日着任。ここも九三中練の練習航空隊であった。

 最後に操縦捍を握ったのは821日、神町空の中練ジンー七六九号を分散疎開先の桑畑の中の玉の原牧場から飛行場まで持ち帰るという、淋しい二〇分の飛行であった。

 1810月から始まった私の搭乗員生活は二年足らず、その問の飛行時間六四二時間三〇分、飛行回数一三五〇回というのが総てであった。その機種別内訳次の通り。

 九三式陸上中間練習機 1076回 480時間15

 九九式艦上爆撃機    257回 135時間05

 白菊機上作業練習機   10回  14時間15

 零式輸送機(ダグラス)  3   6時間00

 九六式陸上攻撃機     1回  2時間00

 九七式艦上攻撃機    1回     35

 ク式滑空機(グライダー) 2回  4時間20

三つ子の魂

 終戦によって日本は翼を奪われた。日本の空はアメリカのものとなった。

 「わが空はわが空ならず秋の空」。この句は巽をもがれた鳥人、当時の日本のパイロットの心中を言い得て妙である。

 昭和20119日〜12日、熊本海軍人事部大分出張所嘱託という身分で、大分航空隊から博多の延田飛行場までアメリカ軍のダグラスDC4機で往復した記録がある。何の目的で博多に出張したのか忘れてしまったが、帰路、延田飛行場での出来事は忘れることができない。

 出発前、飛行場に着くと直ぐ飛行機に乗れという。それまでの日本の飛行機だったら、出発前に丹念に暖機試運転をやり、エンジンをかけたまま乗り込むのが常識であった。

 ところが、私が乗り込むと同時に一発でエンジンをかけ、試運転もそこそこに離陸した。その時ほど「戦争に負けた」トいう事を実感した事は無い。日本の飛行機は(自動車もそうだが)エンジンをかけるのに一苦労した。特に寒い時期はひどかった。「圧縮」と称して手でプロペラを回して、シリンダー内にガソリンの混合気を入れたり、試運転の後は毛布をかけて冷却を防いだりした。エナーシャー・スターターを使って、一度でエンジンのかかることはまず無かった。使用ガソリンのオクタン価が低く、エンジンにも信頼性が少なかったからである。戦争に負けた理由がよく分った(この時、海軍大尉の私の官位を陸軍大将と翻訳したため、大分基地では、将軍が搭乗していると大騒ぎをしたそうである)。

 その後、当分の間飛行機に乗る機会がなかった。戦後、日本の民間航空が再開されたのは昭和2710月からである。アメリカの機材を使いアメリカ人が操縦した。

 昭和34年、事務能率協会に就職してから九州や秋田の出張に飛行機を利用するようになった。まだフレンドシップなどというプロペラ機が飛んでいた頃である。

 戦後、初めて操縦捍を、しかもブラジルの定期航空路のそれを握ったのは、昭和38410日、最初の南米旅行の時であった。それについては既に「ポリビア上空の八木節」と

題して、この「私史稿」に詳しく書いたが、サンパウロからポリビアのサンタクルスに向かうブラジル航空会社のDC3機で、離陸から着陸まで操縦席に座り、しかも操縦を頼まれたという話。この前代未聞、古今未曽有の珍事は、私の「飛行機野郎」の歴史に残るものである。

 さらに同じ旅行で6月4日、アマゾン河口のベレーンからトメアス移住地までセスナ機(現地ではテコテコと言う)をチャータした。パイロットが日系二世で、これも私に操縦を任せてくれた。アマゾン河めがけて飛行やダイブをした挙句、着陸もやってくれといわれたがそれだけは遠慮した。これも飛行機野郎の余技の自慢話の一つ。

 昭和521113日、江田島クラス会の72期の特4号生徒田島 明朗とセスナ機を操縦、広島空港を離陸して宮島沖で、軍艦で厳島に向う級友を空から迎えた。

 このように機会があれば操縦捍を握る「三つ子の魂」は、飛行機野郎の業であろう。

 また、飛行機野郎同志の仁義を切って旅客機の操縦席を見せてもらうのも楽しみ。

一九六三年三月九日

羽田〜ホノルル JAL DC8 松平忠永機長(70期)

一九六五年六月一一日

羽田〜千歳 ANA 三神武雄機長(71期)

一九七一年九月三〇日

 羽田〜サンフランシスコ JALジャンボ  澄谷徳朗機長(陸士56期)

一九八七年一〇月一日

 リマ〜ロスアンゼルス VARIGジャンボ ブラジル人

一九九〇年六月九日

成田〜バンクーバー JALジャンボ

 

  霞ヶ浦航空隊飛行学生の歌

(1)狂乱怒涛に鍛へたる 鉄腕今又翼得ぬ

   男の中の男ぞと   微笑へむ眼下雲靡く

(2)筑波山頭朝風に   爆音高く飛び立てば

   荒波吠える太平洋  俺の舞台にゃまだ狭い

(3)ウラルアルタイ手挟んで コンロンヒマラヤ

下駄にはき 北シベリヤを過ぎ行けば

モスコーに既に数時間

(4)今朝ベルリンの郊外に  ミユンヘンビールに

酔いふすも  一度ハンドル把り持たば

 タベにゃ既に阿見ケ原   (以下略)

 

 飛行機野郎の仁義とは何だろうか。簡単にいえば仲間意識であろう。船乗りには船乗りの、ラガーにはラガーの親密感があるように、初めて会った飛行機乗りでも一言二言話している内に、うちとけてしまうから不思議である。

 一九六三年、私の最初の海外旅行の機長が、兵学校の先輩の松平さんであったのも奇縁であった。松平氏は、兵学校生徒の頃は徳川と名乗る侯爵であった。しかも私は彼に殴られ

た記憶がある。徳川侯爵の鉄拳だったので特に覚えていた。操縦席に招かれた時、その話をしたら、「私は下級生を殴ったことはありません」と言っていたが、それは彼の物忘れ。

 これに味をしめたわけでもないが、機会があれば操縦席を覗かせてもらうことにしている。

 八七年のブラジル航空や今年九〇年のカナダ行きの機長は全く知らない人であったが、これも飛行機乗りの仲間意識のしからしむるところである。普通の人間だったら、ハイジャックと間違えられて、門前払いを食うことは必定である。飛行機野郎の特権かもしれない。

 思えば、最初に操縦捍を握ってから半世紀近く経った。飛行機乗りは、最も危険といわれた時代から、幸いにも事故もなく過ごすことができた。

 しかし、空に散ったクラスメイトのことは忘れることができない。三〇六名の同期の飛行機乗りの内二〇二名、実に六六%が前の戦争で散華した。謹んで冥福を祈るのみ。

  

追 記

 平成二(一九九〇)年六月、カナダに旅行した。バンクーバーのホテルは海に面したパン・パシフィック。そのホテルの前の海面を昔懐かしい水上機が絶え間なく離着水してい

る。

 調べてみると水上機観光旅行というやつで、三〇分 五五$でバンクーバー上空を回る簡単なものから、対岸のバンクーバー島のビクトリア観光五時問コース 二一〇$までいろいろある。

 そこで、同行した高橋猛典・山田良彦の飛行機野郎どもと、ビクトリアに行くのにフェリーをやめて飛行機でと相談していたら、添乗員の米山嬢の知るところとなり、それだけはやめて下さいとの懇願。憤懣やる方無く中止したという飛行機野郎共のお粗末。呵々。

(なにわ会ニュース第66号27頁  平成4年3月)

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