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第4章  無敵海軍

「でな、連合艦隊司令長官の豊田大将じゃ。この人は杵築の人じゃが、ご存知か」 「おう、確かそうでしたなあ、新聞で読みましたの」 「大分から出た司令長官に、広瀬中佐の名前に泥を塗るようなことをしてもろうたら困る」  老人にとっては、海軍大将の豊田より、中佐の広瀬のほうが格上なのである。(本文より)  物語の舞台は佐伯を離れ、竹田へ移る。  佐伯では呉防備戦隊の清田に命令が下り、ついに豊後水道にも戦雲が漂い始めた。 

 読者とともに歌を聴いてみたい。 (詞は土井晩翠。曲は滝廉太郎)

 春高楼の花の宴   巡る杯影射して 

 千代の松ヶ枝分けいでし  昔の光今何処

 竹田の古城の名を岡城という。

「荒城の月」は少年時代の数年間を竹田で過ごした滝が、この城を回顧して作曲したもので、この所縁は現在でも市の代表的な故事として伝えられている。

 彼がこの城で遊んだのは明治二十年前後の数年間であった。

 明治維新政府の政策によって、武士の時代の象徴として日本全国に威容を誇っていた多くの城郭は、このころまでにあらかたとり壊されてしまい、その故地は、撤去できずに放置された石垣の隙間に雑草が生い茂る、荒れた城跡と成り果てていた。 

 岡城も廃藩置県からほどなく取り壊されたが、城を失ったその後になって、この町は戦乱の惨禍に巻き込まれることになる。竹田は明治五年の、西南の役の古戦場であった。

 鹿児島を発した西郷隆盛率いる薩摩軍は、ほとんど全軍で九州の西側を北上し、日本陸軍の九州方面警備軍「熊本鎮台」が守る熊本城を囲んだ。この西部戦線が結局西南の役の主戦場となったのだが、この時、熊本城など捨てて東に向かい、九州の喉元にあたる豊後を制圧して、本州から西下する官軍主力を押さえるべきだと主張したのが野村忍介である。

 野村の主張は退けられた。薩摩軍は戦力を分散して一部兵力で熊本城を包囲しつつ、主力は福岡から南下した政府軍を田原坂で迎え撃ったが、激戦の上これに敗退する。

 熊本城の包囲を解いて追撃される立場になった薩摩軍は、内陸部の人吉から九州の東海岸に出て宮崎まで撤退した。

 ここに至って野村の案はようやく採用される。薩摩軍は日向、延岡と北上し、豊後に入って竹田を占拠した。いわば西南戦争の東部戦線がここに形成されたわけだが、不思議なことに、西郷はこの豊後方面軍に一支隊という程度の兵力しか割かなかった。

 西郷自身は敗軍をまとめ、副将格の桐野利秋らと共に宮崎に居座っている。比喩ではなく、彼らは実際に居座ったままだった。豊後方面の指揮をとっていた野村でさえ最前線には出ず、中間地点の延岡に本営を置いていた。

 俗な書き方をすれば、竹田に進出した薩摩軍の中には、西郷はもとより、桐野や野村らの、いわゆるスター級の指揮官がいなかったことになる。このため竹田での攻防は、のちの時代に描かれた物語やドラマなどでも重視されず、歴史の舞台の袖に追いやられている。

 この東部戦線は、九州の東海岸沿いに、いわば南北に細く延びた蛇であった。その胴体部を政府軍がかかとで踏み抑えることはまことに容易であった。そうなれば、薩摩軍は南北に分断されて各個に撃破される。野村はその危険を唱え、主力を北上させるよう桐野に具申したが、西郷の主力は動かなかった。政府軍は野村が危惧したように動き、竹田まで進出した別働隊は取り残された孤軍となった。

 凄烈な市街戦が展開された。

 竹田を占拠した薩摩軍に援軍はなく、武器兵糧にも限りがあったが、攻める政府軍は後方に十分な補給線を有していた。戦線の維持ができなくなった薩摩軍は、やがて町に火を放ち南に撤退することになる。

 岡城自体は廃藩置県の直後に取り壊されており、薩摩軍が進駐した時期には石垣しか残っていなかったから、攻防どちらの陣営にとっても拠点にはならなかった。しかし膝元の城下町はこの戦乱で灰燼に帰した。

 滝が暮らした竹田には、それからわずか十五年ほどしか経っていない激戦の跡が、焼け跡となり、そこにえぐりこんだ弾痕となり、町の人々の悲痛な思い出となって生々しく残っていたことだろう。

 

 この歌は、先に詞があった。

 作詞者の土井晩翠は仙台の人間である。彼にとっての「荒城」はふたつあって、故郷仙台の青葉城と、若い日に訪れた会津城がそうであるといわれている。

 会津城は、正式には鶴ヶ城、またの名を若松城、会津若松城とも呼ぶ。

 徳川三代家光の時、彼の異母弟である保科正之が入府して以来、徹底して徳川幕府に忠誠を尽くすという藩風に育った会津の武士たちは、幕末戊辰の戦いで、この城を舞台に、白虎隊のものがたりを残した。幕末史最大の悲劇のひとつである。

 因縁かもしれない。

 幕末の会津戦役で、官軍主力の薩摩兵を率いていたのは桐野利秋であった。その背後には、戦場にこそ来てはいないが西郷がいる。会津藩の降伏後、城は官軍に明け渡されたが、会津にとっては恥辱の象徴とも言える城明け渡しに際し、官軍代表としてこれを受領したのも桐野であった。 

 戦後処理も苛烈を極めた。彼らは明治政権が確立した後も賊軍と呼び続けられ、新時代を、両眼に悔しさと怨みの涙をたたえて見つめていた。

 やがて西南の役がおこる。このとき竹田を占拠した薩摩の陣に斬りこんだ政府軍の中には、正規の陸軍兵士ではない「警察官」の部隊が含まれていた。彼らは異常なほどの闘志をもって薩摩兵に斬りかかった。特に志願して政府軍に加わった会津藩のもと士族たちである。それは会津の名誉回復のための志願でもあったが、その斬撃には怨念が込められていた。

 会津城を偲んで書かれた晩翠の詞は、作曲コンテストの課題として発表されたものだった、そこで選ばれたのが、竹田岡城を愛した廉太郎の曲なのである。

 晩翠の透徹した無常観を澄み切った格調の音色が包んでいる。そこに歌われている天守閣がかつて会津と薩摩の血潮にまみれていたことなど、事情を知らぬものには思いもさせない。

 憎しみの血糊を拭ったのは新時代の若者たちだった。

 西南の役は、いわば前時代のさむらいの価値観がほろびゆく過程で、最も劇的にそれを象徴した、いわば儀式の役割を果たした事件であったといえる。

 晩翠はその前年に生まれ、廉太郎は七年後に生まれている。

 大人ですら戸惑うしかない大きな変革の時代であった。古い道徳と新しい正義とがはげしくぶつかり合い、その葛藤がやがてゆるやかな融合に向かう時代の流れの中で、晩翠と廉太郎は多感な青年時代を過ごす。

 滅びゆく価値観のもっとも象徴的な最期のドラマは、若者たちの心に、ある時は興奮となりまた哀感となって刻みつけられたことだろう。そういうふたりによって、このうたは作られたと言える。

 明治日本においては、従来の和楽に、輸入された洋楽の技法を取り入れた新しい日本の歌が次々と生みだされた。その中にあって「荒城の月」は第一級の名歌名曲と認められている。

 

 さて、話を文太郎に戻す。

 そのような所縁で、滝廉太郎はこんにちでも竹田出身の偉人として讃えられているのだが、昭和十九年という時代にあっては事情がやや異なっており、とうじ竹田を代表する、第一等の偉人はこの大作曲家ではなかった。

 それは軍人であった。広瀬武夫という。

 広瀬は日露戦争における海軍軍人の英雄的存在であった。

 決死の作戦に率先志願して赴き、激戦の中で行方不明になった部下をぎりぎりまで捜し求め、ついに自らも戦死する。

 この責任感と自己犠牲精神、そして部下思いの情愛の深さが、海軍軍人の範として戦後広く喧伝され、唱歌にも歌われた。

 岡城竹田藩士の子として生まれた広瀬は竹田町民の誇りであった。その影響で、海から遠く離れた山麓の町であっても海軍の人気は高かった。海軍の話なら誰でも喜んで聞いた。  

 文太郎の商いにとってはまことに好都合な土地柄であった。客の方から文太郎を引き留めて茶を供し、話を聞きたがるほど、文太郎は豊富な話題を持ち、しかも話が上手かった。

「こんど佐伯防備隊の司令官になった清田少将ちゅう御仁はのう、東郷元帥と同じ薩摩の方でございましてのう」

 これで、まずほとんどの客が、「ほう」と膝を乗り出してくるという調子であった。

 

 文太郎の主要商品であるイリコは、小型のカタクチイワシを干したものである。全国的には煮干しと呼ばれることもあるが、上等な品になると七、八センチメートルほどの大きさがあり、腹がキラキラと銀白色に輝いている。堅く干しているにもかかわらず、身にはしっかりとした厚みがあり、醤油で煎り付ける「田作り」などにしても食べ応えがある。

 これを水で戻してから煮立ててダシをとるのだが、ダシをとった後のものも惣菜や汁の実として使える。たとえば桂佑たちが食べさせられていた味噌汁には、いつもイリコがたんまりと入っていたというから、食糧不足のこの時代ではまことに重宝な食べ物ではあった。

 文太郎はこのイリコを竹で編んだカゴに詰め、それを自転車の荷台に積んで行商にまわる。自転車は自前のもので、竹田に置きっぱなしにしてあった。

 竹田での商いの間だけしか使わないから、その時以外は得意先の内の一軒に預かってもらい、家人に使ってもらう。そのほうが大事にされて錆付きも防げるし、先方にも感謝されて何かと便宜も図ってもらえるようになるのである。

 この当時の自転車は、今の三十万円ほどにはあたる高価な品だったが、小都市とはいっても結構な広さをもつ竹田での行商には必要なのだった。

 歩いてまわれば五日かかるところを、自転車を使えば二日で済ませることができる。そこで生まれた時間的な余裕を得意先との茶飲み話にあてれば、そのぶん営業効果も高くなる。また何より楽でいい。

 文太郎はこの自転車に荷を満載して得意先を訪ね、売りさばいていくのだが、一軒いっけん門口に立って「御用はありませんか」と聞いて廻るわけではない。

 先にも書いたが文太郎には文太郎の縄張りがあり、その範囲内の顧客はすでに定まっている。その中には太十郎の代からの古い客も含まれているわけだが、すべて馴染みの得意先である。だから誰それの家にはイリコが何貫、干物が大体何箱と、おおかたの捌きも決まっていたので、文太郎たちの商いを今風に書くなら、訪問販売というよりは産地直送宅配というのが近い。 

 また食糧難の時代でもあり、商品は貴重な海産物であるから、そこは俗に言う売り手市場であった。誰でも喜んで買ってくれた。つまり売ること自体に苦労はなかったらしい。

 もちろん、そうなるまでには先代以来の顧客を離れさせない営業努力も必要だったわけで、それには商品の品質を維持することはもとより、より客を喜ばせる付加価値の提供についても、心を砕かねばならなかった。

 そのひとつが「今度の防備隊の司令官は」である。

 この時代にはテレビやインターネットは存在していない。ラジオは物持ちの家にしかない。

 当時の新聞が、事実を報道できない言論統制下に置かれていたことは、第一章ですでに紹介しているが、雑誌や書籍といった出版物も同様であったし、ラジオもまた例外ではなかった。  

 この絶望的な情報不足の状況で、文太郎たち旅の行商人が伝える生の情報は、市井の人々に時にはイリコや干物よりも歓迎を持って迎えられたのである。このため文太郎は客の玄関先に座り込み、長々と話し込むなどということも少なくなかった。

 

「ほいて《それで》な、艦隊が佐伯湾に入ったら、軍艦に積み込むんに、焼酎をようけ買い込むんじゃが」

「ほう、焼酎をなあ」

「この焼酎の名前がふるっとってな、〈天下無敵〉」

「ははは、そりゃあええ、無敵海軍さんにぴったりじゃのう」

「ほいたところがな、連合艦隊の何万の衆が飲むんじゃけえ、焼酎を造る麦がなんぼあっても足らん。じゃから天下無敵は、麦から米から芋から全部使うて仕込むんじゃと」

「ほう、どうじゃろうか《おどろいたことだ》、芋焼酎は薩摩、米の焼酎は肥後のもんじゃと思うとったが」

「天下無敵も、豊後と薩摩と肥後の連合艦隊っちゅうわけじゃ」

「ははは、おもしれえ。で、文ニィあれじゃろ、肴は大入島の唐人干しに限るという訳じゃろ。それで唐人干しを余計に売ろうちゅうんなら、天下無敵を一本提げて来にゃあ」

「いや、唐人干しは確かに焼酎にエエですな。こう、ちょいと苦えところが焼酎の旨みを出す。じゃけんど、焼酎に一番エエのは、なんちゅうてもタレの刺身でしょうなあ」

 こんなぐあいである。内陸の竹田の人々にとって鮮魚の味はなによりの贅沢な味覚だから、そこが盛り上げどころであった。

「佐伯においでになる時は寄っちくださいのう。ホウタレの刺身は浦まで来てもらわんとな、店だの旅籠だのじゃあ食えんもんじゃから」

「おお、そりゃあ有難えのう。したが文ニィ、前に聞いた気もするが、イワシの刺身は朝しか食えんのじゃなかったかの」

「なんのい、それじゃったら昼間網を打ちに行きゃあエエこと。ホウタレは獲れたてでねえと刺身にゃできんけ、いつでも船を出しますけえ」

 これはお愛想でもあったが、実際に得意先の人々が佐伯を訪れた時には、文太郎は何くれとなく世話をし、むろん、たらふく旨い魚を食べさせるのである。

 こんなふうにあちこちで営業トークの時間をつぶすものだから、文太郎の行商はなかなかにはかどらない。そこで自転車の機動力が威力を発揮することになるのだった。

 

 余談になるが、文太郎の話にあった「天下無敵」は現在でも製造されている。蔵元に迷惑がかからぬよう、書いておかねばならない。

 現在の「天下無敵」は、米焼酎と麦焼酎の二種類である。昭和の終わりごろまでは米麦芋を原料とした焼酎も作られていたが、それもすでに過去のものとなっている。

 文太郎の言いようでは、原料不足を理由に、なりふりかまわず使える材料は何でも使ったというふうに聞こえるが、事実は違う。

 明治のはじめごろから佐伯で焼酎を作っていたこの蔵では、戦時中には米麦芋だけではなく粟や稗、トウモロコシ、高粱までもが原料として試されていたそうである。もとより米と麦の不足が原因だったが、それならば米麦以外の原料を使って旨い焼酎を造ってみせようという、それは蔵元としての意地の産物だった。

 そのころ当主であった小野富吉というひとは、そういう職人気質と、大らかさの両方を持ち合わせていたようで、次のような話が残っている。

 戦後しばらくの間、日本人は占領軍による、いわゆる戦犯狩りに怯える毎日を送っていた。ようやく平和な生活に戻ったと思ったら、突然警察がやってきて、現在から省みれば明らかに冤罪やこじつけと思われるような理由で逮捕された者も少なくない。

 ある人がこのことを心配して富吉に忠告した。

 天下無敵というのは日本海軍のことだろう。そういう名前を今でも使っていたら、どういう難癖をつけられるかわかったものではない。名前を変えたほうが良いのではないか。と。

 富吉は、ご心配かたじけないと頭を下げた上で、こう答えた。

「しかし天下無敵は、敵が無いと書きます。敵がいなければ争いもない。それがつまり平和ということです。平和日本に相応しい名前ですよ。ですから、これはまあ、このままで」

 敗戦後の日本には旧軍人と見れば唾を吐きかけるような、それまでの手の平を見事に返した旧体制批判の風潮が少なからずあった。彼のこのユーモアには、そういう無節操への反骨と、断ちがたい海軍への慕情とが、ひとつになって潜んでいるような気もする。

 

 さて、竹田の文太郎。

 文太郎はよく、おまけもした。

 ここからは彼の家族に聞き取りをしたことを下敷きに書くが、文太郎が扱っていた品物は、このころでも自由販売を許されていたらしい。珍しいケースである。

 当時はほとんどすべての食料品が配給制度で統制されており、国民が購入することのできる食糧の数量は法律によって定められていた。

 ところが例外もあった。

 第二章で旨い芋と不味い芋について書いた。農家は定められた目方のサツマイモを配給用に供出する義務があったことも書いた。しかし、ものは自然の気まぐれでその収穫量が増減する農作物である。あるいは供出義務以上に収穫できることもある。この場合、余った芋は農家が自由に販売してよいことになっていた。行商のイリコも同様の事情だったのかもしれない。

 文太郎はお得意の玄関先で荷をほどき、注文分のイリコを一升枡で量りながら客が用意した木箱だのざるだのに移す。

 このとき文太郎は、枡にいっぱいにした上で、さらにその上にイリコを積み上げ、それこそ山盛りにしてから「いっしょう」と勘定する。

 実際の量は一升どころではない。下手をすれば倍ほどのイリコが客の手に渡る。

 これで客は気分がいい。正確に量ったあとでなにがしのおまけをつけられるより、売り手の気前のよさが際立つ。理屈で勘定すればきょうびの「只今増量中」というやつなのだろうが、文太郎はひとことも「おまけしております」とは言わない。客の気分の差は雲泥である。

 文太郎ひとりのアイディアというわけでもない。昔の店売りや振り売りでは良く見られた、ちょっとにくい演出である。売るほうも買うほうも、大人だった時代のことである。

 

 文太郎が竹田の常宿としていた旅館はいわゆる木賃宿であった。寝床だけが提供される簡易宿泊施設で、食事は自炊が建前である。

 当時は宿でも食堂でも、無条件に食事を提供してはくれなかった。配給券と同様な仕組みで外食券というものがあり、これがないと食べさせてもらえない。

 食事を提供する店側にしても米麦をはじめとする材料が絶対的に不足していたので、料理はすぐに売り切れとなり、外食券があっても食べられないというのが普通だった。

 文太郎は米麦二升ほどを持って来ていた。唐人干しは山ほどもあるから副食には困らない。宿に着いた日のうちに木賃の婆さんに頼んで、翌日の昼の弁当分までめしを炊いてもらった。 

 文太郎は自炊を嫌がる男だった。他のことにはかなりまめな男なのだが、飯炊きは大の男の仕事ではないと意地を張るようなところがあった。

 炊いてもらえる代わりに、文太郎の米麦の多少が婆さんの米びつに移される。別に婆さんが因業なのではなく、カマドの薪代と手間賃の現物支給というやつである。

 この文太郎の米麦は最初から麦七分に配合されていた。米と麦を別々にして預けておくと、婆さんのほうに米が余計に行くかもしれないという徳の用心であった。

 どうでもいいことを書いている。

 この晩も婆さんは飯を炊いたかまどの置き火で唐人干しをあぶり、欠け茶碗に盛った麦飯と一緒に届けてくれたのだが、その時、魚をあぶった時の香りをふんだんに含んだ台所の空気がひとすじ、婆さんと一緒に、宿所となっている大部屋に滑り込んだ。

「ええ匂いがするのう、そりゃあイワシかのう?」

 同宿の男が話しかけてくる。風体からして、文太郎と同じ行商人であろう。

「イワシじゃがホウタレと言うてな、まあイリコの親分みてえなもんじゃ。良かったら食うてもらおうかのう」

「オ、こりゃあすまんことじゃ。わしのもな、つまらんもんじゃが食うておくれ」

 男はそういって、煤けた木っ端のようなものを手ぬぐいに盛って差し出した。

「猪の肉をな、いぶしたもんじゃ。よう噛んでもろうたら味が出る」

「おう、こりゃあ珍しいもんをおおきに。兄さんはどっからかの」

「宇目じゃ。炭とドンコを売って歩いちょる」

「ほう、ドンコか。そりゃあエエ」

 文太郎は土産に山のものが欲しかった。このあたりでドンコと呼ぶ干した椎茸は、イリコや昆布とはまた違った旨いダシがとれるし、ダシをとった後のものは煮しめなどにしても旨い。また軽いものだから、帰りの道中にも負担にならない。文太郎はイリコとドンコの現物交換を提案した。

「そりゃあエエ考えじゃが、わしのほうはたいして持ってきちゃおらんけのう」

 宇目の男はそう答えながら荷をほどくと、洗面器一杯程度のドンコを古新聞の上にあけた。

「こんなもんしか分けてやれんがの、それでもエエかの」

「なんのい。ありがてえことじゃ」

 文太郎は同じかさほどのイリコを包んで男に渡すと、カゴの底にドンコの包みをしまった。それから二人はしばらくのあいだ、めしを食いながら障りのない会話を交わしていた。

「猪も鹿もな、つぶしてすぐの肉は食えたもんじゃあねえ。そうさな三日じゃな、旨くなってくるのんは。ほいてな、七日も過ぎてそろそろ蛆が湧こうかっちゅうころが一番うめえ」

「そりゃあ魚もおんなじじゃ。タレは獲ってすぐに食うのが一番うめえんじゃがの、ブリだの鯛だのになると、締めてからどんぐらいで旨うなるかは、こりゃあもう魚ごとに違う。そこを見るんが浦のもんの目利きじゃな」

「おうおう、獲ってすぐが旨いちゅうならモツがそうじゃ。特にキモはのう、生き胆っちゅうくらいじゃからな。血がまだタラタラしちょるんを炭で焙ってな」

 お徳が聞いていたら逃げ出すじゃろう、と文太郎は思った。

「でな、猪をつぶすじゃろ。ほいたら剃刀で毛を剃るんじゃが、そうじゃ坊主の頭みたいにの、全部剃ってしまうんじゃ」

「ははあ、魚のウロコを剥ぐのとおんなじじゃな」

「そうじゃ、毛は食えんけの。ほいてな、これを五日もたって食らおうとするじゃろ、ほいたところが、その毛がの、伸びちょるんじゃ」

「猪は死んじょろんじゃろ」

「死んじょるどころか、もう肉のかたまりになっちょるが」

「死んじょるのに毛が伸びろうかの」

「これが伸びるんじゃ。面白れえじゃろ」

 その時はもう剃刀も用いずに、炭で焙って毛だけ焼いてしまう。ところがこれを、焼かずにそのまま食う者がいる、と男は続ける。

「喉を通る時にの、この毛がチクチクするのがエエ、ちゅうてな」

 こりゃ、逃げ出すどころか、その場で気を失うわい、と文太郎は思った。

 第一章にも書いたが、宇目は山の幸に恵まれた土地で、現在でも食用の猪が飼われている。

 飼うといっても狭い囲いの中で豚のように肥育するのではなく、猪が棲む山をまるごと柵で取り囲み、その自然の中で育てるという、ほとんど野生に近い飼い方をする。

 その一帯では鹿や雉も獲れる。そういった山の幸は、このころは現在よりもさらに豊かな、人々への恵みとなっていたであろう。

 宇目から来た男と文太郎には、山海の違いはあっても、どこか共通した、国の味自慢というような話題があってしばらく話が弾んだが、話がひと段落したところで、どちらからともなく自分の寝床に入った。

 木賃宿には暖房といえるほどのものはない。夜が更けると冷えて来たので、文太郎は布団をひっかぶった。寝具は宿に用意してあるもので、決して上物ではなかったが、家の布団よりはましだった。文太郎は長い距離を歩いてきたことによる心地よい疲労に誘われ、すぐに眠りに落ちていった。

 

 翌日、文太郎は品物を届けた先で、例によって玄関先で話し込むことになったが、その朝、文太郎より一回りほど年上に見える初老の客が持ち出した話は、少し深刻な題で始まった。

「時に、台湾はどうなっちょるんじゃろうか」

「はあ、台湾がどうかしましたかの」

「あんた知らんのか、おとついから台湾が空襲されちょるらしい」

 文太郎は驚いた。一昨日といえば家を出て中ノ谷を越えた日である。その日から、ラジオはおろか新聞にさえ接していなかったのだから無理もないが、まったく何も知らなかった。

 文太郎がそう言うと、老人もうんうんと頷きながら続けた。

「いや、わしもな、昨日はじめて区長さんから聞いたことよ」

「それなら知らんはずじゃ。大本営発表は昨日じゃったんですな」

「いや、おとついからボチボチ言うちょったらしいがの。それにしても台湾とはタマガった《おどろいた》。わしはの、次はフイリッピンじゃと思っちょったがのう」

「ははあ、フイリッピン」

「そうじゃ、フイリッピンよ」

 フィリピンのことである。ルソンとミンダナオ両島を主島とするこの群島は、第一次大戦後米国の植民地となり一大軍事基地が設けられていたが、開戦後まもなく日本軍が占領した。  

 ここはマレー半島やインドネシアなどの資源地帯から、日本本土に物資を運ぶ海上ルートを防衛する要地であり、オーストラリア方面から島伝いに攻めてくる連合国軍を迎え撃つための重要な戦略拠点であった

 米軍はこの年の六月に、西太平洋のマリアナ群島を占領した。これは第一章にも書いたが、サイパンの陥落は日本にとって、首都の喉元に剣先を突きつけられたのも同じであった。

 国民は戦局の容易ならぬことを知り、次に敵が攻めてくるのはどの方面かと気を揉んだが、大方の予想では、それはフィリピンであろうと考えられていた。

 別に専門的な軍事の知識は必要なかった。太平洋の地図を広げて見ることができる者なら、順序としてはそうなると、誰でも思った。

 米軍はこの時点から十ヶ月前に、日本を降伏に追い込むための基本戦略を策定していたが、彼らがとるべき侵攻路には二つのコースが考えられていた。

 中部太平洋を制圧し、マリアナ群島から硫黄島を経て、直接首都東京を衝くという侵攻路と、オーストラリアを発し、ニューギニアを経てフィリピンから台湾、沖縄から九州と攻め上がる飛び石づたいの侵攻路である。それぞれに長短があり、担当する者の思惑もあって、どちらを主線とするかについては、米軍の最高司令部でもしばしば激論が闘わされたという。

 結論から書けば、ルーズベルトはこの両方を採用した。それぞれの最高指揮官の名をとって、一般的には前者をニミッツライン、後者をマッカーサーラインと呼んでいるが、言ってみれば、日本はこの二人のハードパンチャーに、顔面とボディを滅多打ちにされてノックアウトされたことになる。

 だが、さしあたって文太郎たち民間の者の注意はフィリピンに向いていた。地図に描かれた「ものの順序」は意識の中で変えようがなかった。そして事実、この直後に、マッカーサーはフィリピン中部のレイテ島に攻めかかることになる。台湾への空襲はその準備行動であった。むろん文太郎たちはその事情を知らない。

 

「サイパンはむげしねえ《きのどくな》ことじゃったが今度は大丈夫じゃろう。台湾は広いけの、そう簡単にやられることはねえじゃろう」

「それにしても、フイリッピンを飛び抜かして来たっちゅうのは解せませんのう」

「ほいてもな、もし敵が台湾に攻めかかってくりゃあ思う壺じゃ。フイリッピンと台湾で敵を挟み撃ちにできるけの」

 老人がいささかも不安の分子を含まない鷹揚な態度で言った。年齢を察すると、日清日露の戦役のころ、少年から青年の時代を過ごしたのであろう。文太郎はそう考えた。

「こりゃあタマガった。肝の太《えことじゃ。わしには考えもつかん。もしかしたら旦那さん、ロシアとの戦争にでも行っちょりましたか」

「そうじゃ」

 老人はわが意を得たとばかりに大きくうなづき、そこから話は日露戦争の時代へと遡る。

 ロシアとの戦争がいかに分の悪い、大敵を相手のいくさであったか。

 それを日本の兵隊がどれだけ勇敢に戦って打ち破ったか。

 その中でも広瀬中佐の決死的な奮戦振りは、どれほど立派であったか。

 今のこの戦争が苦しくければ苦しいほど、先人の苦労を思い出して我々も耐えねばならぬ、という意味の論説を加えながら、老人の話は進んだ。

 文太郎はまったく聞き役に回り、時にはわざと話を盛り上げるような質問などして、老人の相方を務めていたが、話が日本海海戦で連合艦隊が大勝利を収めた所で、それを潮に立とうと思った。すると老人はふと思い出したように、清田のことを持ち出した。

「あんた確か、佐伯の防備隊の司令官は、薩摩の人ち言うたのう」

「そうです。清田少将とおっしゃいますが」

「うん。でな、連合艦隊司令長官の豊田副武大将じゃ。こん人は杵築《きつき》の人じゃが、ご存知か」

「おう、確かそうでしたなあ、新聞で読みましたの」

 杵築は大分県の国東半島にある町である。戦後、周辺の町村と合併し、現在では杵築市。

 豊田の出た杵築中学からは、昭和初期の海軍で英才を謳われた堀悌吉や、外交官外相として知られ、戦艦ミズーリ艦上で日本政府全権として降伏文書に調印した重光葵が出ている。

 豊田副武は、この昭和十九年の五月から連合艦隊司令長官の職にあった。

「大分から司令長官が出るというのは名誉なことじゃから、なりんさった時にはわし等も万歳じゃったがの、サイパンを獲られてしもうたちゅうのは、ちいと情けねえ」

「なんのい、台湾ではやりなさるでしょう」

「それならエエがの、大分から出た司令長官に、広瀬中佐の名前に泥を塗るようなことをしてもろうたら困る」

 老人にとっては、海軍大将の豊田より、中佐の広瀬のほうが格上なのである。

「ほいてじゃ、あんた、防備隊の、薩摩の、何ちゅうたかな」

「清田少将で」

「そうじゃ、もしあんたが、その清田少将にお目にかかるようなことがあったら、東郷元帥のごとな、ご立派なお手柄をお祈りしちょりますぞと、竹田のじじいが言うちょったと、言うておくれんさい」

「はあ。まあ、わしら行商風情がお目にかかれるような方じゃねえが、そうじゃなあ、手紙のひとつも差し上げましょうかの」

「そりゃあエエ。竹田の、ちゅうても仕様がねえな、ははは、わしの名前なんぞ書かんでエエ。むかし奉天のいくさに行っちょったジジイが、そう言うちょったとな」

 

 文太郎はその家を辞すと次の得意先に向かった。古い町並みを、ゆっくりと自転車を漕いで進む風情はいかにものんびりしたものだったが、心中は穏やかではなかった。

 台湾とはいったいどうしたことだ。自分らは「外地」と呼んではいるが、五十年も前からの日本の領土である。台湾は日本なのだ。もしそこが敵に奪われるようなことになれば、戦争は今度こそおしまいかもしれない。

 いや、おしまいならそれはそれで仕方がない。日本人として、戦争に負けることは耐え難い悲しみではあるが、自分の想像の中にあるそれ以上の地獄に比べればまだましだ。地獄とは、台湾の次は沖縄、沖縄の次は九州と敵の侵攻が進み、やがて、生まれ育ったこの郷土が戦場になることである。

「竹田に来られるんも、これが最後かも知れん」

 文太郎はふとそう思ったが、しかし、そう思った時が文太郎の気分の下死点になった。彼はもうそれ以上悲観的な思案をするのをやめて、溌剌な自分に戻ろうとした。商売の途中なのだ。今はあの老人のように、敵を挟み撃ちする機会が来たとでも思って元気を出そう。

「清田少将に手紙を書かにゃいけんのう」

 老人の激励の言葉を、文太郎は素直に、清田に届けようと思っていた。老人はかつて祖国の危機に命がけで戦い、我々を守ってくれた世代である。別に、それに対して殊更な尊敬の念を抱いているわけではない。ただ、そういう人々のことはおろそかにしてはいけないというのが文太郎には当たり前の感覚であった。

 清田に魚でも届け、それに添えた手紙で老人の言葉を伝えたなら、清田は間違いなく礼状を寄越すだろう。次に竹田を訪れる際にそれを届けてやれば、老人はきっと喜ぶに違いない。

「魚は何がエエじゃろう」

 今はチヌが旬だがそろそろグレも旨くなる。シビなどは滅多にはお目にかかれないが、運が良ければ手に入らぬこともあるまい。

「そう言えば、竹田はそろそろアラの季節じゃなあ」

 文太郎は、行商が終わったら、最後の夜には名物のアラでも食べて帰ろうかと思いついた。

 アラは一般的にはクエと呼ばれる大型の白身魚である。

 冷蔵輸送が発達していなかったこのころ、海から遠く離れたこの町では、魚と言えば干物や汐物のことだったが、かろうじてアラなどの大型の魚だけが無塩で手に入った。大型魚だから腐りにくいということではないのだろうが、小型魚よりはもちが良かったということだろう。

 貴重な食材だけに、竹田の人々は皮や内臓や骨までも無駄にしないよう料理法を工夫した。これが「あたま料理」と呼ばれる郷土料理で、今でも山間の土地ならではの、海の魚の料理として知られており、ニベやマスなどの魚でも作る。

 鮮魚に不自由しない土地に住む文太郎にとって、アラは格別にありがたい魚というわけではないが、この時ばかりは竹田に来るのも最後かという感傷のせいであろう、竹田の旨いものと聞いていながら今まで一度も食べる機会がなかったその料理に、妙に気を引かれた。

「ほいたら、どこか旅館でも見つけて頼んじょかんとな」

 次の得意先の軒先をくぐる頃には、文太郎はもうアラを食うことに決めていた。

 アラは決して安いものではないが、こういう時この男は、わりと細かく考えずに金を使った。そのせいか「ウチが一番稼いじょるはずが、一番貧乏なのはなんでじゃろう」というのが徳の口癖であった。

 もっとも彼女の家が守後浦で一、二を争う貧乏だったことは確かだが、文太郎が一番稼いでいたかどうかはわからない。

 

 このころ呉防備戦隊司令官の清田は、相次いで飛び込んでくる、上級司令部からの命令への対応に忙殺されていた。

 この数日の米軍の攻勢は、台湾空襲に先立つ二日前の沖縄への空襲で始まった。昭和十九年十月十日のことである。

 結果としては、米軍は沖縄、台湾、フィリピンという順に、いわば文太郎の地図に書かれた侵攻路を逆進する形で攻撃を仕掛ることになったのだが、これは本命である中部フィリピンのレイテ島へ上陸作戦を行うのに先立ち、予想される背後からの日本軍の反撃をあらかじめ封殺しておくためであった。

 沖縄への攻撃は、おそらくそういう性質のものであろうとは日本海軍も推測できていたが、それでも本土の目と鼻の先まで敵艦隊が接近したわけであるから、最高司令部である大本営は緊張した。「台湾・沖縄・九州決戦」を意味する捷二号作戦の発動に備えよという警戒命令が発せられ、清田の防備戦隊も常ならぬ慌しさの中にあった。

 ただし、防備戦隊はもともと攻撃部隊ではなく、あくまでも担当海域の警備が任務である。清田が受け取った命令は、ざっくり分ければふたつであった。ひとつは指揮下にある航空機で九州南西海域を厳重に監視すること。もうひとつは豊後水道を航行する艦艇船舶の安全を図ることである。

 このころ豊後水道には、水道の外縁部は言うまでもなく、その内懐にまで数隻の米潜水艦が展開していた。この海域に進出した米潜水艦の任務は主に情報収集なので、彼らは積極的には攻撃行動には出ないが、こちらが少しでも隙を見せれば撃ってくる。このため水道を航行する艦艇船舶、特に連合艦隊の戦闘艦艇をその脅威から守るのが、防備戦隊の任務であった。

 したがって、呉防備戦隊の海上における主戦兵力は対潜艦艇である。

 

 潜水艦と対潜作戦について少し述べる。あまり専門的に過ぎると物語の本筋から外れるので、豊後水道の防衛戦を理解していただくのに、必要と思われることについてのみ書きたい。

 潜水艦はその構造上、極めて打たれ弱いふねであり、その弱点を水中に潜るという隠密性でカバーしている。

 従って潜水艦を制圧するには、特に強力な攻撃兵器は必要なく、その所在を正確に把握するための探知兵器と、それによって推測した位置に、的確で有効な集中攻撃を行えるシステム、この両方が重要なのだと言ってよい。

 一般的に、潜水艦を制圧するための艦艇は駆逐艦だと思われているが、これは、日本海軍に限っては必ずしも正確とは言えない。

 もともと駆逐艦は艦隊戦闘において、襲来する敵の小型水上艦を駆逐して味方主力を守り、攻勢にあっては敵主力に肉薄して魚雷攻撃を加えるための戦闘艦である。  

 第一次世界大戦でドイツのUボートによる深刻な被害を経験した英国と米国では、駆逐艦の俊敏な運動性能を活かして、潜水艦制圧のための戦術兵器として運用することに成功したが、日本海軍はその古い運用思想から脱却できず、駆逐艦に対潜戦闘のための十分な装備を与えていなかった。

 たとえば潜水艦攻撃用の水中爆弾である爆雷の投射能力について比べてみる。

 ここでは艦の左右に同時に撃ち出せる爆雷の数で比較するが、これが米海軍の護衛駆逐艦の八発に対し、日本の駆逐艦の主力である甲型駆逐艦は、より大型の艦体を持ちながら、わずか二発でしかなかった。

 映画などでよく見られる爆雷攻撃の描写では、駆逐艦は爆雷を左右後方の広範囲にばらまき、海中の潜水艦を取り巻くように爆発させている。

 これは、目標を中心とした一定範囲に複数の砲弾を散布させれば命中率が高くなるという、いわゆる公算射撃の理論に沿ったものだが、見えない敵に対する攻撃方法としては、おそらく最も有効な攻撃方法であろう。当然、命中率は爆雷の数に比例して高くなる。

 しかも爆雷は必ずしも目標に命中しなくとも、その近くで爆発させるだけでいいのである。これは水中爆発の爆圧でダメージを与えることができるからなのだが、この点でも「数を撃つ」ほうがより効果的なことは疑いない。両者の攻撃効果の差は明白であった。

 日米の駆逐艦の優劣を比較することが主旨ではない。日本の駆逐艦は、もともと対潜戦闘を行うようには設計されていなかったということである。

 そのための艦種は別にあった。

 それが海防艦であり駆潜艇であり、その外の雑多な特務艦艇である。この物語にはこれらの一般に知られていない艦種がこの先登場するため、少し説明をしておかねばならない。

 海防艦は七〇〇トンないし一〇〇〇トンの中型艦で、輸送船団の護衛艦として建造された。

 最も多くつくられた甲型と丙型および丁型は、最初から対潜戦闘を前提に設計されたため、当時としては最新の探知兵器を備えていた。爆雷の同時投射能力は甲型で一度に十六発。やや小型の丙型丁型で十二発。日本海軍では最も本格的な対潜艦艇であったと言える。

 しかし、この艦種は海外占領地と本土を結ぶ補給路の護衛に割り当てられ、防備戦隊という日本本土近海の防衛部隊には実戦配備されていない。沿岸防衛には駆潜艇があてられた。

 駆潜艇は三〇〇から五〇〇トンほどの小型艦である。小型のため外洋航海には不向きであり対潜能力も海防艦に比べて低い。それでも爆雷四発の同時投射が可能である。

 ここからがややこしい。ややこしいが肝心である。

 清田の戦隊の主力となっていたのは、右に挙げた本格的な対潜艦艇ではなく、次に述べる、多種雑多な艦種だった。

 駆潜特務艇。

 大きさは一三〇トン。大型の漁船タイプのふねで船体は木製である。戦時中に大量建造され最終的には二百隻が建造された。艇の後方には爆雷を投下するためのレールが二本備えられているが、爆雷投射機は装備していない。

 特設駆潜艇。

 もともと普通の漁船などの民間船であったものを徴用し、簡単な改造を施しただけで、駆潜特務艇と同様の任務につかせたものである。

 名前からしてややこしいが、この艦種に限らず特設の二文字が頭に付くふねは、徴用された元民間船だと考えてまず間違いない。

 特設駆潜艇となった船舶には、南氷洋で活躍していた捕鯨船や、遠洋漁業のトロール漁船が多かった。これらはまだ本格的なふねと言えるほうで、徴用された中には五〇トンほどの風力帆船さえ含まれていた。

 このほかにも、爆雷を搭載するスペースと、投下のためのレールを設置できる構造をもったふねであれば、同様に小改造が施されて対潜哨戒に駆り出された。特設掃海艇、特設敷設艇、特設電纜《でんらん》敷設艇といった艦種である。

 言ってみれば日本海軍は、ない袖は振れないはずの袖から、ありったけの持ち駒を引っ張り出し、無理を押して米潜水艦の制圧に取り組んだことになる。そうせざるを得ないほど当時の日本にとって、その見えない敵は脅威であった。

 

 記録によれば、当時の呉防備戦隊の指揮下には九十隻前後の艦艇があった。

 その中には三十隻ほどの海防艦が含まれているが、これはいわばお客さんのようなもので、本来は海上護衛総司令部に所属する、新造の海防艦の訓練部隊である。

 彼らが訓練を実施していた瀬戸内海から豊後水道にかけての水域は、呉防備戦隊の担当海域だったから、軍隊区分と呼ばれる臨時の編制で同戦隊の指揮下におかれていたにすぎない。

 指揮下にはあっても彼らはあくまで訓練生である。しかも、訓練を修了すると本来の任務に戻らねばならない。別の書き方をすると、呉防戦の作戦で消耗させるわけにはいかないから、清田は彼らを戦力としては計算できない。  

 結局、実際に豊後水道の警備にあたっていたほとんどのふねは徴用された特設艦艇である。清田は海軍少将であり艦隊を率いる「提督」と呼ばれる立場にあったが、実際に彼の指揮下にあったのは、そのような漁船並みか、あるいは事実もと漁船というふねばかりであった。

 

 文太郎が竹田で台湾空襲を知った日、清田の司令部は、なんとも居心地の悪い、合格発表を待つ受験生の家族のような気分で哨戒作戦の指揮をとっていた。

 すっきりしないのは、彼らに伝わっていた台湾沖の大勝利という情報のせいであった。

 正式な大本営発表はまだ出ていないが、鹿児島や台湾から反撃した日本海軍の航空部隊が、米艦隊に大打撃を与えたらしいというのである。

 この航空部隊はT攻撃部隊と呼ばれており、当時本土に残っていた精鋭を選抜して臨時編成されたいわば切り札だったから、海軍部内での期待も大きかった。

 午後五時になって公式に発表された戦果は、はたして「空母三を含む七隻を撃沈、空母一を含む二隻を撃破」という立派なものだった。

 これは、その当時推定されていた米機動部隊の全体からすれば、やっと二割を叩いたという程度の戦果ではあったが、それでも、負け戦続きで沈滞していた空気を吹き飛ばすには十分な勝報のはずであった。

 しかしそれでも、清田の司令部ではこれを全面的には信頼できないでいた。

 数字をそのまま信じることができるなら彼らは素直に喜んでよかった。しかしこの一年ほど前から、大本営発表が、まるで出来の悪い広告か何かのように、空騒ぎの大盤振舞いになってきていることに、彼らはすでに気付いていた。

 清田の司令部にはこの時三人の参謀がいた。参謀とは司令官のブレインであり、作戦立案の実務レベルは彼らが担当する。参謀は部隊の指揮権を持たない、あくまでも企画スタッフだが、いわば部隊の頭脳であり、当然のことながら情報の分析については甘くなかった。

 彼らの中で最先任の首席参謀の名を原田耕作といった。階級は海軍大佐。

「どうでしょう、この戦果は」

 原田の問いかけに、答える側の清田は言葉を選ばなければならなかった。最近の戦果発表が誇大に過ぎるのは確かだが、だからといってあまり悲観的な観測で、せっかくの大戦果に水をさすのも、部下たちの士気に及ぼす影響を考えれば賢明ではない。

「夜間雷撃だと思うんだよ、T部隊はね。あれはねえ、いや私は飛行機の方は専門じゃないが、艦隊同士の撃ち合いでも、夜戦は戦果判定が非常に難しいからね」

「戦果誤認もあり得るということですね」

「しかしT部隊というのはタイフーン部隊の略号というじゃないか。私はトゥピードの略だと思っていたら、昨日、澁谷君に訂正されたよ」

 トゥピードは魚雷である。清田の勘違いではなくT部隊には確かにそういう意味もあった。

「はあ、台風のような悪天候でも攻撃が可能なぐらいの、精鋭部隊ということだそうですが」

「夜戦を前提に訓練を積んだ連中だろうからね、誤認と決め付けることもあるまい」

 二人が会話を交わしているところに通信兵が入ってきた。通信文を受け取った原田は一瞬のうちに内容を読み取ると、清田に視線を投げた。

「鎮守府司令部からです」

 清田が目だけで応諾を与えると、原田が電文を読み上げる。

「明十五日、時刻後報、第二遊撃部隊は豊後水道南下の予定」

 清田はほんの少しだけ、原田を見ていた視線に力を込めた。原田が続ける。

「呉防戦司令官は、今明日、防備艦艇飛行機の全力を挙げて右出撃を援護すべし。一七五四。以上です」

 翌日、第二遊撃部隊が出撃して豊後水道を南進するので、その航路の上空哨戒と対潜哨戒を清田の戦隊で行えという命令であった。この部隊は巡洋艦三と駆逐艦七で編成された艦隊で、その快速を利して戦場に急行、損傷して戦場にとり残されている残敵に止めを刺し、同時に、不時着したT部隊の搭乗員を救助するという任務を負っていた。

「艦隊を出すんだね」

「はあ、追撃戦というわけでしょう」

「うん」

 清田は何事かを考えるように一息の間をおいて、それから原田に言った。

「それじゃあ、原田君、ご苦労だがよろしく頼む」

 清田は指揮下の部隊に出す命令文の起草を原田に命じた。参謀の仕事である。

「承知しました」

 原田は命令文の作成のために机につこうとしたが、ふり返ってもう一度清田を見た。

「確か、第二遊撃部隊の旗艦は那智、でしたね」

「うん。そうなんだ」

 旗艦とは、その艦隊の指揮官が乗り組むふねを言う。

 第一章に書いたが、那智は対米開戦の時に、清田が艦長として乗り組んでいたふねである。原田は無論それを知っているが、この時はそれと別のことを言った。

「実は、今、那智の艦長をやっておるのが、私のクラスでして」

「ほう」

 原田はそれだけ言うと、鉛筆をとって命令文を書き下ろし始めた。クラスとは、海軍士官の養成機関である海軍兵学校の、同期生という意味である。

「もう君のクラスが重巡の艦長か。私も歳をとるわけだ」

 命令文を、下書きも推敲もせず一気に仕上げて持ってきた原田から受け取りながら、清田が笑うと、原田もにっこり笑って応じた。

「ハンモックは四番か五番、高等と海大は両方とも首席と、出来る奴でした」

「ほう、やるなあ。じゃあ那智も安心だな」

 清田にとって那智は初めて実戦を経験したふねであった。彼はその艦長として、いくつかの海戦の勝利に立会う栄光を得たし、時には苦い水も飲んだこともある。軍人としては感傷的に過ぎると判っているが、船乗りとしての格別な愛情をこのふねに感じることを、清田は自分に禁じてはいなかった。

 もし大本営発表が、彼らの危惧するとおりの虚報であったとしたら、第二遊撃部隊がめざす海域には、世界最強の機動部隊が手ぐすねを引いて待ち構えていることになる。清田は清田の想いを、原田は原田の想いを重ねながら、明日、豊後水道を出てゆく那智の無事を祈った。

 

 第二遊撃部隊は、翌日の午前六時ごろ佐伯湾沖を通過する見込みとなった。

 清田は指揮下の対潜艦艇の全力を挙げて前路哨戒部隊を編成させたが、それらは翌朝未明、まだ深夜と言っていい時刻に佐伯基地を出撃して行った。

 出撃したのは特設掃海艇四、駆潜特務艇四、特設駆潜艇八の計十六隻である。しかしそれを遠目に見ると、まるで近海漁業の漁船団が出港していく風景のようだった。

 彼らが速力を上げると、小型艇特有のディーゼル機関の音が、その姿に相応しくポンポンと響いた。見送る者たちには、それが妙にいじらしく思えた。

(続く)

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