一九五八年に米国で制作された「深く静かに潜航せよ」という映画がある。
クラーク・ゲーブル演ずる米潜水艦ナーカの艦長が、宿敵と憎む日本駆逐艦「アキカゼ」に一騎打ちを挑むために、豊後水道に侵入するという筋立てである。豊後水道という地名がハリウッドスターの口から連呼される、おそらくは唯一の映画であろう。
映画では、豊後水道には凄腕の駆逐艦「アキカゼ」がいるから、そこは避けよという命令を受けているにもかかわらず、あえて危険を冒しても対決を望む艦長と、バート・ランカスター演ずる優秀な副長の意見が衝突して両者の対立を生むという、米潜水艦映画の王道パターンが展開されることになる。
この物語のこの時期、現実には豊後水道から九州南西海域にかけて十一隻の米潜水艦が展開しており、そのうち三隻は水道深く侵入して哨戒行動にあたっていた。彼らの最大の目的は、連合艦隊、特に空母機動部隊の出撃を察知することであった。場合によっては魚雷攻撃を実施する許可も出ていたはずである。
日本艦隊にとっては、出撃を察知されるのも困るが、攻撃を受けるのはさらに迷惑である。呉防備戦隊が担った役割は、この迷惑な敵の脅威を監視し、排除することであった。
豊後水道は日本の内海である。そこに敵国の艦船が侵入して待ち伏せしているという状況は、いかにも日本の戦勢が不利であるという印象を私たちに与えるが、戦局の悪化と、敵潜水艦の本土接近との間には、必ずしも相関関係があるわけではない。
米潜水艦は、対日開戦の直後から紀伊水道と豊後水道で哨戒行動を実施していたし、日本の潜水艦がアメリカ西海岸を砲撃し、あるいは搭載した小型水上機で爆撃したという例もある。潜水艦とはそういうことができる艦種であった。
さて、映画の中でナーカとされている潜水艦はパラオ級と呼ばれるタイプである。大戦中に合計一〇一隻が就役し米潜水艦の主力として運用された。
大きさや航海性能についての詳細については省くが、武装について簡単に紹介しておくと、魚雷発射菅は艦体の前後に合計十基、搭載する魚雷は二十四本。五インチ砲を一ないし二門、副武装として機関砲または機関銃を一基ないし二基装備していた。
一般的に潜水艦の主戦兵器は魚雷だと思われているが、現実には、魚雷は限定された目標に対してしか使わない、とっておきの兵器であった。
というのも、手持ちの魚雷はパラオ級の場合で二十四本しかない。気前良く発射していたらすぐに撃ちつくしてしまうのである。そうなれば作戦行動を中断して補給に戻らねばならず、このサイクルが早いほど潜水艦の実働率は低下することになる。
そして何より、魚雷は非常に高価な兵器であった。
当時のものの値段を現在の貨幣価値に換算するのは難しいが、筆者なりに計算してみると、日本海軍の魚雷の場合、一本が一億円という数字が出た。工業先進国の米国ではもう少し安く作られていたであろうが、いずれにせよ高価であったことは間違いないだろう。
従って潜水艦の稼働効率から言っても、経済的な面から考えても、魚雷を使用せずに目的を達成できるとしたらそれに越したことはない。
そこで米海軍に限らず、どこの国の潜水艦でも、敵からの反撃を恐れる必要がないケース、たとえば目標が非武装の輸送船で、護衛なしの単独航海している場合などは、近くに浮上し、砲撃でこれを撃沈するという戦法をとっていた。
参考までにもうひとつ試算を紹介すると、五インチ砲の砲弾は一発十万円程度だったようである。魚雷と比較するのも馬鹿ばかしいほどなので精査してはいない。
これに対して、豊後水道を警戒する呉防備戦隊の対潜部隊の主力は、木造の駆潜特務艇と、漁船改造の特設駆潜艇である。これらのふねには機関銃が装備されていて、浮上した潜水艦に対してはそれが唯一の攻撃兵器であった。
ところがこの程度の火力では、パラオ級を撃沈するどころか、せめてその艦体に穴を開けて潜航不能とさせることさえできなった。
これに対してパラオ級が装備する水上打撃力は格段に勝っている。五インチ砲はもちろん、補助火力の四〇ミリ機関砲でさえ、木造船なぞは、ひと薙ぎするだけで廃船にできる破壊力を有していた。
機関銃と機関砲の区別がややこしい。別に軍事的な知識を持っていただく必要はないのだが、この物語ではこのあとたびたび出てくる用語でもあるし、防備戦隊の兵士たちの厳しい現実を理解していただくために、少し解説する。
しばしば出てくるインチだのミリだのという単位は、銃砲弾の底面の直径を示す。
弾丸を自動的に連続して発射できる、動力式の銃がいわゆる機関銃だが、一般的な基準では、使用弾丸の直径が二〇ミリ未満のものを機関銃と呼び、それ以上のものを機関砲と呼ぶ。
ただし、数字はどうでもいい。
機関銃の弾丸は、要は鉛や鉄のかたまりにすぎないが、機関砲の弾丸はそれ自体にも火薬が詰まっている。ここが恐ろしい。機関砲弾は命中すると爆発し、爆発のエネルギーと破裂した弾体の破片とで、二重のダメージを目標に与えるのである。
恐ろしい例えだが、撃たれる側の兵士にとっては、機関銃なら弾にさえ当たらなければ命に別状はない。しかし機関砲の場合は、直撃を受ければその肉体は木っ端微塵、近くに着弾しただけでも無数の鉄片に目をえぐられ、全身を切り刻まれることになる。
木造の小型船は海中に沈んでいる部分が浅いために魚雷が命中しにくい。このために魚雷で狙われることは少ないが、水上での撃ち合いになれば、魚雷の百倍の数の機関砲弾が乗組員の生身を襲う。漁船のような対潜艦艇に乗組む兵士たちは、このような危険にその身をさらして連日の哨戒勤務にあたっていたのである。
清田は出撃部隊を見送ったあと、司令部のある隊舎で仮眠をとった。
夜が明ける少し前に、佐伯航空隊のほうから飛行機のエンジンをふかす音が聞こえた。対潜哨戒にあたる水上偵察機と飛行艇が離水していったのである。
清田は半分眠ったままの頭でそう理解したが、その次の瞬間、それは敵機の空襲を迎撃する友軍の戦闘機のエンジン音で、ということは敵の空襲部隊が接近しつつあるのだと判断した。彼は寝台の床から突き上げるような力を腰に感じて飛び起きた。
それから大きく息をついた。
この基地に戦闘機は配備されていない。あれはやはり哨戒機が発進した音であると納得し、たった今自分の体を突き上げた力が、自分自身の筋肉が、無意識のうちに緊張して起こした、地震のような力だったと理解したところで、今度は完全に目を覚ました。
それからは眠れなかった。睡眠不足はいつものことだから一向平気だが、清田は今しがたの自分の寝呆けぶりが気に食わなかった。
疲れているのだろうかと、清田は自分の体調を意外に思った。
呉防備戦隊に着任してからはほとんど陸上勤務であった。ふねに乗る艦隊勤務というものは極端で、航海中ともなれば二十四時間の臨戦態勢同然なのだが、入泊中は船べりから釣り糸を垂らす余裕さえできる。それに比べると、防備戦隊の司令官とはこうも煩雑な仕事が多いものかと呆れるほどであったから。
しかし疲れているとしても忙しさが原因ではあるまい。清田はそう思った。海軍士官なのだ。精神も肉体も兵学校時代から鍛え抜かれている。ではこの疲れは何のせいだ。
まいっているのだ。頭が参っている。いくら精神力が強靭でも、それだけでは頭脳の鋭さを維持するのは難しい。俺の頭はこの戦争について行けなくなりつつあるのではないか。
清田は思索の中に悲観や弱気といった自虐の要素を一切侵入させずに、そう分析した。
彼はまだ若いころ、中尉時代に砲術と水雷の高等教育を受けた。これらは艦隊戦闘における最も基本的な科目であり、将来の軍艦の艦長や司令官を育てるためのエリート養成教育であり、受講する新米士官が将来その方向に進むことを、半ば決定づける道筋でもあった。
それから二十八年後の対米開戦の時には、清田は確かにその目的地であった、連合艦隊主力である一等巡洋艦の艦橋に、艦長として立っていた。
第一線級の軍艦の艦長は、多くの海軍士官が目標とするポストのひとつである。そこに到達したという事実は、清田にとって疑いなく成功と見なして良かったし、それまでの長い刻苦が報われたと評しても良かった。そしてそれを更に彩ったのが緒戦の華々しい戦果であった。
しかし、その絶頂のころから雲行きが怪しくなった。それまでの経験や技術が、まるで通用しない相手が、新しい時代の戦場の主役として現れたためである。
飛行機であった。
この敵に対しては、それまで研究してきた艦隊決戦のための戦術戦法は役に立たなかった。相手が艦艇なら必殺のはずだった砲弾も魚雷も、よってたかる蜂のようなこの敵にはまったく通用しない。それどころかその毒針は、数万トンの巨艦をも海の藻屑と葬ってしまう。
昭和十七年のミッドウエイ海戦で、沈没する「飛龍」と運命を共にした加来止男、「加賀」の岡田次作、そして「三隈」の崎山釈夫は、全員が清田と同期の艦長であり、全員が敵機の攻撃で、艦と生命を失っている。
艦長たちは航空戦の時代に対応するために、勉強を一からやり直さなければならなかった。
敵の爆撃と雷撃の同時攻撃を回避するための操艦術、僚艦と共同の対空射撃、空襲の心配がない夜間に高速移動し、夜が明けて発見される前に敵を奇襲する航海術、それらを、目の前の戦争を戦いながら、そしてそろそろ堅くなりかけた五十路の頭をほぐしながら、研究を重ねてきた、と言うより、そうせざるを得なかった。
「それが何とかサマになるようになったと思ったら、今度は潜水艦だった」
輸送船を護衛しての対潜戦闘など、今まで海軍士官の誰も学んだことのない戦い方だった。航空戦に対応する道をようやく拓いたと思ったら、またしても一からやり直しであった。
しかも指揮する戦力は木造の漁船並みのふねばかりである。格下げされたなどとは露ほども思わないが、それらを指揮しての自分にとってはまったく新しい戦い方が、まだ自分の体内に飲み込めていないという、実に不安定でしっくりこない焦燥感は拭いようがなかった。
実際の作戦の詳細は若い参謀たちが立案する。自分はそれを信頼して実行を指示し最終的な責任を負えばよい。そういう指揮官としての在り方を薩摩人の清田は十分に承知していたが、今はそう鷹揚に構えているわけにいかなかった。
この戦闘は若い連中にとっても未体験の分野なのだ。誰もが不安と懐疑を抱いてこの作戦に当たっている。だからこそ肝心なのは、自分が彼らを信頼するかどうかではなく、自分が彼らにとって信頼に足る指揮官であるかどうかなのだ。
しかも清田の司令部の中で、組織的な対潜戦闘の実戦経験を持っていたのは、実は司令官の清田ひとりであった。それだけでも、不慣れな部下たちの士気を維持するために、自ら陣頭に立つ責任を感じる理由としては十分だった。資格の有無は関係なく、責任だけがあった。
時間をさかのぼって、清田の対潜作戦指揮官としての履歴を述べる。
シーレーン防衛についての認識が著しく貧弱だった日本海軍が、ようやく米潜水艦の脅威を正しく認め、海上輸送護衛専任の組織を発足させたのは昭和十八年の十一月であった。それが海上護衛総司令部である。
昭和十九年三月、少将になっていた清田はこの司令部に出向となり、四月には第二護衛船団司令官に任じられた。護衛船団とは、輸送船団とその護衛艦隊をセットでこう呼ぶ。
もっとも、このあと詳しく書くが、これは単なる職名でしかなく、第二護衛船団という名の船団が存在していたわけはなく、それが清田に預けられたわけでもない。清田が実際に指揮を委ねられた船団は東松四号船団といった。
時期的には米軍のマリアナ諸島侵攻が予測されていたころで、大本営は決戦に備えて要地の防備を急いでいたが、その一環として陸軍部隊と武器弾薬、防御陣地構築のための資材などを本土から送り込むことになった。
このために編制された、当時では最大級の輸送船団のひとつが東松四号船団である。
清田の旗艦は駆逐艦「五月雨」であった。昭和十二年に就役した艦で、当時でも準一線級の駆逐艦ではあったが、船団司令官が坐乗する旗艦としてはかなりつつましく感じられるほどの中型駆逐艦である。
護衛艦隊は「五月雨」を含め、旧式駆逐艦や水雷艇など艦種雑多な十隻で編制されていた。数の上では一応の艦隊に見える。しかしそこには深刻な問題が内在されていた。
この十隻の護衛艦艇は寄せ集めであった。そして信じがたいことに、清田の司令部さえ臨時雇いの身分でしかなかった。
海上護衛総司令部という組織はできたが、そこにはふねも人もまったく不足していた。
この間の事情を理解するためには、連合艦隊という組織を持ち出すのが最もわかりやすい。
連合艦隊は日本海軍の主力部隊であり、敵艦隊と戦う外戦部隊である。当然ながら、海軍の中でもっとも発言力を持っていたと言って良く、艦艇や機材は優先的に連合艦隊へまわされていた。
しかもこの時期の連合艦隊は、相次ぐ激戦で戦力人員ともに損耗し、駆逐艦一隻でも余計に欲しいという状況だったから、海上護衛総司令部が確保できた護衛艦艇は、ほとんどすべてが旧式で二線級の艦艇であり、そのうえ数が絶対的に不足していた。
本来であれば、複数の輸送船団を護衛するためには、それに対応する数の護衛艦隊が必要なはずである。ところがそれだけの数は確保できないのが現実だった。
そこで苦しまぎれに考え出された方法が、すべての護衛艦艇を海上護衛総司令部が一括して管理し、輸送船団が編制されるつど、手持ちをやりくりして使いまわすというやり方だった。これが「寄せ集め」と書いた事情である。
護衛船団が常設の組織ではない以上、その指揮官も、船団が編制されるたびに任命せざるを得ない。海軍という組織に似合わぬ「出向」あるいは「臨時雇い」という例えを用いた事情がこれである。
人事を担当する海軍省は現役の第一線級将校の中から、さしあたって連合艦隊に配属されていない者を選んで急ごしらえの司令部を編成すると、とにかく行ってくれ、と言わんばかりの慌しさで、海上護衛総司令部に送り込んだ。清田もその一人であった。
ふねと人は揃った。だが揃っただけであった。
艦隊戦闘には、各艦があうんの呼吸で連携できるほどのチームワークが本来は必要である。しかし寄せ集めの艦隊では、例えるならサッカーの試合を、初顔合わせの十一人で戦うようなものであった。加えて監督やコーチ陣は指揮する選手の技能も弱点も熟知していない。それが命がけの試合であったにもかかわらず、チームとしてはそういう状態だった。
船団が横須賀を発し、航海三日目にして、はたして最初の被害が出た。
八丈島の南、伊豆鳥島西方洋上で、輸送船東征丸が敵潜水艦の雷撃を受けて沈没。
さらに九日目にはサイパン到着直前に、輸送船美作丸が雷撃により沈没した。
航海と戦闘の詳細は省くが、結果だけを見ると、清田は二隻の輸送船を敵潜水艦に食われてしまっている。逆に来襲した敵潜水艦への反撃戦果については、数度にわたる対潜戦闘の結果、二隻に対して、攻撃の「効果確実」という戦果を記録した。
潜航中の潜水艦への攻撃は、その戦果判定が非常に困難である。仮に首尾よく撃沈できたとしても、深い海中でのその模様を目視することはまず不可能であるから、洋上に浮かんでくる敵艦の残骸や、流出した燃料油によって「何らかの損害を与えた」と判断するしかない。
自信たっぷりの指揮官なら、それを「撃沈確実」と判定するし、慎重な者なら「効果アリト認ム」と記録する。
清田の判定は二回とも「効果確実」であった。慎重な判断に属すると考えていいだろうが、実際には一隻にカスリ傷を与えただけで戦場離脱を許し、もう一隻には戦闘継続を断念させるほどの損害を与えたが、撃沈には至らず取り逃がしている。
二隻目の「トリガー」は、その時の被害の模様を克明に記録して報告している。
それによると、この時の応急修理には四日間を要したというが、トリガーの乗組員はそれを洋上でやりとげ、基地に帰投することなく戦線に復帰した。
清田が呉防備戦隊司令官に任じられたのは、この航海から二ヵ月後であった。
この一連の人事を扱った海軍省人事局の局長は、三戸壽《ひさし》という海軍少将である。三戸は海軍兵学校四十二期。これは清田と同じクラスであった。
三戸は潜水艦の専門家だった。大尉任官後の術科学校では水雷を専攻し、これを修了すると直ちに潜水艦乗組となった。
やがて潜水艦長、潜水艦戦隊の司令官、同じく潜水艦戦隊の旗艦である巡洋艦「香取」艦長、そして潜水艦の集中運用を目的とする第六艦隊の参謀長を歴任するが、この経歴は彼が潜水艦戦術のエキスパートであることを示している。
孫子に「敵を知り己を知れ」という有名な一節がある。
この当時、日本海軍には対潜戦術の専門的権威と呼べる士官は一人もいない。その環境下でせめて幾分でも「敵のことなら知っている」と言えるのが潜水艦の専門家であり、三戸もそのひとりだった。
これは偶然だったのだろうか。そういう三戸が、対潜作戦を指揮する司令官の人選にあたることになったのである。これは、日本海軍にとって幸運だったと言っていいかもしれないが、三戸にとっては頭の痛い仕事だっただろう。
三戸にしても、護衛船団の司令官を臨時雇いで任用することが、いかに無茶な人事であるか十分にわかっていたはずである。結局のところ、彼は無理を承知の人選をしなければならず、それは必然的に、無理を承知で引き受けてくれる者たちに白羽の矢を立てることになる。
そのひとりが兵学校同期の清田であった。
清田は潜水艦については素人である。しかし同期生というのはまことに便利な間柄で、彼のような紳士であっても、たとえば人事局長様にこんなことが言える。
「引き受けてもいいが、その代わり貴様、俺が任地に行くまでに潜水艦のことを全部教えろ。人事局長なんてどうせハンコ押してりゃ済む仕事だろう。布団に入ってからやればいい」
同期でなければ中々こうはいかない。立場を逆にして三戸が彼の専門分野を活かし、素人の新任司令官に助言をしたいと考えても、教わるほうが三戸より先輩であれば意地もあろうし、後輩であれば遠慮がある。
三戸は潜水艦の専門家としていっさいの遠慮なく清田の師になれただろうし、清田は虚心に学ぶことができたはずである。さらに清田はサイパンへの輸送作戦を終えたのち、そこで得た経験を基にした、衷心からの意見を三戸に提供しただろう。これまた同期でなければ意地だの見栄だのが邪魔をして、まっさらな意見が言えないものである。
清田がやがて呉防備戦隊を任せられることになったのは、そんな事情からだと筆者は考えている。
佐伯基地の朝、未明。
清田は脱いでいた制服の上着を正しく着用すると、営庭に出た。
その時、彼も三戸のことを考えていた。正確に言えば、三戸の後輩のことを考えていた。
三戸は護衛船団司令官の人選にあたって、水雷術科学校の一期後輩である二人の海軍少将に大きな期待を寄せていた。伊集院松治と鶴岡信道。両名とも兵学校は四十三期。三戸と清田の一年後輩にあたる。
伊集院は戦闘艦隊での対潜主力である駆逐艦のエキスパートであり、鶴岡は三戸と同じく、潜水艦用兵のベテランであった。臨時雇いの護衛船団司令官たちの中でも、この両名ばかりは適材適所というべき人材であり、三戸の切り札と言っても良かった。
伊集院少将は、日露戦争のあと、東郷平八郎の次に連合艦隊司令長官となった伊集院五郎の長男で、父親から継承した男爵位を持つ華族提督であった。
海軍元帥伊集院五郎は薩摩藩の出身で、清田にとっては同郷の大先輩でもあったから、その長男である後輩についても兵学校時代からよく見知っていた。
伊集院は、清田が第二護衛船団司令官に任じられたのと同日に、第一護衛船団司令官となり「東松三号船団」を率いてサイパン島への輸送作戦を成功させた。
この航海で船団に被害はなく、彼は指揮官としての力量を示したが、続いてシンガポールへ向かう船団を護衛中に、ボルネオ島西方の洋上で、旗艦であった海防艦「壱岐」が敵潜水艦の雷撃を受けて沈没、座乗の伊集院も戦死した。
三戸は結果として有能な後輩を死地に送ったことになる。戦争中である限り、それは覚悟をしておかなければならないことではあったし、三戸がその生死の分岐点に関わった海軍士官は何も伊集院ひとりではなかったが、最も可愛がり、最も期待を寄せていた後輩だっただけに、三戸は常に増して自らを責めたであろう。清田はそう思っていた。
有能な後輩を先に死なせ、同期の戦友が深く自責し、そして未熟な自分は生き残っている。それを思えば、どの口で疲れたなどと言えるのか。せめて、三戸の期待に応えるだけの仕事はやり遂げなければならないではないか。
清田は、目の前でまだ眠ったように鎮まっている大入島の山肌の縁に、夜の終わりを告げる光が、かすかに当たりはじめているのに気付いた。周囲はまだ薄暗いが朝は近い。
彼が立っている営庭の東側には、小高い丘の濃霞《のうか》山が壁を作っていて、日の出を見ることができなかった。清田はちょうど朝日が作る影の中にいた。それならそれでいい。見えずとも、必ず日は昇る。このまま朝日を待とうと思った。総員起こしのラッパが鳴り始めた。
その日の午前七時、清田は司令官公室で朝食をとった。
海軍では、兵の食事は官給で当然無料だが、職業軍人である士官の食事は自腹であったため逆に、ある程度は好きなものを注文できるという特権もあった。
清田の朝食は、普段なら宿所にしている水交社でとるのだが、この朝のように基地に泊り込む時は、前夜のうちに、司令部付きの兵が烹炊所のコックに指示をしておく。コックは民間からの雇用であり、仕官の食事だけを担当し下士官や兵の食事は作らない。
もっともこの頃になると、軍隊でも料理の材料が不足気味で、士官の食事も兵に比べて特に豪華という訳ではなかった。
清田は献立にまったくこだわらない司令官であったから、朝食はいつも飯と味噌汁に簡単な菜だけという、一般兵の食事と変わらないメニューが用意されていた。ささやかながら贅沢と言えたのは、佐伯らしく、必ず魚貝、といってもイワシの丸干やアサリの佃煮程度であったが、そういう一品がついてくるくらいであった。
昼食や夕食は司令部の参謀たちと共にするが、朝食はめいめいが勝手にとる。清田はいつも公室でひとりきりの食事であった。彼の身辺の世話をする従兵が、湯茶の用などを足すためにそばにいるが、清田はいつも黙ってさっさとめしを片付けてしまう。軍人のたしなみとして、朝食に時間をかけることは、あまり格好のいいことではなかったからである。
ところがこの朝に限って、味噌汁に箸をつけた清田が、何を思ったか食事を中断して従兵に尋ねた。
「今朝のめしは、誰が作ったのかね」
「は、いつものコックでありますが、何か」
「いつもの? そうか、イヤ、大したことじゃないが、ちょっと呼んできてくれんか」
従兵はいったい何事だろうと思い、急いで司令官室を出ようとしたが、清田はそれを制して
「急がなくていい。歩いて行ってくれ」と言った。
それでも彼の部屋から烹炊所までは少し距離があるため、従兵は駆け足で向かった。
やがて清田の部屋に現れたコックは初老の大柄な男で、なるほど本業は洋食屋のコックでもあろうかという程度に太っていたが、その大き目の体を小さく恐縮させて司令官の前に立った。
気の毒に、彼も急かされたのであろう。息をついている。
清田は腰掛けたまま味噌汁の椀を持ち、目の前に持ち上げるように彼に示しながら、感謝の意を伝えて、まず相手を安心させた。
「今朝の味噌汁はうまいね。いや、ありがとう」
老コックはすぐに呼ばれた理由を合点した。彼はその一言で無用の緊張からは解放されたが、司令官を相手に気安く笑顔を見せるわけにも行かず、そのまま硬直したように突っ立っている。それを見た清田は努めて物柔らかに続けた。
「これは鹿児島の枯節《かれぶし》ですか」
「は、そうであります」
「うん、しかし今時、よく手に入ったもんだ。補給があったのかね」
「は、いえ、私の親戚が指宿で旅館をやっておりまして、そこから」
「おや、それじゃあ折角のものを使わせてしまったんだな」
とんでもございませんと恐縮する老コックに、清田は、指宿では商売の景気はどうかと尋ねようとしたが、すぐにそれを呑み込んだ。指宿は有名な温泉地であるが、このご時世である。おそらくは客足も途絶え、折角の枯節も活かしようがなくて送ってくれたものだろう。
「私も久しぶりに味わいました。おかげで元気がついた、ありがとう」
清田はもう一度感謝の言葉をくりかえすと彼を引き取らせた。
その味噌汁は枕崎の枯節と呼ばれる鰹節でダシをとっていた。
ふつう佐伯の味噌汁はイリコでダシをとる。これはこれで文句なくうまいのだが、薩摩人の清田にとって枯節のダシの香りは旨いとか不味いとかを超えて、例えば魂に響くという筋合のものらしかった。
清田は、自分の出身地を何かで知り、わざわざそれを作ってくれた老コックの心遣いに感謝しながら、久しぶりに心から朝食を楽しんだ。
旨かったし、うれしかった。
「しかし味噌汁一杯で気合が入るとは、俺も現金なものだ」
清田はおかしくなって、従兵に見られないよう、顔を窓のほうに向けながら笑った。
文太郎が竹田で行商をしているあいだ、守後浦の家では、桂佑と亮が珍しく母親を手伝っていた。楠木正行の話が、今回は少しばかり効いていたのかもしれない。
この日は日曜日であったが、桂佑は徳の言いつけで久保浦の安藤の家に届け物をした。彼の帰りしなには、叔母の美弥が真っ赤に熟れた柿の実を土産に持たせてくれた。
「お祝いじゃ、亮にものりえにも、よう食べさせちゃっておくれ」
美弥はそう言った。こんなふうに叔母から食べ物をもらえるのはいつものことだったから、そのこと自体は別にどうと言うことはなかったのだが、最初の一言が桂佑にはひっかかった。
「美弥ネェ、お祝いちゃ、何のお祝いか」
「ああ、あんたはまだ知らんのじゃろう。連合艦隊がな、アメリカをやっつけたち」
「ほんとか」
「そうじゃ、さっきな、ラジオで言うちょった。台湾のほうでな、アメリカの航空母艦を七杯沈めたんと」
「オウ」
桂佑は息を呑みながら妙な気合を発すると、オオキニと言い捨てて、守後浦に抜ける山道を駆け上がって行った。きのうの学校じゃ誰かが、敵空母三隻撃沈とか言うちょったが、七隻に増えちょる、大戦果じゃ。こりゃ、早よう帰ってみんなに教えにゃいけん。
桂佑は叔母からもらった柿にしゃぶりつきながら山道を駆けた。たちまち二個を平らげたが、どちらも食べた口そのものが蕩けてしまいそうに甘かった。柿の甘みは、このころ彼らの口に入る食べ物の中で最高のものだった。
桂佑は家に帰ると、さっそく弟妹たちを呼んで土産をひろげた。
「待て待て、まだ食うたらいけん」
文太郎がいなければこそである。さっそく手を伸ばす亮やのりえを制して、桂佑はこの家のあるじ代理として、おごそかにこう言うのである。
「大本営発表」
亮とのりえは、ごちそうを前にして兄が何を言い出すのかと、ぽかんと見ている。
「連合艦隊は、本十五日未明、台湾沖で敵空母七隻を撃沈せり」
「桂、早う食おうや」
「黙って聞いちょれ、兄貴が話しちょんのに」
亮は黙ったが、桂佑もそこから先が続かない。考えてみると、叔母から仕入れた話はこれで全部である。ミメイにしてからが勢い余っての付け足しなのだ。そもそもこの弟や妹ときたら連合艦隊の大戦果などより、目の前に広げられた戦果にしか興味がなさそうであった。
桂佑は拍子抜けをして、ほいたら食おうかということになった。
が、ただでは食べさせない。演説は続く。
「柿には渋柿と甘柿があるんじゃ。それは知っちょるじゃろ。ほいたところがな、甘柿も最初から甘いわけじゃねえ。甘柿もはじめは渋いんじゃ。亮、聞いちょるんか?」
「聞いちょるけんど、桂、もう食うてエエじゃろ」
「待たんか。この柿が甘いか渋いか、まだわからんじゃろうが。もし渋かってみい、お前らの口がな、こんなふうに」
桂祐が思いきり口元をひん曲げて見せると、のりえがつられて唇を歪め、怯えたように息を呑んだ。
「こんなふうに曲がるぐらい渋いんじゃ。この渋いんがな、水なんか飲んでも中々とれんから、晩飯を食う時もその渋いんが混じって、そりゃあ渋いめしを食うことになるんぞ」
のりえは、へえ、と、桂祐と柿とを交互に見る。亮は渋柿の味なぞとっくに知っているから、大げさに言うもんじゃのう、と少ししらけている。
「じゃけ、今から兄ちゃんが、お前たちのために味見をしちゃるけの。待っちょけよ」
桂祐は十ほどもある柿の実のひとつをとると、皮のまま齧ってみせる。
「ああ、こりゃいけん。これはまだ渋柿じゃ」
もうひとつ。
「ちぇ、これもじゃ。良かったのう、これを食うとったらエライことじゃった」
桂祐はそう言いながら、ひとかじり齧った柿を、脇にどけていく。
「お、これは甘めェ。これは当たりじゃ」
甘いと判定された柿は反対側の脇におかれた。最終的に渋柿三個、甘柿が六個というように分けられた。
「三個がまだ熟れちょらん。しょうがねえのう」
桂祐はそう言って、亮とのりえに二個ずつ渡し、さあ食えと勧めた。
亮とのりえは皮ごとかぶりつき、指に果汁がつたえば、その指も旨そうにしゃぶった。
「うめえじゃろ、のり」
桂介が妹に語りかけると、のりえは、この幸福はすべてこの兄が運んできたもの、と信じるように、感激と感謝の笑顔を桂介に向ける。
この家の子供たちにとって甘味といえば果物しかなかった。たまに食べさせてもらえる菓子といえば、叔母が彼岸に届けてくれるオハギと牡丹餅だけだったが、それは、小豆という豆はこういう味だと、豆の味じたいがはっきり理解できるほど、砂糖の甘みが少ない代物だった。だから熟れた柿のこってりした甘さは、何物にも代えがたい美味であった。
桂佑は取り分の二個には手をつけず、難しい顔をして、脇にどけた渋柿のひとつを手にした。そしていっそう険しい表情を作ると、いかにも不本意そうにつぶやくのである。
「渋柿ちゅうのは、どんこんならんがのう。ほいても食いもんは食いもんじゃけ、ほたるのも惜しなげえしなあ」
渋柿というのは、どうにもこうにもならないものだが、とは言っても食べ物は食べ物だから捨てるのも惜しいしなあ。桂佑はそう言って、その渋柿を口に運んだ。
「ああ、渋いのう。じゃけんど、まあ食えんことはねえ」
「桂、そりゃ本当に渋柿か」
「当たり前じゃねえか、亮」
「ほいたら渋柿でもエエけ、俺にも一個くれ」
「何を言うちょるんか、ははは、お前にゃまだ無理じゃ。おお渋い」
「桂が食えるんなら俺にも食えるじゃろう」
「分からんかのう、お前はいま甘柿を食うたばっかりじゃろが」
「うん」
「そのあとで渋柿を食うたら、口ん中から甘いんが消えてしまうじゃねえか。勿体ねえぞう。食うなら渋柿を先に食わにゃ」
そんなやり取りの間に、桂佑は渋柿を三つとも食べてしまった。あんまり渋いしぶいと言うものだから、のりえが心配そうに桂佑を見ている。
「のり、兄ちゃんは大丈夫じゃ。あんな、男はな、戦争に行ったら何でも食わんといけんけの、今からベロを鍛えちょかなイケンのじゃ。分かるか」
亮はにこりともせず「やおいかんのう《たいへんだねえ 》、男は」と言った。桂佑の膝元に残された、ふたつの甘柿の行方が気になっている。
同じころ、文太郎は二日目の行商を終え、宿に向かって空荷になった自転車を漕いでいた。
今日も今日とて、文太郎はどこへ行っても台湾沖の大戦果ばなしにつき合わされた。
竹田の海軍びいきは今に始まったことではないが、今回は連日の大本営発表があり、しかも日を追うごとに戦果が加算されて行ったため、人々はいわば持ち株が日毎に値上がりしていくような興奮を味わっていた。
文太郎がいくつ目かの辻を折れると、その先を一団の人群れが横切るのが見えた。彼が目を留めたのは、日の丸の小旗を持った主婦や子供らに混じって、羽織袴の老人の姿を認めたからであった。このころは「贅沢は敵だ」のスローガンのもとに、たとえ結婚式のような祝い事であっても、その老人のような正装は控えるのが通例になっていたから目を引いた。
「ははあ、戦勝祝いじゃな」
戦地での日本軍の大勝利が伝えられると、人々はこのように打ち揃って、近くの神社や寺に戦勝のお礼参りをする。東京であれば皇居前広場もその対象となっていたし、靖国神社では、たとえば昭和十七年のシンガポール陥落の時などは、まるでお祭り騒ぎであったという。
「オ、そう言えば、ここはもう廣瀬神社のねきじゃったな」
文太郎は、人の群れが進んで行く方向に座っている、ちょっとした小山を仰いだ。そこには広瀬武夫を祀った神社があった。
この神社が有志の人々の発起よって創建されたのは昭和十年である。広瀬の戦死からおよそ三十年が過ぎてからのことであった。
神社の祭神は広瀬武夫その人である。
彼が、この時代の日本人の尊敬を集めることになった事績については章の初めに書いたが、文太郎は別の理由でこの軍人を好いていた。
広瀬がまだ若く、中尉だったころの話である。
日清戦争に勝利した日本政府は、清国の生き残りの艦艇を戦利艦として接収した。
主力艦の戦艦「鎮遠」もその一隻であったが、同艦の清掃作業を広瀬の分隊が担当した際、水兵たちは日本の軍艦とは大違いの、その便所の汚さに驚嘆した。この時指揮官である広瀬は率先して便所掃除にあたった。彼は便器にこびりついて落ちない汚れに素手のまま爪を立て、こそぎ落として磨き上げたという。
文太郎が広瀬のことで何より好いていたのはそれであった。彼は毎夜の、はだか相撲の後の訓話でしばしば広瀬を引き合いに出し、子供たちにこう教えた。
「人が嫌がることを、誰よりも一番先に自分からやれ」
「怒られることをした時は最初に手を挙げよ。ほめられる時は自分から手を挙げるな」
これでずいぶん損もさせられたがなあと、桂佑と亮は笑って述懐する。
こんにちの廣瀬神社は静かである。有体に書くなら、多くの国民にその存在を忘れられた、田舎のつつましい神社のひとつというほどのたたずまいで、竹田市の中にあっても、とくだん観光名所として知られているわけでもない。
広瀬は戦死後「軍神」として喧伝されたが、戦後日本においては、このように軍人を神格化したこと自体が多くの国民の精神的アレルギーの対象となり、忌避された。
ざっくばらんに書けば、廣瀬神社は軍国主義の象徴と見なされたということかもしれない。神社の境内を包む静けさは、そういう事情によるものであろう。
なんと了見の狭いことよと、文太郎なら呆れたに違いない。
桂佑や亮の話では、文太郎が広瀬の軍人としての功績を称揚したことはないという。それは小楠公ばなしが徳の野良仕事にすりかわるのと同様の、文太郎一流の演出だったのだろうが、広瀬はあくまでも、息子たちに男としてのありようを教えるための存在だった。
いのりの対象は、祈る者の精神を反映して輝く。
ここからしばらくは、広瀬武夫を軍神としてではなく、海軍の良心の象徴とみなした精神について書きたい。主人公の名を岡田啓介という。
神社には創建当時の様々な記録が残っていて、たとえば建立の趣意書などを見せてもらうと長文の主旨文に続いて、昭和史の初期を彩る錚々たる人々が賛同の署名を連ねている。
筆者は取材に訪問した際にそれを見せていただいたのだが、どうぞご覧下さいと、いかにも気軽にそれを手渡されたものだから、写本であろうと思い気軽にページをめくっていた。
ところが署名の段になると、それがすべて異なる筆跡である。聞けばそれは原本で、署名はすべて本人の自筆だと教えられて驚いた。夏の暑い日のことである。ページをめくった指が、汗で汚れてはいなかったかなどと、それこそ冷や汗をかいた。
そこに岡田啓介の名もあった。署名の頭には内閣総理大臣とあり、その左右の人々の達筆に交じって、ごく控え目にやや細めの端正な楷書で記帳されている。
岡田もまた海軍の出身だった。連合艦隊司令長官、海軍大臣を歴任し、軍事参議官を経て、斉藤実《まこと
》内閣で再び海相を務めたが、昭和九年の夏、斉藤に後事を託されて首相に就任した。
首相に勅任されたさい、自宅近くに詰めていた新聞記者たちに何か差し入れをしたいのだが金がない。そこで氷だけを届け「飲物は諸君でよろしいように」と伝えたというエピソードが残っている。飄然とした貧乏とでも言おうか、なにしろ欲も得もない人物だったらしい。
さて、肝心な話は岡田が首相に就任する前である。
彼が軍事参議官在職中の昭和五年、ロンドンで海軍軍縮会議が開催された。
この会議は、要は主要海軍国の艦艇保有量の上限を定めて、軍備拡張競争を抑制することを目的としていた。参加国は米英日、それに仏伊が加わる。
これに先立つ大正十一年にはワシントンでも同様の会議が開催されており、この時は海軍の主力である戦艦の保有量を規定したが、ロンドン会議では航空母艦や巡洋艦以下の補助艦艇を対象に保有量上限を討議決定することになっていた。この両会議は、人類が初めての国際的な軍縮を達成したという点で、近代史に輝く成功と言ってよいだろう。
しかし当然ながら、そこには自国にとってより有利な結果を得ようとする、国際間の戦略的駆け引きが存在していた。
対象となる艦艇の、保有量の上限値は各国対等ではなく、日本は米英に比べて劣勢な戦力の保有しか認められなかった。これを、軍縮とはきれいごとで、実のところは、日本の海軍力を押さえつける米英の謀略であったと見る傾向が、わが国では強い。
あるいは日本が条約そのものから脱退するように仕向け、日本だけを悪者にする腹だった、という意見もある。国際政治では当たり前のこの手の駆け引きを「謀略」と翻訳するあたりが日本人の美点であり、また子供なところだろう。
米英にも言い分はある。米国は太平洋と大西洋の両大洋を守らねばならず、英国は世界中に散らばっている植民地の保護のためには、それだけの海軍艦艇が必要である。それに比べて、守るべき海域がはるかに狭小な日本海軍に、どうして米英と対等の戦力が必要なのか、という主張であった。
理が通っている。それでもなお日本が対等の軍備を欲するならば、それは、どの国を相手と考えての戦備なのか、ということになるであろう。
岡田は、米英との競争よりは平和的妥協のほうが国防上むしろ有益であると考えた。軍縮は相手の軍備にも制限を加えることになるというのが、その理由である。
当時の首相は濱口雄幸で、この人は官僚出身であった。
彼は米国と対等の軍備を持つことの無謀さを主張し、国庫を圧迫していた莫大な建艦予算を削減すれば、このころ絶望的な貧困に苦しんでいた東北地方の救済政策に充てられるとして、軍縮条約締結に動いた。
岡田はこの濱口内閣に協力して海軍関係者間の調整に奔走し、軍縮の実現に貢献した。条約批准は昭和五年十月。広瀬神社建立発起の、ちょうど一年前である。
ところが、この軍縮条約をめぐって海軍は、少なくともその上層部はふたつに割れた。
明らかに米英に有利な条約を不満として、独自の軍備を主張する一派を「艦隊派」と呼び、条約もやむなしとする人々を「条約派」と呼ぶ。この時以降、両者の対立は海軍部内に様々な軋轢を生むことになる。
ただし、艦隊派がすなわち軍拡派ということではない。この点は誤解したくない。
彼らは米英と対等の軍備が必要だと主張したのではなかった。彼らもまた、軍縮そのものについてはやむを得ずと認めているのである。
細かいことを書くようだが、次のことに注意したい。
ロンドン条約に関して、日本海軍がもっとも問題としたのは一等巡洋艦の保有量である。
日本に認められたのは米海軍のおよそ六割だった。これに対して艦隊派の人々は、国防上、対米七割が絶対に必要であると主張した。
六か七かで争ったことは、いささかケチ臭い意地の張り合いのように思えるかもしれない。しかし戦争の勝敗を決定するのは行き着くところ数字である。対米七割は、日本海軍が長年の研究の結果はじき出した数値であって、市場で大根を値切っているのとは訳が違う。
艦隊派の人々を弁護するわけではないが、彼らとて対米七割の劣勢に甘んじることを認めているのである。そして、その軍備は戦争を避けるための抑止力として必要なのだという海軍の良識から逸脱してはいなかった。この点は明記しておきたい。
いずれにせよ、どちらが是か非かはこのさい問題ではない。
なにより深刻な一点は、艦隊派の上級士官が、条約を不満として野党の倒閣運動に協力するなどの、政治への容喙を始めてしまったということである。
上が一を論ずれば、下は十を叫ぶ。そして共鳴が起こす振動は末端に行くほど大きくなる。
昭和七年五月十五日、海軍将校を中心とした者たちによる暗殺テロが発生した。標的とされたのは、護憲主義者として知られていた内閣総理大臣 犬養毅であった。
首謀者の一人である現役の海軍中尉は、実際に犬養に対して銃の引鉄を引いているが、彼は海軍法廷で禁錮十五年の判決を受け、五年間の服役後、仮釈放で出所した。
一国の首相を暗殺した者に対する刑罰として、この量刑と仮釈放という措置が妥当かどうか現在の常識では計れないが、当時の世相をよく反映していると言えるだろう。
海軍法廷の裁判長、正確には判士長は高須四郎海軍大佐であった。高須は後年、三国同盟や対米戦争に反対の立場をとったリベラル派の士官だったが、この時の判決については「現役の士官を死刑にすることで、海軍部内の対立が更に深まることを恐れた」と、家族に漏らしたと伝えられている。これも、当時の海軍の内情を推察するに十分なエピソードである。
この大事件の収拾を担当したのが、犬養の後を受けて首相となった斎藤実である。彼は海軍大臣に岡田を起用したが、それは何よりも海軍部内の統制を期待してのことであったろう。
しかし斎藤内閣もやがて倒閣運動に遭い総辞職に追い込まれる。このあとを引き継いだのが岡田である。
岡田の首相在任中に、ロンドン軍縮条約は満期を迎える。条約加盟国は、期間延長を前提に第二次ロンドン会議を開催することが決まっていた。
岡田はその予備交渉に、海軍少将山本五十六を派遣して折衝にあたらせた。山本も、のちに対米戦争に反対の立場をとった人物で、この当時はまだ少壮の彼を、岡田はかなり高く買っていたようである。
このように、海軍の穏健派はもとより、首相自身が軍縮の継続を望んでいたにもかかわらず海軍部内の大勢はすでに軍縮条約破棄の方向へ向いていた。折しも山本の渡英中に、海軍では条約派の将官が多数リストラされるという人事が強行された。先に書いた、大分県杵築中学の堀悌吉もそのひとりである。堀と山本は海兵同期。親友であった。
海軍の中枢は艦隊派で占められた。あとは時の勢いであった。日本はふたつの軍縮条約から相次いで脱退を表明した。廣瀬神社が落成してからおよそ八か月後のことであった。
昭和十一年二月二六日、岡田は首相官邸で陸軍反乱将校の襲撃を受けたが、この時は危うく難を逃れ、その後は無役の重臣として大東亜戦争の期間を生きた。対米戦には一貫して反対の立場をとり、開戦後は東條内閣の退陣を工作、これをサイパン島失陥後に実現させ、終戦への道を拓いたと伝えられている。
歴史の話が長くなった。話を廣瀬神社に戻す。
時間だけをたどってみると、この神社の建立発起から落成までの年月は、日本が戦争へ至る坂道を駆け上っていた時期と一致する。神社創建に意欲を燃やした人々の中には、この神社が国民の戦意高揚に資することを期待した者も少なくはないだろう。
内閣総理大臣である岡田のもとにも、賛同を求める声が届く。彼は筆をとり、やや薄い墨を用いて丁寧にその名を記した。
このとき岡田は何を思っていたのだろう。
廣瀬神社の建立が発起されたのは、軍縮条約をめぐるきしみの音が、海軍部内に響きわたり始めたころであった。そのきしみは、ついには大堤を決壊させることになるのだが、その堤の上に立って、何とかこれを食い止めようと苦闘していたのが岡田なのである。
岡田の事績を見れば、彼がこの神社と、そこに祀られる広瀬に、いわゆる軍国主義や国民の戦意高揚といった種の啓蒙を期待していたとは考えられない。
岡田がそれについて語ったわけではない。彼はサイレント・ネイビーの典型であった。
静かなる海軍は、平時においては沈黙の抑止力として実存し、国家の危機に際しては粛々と自己犠牲の死地に赴くことが、その存在意義であり、また海軍士官の真骨頂であった。仮にも政治に容喙し、ましてや実力行使に出るなどはもってのほかであった。そのはずであった。
岡田は、広瀬武夫は海軍のそうした精神の象徴であれと願い、その精神を受け次ぐ者たちのいのりの対象であれと念じたに違いない。
若い日の広瀬と岡田は、日本海軍が彼らと同じくまだ若かった時代に、海軍士官のあり方を共に学んだ、海軍兵学校の同期生であった。
現在の廣瀬神社を歩いてみると、広瀬ゆかりの文物に混じって、終戦時の陸軍大臣であった阿南惟幾の顕彰碑などを見ることができるが、生涯清貧に甘んじ、最後まで海軍の良識を貫くために苦闘した岡田の想いを今に伝えるものは、形のあるものの中には残っていない。
岡田はそれを是とするだろう。それがサイレント・ネイビーなのだから。
文太郎は結局アラを食い損ねた。
二軒ほど旅館にあたってみたのだが、そこの女将たちが腹から申し訳なさそうに言うには、もともと大分や臼杵のほうから荷馬車で運んでくるしかない数の限られた魚である上に、この数日は戦勝祝いの集まりが重なるとかで、とても賄って上げられぬ、ということだった。
「なんのい、ほいたらまた今度頼みますわ」
別に大好物というわけでもなく、文太郎はそれほど残念だとも思わずにそう言ったのだが、その女将があまり気の毒がってくれるので、彼は手持ちのイリコを、なにがしかの山のものと交換して欲しいと頼んでみた。
そうすると彼女は逆に大喜びで、ドンコやら、川魚の内臓の塩辛やら、トチの実の餅やらを分けてくれたので、文太郎は却ってありがたい事だと礼を言ってそこを辞した。
こうして竹田での三日間の行商を終え、文太郎は帰路についた。帰りも徒歩である。途中、野津市村の木賃に一泊し、十月十八日に中の谷峠を越えた。
文太郎は峠の尾根に立って、すでに遠くかすんで見える竹田のほうに向かい、手を合わせた。
商売がうまくいったことや道中息災であったこと、それらを竹田の町と人々に感謝する、彼のいつもの習慣だった。
父親の太十郎ではなく、行商の先輩である守後浦の「福ジイ」というひとに倣った心がけで、彼はこの習慣を、戦後に行商を終えるまで続け、子供たちがやがてそれぞれの仕事に就くと、彼らにもまた、その心構えを伝えた。
峠の道は、当時でも普段ほとんど人の通らぬ山中の険路であった、だから実際には、尾根に立ち、手を合わせている文太郎の姿を見たものはどこにもいない。