恵美子は海のほうを見た。そこはさっき彼女が閉めた雨戸で閉ざされていて、戸板に開いた木のフシの穴から漏れる光が星のように見えた。
静かだった。対空機銃の音もやんでいた。 空襲は終わった。
この空襲中に守後浦に落ちた爆弾は、文太郎の蜜柑畑からずっと奥に進んだあたりの山肌をえぐっていた。人家への被害はなく、これがこの戦争を通して島で唯一の被爆例となった。
また山上にあった対空機銃陣地がどうなったか、それを記録している史料はなく、山本家の人々の中にも、記憶している者はいないということである。
亮はそれから三日間ほど寝込み、往診した医師にも一度は完全にさじを投げられたが、その生命の火はついに保たれた。
ようやく蒲団の上に起き上がれるようになったころは、頬などはげっそりとやつれていたが食欲はかなり回復していたので、恵美子は毎食ごとに、亮のために米だけの粥を炊いた。徳は、それを美味そうにすする息子を見ておいおい泣いて喜んだ。
亮はそれから数日で普通に生活できるようになったが、不思議なことに下痢だけはそれから一週間ほども続き、どうにも落ち着かなかった。
徳は、めしが良すぎて腹がタマがっちょる《おどろいている》んじゃろうかと、案外真剣にそう考え込んだが、おそらくよほど強力な菌が住み着いていたのだろう。
しかしこれが完全に復調すると、今度は何を食っても下さなくなった。成人したのち、亮は仕事の関係で東南アジアの密林や中国の奥地に何度も滞在し、そこで現地住民とまったく同じ食生活を送ることになるのだが、「虫やトカゲも、味はともかく腹のほうは一向平気だった」と語っている。
桂佑の回復は早く、空襲の翌日にはもう起き出していた。
現在なら、それから一定期間は抗生剤を服用するのだろうが、そんな薬はもらえなかった。
徳は薬の代わりだと言って、彼女が漬けた思いきり酸っぱい梅干を、毎日たっぷりと息子に食べさせた。そのおかげかどうかは判らないが、桂佑はまもなく回復し、その副作用として、彼はそれ以来梅干を好まなくなった。
恵美子にはひとつだけ気になることがあった。
彼女と弟たちが機銃掃射の下で死を覚悟していたころ、おそらく壕を飛び出して息子たちを迎えに行こうとしたに違いない母を、父はどうやって宥めたのだろう。そして諭された母は、どんな想いで母屋のほうを見ていたのだろう。
尋ねるわけにもいかなかった。
恵美子は、桂佑や亮や自分が、父母に見捨てられたなどとは露ほども思っていない。それは弟たちも同じだ。だが、母にはきっとそういう自責があるに違いない。母にそれを尋ねるのはむごいことだと思えた。
結局のところ、恵美子はそれを胸に仕舞いこんだ。ただ桂佑には、あの時の文太郎の判断が決して無慈悲な心から出たものではないということを言って聞かせた。父に対してひがんだり恨んだりする筋合いのものではないということも、その中に含まれていた。
そのとき桂佑は、はじめのうち姉が何を言っているのか解らないようであったが、やがて
「あたりまえじゃ」と呆れたように言い、そんなことを気にしちょったんか、と笑った。
この家の、父と子の旅は、こうしてまたひとつ泣かぬ谷を越えた。
亮のめに麦飯が戻ってきたころ、一〇二号が帰ってきて再び竹島の脇に錨をおろした。
出口たちは高知の宿毛湾を泊地として、豊後水道の、米軍にとっては入り口となるあたりに機雷を敷設する作戦に従事していた。機雷敷設は第七十七号海防艦が担当し、一〇二号はその護衛にあたっていたらしい。
それにしても少し日数がかかったようである。あるいは守後浦の赤痢騒動が落ち着くまで、帰投を見合わせるよう清田の司令部から命令が出ていたのかもしれない。
一〇二号が帰ってきた日は木曜日だった。その日は出口が文太郎の家に泊まった。
出口は夕食を終えると、少しあらたまって徳にものを頼んだ。
「お母さん、あさっての土曜日は昼食のあとに上陸許可が出ます。若い連中にめしを食わせてもらいたいんですが、三人ほど連れて来てもいいでしょうか」
徳はにこにこして、どうぞどうぞと頷いたが、恵美子は首をかしげた。
「出口さん」
「なに」
このころには、出口は恵美子に、「何でしょう」とは言わなくなっている。
「上陸なさるのは昼ごはんのあとですか」
「そうだよ」
「じゃあ、ご用意するのは晩ごはんでいいの」
「ああ、そうか」
出口は笑い出した。
そうではないんです、と言った。彼らは昼食後に上陸するが、夕食前に帰艦しなければならない。その合間に、もう一食よけいに食べさせてやりたいのだと言った。
「つまり、ふねのめしだけじゃ足りないんですよ」
それはおそらく事実だろう。
乗組員の食事はちゃんと賄われていたが、それは必要十分な量というだけのことであって、はたち前後の食べ盛りが、食いたいだけ食えるというにはほど遠かった。加えて下級の水兵の場合は、食事の時間も十分間ほどに制限されており、ゆっくり食事を楽しむどころではない。第一彼らが上陸して下宿でめしを食えるのは、週に一度きりだった。
出口はそれらのことを話し、最後に、実は彼らにねだられたのだと言った。
「ぼくが、お母さんと恵美ちゃんの料理がおいしいって、あんまり言うもんだから」
これで徳はいちころである。彼女は出口と伊藤のふたりを我が子のように愛しんでいたが、その息子が自分の粗末な料理を自慢にしてくれている。張り切らないわけがなかった。
もっとも、徳の料理の評判を高めているのは、必ずしも料理の味や材料の良し悪しだけではなかったし、ふねの食事では量が足りないというのも出口の方便だった。
彼らは誰もが故郷に母を持っていた。そして、その人と、二度と会えぬかもしれないことを予感していた。皆が、料理の味ではない、おふくろの味というものに飢えていた。
出口は、それを言えば徳が必ず泣き出すと思った。だから言わなかった。
出口は大勢のめしを賄ってもらうのだからと、月の下宿料とは別になにがしかの金を包んで徳に押し付けた。徳ははじめ受け取り渋ったが、それは息子が家に入れる金のような気もしてうれしくもあり、結局受け取った。ここのところ、桂佑と亮には米だけの粥を食べ続けさせたこともあって米の蓄えが心もとない。その金でヤミの米が買えれば何とかなる。
金を受け取った以上、徳はそのことを文太郎に報告せねばならない。
徳はしみじみとうれしそうに、ことの次第を夫に話して聴かせ、さらに魚の手配を頼んだ。文太郎は包みを開けてみた。大金というほどではないが、まとまった金であった。
(いよいよか)
彼はそれで出口の覚悟を察した。さすがに少しのあいだ言葉が出なかった。じっとその金を見つめている夫を見て、徳は少しだけ不安になった。
「貰うたら、いけんじゃったろうか」
「そんなことはねえ」
文太郎は金を包み直し、額に押し頂くと徳に返した。それから、魚は明日にも融通をつけてやるから、いくらでもご馳走してやりゃあエエと言いつけた。
文太郎は、佐伯防備隊の隊門に掲げられていた看板に特攻の二文字があったことを、家族の誰にも語っていない。
その土曜日を迎えると、文太郎は朝から桂佑と亮を指図して、台所から納屋から、とにかく家中の空いた樽や木桶を庭に持ち出させた。味噌を仕込む樽もあれば、野良仕事に持っていく桶もあった。それが終わると、今度はすべての樽や桶に水を満たしておくように言いつけた。
桂佑はその意味をほぼ察して「お父ゥ、行水でもしてもらうんか」と聞いた。
「ほうじゃ。じゃから、風呂場にも水を汲んじょけよ」
「ほいたら、タライもいるのう」
桂佑がなすべきことを呑みこんだので、文太郎はあとを任せて台所に入った。そこでは徳と恵美子が、すでに蒲鉾の蒸かしにかかっていた。香代子が孝太郎を見ていた。
「お父さん、イッサキは刺身にする?」
恵美子が聞いた。この家ではイサキのことをこう呼ぶ。
「生ものはイケンじゃろう。焼いてやったらエエ」
ざるの中に、頼んでおいた漁師から今朝届いたばかりの魚がまだ生きていた。真夏でもあり冷蔵庫もないので、鮮魚はその日獲れたものでなければならなかった。
「ちょうどエエわ。出口さんから貰うた塩があるし、これで塩焼きにしようか」
それから恵美子は、出口が製塩作業で作ったという塩を壺ごと持ってきて文太郎に見せた。
「お父さんも嘗《な》めてみ、良う出来ちょるんよ」
それはうすく茶色がかった粗塩だった。コクのある良い味に仕上がっていた。
「な、美味しいじゃろ。出口さんに言うたことよ。これで商売できますよって」
恵美子は出口出口と言う。言うたびに声が弾んでいる。文太郎は特に粋人ではなかったが、娘がそのひとに対して抱いている感情を察するにはそれで十分だった。
しかし、娘が好いたその若者はすでに戦死を覚悟している。文太郎は娘を哀れにも思ったがこればかりはどうしようもない。
「お母ァ、石鹸を切れ。二個いるぞ」
文太郎はそこに来た本来の目的に立ち戻ることにして、徳からそれを受け取ると表に戻って行った。
出口は三人の客を連れてやってきた。出口の部下もいたし、同格の下士官もいた。恵美子の記憶では彼らの名を、松本、西田、そして竹下といった。
いつも家族が使っている飯台が、この日はすでに座敷に据えられていた。いつも出口たちが使っている高足膳では、さつま汁の大鉢や煮しめの大皿を載せきれないからだ。
しかしそこにはまだ料理は並んでいない。その代わり、蒸かした里芋を盛った大皿がどんと置いてある。その里芋は、ひとつが女性の握りこぶしほどもあった。
徳が番茶を入れながらそれをすすめる。
「ごはんはもう少しあとがエエじゃろうと思ってな。まずお茶でも飲んでくださいな」
どうやらその里芋は茶菓子として出されたものらしかった。食の細い者であれば、ひとつで腹八分は満たすだろうというほどの大きさだが、これが食前の茶菓子なのである。
山本家に限らずこの島のもてなしの流儀はなべてこうだった。食べ物ならばとにかく豪快にたっぷりと用意する。それは今でも変わらない。
出口たちはふねで昼食をすませたばかりだったが、さすがに食べ盛りであった。この里芋をたちまち平らげて徳を喜ばせた。
「お母さん、あのタライだの桶だのは何です」
里芋を食べながら出口が尋ねた。彼らは玄関先の庭を通ったときに、水をたっぷりたたえたタライや樽が並んでいるのを見てまさかとは思ったが、それがやはり行水の用意だと知ると、喜ぶというよりは感動して、顔を見合わせてしまった。
ふねの中で真水が貴重品であることは前章に書いた。彼らは毎日バケツ一杯分ほどの水しか使えない。守後浦に停泊中だから航海中よりは多めに使えるが、それでもその程度である。
季節は真夏。艦内に空調はなく停泊中は風通しも悪い。しかも彼らの居住区は鉄で囲われているから太陽の熱をたっぷり艦内に取り込んでしまう。だから彼らは一日中汗まみれである。その辛さはふねに乗った者にしかわからない。
そう言って感謝されると、徳もうれしい。
「この島の衆は、みんな船乗りみたいなもんじゃけなあ」
お風呂がご馳走ちゅうことは良う知っちょるんよと、のんびりと言った。
そうこうしているうちに文太郎が顔を出して、汗を流しなさいと勧めた。風呂の用意もしているが、熱くしたほうがいいかの、とも聞いた。
「いやお父さん、これだけ暑いんですから水のほうがいいです」
「水風呂にはいって、出ても体を拭かないでいると涼しくて気持ちがいいんです」
彼らは口ぐちにそう言って庭に下りると、そこで服を脱ぎ始めた。
さすがに出口は部屋のほうをもう一度見て、そこに恵美子がいないことを確かめた。なにせ下帯、つまりふんどし一丁になるのである。
裸になった四人は手近な木桶を使って水をかぶった。頭からかぶり、片手で顔をこすった。笑い声の混じった歓声が揚がる。水を浴びるというだけのことが、たまらなく爽快なのだ。
彼らはそうやってはしゃいでいたので、文太郎が恵美子を呼んだのに気づかなかった。
恵美子は土間口から出てくると、目の前ではしゃいでいる下帯一丁の男どもを見て、思わず立ちすくんだ。逃げ出しもできず、目を下にそらして立ちすくんでいる。
出口たちは出口たちでさすがに慌てたが、文太郎はこともなげに、みなさんの背中を流してやりなさいと娘にいいつけた。四人はさらに仰天した。
恵美子もさすが返事に窮した。嫁入り前のはたちなのである。
島の娘であるから男どもの裸は見慣れているし、下帯さえつけていれば、それは裸のうちに入らない。とは言うものの、それは彼女が子供の時から知っている近所の衆に限っての話だ。恵美子はようやく小さくはいと答えたが、答えただけでそこを動けずにいた。
すると彼女のうしろから、徳が手ぬぐいをたすきにかけながら出てきて、娘にヘチマの実を洗って乾かしたものを押し付けた。これがスポンジの代わりである。
ヘチマに石鹸をこすりつけながら、徳がにこにこして言う。
「ほれ、ふたりづつ洗うてあげますけ、そこの板子《ばんこ》にこしかけんさい」
帝国海軍の下士官もこうなっては桂佑や亮と変わらない。彼女にとっては、ちょっとばかり大きな息子たちに過ぎなかった。
出口がまず、
「ではお願いします」
と大きな声で言って、そこにあった粗末な腰掛に、彼女たちに背を向けて腰を下ろした。
みんな本当はうれしいのだ。ここは遠慮すべきではないと自分が示すしかない。出口はそう考え、ことさら胸を張るように両のこぶしを膝の上に置いた。
間を置かず、連れの三人の中で最上級の竹下が
「よし、じゃあ俺はお母さんにお願いします」
そう言いながら出口の横に腰掛けた。
(この野郎、お母さんを指名とは図々しい奴だ)
(ふん、これが戦友甲斐ってもんだ。貴様は遠慮なく恵美子さんに流してもらえ)
ずっと生死を供にしてきた仲である。ふたりの間では、そのくらいのことは口に出さずとも通じた。どうやら彼らの間でも、出口が下宿先の娘に憎からぬ思いでいることは、なんとなく伝わっていたらしい。
恵美子は出口の背にヘチマをあてた。腹が据わればもともと面倒見のいい娘である。
「ほいたら出口さん、ちいと痛いかもしれんよ」
彼女がついえいやと込めてしまった力を跳ね返すように、陽に焼けた背中の筋肉が張った。
出口がうめくと皆が笑った。その場に集った若者たちにとって、それはそのとき許された、最大の、青春の笑顔だった。
彼らは汗を流したあと、軍袴だけをつけた半裸のままで座敷に上がり、徳と恵美子の給仕で二度目の昼めしをご馳走になった。誰もが何度も飯を替え、メバルの味噌汁を美味いうまいと言いながらすすった。
「このカマボコはな」
と、出口が我がことのように自慢する。
「お母さんと恵美子さんが作ったんだ」
彼らの中には、店で売っている蒲鉾しか食べたことがない者もいて、その、たっぷりとした弾力のある旨味を絶賛したが、皆がみな、美味いと言うたびに、徳や恵美子をじっと見つめるのである。徳はただ目を細めてそれを受け止めたが、恵美子にはそれがどうにも照れくさくて困った。
この時彼らはみな陽気だった。たらふくめしを食ったあと、井戸で冷やした西瓜を味わい、畳の上で大の字になって昼寝をして、夕方ふねに帰るまでのあいだ、ずっとはしゃいでいた。
その日は出口が入湯上陸の日だったので、彼だけは点呼のあともう一度帰宿した。
彼はまず文太郎のもとに来て、昼間の心尽くしに礼を言った。それから徳と恵美子がそばにいないことを確かめると、
「これでもう、思い残すことはありません」
そう言った。文太郎はただ膝を正して、最敬礼するしかなかった。
それは八月のはじめのことだった。彼らは終戦の近いことを知らなかった。
長かった戦争が終わる。
日本政府はポツダム宣言を受諾し、八月十五日をもって戦争行為を停止することになった。言い回しが少しまわりくどい。その理由を書く。
これを無条件降伏と呼ぶ歴史認識が我が国にはあり、実際のところ、このあとなし崩しに、日本は無条件降伏同然の立場に追い込まれてはいくのだが、ポツダム宣言が要求していたのは日本軍の無条件降伏であり、国家としてのそれではなかった。
別の書き方をするなら、日本軍の無条件降伏が、日本の降伏の条件だと明記されている。
さらに同宣言は次の内容を条件だと明言して掲げている。意訳する。
「日本に、日本国民の意思による民主政府が誕生したら、占領軍は撤収する」
どう読んでもポツダム宣言は条件つきの降伏勧告である。しかも条件はこのふたつだけではない。この事実にもかかわらず、誰がいい始めたのかは知らないが、先に書いた、あまりにも変な誤解がまかり通っているので一応書いておく。
なにしろ戦争は終わった。文太郎とその一家は、奇跡的と言っていいほどの幸運に恵まれたままで終戦を迎えた。
この物語に登場した多くの人びとも、その日からそれぞれの戦後を歩き始めることになる。
だが、この物語では、彼らの八月十五日をひとりびとりについて細かく語ることはしない。ただひとつだけ、その時佐伯で起こったある出来事について語り、それに代えたいと思う。
以下は筆者が見たままの事実ではなく、この物語がこれまでそうしてきたように、遺された史料を補完するための創作を加えた、終戦の日から数日間の佐伯の物語である。
第八特攻戦隊の清田は、八月十七日の夜、奇妙な報告を受けた。
佐伯基地に配備されていた特殊潜航艇の一隻が、行方不明だというのである。
「蛟龍か。海龍ではないんだね」
「はい、十特戦です」
第十特攻戦隊のことである。特攻艇「震洋」と、特殊潜航艇「蛟龍」で編成され、六月から第八特攻戦隊と同居する形で佐伯に司令部をおいていた。司令官は大和田昇少将である。
蛟龍は五人乗りで、特殊潜航艇としては最大である。ディーゼルエンジンと電気モーターを併用し、およそ二千キロメートルの航海が可能だった。
清田が気にしたのはこの点である。
彼が指揮する第八特攻戦隊の海龍は、蛟龍の半分ほどの航続力しか有していない。佐伯から出撃すればせいぜい屋久島あたりで進出限界に達する。ところが蛟龍なら、沖縄まで到達することが、少なくとも性能表の上では可能なのである。
行方不明になった蛟龍は第二一四号という番号名で呼ばれていた。
二一四号の艇長は畠中和夫大尉である。
清田が懸念したとおり、畠中は部下とともに二一四号ただ一隻で出撃し、沖縄沖に遊弋する米艦隊へ対して日本海軍最後の戦いを挑むつもりだった。
畠中は井尻や樋口と同じ海兵七十二期だが、同期の彼らよりもひとつふたつ年下で、この時まだ二十一歳だった。なにしろ勉強のできる子供だったらしい。このために小学校と中学校の両方で繰り上げ卒業が認められたというのが若年の理由である。
高知の土佐中学出身で、同期生の回想によれば「なによりも怯懦を憎む、まさに古武士」のような性格だったという。
土佐には異骨相《いごっそう》という男子への褒め言葉があるが、彼もそういう若者だったらしい。郷土の偉人坂本龍馬を愛し、しばしば龍馬を題にした漢詩を作って吟じていたということである。
畠中が海軍兵学校に入学しておよそ一年後に対米戦争が始まるが、その幕を切って落とした真珠湾攻撃において、彼の、その後の運命を決定する新兵器が使用された。
甲標的である。
この兵器らしからぬ名前はその正体を秘匿するためにつけられたもので、実体を表現してはいない。その正体は小型潜航艇だった。これがのちに蛟龍に発展することになる。
甲標的は敵の港湾深くに隠密侵入し、あるいは敵艦隊が進撃してくる海域に潜航待機して、目標の至近から魚雷による奇襲攻撃をかけるのが任務だった。
ところがこれは敵の内懐に飛び込む戦法である。発見されて敵の反撃を受ける確率も高く、小型で脆弱な艇体では、小型艦砲の弾一発で致命的な損害を蒙ることもある。生還の可能性は極めて低いと言えた。
第七章で書いたとおり、このころの日本海軍は体当たりによる特攻戦法を容認していない。従って甲標的による攻撃作戦も、あくまでも生還を期すことを前提に計画され実施されたが、結果として真珠湾では参加した全艇が未帰還となっている。
この甲標的による、極めて地味でしかも決死の戦法が、異骨相の心を捉えてしまった。
畠中は在学中から甲標的の搭乗員となることを志していたらしい。彼は任官後、潜水学校を経て、まっすぐにその道を進むことになる。
秀才中の秀才で、歳に似合わぬ古武士のような落ち着きを備えていた十九歳の若者が、何を望んで、ごく近い将来に死を迎えることが確約される道に進んだのだろう。
畠中が兵学校を卒業した昭和十八年の秋は、神風特別攻撃隊が生まれる一年以上前である。戦局は確かに有利に進展してはいなかったが、だからといって絶望視する段階でもなかった。 戦争である以上、死は間違いなく彼らの近くにはあったが、必ずしも絶対の約束ではなかったはずである。
にもかかわらず、畠中は戦死への最短距離ともいえる道をあえて選んだ。
あるいはその卓抜した才をもって、彼は祖国の敗勢を予見していたのだろうか。
そこまではなくとも、この戦争の勝敗を左右する決戦が遠からず生起することは疑いなく、彼はそのときこそ全海軍に先んじて決死の作戦に身を捧げ、日本を勝利に導くための捨て石になろうと考えたのかもしれない。
幕末の土佐藩では、龍馬だけでなくあまりにも多くの志士が風雲に倒れている。ほとんどが貧しい郷士の出で、無名のまま戦い、無名のまま死んだ。あるいは畠中の心には、彼らの死がひとつの道標として灯をともしていたのかもしれない。
やがて佐伯に着任した畠中は第十特攻戦隊の蛟龍隊の一部を預かり、その隊長として訓練にあたりながら、出撃の日を待つことになった。
畠中の出撃について語るには、まず八月十五日以降の日本軍、特に佐伯基地の状況について説明しておく必要があるだろう。戦争が終わったのちに、なぜ出撃が可能だったのか。
戦後生まれの我々の感覚としては、八月十五日正午に行われた、天皇のいわゆる玉音放送によって全国民に終戦が宣言され、それでこの戦争は終わったことになっている。
ところが国内外に展開していた実戦部隊にとっては寝耳に水の話だったのである。いきなり「万世ノタメニ泰平ヲ開カント欲ス」と言われても、何をどうしていいのか分からない。
天皇はこの放送の中で、「陸海軍はすべての戦闘行為を停止せよ」とは言っていない。
憲法の下では、天皇は陸海軍の最高統帥者であり、それを直接命令できる立場にあったが、陸相と海相は軍の統率を政府に確約し、停戦はそれぞれの指揮系統を通じて達せられることになっていた。
停戦の指示がいつ清田に届いたのかは分からないが、遅くとも十五日の朝と考えて間違いはないだろう。彼は正午の放送の直後、指揮下の佐伯基地にさしあたっての命令を出さなければならなかった。
兵士たちは、まだ終戦の詔勅を完全には認識していない。生まれて初めて聴いた天皇の声はラジオの雑音で聴き取りにくく、また、その文言が難解であった。中には、あれは天皇の叱咤激励であると解釈する者さえいた。
清田は彼の幕僚や、防備隊および航空隊の幹部を集めて今後の方針を示した。
「航空隊の哨戒飛行は中止して陸上整備とするが、訓練その他は予定通り行う」
少し意外な表情で応えた彼らに、清田は厳しく堅い表情のまま続ける。
「行き足がついているからね」
急な転舵はふねを大きく傾け、動揺させ、きしみを生じさせることを、海軍士官なら誰でも知っている。皆が清田の言う意味を理解した。
次席参謀の竹馬少佐が尋ねた。
「しかし訓練中、もし敵機なりに遭遇したらどうすればいいんでしょう」
清田は、その心配はないだろうと答えてから、さらに難しい顔でつぶやいた。
「白旗を揚げさせるわけにもいかんしな」
竹馬は小さな衝撃を受けた。彼は白旗というものの存在さえ忘れていたのだ。戦闘で負けを認めた側が降伏の意思を表明する時に掲げる、無地の白い旗である。
(白旗の揚げ方だけは教わらなかったからなあ)
日本海軍は、そういう海軍なのだ。竹馬はふとそんなことを思った。
清田は結局すべてを今まで通りにさせた。実弾を携行すべき者にはそのようにさせ、敵から攻撃を受けた、もしくは受けると判断した場合には反撃することを許した。
念のために書いておくがこの措置は違法ではない。この段階で停戦協定は締結されておらず日本と連合国はまだ交戦状態にあった。国際法上の戦争はまだ終わっていない。
その日の朝刊が届いたのは、すでに夕刻に近かった。
朝刊には正午にラジオで伝えられる予定の天皇の詔勅と、同じく内閣総理大臣の内閣告論が掲載されていた。まさか天皇の放送前に内容を報道するわけにも行かず、配達は放送終了後になるよう、政府から厳重な指示が出ていたのである。
隊員たちは届いたばかりの新聞を囲み、雑音でよく聴き取れなかった天皇の言葉を、誰かが朗読する声にあらためて聞き入った。
これで詔勅が終戦を宣言していることを誰もが理解したが、案の定、特に若手士官の間ではそれを巡って議論が沸騰した。和平派の謀略だと主張する者もいたし、もし日本が降伏しても自分は出撃する、などと息巻く者もいた。
その日の午後、海上では、蛟龍や震洋が日頃に増して激しい襲撃訓練を行っていた。
指揮にあたった者の感情が、終戦を否定しようとして昂ぶっていたのかもしれないし、特攻隊員たちのやり場のない想いが、そこにぶつけられていたせいかもしれなかった。今ではただ終戦の日とだけ呼ばれている十五日の午後は、そういう熱気を保ったままで過ぎていった。
熱しきった彼らの頭を冷やすために必要だったのは時間だった。清田はその翌日も同様に、それまでと変わらぬ日常を演出した。訓練が行われ、図上演習が実施された。
そんな中で畠中は特に議論にも加わらず黙々と任務についていたが、十七日の夕刻になって突然二一四号の部下たちを集め、夜間訓練のための出港準備を命令した。
なにしろ訓練は毎日おこなわれていたのだから、燃料や食料の補給には何の支障もなかったはずである。四名の部下は今さらの夜間訓練にまったく疑問を抱かないわけではなかったが、彼らはもしやという自己の思いにあえて回答を求めようとせず、畠中の指示通り燃料を満たしその航続距離に見合うだけの食料と水を積み込んだ。
やがて二一四号は佐伯湾を出港していった。
午後七時だった。それはまさに日没の時刻だった。
のちに発見された畠中の遺書には
「微力な自分である。沈みゆく太陽をもとに戻すことなど、どうしてできようか」
漢語体で書かれた、そういう意味の一節が残されている。
佐伯基地はざわめいた。
畠中の特攻出撃にはむしろ賞賛を贈りたい気持ちの者も多かったが、上級司令部としては、無断出撃は重大な抗命罪であり脱走罪にもあたる。これを黙認すれば、その後の部隊の統制に支障が出るのは明らかだった。
畠中は大和田少将指揮下の第十特攻戦隊所属だったが、佐伯基地の先任将官は清田である。航空隊もまた清田の指揮下にあった。清田は哨戒機を飛ばし海上にも捜索隊を出動させたが、海空どちらの部隊も二一四号を発見できなかった。
十八日は無為に過ぎた。ところがその翌日十九日、二一四号が自発的に帰投したことによって、事件はあっけなく解決する。
畠中はすでに冷たいむくろになっていた。拳銃による自決であった。
陸海軍を問わず、十五日以降、日本の多くの基地で自殺者が続出していた。
天皇に対して責任をとる、という者もいれば、それまで死なせた部下に詫びる、という者も少なくなかった。おそらく畠中大尉も何らかの事情で目的を達成できないと悟った時、覚悟の自決を選んだのだろうと清田には思われた。
不憫だった。不憫ではあったが畠中と生還した四名は、この段階では軍令違反の少なくとも容疑者である。清田には彼らを拘束する責任があった。彼は三人の幕僚にそれを指示した。
「出撃から帰投に至る経緯を詳細に調べてほしい」
命令を受けたほうは少し戸惑った。
「二一四号は十特戦の所属ですが、我々が直接取調べを行うのですか」
そうだ、と清田は頷いた。
「この件は基地の先任将官として私が預かる。憲兵隊への連絡も無用だ」
清田は取調室に割り当てられていた一室で四名の生存者と対面した。
彼が部屋の前まで来ると、衛兵の「起きろ」という声がした。四人は疲労に耐えかね、床に昏倒してしまっていたらしい。深読みすれば、衛兵は清田らが来るまでそれを黙認していたということになる。あるいは彼らに同情の念を抱いていたのかもしれない。
四人は立ち上がって不動の姿勢をとり、入ってきた清田に挙手の礼を送った。それは正しく作法にかなっていたが、誰の顔も憔悴しきっているように見えた。
ところが
「この者たちか」
清田がそう言うと四人は等しく意外そうに眸を泳がせ、徐々にその表情を堅くしていった。それは憔悴しきっていたはずの彼らに、急に生気を、あるいは活力を与えたようにも見えた。そのことが清田には少し気になったが、彼は幕僚たちに促されるまま、その場を彼らに任せ、部屋をあとにした。
しばらくして首席参謀の朝廣中佐が清田を司令官室に訪ねた。
「どうも、困ったことになりました」
「どうしたね」
「彼らが出撃したのは、まったく自決した畠中大尉に従ってのことだったようです」
「うん。で、困るとは」
「その畠中が自決直前に言ったことらしいのですが」
「うん」
「この特攻は司令官の命令であると」
「私の」
「いえ、畠中が司令官と呼ぶからには、十特戦の、大和田閣下のことでしょう」
「考えられん」
清田はそう言ってから少しのあいだ黙った。考えなければならなかった。
戦隊司令官の任にある少将の大和田が、分隊を任されているにすぎない大尉の畠中に、直接出撃命令を下すことは、軍の命令系統からも、両者の立場の懸隔から推しても考えにくい。
何よりも、大和田は特攻について一家言を持つ指揮官だった。
少将大和田昇は海兵四十四期。任官後は潜水学校を修了して、実戦部隊では潜水艦長を歴任した生粋のサブマリナーである。
対米開戦の時は、潜水艦隊である第六艦隊の旗艦「香取」の艦長として中部太平洋にあり、そののち第七潜水戦隊司令官、軍令部勤務を経て、このとき第十特攻戦隊司令官の職にあった。
大和田は第七潜水戦隊司令官だったころ、甲標的による特攻作戦の実施を上級司令部に具申したという伝がある。
ところが現実に特攻戦隊を指揮するようになってからは、蛟龍隊に対して次のような主旨の訓話を行っているのである。これが清田には強い印象として残っている。
「自爆して戦死する華々しさに惑わされることなく、魚雷を撃ち終わったら生還せよ」
「新しい魚雷を装填して何度でも攻撃を反復することが、甲標的乗りの真髄である」
特攻作戦を提唱した人物が、生還して反復攻撃を期せ、と言っているのである。一見矛盾のように思えるが、これは大和田が、特攻を単なる自殺戦法としては容認していなかったことを示している。
潜航艇による敵艦襲撃は、ほとんど生還を期すことのできない決死の戦法である。その点は体当たりと変わりがない。
しかし言うまでもなく戦闘の目的は自殺ではない。あくまでも、より多くの敵を倒すことにある。限られた戦力で最大の戦果を挙げることを目指すなら、一度きりの出撃で自爆するより攻撃を反復すべきなのは自明の理だ。
つまり大和田は「無駄死にをするな」と言っているのである。これに、あえてむごい翻訳をあてるなら「どうせ死ぬのだ。ならばもっとも効率よく死ね」となる。言葉の温度こそ違うが、じつは意味は同じである。
残酷なようだが、しかしそれこそが戦争の原理だとも言える。大和田はその原理を極限まで具体化して特攻を提唱し、かつ生還を命令しているに過ぎない。冷徹ではあっても、大和田に矛盾はない。
注目すべきは、大和田がここで蛟龍を甲標的と呼んでいる点である。
もともと特攻隊すなわち特別攻撃隊の名は、真珠湾に突入する甲標的の部隊に冠せられた、名誉ある呼称だった。九死に一の生還を期して戦う、真の勇士の部隊に名づけられるべき名のはずだった。蛟龍隊を預かることになった時、大和田はそのように考えたのかもしれない。
その大和田が、終戦が決したのちに、単なる自殺行に等しい単独特攻を命令するだろうか。
(ありえない)
それでもただひとつの可能性があるとすれば、と、清田は考えを巡らしてみる。
(もし、その大尉が大和田に、出撃命令をくれと懇請したのだとしたら)
海軍士官である以上、反逆者として死ぬことは絶対に容認できない。しかし命令さえあればその出撃は正当化される。彼はそのために、無理を承知で、大和田に出撃命令を求めたのではないだろうか。それが叶わぬなら別の道をとればいいのだ。
「畠中大尉は間違いなく自決だな」
「間違いありません。検死の結果も出ております」
それほどの覚悟を持った士官ならば、大和田から発令を拒否された場合、彼の面前で拳銃を抜き「ならばここで自決します」ぐらいのことは言うだろう。そこまではしなくとも、いずれ自決の道を選ぶに違いないと思える。
困ったことに、と言うべきか、大和田は潜水艦の出身で、蛟龍乗りの気持ちが分かる。
俺が大和田の立場なら「それならここで死ね」と言えるだろうか。それとも成功の見込みがないことを承知で、望む死に場所を選ばせてやりたいと思うだろうか。
成功の見込みがないというのは、次のような事情である。
蛟龍は、理論的には沖縄まで単独航行できるように設計されているが、現実には、無寄港でそれをやり遂げた例はなかった。
沖縄戦には十隻ほどの蛟龍が局地防衛に出撃しているが、それらはただ一隻を除いて、長崎から輸送船に曳航されて沖縄に進出したものである。ただ一隻の例外も、寄港修理を行いつつだましだまし何とか沖縄までたどり着けた、というだけのことで、無理がたたってエンジンが焼きつき、実際には使い物にならなかった。
(それを承知で往きたいと言う者を、大和田は諭しきれただろうか)
「司令官、何かご不審ですか」
朝廣の声で清田は我に還ると、しごく当たり前の返事をした。
「やはり大和田君の命令とは思えんなあ」
「はあ、しかし厄介なことに彼らはそれを信じています」
「ふむ」
清田は朝廣に、さらに詳しい事情を聴くことにした。
生還した搭乗員の中に、藤川正視という当時十九歳の一等飛行兵曹がいた。このころ蛟龍の搭乗員には、本来飛行機に乗るはずであった飛行科の下士官が多かった。
藤川一飛曹によれば、畠中は、出港後も目的地については一切語らなかったらしい。しかし四名の搭乗員は、艇長の挙措表情から、その意図を薄うす感じ取っていたという。
戦争は終わったにもかかわらず特攻に出ることになった彼らは、その時どんな心境でいたのだろうか。それを藤川は次のように記している。
「私は機関担当でしたのでディーゼルにかかりきりです。他の艇付きたちの表情がいつもとは変っていたように憶えています。いよいよ最後の時が来た、という決意と緊張感がそうさせたのだと思います。私はいつもより機関の調子を気にしていました」
藤川の次の言葉が、印象に残る。
「故障すればそれで艇長の目的を遂げさせることができないからです」
当時のディーゼルエンジンは耐久性が低く、長時間の連続運転を行うとオーバーヒートして最悪の場合は内部が焼きつき修理不能に陥る。その調子を読むには音や振動に気を配ることはもちろん、排気煙の匂いで潤滑油の状態を感じ取るほどの集中力が必要なのだ。
藤川がちょいと気を抜いただけでエンジンは焼き付くのである。そうなれば、彼らは洋上にただ漂うばかりとなる。
「それでは艇長の目的を遂げさせることができない」という藤川の言葉は、生死を超越した、職務への義務感、自己の役割をただ一途に果たそうとする責任感、それら以外のものでは説明できない。
特攻が仮に後世において、いかに無謀で作戦の名に値しないと断ぜられる戦い方であったとしても、その時その戦場に身を置いていた彼らにとって、出撃した以上それは成功を期すべき「作戦」であり、軍人として作戦に従事している彼らに雑念はなかった。
二一四号は、出撃から十二時間後には鹿児島県の大隈半島沖に達したが、そこでエンジンが全速運転の限界点に達した。藤川はしばらく機関を休ませるよう畠中に具申し、畠中はこれを了承した。艇は大海原の真ん中で停止し、波に任せて、物理的には漂流状態になった。
藤川は出港以来ぶっ通しで機関の調整に当たっていたため、かなり疲労しており、停止中に仮眠をとっておくことにした。その間、畠中以下三名が狭い甲板で見張りにあたっていた。
彼を短い眠りから呼び戻したのは「救急箱は」という同僚の声だった。藤川はまず敵襲かと思い、救急箱を持って甲板に上がったが、そこで見たのは自決を遂げた畠中の姿だった。
藤川の仮眠中、二一四号は開いていたハッチに横波をかぶり、大量の海水に濡れた電気式の方位測定器が故障してしまったのだという。
それはいわゆるジャイロコンパスと呼ばれるもので、これが使えないと彼らは自艇の位置を特定できず、したがって進むべき方向もわからない。
蛟龍の航続距離は沖縄までぎりぎりである。正確な針路を計算して最短距離を進まなければ途中で燃料が切れる。沖縄到達は絶望的となった。
畠中はここで藤川を除く三名を甲板に集合させ、沖縄特攻という出撃目的を初めて明言し、その上で作戦中止と帰投を命令した。帰投するという意思表示ではなく、帰投せよという命令である。
上官の覚悟を察した部下の全員がともに自決することを申し出たが、畠中はこれを叱り付けあらためて生還を厳命した。最寄りの鹿児島基地に寄港して陸路佐伯へ帰隊するよう指示し、そのあとすぐ、拳銃で自決したということである。
藤川たちはそのあと誰ともなしに言い出して全員自決を決めたのだが、最先任の渡辺兵曹が思い直し、最後の最後になって艇長の命令に背くことはできないと全員を諭して、涙ながらに帰港の途についたという。
畠中の命令は鹿児島寄港だったが、そこに入港した経験を持つものはひとりもいなかった。不慣れな水域では座礁の危険がつきまとう。彼らは鹿児島入港を断念し、陸影を頼りに沿岸を北上して佐伯に戻った。往路は十二時間で走った距離に、帰りは三十時間を要した。本格的に航海術を学んだことのない彼らには、それが精一杯だったということである。
「畠中大尉は海兵だね」
「はあ、そのはずです」
清田は部下に帰投を命じた畠中を褒めてやりたかった。
作戦が失敗したと判断されたなら撤退し再起を期す。それが作戦である。しかし特攻では、目標を発見できなければ単に自爆せよという類の、もはや狂気と言ってよい命令が、しばしば出されていることを清田は知っていた。
(それを作戦とは言わないのだ)
畠中は部下を生きて返すことによって、その最期まで、作戦指揮官である海軍士官としての正道を貫こうとしたに違いない。畠中がそういう指揮官であったからこそ、部下たちはついていったし、はらわたが裂けるような無念を呑んで帰投命令にも従ったのだ。畠中自身は自決の道を選んだが、それがひとりの武人として信じた道であるなら、惜しくとも、やむを得ない。
「なるほど、それでわかった」
あの時、疲れきっていたはずの彼らの活力となったのは、自分に対する怒りだったのだ。
「この者たちか」
その清田の言葉は、彼らの耳に、自分たちを罪人と見る言い方として届いたはずであるし、清田自身にその意識が全くなかったわけではない。
彼らにしてみれば、直接の上官であり、共に死ぬと誓った戦友である畠中が自決したのは、司令官の無茶な命令のせいということになる。ところが事成らず、やむなく帰投してみると、まるで罪人のように拘束されて取調べを受けることになった。人の情としては耐え難いことに違いなかった。
「そういうことだろうね。私のもの言いも軽率だった」
「では、彼らは司令官と大和田閣下を間違えたということですか」
「それはどうでもいいよ。第一、大和田君もそんな命令を出してはおらんと思う」
「それは分かります。本当に司令官命令なら、畠中は出撃に際して搭乗員たちにそれを伝えたはずです。自決の直前まで隠しておく理由がありません」
清田は朝廣の顔を見つめて少し黙った。そうじゃないんだ、吟味するなということだよ。
「畠中君もそんなことを言ってはいない」
「はあ?」
「むろん、四名の生存者が嘘を言っているわけでもない」
まるで謎かけではないか。朝廣にはわけがわからない。
「では、どう処理しますか。私は十特戦司令部に身柄を移すのが適当だと思いますが」
「いや、一切を訓練中の事故ということで処理してくれ。外部に漏らさんようにな」
清田の口ぶりは穏やかだったが命令である。朝廣に許された返答はひとつしかなかった。
朝廣は一礼して出て行こうとしたが、やはり気になると見えてドアの前で振り向いた。
「自決した畠中大尉についても、ですね」
「もちろんだ」
朝廣はもうひとつだけ疑問を解いておきたかった。少しためらってから彼は聞いた。
「なかったことにする、ということですか」
清田の目はまっすぐに朝廣を向いていたが、見ているものは別のもののようだった。何かに怒っているようにも見えたが、その言葉も、それまでと同様に穏やかに出てきた。
「その通りだ」
「承知しました」
朝廣は清田を非難したのではなかった。
(司令官は一切の責任を負うつもりなのだ)
なかったことにする。彼らの罪を、罪があるとしてだが、一切なかったことにする。清田はそう言ったのだ。
(罪があるとすれば)
朝廣はようやく理解した。それを負うべきは蛟龍の若者たちではないということを。
畠中は戦傷死と公表され、少佐に進級した。
彼の父、賢一郎氏は、のちに息子の戦死について、同期生の会に一文を寄せている。
畠中は前述の通り、自決の直前、部下に鹿児島寄港を命じているが、そのとき彼は手にした拳銃を空に向けて発射し「鹿児島はこの方向だ」と示した。その腕は二度と下されることなく続いて彼のこめかみに銃口を当てたのである。
そのことについて賢一郎氏は、寄稿文の中で、さらりとこう書いている。
「試射を兼ねたに違いない」
最愛にして誇りとした息子の最期を父はそのように語った。いま私たちが、畠中和夫という二十一歳の若者が持っていた透徹した胆力を確信する上で、これにまさる教唆はない。
生還した四人は当然無罪と認定されて解放されたが、彼らのうち何人かは戦後の長い期間、司令部がとった処置を、司令官の罪をうやむやにするための、隠蔽工作と信じて生きたようである。
そのひとりによって書かれたらしい詳しい手記が、現在の佐伯市平和祈念館「やわらぎ」に所蔵されている。らしい、というのは、この手記が無記名だからである。
手記の内容は前出の藤川一飛曹の回顧録とやや異なっており、畠中は出港直後に出撃目的を彼らに告げたことになっている。人名がすべて仮名で書かれており、そこに登場する司令官の名は春日少将という。これが清田を指すのか、大和田のことなのか、それは分からない。
筆者はこの手記や藤川氏の回顧録を参考にこの項を書いた。ただし清田が登場するくだりについては、すべて創作であることを明記しておく。当時の佐伯基地の先任序列から判断して、この件を処理したのは清田であったはずだと考えた。
手元の資料では、第八特攻戦隊司令官。海軍少将清田孝彦は昭和三十六年に没したとある。終戦直前から戦後にかけての彼の足跡について、筆者にはそれしか分かっていない。
熱は徐々に冷めていった。佐伯基地からも復員するものが増えていく。
第一〇二号哨戒艇は広島湾に回航し、そこで米海軍に接収されることになった。出口たちは終戦以来変わらずに乗務していたが、艇長はすでに水谷保少佐ではなかった。
水谷は八月の初めに艦を降り、横須賀鎮守府に転出していたが、八月二十三日、皇居を臨む祝田十字路の松林で同士十名と共に割腹自殺を遂げる。享年三十五。妻があり、その胎内には夫婦にとって最初の子がいた。その日の東京は土砂降りの雨だったという。
奇しくも同じ日、広島湾に入泊した一〇二号は、米海軍による最初の臨検を受けている。
このふねはやがて米国本土に回航されたが、スチュワートとして復活することはなかった。昭和二十一年五月二十四日、三度名を変え、合衆国海軍駆逐艦DD224となった一〇二号はサンフランシスコ沖で爆撃訓練の標的艦となり、グラマンとコルセアのロケット弾を浴びて、その数奇な運命の最期の幕を下した。
銀色の魚が跳ねた。
文太郎と亮が、小船を出してボラを釣っている。
まわりを見ると彼らと同じように五艘ばかりの船が出て、島民がその日の腹を満たすための魚を釣っていた。浦前の海に、すでに一〇二号の姿はなかった。
その代わり、妙な船が一隻そこに混じっていた。それは日本海軍の内火艇だったが、乗客は数名のアメリカ人だった。住民が乗る一艘のふねに近づいて、何か話している。
「お父ゥ、アメリカどもは何をしにきちょるんか」
「魚を買うちょるんじゃろう」
「違うぞ、ほれ見い、勝ジイがボラをやるち言うても貰いよらん」
住民たちが米兵を嫌悪していたのか、それとも恐怖していたのか、それは分からない。その両方だったというのが正直なところだろう。
この時の米兵は、報道なのか趣味だったのか、住民が漁をする姿をカメラに収めようとしていたのだが、彼らに被写体として選ばれた誰もが撮られることを拒否し、ボラの入ったカゴを差し出して「魚ならやるからあっちへ行け」とびびっていた。
米兵のほうでは魚なぞ欲しくもないから受け取らない。彼らは仕方なく内火艇を動かして、別の小船に寄って行く。そしてそこでもまた、「あっちへ行け」と背を向けられるのである。
彼らはとうとう文太郎のふねまで寄ってきた。
「お父ゥ、来たぞ」
「良う見ちょけ、あれがアメリカ人じゃ」
文太郎だけは彼らを拒まなかった。
この男には、初対面の誰とでもすっと馴染んでしまう、という特技があったが、まず間違いなく商売で鍛えられた資質であろう。行商人が人見知りをしていては商売にならない。
米兵の一行には日本人の通訳がついていた。まだ若い士官だった。仕方がないとは思うが、彼の最初の物言いがいかにもまずかった。
「おうい、坊主」
これで亮がカチンと来た。大人から坊主と呼ばれることは別にかまわん。けんどなあ。
(アメリカに負けて、その使いッ走りになっちょるようなへっぽこ海軍が、おいとは何か)
亮は聞こえぬ振りをしていた。カメラを手にしていた米兵が通訳を抑えて前に出てきた。
このとき亮は十歳で、くりくり坊主のちびすけで、つまり、まだ可愛い盛りである。カメラマンとしては、いい被写体を見つけたとでも思ったのであろう。彼はポケットからリグリーのガムを出すと、
「コニチハ」と差し出した。亮はちらりと見ただけで無視した。
(なんかそれは。ほげえ《あほう》、食い物で釣られるか。俺ァボラじゃねえぞ)
個人の名誉にはならぬと思うが、この国の、子供たちの名誉のために書いておくと、桂佑と亮は、いわゆる「ギブミーチョコレート」と言ったことがない。
これはアメリカを嫌悪したのではなく、乞食の真似を拒否したのである。どういうわけか、戦後日本を語るものの中では、日本の子供たちがすべてそう言っていたかのような記述が目につくが、亮のような子は日本中にいくらでもいた。
「亮、ほれ、貰うてやれ」
ところが、文太郎がそう言った。
「貰うてやらんと、この衆は帰らんぞ」
亮は、お父ゥが言うならしょうがねえと得心した形で、彼らのほうに寄った。ところが亮が手を伸ばすと、その米兵はガムを引っ込めた。亮は怒った。
「くれるんじゃねえんか」
思い切り大きな声が出た。
菓子が欲しいわけではない。ひとを食い物で釣っておいてからかうとは何事かという怒りが亮を包み、少年はその米兵を睨んだ。
まっすぐに睨んだ。相撲でも喧嘩でも目をそらした方が負ける。意識はしていなかったが、そのいつもの癖が出た。
米兵は少し驚いたようだった。肩をすくめて通訳に何か言った。
「すまん。そうじゃない」
通訳の海軍士官は、今度は妙に親近感を表して横から口を挟んだ。
「魚を釣り上げるところを写真に撮りたいと言うんだ。釣ってくれたらあげると言ってる」
(ボラをか。ふん、変なもんが面白えんじゃのう)
亮は黙って自分の席に戻ると仕掛けを海に放り込んだ。竿釣りではなく、糸だけを垂らして魚が掛かればたぐりあげる、いわゆる手釣りである。
さほど待たずにアタリがきた。亮がそれを釣り上げるまでに、米兵は三枚ほどシャッターを切り、それから注文を出した。
「次はな、そのまま顔の前にぶら下げて見せてくれ」
言われるままにそうすると、また何枚かシャッターの音がした。亮は生まれて初めて写真を撮られ、生まれて初めてのガムを手にした。
「おじさん、お邪魔をしました」
通訳の海軍士官が、内火艇のふなべりにかがみ込んで文太郎に声をかけた。
「なんのい、あんたもご苦労さんじゃな」
「息子さんですね」
士官は亮のほうを見た。亮は次の仕掛けにかかっている。
「ほうじゃ」
「楽しみですね、大きくなるのが」
士官はそう言うと、では、と目礼をして立ち上がった。内火艇が動き出す。
文太郎は「オオキニ」と答え、それをじっと見送っていた。
「お父ゥ、あの海軍、何ち言うたんか」
「あいさつじゃ」
「ふうん。オ、また食いついた」
亮は釣り上げたボラから手際よく針を外した。魚釣りを楽しんでいる様子はまったくなく、まるで一丁前の漁師のように、むしろ不機嫌そうにむっつりしたまま事を運んでいる。
文太郎は眩しそうに目を細めて息子を見ている。実際に眩しかった。八月の終わりの太陽が海面に跳ね返って無数の光の粒になり、彼の目に注いでいたから。
「楽しみですね、大きくなるのが」
そうか、この子はこれから大きくなるのだ。
はたちになるだろう。そしてきっとはたちを越えるだろう。
それからいつかは子をなし、やがて今の自分の歳をも越えていく。
亮ジイはいい男じゃったと言われて墓に入るまで、この子は生きていくのだ。
大きゅうなるか。
そりゃあエエのう。
亮がまたボラを釣り上げた。