第11章 父と子と
父と子のものがたりをしたい。
少し過去に遡ることになる。昭和二十年二月十六日のことだった。
佐伯湾で爆撃訓練中に事故殉職した海軍中尉井尻文彦の葬儀が、この日、彼が所属していた第九五一海軍航空隊隷下の佐世保航空隊基地でとりおこなわれた。
喪主として列席したのは中尉の父、井尻武彦。うしろにひとりの少年を従えていた。
少年は名を武弘といい、文彦の弟である。この時十四歳の中学二年生であった。
井尻の家は東京にあり、彼らが佐世保まで赴くには汽車を乗り継いで丸二昼夜かかる。その長い旅のあいだ、武弘は父親とほとんど会話らしい会話をしていなかった。 何を話していいかわからなかった。
兄文彦が亡くなったということは父から聞いた。それから、葬式に列席するから供をせよと言われるままに付いて来ているのだが、頭の中が混乱していた。
彼は兄の死を実感できないでいた。だから、いま自分が父親と旅をしている理由そのものが意識の中で体をなしていなかった。
もし、父に語りかけたいことがあるとすれば、
「何かの間違いじゃないの」
「兄ちゃんが死ぬわけないよね」
そういう言葉にしかならないのである。だがそれが、たぶんどうしようもないほど的外れな問いかけであることも、武弘には分かっていた。実感を伴わずとも理解はしていた。兄文彦は死んだのだ。
兄は軍人であり、日本はいま大戦争を戦っている。だから兄が戦死する可能性については、武弘も含めて家族の誰もが覚悟をしていた。と言うより覚悟しておかなければならなかった。その日常の覚悟が、十四歳の少年の、理性の中では、大好きだった兄の死を納得させていた。
それでも感情はそれを簡単に肯定しなかった。彼は父親に事情を告げられてからここまで、一度も泣いていなかった。泣けば兄の死を認めることになる。我慢ではない。泣きたい理由を感情が認めないのだ。
武弘にとってはむしろ幸いだったかもしれない。彼の、まだ成長期にある理性は、兄の死を完全に認めた時に激発し慟哭するであろう感情を、完全に制御できるまで育ってはいなかったはずだから。
父武彦はずっと黙っている。ボックスシートで相席になった乗客が愛想の挨拶などをすると穏やかな口ぶりで応じるのだが、それ以上は余計なことを言わずに、伏目がちに黙ってしまうものだから、相手もそれ以上話しかけてはこなかった。
武弘は、そのような相席から父親との旅行の目的を問われたら、どう答えればいいだろうとその席の主が交替するたびに思いを巡らしたが、誰もそんなことを問いはしなかった。
黙然と座っている父子の様子は、どう見ても楽しい旅行とは見えなかったし、そんな旅行ができるご時世でもなかった。事情ありげなふたりの様子を見て、向かいに坐った誰もが余計な口をきくことを遠慮した。それは武弘を余計な心配から救ったが、同時に、彼にも長いながい沈黙を強いることにもなった。
井尻の家は東京の羽田にあったが、父武彦の出生地は九州である。
大分県別府市の北に城下《しろした》ガレイで有名な日出《ひじ》という町がある。幕藩時代には木下藩三万石の城下町だった。初代藩主の名を木下延俊という。
このひとは豊臣秀吉の正室おねの甥で、小早川秀秋の実兄である。延俊が亡くなると遺領は子の俊治が継いだが、異母弟と伝えられる延由《のぶよし》が五千石を分け与えられて独立した。
この木下分家に代々家老職として仕えたのが井尻家である。さらに系図をさかのぼれば甲州武田家の遺臣だということだが、これは父武彦の伝による。
余談だが、井尻家の主筋にあたる木下延由は、実は大阪夏の陣で自害した豊臣秀頼の遺児、豊臣国松であるという説がある。
詳しくは書かないが、これもなかなか真実味があって興味深い話なのである。この物語では大分県の歴史の、あまり一般に知られていないことがらについてもたびたび触れてきたので、ここでさわりなりとも紹介しておく。
武彦の代に、一家は東京に居を移した。
武家である。父は子らにそういう教育をした。もっともそれは江戸時代の武士道ではなく、武彦が教職にあり、海軍とも多少の縁があったこともあって、謹厳だがスマートで、古風だがリベラルでもあるという大らかさと共にあったが、少なくとも息子から見れば、甘い父親ではなかったらしい。
その父が黙っている。自分の息子が死んだというのに、嘆くどころか、いささかも動揺した素振りを見せない。そういう父親の前では、自分も同様に泰然としていなくてはならない、と武弘は思った。彼は努めて、考えても仕方のないことを考えないようにした。
この当時の国鉄で、東京から九州の玄関口である門司までたどり着くのに、ダイヤ通りでも二十五時間かかる。父子は最初の一夜を走り続ける客車の中で過ごした。もちろん寝台車ではなく、背もたれが直立した硬い座席に座ったまま眠る。
夜に東京を出た汽車は、京都を過ぎたあたりで夜明けを迎える。それから一日中走り続けて夜の九時すぎに門司に到着するはずだったが、やはり遅れていた。武弘が目を覚ましたころ、汽車はまだ名古屋をすぎたばかりだったし、二度目の夜は広島の手前で来た。
山口県の徳山の手前に光という小都市がある。汽車はそこで止まった。
空襲警報だった。乗客はみな客車から降りて付近の防空壕に避難したが、敵機は呉か岩国を襲ったのであろう、彼らのいる場所に爆弾は落ちてこなかった。
空襲警報が解除されると父子は駅に戻ったが、不思議なことに他の乗客が誰もいなかった。乗ってきた汽車の姿もない。避難していた間に発車してしまったのかもしれなかった。
父武彦は黙ってベンチに腰を下ろした。そのあとは木像のように身じろぎもしない。武弘も仕方がなく、その隣にこしかけた。
このあたりが井尻兄弟の父親を知るための、いいエピソードかもしれない。このときの彼の行動は、現在の我々にはちょっと理解しがたい。駅員に事情を聞きもしないのである。
汽車はすでに発車してしまったのか、それともどこか引込線に避難しているのか、いずれにせよ次の便はいつ出るのか、それらのことを駅員に尋ねればいいではないか。
ところが武彦などの感覚からすれば、そういう質問は、うすらみっともない、いわば醜態をさらすことであった。武士はことに動じてはならないのである。
とにかく駅に汽車はいない。事情はともかくそれは事実であって、事情が分かったところでどうなるものでもないだろう。汽車が来れば乗る。それだけのことだ。彼はそう考える。
非合理かもしれない、しかしそれがさむらいの美学だった。
武弘はそういう父を知っている。だから彼も、不安を口にすることは出来なかった。
すでに深夜に近かった。二月である。待合室に火の気はない。
武弘は寒さこそ我慢をしたが、薄い布靴に包まれただけのつま先を襲う痛みには耐え切れずホームに出て歩いた。端から端へ何度も往復し、時には駆けた。
息が白い。見上げれば冬の星座が瞬いている。夢を見ているとしか思えなかった。
俺は今、どうしてここにいるのか。そんな気もした。
武弘はその夢のような浮遊感に身を預けたまま歩き続けた。答えを探そうとはしなかった。零下の寒さと空腹、そしてほとんど丸一日汽車に揺られ続けてきた疲労が、その気力を奪っていたのかもしれなかったし、そもそも答えを欲していなかったのかもしれない。
自分の名を呼ぶ声に振り向くと、武彦がすぐそばまで来ていた。
「駅員さんが言いにきた。明日の朝九時までは汽車はないそうだ」
見かねた駅員が教えてくれたのである。駅員はまた、駅前に旅館があるから泊まりなさいと勧めた。このさむらいは駅員に、ではそうしましょうと言った。
武弘はそれを聞いても、この寒さや疲労や空腹から逃れられることを、なぜかうれしいとも思わずに、ただ「はい」と答えた。少年の感情は凍えて機能を止めていた。
田舎の真っ暗な駅のホームのいちばん端に、ふたつの人影だけが向かい合って立っている。片方の影はまだ小さく、少し震えていた。やがて大きいほうの影が踵を返して歩き始めると、小さいほうがそれを追った。父と子の旅の二日目の夜は、こうして幕を下ろした。
その翌々日の朝、この父子を佐世保航空隊の隊門に出迎えたのは、長身の若い士官だった。彼は武彦に名と官名を名乗り、式場まで案内した。武弘は彼を日比野昇大尉と記憶している。
葬儀の式場は隊の格納庫で、隊門からは結構な距離があった。
武弘は父親のうしろについて歩いて歩きながら、姿勢や歩調に気を遣っていた。井尻文彦の弟として恥ずかしくないように、毅然としていなければならぬ。少年の意地だった。
そうやってまっすぐ前を見つめる彼の前には、日比野の後姿があった。
突然あることに気づいて武弘の胸が高鳴った。それは感動を伴っていた。彼はつい、父親に無駄口をきいた。
「日比野大尉の歩き方は、兄ちゃんにそっくりだよ」
父武彦は息子のほうを見もしなかったが、小さく頷いた。声は日比野にも届き、彼は後ろを振り向いて「同じ海軍兵学校だからね」と言った。
武弘は、文彦が休暇で帰省するたびに、隊に戻る兄を駅まで送って行った。
その時の兄は、両手を指先までやや硬く伸ばし、歩幅を広くとり、かかとから地面につけるように歩いた。胸を張り、背筋を伸ばし、上体は決して左右に振れず、長身がいっそう大きく感じられた。
武弘はそれをいつもうしろから見ていた。
目の前の、日比野大尉の歩き方は、それとまったく変わりがなかった。その姿は、それまで武弘の中で封印されていた文彦の記憶を、思いもかけず、これ以上はないほどのみずみずしい色彩を伴って解放させてしまった。
少年の感情は、この時はっきりと兄への思慕に支配されたが、それは彼に悲しみを運んではこなかった。武弘は意外なほど落ち着いて見えた。
彼は、自分はいま兄の後ろを歩いているのだという錯覚に恍惚となって、その死をほとんど意識の野から追っていた。この長くつらい旅の中で、それは彼がもっとも幸福な数分間だったかもしれない。
しばらく歩くと格納庫が見えてきた。すでに大勢の隊員がその周辺に集まりかけていたが、その中にひとりだけ飛行服を着て、大股で足早にそこを横切っている士官がいた。
その士官は日比野を見つけると駆け足で近寄ってきた。武弘も何事かと思い彼を見ていたが武弘には勇ましく見えるその飛行服と、彼が手に提げた大き目の風呂敷包みがアンバランスで妙に気になった。近づいてきたその士官は荒武者のような鋭い目つきだったが、表情にほんの少しだけ幼さが残っていて彼の若さを感じさせた。
「伊藤か。良く来てくれたな」
日比野のほうから声をかけた。伊藤と呼ばれた中尉は日比野の前で敬礼をすると、「お久しぶりです。ただいま鹿屋から到着しました」
そう言ってから、日比野のうしろにいる父と子に会釈式の敬礼をした。それから目礼だけを日比野と交わし、再び駆け足で隊舎のほうに去っていった。日比野が民間の客を案内している事情を察して、それ以上の会話を慎んだのであろう。
その中尉は井尻文彦と同期の伊藤叡《あきら》であった。この日からおよそ五十日後、戦艦「大和」の沖縄特攻を引き受けることになる、第二艦隊司令長官伊藤整一中将の長男である。
井尻文彦の同期生を代表して弔辞を読んだのが、この伊藤である。
彼は戦闘機の搭乗員でこの当時鹿屋基地にいたが、この葬儀のために零戦の操縦桿を握って駆けつけたのだという。あの風呂敷包みの荷物は、正装用の一種軍装だったに違いない。
伊藤は弔辞を捧げたあと、そのまま退席してすぐにまた機上の人となった。この時の伊藤のたたずまいや挙措もまた、武弘の目には兄そのものに見えた。それでもこの時の彼の感情は、さっき日比野の背を見ていた時に抱いた、文彦への思慕の形をとらなかった。
はたちをわずかに過ぎたばかりの青年士官が、司令官以下居並ぶ上官を前に見せた、武人としての見事な立ち居振る舞いは武弘を感動させた。
それは同時に、自分と伊藤との距離、男としての完成度という意味での距離を、ずいぶんと遥かなものに感じさせたが、感動の熱が、その小さな劣等感の原料を克己心に仕上げた。
自分も伊藤中尉のようでなければならない。
それが遥かな距離だとしても、そこに近づくことが、兄に近づくことになるのだ。
伊藤は武弘の心にそういう意識の種をまいた。その種が一瞬のうちに芽を出していた。
とはいえ、その意識はまだ芽を出したばかりで、武弘の中で必ずしも強固ではなかったし、明確でもなかったらしい。その証拠に、彼に焼香の番が来たときは足が震えた。武弘はその時それまで味わったことがないような緊張の中にあったし、兄の死を今度こそ認めるのかという惑乱にも襲われていた。
武弘は焼香をし、合掌をし、そして元の立ち位置に戻った。その間、彼の頭の中は、つまりからっぽだった。ほとんど無意識のうちに、形だけを完璧にやり遂げただけだった。
式が終わるころ武弘はようやく我に返ってそのことに気づき、さらに文彦には、何の言葉もかけなかったことに思い至った。
武弘は少し悔しかった。なすべきことは、何とかきちんとやり終えたらしい。しかしそれは外に向かってのことだけであって、彼自身の中の、最大の問題はまったく解決していなかった。
兄ちゃんは本当に死んだのか。本当に、もういないのか。
しかしそれはこれから彼ひとりで向き合うべき命題であり、少なくともこの式場は、それをする場ではなかった。
父武彦は、息子が焼香するさまをじっと見ていた。息子は少なくとも一切取り乱すことなく涙を流すこともなく、毅然として彼自身の役割を果した、と見えた。
焼香を終えたあと、自分のうしろに戻った息子の様子はわからない。だが武彦はこれで十分だと思った。
誰かとの永い別れがあって、その人びとにとっての、ひとつの時代が終わる。そしてその時ひとは必ず何かを、その時代の結晶のようなものを手に入れるのだろう。父親は、いま自分のうしろに立つ息子が、それを手にしたことを確信していた。
弔砲が鳴った。葬儀は終わろうとしていた。
なお、葬儀の日の井尻文彦の最終階級は、殉職後の進級によって海軍大尉となっている。
葬儀のあと、父子は士官室に案内され、文彦の同僚や部下たちと懇談する時を与えられた。
佐世保の郊外に住むという海軍法務少将の令嬢と文彦の淡い恋について、ふたりが耳にしたのはこの時である。
その夜父子は航空隊司令官主催の夕食会に招待され、宿には親戚が訊ねて来ていたりして、東京に帰るのは結局翌日になった。
また二昼夜かけて、同じ路線を揺られていくのである。来た時と異なっていたのは、武彦が胸に文彦の遺骨箱を提げていることだった。檜で作られた一片が三十センチほどの立方体で、それを白布で包むようにして首から提げる形になっていた。
中に遺骨は入っていない。竹ヶ島の沖で竹崎中尉が拾い上げた、文彦の飛行靴の片方だけがその中に納められている。
武彦のその姿は、この父子が軍役で亡くなった者の遺族であることを、周囲の人々に一目で理解させる。すれ違う者、そばに立った者、それらの人々が皆、会釈やお辞儀で弔意を表した。
帰りの汽車は混んでいた。父子は席をとることができず、おしくら饅頭のような体勢で立つしかなかった。
その人ごみをかき分けてくる男がいた。周囲の人びとは迷惑そうに顔をしかめたが、相手が海軍士官だったので文句を言うものはいなかった。
その男は武彦の前まで来ると、帽子をとって最敬礼をした。もっとも、その士官自身もまたおしくら饅頭の中にいたので、腰を折って深々と頭を垂れる姿勢はとれなかったのだが、その体の動かし方を見て、少なくとも彼の意思は最敬礼であったことを武彦は理解した。
「杉浦と申します」
その士官は名だけを告げた。階級付きで名乗ることは無用と思ったのだろう。いずれにせよ文彦の縁者に違いない。武彦は「文彦の父です」と頭を下げた。
「ご子息が兵学校時代、砲術教官として奉職しておりました」
「は。左様でございましたか」
壮年であった。帽子を頭に戻す時にちらりと見えた袖章から、彼の階級は大尉と知れたが、年齢から察すると叩き上げの特務大尉かもしれなかった。彼は文彦の殉職や、武彦の葬儀への参列をどのようにして知ったのかは語らず、ただ悔やみを述べた。
「惜しい男を亡くしました」
きまり文句と言うことはできない。真実惜しむべき男が、毎日何人も何十人も死んでいた。そういう時代であった。
杉浦は兵学校時代の文彦が、思慮深くいつも落ち着いていて、陸戦教練の小銃訓練などでは見事な成績でした、などといった思い出話をいくつか述べたあと、
「私もこれから前線に出てご奉公いたします。お父さんはご子息の分まで長生きして下さい」
そう言った。
武彦が礼を言おうとした。その時汽笛が鳴り、汽車が急に減速した。乗客はおしくら饅頭の体勢のまま、ほとんど横倒しになった。
「空襲警報」
杉浦はそう呟き天井の向こうの空を睨むと、では、というように武彦に別れの目礼を送り、客車内の乗客に大声で呼びかけた。
空襲警報である。汽車が止まったら直ちに降りて、できるだけ離れよ。姿勢を低くして走り荷物は持つな。それらのことを指示した。
武彦たちは出発の直前に乗り込んだので出口は近かった。武彦はデッキから飛び降りたが、武弘は出口に殺到する人の勢いで、隣車両のほうへ押しやられた。それが却ってうまい具合に彼を連結器の上に導き、武弘はそこから飛び降りて、自分を探す父親に駆け寄った。
降りてみれば確かに飛行機の音がする。しかしそれは、すでに耳に慣れてしまったB29の、高空を飛ぶ時の爆音ではなかった。
敵はグラマンだった。B29のような破壊力は有していないかわりに、軽快な運動性を利して低空を滑空し、目標を直接視認したうえで機銃掃射を加えてくる。その目標の中には、生身の人間も含まれている。
時刻はまだ早い。午前中の、朝といえる時間帯がようやく終わったころである。佐世保駅を出てから、まださほども走っていなかった。
「お父さん。こっち」
汽車を降りた乗客たちが、てんでにばらばらの方向へ走って行くのを見て、武彦はこの場合どちらに逃げたらいいのか考えようとした。しかし呼ばれて気がつくと、息子はすでに線路に沿って汽車が走ってきた方へ十メールほども駆け出し、こちらだと叫んでいる。
(馬鹿者。あわてるな)
武彦はそう思ったが、ためらっている暇はない。息子を追った。
父子は線路沿いに走って、小川にかかる鉄橋を見つけると、たもとの草むらに飛び込んだ。
「ここなら大丈夫だ。しかし頭は上げるな。もし敵が爆弾を持っていたら、爆風だけでも首が飛ばされる」
そう言う武彦と、やけっぱちのように大きな声で「はい」と答えた武弘の頭上を、戦闘機が低空で通り過ぎながら汽車に銃弾を撃ち込んだ。ふたりは片膝を立て横たわるような姿勢で、半分枯れた熊笹の茂みに身を潜めた。いざという時、すぐ立ち上ることのできる体勢である。
武彦は、胸に抱いた遺骨箱の角が胸に当たるのを感じた。自分では意識していなかったが、彼は白布に包まれた木箱をしっかりと胸に抱きしめていた。
先にも書いた。その木箱の中にあるのは、飛行靴の片方きりである。しかし武彦にはそれが息子文彦であった。彼はその時、息子を胸に抱いていた。思いがけずそれを意識してしまった武彦は、
(最後におまえを抱きしめたのはいつだったろう)
急に、そんな思いにとらわれた。
小児麻痺でまともに動かなくなってしまった脚で、歩く訓練をした時だったろうか。いや、あの時は、おまえが倒れても私は手を差し延べなかった。
本当は抱き起こして、もういい無理をするなと言ってやりたかった。しかし私は怖い顔で、そう、多分おまえには鬼のように見えたかもしれない。そういう顔で、男なら自分の足で立てと言ったのだ。
あのころは、人並みに歩けなくてもいい、びっこを引いてもいいから、せめて松葉杖なしで歩けるようになってほしいと祈っていた。それがどうだ、あんなに立派な体になって。
違う、そういうことじゃない。おまえを最後に抱きしめたのはいつだったか、そのことだ。
思い出せない。無理に思い出そうとすると、赤ん坊の時のおまえになる。
その形を思い出そうとしても無理なのが当たり前なのか。実際に抱きしめてやったことなど本当になかったのかもしれない。私はそういう父親だった。
それを悔やみはしないぞ。お父さんはいつでも心でおまえを抱きしめていたのだから。 涙が出た。
武弘は父親の涙を見てしまった。見てはならぬものを見たという気がして、彼は慌てて顔を背けた。
生まれて初めて見た父の涙が、武弘に、彼がずっと結論を出せずにいた、あるいは出さずにいた命題の答えを突きつけた。
兄ちゃんは死んだ。それは絶対の事実になった。二度と帰ってこない。絶対に帰らない。
今度は武弘が泣く番だった。初めて兄の殉職を知らされてから四日間、この十四歳の少年は一度も涙を見せなかった。
いま思えば、どうしてそんなことができたのか不思議だった。世界中の人間の中で、誰よりあこがれていた兄だったのだ。そのひとの死に、毎日、そして一日中向かい合っていたというのに、どうして一度も泣いてあげられなかったのだ。
胸の奥に溜まっていた涙が、一気に堰をきった。涙を止めることはできなかった。それでも武弘は声だけは出すまいとした。嗚咽になった。息が出来なくなる。かみ締めた奥歯の痛みが額に昇ってきた。
武彦が息子の肩を抱いた。
抱いたほうにも抱かれたほうにも、それが初めてのような気がした。武弘の嗚咽が、嗚呼という泣き声に変わった。少年は、小さな子供のように泣きじゃくった。
「武弘」
頭の上で父の声がした。
「この旅行では良く頑張った。泣きなさい。今は泣いていい」
そう言われて武弘は泣くのをやめようとした。父は子に泣くことを許したが、許された子は許されたがゆえに、それ以上泣いてはいけないと思った。
「おまえは、今日、いまここで元服だ。元服したら、もう泣いてはいけない。だから今だけは泣きなさい」
元服とは武士が成人することである。その時期は年齢で定められるものではなく、男の子が大人としての覚悟を決めるべき時を、その親が判断して決める。
江戸時代であれば、それまでの子供髷を解き、月代《さかやき》をそって大人の髷を結う。そのほかにも様々な儀式があるが、中でも最も重要なそれは、切腹の作法を教えるということであった。
切腹は、それ自体をなすことに相当の覚悟を要するが、それを教えるということは、そこに至るまでの武士の覚悟のすべてを、心の底から理解させるということでもあった。さむらいの成人式とは、そういうものであった。
「もう泣きません」
武弘はこぶしで顔を拭うと、まだ真っ赤な目のままで父親を見返した。武彦は息子の両肩に手をかけたまま、ゆっくりと話した。
「これからの日本は大変なことになる。武弘の武は、武士の武。そして武田の武だ。いいか、しっかりと家を守るんだぞ」
武弘は喉の奥に残る涙を呑みこみながら頷いた。父と子の、そのひそかな儀式が終わるころ敵機は去り、汽車に戻ろうとする人々の声が聴こえはじめていた。
「よし、急いで汽車に戻ろう。また置いてきぼりを食ってはたまらんからな」
武彦は少しだけ笑いを含んだ声でそう言いながら立ち上がった。武弘もそれに続く。
「しかし、丁度いいところに鉄橋があったな。おまえがこちらに呼んでくれて助かった」
「もう少し空襲が早ければ分からなかったよ」
武彦はそれを聞きとがめて立ち止まり、振り向いて息子に問うた。
「おまえ、ここに川があることを知っていたのか」
「通り過ぎた時に見たんだ。お父さんは杉浦大尉と話していたから」
父親は息子をもう一度見つめた。息子はそれに応えて、へへっと笑って見せた。この旅で、彼が初めて見せた笑顔だった。その瞳は、まだ完全に乾いてはいなかったが。
井尻武弘は、戦後、警察予備隊が発足すると在学中の大学を休学して入隊、二年間の任期を終えたあと復学し、卒業後は父親と同じ教職の道に進んだ。
父と子の旅のものがたりは、おそらくこの世の、子の数だけ存在するのだろう。
次は井尻のために弔辞を捧げた伊藤叡と、その父、伊藤整一中将のことを語る番である。
第七章で書いた通り、伊藤中将は大和とともに沖縄へ向けて出撃し、二度と還らなかった。
中将は愛妻家として知られていた。家族を大切にすることでも有名であった。子は叡中尉のほかに娘がふたりいた。
その叡中尉が、大和の出撃の前後に特攻隊員として出撃、戦死したという説がある。
大和の特攻は、戦後、多くの出版物や映画などで語られている。それらの中に、右の記述や表現をしているものが少なからずあるのだが、まず誤認もしくは創作と見ていいようである。
公式記録によれば、叡中尉は、父整一中将の戦死から三週間後の四月二十八日、鹿児島県の出水《いずみ》基地を出撃、沖縄本島周辺の空域を哨戒中に十六機編隊のコルセアと交戦して、未帰還となったことが確認されている。記録には哨戒中と書かれているが、あるいは特攻機の露払いか陽動だったのかもしれない。
このとき出水基地を離陸したのは零戦九機だったが、二機が故障を起こして脚を収納できず進撃を断念したので、実際に沖縄へ向かったのは七機である。伊藤中尉と、その二番機である濱田兵曹が未帰還となり、そのほかの五機は帰投して敵機撃墜三を報告している。
伊藤中尉はその前日と前々日にも出水から出撃してB29への邀撃戦闘を行い、一機に損害を与えたが、自身も被弾して不時着したことが記録されている。これらのことから判断すると、伊藤中尉は戦闘機隊の一員であって、特攻隊員であったとは考えられない。
出水基地に展開していたのは谷田部海軍航空隊である。このころ日本海軍航空隊の主力は、沖縄戦に対応するために、鹿屋を初めとする南九州の各基地に進出していた。そしてその中の多くが特攻隊を編成しており、谷田部空も同様であったため、中尉もまた特攻隊員であったという誤解が生じたのではないかと思う。
特攻隊を編成していた航空隊の、すべての搭乗員が特攻隊員だったわけではない。航空隊はあくまでも通常戦力としての戦術単位であって、上級司令部からの要求があった場合に限って隊員を募り、あるいは人選して、特攻隊を編成するのである。
したがって伊藤中尉は、谷田部空に所属しているという意味では特攻隊員の候補だったが、戦死した段階ではそうではなかった。
また、ひとたび特攻隊員となった者が、通常部隊に差し戻されることはまず考えられない。したがって、中尉は戦死に至るまで特攻隊員であったことはなかったと考えていい。
それを断った上で、一般に語られている、伊藤中尉を特攻隊員とする話の概略を、このあと紹介してみたい。
大和出撃の前日、神風特攻隊員として鹿児島県鹿屋基地に進出していた海軍中尉伊藤叡は、父伊藤整一中将の出撃に先立ち、艦隊の前方航路哨戒に出撃、そこで戦死した。
この話は吉田満の「戦艦大和ノ最期」に記載されていた内容である。吉田は海軍中尉として大和に乗り組んで沖縄特攻に参加しており、その実体験をもとにこの本を書いた。
大和の最期を伝える書き物の中でおそらくもっとも読まれ、それ以降の出版物や映画などの原典となった戦後戦記文学の傑作であるが、惜しいことに、右のような事実誤認が指摘される箇所が多かった。なお、右の伊藤中尉に関する記述は初版のものである。
著者を弁護しておくがこの本が書かれたのは昭和二十七年である。記述の基となる情報は、著者自身の経験のほかは、ほとんど関係者からの聞き取りによるしかなかったはずである。
先に紹介した伊藤中尉の最期の戦闘については、筆者はこの情報を、防衛省が公開しているデータベースで入手した。昭和二十七年にそのような情報環境が皆無だったことは言うまでもない。吉田が手に入れることのできた情報の中にも、単なる噂話や、ある種のホラ話などが、たっぷり混じっていたはずである。
吉田の著作によれば、伊藤中尉戦死の報は、大和出撃の朝その艦上に届いたらしい。これは結局誤報だったのだが吉田はそれを信じた。戦後に至ってなお、彼がその誤認に気づく機会がなかったとしても、そこに彼の罪はない。
彼に罪があるとしたら、それはこの作品が戦記文学としてきわめて優れていたことであると書くしかない。
優れていたがゆえに、これが追随者にとっての聖書のような古典原典となり、彼らによって、吉田の誤認が事実として後世に定着することになってしまった。これも決して吉田の本意ではないだろう。彼はのちにこの部分を改訂したが、伝説はすでに一人歩きを始めていた。
この原典から生まれた亜種の中には、次のような話がある。
特攻隊員として鹿屋に進出していた伊藤中尉に、四月七日の出撃命令が下った。期せずして彼は父親と同じ日に、同じ沖縄を目指して、同じく特攻の途につくことになった。
その日鹿屋を離陸した伊藤中尉は、やがて洋上を進撃する大和を翼の下に発見し、上空から父に別れを告げた、というものである。
これは完全な創作と断じていいだろう。ただ創作なりに、この父と子の、旅のものがたりを語ろうとしているのだとすれば、事実と異なることを糾弾すべき筋合いでもない。
「少なくとも伊藤中将はそう思っていた。その心情を表現したのだ」という、創作者としての主張があるなら、これを非難するつもりもない。とはいえ、中将の苦悩を訴えるためならば、息子の命日など勝手に操作しても良いという法はあるまい。その是非は、また別の問題として存在するだろう。
さらに別の例がある。こちらは、舞台設定までは事実に基づいている。
大和出撃の日、鹿屋にあった第五航空艦隊司令長官宇垣纏《まとめ》中将は、指揮下の戦闘機を大和の上空掩護のために出撃させた。
本来この種の作戦行動は、連合艦隊司令部の指示がなければ行えない種類のものなのだが、これは宇垣中将の独断命令であったらしい。
大和を中心とする第一遊撃部隊の各艦将兵は、まったく期待していなかった味方機の来援に歓声をもって応えたというが、ここまでがおそらく事実である。
その零戦の編隊の中に、伊藤叡中尉の操縦する一機があったという。中尉は特攻隊員として鹿屋に進出していたが、特に宇垣に願い出て、この出撃に参加したというのである。
特攻隊員であった、とする点だけを除けば、伊藤中尉の零戦が直掩隊の一機であったことを否定する材料はない。
この時の宇垣は西日本の海軍航空戦力を統括指揮する権限を与えられ、鹿屋基地の指揮官を兼ねていたから、中尉が出撃を懇請したとしたらそれを認め得る立場にいた。
もともとこの出撃自体が宇垣の独断専行である。終戦の日の、宇垣自身の出撃をもあわせて考えれば、彼にとってその程度の私情を正当化することは、訳もなかっただろうと思える。
はたして、中尉の零戦は大和の上空を飛び、彼はそこで父への別れを告げたのだろうか。
以下は、筆者が史料を基に思い巡らせた、この父と子の、旅のものがたりである。
伊藤整一中将は福岡県の出身で、日本海軍の逸材と謳われた人物である。
彼は山本五十六が駐米武官であった時期に駐在員として共にワシントンにあり、その薫陶を強く受けていた。当然のことに合衆国の実力を理解しており、その国を相手の戦争には、到底勝ち目がないことを知っていた。
伊藤は昭和十六年四月十日から七月末までのおよそ四ヵ月、連合艦隊参謀長、つまり山本のブレインのトップを務めている。短期間ではあるが、それは日本と日本海軍にとって、極めて重要な時期であったと言えるだろう。四月十日は対米開戦の八ヵ月前である。
それは、誰よりも合衆国との戦争を避けたかったふたりが、ついにそれを避け得ざるとき、いかにして戦うかの腹を決めるための時期でもあった。しかし両名の真珠湾攻撃計画に対する考え方は、必ずしも一致を見ていなかったようである。
四月十日に伊藤が連合艦隊参謀長に着任した時、真珠湾攻撃のプランはすでに出来上がっていた。企画の中心となったのは先任参謀黒島亀人と航空参謀源田実である。
ところが、伊藤はそれからわずか四ヶ月後に軍令部次長に転出する。
軍令部は、戦時においては大本営海軍部となる。伊藤はこの頃すでに海軍部内でその実力を認められていたから、これは遠くない対米開戦に備えての実戦的人事だったと言える。
一般的には、年功序列などで人事が硬直化していたと言われる日本海軍だが、伊藤の場合は実力重視の抜擢と言っていい。ふつう軍令部次長は中将をもってその任に当てるが、このころ彼はまだ少将だった。伊藤の戦略家としての手腕に注がれた期待の大きさがわかる。
さて、ここからが少しややこしい。
本来、作戦の立案は軍令部の仕事である。実戦部隊である連合艦隊が作戦をたてた場合は、これを軍令部に提出して採用されなければ実施できない。
軍令部はそれまでも一貫して、連合艦隊の真珠湾攻撃計画に否定的な立場をとってきたが、伊藤もまた、ここから山本の計画に反対論、もしくは慎重論を展開することになる。
妙なことになった。対米戦争不可という点では一致している二人が、作戦レベルでの意見を異にして議論を戦わせなければならぬというのは、皮肉すぎると言うものであろう。
しかし山本にとっては、これはむしろ渡りに舟だったとも言える。
真珠湾攻撃の真の狙いは、短期決戦・早期和平だった。日本にはアメリカと長期にわたって総力戦を戦う国力はない。伊藤はそれを十分に理解している。
「馬鹿が相手では道理も通らんが、アメリカを知っている伊藤なら納得させられる」
山本は、あるいはそう考えたかもしれない。
しかし伊藤は譲らなかった。彼は日本海軍が永年にわたって戦略を練り、そのための軍備を整えてきた、マリアナ諸島近海での邀撃決戦を主張した。新味がないと言えばそれまでだが、もっとも堅実で、けれんのない戦略と言えた。
しかし結局は、軍令部総長永野修身の妥協的意見によって山本のこねただだが通り、真珠湾攻撃は実施されることになる。結果は大成功であり、そして致命的な大失敗でもあった。
時が下って昭和二十年四月、伊藤はすでに書いたように第二艦隊司令長官の職にあったが、沖縄への出撃命令には明確に反対意見を表明した。真珠湾攻撃の時は提案への反対だったが、この場合は命令への反対である。命令と服従によって秩序が成立する軍隊組織の中では稀有の例である。
その伊藤に対して連合艦隊参謀長は「要は死んでくれということです」と開き直った、
これで是非もなく伊藤は命令を受領する。ただ彼は最後に、作戦遂行中に艦隊戦力の大半が失われた場合には、自分の責任において「作戦変更を決断」しなければならないと念を押し、口約束ではあるが同参謀長から了解を取り付けている。
本来これは海軍の命令系統からして許されるべきことではない。作戦変更や中止の決定は、上級司令部の許可があって初めて認められる。
つまり伊藤が「自分の責任において」作戦を中止することは、厳密には抗命罪に相当する。悪意を持って裁かれれば敵前逃亡とも言われかねない判断でさえある。従って、このふたりが交わした口約束の中には、その場合の責任の取り方までが、暗黙の内に含まれていたと考えていいだろう。
この言葉のとおり、伊藤は大和の沈没が決定的になった時点で作戦中止を命令し、生存艦を全艦反転帰投させた。別の言葉で語れば、特攻を中止させた、ということになる。
しかし伊藤自身は、沈みゆく大和に残って運命を共にした。
それは彼の、戦死した部下に対する責任のとり方とも、作戦中止への責任のとり方とも見ることができる。いずれにせよ、彼は特攻作戦を中止させ、そして自らは死を選んだ。
これらの事実からも分かるように、伊藤は合理性を尊ぶ正統派の用兵家だった。特攻には、あくまで否定的な立場を貫いて死んだ。
彼は対米開戦を望まなかったが、よりによって日本がその意思決定をせざるを得ない時期に海軍の作戦に大きく関わる立場にあった。また、特攻を否定しながら、七千人の部下を率いて自ら特攻に赴かねばならなかった。伊藤が悲劇の提督と呼ばれるのは、大和と共に沈んだからという理由ばかりではない。
伊藤整一がちとせ夫人に書いた手紙には「いとしきちとせ様」と、まるで米国人のような、愛する者への呼びかけが見える。この時代では瞠目に値する。
その夫婦は息子に医者になることを望んだというが、長じた叡は海軍士官への道を歩んだ。父親はたったひとりのこの息子に、対米戦争について、どのような教えを与えたのであろう。
伊藤は中佐の駐米時代に、米海軍にひとりの知己を得た。
レイモンド・A・スプルアンスである。彼もこのとき海軍中佐だった。
スプルアンスは対日戦争の初期に、絶体絶命の危機にあった米海軍をミッドウエイで救い、やがて世界最大最強の艦隊を率いて日本海軍と戦う立場となった。そして彼が勝利した最後の海戦で、最後の日本艦隊を率いていたのが、かつて堅い親交の握手を交わした伊藤だった。
しかしミッドウエイ以前の彼は、つねに冷静で、控え目で、しかも出世や手柄にはまったく興味を示さない、昼行灯のような士官であったらしい。彼を敬愛する元部下でさえ、ちょっと怠け者のようにさえ見えた、というのだから面白い。
伊藤がそんな彼のどこに惹かれたのかは興味深いところだが、スプルアンスは東郷平八郎を尊敬しており、その後輩である日本の海軍士官には多分に好意的であったはずである。
また、彼は「誠実すぎて駆け引きなどとんと出来ない男だから、ビジネスには向かない」と評価されるほどの清廉さで通った男だった。そんなところにも、伊藤はむしろ好感を抱いたのかもしれない。
スプルアンスとの交流は、伊藤が米海軍というものを学ぶ、何よりの教師となっただろう。彼が合理的な用兵を旨とする提督であったことも、それと無縁ではないと思える。その彼が、たったひとりの息子に、大和魂と神風、アメリカにはそれで勝てると教えただろうか。
中将の令嬢であり、叡の妹にあたるひとの述懐によれば、息子が海軍兵学校を受験する際、父親は「能率的な勉強」を徹底させ、深夜まで勉強部屋にこもることを許さなかったという。
どこか、文太郎のしつけにも似ている。
ここからは筆者の意訳だが、たとえ徹夜をして多くの本を読んだところで、結局のところ、それは読んだというだけのことにしかならず、身につくものではない、ということだろう。
さらに書けば、それは受験という、目の前の戦いにとりあえず勝つための勉強でしかなく、海軍士官の勉強とは、そんなけちな目的のためにあるのではない、という意味にもとれる。
最も高く安全な場から命ずる側にとって、と限定するが、特攻は、とりあえず目前の敗勢をなんとかすればいいとする、けちな一夜漬けの受験勉強と同じであった。
特攻に駆り立てられた若者たちは、その愚行の彼方に、民族の誇りを守り、後世の人びとに手渡すという意義を独力で見出し、愚行を愚行であることから救った。それはせめてもの光明と言えるかもしれない。
しかし、彼らのその志を、特攻という形でしか実現させてやれなかった命令者は、つまり、何が何でも合格しろと言って、ただ発破をかけるだけの親と同じであろう。もし伊藤が彼らと同じ程度の指揮官であったなら、抗命罪をおかしてまで作戦中止を命令するなどありえない。一艦残らず撃沈されるまで沖縄に向かわせたはずである。
繰り返すが、伊藤中将は戦いの常道を往く用兵家だった。同時に、敵を知り己を知る賢明な軍人であり、そして息子に真の海軍士官たることを望んだ父親だった。
この父が、息子に特攻を許すはずがなかった。筆者はそう確信している。
筆者が伊藤中尉のことを知ったのは、佐伯の海に短い生涯を終えた井尻文彦について調べるうちにめぐりあった、彼の葬儀について語った実弟武弘氏の一文によってである。
佐伯を舞台にしたこの物語に必ずしも関係するひとではないのだが、彼についての伝説が、いささか虚構に過ぎた形で伝えられすぎている気もしたので、供養のつもりで書いて来た。
もし筆者にも自由な空想が許されるなら、中尉は戦闘機乗りとして愛機零戦とともに鹿屋にあり、この国を守るためにあくまでも戦い続ける決意を持って、大和の直掩に加わったのだと思いたい。
父が息子に望み、息子が父に応えた、おそらくはそのふたりにしか分からない、父と子の、無言の会話がそこにあったと思いたい。
沖縄特攻作戦は、総称して菊水作戦と呼ばれている。
菊水は楠木正成が用いた家紋である。
正成は後醍醐天皇の無謀な戦略を諌めるが、我意を通す天皇に逆らえず、絶対不利を承知の戦場にあえて出陣し討死をとげる。そののち子の正行が、亡父の衣鉢を継ぐ決心を成すに至る「小楠公」の逸話は、第三章に書いた。
父は息子に、生きよ、そして戦えと願った。子は生き、戦い、そして死んだ。
作戦名の菊水はまったくの偶然としても、この南北朝時代の父子と、沖縄をのぞむ南の海に散った父子とは、どこか似ているような気もするのである。
長かった戦争が終わろうとしている。
それは豊後水道が、日露戦争終結後四十年間担わされてきた、軍事上の要路としての役割を終えようとしていることでもあった。
昭和二十年七月四日、新編の第八特攻戦隊が佐伯に開隊した。清田はその初代司令官であり最後の司令官となった。
フィリピン攻防戦で特攻隊が生まれた当初は、特攻への参加は志願制であった。実際には、ほとんど強要と言っていいやりくちで志願させられたケースも少なくなかったらしいが、この特攻戦隊の編制は、そういう建前さえ上級司令部が放擲したことを意味していた。
どこかで書いた。戦隊とは国家機関である海軍の組織名である。すなわち特攻戦隊の名は、それが制度化された組織であることを示している。つまり日本海軍はここに来て正式に特攻を制度化したことになる。
清田が対潜訓練隊の発案を引き継いで上級司令部に提言し、まがりなりにもその実現を見た対潜機動部隊のプランは、この時点で完全に消滅したといっていい。これ以降の彼の任務は、豊後水道を戦場とする特攻作戦について研究し、準備することとなった。
第八特攻戦隊の主力となる戦力は特攻兵器「海竜」と「震洋《しんよう》」である。
海龍は二人乗りの小型潜水艦である。本来は搭載した魚雷で敵艦を雷撃する秘密兵器として開発されたものだったが、戦隊での訓練は、体当たり攻撃を前提として行われることになっていた。搭載する魚雷の製造が間に合わないという事情もあったらしい。
震洋はベニヤ板で作られた一人乗りのモーターボートである。船体の先端部分に爆薬が積載されていて、そのまま敵艦に体当たりするという、こちらは最初から生還を期さない特攻兵器として開発されたものである。
米軍の日本本土上陸作戦が開始されたら、豊後水道を北上してくる敵艦隊の横腹をこれらの特攻兵器で突く、というのが第八特攻戦隊の、ごく近い将来の任務になるはずだった。
佐伯から宮崎にかけての九州東岸と対岸の四国沿岸には、これらの特攻兵器を隠匿し、かつ出撃拠点となる秘密基地が多数建造された。そう書くと聞こえはいいが、要は岸壁に掘られた洞窟陣地であり、街道の脇の草むらで竹槍を構えているのと大差はなかった。
呉防備戦隊にとっても、佐伯にとっても、豊後水道は連合艦隊が出撃するための海であり、敵艦隊を撃って凱旋するための海だった。それが今は、そこに押し入ってくる輸送船を竹槍で突くための海となった。
その現実を突きつけられた多くの人びとが、戦争はもうすぐ終わることを意識した。ただしそれは現在の私たちが知っている形での終わり方ではない。
敵と刺し違えるか、滅亡するか、この段階で彼らに与えられた終わりの形の選択肢は、そのどちらかでしかなかった。
一〇二号哨戒艇は引き続き清田の指揮下にあった。
「ということは、俺たちも特攻隊ということか」
乗組員は当然そのように認識した。このふねで戦うことに変わりはなくとも、今までは戦闘に勝利することが自己の生存につながっていたが、これからは死ぬことが任務になったのだ。少なくとも彼らはそう思った。
一〇二号を含む、第八特攻戦隊の水上戦闘艦艇の任務については詳しい史料が残っておらずよく分からない。そこで、ほとんど同じ時期に瀬戸内海にあった、第三十一戦隊に与えられた任務からそれを推測してみたい。
この戦隊は巡洋艦一隻と駆逐艦十七隻で編制されており、この時点では日本海軍最強の水上打撃艦隊といえた。司令官は鶴岡信道少将である。
鶴岡については第四章で一度紹介したが、兵学校は清田の一年後輩にあたる四十三期であり、清田が第二護衛船団司令官を務めたさい、鶴岡は第三護衛船団司令官に任じられている。
戦隊を構成する各艦は人間魚雷「回天」を搭載するように改造されていた。戦隊の任務は、九州南部から四国南岸にいたる沿岸部に敵の上陸部隊が侵攻を開始した場合、これに肉薄して敵の兵員輸送船を目標に回天を発進させ、そののち挺身攻撃を加えることにあった。挺身とは要は捨て身の突入である。
おそらく第八特攻戦隊の水上艦艇に課せられた任務も、これと同様であったのだろう。
敵の侵攻路に隠匿した特攻兵器による攻撃で混乱を生じさせ、そこに水上艦隊が挺身突入、砲弾が尽きるまで撃ちまくる、といったあたりだろうか。
だが米軍は丸腰で上陸してくるわけではない。上空には千機を超える航空戦力の傘があり、海上には多数の護衛艦がいる。敵に接近するだけでも容易ではない。いずれにせよ一〇二号に残された道は、決死必死の殴りこみしかなかったはずである。
ところで前出の第三十一戦隊は、編制はされたものの、燃料不足もあって十分な艦隊行動ができず瀬戸内海西部に分散待機を続けていた。
このとき同戦隊に所属していた駆逐艦「楓」に、三月末の豊後水道における対潜掃討作戦で指揮をとった伊藤義一大佐の次男、伊藤正敬大尉が航海長として乗艦している。
伊藤大尉は、戦後の海上自衛隊で旧軍の少将にあたる海将補まで務めた人で、この物語にも多くの助言を頂いているが、この頃のことを手記の中で次のように語っている。
「当時の瀬戸内海は敵の投下した機雷のため極めて危険であり、最後の本土防衛作戦まで兵力を温存するため、呉南方の倉橋島の木浦で偽装することになった。陸岸に横づけして陸上からワイヤーを張り、綱をかぶせてその上を木で覆い、敵機の発見から隠れたのである」
つまり燃料不足と機雷のために、彼らには、最後の一戦のための訓練さえ許されなかったということだ。死にゆく日まで、そうやってただ待つしかなかったのである。
それは一〇二号の出口たちにとっても同じことであった。
一〇二号の艦内の士気は、目立たぬところで少しづつ低下しはじめていた。
艇長の水谷は優秀な船乗りで、艇長として十分に乗組員の尊敬を集めていた人物だったが、それは水谷の指揮官としての資質が、彼らの生存を保障していたからである。どれほど高潔な人格であってもいくさが下手であれば、部下はその指揮官を支持しない。
乗組員のすべてがこの艦長のためなら死ぬのも本望と慕っていた、などといった軍隊美談はそれを信ずる者によってのみ語り残される。しかし、この時、このふねに乗り合わせた人々の全員が、それほど単純に生きていたわけではなかったし、それほど簡単に死を考えるわけにはいかなかった。
「艇長がよ、ふたことめにゃ特攻精神だ。言われるたんびに金玉が縮みやがる」
夕食後、といってもまだ夕方の六時ぐらいのことである。古参の水兵が三人、露天甲板上の喫煙所でしゃがみこんで話していた。出口は偶然そこを通りかかって足を止めた。古参兵らは彼に気づいていない。
「今日も特攻、明日も特攻。穴掘りも特攻、ははッ、肥えタゴ担ぐのも特攻てなもんだ」
「まあ野良仕事くらいはよろしがな」
「良かねえよ。あの調子じゃ奴さん、敵が来たら真っ先に突っ込むぜ」
「はあ、ウチの大将はやる気満々やからな」
「待て待て、そこや。ええか、特攻精神言うてもな、特攻せいしんや。ほんまに特攻せえとは言うとらんやろ。艇長の言うとるのはたとえ話や。そう心配せんかてええんやないか」
「わかるもんか。先任は先任で、こいつがまた張り切っとるだろうが」
「はあ、どうせ死ぬんなら、こんなとこやのうて、くにに帰って嫁さんと子供守って死にたいもんやなあ」
そのひとことで、三人は黙り込んでしまった。彼らにも家があり、家族があった。戦って、生き抜いて、いつかまた無事で会えることだけを希望に戦ってきたのだった。その望みがいま断ち切られようとしている。無頼な古参兵たちにも、それは絶えがたい切なさだった。
出口は彼らが黙ってしまったのを潮に、おういと間の抜けた声をかけた。三人は驚いたが、相手が出口であることを認めるとばつの悪そうな表情を作り、目線が合わぬように体の向きを変えた。
出口は顔を背けた三人に低い声で言った。聞かぬふりもできなかった。
「もうその辺にしとけ。誰が聞いてるかわからんぞ」
階級では出口が上だが、彼らは古参兵である。軍歴だけを比べれば出口より長い者もいた。彼らは下士官に反抗こそできないが、意図的に無礼な態度をとるくらいのことには、たいして遠慮もしなかった。出口も、それをいちいち咎め立てすることが、何の得にもならないことを知っている。声から怒気を除くため苦笑した表情を作り、彼らを安心させようとした。
「俺には良く聞こえなかったけどな、耳のいい上もいるから気をつけろよ」
出口がそう言うと、古参兵たちも同様の笑顔を作り「はあ」と頭だけ下げた。この下士官は要領が分かっている。逆らう必要はない。とっさにそう計算を立てたらしい。
相手が反抗しなければそれでいい。出口はもうひとつサービスした。
「ひとついいことを教えてやろうか。あのな、どうも明日あたり出港らしいぞ」
「ほんまですか」
「貴様らが作業に出ているあいだに燃料を積んだんだ。タンクの腹具合からすると、そんなに遠くでもなさそうだけどな。点呼前に先任から達せられるはずだ」
「そいつはありがてえ」
古参兵たちは素直に喜んだ。上陸できるのはありがたいが、こう毎日が陸上作業では気分も滅入るというものだ。久しぶりに海に出られるのは悪くない。
「分隊士は何をやっちょったんですか」
ひとりがお愛想代わりに、どうでもいいようなことを聞いた。
「銀蝿だ」
「ははあ、別嬪さんにお土産でっしゃろ」
ひとりがそう言うと他のふたりが下卑た笑い声を立てた。出口と伊藤の下宿に年頃の姉妹がいるという話は、艦内の誰もが知っていた。
銀蝿とは、艦内の物資、特に食料品をちょろまかすことである。むろん禁止されてはいる。しかし日本海軍では、これが食べ盛りの若者たちの、可愛気のある悪戯程度に認識されていてほとんど公認の小悪事と見なされていた。
だれもが黙認されていたわけではない。新米の水兵などがこれをやって捕まればバッターが待っている。「十年早い」というわけである。軍歴が長ければ許されるというのも不合理だが、出口の階級と勤務歴であれば、倉庫の管理担当者に「すまんが頼む」と手を合わせれば何とかなった。
その日の出口の銀蝿は見舞いのためだった。彼が帰宅してみると、亮が怪我をして寝込んでいたのである。
磯で遊んでいて足を滑らせ、くるぶしのあたりを数センチほども裂いたという。
今どきの子供なら親に連れられて外科に駆け込むだろうが、守後浦には病院がなく、医者に見せるには堀切浦まで船を漕ぎ出さねばならない。とりあえず、文太郎が採ってきたよもぎを練って傷口にあて、さらし木綿で巻いて手当てとした。傷は確かに大きかったが深くはない。まずこの程度ならと、文太郎も亮も多寡をくくっていた。
ほどなくして熱が出た。傷のせいだと誰もが思い、傷のせいならば一過性だと思い込んだ。何にせよ寝ておけということになり、亮は床に着いた。そこに出口が帰ってきたのである。
出口は事情を聞くと一度ふねに戻り、なにやら赤い液体が入ったサイダー瓶を持って戻ってきた。むろんこの家の家族には、銀蝿は内緒である。
「フルーツのシロップです。本当はパインか桃の缶詰でもあれば良かったんですが、これしか手に入りませんでした。亮君に飲ませてあげてください」
そう言って徳に手渡しながら、水で薄めて飲むんです、と付け加えた。横からは香代子が、フルーツとは果物のことだと母親に教えた。
それから出口はいつもより手早く夕食を済ませると、自分と伊藤はしばらく遠慮をするから亮君を座敷でゆっくりやすませてやってくださいと言った。徳はそんな気を遣うことはないと引き止めたが、出口は笑って、いや、ふねが出るんですよとだけ言い、艦に戻って行った。
その夜のうちに桂佑も熱を出して寝込んだ。亮の高熱が、足の傷が原因でないことはこれで明白になった。食事は喉を通らず、出口が持って来たシロップを薄めて飲ませたが、しばらくするとふたりとも吐いた。やがて下痢も始まった。
翌日の午後、文太郎が船を漕いで堀切浦から医者を連れてきた。
文太郎が家を出たのは早朝だったのだが、医者は何だかんだと理屈をつけて出かけ渋った。実際のところ、彼には診なければならない患者もいたのだろうが、文太郎は息子たちの病状に安からぬものを感じていたから、最後には久保浦の安藤の家まで行って武士を引っ張り出し、ついてきた美弥と三人で医者を口説き落とした。
初老の医者は桂祐と亮を診たあと、難しい顔で赤痢だと告げた。それから続いて、両親には絶望的な宣告をした。
「薬がねえけえ、どうしようもねえ」
赤痢は、子供の場合には疫痢とも言い、水や食物を感染経路とする伝染病である。抗菌剤で治療するのだが、それが行われない場合、抵抗力の弱い子供だと数日で死亡することもある。
この当時、それらはさほど珍しい伝染病でもなかった。
少し古い資料だが、前年十一月付の佐伯防備隊の戦時日誌には、佐伯市内で、赤痢と疫痢の感染者が各一名、腸チフスの感染者が八名確認されたことが記録されているし、それに加えて「気候風土ノ関係カ、衛生状況極メテ不良ナリ」と所見が述べられている。
そのころに比べても、佐伯市の衛生状況はさらに悪化していて当然であった。しかも梅雨が明けて猛暑の時期である。兄弟を襲った細菌が、どういう経路で島に上陸したかは不明だが、守後浦では同じ時期に相当数の罹患者が発生しており、文太郎の記憶では七人ほどが死亡したという。ただしこれは、もうしばらくしてから明らかになることである。
赤痢疫痢は決して死病ではなかった。問題は、島に治療のための薬がなかったことである。診断を下した医者は言った。
「とにかくな、あんたたちまでが罹らんようにせにゃイケン。生水は飲みなさんな。それから魚でも菜っ葉でも、火を通したものしか食うたらイケン。便所に行ったらよう手を洗うてな、何にしても清潔にしちょくことじゃ」
徳にしてみればそれどころではない。桂佑と亮を助けるために何をすればいいのか、それを知りたいのだ。
「保健所に薬を頼むしかねえ。あるかどうかは分からんが」
医者はそれしかないという。それまでは、一度沸かした白湯を飲ませて水分を補い、手足が冷えてくることもあるから、熱が出ても布団をかけてやるように、と言った。
「ほいたら先生、ここで手紙を書いてもろうたら俺が船ェ漕いで保健所に持って行きますわ。堀切まで戻りよったら時間が惜しなげえでしょう」
この医者が悠長なことを知っている文太郎がそう急かすと、相手は少し首をかしげて
「守後にゃ電話はなかったかの」と言った。
文太郎は、ああそうかと合点すると香代子を呼び、電話のある浜野の家まで医師を案内するように言いつけた。
ふたりが出てゆくと、文太郎は部屋の奥から文箱を出してきて。墨をすり始めた。先ほどの会話のあとなので、恵美子は、この父親のことだから、万一電話が通じなかった場合に備えて手紙を書く用意もしておくのかと思った。
ところが文太郎は、墨をすり終えるとそのまま筆をとって、さらと何かを書き始めた。誰に何を書いているのかは分からないが、まったく文面を考える様子もない。書き始めてから筆を置くまで、一度もその手を止めなかった。
それから文太郎は奥の部屋に立つと、野良着を脱いで国民服に着替えた。それはこの当時の外出着としては標準の服装だったが、彼がそれを着るのは珍しいことだった。
「お父さん、そんな格好してどこ行くん」
文太郎は一切しゃべらずにことを進めていたので、恵美子はとうとう我慢できなくなって、そう尋ねた。
「ちょいと街まで行ってくるけの、お母ァを頼んじょくぞ」
文太郎は最後に国民服の上衣に袖を通した。それは木綿だが生地が厚く、この季節には少々暑苦しい服だった。
「お父さん、そりゃあちょっと暑かろう」
「そうじゃのう」
「どこに行くか知らんけど、この季節じゃけ、何も上着まで着らんでもエエんとちがう」
恵美子はそう言ったが、上衣を着なければその下は袖なしの肌着一丁なので、どうにも様にならないことに気づいた。
「まあエエ、暑かったら脱ぎゃあエエことよ」
文太郎は先ほど書いた手紙を折りたたんで、さらに宛名を書いておいた半紙に包み、懐中にしまうと、玄関に出て靴を履いた。
亭主が出かけようとしているのに、徳は息子たちの傍にうずくまったまま動かない。
「桂よい、がんばれや」
「亮よい、死ぬんじゃねえぞ」
泣きそうな声で、ふたりの息子に声をかけていた。
文太郎はほんのしばらくのあいだそんな妻の様子を見ていたが、やがて黙って玄関を出た。恵美子は玄関先まで出て文太郎を見送ったが、すぐに、引き返してきた父親を出迎えることになった。
「お母ァ」
文太郎は徳に声をかけるために戻ったらしかった。
「清田少将に頼んでくるけの。なんも心配せんでエエ」
それから恵美子に、絶対に孝太郎を病人に近づけるなと言った。このとき恵美子は、父親が滅多なことでは使わない命令口調に気圧されて、思わず、はいと大声で答えた。
徳は文太郎が再び出かけてしまってからしばらくして、亭主の言ったことの意味をようやく呑みこんだらしく、今度はふたりの息子に「よかったのう」と繰り返した。
医師を案内して行った香代子はひとりで帰ってきた。彼女は文太郎を呼んだが、恵美子から事情を聴くと、姉に顛末を話した。
医師が浜野の家に行くと、家人が、近所にも同じように腹をこわして熱を出している病人が数名いるという。医師は電話を後回しにしてそちらに駆けつけたが、戻ってきた時はいっそう深刻な顔になっていて、「同じじゃ」と言った。
彼は香代子に、こういう事情なので自分はこのあたりの病人をみんな診てから戻ると言い、彼女を引き取らせたというのである。
「本当に海軍さんが助けに来てくれるじゃろうか」
香代子はそう不安を口にしたが、恵美子は徳のほうを眼で示して、要らぬこと、と釘を刺し
「来てくれるよ」と断言した。
清田少将は優しい方で、この家とは前からの付き合いもある。どうして放っておこうかよ。そう言った。
徳や恵美子には語らなかったが、文太郎には自信があった。
(一〇二号が助けてくれるじゃろう)
文太郎はそう考えていた。彼が舟を出したころ、一〇二号はすでに出港したあとだったが、あのふねが帰る港はこの守後浦なのである。
およそ五十人からの乗組員が守後浦に下宿している。そこに伝染病が居座ってしまうなら、彼らは泊地を変更するしかない。それ自体は難しいことではないが、彼らが今まで作ってきた洞窟陣地や芋畑がすべて無駄になってしまう。守後浦はすでに基地の一部なのだ。見殺しには出来ないはずであった。
文太郎はやがて防備隊の隊門についたが、その変わり果てた庁舎の姿に表情を険しくした。コンクリート建築の、背の高い二階建てだった庁舎が、まるで旅役者の一座の背景のような、一枚板になったコンクリートの壁だけを残して廃墟と化していた。
気になったのはそればかりではない。隊門に掛かっている大きな板の看板に防備隊の文字はなく、特攻戦隊と書かれている。
(特攻ちゃどういうことか)
文太郎が、佐伯基地の部隊改編を知ったのはこの時である。もし清田もまた他所へ転出していたら、話は簡単ではなくなる。彼は隊門を守備する衛兵に声をかけた。
文太郎の気も急いていた。事態は一刻を争うのである。しかし彼は自分に焦ることを禁じ、いかにも悠々と構えてこう言った。
「大きにすまんことですがの、清田さんに手紙を届けて欲しいんじゃが」
衛兵には、さん付けが気になった。清田さんとは誰のことか、と聞いた。
「司令官の清田少将じゃ。守後の山本からと伝えてくださらんかの」
どこの馬の骨とも分からぬ民間の親父の来訪である。衛兵は追っ払っても良かった。
しかしこの親父、妙に落ち着いていやがる。最近は誰でも国民服を着ているから、身なりで身分を判断できないのが厄介だ。それに、さん付けで呼ぶからには、ひょっとすると司令官の知人かも知れない。
そう判断した衛兵は伝令兵を呼ぶと、文太郎に向き直った。
「それではお手紙をお預かりいたします」
文太郎はまず安堵した。この様子なら清田はまだこの基地にいるようだ。
彼はそこでしばらく立ったまま清田からの返答を待った。それにしても、基地のありさまは見れば見るほど無残だった。清田のことは、よくぞ無事でいてくれたと思ったが、基地がこの様子では、寝起きや食事にも苦労しているのではないかと気になった。
伝令が駆け足で帰ってくると、衛兵はさらに態度を丁重にして、隊門の内側に文太郎を招き詰所のようになっている一画に案内して椅子を与えた。
それは、そこら辺に散らばっていた木切れを集めて急ごしらえしたような掘っ立て小屋で、文太郎が蜜柑畑に立てた産屋と、どっこいというほどの代物だった。
「これが帝国海軍か」
文太郎はすでに敗戦を予期してはいたが、長いあいだ親しく思ってきた海軍の凋落振りを、実際にその目で見るのは辛かった。
先ほど伝令に走った若い兵隊が、ヤカン代わりの土瓶から茶を入れてくれた。文太郎は礼を言ってからゆっくりとそれを飲んだが、飲み終わるころにはそれが汗になってふきだした。
「暑いでしょう。良かったら上着をおとりください」
「なんの。このくらいで暑いなんちゅうたら、あんたたちに申し訳ねえがよ」
そう言ってから、文太郎はこんなことを思い出した。
おととしの冬の、ある日のことだ。亮が代用教員の舟木先生に褒められたという。くわしく聴いてみると、真冬の寒さの中でも亮が薄着でいるものだから、山本君は強い子だねと褒めてくれたらしい。
そこまでは良かった。ところが翌朝、亮はその薄着のまま出かけようとして、つい、寒いと口に出してしまったのだ。文太郎はそれを聞くと、亮に厚着をしていけと叱った。
おまえが褒められたのは薄着をしていたからではない。薄着で寒かろうに、それを口にせぬところが偉かったのだ。しかし今の寒いの一言で、それも帳消しになった。寒いと言うならば厚着をして行け。そして男なら今後二度と、寒いの暑いのと口に出すな。
文太郎は亮にそう言ったのだ。
(いらんことを言うたのう)
文太郎は妙におかしくそう思った。別に後悔したわけではない。息子にそう言ったからには自分もここで暑いとは言えないではないか、その程度のくすぐったい自虐だった。
しかしその直後には、せんべい布団で苦しんでいるはずの息子たちが思い出されて、今度は胸が痛んだ。彼らは痛いとも苦しいとも言わずに、ただ息を荒くして耐えていた。
健気ではあったが、そのことは文太郎に何の満足も与えなかった。
息子どもは泣いてもよかったし、痛い苦しいと叫んでも自分は許しただろう。それを彼らに禁じたのは自分であったし、禁じたことをせつなく思い出すのも自分だった。文太郎はそれを矛盾とは考えないが、やはり胸は痛んだ。
しばらくすると清田の返書を持った伝令兵が駆けてきて、文太郎に手渡した。
「司令官から、お目にかかれず残念です、とのことでした」
「なんのい。お返事だけでまことに有難いことです。司令官はお元気でいらっしゃいますかの」
「は」
伝令兵は、それ以上ものを言ったものかどうか、少し考えたようだったが、やはり質問には答えず、敬礼をして帰って行った。
文太郎は衛兵に礼を言って隊門から出た。その場で清田の返書を開けるのは憚られたので、それは懐に入れたまま、もと来た道をまっすぐ戻った。衛兵の視界から消えるところまで歩く時間が長かった。
清田はそのとき、海龍の搭乗員として着任した特攻隊員たちを引見し、激励の訓示を終えたところだった。手紙を受け取るとその場でそれを読んだ。
清田は文太郎の人物を知っている。突然の来訪は非礼と言えなくもない。それだけに十分な理由があってのことに違いないと直感した。彼は手紙を読むと、すぐに指示を出した。
「谷口君を至急呼んでくれ。軍医長の谷口少佐だ。私の部屋にな」
軍医長が来るまでの短い間に、清田は司令官室に戻り、文太郎への返書を書き上げ、伝令を呼んで手渡した。やがて清田の前に、軍医長谷口竹雄少佐が立つ。
「大入島守後浦で赤痢患者が少なくとも二名発生している。軍医長は直ちに医療班を編成し、現地に急行させてくれ。」
「は。守後浦というと、一〇二哨ですか」
「いや、現地の住民からの通報だ。患者は子供が二名」
「子供、ですか」
谷口は目をしばたいた。任官して以来、子供の患者を扱ったことはさすがに一度もない。
「そうだ。ただし、病気が病気だけに、その他にも感染者がいる可能性がある。人員装備には十分余裕を持たせて出してくれ」
「司令官」
「どうした」
「現在のところ、薬品の補給が十分ではありません。ここでそれを消耗しますと」
谷口の懸念は、彼の非情や官僚主義のせいではないだろう。それは確かに、現実的で深刻な問題だった。
「うん。しかし現在のところ患者は子供が二名だが、現地は一〇二哨の泊地の至近だ。さらにその子供たちの家には一〇二哨の下士官も下宿しておる。どう思うかね」
「はい。了解しました」
「その家の場所は西川曹長が知っておる。西川曹長、教えてやってくれ、あの家だ」
一年前の秋、文太郎を訪問する清田の供をした、司令部付きのその下士官は、それはすぐに書いてお届けしますと言った。
暗に、一刻も早く準備にかかるべきだと谷口に勧めたのだろう。実務レベルの経験が豊富な彼らは、事態に臨んでなにしろこういう機転がきいた。日本海軍は優秀な下士官に支えられていたと言われるゆえんである。
部屋を出ようとする谷口に、清田は、その子供たちを絶対に助けてやってくれと念を押した。
ついさっき清田が訓示を与えていた相手は、そう遠くない将来において、彼が必死の出撃を命令しなければならない特攻隊員たちだった。
自分は彼らを死地に送る。死ねと命令する。すでにこの戦争は、それが指揮官の命令として正しいか否かが問える戦争ではなくなってしまっている。そんなざまの自分の命令で、やがて彼らは死ななければならない。せめて、その少年たちの、戦争で死ななくてもいい命は助けてやりたい。
清田が、医療班を乗せた内火艇が岸を離れるのを庁舎の窓から見たのは、それから二十分も立たぬうちだった。内火艇はさほど俊足ではないが手漕ぎ舟よりは速い。医療班は文太郎より先に彼の家に着いた。
軍医は桂佑と亮を診断し、それぞれに注射を一本施した。そのあと、衛生兵が彼らの布団を外に持ち出し、噴霧器を使って消毒液を吹きかけたという。
「その時の手つきがいかにも汚いものを触るようで、腹が立った」
亮はそう述懐するが、それは事実汚かったはずである。
しかし少年の心の中には、敵の糞がこびりついた便器に爪を立てて磨いた広瀬武夫がいた。軍神と比べられてしまった衛生兵たちも気の毒である。
文太郎が帰ってきたのはその最中だった。彼は岸壁に内火艇が停まっているのを見つけて、すでに状況を察していたが、それにしても素早い清田の手配りに頭が下がった。
素早いといえば清田の返書がそうであった。ゴ注進ヲ謝シ候。万事オ任セ有度。その程度の内容だったらしい。思えば彼が文太郎との面会を避けたのも、会えばそれだけ文太郎の帰宅が遅れると判断したからだろう。文太郎はそう理解していた。
文太郎は家に入ると、何よりもまず医療班一行の最先任と見える士官に礼を述べたが、彼はこの士官の名や階級を記憶していない。もしかしたら特に名乗らなかったのかもしれない。
それからその士官は文太郎に幾つかものを尋ね、家族のほかの者にはどうやら感染の心配がないことを確かめると、最後に、生水や生ものを口にするなとか、病人に触ったら十分に手を洗えととか、堀切浦の医者と同じ注意を与えた。
「赤ん坊を病人に近づけてはならない」
新生児は抵抗力が弱い。赤ん坊を触る母親も病人から遠ざけておくように、とも言った。
「いいですね。さて、この家のほかに患者が出た家はありますか」
「いや、それはどうじゃろうか」
文太郎が首をひねったので恵美子が口を挟んだ。浜野さん方の近所に何人かおるそうです。そう父親に告げた。文太郎は娘にそこまで皆さんを案内せえ、と言いつけ、外の道まで彼らを見送った。
「大きにありがとうございました」
文太郎が腰を折って最敬礼すると、その軍医は少し難しい表情で文太郎を見た。彼はいちど恵美子の顔をちらりと見て、それから言った。
「上の息子さんはまず大丈夫と思います」
文太郎と恵美子はその意味をすぐに理解した。無言で問うふたりのまなざしを受けた軍医はその先を続けざるを得なかった。彼は必要のない部分を省略して言った。
「今夜から明日にかけてが峠でしょう」
文太郎は娘を見た。恵美子は黙って頷いた。徳には言うなと、それだけで伝わった。
米海軍の大艦隊が日本の近海に迫っていた。
第三艦隊である。艦隊司令長官はウイリアム・F・ハルゼー大将。
実のところ、この艦隊は沖縄攻略を支援していた第五艦隊そのものである。
米海軍はひとつの大艦隊を、ふた組の司令部に交代で指揮させるという、まず日本海軍では考えつかないようなきわめて合理的、かつ柔軟な発想で運用していた。スプルアンスが指揮を執る時は第五艦隊、ハルゼーの指揮下では第三艦隊と呼ばれている。
これは司令部要員の休養のための措置である。
艦隊は大遠征とも言える作戦行動を続けている。休養なしにこれを継続することは不可能だ。だからと言って、ひとつの作戦が終了するたびに全艦隊を休養させていたのでは、日本海軍に立ち直る時間的余裕を与えてしまう。
そこで彼らは、大艦隊を四グループに分け、交代で休養させるという策をとった。
順番が来たグループはグアムやパラオに寄港する。そこで艦艇には補給と修理、乗組員には上陸休暇が、冷えたビールやステーキとともに与えられる。
ところがこの方法だと、司令長官以下の司令部を休ませることはできない。それなら作戦の区切りごとに司令部そのものを交代させればいい、というわけである。
グアムに上陸した艦隊司令部は、休暇もそこそこに次の作戦の実行計画を練る。洋上と違い、ここでは戦闘の実務に煩わせられることなく、これに集中できる。実に効率がいい。
しかし、最後の交代は沖縄作戦の進行中という異例の措置だった。
理由は第五艦隊司令部の疲労である。スプルアンスやミッチャーは、硫黄島から沖縄に至る海上の戦線で十分にその作戦目的を達成してきたが、その代償として、心身ともに疲労の極に達していたという。こうして遠征艦隊の司令長官はハルゼーに、艦隊の中核をなす機動部隊の指揮官はジョン・S・マッケイン中将に代わった。
ハルゼー提督は、対日戦争の初めから空母機動部隊の指揮官として勇名を馳せた人物だが、「ジャップをもっと殺せ」の掛け声で知られた積極攻撃型の猛将でもあった。
彼が何度目かの第三艦隊司令長官の席についたとき、彼が戦って叩きのめすべき日本艦隊はすでに存在せず、沖縄もすでに陥落寸前だった。このため同艦隊の圧倒的破壊力は、もっぱら日本本土への空襲に向けられることになる。
マッケイン中将は空母「シャングリラ」を旗艦として指揮を執った。
シャングリラはヒルトンの小説「失われた地平線」に登場する架空の理想郷の名である。
真珠湾被爆の半年後、米機動部隊は東京への決死的な報復爆撃を成功させたが、その勇敢な爆撃隊はどこから発進したのかという記者団の質問に対して、大統領ルーズベルトは「彼らはシャングリラから飛んだのさ」と答えたいう。
空母シャングリラはこのエピソードに因んで命名され、マッケインは明確な意思をもって、この空母を旗艦に選んだ。偶然ではありえない。
第三艦隊はほとんど傍若無人に日本本土近海を遊弋し、各地に空襲を反復し、時には沿岸に接近して艦砲射撃まで加えた。
米軍の次の攻略目標は九州南部である。そのための作戦はオリンピック作戦と名づけられ、鹿児島県と宮崎県のほとんど全域を制圧して、そのあとの関東上陸作戦を支援する航空基地を確保しようというものだった。
ハルゼーはこの作戦の発動までに、上陸部隊にとって危険要素と思われるあらゆる可能性を徹底的に排除しておかねばならなかった。空襲は執拗に繰り返された。
豊後水道の軍事的要所は次々に撃砕されていった。
ところがこの期間の旧軍の公式資料には、佐伯が米軍の空襲を受けた記録がまったく残っていない。記録そのものがないのである。遺失か、それとも未公開なのかはわからない。
そこで筆者としては当時を知る人々の記憶に頼るしかないのだが、桂佑や亮の記憶によれば「空襲はしょっちゅうだった」らしい。
そのひとつの例として、大入島からさほど離れていない小さな島で、地元の人々が血を吐くような思いで現在まで語り伝えてきた、あまりにも憤ろしい悲劇が起きている。
佐伯湾は、陸地が豊後水道に向かって二本の腕を伸ばした、その両腕の内側の水域である。その北側の腕の先端に、ちょうどこぶしにあたるような小島がある。大入島からの直線距離はわずか十五キロほどしかない。その島の名を保戸島《ほとしま》といった。
七月二十五日にこの島をごく少数の米艦載機が襲った。彼らはこの日、別の目標に向かっていたのだが、雲のためにそれを発見できず、偶然視認できた保戸島に襲いかかったらしい。
米海軍の戦闘報告書によれば、彼らが目標としたのは、島に設置された「無線とレーダーの基地」だったことになっている。
この島でもっとも標高の高い遠見の丘には、確かに佐伯防備隊の駐屯施設があった。これは豊後水道に敷設された潜水艦探知器からの信号を受信するための施設だった。
ところが投下された爆弾は、この丘のふもとにあった国民学校を直撃した。
授業中だった。木造二階建ての校舎は一撃で倒壊した。
この空襲では住民百二十七人が死亡したが、そのほとんどが国民学校の児童である。しかも彼らの全員が最初の爆弾で命を奪われたわけではなかった。
このとき難を逃れた人々の証言によれば、米戦闘機は倒壊した校舎に対して機銃掃射を反復したという。校舎の瓦礫の下から脱出して、防空壕に逃れようとしていた児童たちにも銃弾が浴びせられた、ともいう。
故意か誤認か。いずれにしても非戦闘員の大量殺傷である。仮に終戦後の戦争犯罪人裁判で勝利者側も等しく裁かれていれば、当然重罪が適用されるべき大事件と言えたが、この一件が現在まで公式に告発されたことはなく、その凶弾が流れ弾か、目標誤認か、それとも意図的に学校を目標に選定したのか、攻撃を実施した米軍側の事情の詳細は未だに不明である。
不明ではあるが、最初に爆弾が命中しているにもかかわらず、同じ目標に対して機銃掃射が反復されたことは、搭乗員が最初からその建物を標的に定めていたことを示しており、同時に彼らの執拗な攻撃の意志がそこに現れているとも書かざるを得ない。
また、じつに嫌な書き方だが、初弾を目標に命中させるほどの腕前をもったパイロットが、その照準器に映った児童の姿を戦闘員と見間違えるとも思えない。
しかしこれは筆者の憶測にすぎず、憶測をもって被疑者を糾弾することは許されない。
ただ、仮に彼我の立場が逆であったとしたら、日本の搭乗員は抗弁を許されず、戦犯として処刑されていただろう。その後の歴史の事実に照らすなら、これだけは疑いない。
この米艦載機は、空母「ランドルフ」から発進した戦闘機と記録されている。
手の平を返して搭乗員を弁護するつもりはないが、ランドルフはこの年の三月に、特攻機に突入されて多数の死傷者を出している。
当時の米軍兵士にしてみれば、カミカゼはまったく人間としての常軌を逸した戦法だった。
彼らはカミカゼを怖れた。攻撃によって蒙る被害を怖れたのではない。このような戦い方を思いつく敵の精神性に恐怖したのである。俺たちが戦っている敵は本当に人間なのかという、オカルトにも似た、背筋が凍るような、それは恐怖だった。
人間の心が恐怖で満たされたとき、精神はこれを理性によって排除しようとするが、本能は心の内壁に憎悪という毒を分泌させて恐怖を中和しようとする。そしてしばしば理性は本能を制御できず、毒の分泌量は適性値を越え、心は自家中毒を起こす。
カミカゼのような真似を考えつく、狂った殺人鬼のような連中に、戦場のルールで守られる資格なぞあるものか。戦時国際法は人間にだけ適用されるのだ。
それまで共に戦ってきた仲間を、彼らにとって狂気としか思えない攻撃で殺されてしまったランドルフのパイロットの中に、そう血迷った者がいたとしてもおかしくはない。
血迷っていたのは彼らだけでもない。
日本人にとっては、女子供の区別もなく焼き殺すB29は天魔以外の何者でもなかった。
戦時中の政府は敵国人を鬼畜米英と宣伝した。戦後になると、それは悪辣な洗脳政策であり、国民は政府に騙されていたのだという逆宣伝の材料になったが、現実に家族を焼かれた人々にしてみれば、政府の言っていることはまったく正しいと思えたに違いない。
このころ日本の上空で被弾したB29の搭乗員が、パラシュートで脱出降下したさい、付近の住民に虐殺されるという痛ましい事件も頻発している。
どちらも怖れていた。どちらも憎んでいた。
どちらもむごく、どちらも悲しく、どちらもやりきれない。それが戦争なのだ。
保戸島の惨劇と同じ日だったのか、それともその前後の、呉軍港大空襲の日であったのか、確かなことはわからない。佐伯基地を数機のグラマンが襲った。
例によって本当にグラマンかどうかもわからない。人々にとって、濃い紺色の戦闘機は全部グラマンだった。
空襲警報が鳴り基地の対空砲が射撃を開始した。射撃音がずいぶん近いものもある。それは大入島の山上に移された怒和島《ぬわじま》の対空機銃だったらしい。
それは医療班が来た翌朝のことだった。桂佑と亮はまだ起き上がれずにいた。
文太郎は徳に孝太郎を抱かせ、香代子にはのりえと慶子の手を引かせて、台所の勝手口から裏庭の崖に掘った防空壕へ避難するように言いつけた。
恵美子が雨戸を外そうとしている。
彼女は雨戸の板を、病人を運ぶ担架の代わりにするつもりだった。
「戸板はいらんぞ」
文太郎がの声がした。
恵美子は要領を得ないまま雨戸を元にはめ戻して戸袋に仕舞おうとしたが、ふと思い直して雨の夜などにはそうするように、今度は完全に閉めた。部屋が暗くなった。
恵美子がその作業を終わらせて部屋の内側に体を向けると、文太郎は亮が寝たままの蒲団を奥の狭い蒲団部屋に引きずっていた。その部屋から防空壕のある裏手には出られないことを、もちろん恵美子は知っている。
「お父さん、何しよるん」
「桂佑もフトンごとこっちに引っ張って来い」
恵美子は父親の言っている言葉の意味は了解したが、真意を理解することはできなかった。父は弟たちを、空襲の中に置き去りにしようとしている。解るのはそれだけだ。
「防空壕に、連れて行ってやらんの?」
反問した。理解できない自分がへりくだってしまったような、頼りない声になった。
恵美子が動かないので、文太郎は自分で桂佑の蒲団の端をつかみ、奥の部屋に引きずった。ふたりの息子たちはされるがままに、ぼんやり天井を見ている。
恵美子は、薄明かりの中に正体の知れぬ者を見つけた時のような口調で、父を呼んだ。
「お父さん」
「なんか」
「空襲なんよ」
「何を言うちょるんか。早う防空壕に行け」
「行けますか」
今度は抗議が強い言葉になって出た。
「このままにしちょいて、もし爆弾が落ちたらどうするん? 桂も亮も死ぬるんよ」
爆弾の必要はない。機銃掃射の流れ弾の数発でもこちらに飛んでくれば、藁葺きの屋根など簡単に貫通して、少年たちの体を引き裂くだろう。
文太郎は娘の抗議を予期していた。だから顔色ひとつ変えなかった。それから彼は恵美子に答える代わりに、息子たちに言った。
「孝太郎とひとつ穴には入れられんけの。エエな、ここで我慢せえ」
軍医は確かに赤ん坊を病人に近づけるなとは言ったが、疫痢は空気感染する病気ではない。その意味では、文太郎の用心は的を外していたかもしれない。しかし防空壕はまったく狭く、ふたりを横臥させるだけの余裕はなかった。
しかも息子たちの嘔吐と下痢は、まだ完全には治まっていなかった。狭い防空壕の中で体を折ってお互いが密着していれば、汚物による感染の危険は否定できない。素人判じではあるが、文太郎はそう考えるしかなかった。
さらに防空壕は坪根の家族と共用である。重蔵と園はもちろん、まだ年少の娘たちも一緒に入ることになる。そこに伝染病の患者を連れてはいけないのだ。
恵美子は黙った。ここから先、父親に逆らってはいけないことを彼女は知っている。
「恵美ネェ心配すんな。アメリカの爆弾が中るもんかよ」
桂佑が寝たままで言った。顔は憔悴していたが声には威勢が戻りかけていた。
「俺あ、防空壕に行くだけでよだきい《めんどうだ》。ここで寝ちょく」
亮は何も言わない。しゃべること自体がよだきい、そういう顔をしていた。
文太郎は息子たちを見た。桂佑と亮は父親を見た。
少年たちには不思議なほど不安の色がなかった。いや、桂佑の場合は、大胆な啖呵が大胆であるほど、その裏側に不安を押し包んでいるのだろうということを見て取れた。それは健気というべきで、文太郎はいじらしく思ったが、また頼もしくもあった。
しかし亮の場合はそうではなかった。彼はその時すでに死にかけていた。病気による死が、昨日からずっとこの十歳の少年に纏いついていた。いまさら空襲で死ぬことに怯える理由は、彼にはなかったのかもしれない。
文太郎は、桂佑にはそれを感じなかったが、亮とはこれが最期の別れになるかもしれないという恐怖を感じ、その別れを自分で演出する羽目になってしまったことを怨んだ。
彼は息子に何かを言いたかったが、それはこの場を、本当に別れの場面にしてしまうような気がして、彼自身の意思でその思いを断ち切った。
彼らが見合っていたのは寸秒であった。それだけで父と子らとの儀式は終わった。文太郎は娘に早く来いと促して防空壕へ続く台所のほうに歩きかけた。
恵美子は亮の枕辺に寄った。そこで膝を折って綺麗に正座すると、父親に言った。
「ウチはここに居るわ。エエじゃろ、お父さん」
部屋の中はほの暗く、文太郎は娘の表情をはっきりと見ることはできなかったが、その声は少し笑みを含んだ、恵美子のいつもの声だった。あらゆることを良いほうにとる、お人好しの娘の声だった。
文太郎はほんの少しの間を置いてから、ほいたらそうしてやれ、そう言った。
文太郎の足音が遠ざかっていく。その調子は妙に規律正しかった。まるで両脚の持ち主が、速度を一定に保つよう懸命に制御しているかのような正確さでリズムを刻み、そして少しづつ聴こえなくなっていった。
部屋の中は薄暗かった。蒲団部屋になっているその部屋は、建屋の一番奥にあたっていて、漆喰が剥げかけた土壁の向こうには裏山が迫っている。窓はそちら側にしかなく、しかも窓の半分ほどはガラスが割れて板でふさがれていたから、外光があまり入ってこなかった。
光はそのように控え目に入ってきていたが、音のほうは遠慮がなかった。
もっとも大きく、連続して聴こえてくるのは対空機銃の射撃音であり、もっとも恐ろしげで不愉快な音は、敵機が急降下する時の金属的な飛翔音だった。
その中に突然別の音が混じった。鈍く低く大きな爆発音だった。それが、爆弾が海面に着弾した時の音だということを、佐伯航空隊がやられた時の経験で彼らは知っていた。
すべての音が、防空壕で聴いた時よりはるかに大きかった。敵機が上空を通過したらしい時などは、桂佑も寝たまま首をすくめた。
恵美子は亮を見た。半分眠ったような目で天井を見ている。弟が空襲に恐怖を感じていないことが、むしろ恵美子には痛ましかった。恐怖に怯える力も残っていないのか、と思えた。
「むげしねえ」
弟が重い病気で苦しんでいることも、彼がそれで死ぬかもしれないことも、
空襲を受けているのに防空壕に入れてもらえないことも、
このまま爆弾で吹き飛ばされてしまうかもしれないことも、
そのとき、弟のそばには父も母のどちらもいないことも、
その全部が、この姉には狂おしいほどに痛ましかった。
(亮がここで死ぬのは、お父さんがコオに太郎という名前をつけた、そのせいかもしれん)
恵美子はそんなことも思った。それは決して文太郎への怨みごとではなかった。彼女には、それはこの家族が天と交わした不思議な約束ごとのような気がした。
恵美子は読書家である。教養という点ではこの家で文太郎に次いでいた。だから三男である孝太郎に、本来は長男の仮名《けみょう》である太郎の名が与えられたことが、妙に気になっていた。
父はふたりの息子に、動乱の時代を私心なく、潔く生きるための名を与えた。長命も栄達も富貴も、そして家を継ぐということさえも、少なくともその名には望まなかった。望める時代でもなかった。乱世だった。「はたちで死ぬる」ことが前提だった。
(けんど、お父さんには分かったんじゃろう。この戦争はもうすぐ終わるんやわ)
きっとそうだ、と恵美子は思った。
だから孝太郎には太郎をつけたのだ。
日本は負ける。負けてアメリカに占領される。
戦争の終わり方も恐ろしい。文太郎はもちろん、桂佑も竹槍を持たされて玉砕するだろう。私たちも死ぬ。大人はみんな死ぬ。この戦争が終わるということは、そういうことなのだ。
それからの日本は、今までとはまったく違う国になるだろう。アメリカの領土になるのか、九州は支那にとられてしまうのか。日本人はアメリカ人の奴隷となり、支那人の召使となって今までよりはるかに辛い忍従を強いられ、誇りを試されることになるだろう。
それでも孝太郎が、もし生き延びることができたなら、その時に道に迷わぬよう、世の中がどうあろうとも山本文太郎の子らしく生きよと、そう父は願ったのだ。
そして、ひとたびは奴隷の身分に堕ちてもこの国はきっとよみがえる。それは百年先のことかもしれないが、その時、孝太郎の子か、子の子か、あるいはさらにその子なのか、この家の血を継ぐ子らも、それを担う一人びとりになれと、父はまた、そうも願ったに違いない。
孝太郎は、文太郎の時代を次の世代に伝えよという願いを託されたのだ。だから太郎の名を与えられたのだ。きっとそうに違いないと、恵美子は思った。
文太郎の願いは天に通じたのかもしれない。こんなご時世だというのに、孝太郎には上等のミルクをたっぷり飲ませることができた。そのミルクだって、文太郎の功徳の、ご利益ようなものだった。
ところが兄たちは、はたちで死ぬことを覚悟させられて、さんざん貧乏を我慢させられて、そのあげく戦争がもうすぐ終わるとなると、まるで予定を繰り上げて帳面を合わせるように、疫痢だの空襲だので連れて行かれようとしている。潔く生きよという名をつけられたばかりに潔く死なされてしまうというのでは、神様も律儀すぎるというものだろう。
(神様も律儀すぎる)
それは別にユーモアではなかった。誰に対しても憎しみを抱くことを知らぬこの娘が、亮をいきなり連れて行こうとしている天に対してついた、最大限のあくたいだった。
それとも亮の寿命は十歳と、はなから決まっていたのだろうか。だからこの子は、相撲にも水泳にも、何にでも一所懸命だったのだろうか。恵美子はそんなことを考える。
不思議なほどにこの姉は落ち着いている。
彼女は今までも、弟の戦死を空想することをむろん好まなかったが、いつもその覚悟はしておかねばならなかった。
だからこの時も恵美子が取り乱すことはなかった。弟たちが痛ましいという思いは強いが、それは悲嘆として爆発せず、愛おしさとして純粋に結晶していた。
頭の上で敵機の爆音と、おそらくその敵機が発射する機銃の音がした。
今までの空襲では、この島が攻撃されることはなかった。米軍が攻撃する価値のある物などなかったからである。しかし今は山上に対空機銃の陣地ができている。それだけでグラマンのパイロットに憎まれる理由は十分だった。
爆発音と共に地面が揺れた。今度は爆弾が島に着弾したらしい。建屋全体が震え、天井から古ぼこりが降った。
桂佑は力の入らない腕で、それでも蒲団をかぶってそれを避けたが、亮は瞼をうすく閉じて目を守ろうとしただけだった。恵美子は亮に覆いかぶさるようにして、降ってくる古ぼこりを背中で受けた。
恵美子の目の前に亮の顔が来た。すでにいくらかの埃で汚れている。彼女がそれを手拭いではらってやると、亮はかすかに鼻筋に皺を寄せて、むずがゆそうな抵抗を示した。
「亮よい」
恵美子は亮に顔を近づけたまま、ささやいた。
「怖いことねえよ。姉ちゃんが一緒に死んでやるけんな」
亮が、定まらない目の焦点を、姉の顔に定めようとした。
恵美子にはそれがわかった。わかったから、もう一度言った。
「姉ちゃんが一緒に死んでやるけ、ひとりぼっちじゃねえよ」
その時、恵美子はもちろん幸福ではなかったが、心は満ちていた。涙が流れた。
今度は機銃掃射の音が聴こえた。それは近づいてきてすぐに途絶える。
映画とは違う。実際の機銃掃射では、垂れ流しのように延々と機銃弾を撃ちこみはしない。そんなことをしていたらすぐに弾丸を撃ちつくしてしまう。搭乗員が発射ボタンを押すのは、彼が標的を照準器に捉えているほんの僅かな間だけだ。
島を通過した敵機がいったん遠ざかっていくのも音でわかる。遠ざかっても、それは一分もすれば戻ってくることを恵美子は知っていた。
この姉は、その短いあいだに弟を一生ぶん抱きしめてやりたいと思った。亮の体に上半身を覆い被らせた姿勢のまま、恵美子はその思いを注ぎ続けた。
再び敵機が近づく。また数秒だけ機銃掃射の音が聞こえ、それから遠ざかっていく。
それが何度か繰り返されたあと、敵機が通過したあとの静けさが今度はやたらと長く続いていることに、まず桂佑が気づいた。
「姉ちゃん。もう大丈夫じゃろう。去《い》んだみたいじゃ」
桂佑は思い切り落ち着いた口調で言った。