平成22年4月18日 校正すみ
絆よ 永遠(とわ)に
高松 道雄
初めに
先ず本稿を書くに当って、当初書くべきか、書かざるべきか、ずいぶん迷った。永い間の懸案でもあった。これからの記述で、「何だ、今更、自分だけ格好のいい事言いやがって」と思われても困るし、自分自身では真面目に、当り前のことをしている積りなのに、スタンドプレイをしているのでないか等、と言われると、直ぐお手揚げするナイーブな男だからである。然し、一方今回限りでもう書く機会がないのだし、今ここで書いておかないと永久に没になってしまうこと、また、幹事の方から是非書いて欲しいとの要望もあったので、ペンを採ることにした。
以上の事柄を最初に断っておいて、余り誰にも話さなかった事柄に集中して記述を進めることにしたい。
十二月八日のこと
記録によると12月8日の午後5時、全校生徒は大講堂に集合を命ぜられた。その時、奇数分隊と偶数分隊が併列で大講堂に入るように命ぜられたように思う。私は当時24分隊だったが、19分隊の高見隆三と隣合わせになった。彼とは三号・四号の時、33分隊で、私は背の高い方であり、彼は背の低い方で、現在の漫才界の巨人・阪神よろしくお互い気安く話し合える仲だった。
高松 道雄 | 高見 隆三 |
私は彼に言った。
「おい、高見、俺は今度の戦争は勝てないと思うよ。」と。
当時負けると言う言葉はダブーだったので、勝てない(・・・・)と言う言葉を意識して使った。私は彼から、次のような言葉を期待していた。
「おゝ そうだな。 大変なことになったな。俺もそう思うよ。」と。
しかし、彼の答えは違っていた。
「おい 高松 貴様は何と言うことを口にするのだ。これから、海軍の幹部として帝国海軍を支えてゆかなければならない者が、貴様! 何ちゅう奴じゃ・・・」
平生大人しい彼と違って、激しく怒られた。私は彼の剣幕に辟易して、それ以上何も言えなかった。確かあの時、私の周りにいた者も私達二人の会話を聞いていた筈である。
あと少し何か言われたようだが、正確には覚えていない。しかし、当時の国際情勢は日支事変がなかなか片付かず、背後に米国の資金援助(経済援助)が中国に為され、黒幕は明らかにアメリカである事が、我々海軍のペーペーも感じていたから、思ったとおりの事を言っただけだったのである。それに、海軍兵学校に入る以前に、中学の四年の頃だったろうか、当時のニュース映画でアメリカの急降下爆撃機が空母の編隊めがけて銃撃を加えているのを見たことがある。「アメリカ恐るべし」の考えを持っていたからでもある。
その後二人の仲が悪くなったと言うわけではないが、部が違ったこと(私は赤煉瓦の後ろの第6部)、また、彼は航空の方に進み、私は潜水艦希望で、お互い会わずじまいになってしまった。
卒業式のこと
昭和18年9月15日。卒業式の日、大食堂で簡単な祝宴があったと思う。アルコールが入って、少しほろ酔い気分で食堂を出た時、自分の知らない下士官(多分教員)から突然に、「高松候補生! おめでとうございます。」と名指しで挨拶を受けた。全く知らない教員であったが、「有り難うございます。」と型どおりの返事で答えたのだが、恐らく剣道の教員だったのでないかと思う。私ばかりでなく、また他に何人かに挨拶したい風に見えた。私の場合は確かに一号の時だったと思うが、剣道の訓練時に、全員の注目する状況の中で、自分もびっくりする程の抜き胴(・・・)をやったので、それが彼に感動を与えたのではないか、と思っている。年配からみて、私達より何年か年を経ているように見受けられたが、その道で進んでいる下士官の中にも、兵学校生徒の優秀性を認めていたのではないか、と思っている。
いざ卒業で、江田島の表桟橋を出る最後の時、偶数分隊は生徒館側、奇数分隊は練兵場側に並ぶ教官に敬礼しながら表桟橋に向かったが、当日兵学校を去る脚は遅々として進まず、第2部第50分隊だった私が(初め先頭から20人目位だったが)海岸に最も近くに位置されていた井上校長に一番先に別れの挨拶をすることになった。
兵学校を卒業出来たこと、未知の任地(艦隊勤務)に向える喜びがあった。
「有り難うございました。」大きな声で陽気に校長に敬礼し乍ら言った。校長は何も言われず、目を合わす事もなく、むしろ目をそらすように下を向いて答礼された。
昭和18年4月、山本五十六大将が戦死され、卒業時の戦局は日々悪化しており、卒業生の大半は戦死するであろう、また、卒業は彼らの死出の旅路であろう、と見据えておられたのではないか。その時は別にそれ程の感じは抱かなかったが、校長として早く終戦にもってゆきたかったのではないか、と戦後の今になって想像している。
シンガポールでのこと
候補生としての実習は竜田だったが、終了後7戦隊所属の「鈴谷」の測的士として移動発令された。同隊の僚艦熊野に赴任する左近允(航海士)と行動を共にした。
19年の初頭トラックからカビエン(ラバウルの北西 ニューアイルランド島)に陸兵を輸送する作戦に従事し、艦隊保存の為、2月17日のトラック空襲前に艦隊はパラオ経由シンガポールに避退することになった。
兵学校卒業時から潜水艦志望だったが、3月15日少尉任官後、4月上旬ごろ、大竹潜水学校普通科学生(11期)の発令を受け、片山務(後に伊351潜で戦死)と一緒に飛行艇で鈴谷を去ることになった。
片山 務 | 巡洋艦 鈴谷 |
鈴谷、熊野はシンガポール南方のリンガ泊地に停泊しており、退艦する時、
「片山! 高松! 貴様ら飛行艇で退艦するとは、将官級だな」と冷かされた。
また、シンガポールでの異動は久し振りの上、飛行艇での退艦は珍しく、飛行艇が遠くに去るまで全乗員の帽振れは感動的であった。飛行艇が鈴谷、熊野両艦の頭上を一回廻ってシンガポールの方に向かったが両艦の停泊する間を一匹のビッグサイズの鰐(わに)が通り過ぎるのが上空から見られた。それが小型の潜航艇のようにも見え、鰐の野生的恐怖と共に不気味で、流石に熱帯の海面に来たな、といった感じだった。
飛行艇を降りると、期指導官の入佐中佐に会った、同中佐は煙草の灰皿に蚊取線香の空き段ボール箱を使っておられる豪傑で、金銭に無欲恬淡のように見られ、もう72期が卒業し前線に出て来たのか、といった顔つきで、また、大型飛行機(中攻か)で空母に着艦する等(実際に着艦するところを見た)細心大胆、艦隊の衆望を集めているとのことであった。
クラスの上原庸佑にも会ったのはここ(水交社)であった。サイパンで戦死になっているが、その近くの島への発令で、同期クラスの気安さから「何! 玉砕組か」と何気なく言ったものだが、本人も苦笑していた。その後、それが本当になってしまったので、今としては、当時何か良い言葉が無かったものかと悔やまれる。
大竹潜水学校(普通科11期、海兵71期と合同教育)は19年5月1日に始まるのだが、内地行きの航空便が少なく、20日間余り待たされた。今日(こんにち)での状況なら、海外旅行ぐらいでノンビリといったところだろうが、当時はなかなか腰が落ち着かず、内地行きの飛行機はまだかまだかといった一日千秋の思いだった。
シンガポール滞在中、何か日本に土産として持って帰るものは無いか、と探していたが、唯一惚れたのは、一般の標準より少し大型の3色(赤、緑、白)の懐中電灯だった。当時の敵性国家製で(ドイツ製ではなかった。)値段は覚えていないが相当高額で、買うか、買うまいか随分迷った末買うことにした。普通の懐中電灯の数倍だった気がする。戦時中のことでもあり、3色にチェンジ出来る電灯は(私の感覚では)当時の日本には無く、私の大きな自慢で、終戦までズゥーと大切にしていた。
話は少し先行きするが、潜校での教育が終り、伊14潜の艤装を命ぜられるのだが、20年3月14日に艤装が終り呉に回航した時、私が631空との事務連絡の為陸路下関に先行し、仕事を終えて、夕方頃入港した後行の自艦伊14潜との連絡に威力を発揮した。
兵学校教育での時間の配分は、今でも素晴らしいものだと思っている。兵学校夜の自習5分前の発光信号訓練は伊達に設けられていたのではなかった。夕暮れの下関港、陸上の倉庫岸壁から発行信号を送った。
(呼び出し)
・ー ー ー ー ・・・・ー 14 14
・ー ー ー ー ・・・・ー 14 14
(ヒコウソウジュウホウ)(ヨツヤクチョウ)
(送信文) リヤ ホム リヤ 略語 ホム 略語
(砲術長迎えの短艇送れ)
呼び出しには多少の時間が掛ったが、暗くなった下関港に本艦から短艇が迎えに来て呉れた。連絡が取れなかったら、どうしたものだろうと内心ヒヤヒヤしていたのだったが。
@ 懐中電灯を買ったこと、
A 万一の場合を考え、私一人の先行であったが、他に何物も持たず、懐中電灯だけは宝物のように首に掛けて持って行ったこと、
B 懐中電灯は持って行ったものの、実際に使用する機会があろうとは考えていなかったが、夕方になって、(土地不案内で予想以上の時間が経って)自艦との連絡が取れたこと、(通信手段は陸上と海上で何もない)等。
我ながらついていたと思っているが、昨日の事のように思い出される。
光作戦・嵐作戦
神戸川崎造船所で艤装を終えた伊14潜は直ちに連合艦隊直属の第1潜水隊に編入された。(伊13、14、400、401潜)
光作戦、嵐作戦については既に小生投稿の「伊13潜と伊14潜」(なにわ会ニュース72号 平成7年3月15日発行)及び「太平洋上の降伏」(なにわ会ニュース49号 昭和58年9月15日発行)で記述しているので、繰り返さないが、伊14潜が実施した光作戦(昭和20年7月17日大湊発、8月4日トラック着、彩雲2機輸送作戦)のトラック入港の前日(8月3日)の事について要点のみ記入しておきたい。
8月3日現地時間午前4時頃、500トンばかりの米駆潜艇に発見された。距離は5000米〜6000米位で、私が哨戒長であった。急速潜航後直ちにソナーの探信も受けた。ソナーに関しては当時日米双方で同じ兵器を開発しており、米駆潜艇は探信一方、こちらは受信一方で駆潜艇の探信音がキーン、キーンと入って来る。そのうち、だんだん探信精度が正確になるようで、ブラウン管のオッシログラフの山型と共にキーン、キーン、キーン、キーン、キーン と最高5回まで、連続音で入るようになった。5回までの連続音で探信されると、もうこれで駄目だと思っていたが5回を最高に次は4回、さらに3回、2回、1回となり、以後探信音が入らなくなった。オッシログラフの山型も平版な丘型でシャープなものではなくなった。
「ハハァーン、敵さんまだこちらを正確に掴んでいないな。」と思った。
しかし、もし当時米駆潜艇の方でソナー探信をあと5分続けていたら、伊14潜は完全に把握され撃沈されていただろうと、今でも思っている。(このことが後にアメリカの歴史資料センターに照会することになる。(後述)
(編集部 注)
「伊13潜と伊14潜」及び「太平洋上の降伏」については、なにわ会HPにも取り込んであるので参考にされたい。
戦後の職業
さて、戦後お定まりの公職追放で職業の選択に苦労することになるのだが、(農地開放、20年8月の富山の大空襲で自宅及び貸家の焼失、父の死亡、祖父母は高齢で進学を断念)会社勤めは性に合わず、某公共機関に勤めたところ、上司の課長から
「ここは、貴方がたの来るところではありません。」とはっきり言われる始末だった。
その頃、母方の叔父が新制中学校の校長で、学制の改革もあって、当時の中学校長は英語の先生を探すのが苦労の種であった。早速叔父に呼び出され、学校に英語の先生の欠員が生じたので、英語教師への推薦を受けた。
数学なら教えられるが、英語はとてもとてもと尻込みしていたが、数学の先生ならいらないとの事。失職している関係や、中学3年までの指導内容を見たところ、特に難解なところも無いようだったので(一カ所だけあった。)学校に奉職することに決めた。終戦後8年も経っていた。
海軍士官は、英語の勉強をしなければ駄目だよとは平生言われて来たところだが、数学と英語を教えているうち、中学3年の数学だけ教えていたら俺は進歩が無くなる、英語一本でもなんとか出来そうだの感覚を持ったので英語専門に教える方に舵を切った。勿論英語そのものに対する自分自身の弱点は充分自覚していたので、英語をやり直す覚悟で取り組んだ。将に「Teaching is learning.」そのものだった。
当時、戦後の英語教育は、ヒアリング、スピーキングに重点を置く、即ち、聞いて解る、話すことが出来る、いわゆる音声に重点を置いた教育で、各県で中学、高校の先生を対象にした英語教育再教育講習が盛んに行われていた。私にはよい機会であった。夏休み返上で積極的に参加した。米人宣教師のところにも毎週通った。堅い頭は少しずつ軟化した。それが結局、昭和43年(45歳の時)の第一回国際教育交換協議会主催の60数日に及ぶ渡米研修(公費)となり、続いて51年カリフォルニヤ州立大学サクラメント本校での研修(私費 夏休み利用)、さらに第3回ハワイ大学の研修(私費 夏休み利用)(なにわ会ニュース65号 平成3年9月15日掲載「真珠湾・アリゾナ メモリアルを訪ねて」参照))と続いた。
米戦史資料センターへの照会
戦後間もなくの昭和23年3月、海軍兵学校70期の名和友哉氏(故人)伊14潜航海長の戦犯問題(詳細省略)が伊14潜戦友会発足の切掛けとなり、毎年場所を変えて行われた。この戦友会で、トラック島到着の前日の米駆潜艇との遭遇が話題にならない時は無かった。私は何時も地獄の一丁目まで行って来た、と言っていた。そしてやがて終戦50周年を迎えるのだが、自分の英語力を何とか活用できないものかと思案する中、兵学校24分隊の時の三号だった長谷川薫君(元レンゴウ会長・故人)が米国戦史資料センターの事を知らせてくれたので、自分の英語力がどれだけ通ずるものか、同センターが我々の質問に真面目に答えて呉れるかどうか、迷いつつ、清水寺の舞台から飛び降りる気持ちで、英文の質問状を書いた。日本文に要約して本稿に載せるのも選択肢の一つと思うが、それでは迫力が伝わらないので原文をそのまま載せることにした。中学3年生なら簡単に読解出来る程度なのでトライしてみて欲しい。
No 29 Aiden窶Machi Toyama city 〒930 Japan
December 21 1994
Dear Sir
I am now 71 years old. I was a navy officer of the Imperial Navy 50 years ago.
My last ship was the submarine I-14, which was so big enough to carry two
aero-planes inside.
We were ordered to go to Truk Islands just one month before the end of the
pacific war to carry these planes with our submarine. On the way to the Truk
Islands, we were found by an US submarine-chaser or a small boat like that
(less than 1000 tons) about 150~200 miles east (or northern east) off the
island, at 3:30a.m. on August 3, 1945 (Tokyo time)
Of course we immediately dived under the water and we were narrowly able to
escape from the chaser.
However, if this chaser had tried to continue water searching a few minutes
more, our submarine would surely have been destructed by her, (because we had
almost been captured with the “sonar”of this boat. )
As you know, the coming year 1995 is the 50th
anniversary of the end of the pacific war (the world war two.) I am now making up the doc
同資料センターからの回答はそろそろ諦めかけている時、やってきた。嬉しかった。
回答の英文は省略するが、対潜水艦戦訓統計分析課(自分で勝手に命名)の第十艦隊からuss―pce―849などの小艦艇に至るまで、東京時間の8月3日、ハワイ時間8月3日及び4日の全資料を調査したが、本件に関する日本潜水艦の発見や音響等による接触など、如何なる情報も報告されていません、との事であった。
私達の伊14潜を撃沈したのなら敵さんは大威張りで報告したことであろうが、日本潜水艦を発見しても取り逃がしたのだから、当時の艇長はこれを報告せず、握り潰してしまったのだろうと推測している。
しかし、資料センターからの回答文の最後のセンテンスは、如何にも彼ら特有の相手の気持ちを汲んだ表現で、料理を食べに行った後にチップを払う気持にも似て、女性秘書の手書きのサインと共に、何時も心憎いと思っている。曰く
Your interest in naval history is highly
appreciated and I hope this information will be helpful.
絆よ 永遠に
なにわ会ニュース 100号で終わるに当って一言
My house is always open to
all of you the class and please don’t hesitate to come and enjoy with me.
(Dec. 21,
2008)
(なにわ会ニュース100号46頁 平成21年3月掲載)