平成22年4月18日 校正すみ
洋上での降伏
高松 道雄
幹事の皆様には何時もクラスの事について大変お骨折り頂き、ニュースを読ませて頂く毎に、自分は本当に生涯の良い友を持ったと感謝しています。
「なにわ会ニュース」で小生のことが期友を通じて報道されていますが、自分自身の手による記事がありませんし、幹事の催促と卒業40年ということで、遅まき乍ら投稿することに致しました。お許しを乞う次第です。
雪深い北陸の男の子は何事もスローモー(この主題で樋口 直が1学年の集会の時、参考館で話しをしたことを覚えています。)で困っております。
さて、今からの報告は伊号第14潜水艦の戦友誌2冊目、伊14潜水艦の絆 「その栄光と友情」に載せたものです。私の人生において最も劇的な(?)ものと考えておりますし、クラスの方々に知っておいて貰った方が良いとも思いましたので投稿した次第です。
高松 道雄 | イ14潜水艦 |
1 プロローグ
その前に少し当時の情況を知って頂きたいと思います。
昭和20年戦局は日に日に切迫して参りましたが、昭和19年12月20日第6艦隊直卒の第1潜水隊が編成され(伊400潜 名村英俊乗組、伊401潜 矢田次夫乗組、伊13潜 鈴木脩乗組、後に73期の松田幸夫に交替)、そして小生の伊14潜も3月14日神戸川崎造船所で艤装完了と同時に遅ればせ乍ら同隊に編入されました。
伊400潜、401潜は当時世界一と云われた重水上爆撃機「晴嵐」を3機ずつ、伊13潜、14潜は2機ずつ搭載できるので、第1潜水隊4隻の潜水艦の飛行機10機で、20年6月パナマ運河の閘門を爆破する予定でした。その為の机上訓練を呉基地で行なったことも覚えております。
しかし度重なる本土空襲とそれに伴う伊400潜の損傷、伊401潜の被雷事故等があって、運河爆破の計画はサンフランシスコかロスアンゼルスの都市爆撃に、更に切迫せる戦局打開が先であるとの結論からウルシー環礁(グアム、パラオ島の略中間)の敵機動部隊の攻撃と変更されました。
その為には、先ず伊13潜及び14潜でトラック島に「彩雲」4機を運び、その偵察状況に基づいて伊400潜、401潜の「晴嵐」6機でウルシー環礁の米機動部隊を警戒手薄の南側面から奇襲攻撃するというものでした。
以上の計画に従って、伊13潜は昭和20年7月11日に、伊14潜は7月17日に、それぞれトラック島に向け大湊を出撃致しました。本艦は大湊からトラック島へは東寄りに大きく迂回した航路を取りましたが、途中敵駆逐艦の爆雷攻撃こそ受けなかったものの、敵哨戒艇による水中探信器による捜索やら、敵哨戒線通過のための長時間潜航やら等々で地獄の一丁目まで行ってきた思いです。勿論その間の出来ごとが色々ありますが、今回は省略させて戴きます。
トラック島に着いたのは8月4日でしたが、先に出港した伊13潜が着いていないのを知って直ぐ「沈」したと直感しました。それでも一縷の希望を持っていましたが、何か複雑な気持ちでした。
今でこそ終戦の紹書の換発された前後の事を知っておりますが、当時終戦工作が行われていようとは露知らず、また毎日午前8時から午後3時まで「沈座」してB-29の日課手入れ(1日1回又は2回トラック島に定期の空襲があり当時そう呼んでいた)に備えており、一方乗組員の半舷上陸を実施して次の作戦の準備をしていました。かくして8月15日を迎える事となります。
これからの物語は先に述べた通り、伊14潜水艦記録誌第2号に投稿したそのままのもので、多少読みづらく感ぜられる所もあろうかと存じますが、小生の意のあるところを汲み取って戴ければ幸いと思います。
2 Will you surrender ?
伊号第14潜水艦で最も思い出となるものは、矢張りトラック島から帰る途中、米駆逐艦に拿捕された事件であろう。この事については、前号で既に12,000字に及ぶ長文のレポートが書かれているので、同じことを繰り返す必要はないと思うが、当時の最高責任者であった艦長について、私からもう少し補足し、当時の状況や見方、考え方なりを述べるのも無駄ではないと考えるので少し記述したいと思います。
終戦に関する陛下の詔書の放送を、トラック島で受電したのは8月15日であったろうか、16日であったろうか。それに対する乗員の解釈は半信半疑のようであった。理由の一つは、トラック島はまだ陥落していない、我々は過去に降伏という経験がない、降伏したら日本の国はどうなるのだ、というところであったろうか。
又終戦に関する詔書は平文で入ってきており、これはてっきりトラック島は第4艦隊の基地として中々陥落しないため米軍の謀略であろうとの見方も出来、鬼畜米英打倒一辺倒に傾いていた当時の状況からすれば容易に頷けるところである。しかしその後間まもなく「終戦の詔書は換発されたが、未だ停戦命令は出されていないので、各軍は戦闘を継続せよ」という暗号がきて、始めて先程の平文の詔書が本当であるという確証が得られた。艦長室に呼ばれて戦争が敗戦という形で終ったのを聞かされた時、非常に残念だった。
その時第1次大戦で敗れたドイツの海軍士官の想いも、こうであったろうと思った。第1次大戦後の英国政府(連合軍)や英国海軍が、敗れたドイツ海軍に対する戦後処理の記録を、特別関心を持って読んでいた事がそうさせたものであろう。
8月18日、トラックを後に呉に向う。のちに大湊に変更された。「潜水艦は潜望鏡を高くあげよ。黒色3角旗をつけよ。潜航してはならない。魚雷、弾薬その他の攻撃兵器は一切海中に投棄せよ。」等々の終戦処理事項が矢つぎ早に受電されたのもこの頃であった。
8月27日の記録によれば10時20分とあるが、私の感覚でも10時頃だったと記憶する。私が当直であった。水平線にマストが7〜8本見える。丁度敵艦隊の真只中へ突込んでゆくようだ。空母も2〜3隻いるのでないか。敵艦隊の上空には飛行機(1機)も見られた。当時艦橋で士官は艦長と私の2人であった。
「潜航しますか」と相談したところ「このまま行こう」ということで針路は大湊に向けたまま浮上直進した。そのうちグラマン1機がアットいう間に我々の上空を旋回し始めた。尚この時の艦長の判断と決断が、その後の行動を決定した。(艦長 清水鶴造中佐)
グラマンの高度は20米から30米位であった。パイロットの顔がはっきり見えた。
ふと先程の水平線に目を転じてみると、2隻の駆逐艦が白波を蹴立ててこちらに向ってくるではないか。艦首の白波から想像して30ノット以上出しているものと思われた。
今まで針路を大湊に向けていたが直ちに反転、今来た方向に逆もどりして少しでも捕まる時間かせぎを計ったわけである。米駆逐艦からは盛んに発光信号を送ってくるがこちらは知らぬ顔の半兵衛、ぐんぐん南下する。学校で教わった暗号消却の事が遅まきながら頭に浮んでくる。暗号書を全部艦橋に持って来るよう指示、投棄の準備をする。純白キャンバス製の袋の底に鉛を入れ、それでなくても重い暗号書の全部を入れ、袋の紐をしかり結ぶ。平時暗号書を粉失しようものなら大変なことになるのだが、海中へ投棄するのも初めての経験なので、これでよいのかどうか迷いつつ、また、海中へ投棄するのも何か惜しい気もする複雑な気持だった。
艦橋から飛沫のかかる後甲板まで降り、後から追跡してくる米駆逐艦を横目に見ながら投棄した。これで捕っても安心だ。ざまぁみやがれ。後で14潜が拿捕され、米軍士官と協同で当直に立っていた時、米軍士官の方から暗号書と軍艦旗はどうしたかと私に尋ねてきた。若し手に入れられれば欲しい口振りだった。いずれも捕まる前に海中に投棄処分したと云ったら、それ以上何も追求してこなかった。
14潜と駆逐艦では速力が違う。やがて2隻の米駆逐艦が本艦の両サイド200米〜300米位の処に位置して本艦と併行に走る。やがて戦闘配置を令したのであろう。米駆逐艦の乗員が足早に配置につくのが肉眼でもよく分かる。全員がブルーの作業服だ。キールに併行であった前後部の主砲及び機銃の照準が全て本艦に向け旋回される。勿論弾丸は込められ、いつでも発射できる状態と推察される。14潜と米駆逐艦はお互いに睨み合い無言のまま併走、緊張の時間が経った。
やがて米駆逐艦より国際信号があがる。「汝の、船名如何」
「What is your name?」
慌ててイ14のネーム入りのキャンバスを艦橋サイドに揚げる。そのうち「速力を半速となせ」ときた。
「Make your Speed half down.」
速力を落すと、次いで、「停止せよ」
「Stop your ship」 −
エンジンを停止、海上に漂う。米駆逐艦2隻は本艦からの魚雷発射を警戒して本艦のまわりをぐるぐる廻り出す。
日本の駆逐艦に比べ、見た外観はスマートでないが、波切りはとてもよい。米国駆逐艦も満更でもないなと感じた。再び信号があがる。「我今より汝に短艇を派遣しつつあり」
「We are going to send
you a boat」.
彼方の米駆逐艦はと見ると甲板でボートを降ろしているのが見える。人力で漕いでくるポートを想像していたがそうではない。エンジン付きだ。米軍士官の乗艦を迎えるのに縄ハシゴでも降ろせばよいのだが、最後の最後まで抵抗してとうとう降ろさなかった。勝手にしやがれ。彼等は14潜の舷側を這うようにして昇ってきた。
艦橋では何人もの士官がいた筈だが、年令と貫禄から何も云わないのに判ったのであろう。2〜3人の米兵が連発銃の銃口を向けて艦長を取り巻いて
「Will you Surrender? 」
「降伏するや?」
私だったらどう答えるだろう、また、いまだ嘗て降伏を知らざる帝国海軍軍人の、そしてまた110数人の生命を預かる艦長の回答や如何? 私が艦長から学ぶべきはこの事であると全神経を集中して見守った。
「Yes I will」
躊躇いは見られなかった。
3 人質4〇名出せ
艦長の「降伏する」の答を聞くや否や、先程の潜望鏡に高く掲げられてあった黒色3角旗がさっと降ろされ、代りに西洋紙2〜3枚大の星条旗が間髪を入れず掲げられた。将に劇的に感ぜられた。米兵の動作にも迫力があった。あの時のみじめな、やるせない、自分の身を何処においていいのかわからない気持は、30年経った今日もいまだ脳裏に焼きついて離れない。
一応、形では降伏して10数人の米兵が艦内に乗り込んできたが、艦内の空気は険悪になったように感ぜられた。乗り込んで来た米兵もオッカナびっくり、腰の拳銑だけが頼りだろう。
また、一方昨日まで目が醒めて当直に立つにも別に不安も何もなかったが、米軍が乗り込んでからは、目が醒めると米軍の小銃をもった奴が艦内で監視しているといった具合で誠に嫌なものであった。
日本の夢を見ているか、熟睡している時が一番仕合わせに感ぜられた。自沈説も耳に入ってきた。あまり早まった事をして呉れるなと思っていたが、そんな時には潔く腹を切ってやれ、と覚悟を決めていた。
艦内の不穏の空気を察したのであろうか。米軍は伊14潜の士官1名と他に乗組員40名を米駆遂艦に移乗するよう要求してきた。士官1名の人選の場合、若し私が艦長だったら誰を派遣するかを考えた場合、艦での役割から砲術長(私)以外にはいないだろうと考えた。
人選の基準としては、
@ なるべく兵科士官であること。
A 日本回航まで艦内配置上比較的重要でない配置であること。
B 米軍に派遣された場合総合的判断と行動が出来、艦長の意志(全海軍)を充分反映出来る人物であること。
C 英語がかなり判ること、
と私なりの条件を考えていた。
艦長から「砲術長、陛下の命令だと思って行ってくれ」と言われた時、これは私の任務だ、私以外にはないと思っていたから、素直に命令を受けることが出来た。
本朝来の出来事は余りにも激動的で変化が激しく時の経つのを忘れていたが、その頃金華山沖の太平洋上では日はもう既に暮れあたりは真暗闇であった。暗闇の夜は何度も経験したが、人質として米艦に乗り込む夜は如何にも悲壮に感ぜられた。米艦への移乗は2隻に分乗、出発したように思う。向うに行っても殺害される事はあるまいと思っていたが全幅の安心を置いていたわけではない。
4 Who can speak English ?
米側では我々の到着を今や遅しと待っていた。
駆逐艦の舷側に近付いてみると、右舷上甲板から海面にかけで綱が垂れ下げられ、全員一度に昇れるようになっていた。恐らく今次海戦や、上陸作戦の経験からであろう。大量の兵員をなるべく短時間に艦から移乗するには舷梯では時間がかかるので、それで考案したものと推察する。
米駆逐艦の後部上甲板につくと吃驚した。艦橋から探照灯で後部甲板を照らしており、後部上部構造物の上にはめいめい小銃を片手に持った2〜30人の米兵が立って我々の昇ってくるのを見ている。甲板についたら一列に並べというのだ。あたりは真っ暗、助けを呼びたいような気持で伊号第14潜水艦はと探すが、もう何処にもそれらしい姿は見えない。いよいよ太平洋の真ん中で銃殺か。どうせ殺されるなら、次々と殺されるのは見たくない。一番先に死んだ方が良いと思って最右翼に位置していた。
14潜の乗組員は次々に網目を伝って昇ってくる。次から次と私の左側に並ぶ。全員整列し終った。
さあ今から銃殺が始まるのか。
その時私のすぐ右横の米兵が叫んだ。
Who can speak English?
「英語を話せるのは誰か。」
I can speak English
答えはすぐ出た。それではちょっと俺について来い、というので艦内に連れられて行った。
5 時計だけで航路を判定
駆逐艦上では灯火管制が厳重で暗く、何度も躓きそうになって中へ入った。これでまず殺されるのは遠のいたなと思いながら艦内に入ったが、急に明るい処に入った為、目が慣れるまで暫くとても眩しかった。
艦内では色々なことを調べられた。米駆逐艦では終戦直後というのに、日本に関する、特に陸海軍の資料をびっくりする程準備して持っていた。階級のことも質問された。
私が調べられている間に何かバアーンともバタアーンとも聞きとれる音が2、3回した。さては残りの者がひとりずつ銃殺されて海中に放り込まれているのでないかと心配したが、暫くして私に続いて調べ室に入ってきたので、とに角これで生命だけは助かったと安心した。
米駆逐艦の艦長らしいのが腰に拳銃をつけて調べ室にやってきた。私達が抵抗もなく案外大人しいので安心したのであろう。次から丸腰だった。乗組員全員の調べが終ってから情報士官の一人が私に、
Which
do you like better a large room or small room ?
大きい部屋がいいか、小さい部屋がいいかと尋ねる。誰だって小さい部屋より大きい部屋が良いに決っていると答えると、「お前はお前の乗員と一緒の部屋でもよいのか」と念をおす。「結構だ」と答えたので最後部中甲板の兵員室に入れられた。小さい部屋とは士官専用の個室のことかと後で気付いたが、あとの祭りだ。しかし今から考えると全員一緒に行動出来て良かったと思っている。
米駆逐艦に抑留されて最初に一番心配になったのは、何処へ連れてゆかれるかということであった。その為には船の針路が一番知りたかった。海図があるわけでなし、ジャイロ、コンパスがあるわけではない。幸い時計は取られなかったのと、便所へゆく時だけ上甲板に出られるので、夜には北極星がどの方向にあるか、昼であれば太陽が船のどの方向に出ているかを注意して見てくるように指示し、その情報で船の針路を推測した。
6、トイレにドアがない
艦内では写真を撮られたり、色々質問を受けたりした。「天皇陛下の為に戦争したのか」との質問に「そうだ」と答えたのは当時の国情やあの当時の我々としては当然だった。封建制度を持たない新しい国家で、それで民主主義で育ってきている彼等には理解し難かった点であろう。余り納得出来ないような顔付きだった。
また、英語が少し分かったので彼等の会話をきいている中で「こいつらの紅茶に砂糖を入れましょうか、どうしましょうか」と話しているのが聞えた。「いや、こいつらには砂糖なんかいらんよ。砂糖なしの紅茶をやれ」といっているのが判った。それで食事の後でどんな紅茶を持ってくるか注意してみていたら案の定砂糖がない。「砂糖を持って来い」と怒りつけるように言ったら、
「I will bring sugar for you.」
「お前の為に砂糖をもってくる」
と言って、程なくコップに山盛りに砂糖持ってきた。日本の従兵に相当する米兵だったが意外に素直だなと思った。
40人の生命を預かっているという責任感があったので、笑顔をみせているようであったが、本当の気持からは笑えなかった。他の者には食事を奨めたが、私自身食欲はわかなかった。それは下から出すものを出さなかった故もある。食欲をつけてやろうと思って洗面所と一緒になっている厠(かわや)へ行った。厠では小銃に剣をつけた若い兵が立っていた。特に私がゆくと日本兵40人のボスが来たと思って一層前よりも険しい目付きで警戒した。トイレに入ろうと思ったがドアがない。
戦後昭和43年第1回目の渡米の際、大学のトイレにドアがないので、この時初めて米駆逐艦抑留の際の意味がわかった。これも戦後判ったことで、これではとても落ち着いて用たしが出来るものではない。多少糞つまり気味でもあったが洗面所で顔だけ洗って出てきた。
7、帝国海軍々人の意地
顔を洗う時、鏡に反射したあちらの若年兵の視線とバッタリ合った。彼は何をされるか判らないという顔付きで一層おどおどして身構えていた。一目で若造だと判り俺の相手ではないと悠々と帰ってきた。上甲板に出てみると星は多少見えたがあたりは依然として暗く海に少しうねりがあった。伊14潜はとあたりを見廻したが、それらしい姿はもうなかった。我々の頼りになるのは伊14潜だけだった。
やがてアメリカ艦隊の碇泊している相模湾に連行された。見渡す限りアメリカの艦船。あらゆる艦種の船が碇泊している。100隻位ではないか、これがアメリカ艦隊の一部と知らされた時、これではとても勝てるものではないと実感させられた。さあ、いよいよこれから君達の船に帰してやると言われたが、その時もまだ彼等の言葉が本当と思えなかった。移乗用の上陸用舟艇で面舵変針、伊号第14潜水艦の姿を眺めた時、初めて「あぁ 生命があったのだなぁ」と実感した。米駆逐艦を去る時、敵さんは我々を捕虜にした積りだろうが、我々の気持としてはあくまで対等で米国駆逐艦に乗り組んでいたのだ、という気持ちだったので、最後に「「帽振れ」をやったのはせめてもの抵抗であった。
8 あとがき
昭和49年1月、余暇開発センターの主催で24,000トンのソ連客船シアリアビン号でサイパン、トラック、ラバウルの戦跡を訪問することが出来ました。横浜からの出発であったが、30年前のトラックへの出撃航路とよく似ており、当時の追憶が積極参加の最大理由の一つでもありました。紺碧の海、白い雲、明るい空、見渡す限りの水平線、すべて昔の通りでした。
サイパン、ラバウルは初めてでしたが、トラック島は14潜で入る前に何回も入っておりとても懐かしい思いだった。ヤシの木の聳える海水浴場(春島)での遊泳もまた楽しいものだった。もう一度行ってみたいと思っている位です。また、戦後2回にわたって米国本土及びハワイを訪れることが出来ました。第1回は昭和43年7月〜9月(明治100年に相当)、第1回国際教育交換協議会主催で期間約70日。うち3週間のホームステイ(家庭滞在)がありアメリカの実情をよく理解することが出来ました。第2回は昭和51年8月、(アメリカ建国200年記念の年に相当)カリフォルニア中心、期間1ケ月。能登での14潜戦友会後7月22日出発、何れも英語の勉強の為だったが、アメリカと戦争した関係上棺桶に入るまでには一度は必ずアメリカをみてやる、特にハワイはどんな事があっても行ってやる、と固く決心していたが意外に早く実現していささかビックリ。
順序は逆になりましたが、戦後お定まりの公職追放。家では3夫婦揃って目出たいといわれていた時、中の親爺が死んで家に帰って来ていた時、母方の叔父が中学校の校長で世は先生不足の時代。英語の先生をやって欲しいと無理矢理引っ張り出されたのが今の商売。 数学なら教えられるが英語はとてもと言っていたが数学の先生ならいらんとのこと。英語と数学を教えているうち、中学の数学位教えていたら俺は馬鹿になると情況判断、英語に16点回頭、今日まで英語の先生。お蔭で少し勉強が出来ました。
現在
後日充分お役に立つことがあると思いますので紙上を借りて紹介しました。
9 エピローグ
あとがきのあとがきになって申しわけありません。その後、目下
本号が出る頃は江田島還暦クラス会のことと思います。再会を楽しみにしております。
(なにわ会ニュース49号12頁 昭和58年9月掲載)