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平成22年4月27日 校正すみ

園田 勇君のこと

泉 五郎

 泉 五郎君が母校三田学園に投稿された特攻で戦死した3名の記事の中から園田勇君(53)に関するところを転記した。      (編集部)

 泉 五郎、北植武男、(園田 勇)の諸君が三田中学から海軍兵学校(海軍機関学校)に入学した。 

園田 勇 北植武男

  園田 海軍機関学校卒業、航空隊へ

昭和18年秋 915日、園田は無事海軍機関学校を卒業、同時に私も北植と共に無事海軍兵学校を卒業、三人は目出度く少尉候補生に任命された。

 そして園田と北植の両君は飛行学生として霞ケ浦海軍航空隊での訓練に励むこととなった。

 園田は機関科将校を育成する機関学校を卒業しながら、軍艦ならぬ艦上爆撃機の操縦員として兵学校卒業の候補生と共に畑違いの飛行機乗りに任じられたのである。

 何故か?

 その理由の一つには兵学校だけでは飛行機乗りの将校を補充しきれないことと、他にも原因があったと思われる。
実はその昔、イギリス海軍に範をとった日本海軍には軍令承行令という法令があった。 簡単にいうと実戦の場面で艦長、副長と順次上級指揮官が戦死した場合、その艦の指揮は先ず兵科将校がこれを引き継ぐという事である。

 つまり中佐の機関長がいても兵科の少尉が艦長の代行者になるという訳である。

 これは恐らく日本海軍が帆船時代以来のイギリス海軍の伝統を踏襲した為のものと思われるが、昭和17年の秋やっとその軍令承行令が廃止された。

 そんな制度の改正もあり、希望者を募って機関学校からも飛行学生が選ばれる事になった。

 私も兵学校在校中、航空実習の機上訓線では結構いけたので自信はあったが、地上のシミュレーター検査で航空不適性とされた。

 そして幸か不幸か卒業後は八雲乗組となり、約百名のクラスメートと共に戦時下 2ヶ月であったが、瀬戸内海巡航で昔の練習艦隊並みの経験に青春を謳歌することになった。

 尤も訓練は厳しかったが今にして思えばなんとも悠長な話であった。

 因みにこの八雲は日露戦争以前の明治33年頃にドイツで製造された旧式艦で、到底昭和の実戦には耐え得なかった代物である。

 それはそれとして海軍三校を卒業した我々新米候補生は、1811月半ば東京に集合、一同、畏まって皇居へ参内した。

 恐れ多くも畏くも、天皇陛下に拝謁を賜った。とは云っても壇上の天皇に最敬礼をしただけのようなものである。

 それにしても当時としては名誉極まる処遇であった。一般平民どもは皇居二重橋前で土下座して有り難がった当時のことで、戦後の感覚では到底理解できないのは当然のことではある。

 その後明治神官や靖國神社参拝、そして水交社での嶋田海軍大臣主催の午餐会、これには伏見宮元帥や、永野軍令部総長も出席、総員で集合写真が撮影された。

 昔から海軍は写真が好きで、何かの行事があれば必ず記念撮影が行われた。

 そのとき、私は丁度、伏見宮の後方最上段に写っているが、勿論余り小さくて他の人には判らない。

 余談であるが、この伏見宮は戦前英国寄りの日本海軍の中にあって、珍しくドイツの兵学校や海軍大学校に留学している。

 この伏見官は皇族としては中々の人物ではあるが、果たして戦争直前まで軍令部総長として約 7年半もその要職にあり続けたことに問題はなかったか?  歴史を反省する上での重要なポイントの1つである。

 勿論、園田、北植の両君も写っているはずだが到底判別できない。

 我々にとっては大変有り難かったが、英国の貴族主義的な伝統や慣例をとりいれた戦前の海軍ではそれが当たり前のことであった。

 今から考えると何とも特権階級的処遇であったが、当時の日本には未だ民主主義の思想はなかった。

 然し、その反面では我々海軍軍人は股肱(ここう)の臣として、天皇陛下の為ならその一命を捧げても惜しくない、否、捧げるのが当り前と教育されてきた。

 そして一連の行事を終えた我々は、夫々任命された配置に着くべく各地に散って行った。

私は軍艦木曾乗組みを命じられ東海道線から福知山線経由、雪の舞鶴へと赴任した。お蔭で途中三田に立寄り、家人と暫しの再会を楽しむことが出来た。

然し、その後間もなく北植君は飛行訓練中乗機の故障により、教官と共に霞ケ浦の湖面に激突、クラス最初の殉職者となった。このとき、この練習機に同乗、奇跡的に一命をとりとめたのが齊田元春君である。その齊田は園田と機関学校の同期生だった。その彼は艦上爆撃機の操縦訓練が始まった頃の園田君の様子をクラス会誌に次のように記している。

「.・・・ふっくらした丸顔、黒いつぶらな瞳の童顔そのものの園田君は何時もにこやかであった。年が若かった所為かも知れないが、内に馬力を秘め外はにこやかだった。

 飛行作業の行き帰りに逢えば、にこつと頬笑み、片手をあげて会釈する彼であった。その彼もまた昭和2016日、第23金剛隊として比島イバ沖で艦爆特攻の華と散って行った。彼の面影は何時までも消え去るものではない。・・・・・」

それにしても、私自身は中学時代も海軍時代も、園田とは殆ど接触が無い。

然し改めてこの度、この記録をまとめるため色々資料を調べる中で真っ先に、

「北植〜齊田〜園田」・・・・と齊田君を挟んで三田中学同窓生の不思議な繋がりに何か因縁めいたものを感じた次第である。

 実は園田君については、戦後間もなく、ご遺族や関係者によって、幼少時代からの各種写真まで掲載され「金剛」と銘打った立派な追悼録が作られている。

「金剛」は園田君たちの出撃の際の隊名にも由来すると思われるが、表紙を飾るこの金剛像「憤怒」の表情は、果たして誰に向けられているのだろうか?

 巻末に昭和21 4 5日付けで当時の校長今西嘉蔵先生の弔辞が掲載されている。

 その全文は戦歴等の部分で、この記録と趣旨が重複するため、その後半のみを転載しよう。ただし、明治の方の文章なので到底戦後の人には読めないと思われる。また、非礼ながら、難解過ぎる漢字は意訳し、更に、平仮名、句読点入りでその一部を紹介する事にした。

『・・・・前略・・・・

聖上、君が偉勲を嘉賞せられ二階級特進の栄に浴せること、君が栄誉まことに極まれりと謂うべし。

 君死して幾ばくもなく終戦となり、世また軍人を顧みず軍功を称ふる者なしと謂えども、これ軽薄者流の為す所いずくんぞ意とするに足らん。

 国家有事に際し身命を国に捧げるは軍人の本分なり。汎や七生報国を念とし、身死して千載不磨の偉勲をたて悠久の大義に生く。丈夫の本懐又之に過ぐるものあらんや。

 洪図(こうと)ならず軍功遂げずと雖も今や国を挙げて再建に努め曙光漸く明らかなり。  ・・・・後略・・・・」
    
昭和21 4 5

兵庫県三田中学校長 今西 嘉蔵

 この弔辞の日付は終戦後約 8ヶ月のものである。当然ながら戦後の極端な反動的反戦世相からは、教育者が軍国主義を肯定するかの如き表現として相当勇気が要ったであろう。

 しかし、今西校長はこの弔辞の中で「丈夫の本懐」と讃(たた)えられている。

 明治生まれの教育者としては当然の表現であったと思われるが、今となっては何とも痛ましい。
 
その園田君の戦死は20 1 6日、特攻攻撃の模様は新聞に軍神として氏名も大々的に報道された筈である。

 当時の三田中学校でも当然園田少佐の特攻戦死は半ば学校の名誉として認識されていたに違いない。

 そんな彼の中学時代の思い出を友人達が前出「金剛」に寄せている。

 彼の頑張りは中学で鳴らしていた。勉強は勿論、剣道にしろ、鉄棒にしろ、一度やろうとしたことはあくまで食い下がり、為し遂げずにはおかなかった。

(藤原邦夫)

 各学期末には級友相寄って成績表を見せ合ったり、雑談に花を咲かせたりしたものでした。やがて彼が海軍軍人になると聞き、彼の温和な性格が適合できるかと不安を感じた程ですが、三田中学時代不屈の闘志を養っていたようです。                        (岸本官二)

 そして無事、機関学校へ入校してから約2週間後の彼の反省感想文も掲載されている。それを読むと、同じ様な体験をした筆者としては、とても其の覚悟には及ばない。
 
勿論後輩諸君にはこの心境や覚悟の程は到底理解不可能であろう。堅苦しい文語調の長文なので、其の要旨を判りやすく書き直してみよう。 

「入校して 2週間、中学時代のボロ着を将校生徒の端正な軍装に着替え、私は身も心も生まれ変った。

 最初の一週間は上級生や教官の厳しい教えに追いまくられてばかりであったが、だんだんと忠節勇武の信念も沸き起こって来た。

如何なる困難にも七転び八起き、不屈不撓、絶忠の精神に満ちた海軍将校にならねばならない」

 当時でも余り「絶忠」などという言葉にはお眼にかからなかった。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」と云うが、既に当時より将来の特攻をも予感させる言葉である。

 この「絶忠」と云う言葉は機関学校入校時の学年監事であった喜多見芳夫少佐から、訓育に際し身体に叩き込めと諭された言葉で、同期生はこの言葉を脳裏に深く刻み込んだ。

 その旺盛な責任感は未だ飛行学生であった頃の1812月暮、父君に宛てた手紙にも溢れている。

拝啓 正月に帰ろうと思いましたが、其の後色々考へ結局取り止める事に致しました。

 この決戦下に一億挙って年末年始の休みもなく、正月の鏡餅もなく職場を守り、又航空機増産に邁(まい)進しておられる時、ご本尊たる航空士官がノウノウと帰宅し安逸を貪(むさぼ)って居ては申し訳ないと思います。

 親孝行だといって帰ろうとしたのは、わたしの心の緩みだったと思います。

 私心では帰って逢ってみたいとおもいますが、それでは将校としての道ではないと思います。

 勿論人格の出来た人はよいと思いますが、私はまだまだ人より軍人としての、将校としての内容が足らず、更に更に鞭打つ必要があると思います。

 内容がなく将校の末席を汚し、為す所なければ国民の期待に反し、国家の秩序を破るものと思います。

 私は年も若く、卒業すれば直ちに年上の下士官兵を率い、死地に突入しなければなりません。

 それには己を滅して、全力努力する以外に手段はないと思います。

 種々と考えることはありますが、後は父上にお任せします。要するに私も一生懸命本分を尽くします。

 帰りたいという心に勝てない者は将校として人の上には立ち得ないと思います。

 又、軍人は一般国民より更に更に、ご奉公の道を歩まねばならぬと思いますから、正月は帰らずに三日間を他に過ごしたいと思います。

 更に修養して親孝行などと言わずに、平心淡々として帰り得る心境になれば帰ります。

 私も21歳の春を迎える事になりました。過去20年間は我心我欲そのままの馬鹿であり、それに気付きませんでした。

 このままでは絶対将校として陛下の軍隊を率いることは出来ません。今から生まれ変って没我の心境を掴み、内容外観共に揃うよう努めます。

 今回は父上のお言葉に反し私の考えどおりの年始の三日を過ごさせて下さい。

 祖父母様その他ご一同様に私も元気で居りますとお伝へ下さい。

                  勇より

 彼が特攻隊として出撃する約 1年前である。幸い其の頃の日本にはまだ、所謂特攻までの雰囲気はなかった。

 然し、この手紙には既に特攻出撃を予告するかの如き雰囲気が感じられる。この手紙を受け取られたご家族の心境は如何ばかりであったろうか!

 彼のこの純粋無垢な精神は、特攻出撃と云う非常の場で遺憾なく部下統率にその力を発揮した。

 それは20年正月早々のことである。

 間もなく下されるであろう出撃の命を控え、特攻隊員に指名された者の中には半ば自暴自棄になって部下に暴力を振るうものが現れた。四国松山基地での話である。残る隊員も恐れをなし、当時この基地の衛兵副司令だった期友の青木中尉は大いに困惑した。

 如何に軍紀を守るのが役目とはいいながら、特攻出撃する部下に制裁を加えることは憚(はばか)られたからである。

 衛兵副司令の青木から相談をうけた園田は即座に「よくわかった、心配かけてすまなかった」と快く返答した。

 なんと、翌日から特攻隊員の態度が急変して以前同様軍紀厳正になったので、頼んだ方が呆然としてしまったそうである。

 恐らく部下の中には年上の下士官も多かったと思われるが、今の人には一寸信じられないかも知れない。

 そして前記追悼録(金剛)の中に1912月松山基地にて撮影された生前最後の記念写真がある。

園田君 前列中央園田君その右床尾君

 この床尾君は信州松本中学の出身で、私が兵学校2学年の1年間を同分隊で、正に寝食を共にした仲であった。その彼も20年4月1日艦上攻撃機を操縦、矢張り神風特攻忠誠隊を率い石垣島東方海面で散華した。

 そして、戦後暫くたった昭和2710月、我々生存者は初めて靖國神社で戦没期友の為の慰霊祭を執り行う事が出来た。式後会場を移した懇親会の席上、この床尾君の父上が畳を叩いて「倅を返せ!」と号泣された姿が今も脳裏に焼きついて消えない。

 その後信州を旅した際弔問の為自宅にお伺いしたが、息子を思い出すのが辛かったと見えご尊父には遂にお眼にかかることは出来なかった。

 園田君に限らず特攻で散華した肉親の悲しみは筆舌に尽くしがたい。

余談はさておき、園田勇海軍中尉の勇姿は、昭和20 1 6日、比島イバ沖を北進する米機動部隊に向け爆弾抱いて乗機諸共、必死必殺の肉弾となって華と散った。

 齢未だに21歳に満たず!・・・・昨今ならやっと成人式を終えたばかりである。

 兵学校出で彼と同じ艦爆学生として研修を積んだ仲間、当時の安藤中尉の記憶では昭和19年の暮、当時霞ケ浦航空隊に勤務していた彼の所に「園田中尉」が訪ねてきたそうである。

 霞ケ浦にあった航空廠に飛行機を受取にきて立寄ったと記憶しているが、何を話し、何をしたかは全く覚えていない。

 数日私の部屋に同居していったような気もするし、あるいは土浦の桜河畔でへべったかもしれない。(ヘベるとは然るべきところで一杯やるという軍隠語である)とも書いている。

 ただ園田中尉が去ったあと、私の机の引き出しには、彼の肉体の一部であった或るものが残されていた。

 彼が何故こんな物を残していったのか、その時はたいして気に留めなかったらしいが、後になってそのとき既に園田中尉が特攻隊を志願していたことを知ったらしい。

 己の棺桶ともなるべき飛行機を受け取って第一線に帰るに際し、秘かに友に意中を察してもらいたかったのではあるまいかと安藤中尉は回想している。

この文章を書いた安藤君も既に亡くなったが、私には「園田君にも心に秘めた女性がいたのではなかろうか?」と思われるのである。いや、いて欲しかったと思いたいのである。

軍神も  また人の子か  うつせみの

        この世にのこす  己が別れ身

余りにも拙い句であるが、彼の一見稚拙と思われるその行為の陰に秘められたであろうたぎる想いに涙なきを禁じ得ないのである。

 この世の形見に、彼が本当に遺しておきたかった相手は誰であったのか。

 不敬でも今となっては、人間らしい想いを回らすことも許されるのではなかろうか。

 ただし、当時は遅いか早いかの違いこそあれ、いずれ己も同じ運命と覚悟していた安藤中尉が、宛名のない彼の遺品に困惑したであろうことも想像に難くない。

 然し、当時は意識的に、そして今となっては、すべては忘却と、アンタッチャブルの世界に押しやられて、軍神達はその名の通り、神として遠ざけられるだけでよいのであろうか。そもそも、20歳そこそこの若造が聖人君子か、或は何とか上人でもあるまいに、大悟達観して何の恐れもなく、何の悩みもなく死んでいったとすればそれは正に精神的サイボーグである。

 軍神達が既に神の如き境地に立ち到って国に殉じたと讃(たた)えるのは、彼等を尊敬するという点から云えば、一見結構なことと云えるかも知れない。

 然し本当の意味で、彼等の崇高な死を考えることには決してならないであろう。

命より  名こそ惜しけれ  武士の

    道に代ふべき  道しなければ

 この一句を残し、敢然と決別の征途に飛び立った軍神園田少佐、果して彼はその名の通り、神そのものであったろうか。

 勿論、中学時代から「聖人」というニックネームを頂戴していたと言うくらいだから、彼の特攻散華は驚くには足りない、と云ってしまえばそれまでである。

 然し、辞世の一句、もののふの覚悟を貫き通そうという決意のうらには、どれ程の悩みと苦しみが隠されていたであろうか。

 血もあれば涙もある人間、その死に至るまでの心の葛藤を乗り越えていった、その苦悩の軌跡を知ってこそ初めて、彼等の犠牲の尊さに思い至るのではあるまいか。

 歌の文句ではないが、愛も嵐も乗り越えて征()った男、園田勇君のことも往時茫々として既に前世紀半ばのこととなった。

 そして時が総て忘却の彼方に消し去らんとしている。然し、この度この記録が母校記念館に保存されることになったのは望外のよろこびである。

 なお、昭和63年に中学本館前の石段傍らに我々海軍残党が1本の桜を植樹した。

 そして、このひともとに 金剛桜 の銘牌と次の一句を献じた。

君偲ぶ  縁となれや  桜陵の

春にぞ匂う  金剛の花

 謹んで君が冥福を祈りたい。然し、この碑は決して軍国主義を鼓吹したり、或は特攻で散華した勇士を、ただ単に賛美する為だけのものではない。

 二度と特攻の悲劇、更に「愚かなる戦だけは」繰り返してはならない、という反省と願いこそが最大の目的である。

(編集部)   ニュースに掲載された園田君に関する記事

園田勇君と神風特別攻撃隊金剛隊回想(青木泉蔵) ニュース6020http://www5f.biglobe.ne.jp/senbotu-sonoda-aoki1.html

優しい顔と太い肝っ玉・園田 勇回想(上原一郎) ニュース6020

http://www5f.biglobe.ne.jp/senbotu-sonoda-uehara1.html

園田 勇君を偲ぶ(多胡光雄)          ニュース6021

http://www5f.biglobe.ne.jp/senbotu-sonoda-tago1.html 

(なにわ会だより2号33頁 平成22年3月掲載)

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