回天特攻、石川誠三君らを偲ぶ(その2)
田中 宏謨(大宮市)
回天特別攻撃隊金剛隊(第二次玄作戦)
第一次玄作戦(菊水隊)が伊36潜、伊37潜及び伊47潜の三隻の大型潜水艦によって太平洋上の敵艦船の集団泊地でありましたウルシー及びパラオに昭和19年11月20日を期して攻撃が開始され、伊37潜を喪いましたが成功の裡に他の二隻の潜水艦が再び大津島に帰投した頃、私の伊58潜は漸く戦備を整えて次ぎの攻撃に参加のために大津島において、回天についての教育や訓練をしておりました。命の綱とも頼むべき電波探信儀や水中聴音機の性能について不満足は多く、測的兵器の劣勢は独り私の伊58潜のみならず、日本海軍を苦境に落込めた大きな原因でありましたが、斯かる測的兵器の劣勢に対しては人の力のみに頼るより他に方法はなく、十二分の注意を、払ぅことを余儀なくせしめました。
12月中旬、吉野朝の忠臣、楠正成奮戦の地、金剛山に因んで、第二次玄作戦参加部隊を回天特別攻撃隊金剛隊と名付けられました。参加潜水艦は先に菊水隊作戦から帰りました伊36及47潜に加えて、伊53潜、伊56潜、伊58潜及び伊48潜の六隻、当時健在なりし巡潜型潜水艦を総動員した形で編成され、
伊36潜は再びウルシー
伊47潜はフンボルト湾ホーランジア
伊53潜はパラオ、コスソル水道
伊56潜はアドミラルティーセアドラ基地
伊58潜はグァム島アプラ港に
夫々回天四基を搭載して20年1月11日に一斉攻撃を決行することとし、遅れて伊48潜は1月20日にウルシーを攻撃することときまりました。これが完全に成功すれば、太平洋各海域に新年早々敵主力艦艇を目がけて24基の回天が火花を散らすこととなり、この壮挙に対しては、知れる者をして大きな成果の期待がかけられたことも当然といえましょう。当時余りにも穏密を必要としたので、特別の関係者を除いて敢えて人に知らしめなかったのですが。多くの同期生が菊水隊に続いて、ある者は回天の搭乗員として、ある者は各潜水艦の乗組として上の作戦に参加したのでした。この作戦で戦死された方々の名前を挙げますと
伊36潜回天搭乗員として都所静世(機)
伊47潜回天搭乗員として川久保輝夫
伊53潜回天搭乗員として久住 宏
伊58潜回天搭乗員として石川誠三
伊48潜回天搭乗員として吉本健太郎及び豊住和寿(機)
潜水艦乗組として賀川慶近の7名(敬称略)の方々が国運に殉じました。
私は大津島にはこの作戦限りで別れを告げて、回天基地を光、次いで平生と新しい基地ができるたびにその基地へと移り変ったので詳しく回天発祥の地、大洋島の模様を語る資格もありませんが、偶々冬を迎えて海風の吹きさらすバラックの木造兵舎は、窓からは冷たい風がしのび入り、今のような暖冷房完備とは程遠く決して住み心地のよい環境ではありませんでした。肉親の愛からは遠く離れて修験者の道場のような大津島の生活は時代が斯くなさしめたと申してしまえばそれまでですが、人生の歩み方にも千差万別数多くありますように、人々には夫々異なった考え方と生き方をもって生まれてきており、ある人には満足を与えたかも知れませんが、皆が皆これに満足していたとも考えられないでしょぅ。不満を爆発させたい年令でありながら又青春を謳歌してあらゆる若き情熱と欲望を満したい年令でもありながら、一つの使命観に捉われて不満を口に洩すことも憚り、欲望を絶って、死への安住の道を求めて特攻隊員の修行は日々続けられていたようにもみられました。俗な人間には、何か近付き難い、聖地という言葉がピックリするような所でした。
ある面からみると、可哀想な気もしないではありません。私もとくに島には用事もなかったし、精々風呂を貰いにゆく程度なので、これといった親しみもありませんでしたが、談論風発とは縁遠い所でした。高野山や比叡山、又身延山の修行も夫々きびしいでしょうが、目前に自ら自分の生命を絶つ運命を控えた修行は肉体的にはとも角、精神的には今この社会世相の中にあって振返って考えてみよぅとしましても一寸想像するに足る背景もなく、中々その境地を見出すことはできません。食べたい、と思う物は金さえあれば自由に手にすることができ、着る物は、とくに女性は次第に裸に近くなってビキニスタイルだとか、膝上何10糎という尻しかまとわぬ、ミニ
スカートだとか、又シースルルックが流行し出して性の奔放つきる所を知らず、モーテルといういかがわしい連込宿が幅を効かして遠来の客をよび、金と物とがすべてを支配する社会、どれが男か女か見分けのつかない服装が結構カッコイイといわれて何の不思議も変哲もなく通用する風俗、たしかに人間のありとあらゆる欲望に対する満足感を真っ裸にして、大皿の上にもりも盛り上げたような生活環境の中にあって、約25年前の特攻隊員の心意気や生活を偲べといわれてみても、仮令その生活を知る者としてもそれこそ偲び難いものがあります。
むかし河原乞食といわれた芝居役者が、今では時代の脚光を浴びて寵児となり、英雄扱いにされ、赤いジユータソの上を歩いて憚らない時勢ですから世は全く変ったものだといえば変ったもので、約25年の平和は物事の考え方や処世術を綺麗に変えてしまいました。偶々同じ世代に生まれながらある時点までは同じ道を歩んだのでありましたが、ある者は青春を空しくしてこの世を去り、靖國の果にて、呼べど、叫べど、再びこの世に戻ることもありません。今、私達は幸いにも生き永えて人生の変化をジッとみつめるのですが、何とも形容できない大きな生活変化の渦の中に在って、日本人の考え方が僅か四半世紀で、敗戦占領という忌わしい環境変化はありましたが、かくも大きく変るものかと、思うと時代の流れの激しさにピックリさせられます。
来るべき25年後を想う時、いささか怖ささえ感ずるのです。ここで一ついえることは、特攻隊員らが不満足な生活に耐え抜いて、国の安危を案じつつ身を挺して死んでいった姿は尊いものであり、今でこそ昭和元禄といわれる世相の中にあって顧みられない傾向が強いが、敗戦という反動も国民の中に強く支配している結果でもあろうが、いつかはきっと国民の中に蘇ってくるのではからうかと信ずる次第です。「馬鹿な奴だ」との批判も一部にあるかも知れませんが、特攻隊の方々は彼等の歩むべき道が「飽までも正しいのだ」という確信に満ちて、死への道を選んだ以上、いつかは報われて蘇生されることとなるでしょう。
さて、同期の潜水艦乗組の方々はほとんどまず砲術長の職にありましたので、回天戦にあって、砲術長はどんなことをしていたのか.述べさせていただきます。回天は潜水艦の甲板上の架台の上に取付けられており、当初甲板上の回天の中に搭乗員が乗込むには、水中から交通筒の中をもぐつて入ることができるものと、一旦潜水艦が浮上して外から乗込むのと二種類ありました。何れにしても、回天の中に入った搭乗員との連絡は潜水艦の司令塔との間に電話線がひかれていて、専らこの電話によってのみ連絡できることになっておりました。
砲術長は司令塔に在って、回天と司令塔との間をつなぐこの電話の受話器を手にして、司令塔で指揮する艦長の指示を各回天搭乗員に伝え、又回天搭乗員からの連絡を艦長に伝える伝令の役目をしておりました。兵学校で
同じ釜の飯を食って過した同期の者が、敵影を前に回天の中にあって、愈々艦から離れよぅとする時、電話線が切れる最後の瞬間まで電話器を通じて死地への門出を送るべく連絡し合うということは、如何に戦争とはいえ、又職務柄とはいえ、夫々人の子としてはなはだ辛いことでした。1時間そこそこの来るべき運命を前にして、冗談もいえず、頑張ってくれ又成功を祈るなどと空々しいことを申しても二人の間はその域を遥かに超脱したものなのでした。大津島にあって発進訓練中は何も感じませんでしたが、いざ出発となるとその残酷な運命を呪わずにはいられません。
呉の港にあって、数多くの潜水艦を送り、ほとんど不帰の客となってしまわれたのですが、出てゆく潜水艦を送る感懐とは全く異様な胸の締めつけられる思いを味わわされるのでした。斯様な立場から逃避できるものならば逃避したい気持で一杯でした。寧ろ私が回天搭乗員として出てゆく方が、どれ程気分的に楽ではないか、と思ってみたこともあります。
橋口寛君は長く回天特攻隊員と起居を共にし、その指導に当ってきたのですが、戦後平生基地で自分の搭乗する回天を前にして、白い第二種軍装(夏服)に身を装い、自ら拳銃で生命を絶った心境も判らないではありません。橋口君は自ら手塩にかけた多くの回天特攻隊員に先立たれて、自分は出撃の機会を得られないままに取残されてしまったことを非常に残念に考えておりましたし、愈々出撃の機が到来して確実な予定が樹てられていたにも不拘、期せずして無条件降伏という最低の敗戦を迎ぇて、その苦悩を察することが出来ます。
徳山湾上では金剛隊参加の各潜水艦の回天発進訓練が夫々出撃を控えて続けられました。本番では、日の出前に潜水艦から発進して、露頂点に達して回天の特眼鏡を海面に上げた時には夜も明けて視界が開け、明るくなった頃に回天が敵艦船群の中で一番手ごたえのある物を目がけて突進するように仕組まれておりましたので、発進訓練も未だ夜が明けやらぬ頃から始められました。徳山湾の沖合から大津島に向かって回天の発進が終わると、潜水艦単独の諸々の訓練が引続き洋上で行なわれて総仕上げをすると共に、終って夕方港に入って錨を卸すと、明日の訓練に備えてクレーンで回天の搭載が行なわれる、という日が続きました。
一方では敵飛行機の緻密な哨戒網をどのようにして突破して敵に感付かれないように目的のグァム島アプラ港の入口に近付くか、又回天発進後はどのように避退して敵艦艇の反撃をかわし無事帰還するか、などについて艦長や航海長を中心として協議検討が重ねられ、計画路線が凝図に書いては消し、消しては書かれて着々と記入されていきました。第1回の回天搭乗員仁科中尉の遺書にもありますように「今後、回天使用は著しく困難ならん。戦機の把握こそ回天使用のもっとも留意すべきことである」。回天の出現はもう敵側に知られていることでもあり、警戒が厳重になっていることは十分承知の上で作戦をたてなくてはならず、回天の湾内侵入は非常に困難であると、みなくてはなりません。攻撃あらば防禦、防禦に対しては新たな攻撃という工合に攻撃防禦は各々テレコになって日進月歩している情況下で、果して同じことが二度通用するかどうか、穏密の上にも穏密裡に新しい奇策が樹てられねばならなかったのです。
・・・・の神恃み、とよく申します。日本の軍艦にはどの艦でも艦名その他のゆかりに因んで氏神様が祀られておりました。例えば戦艦武蔵には私が今住んでいる大宮に鎮座まします武蔵の一の宮、氷川神社が守り神として祀られておりました。私の伊58潜に守り神として何を祀るか、ということを考えあぐねた末、宇佐八幡宮が古くからの武の神様でもあり、よろしかろうというので衆議一決して、武運長久のしるしとして艦内に祀ることにしました。別府湾の亀川沖にしばしば碇泊して、別府温泉を乗員の保養地としていたので、その点については非常に都合がよく、これを機会に出撃の度毎に乗員が順番で参拝して武運長久を祈願することとしました。そして乗員一同に、宇佐八幡宮の入神した自鉢巻をいただき、又宇佐八幡大武神の大きな幟を書いてもらい、出撃のたびにこの幟を打ち樹てて港を出ることにしたのでした。私の潜水艦にとって別府に立寄ることはただ乗員の休養のみではなく他に大きな武運長久祈願の意義があったのでした。
大津島から補給を目的として一旦呉に帰り、呉で燃料、糧食主として生鮮食料品、魚雷などを搭載した後、再び12月29日完全武装を整えて大津島に入港しました。昭和19年もあと数日で暮れなんとする歳の瀬も押し迫った頃でした。戦さする身にとっては正月も暮もありません。翌30日、早朝より三輪長官以下参列して金剛隊出陣の式が挙げられ、又長官の各潜水艦乗員に対する激励の挨拶がありました。各艦を訪れた長官が去った伊36、伊53、及び伊58の3隻の潜水艦は、既に目的地に向って先行した伊47及び伊56潜の後を追って、相前後して錨をあげました。船ベリはいっもと変らぬ小波が寄せては返し寄せては返して、大自然は何も知らぬように波の音を聞かせてくれるのでした。長官はじめ同僚先輩の盛大なる見送りを受けて、回天搭乗員は夫々自分の回天の上に立って、白鉢巻き姿、手にする軍刀を振って、今の今まで生活を共にしてきた見送る方々に幾度となく別離の挨拶を交わし再び相見えることができない故国に別れを告げるのでした。
艦は電動機を主機械に切換え、次第に速力を早め白波をかき分けて進んでゆきます。
潜水瀬の艦橋の脇腹には黒地にイ58と白く書き抜き、日の丸の標識の上には菊水のマークを画き、艦橋の檣頭高く楠氏湊川の陣に翻った「非理法権天」と、「宇佐八幡大武神」の二本の幟が高々と掲げられて海風に靡いているのでした。紅白に彩られた旭日の軍艦旗をはためかせて、われはひとり征く南海の孤島へ、艦全体は正気に満ちて躍動し口には出さないが必ず成功してみせるぞという必勝の心意気を強く感ぜしめるものがありました。当時の雰囲気は最早や再び味わうことはできないでしょう。
冬の陽を浴びて潮風の流れに乗って走る三隻の黒い鉄のかたまりは隊列こそ組んでいないが、雁行し豊後水道に向って白波を駆り立てているのでした。岸壁に見送る人々の姿も遥か彼方に消えて見えなくなった頃には甲板上の整備も終り「合戦準備」の号令と共に、前、後甲板のハッチも堅く閉されて、潜水艦はいっでも潜航できる戦闘態勢に入りました。これから約1カ月、再び内海へ帰るまでこの状態が続けられるのでした。石川誠三君を長とする四人の搭乗員は艦橋にあって、私達と四方山の話を咲かせつつも、ジット連なる四国の山々を感慨深げに眺めあきることなく眺めつくすその姿は私達潜水艦乗員とてもこれが故国の見おさめとなるかも知れませんが、幾分でも再び帰ることができるかも知れないといぅ運命を持つ者と、全く帰ることができない死を前提とした宿命の持主との姿の差異をはっきりと眼の前に見せつけられるのでした。客観的にみればそこには大きな差はないかも知れませんが、その心の底には全く大きな差があることを現実に直面してみてよく判るのでした。過去約孝20年余、この日本の土地に生まれ、この緑豊かな土地に育まれた身ではありながら、今や遠く故国を離れて青春に燃える生命を祖国のために自ら絶たんとするその祖国に対する郷愁。全く平常と変りなく、若々しい陽に焼けた顔にも笑みを含んだ言葉にもそれらしいものは豪も現われてはおりませんが、親しき者を祖国に残して一瞥も相見えることなく去りゆく彼等の心の底を打つものは一体何であったでしょうか。この世に戦さあるが故の残酷と申しましょうか。(以下次号 その3)
(なにわ会ニュース18号22頁 昭和44年10月掲載)