回天特攻、石川誠三君らを偲ぶ(その1)
田中 宏謨(大宮市)
私の約一年余の潜水艦生活は、人間魚雷回天と一緒にグァム島アプラ港内に散華した、石川誠三君にはじまり、瀬戸内海の平生基地で自決した橋口寛君と共に終った、といえましょう。
すくなくとも、日本国内では平和が続く昨今、かの神風あるいは回天による特攻隊なるものを思い出してみますと、何か割切れない感じがします。洋の東西を問わず、過去いつの戦いにもこれと似たものはあったのでしたが、これほど組織的にかつ、大規模に特攻作戦が継続して行なわれたのは太平洋戦争以外には見当りません。わが潜水部隊は緒戦よりハワイ島に五隻の特殊潜航艇を送りました。その成果はとも角、太平洋戦争なるものが、開戦当初よりいかに勝ち味の薄かった戦争であったかをよく示しております。
かの特攻作戦に参加され、花と散った方々の尊い意図が、戦後二十五年を経て昭和元禄と世をあげて騒がれる今日、どのように示されているかを振返って考えてみますと、ただ感無量に堪えません。現世代の多くのカッコイイ若人の考えには、一つの歴史的事実としか通じないしか通じないのです。いかに物質文明華やかなりし現世とはいうものの、精神的に何の名残をも止めない淋しさを感じさせられます
こんなことなら、敢えて国土防衛の先頭に立って犠牲となることなく、銭儲けのために、からだを振り絞って専心したのに、と切歯拒腕する老も多いでしょう。
物も考えようかも知れませんが、私はかような勝味のない戦さを二度と犯すべきではないし、また、若い人々の楽しかるべき青春を空うせしめるべきではないと思います。
兵学校時代、私は偶数分隊ばかりの生活で、石川君とは親しい生活をした記憶はありません。
偶然の縁にも、グァム島アプラ港灯台の灯の点滅を前にして、南十字星輝く海の中で、決死行を直前にひかえて、彼は狭い回天の艇内で
目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしゃ
曇る今宵の金屏風 誰のとがやら罪じゃやら
と、ひとり口笛をふきながら、潜水艦の甲板から離れ去りました。その姿に接することができたクラスのただ一人でした。
当時、私は潜水艦の乗員として司令塔にあって、甲板上の回天四基と潜水艦との電話連絡を受持っておりました。受話器をもつ、私の耳には彼の美しい口笛の音が響いてくるのでした。そこには、何の心のわだかまりもなく、焦りも受取れず、ことさらに自分を美化しようとする片鱗もなくまた、虚栄感もない、平常と全く変りのない落着いた自然の彼の姿でした。潜水艦は刻一刻、アプラ港の湾口に近付いているのです
私が地味な潜水艦生活に足を踏み入れたのは兵学校を卒業して約半歳後でした。ドン亀生活が始まりました。その頃は未だ、回天という兵器については、秘かに試作研究をしていたのでしょうが、夢にも考えておりませんでした。
潜水学校に入校すべく、呉に入港して潜水艦基地隊で一夜を明かし、基地隊の庭の一隅に保存されていた六号潜水艇の前に額きました。折柄、美しい桜の花びらが緑なす江田島を背にして春風に舞い散っており、あたかも私達の前途を占うかの如く、戦争さえなければ、同じ桜でも眺めみる眼がちがったことでしょう。
明日は我が身の運命を物語るかのように、桜の花びらは、在りし日の佐久間艇長の俤を偲はせて、心なくも海風に舞い散っているのでした。
身を君国に捧げつつ 己が務をよく守り
繁れて後に止まんこそ 日本男子の心なれ。
阿多田の島の沖にして 艇もろともに沈みたる
第六潜水艇員の 雄々しき最期を見よや人。
中にも佐久間艇長は はや是までと見るよりも
司令塔下に筆執りて 事の始末を書き遺す。
当時、私は斉藤徳道君らと、シンガポールより大竹の潜水学校まで入校時行動を共にしましたが、斎藤君は潜水学校を卒えて、特別攻撃隊菊水隊の搭載艦である伊37潜乗組みとして、19年11月、大津島を出てバラオ コスソル水道に向い消息を断ちました。この桜が斎藤君の生涯の最期の桜花となってしまったのでした。
大竹の潜水学校に一番遅れてシソガリで着任し、その後約半歳たらず、70期、71期、及び我等72期の戦場帰りの生命しらずの若者たちが相寄り相集い、その間、温厚常に笑みを失うことのない田辺指導官や中川指導官に一方ならぬご心配とご迷惑をおかけして、誰しも心中甚だ申し訳ないとはかねがね思っているものの、若者の相集うところいささか常軌を逸した生活の裡に、潜水艦乗員としての基礎について学習したのでしたが、その頃回天という兵器が研究試作されつつあったということはとくに聞かされませんでした。一部の学生の中には心得ている者も相当あったらしいが、それぞれ秘しているのか知らないのか、尋ねてもはっきりこれについて説明する者もありませんでした。
夏の陽の強い、カンカン照りの日でした。各々教官に送られて私達は潜水学校の門を後にし、それぞれ別れ別れになって各自の任地に赴きました。その際、71期、72期及び機関科のコレスの中に数名、呉工廠付という正体のつかみ難い辞令をもらって卒業した者が
おりました。これがその後P基地(特殊潜航艇)にいた一部の者と合流して、板倉少佐の指揮の下で大津島(徳山湾)に基地を創設したことを後で知りました。
その頃、サイパシ作戦で不運にも多数の航空機、艦艇を失い、とくにサイパンで潜水艦隊の指揮をしていた高木長官以下六艦隊司令部は六月、特殊潜航艇要員と共に敵の攻略部隊に突入して玉砕という結果を招いた後のことでしたからなおさら、潜水艦関係の水中部隊は何としてでもこの急降下してゆく態勢を喰いとめねばならないと必死挽回の境地に追いやられていたのが当時の情況でした。誰しも、どんなことをしてでも、米英を主力とする連合軍に打ち勝たなくてはならない、と心痛していたのでした。今まで外敵との戦に負けたことを知らない日本人として、又国防の任に当る者として、このような戦局の逆境の中から、悲壮感に満ち満ちて堰を切ったよぅに急いで生れてきたのが、空の神風なり、海の回天という特攻隊でありまして、戦後「特攻」に対する人命軽視の批判も内外に多くきき、ややもすれば与太者や暴力団徒の代名詞的感覚も与えないではありませんでしたが、戦争と全く縁もゆかりもない、局外者や反戦平和論者が当時の状況に無知で理解なきために勝手に批判するのならば格別、私としては当時の状況下で、国のためを思うならば身命を海の中に、あるいは空の涯に賭した特攻
隊の存在を誰しも肯定せざるを得なかったと思います。昨今、数多くみられる自動車のひき逃げや、又暴力学徒の殴り合いとは根本的に異なった社会観念から生れ出てきたものなのですから、人命軽視としてこれ等と同様に混同されてはたまりません。想えば、当時崩れゆく日本の姿を国民の前にPRすることを怠っていたことも事実です。
勝ったことしか聞かされず、負けたことを知らない日本人一人一人の身には、敗戦といぅいまわしい現実が既にひしひしと迫ってきていた頃でした。私は潜水学校を卒へると、横須賀工廠で工事中の伊58潜水艦の艤装員を命ぜられましたので、措須賀に赴きました。
前任者の小柄な山田富三君は、私の赴任と入れ代りに潜水学校に転勤して、横須賀工廠を去りました。山田君は潜水学校を卒業後、呂109潜水艦の航海長として、潜水学校在校当時の教官でありました中川艦長と共に、風雲急な沖縄海域に向けて出撃し、戦死されました。嘗て一度も潜水艦生活を送ったことのない私にとって、艤装工事なぞ皆目わかるはずもなく、ただ工廠の職員がいろいろ工事するのを黙ってみているばかりであって、わからないままに夏の陽長のその日、その日を送るだけでした。敵の制海、制空圏内の海域で働く潜水艦にとって艤装工事がいかに大切な仕事であるか、職工任せではいけない、ということが、後で実戦に臨んで身に泌みて痛感させられましたが、艤装当時の無為無策のポロが相次いで出だしたときは既に遅く、水中聴音機の能力は悪いし、短波マストによる電探の感度は悪いし、数えあげればキリがなく、砲術長兼通信長という担当部署からの欠陥は続出でした。
今、思い出してみると、若年未経験とはいえ、実に馬鹿馬鹿しいことの連続で、よくまあ生き永らえて終戦の日まできた、と述懐し、諸先輩の方の暖かいご指導に感謝しております。
それまで兵科士官というのは与えられた兵器を如何に巧く運用して、戦闘能力を最高度に効果的に発揮せしめるか、即ち与えられた兵器は完全なものであるとの前提に立って考えておりましたが、潜水艦生活に入ってからは、与えられる諸々の兵器は不完全なものであって、必要とする兵器は自ら完全ならしめるべく改善して装備し、これを運用して戦わねばならない。又いろいろの兵器は与えられるものではなくして、その時勢の要求に応じて自分の作戦に適合するように改造して、その能力発揮に静めて戦ってゆかねばならないのだという考え方にすっかり変りました。
伊58潜水艦は騰装工事中、搭載していた14糎砲を積みおろしてしまいました。伊54潜、56潜、58潜と続いた巡洋潜水艦乙型の最終艦でありまして、前甲板にはカタパルトと小型水上偵察機を一機格納する格納庫があり、後甲板には兵学校当時の砲術学で初めてお目にかかった艦砲である14糎砲を一門搭載していたのが基準型でした。橋本艦長の持論として潜水艦の攻撃兵器は魚雷あるのみである。過去、ある潜水艦はアメリカ太平洋岸に長駆して海上から米本土を砲撃しました。又太平洋の孤島に向って14糎砲弾を打込みました。しかし、これらの砲撃が果してどのくらの効果があったでしょうか。潜水艦の攻撃は魚雷一本に専念すべきだ、というのが、かねてからの持論でありました。防禦は勿論、水遁の術、即ち潜航あるのみです。かような考え方でしたから、14糎砲という唯一の海上攻撃兵器を積みおろしたのでしたが、格別何の抵抗も感じられませんでした。私は火砲を持たない名ばかりの砲術長なのでした。
実は何故、この14糎砲をつみおろしたのかと申しますと、この時から私の潜水艦に対して回天作戦の準備が始められました。おぼろげながら〇六兵器の茫容が私達の眼の前に現れてきました。当時、回天という呼称は未だ生れておらず、〇六兵器といわれており、〇六兵器が魚雷を改造した特攻兵器であることは知りましたが、これをどのようか方法で潜水艦から発進せしめるか、という攻撃兵器の面についての具体的の諸点については未だ単なる想像の域を出ませんでした。
秋風がそろそろ、東京湾の湾内に立ち騒ぐ波の中にも白く訪れ、暑い陽ざしも弱さを感じられるようになった九月半ば、艤装工事を終えた伊58潜水艦は新造潜水艦の訓練部隊である第11潜水戦隊に編入され、瀬戸内海西部での約三カ月間の訓練に参加すべく、馴染みの観音崎灯台を後にして東京湾に別れを告げました。潜航は未だ乗員が馴れていないので水上航走で回航することにしました。
潜水艦といっても卵からかえったばかりの潜航しない潜水艦では、普通の水上艦艇よりも足がおそいので始末が悪く、既に数隻の敵潜水艦が組になって日本の本土沿岸に跳梁していた時勢なので、かような海域を単艦で水
上航走することについては危険を感じとくに配慮しました。伊58潜にとっては生れてはじめての戦闘航海なのです。乗員は皆緊張しました。館山沖で陽の暮れるのを待ち太平洋上に出きした。夜更けて伊豆山の麓には熱海や伊東の灯が輝いています。
途中、潮岬沖合で敵の潜水艦らしいものに遭遇しましたが、これを避退して、漸く東の空が白みかける頃、初秋の細雨が煙る紀伊水道に滑り込みホット安堵の胸をなでおろしました。たかが回航ぐらいのことで敵に寝首をかかれてはお話しにもなりませんから。
たまたま私と機関科の分隊士(71期のコレス)を除いては、艦長はじめ先任将校、機関長、航海長とすべで開戦当初からの潜水艦叩き上げの歴戦の勇士で固められ、何とマア好運にも今まで生きのびてきたのか、と思われるほどの運に恵まれた人達の集まりでした。ですからそれぞれ年令はちがいますが、潜水艦の実戦経験という点については、独自のキャリアと定見の持主でありましたが、ソセイラソゾーには如何とも抗し難く、内海に入るや早速工廠という病院に入院せざるを得ませんでした。
予定より二、三日遅れて11潜戦の仲間入りをしたのですが、まるで呉で修理ならぬ休養や遊興してきたように取扱われて司令官からおこられる始末でした。当時、安下庄沖で伊12潜(木村健一君乗組)と会合いたしまし
た。ご健闘を祈る、と信号を交して別れたのですが、伊12潜は11潜戦の訓練を卒業して、いよいよ北米沿岸の通商破壊作戦に出撃すべく人目につかないように特殊訓練をしているところでした。その後数日を経ずして同艦は風船爆弾を米本土上に流すべく、特殊任務を帯びて故国を離れ、紛三カ月にわたる長い作戦期間、各海域でその目的を達したのですが、不幸帰国の途次、消息を絶ったままになってしまいました。伊12潜が生還してくれた
ら相当参考となることが多かったことと思いますが残念でした。
私の乗組む伊58潜の11潜水戦隊における訓練も、最後の総仕上げにかかり、夜間訓練、黎明薄暮の訓練、被爆時の応急訓練、襲撃運動また避退行動などの一連の総合訓練が昼夜を分かたず、朝まだ明けやらぬ前から星天に美しく輝く深更まで文字どおりの月月火水木金金の日程で、一日の休みといえば数分の食事時ぐらいのもの、それも各自交代で、乗員一同一体となって倦むことを知らず続けられ潜水艦乗りとしての練度も漸く一人前に近きつつありました。その頃、比島海面で敵の大量な上陸部隊を迎えてレイテ作戦が行なわれ、潜水部隊も現有潜水艦の総力を挙げてこの作戦に望み、伊26潜、伊38潜、伊41潜、伊45潜、伊46潜、伊54潜、及び伊177潜などの貴重な大型潜水艦を失うと共に、同期の潜水艦関係者としては、これが初の大量戦闘参加となりまして、それぞれ各潜水艦に乗組んでレイテ沖海域に出撃し戦死された方々も出ました。皆、去る三カ月前潜水学校で螢の光、窓の雪を同じくした方々でした。
伊38潜、 青木孝太 君 麦島 修 君
伊41潜、 土井 仁 君
伊45潜、 寺岡恭平 君
伊46潜、 吉羽 宏 君
伊54潜、 吉用茂光 君 山脇美代治 君
伊177潜、 井上 哲 君
このレイテ作戦の終末に引続いて、航空部隊の神風と呼応して、回天作戦の火蓋が切って落されました。今までの〇六兵器は丁度その頃「回天」というその時代に全く相応しい新しい名前を与えられ、回天作戦のことを玄
作戦と称えることにしました。玄とは中国の哲人老子の説いた道でありまして、玄の又玄、衆妙の門という言葉は古くより人口に膾灸されております。辞書には次のように説明されています。おくぶかきが上におくぶかぐして、思惟を絶ち言説を絶したる道の枢機が衆妙のよりて出ずる所なりということ、と。
一寸今の私には修養不足もはなはだしく、これを正しく理解し兼ねるのは残念です。どのような経緯で、そのような神妙な名前が名付けられたのか、詳しいその時の模様は、その場に立会っておりませんので説明し兼ねますが、この点については詳しい参考資料も公刊されていることでもありますから敢えて触れません。しかし、回天といい、また玄作戦の玄といい、どんなことをしてもこの敗勢をくつがえして、国運を再び隆盛に回復しなくてはならない、という決死の意気込みがかような字句を生み出し、使用せしめたことは明らかです。潜水部隊の中は、悲壮感に満ち満ちていたのです。何とか一つの光明活路を見出して、このやみ雲の中から四ツ這になって抜け出そうとする苦しみと喘ぎ、その中に置かれていたことは誰一人知らぬ老はありませんでした。
神風航空部隊の中に丹作戦というのがあり、私の伊58潜も潜水艦として、この作戦に参加したことがありますが、この丹作戦の丹とは若干趣きがちがうと思われます。同じ特攻作戦ではありますが、潜水部隊と航空部隊は戦闘の現実のみつめ方に対して、それぞれの立場から差異があったように思われます。
ここで回天作戦即ち玄作戦というものについて、若干、潜水艦乗員として私が体験した点を基礎としまして説明させていただきたいと存じます。
既に水中特攻兵器「回天」というものについては、戦後再々雑誌、ラジオ、テレビ、単行本又は映画などで数回となく繰返し上演されまして、その時期その時期に即した時代感覚の中にあって、いろいろの角度から一般国民大衆の前に披露されて参り、過去の隠密兵器もベールをぬいで裸にされ、今や万人周知の事実となりました。
回天作戦を回天の用法から大きく大別しますと、碇泊艦襲撃と航行艦襲撃という二つにわかれ、何れも潜水艦を母体としまして、潜水艦とは不即不離の関係にあってその作戦が行なわれました。どのような潜水艦を使った のか、といいますと、搭載能力の関係で巡航型潜水艦がこれに用いられ、初期は各潜水艦とも後甲板に四基、後に前甲板にも更に二基を加えて六基搭載しました。次第に搭載潜水艦の範囲が拡張されて、輸送潜水艦も攻撃用に改造されまして、回天搭載艦としての役割を担うことになったわけで、小型や特殊用途の潜水艦を除いては総べてこの作戦に参加する結果となりました。当初、動いている、即ち洋上を航行中の艦船を攻撃することは回天兵器の機能的問題で未解決点が多く非常に困難な問題であり、且つ犠牲のみ大きくて実際の効果として徒労に終るのではないか、と危惧されたので、航行艦を目的とする襲撃は避け、重要泊地碇泊中の艦船襲撃に目標が置かれました。
当時、ウルシー、パラオ、グァムなどをはじめとして内南洋の泊地には物量補給に物をいわせた夥しい敵輸送艦船が碇泊し且つ出入りしておりまして、当時日本本土沿岸を荒し廻っていた38機動部隊、次いで58機動部隊はウルシーを根拠地として縦横無尽に活動してぉりましたので、この機動部隊が日本本土に向う前にどうしてもその息の根をとめておかないと日本本土の艦載機による爆撃砲撃被害は累増するばかりでありましたので、第一目的が敵の航空母艦や戦艦の主力艦におかれてぉりましたことは事実であり、その結果、これ等の大艦と一死もって差違えることによって幾分でも敵の本土侵攻を喰い止めることができるならば、また侵攻速度を弱めることが出来るならば、という考え方でありました。
しかし、碇泊艦襲撃と申しても各碇泊基地の警戒は敵の本土侵攻の重要拠点としての意義を増大せしめるにつれて、日を追って厳重を極めておりまして、奇襲が果して可能か、どうかという点になりますと、そこには当然大きな不安と周到綿密な事前調査(偵密)が要求されておりました。ハワイ海戦の特殊潜航艇(甲標的)奇襲のときとは相当の開きがぁりまして、戦争酣わの現在、鈍重な大型潜水艦が果して敵の重要基地に穏密に知れないように接近することができるかどうか、又その接近についても特殊潜航艇と回天との航走可能距離の差異と、乗員二人の潜水艦を超小型にした特殊潜航艇と魚雷を改造したに過ぎない単独操縦の回天との間には、潜航操縦技術の点で大きな行動能力差がありますので、これを潜水艦によって解決するためには、当然ハワイ海戦当時よりも潜水艦がその基地の湾口に近接しなくてはならないのです。これが可能かどうか。又仮に回天発進に成功しても避退できるかどうか。考えれば考えるほど、幾多の困難な問題を孕んでおりましたが戦局の様相は是が非でもこれを成功裡に導かねばならない、という立場に各関係者達を追い込んでいたのでした。
当時、敵の基地港湾はどのような継続的な警戒と防禦策が施されていたのか、と申しますと、四六時中電探による電波索敵は行なわれ、それも一基にとどまらず、数基の電探によって全周回の海面に対し電波索敵が行なわれておりました。哨戒艇も日本同様出ておりますし、基地上空には昼夜を問わず小型哨戒機が数機警戒索敵に飛んでおります。また、昼間は毎日定まって大型哨戒機が索敵海面を定めて遠距離対潜哨戒が行なわれておりました。
湾口には防潜網が布かれ、機雷堰が設けられ、対潜防禦用の柵も設けられて航行可能水道は限定されておりました。
それでもまだ、太平洋上の大きなうねりの中で航行艦船を捜し求めて、回天の攻撃対象とするよりは、波も静かな碇泊艦船を攻撃する方が容易であり効果的である、というのが当時の結論でした。そこには当然回天の母艦
である潜水艦自体の犠牲も計算に入っておりました。
硫黄島に敵が上陸するや、回天を以てする硫黄島周辺の敵艦船攻撃も、また引続き行なわれた沖縄島周辺の敵艦船攻撃も専らこの碇泊艦襲撃を基礎概念として行なわれたものでした。
潜水艦として、回天をもって洋上で航行する敵艦船を捕捉し、これに対して攻撃するより他に有効な方法はない、という既成概念から大きく戦術転換を迫られたのは沖縄島が連合軍のために攻略されてからでした。何故か
と申しますと、沖縄島周辺の敵艦船攻撃に向った回天の母艦たる我が潜水艦の犠牲があまりにも大きく、且つその成果がすべてはっきりしなかったからでした。敵の主力艦隊に単独で立向うことが出来るのは小さいとはいえ
潜水艦しかありません。数少ない虎の子のような潜水艦が、戦備を整えるや次から次へと沖縄周辺海域に投入され、全軍突撃命令が連日の如く六艦隊長官から下令されました。しかし、その目的はすべて水泡に帰してしまったかの如き感を受け、何の手応えとてないままに殆どの潜水艦は不帰の客となってしまいました。
このような事情から回天攻撃も洋上へと、今まではどうしても乗り切れなかった厚い壁を飛び越えて窮状打開のために進まざるを得なかったのでした。たまたまこの航行艦襲撃が潜水艦の起死回生的成功を収める結果となりまして、終戦に至るまで続き、本土決戦に備えて太平洋上の最前線にあって敵の本土侵攻に対して第一撃を加えるべく間断休みなき出動を要請されていたのでした。
伊58潜は八月十七日豊後水道に入りましたが、若し戦が終らなかったならば、休養整備を与えられる暇もなく早々に魚雷、燃料などを補給して、二十五日には同期の橋口寛君を回天搭乗員として乗せて再び太平洋に敵艦隊を求めて豊後水道を出撃する予定となっておりました。
橋口君は自分の出撃の日を一日千秋の思いで待ちあぐんでおりましたが、思いなしか出撃を目前にして終戦の大詔を仰ぎ、敗戦を迎えることとなり、とぎすました矛を収めざるの余儀なきに立至りまして、平生基地で未だ春秋に富む自己の生命を自ら絶ったのでありました。
航行艦襲撃はある時は、回天を搭載する潜水艦が敵の対潜掃討を目的とする駆逐艦など数隻に包囲されて、海中で動きのとれなくなった際に、敢然潜水艦の身代りとなってこの包囲網を破壊して潜水艦を救出し、また或る
時は遠距離のために魚雷ではその成功を期し難い場合、敵艦群の中に突入してこれを攻撃したものもあり、いわゆる機雷のような運動能力に乏しい潜水艦の攻撃力を攻撃防禦両面から幾重にも倍増したのみか、いつどこから
攻撃されるかも知れない回天の威力は敵艦隊を恐怖に陥れたことはまぎれもない事実でした。終戦直後、日本の軍使がマニラのマッカーサー司令部に連絡に行ったとき、サザランド参謀長が最初に口に出した言葉が「回天を積んだ潜水艦が何隻洋上に残っているか」という問いに、十隻位いる、と答えたとき身を震わせて「それは大変だ、早速戦闘行動を停止するように厳命してもらいたい。」と言わしめたのも回天でした。当時、日本の連合艦隊は霞ケ関住いの陸上り的存在となってしまいましたが、一艦で以て十分に敵機動部隊などに対抗できる、七本の強力な矢を持つ潜水艦に対して、既にその数は残り少なくなったとはいうものの、寄せる期待は、はなはだ大きなものがありました。 (以下次号 2号)
(なにわ会ニュース18号22頁 昭和44年10月掲載)