TOPへ  歴史

嗚呼!海軍予科兵学校入校待機訓練生

なにわ会会長  岡野 武弘  
  

 海軍兵学校に予科制度が出来て、78期生は、昭和20年4月、本校の江田島ではなく、針尾分校などに入校しました。

 続けて、79期生の入校試験がありました。学徒動員令の下、軍需工場で勤労奉仕中の私に、担任の都立八中の大竹建夫先生と教頭の岩本実次郎先生(戦後、小山台高校となって、その校長となる私の恩人)から、予科兵学校への進学希望の有無を確認の電話連絡がありました。好意の籠った声に感激しました。

 帰宅して、父母に話すと、「うん、そうか」と肯いただけでした。

 登校し、願書と入学希望の短文を提出すると、替て、合格通知が届きました。内申書だけの選抜だったのか、身体検査も無しでの、(七月三十日、午前9時、海軍経理学校に集結の事)という予科兵学校委員長の通知書でした。

 私か敬慕し、惚れ抜いている兄文彦は、七十二期卒で、ゼロ水(ゼロ式3座水上偵察機)の編隊機長として、敵の米国潜水艦1隻を、九州近海で撃沈の効果大の戦功を挙げました。その上、尚、急降下訓練が必要だと、佐伯湾外竹島沖で、急降下中、右主翼が飛散、海面に突っ込み、右飛行靴だけが浮かび出て、大尉に昇進の兄の唯一つの遺骨となったのでした。

 父と共に、佐世保海軍航空隊の兄の海軍葬に臨み、弔砲に始まる大格納庫内全隊員整列の葬儀と、艦載機の機銃掃射を浴びた鹿児島本線の線路下、庇い合って父と抱擁、その時、元服を許された私だったのです。

 なにわ会ホームページの、戦没・井尻文彦の欄を検索、兄を著述した岡野執筆をご覧下されば幸甚です。

 兄からは、「兵学校志望は絶対に駄目だ。文学者になって、親孝行して呉れ」と言われ続けていました。 しかし、最期の返信となってしまった兄からの葉書には、「俺の後に続け」とあり、「命あっての物種だ。身体堅固に励むように」の言葉もあり、如何にも、兄らしい優しさの寵ったものでした。

 {細心大胆}の兄の座右の銘は、私の全身に脹る信条となりました。

 7月30日、国鉄の品川駅下車、御楯橋を渡り、お台場の海軍経理学校に到着しました。午前9時、受付点呼、身体検査開始、各科検査場を経て、本剖講堂に集合、約百名は不合格となり、直ちに、出身校に戻されました。

 120名が合格、部隊編成かおり、私は、第5分隊配属となりました。合格者は、殆どが中学四年生で、関東地方の一都六県からの選抜で、私の中学からの志望者の中では、四年生の森利彦先輩と同学年三年生の溝尾弘君の3名でした。

 経理学校(現在の海洋大学)は、校門内の敷地は広く、十数棟の兵舎が林立し、特別甲種幹部候補生(特甲幹)の大学生と、前線に出陣前の主計科少尉候補生か起居していました。

 次兄の民雄は、経理学校三十七期生で、この品川校舎から、神戸の垂水校合に全生徒と共に移動したばかりだったのです。海軍3兄弟と謂われた文彦、民雄、武弘の3人でした。最後の私が、民雄の次の番で、この校舎に起居することになろうとは、不思議な巡り合わせでした。

 昼食に、白米のカレーライスが出て、我々、訓練生の合格を祝してのご馳走だから有難く「掛かれ」の、教官の関根中尉からの紹介と号令に、わっと喚声が湧き、貪るように豊かな食事を楽しみました。海軍カレーは、金曜日の献立なのにと、疑問もありましたが、この日は、確か、月曜日でした。

 7月31日、着校式があり、晴れて、海兵予科生徒候補となったのでした。課業は、午前3時間の座学、午後2時間の体育等があり、数学、理科を主に、英語の授業もあったので、張り切りました。海軍体操、水泳、手旗信号、結索は常時の訓練でした。午後に、(自選時間)の自由な部活動や図書館利用、競技、野球も出来ました。

 (スマートで機転が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り)とか、(兵学校五省)の言葉を知らせ整理整頓、即時即決、機敏な私か、兄譲りのハーモニカや歌唱も披露する時があって、優越心も湧く日々となりました。

 海軍に、伸び盛りの中学生を選抜し、食糧難や戦災から救い、学力不足と体力不足等を補い、将来の将校を育成する方針があり、救われているのだと実感しました。

 カッター訓練は、校庭の南海岸から、東京湾に漕ぎ出るのですが、4日目に、8番クルーの私と何人かが、横須賀軍港近く、駆逐艦の右舷となって、擢立ての礼が遅く、2等兵曹の教官から、手荒くピンクを受けました。

 8月10日の日曜日外出が、芝浦の軍需工場と倉庫群にグラマンF6Fの空襲があり、しかも、時間差の波状攻撃で、中止となってしまいました。芝浦の倉庫や周辺の攻撃から、経理学校を帰り道の爆撃が増えました。「貴様たちを狙って飛んで来るのさ」と言って、炊事班長の兵曹長が笑っていました。武器弾薬などの軍需品を狙うよりも、将校の卵たちを殺す作戦を指して言ったのです。

 軈て、太平洋上を遊弋の空母から発進した艦載機グラマンF6Fが、編隊を組んで飛来、低空飛行でお台場沖から侵入、銃撃を浴びせてくるようになりました。ミッドウェー海戦以来、制空権を奪われた海軍の現実がありました。

 8月13日の明け方、「空襲警報発令ッ。退避ッ。直ちに掛かれツ!」の拡声器の声で毛布を剥がしました。ハンモックから飛び降り、窓から飛び出て校庭を突っ切り海岸線の防空壕まで全速力で走りました。バリバリッというグラマン機の独特の空気破裂の金属音が響き、機銃掃射が始まりました。分隊内1番の走力のあった私は、先頭を切って掩蔽壕に飛び込みました。兵舎から応射の機関銃の火矢と、ちらちらと探照灯に映り出だされるグラマンの機体の星のマークが大きく見えました。ばたばたと走る後続の生徒群の中から悲鳴が上がりました。銃撃は止み、軈て、激しく号令が飛び交いました。機銃掃射を浴びて即死の生徒は、同分隊の茨城県立中出身の親しくなったばかりの友でした。

 彼を抱き、耳元に叫んでも、数発の弾丸が貫通の体は答えず、即死でした。2日後には日本の敗戦となったのですから、憾みの残る2日の差でした。私は、彼を戦死者に加え、靖国神社のなにわ会の永代神楽祭の祭神として心に祀っているのです。

 特甲幹(特別甲種幹部候補生)の大学生と共に、天皇の終戦の詔書の録音放送を聴きました。昭和20年(1945年)8月15日正午の事でした。「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み・・・米英支蘇4国に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。・・・」と続く天皇の長文の録音放送の内容でした。ガーガ一と聞き辛いアクセントの声でしたが、日本の敗戦と理解しました。

 軍秘を焼却の煙の立ち上る兵舎のあちこちに、慟哭と喚声の響く午後でしたが、夕刻、本部前に集合、整列の総員約500に、海軍少将の校長の訓辞がありました。そして、我が訓練生の教官・関根中尉(予備学生出身)の号令一下、軍艦旗降納式を行ったのでした。水兵隊のラッパ吹奏と軍艦旗の降岫の見事な一致を見て、今更のように、海軍の奥深さを知る想いを深めたのでした。

 

TOPへ  歴史