3月1日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
新保始明夫(133空 艦攻操)
台湾海峡 天候不良の為ガランピー岬南山に接触墜落殉職(天山)
この日の戦後物故者なし。
67年前の昭和19年3月に我々は少尉に任官した。そしてその月の戦没者は僅か3名であったが、翌20年3月の戦没者は23名であった。この23名、内訳は航空13名が一番多く次いで潜水艦6名、あとは水上艦艇、整備、兵器、回天各1となっており、もう行動できる水上艦艇が少なくなっていた。
内地空襲も激しくなってきて、3月10日には東京大空襲があり、12日、19日には名古屋に、13日には大阪に、17日には神戸に大きな空襲があり、19日には呉も空襲を受けた。
19日の名古屋空襲では管理人の家内の実家が全焼、19日の呉空襲時には駆逐艦楓で応戦した。
3月2日
この日の戦没者 なし。
この日の戦後物故者
林 繁幸 2004年3月2日逝去
山之内素明君の「故林繁幸君 偲び草のよすがとして」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-hayasi-yamanouti1.html
水交3・4合併号が送られてきた。そのなかの記事から。
1 第20回市来会で都竹卓郎君の「大和の艦橋から見たレイテ海戦」の講話が23年4月7日(火)1330~1600行われる。
2 訃報
65期 本村 哲郎様 H22.12.31没
73期 古家 勇様 H22.11.10没 岩間 子朗様 H22.11.18没 岡 達様 H22.11.29没
74期 篠 憲二様 H22.12.15没 佐々木郁郎様 H22.12.16没
3 遠洋練習航海部隊壮行会が23年5月中旬1700から水交会で行われる。
3月3日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
なにわ会だより第4号、3月5日発送の予定です。早速ですが、柏清一郎君が転居されましたが、4号に記載した住所番号「4-1-1」は間違いで「4-11-1」に訂正してください。
度々書いていますが、4号からは新しく年会費を納入された方のみに発送しています。年会費が納入されていない方には送りません。もし、未納入の方で配布を希望される方がおられましたら管理人伊藤正敬までご連絡ください。
3月4日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
3月5日
この日の戦没者 なし。
この日の戦後物故者。
北村 卓也 1998年3月5日逝去
金枝 健三君の「北村卓也君への弔辞」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kitamura-kaneeda1.html
3月6日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
なにわ会だより第4号完成。昨日クロネコで発送しました。7日か8日に到着すると思います。
今回から新しく年会費を納入された方《会員113名(兵90名、機12名、主7名、会友 4名)
物故者遺族 41名(兵34名、機 2名、主 3名、会友 2名)、戦没者遺族 62名(兵56名、機 4名、主 2名)、有志7名』合計223名と最近会費納入された3名の方と会報等を交換している他のクラス18名総計241名に発送しました。
送付先会員は今までに比べて概ね半減です。年会費を納めたのに4号が来ないと言われる方は伊藤正敬に連絡下さい。また、年会費の納入を忘れたが欲しいと言われる方もご連絡ください。
次にお詫びですが、表紙の写真が少し左に寄りすぎてしまいました。製本後気がつきましたので、今回はそのまま発送しました。ご容赦ください。
3月7日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
74期訃報
久保田 喬 様(1学年3分隊) H23. 3. 5 没
3月8日
この日の戦没者 なし。
この日の戦後物故者。
清水 淳 2003年3月8日逝去
高田 幸雄様(予学13期)の「清水さんとの思い出」の記事↓がある。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizujyun-takada1.html
泉 五郎の「五十九年振りの清水淳 湘南歩こう会・松崎行き」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizujyun-izumi1.html
上野 三郎の「清水 淳君を偲んで」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizujiyun-ueno1.html
押本 直正の「清水 淳の手紙」↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizu-osimoto1.html
兵75期の会報 古鷹 第50号を頂いた。
1 75期会は平成24年 3月末を以て期会を終結する。そして23年 5月 9日
に「第75期終結総会」が開かれる。
2 平成22年 5月11日グランドヒル市ヶ谷で第47回全国幹事会が行われ、期会終結について打ち合わせが行われた。
兵78期の会報 針尾 第53号を頂いた。
78期会は平成27年6月末を以て解散する。「期会解散への道」について審議された内容が次のように掲載されている。(要点のみ)
1 水交会への業務委託(業務委託料 月5万円 年額60万円)
a 名簿管理委託H30年までとし、パソコンに水交会で入力する。
b 78期事務局を水交会内におく。
c 78期宛郵便物を水交会で保管、月2回担当が取りにいく。
2 靖國・永代神楽祭(78期は24名が靖國に合祀されている。)に参加。
78期の奉泰日 7月8日
3 靖國・献灯 みたま祭に名入り提灯を奉納する。
4 針尾54号が従来の形式の会報の最後になる。
5 針尾55号以降は本部からのおしらせ、分隊会、支部会の報告、名簿の補正を中心とし、一般記事は掲載しない。
6 首都圏平成23年合同観桜会 23年4月3日予定
7 分隊会、地方の会の記事多数掲(約40頁)
3月9日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
今日はゴルフで葉山CCに行きます。
泉 五郎君、阿久根正君、大槻敏直君、市瀬文人、山田良彦君、平野律朗君、深尾秀文君、角田夫人、田島明朗氏から4号と名簿のお礼の電話やメールを頂きました。
3月10日
この日の戦没者 なし。
この日の戦後物故者。
村島 保二 1974年3月10日逝去
平田 隆一君の「村島保二君追悼記」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-murasima-hirata1.html
今日は矢田次夫君、池田武邦君、奥山寿一君からお礼の電話、68期の小柳様、70期の三浦様、77期の佐々木様、クラスの渋谷 了君からお礼の手紙、左近允尚敏君からお礼のメール、遺族会員の深井様からブログのコメントを頂いた。
3月11日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
この日の戦後物故者。
塚田 浩 1968年3月11日逝去
西口 譲君の「塚田 浩君を悼む」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tukada-nisiguti1.html
押本 直正君の「塚田 浩君を偲んで」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tukada-osimoto1.html
昨日頂いた横須賀高校同窓会の機関紙「朋友」の中にあった吉成 淳君の記事を転載する。
G 吉成淳君のこと
君のご遺族がどちらに居られるのか分りませんでしたが、千葉県四街道に下の妹さんがご健在との事で早速電話して見ました。ところが、残念なことに、「家内は4年ほど前に他界しております」とのご主人らしき方の返事で、それでも吉成君の墓所を知ることができました。
総武線干潟駅下車、東500mほどのところの霊園ということで、昨7月猛暑のなか、交番で尋ねながら探したが、幸いにもすぐに見つけることができました。
「吉成家之墓、昭和51年12月吉成忠蔵建之」とあり、右の墓碑には、吉成淳・寿子(上の妹)・忠蔵と琴(ご両親)が記されております。
彼、淳君は昭和20年8月20日、門司港で敗戦後、なお残務で乗組していた駆逐艦「冬月」が、米軍の敷設した機雷に触れて爆発、それで戦死したのです。海軍兵学校を卒業後、2ケ年弱フィリピン・沖縄海戦に臨み、終戦を迎えた5日後に犠牲となってしまったのです。
君はいつも優しく、勉強のみにとらわれず、豊かな心をもって生活をしていましたね。
中学4年の12月海兵へ入学、翌年の夏、私たち一同が上級学校入試準備に明け暮れしているときでした。休暇で帰ってきた君は、級友宅訪問には横中の制服を着て来ましたね。俺も同級生だよと言わんばかりの心遣いが、みんなの胸に沁みました。
また、3年生の頃であつたと思いますが、そのころ吉川英治の「新平家物語」が人気作品として発売されており、彼もその虜(とりこ)になり、しばしば本屋の店先で立読みしていたようですが、某先輩がこれを見ており、ものすごいさむらひがいるぞと噂になったほどでした。真面目さの中にも豊かな心を持ち、期待された人物を失い誠に残念の一言に尽きます。
昨3月10日、我等の3号、74期の丸の内木曜会3月例会に招かれて参加した。
この会は奇数月の第2木曜日に東京駅の近くのレストランで開催され、だいたい約25~30名が集まっている。そして、時々ゲストとして先輩を呼んでいるようである。今まで72期では次の17名が呼ばれているようである。
山根真樹生、矢田次夫、大谷友之、池田武邦、定塚 脩、小林 勝、山田良彦、大岡要四郎、森園良巳、小灘利春、澤本倫生、小澤尚介、左近允尚敏、田中春雄、飯野伴七、樋口 直、坂元正一の諸君
このうち、11名が既に他界していて、アンダ−ラインの6名だけが健在である。
今日は30名が集まっていた。私の自己紹介72期の現状、HPのこと、ブログのことについて話をした。1130から昼食をともにして1345まで賑やかに、和気あいあい、羨ましい程の会合であった。
3月12日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
清村 克己(伊371 潜水艦)
1.31トラック発内地は向かったまま消息を絶つ(戦死認定)
清村 博一様の「兄の想い出」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-kiyomura-kiyomura.html
戦後物故者なし。
小林 勝君、佐藤輝子様(英一郎君の妻)からお礼の手紙を頂いた。
3月13日
この日の戦没者 なし
この日の戦後物故者
木村 貞春 1989年3月13日逝去
押本 直正君の「木村貞春君への弔辞」↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kimurasadaharu-osimoto.html
幸田 正仁君の「独潜始末記・木村貞春君と共に」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kimurai-kouda1.html
地震の影響
泉 五郎
二階の書斎でパソコンに向かつていたところ、突然の大揺れ、机の前の棚から物は落ちるは、引き出しは飛び出すやらで、部屋中ゴチャゴチャ!ベランダへ飛び出したが家は前後左右に30センチほど揺れ動いている感じで、これはどうなるかと心配したが室内散乱だけで先ずは何とか無事でした。「地震 雷 火事 親父」とは蓋し名言!皆さんの無事を祈っています。
上野 三郎
小生宅被害なく、停電も21:00には復帰,以降ライフラインは平常に戻った。長男が新宿に勤めていて、歩いて横浜に帰り、電車の開通を待ち今朝06;00頃に帰宅した。これがただ一つのトラブルであった。
小林 勝
少々風邪気味で、用心に寝ているときに長い揺れが続きビックリした。戸棚やタンスは耐震の為壁にとりつけてあったので倒れたものはなく、電気、水道、テレビ等はすべて無事で、台所の小さなビンが一個落ちて割れただけで済んだ。 それにつけても被災地の惨状には、言う言葉もない。
左近允尚敏
月に一度の海自OBのブリッジ会で逗子にいた。公共の交通手段すべてアウトのため駅のタクシー乗り場で4時間ほど行列して9時頃タクシーで帰宅、本棚の本が大量に机の上や床に散乱していたが、テレビ、PC,その他異常なし。
堀 剣二郎
私はバスに乗っていて信号待ちしていた時、とたんに揺れだし、バスが飛行機に変わり気流の悪いところへ入ったようだった。それでも地震と確認したのは交通信号が揺れているのを見てからで、それまでは、エンジンが変調か、スプリングが折れたかとか一瞬頭を横切った。バスを降りてATMを使用のため郵便局へいったところ使用不能、銀行はOKであった。ここ八王子ではその他のインフラ等は異常なかった。
山本 省吾
小生はマンションの10Fに住んでいる。遥か京都でも結構、横揺れが続いた。被災地に近い方々は今後大変な毎日と思います
齋藤 義衛
東工大の此の地区は地盤が固いのかたいした事なし、築四十数年の木造陋屋も安泰。昨日の激震時小生は大便中! あの揺れに脳梗塞の発作と勘違い。大田区は停電・断水も無く携帯メールで各所と安否交信。我が親戚飯山に二軒あり無事なりしも大変の模様。
精島 弘文(精島の甥)
現在、災害派遣のため、船越に人員を派遣、衛星回線を用い自艦隊の活動を支援している。
深井 紳一(良の甥)
私はSINからの帰りで、羽田を降りたところで地震に遭い、全踏切のクローズ、信号機の停電など大渋滞にはまったが、どうにか帰宅出来た。息子が会津のスキー旅行から帰ってきたが、交通手段がひとつも無くスキー道具を背負って新宿から横浜まで徒歩で帰ってきた。くたくたのはずなのに意外とタフなのに驚いた。た。被災地だっただけに一日帰宅が遅れたらと思うと、ぞっとする。
地震の時、ガラスの散乱で足を怪我する事があるようなので、ベッドサイドに靴と懐中電灯を置いておいた方が良いと思う。
田島 明朗
昨夜に掛けてDOCOMOは通話もメールも受け付けず、固定電話も泉五郎さんに奇跡的に繋がっただけで編集長、左近允氏共に不通。
3月14日
この日の戦没者 66年前 昭和20年
溝上 正人(伊368 潜水艦)
20.2.20回天特別攻撃隊千早隊の一鑑として硫黄島方面の敵部隊攻撃に向かったまま消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛空母アンチオ艦上機の爆撃により20.2.27沈没:米軍資料)
溝上 了様の「亡き兄 溝上正人を偲んで」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-mizogami1.html
林 慶治(伊370 潜水艦)
20.2.21回天特別攻撃隊千早隊の一檻として硫黄島方面の敵部隊攻撃に向かったまま消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛駆逐艦フィネガンの爆雷攻撃により20.2.26沈没;米軍資料)
白木 常雄(呂 43 潜水艦)
20.2.16南西諸島方面に向け呉出撃、硫黄島方面に配備を変更されたあと消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛空母アンチオ艦上機の爆撃により 20.2.27沈没;米軍資料)
この日の戦後物故者
田中 春雄1996年3月14日逝去
左近允尚敏君の「田中 春雄君弔辞」↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tanakaharuo-sakonjyou1.html
山田 穣君の「田中 春雄兄 追悼記」の記事↓がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tanaka-yamada-1.html
地震関連情報
3月11日の地震のマグニチュード8・8が9.0に修正された。地震の大被害だけでなく、原子炉の放射線もれの問題も出てきて大変である。
旭 輝雄
当地はたいした事なく、津波も小さく所有漁船二隻共安全だった。人身と家屋に被害が無く終わった事は、東北の方々に比べて幸福だと思います。原発の事が心配です。
山田 良彦
二階から一階に降りるためエレべーターの中にいる時、地震にあった。幸い無事一階についてホットした。
岩松 重裕
こちらは何の異常もなし。藤沢は電気もガスも水道も変わりなく災害地の方々に申し訳ないような気持ち。原子炉の放射線もれは大問題。これからエネルギー問題をどうするか。国民皆で考えなおさねば。
東北地方居住の会員、宮城県の浅沼 薫君、内山隆太郎君、岩手県の桑原義一君に何度も電話したが、連絡が取れず安否が案ぜられる。
3月15日
この日の戦没者・戦後物故者ともになし。
地震関係
金枝 健三
こちらは幸い電気、ガス、水道のストップはなく助かりました。実は今日はクラスの岩間の写真展に5名ばかりで先月から集まる予定でしたが取り止めして正解でした。。 原発が心配です。
内山隆太郎 君
池田武邦君から電話連絡がとれて、大きな被害はなく、家も人も大丈夫とのこと
藤井 翠 様(藤井伸之君の妻)
幸いこちらは停電もせず、被害もありませんでした。
岩淵 成紘 様(有志会員)
当方、11日の大地震で隣接する母宅の道路に面した2階建ての物置の道路側壁面が全面剥落し、父が保管していた古い資料等が道路に散乱しました。建物は危険なので取り壊さなければならないようです。市役所が危険の表示をしてゆきました。長男(幹候入校辞退した方の息子)も市職員となっており、様子を見に戻るくらいで帰って参りません。次男は幹候卒後外洋練習航海の帰途、沖縄に寄港していたようですが、災害救助に向かっているのでしょうか、なにしろ電話もメールも殆ど使えません。通信状況はむしろ日に日に悪くなってきています。
母宅も我が家も築40年以上経っているのですが、建物自体は問題ありませんでしたし、人的被害も皆無でした。小生金曜午後の診療のため車で自宅から病院に向かっているところで地震に遭い、はじめはパンクでもしたかと思いましたが電柱や電線が大きく揺れ、家屋の瓦が落ちているのをみて危険を感じ、治まるまで路肩に止めるような状況でした。
院内は薬品棚をはじめ、すべての棚は倒れ、臨時休診し整理に当たりました。
同行の妻は家の方が心配なので帰し、物置の崩壊を目にして家もダメだろうと覚悟したところ、幸い無事だったということです。散らばったものの中に朽ち果てたトランクがあり、中身も散乱していましたが、成忠叔父戦死後遺品を海軍がとりまとめて送ってくれたものと思われます。外はボロボロ、中身も湿気で大分痛んでいますが、70期候補生全配属先(各艦選任候補生宛となっていました)、おそらく真珠湾攻撃の記録と思われる戦闘詳報(翔鶴配乗でした。村田重治少佐の隊長名がありました)などのガリ版刷資料兵学校教科書など実に貴重な資料類がありましたので、今後整理しようと思っています。物品の中には岩淵少佐遺品候補生袖章2組と付箋のある未使用の袖章などもありました。
当地郡山では地震直後は電気、ガス、水道すべて止まりましたが、昨夕の水道復旧でライフラインは戻りました。何が不便と言って一番の問題は水でしたね。幸い我が家では80Lの雨水タンクを設置していましたので非常に助かりました。閉まっている店が多く、開いていても主食、生鮮食料品は殆どなく、手持ち食料を節約する状況です。ガソリンも10Lしか給油できず、これも節約のため、徒歩で動ける範囲での生活を余儀なくされています。原発は阿武隈山脈を挟んで直線で50km離れており、当面は静観ですが、想定範囲外といっても自家発電を始め非常時対応システムが使えない状況はあってはならないでしょうね。