8月1日の戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年
林 清之輔(伊13 潜水艦) 中部太平洋で
20.7.11トラックに向け大湊出撃、以後消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛空母アンツオ艦上機の爆撃及び艦艇の攻撃により20.7.16・沈没;米軍資料)
被害
B−24,50機弱
長崎を攻撃、魚雷艇102号を損傷。
B−25隊とP-51隊
長崎を攻撃、貨物船きんこう丸、タンカーただ丸を損傷。
B−24隊は
鹿屋を攻撃。
P−47隊、
80機以上は川内、
P−47隊とP−51隊
伊丹、名古屋、大阪地区を攻撃。沈没ははやぶさ丸(長崎県西彼杵半島西方海上)
B−29、
169機 八王子 173機 富山 125機 長岡 160機 水戸 120機 川崎 17機 適宜の目標 を夜間攻撃。喪失1機。 137機 下関海峡ほかに 機雷投下。
8月2日の戦没者
66年前 昭和19年
福岡利三(56警)テニアン島で敵上陸部隊と交戦後玉砕
65年前 昭和20年 なし
8月2日の米軍の攻撃
B−24隊は、片岡を攻撃。
貨物船さんとう丸(新潟沖)触雷沈没:
昨日で戦後物故者の記事を全部読み直して必要な修正を行いました。
早や8月になりました。終戦から65年、随分昔のことになりました。吾々が生まれた大正12年(1923年)頃の65年前といえば安政4年(1858年)で、明治元年(1868年)のさらに10年も前になる。慶應の前の安政の時代、日米通商条約が締結された年になるので、私は詳しいことは何も知っていない。
現在20歳の年齢の青年が太平洋戦争の事、詳しいことを知らないのも当然と思われるほど、太平洋戦争はもうそんな大昔の事になってしまった。
昨日で戦没者の記事を全部読み直して必要な修正を行ったが、見ていて、その記事を書いてくれた期友も沢山故人になってしまっている。戦没者、そして戦後亡くなった期友の冥福を祈りながら作業をしている。
左近允尚敏君が執筆した「敗戦」(副題「1975年春と夏」)に本土周辺の戦闘、空襲の状況が細部にわたって出ている。当時の事を思い出していただければと思い、15日まで毎日、65年前のその日の事を転載します。
8月3日の戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年
山下正也(上海空 戦闘機)九州北西洋上でダグラス輸送機に便乗し、上海発佐世保に向かう途中、五島沖にて敵戦闘機の攻撃を受け戦死
関谷 男(戦402 整備) 比島イバスラ方面カテガイで戦病死
8月3日の米軍の攻撃
P−40、P−51、100機弱は、東京地区を攻撃。
触雷沈没:
貨物船たいれつ丸(神戸沖)。輸送船あが丸(たかたかお?)。
貨物船おおしょう丸(敦賀)。こくよ丸(へさき)。
しょうたい丸(伏木)。
原因不明損傷:
貨物船たいい丸(からす島)
8月4日の戦没者
66年前 昭和19年
成行 剛(松 駆逐艦)小笠原方面で敵艦上機の攻撃を受け沈没戦死
65年前 昭和20年 なし
ジャーナリストの笹 幸恵さんが7月に新潮社から『「白紙召集」で散るー軍属たちのガダルカナル戦記』を出した。笹さんは2年前の6月、靖国神社での最後のなにわ会慰霊祭のあとの懇親会に参加したので、ご記憶の方もおありと思う。
大妻女子大学短期大学部卒業、太平洋戦争について教師から教えられた授業内容に疑問を持ち、かつての戦場を自らの目で確かめるため、2005年1月に旧日本軍将兵と共にガダルカナル島を訪問、以後、激戦地だった太平洋の各地に慰霊の旅を続けている。著書に『女ひとり玉砕の島をいく』(文芸春秋社)など。
新潮社の依頼で左近允尚敏君が同社の『波』8月号に『白紙召集・・・』の書評を書いているのでご紹介する。
『 ガダルカナルの戦いについて書かれたものは多い。しかし、飛行場建設のために昭和17年7月に送り込まれ、一ヶ月後に米海兵隊が上陸して、米軍、飢蛾のいずれとも戦わかければならなかった徴用工員主体の海軍設営隊については、ほとんど知られていない。米軍の公式戦史は、上陸時の抵抗は散発的で微弱だったとしているが、守備隊の兵力は微々たるものであつたから当然である。
著者は徴用工員や下士官の生存者や隊長の遭族を丹念に取材し、収集した膨大な資料を駆使して当時の状況を生々しく再現した。私たちは徴用工員というと、内地の軍需工場で働いた人たちを思い浮かべるが、本書は、それまで市井の人だった徴用工員たちが、遠いガダルカナルで兵士と同じ辛酸をなめたことを教えてくれる。
本書が、これまで陽の目を見ることがなかった徴用工員の苦しい戦争の体験を世に紹介した意義は大きいと思う。そして本書にずっしりと重みを加えているのは、著者が何年も前から玉砕した島々を訪ね、ガダルカナルにもすでに四回訪れて、現地を肌で感じながら、戦った兵士、軍属に思いをはせて慰霊し、できる限り遺骨を祖国に帰そうと努力を傾注してきたことである。
本書を読んである種の救い感じるのは、登場するかつて設営隊員であった徴用工員が白紙召集した国に対して恨みがましいことばを述べていないことである。もう少し早く帰してほしかったということばはあるが。
日本は「自存自衛のため」(開戦の詔書)として対米戦に踏み切りながら、軍は手を広げすぎた。開戦の翌月、昭和十七年一月にはソロモンのすぐ北にあるニューブリテン島のラバウルを占領し、三月にはニューギニアの北東部に兵を進めたが、主導したのは海軍だった。そして陸海軍とも補給、今でいうロジスティックスを軽視した。
米軍ガダルカナル上陸の二ヶ月前、海軍はミッドウエー島を占領しようとして失敗したが、よしんば成功していても、玉砕の島第1号になった可能性が高い。
本書は読者に、ガダルカナルの設営隊とガダルカナルの攻防について理解するための貴重な材料を提供するとともに、あの戦争そのものについて考えてもらう一石を投じた、というのが評者の感想である。
著者は近くニューギニアを訪ね、来年はガダルカナルの丸山道(といっても密林らしいが)を歩く予定であると開く。
かつて戦った一人として評者はかねてから、三十台半ばのきゃしゃなからだの女性である著者が慰霊の旅を続ける行動力と、その戦没者への想いに、深い敬意を抱いていることを付言しておきたい。』
なお、この本については次を見て頂きたい。
此の本についっての新潮社の説明
俺たちは兵隊じゃない――。紙一枚で地獄に送られた若者たちの彷徨。
兵ならざるゆえに戦記に綴られなかった「海軍設営隊」。土木部隊として徴用され、行き先も告げられずに若者たちが送り込まれたのは、南洋の孤島「餓島」だった。無防備の身に襲い掛かる米軍の猛攻、密林に逃れた後、補給路を断たれ餓死、病死で壊滅した彼らの軌跡を、生き残った者たちが語った。軍属の目から捉え直すもうひとつの戦記。(四六判
頁数287ページ 2010/07/23発売 定価1,680円)
8月6日
昭和20年8月6日はB−29「エノラ・ゲイ」号が午前8時15分 廣島に原爆を投下した日である。あれから65年、今年の慰霊祭には、核兵器廃絶を強く訴える国連の潘基文事務総長や、米国からルース駐日大使が初めて参列する。秋葉忠利市長は平和宣言で、「65年前の惨劇を二度と繰り返さないよう、新たな決意の日にしよう」と、初めて広島弁で被爆者のメッセージを伝え「核なき世界」の実現を訴える。
この昭和20年8月6日の広島原爆に運悪く遭遇して,8月12日に亡くなった秋田実君の事を思い出す。なにわ会だより第001号に掲載しHPにも取り込んであるが、伊157潜の航海長であった彼が砲術長に代わって艦長のお供をして広島に行き、運悪く原爆投下に遭遇した。この記事を再読して秋田君の冥福を祈ろう。
被害
A−26、P−47計150機以上
都城を攻撃。
B−24、B−25、P−47、計70機以上
鹿児島を攻撃。
B−25、P−51、計60機以上
対馬海峡、沖縄北方の海上目標を攻撃。
撃沈:貨物船第7しゅんたい丸、こうわ丸(つの島沖)。
混成の航空機隊
内海、四国西部、本州南部、沖縄北方の適宜の目標を攻撃。
戦闘爆撃機100機弱
東京地区を攻撃。
空母機による損傷:
海防艦37号、機雷敷設艇きょうさい丸(野島沖)
爆撃による損傷:
機雷敷設艇きんじょう丸(九十九里浜沖)
触雷沈没:
貨物船第2ちょうかい丸(伏木沖)、いそじま丸(下関海峡)、
こうざん丸(松山西方の海上)
所在不明の高齢者が5日1100現在59名も判明したとのニュースがある。日本の長寿国家第1位は怪しいとの報道もある。最近の親子の関係はどうなっているのか。
8月5日
65年前の被害 昭和20年8月5日
B−24隊、
B−25 84機、A−26 32機、P−47 97機、P−51 48機
九州各地を攻撃。
P−51 100機以上 東京地区を攻撃。
B−29 64機 今治
63機 佐賀
92機 前橋
250機 西宮
106機 宇部
10機 適宜の目標 を攻撃
27機 各地の港湾に機雷投下
潜水艦ポギー 貨物船としらさん丸を撃沈(秋田沖)。
触雷損傷:輸送艦T2号(こいわ島沖)、貨物船にっしょう丸(七尾)
タンカー第32よしとも丸(げんかい島沖)
航空攻撃による損傷:貨物船いき丸(はまだ沖)
座礁沈没:駆潜特務艇第25ひの丸(豊後水道)
山本五十六連合艦隊司令長官(兵32期)は、開戦前の昭和16年8月から戦死(昭和18年4月)の前月までの間に澤本頼雄海軍次官(兵36期)にあてて8通の手紙を出している。特4号自称の田島明朗氏から泉 五郎君に送られた資料からそのうちの2通について泉君から頂いたのでHPに転載した。
なお、左近允尚敏君からこれは歴史読本2010年9月号に掲載されているとコメントを頂いた。
8月7日の戦没者
66年前 昭和19年
勝賀野純義(長良
巡洋艦) 本邦南西方海面で敵潜の雷撃を受け沈没戦死
65年前 昭和20年 なし
昭和20年8月7日の被害
B−29、124機(P−51、P−47が護衛) 徳山を攻撃。
30機 下関海峡、舞鶴沖に機雷投下。
B−24隊、A−26隊 築城を攻撃
B−24隊、 大牟田、片岡を攻撃。
B−25隊、 知覧、出水を攻撃。
戦闘爆撃隊、 九州各地を攻撃。
触雷沈没: 貨物船きびつ丸(平磯沖)
爆撃による損傷: 商船けいざん丸(九州ひの島沖)
左近允尚敏君から海上自衛隊高級幹部の名簿を頂いたので、参考のためにHPに取り込んだ。これを見ると、私が自衛隊を退職した昭和53年に入隊していた者はもう海幕長と自衛艦隊司令官の2人みとなっている。考えて見るとあれから32年も経過している。
鎮魂。 機、齋藤
6日午前靖国参拝す。
私は毎年この日に靖国を訪れる。そのわけは15日の境内の右翼の不愉快な喧騒を嫌悪する事もあるが、この日は私にとって忘れえぬ広島原爆の日だからである。毎年この日の境内は人影も疎らで静寂、心静かに亡き戦友と対面する事が出来る。
この日広島の人口35万人の内14万人が焼死したと言われる。死者の冥福を心から祈ると共に、このアメリカの蛮行を永劫に糾弾し続ける。
私は当時、大浦突撃隊の整備士官の指導官の職にあり、その前日の5日特潜の関連資材調達の為予備仕官数名を帯同し広島に出張した。当日の広島の空はB29が一機が高高度で飛来したのみで至って平穏な一日であった。(後日知ったが、この一機は翌日の原爆投下の為の天候観測機だったのだ)用務終了後当時呉は7月1日の空襲で市街は灰燼に帰しており、久しぶりの慰安をと盛り場を訪れるも、何処も陸兵に溢れており已む無く駅横の旅館にて盃を傾け帰隊した次第。そして翌日0815隊内にてあの閃光を凝視慄然とす。一日違いの生死の間であった。同じ5日コレスの秋田稔君(イ157航海長)は艦長他と広島に遊び、翌日帰艦を前にして広島駅頭にて被爆、8日に漸く呉海軍病院に収容されるも12日に死去と言う不運。改めてご冥福を祈る。
その後遊就館を訪れ戦友・先輩・後輩の遺影と対面し私の靖国参拝は終わる。
数十年は草木も生えずと言われた広島の 復興は目覚しかった。昭和45年私はA社の大阪支店長時代広島は管轄地域でしばしば訪れ往時を偲んだ。同地の取引先の一つである「タカギベーカリー」の社長の知遇を受け、同社副社長たりし73期の景山君も入り広島在住の日野原・小跡・古前の6人のミニネービー会を開いて頂いたのも忘れ得ぬ思い出である。このメンバーも皆故人となってしまった。
思い出 堀 剣二郎
昭和20年8月6日、駆逐艦宵月は、呉軍港に近い島の入江にいた。カモフラージのため長さ135メートルの船体全長に藁縄で編んだ網を被っていた。雲一つない快晴であったが朝早くラジオは空襲警報を伝えた。艦橋の12センチ高角望遠鏡で見ると一万メートル位の上空に大型機が一機認められたが、しばらくして、警報は解除され
た。広島市の記録では午前7時三一分警戒警報解除となっている。敵機がいるのに解除するのはこの機は偵察機で爆撃はしないと見たのだろうと思った。その後なにかの用で甲板に降りて煙突の近くにいるとピカッと光を感じたので探照灯を点灯したかと思いその方を見ても探照灯はカバーを被ったまま。艦橋に駆け上がると、ドーンと腹にひびく音がして白い雲が湧き上がるのを見た。その時これは火薬庫が爆発したのではないかと思った。しかし午後になると米側の短波放送は、新型爆弾が広島に投下され、横川町の方まで家が倒れていると報じた。当時.艦は広島の南約25km、音速を346.5m(温度二五度の場合)とすると、爆発音ガ伝わる所要時間は約72秒、私が閃光みた時(爆発の時)から音を聞くまでの時間に大体一致する。広島、呉方面の人は、原子爆弾をピカドンと呼ぶがまさに名は体を表している。
8月8日の被害
B−29、221機 八幡を昼間攻撃
60機 東京
同上
91機 福山
同上 喪失7機。
戦闘爆撃機、100機以上
大阪地区を攻撃。
B−24隊、B−25隊、A−26隊、P−47隊 九州各地を攻撃。
B−29、9 1機 福山を夜間焼夷弾攻撃。
極東空軍の爆撃機、戦闘爆撃機 沖縄北部を攻撃。
駆逐艦カシン マーカス島北西250マイルで病院船きく丸を臨検、違反事項ないため横須賀に航行を許可。
B−24、B−25、A−26、P−51、P−47の各隊
九州各地と対馬海峡付近の海上目標を攻撃。
撃沈:貨物船しょうかい丸、めがみ丸。
触雷損傷:貨物船しんざん丸(神戸沖)、てんざん丸(釜石沖)
歴史徳本を送って貰ったので、先日HPに取り込んだ山本元帥の手紙を再読し、誤りを訂正し、最後の頁を追加した。
8月9日の戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年
松浦 繁(偵12 偵察) マニラ上空で
台南発マニラ強行偵察に向かい消息を絶つ(彩雲)
昭和20年8月9日の被害
B−29 ボックズカー号 小倉上空視界不良のため、11時02分長崎に原爆を投下。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、
建物の約36%が全焼または全半壊した。
B−29、95機 尼崎を夜間攻撃。
B−24隊 岩国、松山を攻撃。
B−25隊 鹿屋、別府湾、鶴崎、対馬海峡を攻撃。
B−25隊、A−20隊 鹿屋、串木野、島平を攻撃。
P−47、P−51、計200機 九州、四国、沖縄北部を攻撃。
空母機 本州北部、北海道、日本海を攻撃。
沈没 駆潜特務艇しんとう丸、貨物船第2こんごう丸、
第6たくなん丸、掃海艇W1号、
W33号、タンカーじゅうこう丸、
貨物船第36ばんしゅう丸。
米英空母機 女川沖で海防艦・天草、稲城を撃沈。
駆逐艦ポリー いわきの東方140マイルで神風機により損傷。
戦艦、巡洋艦からなる部隊(英軽巡2隻を含む) 釜石を砲撃。
ソ連軍 満州に侵攻
ソ連機 海防艦82号を日本海で撃沈。
商船かさど丸、第27りゅうほう丸をオホーツク海で撃沈。
駆逐艦ジョーンズ おそらく伊58潜を発進した回天により沈没。
爆撃による沈没 貨物船いづ丸、塩釜沖。
爆撃による損傷 貨物船ばんしょう丸、浜田沖。
駆逐艦・柳、機雷敷設艦・常盤は大湊港。
高速輸送艦T21号はつわ島沖(B−29による)
触雷損傷: えのしま丸(七尾)、げんよう丸(萩はるか北沖)、
しんり号(萩沖)、あきた丸(洲本)
最高戦争指導会議が行われた。その時の発言
東郷外相:国体の護持さえできればあらゆる苦痛も我慢する。
阿南陸相:戦局は互角である。
米内海相:戦争は互角というが明らかに負けている。
阿南陸相:会戦では負けているが戦争では負けていない。
梅津参謀総長と豊田軍令部総長は陸相と同意見であった。
閣議はまとまらないまま解散。
午後11時50分から御前における最高戦争指導会議が開かれ、平沼枢密院議長も加わった。
鈴木首相は「意見の一致を見ないのは遺憾であるが、ことは重大、事態はは緊迫しており遅延を許さない。聖断を仰ぐしかない」と述べ天皇の御前に進んでおことばをお願いした。
天皇は「自分は外相の案に同意である。・・・・」と仰せられ、鈴木首相は聖断を以て会議の結論とすると述べ会議を終えた。(以上 左近允尚敏君の敗戦から引用)
8月10日の戦没者
66年前 昭和19年
三浦政一(54警
警備隊) グアム島で敵上陸部隊と交戦後玉砕
65年前 昭和20年 なし
最高戦争指導会議は午前2時半終了。ボッタム宣言受諾の聖断が下った。
この日の被害
B−29、70機
東京を攻撃。
B−24。80機、A−26、B−25、計118機、P−38とP−47、計220機
熊本地区を攻撃。
B−24、20機
大分を攻撃。
B−25、40機弱
対馬沖の艦船を攻撃。
P−47隊
佐世保港を攻撃。
P−51隊
本州、九州の適宜の目標を攻撃。
空母機(英空母機も参加)
本州北部の飛行場、艦船、鉄道を攻撃
沈没:駆潜特務艇42号、掃海特務艇W1号(山田湾)、
掃海特務艇第2こんごう丸、駆潜特務艇第6たくなん丸(女川沖)
貨物船まさよし丸、タンカー第3なんき丸(酒田港)
貨物船第5にしき丸(八戸港)
損傷:敷設特務艇こうえい丸(大湊沖)、貨物船とよたま丸(酒田沖)
B−25隊
九州沖と対馬海峡の艦船を攻撃。
沈没:貨物船うじな丸、まねい丸、第7ほせい丸、しょふこ丸。
損傷:哨戒特務艇84号、陸軍貨物船もりひめ丸、哨戒艇194号。
B−29、31機
下関海峡、萩沖などに機雷投下。
触雷沈没:貨物船しんじょ丸(姫路沖)。
触雷損傷:哨戒艇63号(七尾湾)、貨物船つしま丸(場所不明)、
第12にっしょう丸(越前沖)、タンカー第8きんゆう丸(舞鶴港)
ソ連機
オオーツク海で貨物船かさど丸と第2りゅうほう丸を撃沈。
米貨物船ジャク・シンガー号 沖縄の那覇沖で航空魚雷を受け損傷、のち全損。
8月11日
昭和20年8月11日の被害
爆撃機と戦闘爆撃機、530機 九州、内海、対馬海峡の目標を攻撃。
空母機 呉において駆逐艦・樺、伊36潜、伊359潜、伊402潜を攻撃損傷。
潜水艦ジャオラ 日本海で貨物船ていほく丸を撃沈。
触雷沈没:第2にっしん丸(若松燈台沖)。
触雷損傷:輸送艦166号(金輪岩沖)。
今年初めからご連絡頂き、そしてお会いしたこともある山本様から、いろいろあって本としての出版は諦め、「佐伯物語」として電子出版を開始したというメールをいただきました。
そしてつぎの事が付記されていました。
「なにわ会の皆様は、パソコンをお使いになっておられる方々になら電子出版でもお読みいただくことができる。電子出版なら無料でお読みいただくこともできる。私にとってはこれらのことも安心材料でございました。現在のところ、第一章から第五章までを公開しております。今後、順次原稿を電子原稿化して公開していく所存です。(原田耕作様が初登場するのが第四章、七十二期の方々の初登場が第五章です)
以下に、電子出版のホームページへの道筋等をご案内申し上げます
次のリンクをクリックしていただくと、サイトにアクセスいたします。
http://p.booklog.jp/
ただし、このリンクが不調な場合があり、アクセスできる時と不可の時があります。不可の場合は、そのまま貼り付けて検索して下さい。
出て来た頁で作品検索で 佐伯物語 と入力していただきますと作品のページに進みます」
更に御丁寧に次のご挨拶がついていました。
「初めてご挨拶申し上げます。山本明彦と申します。
私は大分県佐伯市に生まれ、現在は福岡市に住む戦後生まれの五十歳でございます。
私の祖父は佐伯湾に浮かぶ大入島で、イリコの行商などをして生計を立てておりましたが、当時、佐伯海軍航空隊庁舎に司令部を置いていた、呉防備戦隊司令官 清田孝彦様に偶然の縁からご厚誼を頂いておりました。
また、私の父は、当時九歳の腕白坊主でしたが、島に立ち寄る水偵搭乗員の方々から「機上弁当」のキャラメルなどを頂戴するなどして可愛がって頂いておりました。私はこれらのことを子孫に書き残そうと思い立ち、小説の形でものを書き始めたのでございますが、色々と調べて参りますうちに、なにわ会様のホームページにたどり着く幸運を得て、多くのご教示を賜るご縁を頂戴することとなりました。まことに得がたいご縁をいただいたこと篤く御礼申し上げます。
当ホームページに掲載されている資料等を参考にさせていただいたのは無論のことですが、伊藤正敬様、樋口直様には直接お目にかかってご教授いただく機会を頂戴し、また、大入島の沖で訓練事故殉職された井尻文彦中尉について書かせていただくくだりなどでは、ご遺族である岡野武弘様へのご紹介の労をおとりいいただくなど、ひとかたならぬご支援を頂戴いたしました。
おかげ様をもちまして、この書き物は「佐伯物語」という題で、現在完成を目前にしております。なにぶん素人のこととて書籍出版の目途は立っておりませんが、このたびインターネット上での電子出版で世に出すことができました。まことに未熟な筆で綴った代物ではございますが、皆様にもご一読を賜ることができましたならば幸甚に存じます。
伊藤様、樋口様、岡野様にはもちろんのこと、作品中参考にさせていただいた数々のご寄稿者様がたには、この場を借りて重ねて篤く御礼を申し上げます。
最後になりましたが、かつて日本の国防に尽くされ、こんにちの繁栄の礎となられたすべての方々に深い感謝を捧げ、なにわ会様の精神の永遠なることをお祈り申し上げます。
平成二十二年 終戦の日近き頃 「佐伯物語」著者 山本明彦」
8月12日の戦没者
66年前 昭和19年
久保田 裕(館山空 戦闘機)
千葉県で飛行訓練中事故(空中火災)のため不時着殉職(零戦)
65年前 昭和20年
大塩貞夫(302空 戦闘機)
佐世保上空で本土来襲の敵機迎撃のため基地出撃、これと交戦被弾、墜落戦死(紫電)
8月12日の被害
B−24隊
松山飛行場を攻撃。
B−25、A−26の隊
知覧、鹿屋を攻撃.
A−20、A−26、P−47の隊
阿久根、串木野、宮崎を攻撃。
B−25と戦闘爆撃機の隊
九州、沖縄北部、対馬海峡の艦船と通信施設を攻撃。
沈没;哨戒特務艇166号(浦崎沖)、貨物船きたなみ丸(みしま燈台沖)。
B−24、4機
片岡を攻撃。
3機
すりばち飛行場を攻撃。
台風接近のため空母機の攻撃はやめになった。
軽巡3、駆逐艦12から成る水上部隊
松輪島、くらぶ岬、すりばち湾、パラムシロを砲撃。
これに先立ちオホーツク海の監視艇(トローラ) 10隻を撃沈。
触雷沈没:第1しんよう丸(北九州)。
触雷損傷:貨物船ゆらかわ丸(若松燈台沖)、
陸軍貨物船第16たもん丸(七尾湾)
戦艦ペンシルバニア 沖縄沖で航空魚雷により損傷。
58潜 沖縄からレイテに向っていたドック型揚陸艦に対し、回天を発進させたが成功しなかった。
74期訃報
遠藤 恭次 様(1学年54分隊) 22年8月2日没
8月13日
65年前の昭和20年8月13日
敵の攻撃
空母部隊
地上の日本機を攻撃、250機を破壊、149機を損傷。
B−24、B−25隊
瀬戸内海、九州朝鮮間の艦船を攻撃。
撃沈:哨戒特務艇あやなみ丸。
損傷:貨物船たつきり丸、とうせい丸。
戦闘爆撃隊
九州を攻撃。
別のB−24隊
柏原を攻撃。
潜水艦アツール
北海道沿岸において海防艦6号を撃沈、16号を損傷。
潜水艦トークス
日本海において貨物船かいほう丸を撃沈。
潜水艦スパイクフィッシュ
沖縄沖において伊373潜を撃沈。
攻撃 輸送艦ラグランジに沖縄沖で神風機が突入。
8月14日
日本ポッタム宣言受諾(ワシントン時間)。
戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年
武田晴郎(伊373潜水艦)東支那海で
20.8.9作戦輸送のため台湾に向け佐世保出撃、以後消息を絶つ
(米潜水艦スパイグフィッシュの雷撃により8.13沈没:米軍資料)
被害
B−29、 57機
光工廠を攻撃。
45機
大阪を攻撃。
108機
まりふの鉄道施設を攻撃。
8機
適宜の目標を攻撃。
硫黄島の戦闘爆撃機、160機以上
名古屋地区の飛行場、軍事目標を攻撃。
喪失:P−51 1機。
14日〜15日の夜
B−29、86機
伊勢崎を攻撃。
81機
熊谷を攻撃。
132機
土崎の石油精製所を攻撃。
39機
下関海峡、七尾、舞鶴、浜田沖に機雷敷設。
2機
適宜の目標を攻撃。
B−29が帰投する前にトルーマン大統領は、敵対行動の停止を声明。
触雷沈没:貨物船ひろた丸(六連沖)、貨物船かまさん丸(?)。
貨物船よじょう丸(大阪湾)、かしま丸(釜山東方沖)。
潜水艦ト−クス
日本海で海防艦13号、47号を撃沈。
沈没:航空攻撃により第6はとかわ丸(九州田ノ浦沖)。
損傷:貨物船第5しんこう丸(青海島沖)、
貨物船たつすく丸(壱岐北東沖
8月15日
今日は終戦記念日である。
この日の米軍の行動
空母機、103機は0415に東京地区攻撃のため発進したが、先頭の編隊が目標上空にきたとき、敵対行動中止の命令がきた。しかし邀撃した日本戦闘機との戦闘は終日続いた。
貨物船やまびし丸は対馬沖で航空攻撃により損傷。
午後、空母機73機による攻撃はニミッツからハルゼーあての命令によって取りやめとなった。
空母部隊は東京の100ないし200マイル沖に退避。
(以上8月1日以降掲載してきた被害状況は、左近允尚敏君の「1945年 春と夏 敗戦」から引用した。)
「厚木航空隊では、前夜、ポッタム宣言受諾の報が伝わり、パイロットは慨嘆、悲憤慷慨。
翌15日、グラマン数編隊、鹿島上空に飛来。厚木302空の全機発進。蔵元善兼中尉(53期蔵元正浩氏弟、兵73期)は真っ先に出撃。厚木上空でF6Fと交戦、被弾のため戦死された。(機55期HPから)
終戦までの戦没者、
海軍 兵学校72期 625名中335名 54%
海軍機関学校53期 111名中 57名 51%
海軍経理学校33期 51名中 20名 31%
昨日、上野三郎君から特攻で死んだ者について問い合わせがあった。HPに掲載した記憶があったので調べて見た。HPのTOP頁の戦没者の所の2階級特進者
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/meibo-tokusin1.html
に名簿があった。それによると
海軍 兵学校72期生 神風38名 回天 8名 計46名 7.36%
海軍機関学校53期生 神風 5名 回天 5名 計10名 9.01%
合計 神風で43名、回天で13名 総計56名の級友が命を捧げている。
誠にいたわしい次第で、謹んで改めてご冥福を祈る。
なにわ会ニュース33号9頁に掲載されている終戦の思い出60件の記事を分析してみた。
終戦時の生存者290名のうちの60名の分析だが、大勢は分ると思う。
それによると水上艦艇5名、潜水艦16名(外地停泊2名、内地停泊6名、行動中3名、艤装員2名、学生3名)、航空部隊21名(シンガポール1名、台湾1名、朝鮮2名、内地17名)蛟竜7名、海竜2名、震洋3名、陸上5名であった。如何に戦力が無くなっていたかがよく分る。
(続く)