二、 われ空母ヨークタウンを撃沈せり
田辺 彌八
(一)ミドウェイ攻略計画の概要
そもそも戦略拠点となったミドウェイ島とは、東京から東南東へ約二三五〇浬、ハワイ群島の西北六〇〇浬に在って直径およそ六浬の環状の珊瑚礁である。その環礁の南部直ぐ内側に面積三平方粁のサンド島と一平方粁のイースタント島の二つの島が並んでいる。環礁の内部即ち礁湖は大体浅瀬であるが、中央部は深さ六米から二〇米ぐらいあって、吃水五米までの艦船は、西方から出入することが出来て港になっている。このようにミドウェイ島は本当に小さい太平洋上の一孤島に過ぎないが、米国としてはここがハワイ諸島の玄関口であり、また日本本土空襲の拠点でもあるので非常に重要視し、太平洋の情勢がただならずと見るや五三〇万ドルを費やして、軍港の設備を急ぎ、ドックの構築や潜水艦、飛行機の燃料補給基地を建設した。
その後ニミッツ提督はこの島を視察して、飛行機、兵員、大砲等を補充し、昭和十七年五月末日現在では、三〇〇〇人の兵員と、一二〇機の飛行機を配備し、大砲を林のように装備し、鉄条網をクモの巣のように、張りめぐらしていた。わが方においては、昭和十七年五月五日、すでに陸海軍間に「ミドウェイ島作戦に関する陸海軍中
央協定」が結ばれていた。その概要は次のようなものであった。
1.陸海軍協定
(1)作戦目的
ミドウェイ島(キュア島を含む)を攻略し、ハワイ方面よりきたる我が本土に対する敵の機軸作戦を封止すると共に、攻略時出現することあるべき敵艦隊を撃滅するにあり(キュア島は、ミドウェイの西北六〇カイリにある小島)
(2)作戦方針
陸海軍協同して、ミドウェイ島を攻略すると共に、陸海軍をもって、キュア島を攻略す。
(3)作戦要領
@ 陸海軍協同してミドウェイ島を攻略し、すみやかに水陸航空基地を設定す。
A キュア島は、ミドウェイ島攻略前日、海軍部隊之を攻略し、ミドウェイ島作戦を容易ならしむ。
B 海軍は連合艦隊の主力をもって、攻略部隊を支援するとともに、上陸前、母艦航空部隊をもって、ミドウェイ島を空襲し、主として所在航空兵力を撃滅す。
(4)指揮官ならびに使用兵力
@ 海軍
指揮官、連合艦隊司令長官、
兵力、連合艦隊の大部分。
A 陸軍、
指揮官、一木 支隊長、
兵力、歩兵一連隊基幹。
(5)作戦開始 六月上旬ないし中旬アリュシャン作戦と同時に作戦を開始す。
(6)集合点および日時
攻略部隊の集合点をサイパンと概定し、日時は、五月二五日頃とする。陸軍部隊乗艦地より、集合点にいたる航行は、海軍之を護衛す。
(7)指揮関係
@ 集合点集合時より第二艦隊司令長官は、作戦に関し、陸軍部隊を指揮す。
A上陸及上陸戦斗において、陸軍部隊および海軍陸戦隊同一ヶ所に作戦する場合は、作戦に関し、高級先任の指揮官これを指揮す。
(8)ミドウェイ島は、攻略完成約一週間後撤収す。
(中略)
(9)作戦名称
本作戦をミドウェイ作戦(MI作戦)と呼称す。
2.海軍部隊の作戦計画
連合艦隊司令部では、前記協定に基づき次のような要領の作戦計画が定められた。即ち機動部隊がミドウェイを攻撃するのは、六月五日。その前日には、北方部隊がアリュシャン列島攻撃を開始する。
機動部隊の飛行機が五日に大空襲を敢行して、同島の制空権を獲得する。六日には艦砲射撃によって砲弾の雨を降らせると同時に両方の小島キュア島に陸戦隊を上陸させる。翌七日には、陸海軍の上陸部隊が海空から砲爆撃の援護のもとに、ミドウェイ島に上陸する。
大和以下の主力と機動部隊は、そのころには、ミドウェィの東方にまで進出して、アメリカ艦隊を一挙に撃滅する。
(二)伊一六八潜に与えられた任務
私が伊一六八潜水艦に艦長として着任したのは、昭和十七年一月三十一日であった。当時同艦は呉軍港のドックに入って居り、船体兵器の補修を行うかたわら真珠湾攻撃に参加した乗員の保養に努めていた。その後は第十二潜水隊の一艦として瀬戸内海で訓練していたが、伊豆諸島方面に敵空母が現れるという情報があったので、四月十五日三田尻沖を至急出港して、その方面の索敵攻撃配備に就いた。しかし、途中機関に故障を生じたため、僚艦と別れて四月二十六日呉に帰投した。修理がほぼ完了した五月十九日、私は柱島水道に碇泊中の連合艦隊旗艦大和の司令部に呼出されて、次の機密命令を受取った。「連合艦隊は、六月六日を期し、ミドウェイ島を占領せんとす。伊号第一六八潜水艦は準備出来次第出撃し隠密にミドウェイ島附近の敵情を偵察せよ。」そのときの黒島先任参謀の説明によると、ミドウェイ島を占領すれば給油艦が行くから燃料のことは心配せず思う存分行動せよとのことであった。連合艦隊の斥候として、其の任務は洵に重且大である。特に隠密を要するので乗員には作戦地に向うとのみ言い渡して、出動準備を急ぎ、五月二十三日、ミドウェイ島に向け呉軍港を出港した。途中伊予灘において、甲板に総員を集め、始めてこの重大な任務を伝達して、各員の奮起を促した。
六月一日の黎明東の水平線に環礁らしい島影を見付けた。「ミドウェイ島」西北六〇浬のキュア島である。潜航して此の島を半周したが陸上には、基地らしい施設もなく、人影も見当らない。また、湾内及附近海上にも異状はなかった。翌二日の未明目指すミドウェイ環礁の北西方に達した。敵に見つからぬように、直に潜航偵察に移り、先ず此の環礁へ近接し、そこから東側、南側を経て、最後に西側の港口に肉迫して、陸上施設や敵の動静を偵察した。陸上には飛行機格納庫や重油タンクなどが建ち並び哨戒機が数十分おきに発着している。潜望鏡の眼高が低いため飛行場を直接見ることが出来なかったが、敵は数十機の哨戒機を使用して、付近海上を厳重に哨戒している様子であった。湾内には数隻の小型哨戒艇らしいものが碇泊しているほか大型艦船の姿は見あたらない。二日の夜間は島から離れる行動を取り、三日黎明前に今迄に得た敵情を連合艦隊宛に打電した。
(三)ミドウェイ飛行場砲撃
引き続いて偵察索敵を行いながら友軍の攻撃を今か今かと待ちわびた。六月五日わが攻撃隊は、このミドウェイ島に殺到し爆弾の雨を降らせた。重油タンクが爆発して、全島が黒煙に包まれ火焔は天に沖している。いままでの平和境はたちまち修羅場と化す。艦内へ友軍機の戦果を伝えた処、ドッと歓声が上る。司令塔に居る航海長や砲術長、伝令員等に、かわるがわる潜望鏡を覗かせた、皆手をたたいて喜び合っている。その日は一日潜航していたので、その日の凄惨な海戦の模様など詳細は判らなかったが、夕方になってわが潜水戦隊司令官から命令が届いた。本艦に対し「サンド島の敵飛行場を砲撃せよ」という電報である。太陽は既に西に没していた。本艦はただちに、サンド島に最も近い南側の環礁に近づくように針路を取り、砲戦準備を下令し、岸から三八〇〇米の所で急速浮上砲戦を開始した。あたりは既に真っ暗になっている。飛行場に数発の砲弾を打ち込んだ。敵もいち早く砲台から応戦して来た。我が方は敵の照射の眩惑に会い、やむなく潜航避退した。間もなく敵の哨戒艇がわが頭上にやって来て、爆雷数発を投下したがこれをうまくかわして、沖の方へ潜航をつづけ敵の追跡をふりきって、ようやく浮上した。
(四)空母撃沈命令
その時である暗号長が艦橋に駈け上って来て、特別緊急電報ですと差出す。見ると次のような軍令である。「わが海軍航空部隊の攻撃によりヨークタウン型大型空母一隻ミドウェイの北東一五〇カイリに大破漂流しつつあり、伊一六八潜水艦は直に之を追撃撃沈すべし。」艦内へこの新しい任務を放送させた。乗員の中には「さあ戦わんかな」と大声を発するものあり、また、武者振する者もいる。それもそのはず、将も兵も長い年月所謂月月火水木金金の猛訓練を重ねて此の日の来るのを待っていたのである。士官室へ先任将校や機関長等准士官以上を集め戦斗の諸準備を命じ、いささかの手落ちもないようにと色々と指示を与えて、再び艦橋に上った。本艦は真暗闇の海面を計算で出した出合針路を全速力で進んでいる。艦橋の腰掛に腰を下した。脳裡には、これから起るであろうところの色々な戦況や、どうやったら一撃必沈出来るだろうか、此の広い海原で果して運よく此の敵空母を捕捉し得るか、しかも夜明けに捕捉しなければ昼となっては、敵機の哨戒もあろうなど、次々と脳裏に浮んで来る。その間も友軍苦戦の電報が後から後から傍受される。其の都度怒りの失望と闘志の混じった感情が沸く。望月電機長が艦橋に上って来て亀山神社のお守りを渡してくれた。彼の話では呉軍港を出発する時ひそかに受けて来たもので、今から乗員全部に配りますと言う。
先任将校から戦斗準備が完了したので休養させますと報告を受けた。艦内を一巡して見ると白鉢巻をしたまま寝ている者、ひそひそ語り合っている者など、乗員すべてが落つき払っており、そこここに冗談さえが聞こえる。まことにたのもしい情景である。
(五)会敵
やがて朝が忍びよって来た。時は六月六日午前一時
(【注】時間は日本標準時、六月六日この地域の日出午前一時二十五分、日没午後四時)
前方見張員の十二センチ望遠鏡が、ようやく白みはじめた東方海上に一つの黒点を捉えた。「黒点一つ右艦首」と一番見張員の声は黎明の物静かさを破った。どれ見せろと言いながら望遠鏡をのぞくと、どうやら目指す空母らしい。念じていた時刻にしかも理想的な相対位置で捕捉出来た。嬉しさで胸が一杯になった。敵の空母は明るさを増しつつある東の空を背景にして、己れの全貌をだんだん明確に浮ばせて来た。その附近に警戒艦らしい小さな黒影が数点見える。見つけられては一大事と直ちに「潜航用意」つづいて「潜航」の号令を下した。邇に喰うか喰われるかの戦は正に始まったのである。海面は油を流した様にさざなみ一つ立っていない。こんなに静かだと潜望鏡の頭をほんの僅か出しても敵に発見せられるので、却って苦労である。水中速力三ノット本艦はひそかに敵に近づいている。魚雷発射管室では、魚雷の最後の調整にいよいよ急であり主計科員は艦内に戦斗食の握り飯をくばっている。本日天気晴朗で波静か、視界は満点。今までの数回の観測で敵針・敵速がほぼ推定出来た。敵の陣形は、ヨークタウン型空母を中心に千米位の距離で警戒駆逐艦を配している。その数約七隻であることも分った。敵から見付けられないために、暫く聴音潜航をすることにした。潜望鏡の昇降台に立ったまま攻撃計画等を考える。敵空母は、昨日の友軍航空隊の攻撃のため、やや左に傾いているが見たところでは、すでに損傷個所も修理が終った様子で、飛行甲板も異状なく、火災の様子もない。推進機に損傷を受けたものらしく、最微速力で針路は、ハワイに向いている。早く戦場を離脱しようと、必死にもがいているようだ。潜望鏡を上げて見た。彼我の距離は一万米に縮まった。哨戒駆逐艦の厳重な警戒ぶりが手に取る様に見える。やがて敵の探信音が聞え始めた。艦内に「爆雷防禦」を下令する。深度計や電灯の処置等艦内の準備は整った。情況如何にと固唾を呑んで待っている総員に時々敵情を放送した。海面は、二メートル位の東風が吹き、わずかにうねりも出て来た。襲撃にはだんだん我に有利となって来ている。敵は殆ど停止しているように見えたがその後潜望鏡で観測するたびに航海長の作図による予想と違っている。敵の前程に進出しようと努力しているにもかかわらず方位角は、むしろ大きくなっている。敵の速力は何ノットか、敵の基準針路はいったい何度か、一向に判断がつかなくなった。あるいは、敵は風に流されているのかもしれない。最初は敵の左舷側から襲撃しようと行動したのではあるが、今の態勢では困難である。右舷側からの襲撃を決意し、思い切って右に出た。敵の警戒幕を突き切るために作図と聴音を頼りに無観測進出をとった。敵を見ないというのは、不安なものである。しかしこの場合ちょっとでも潜望鏡を上げると、たちまち発見せられるのはきまっている。運を天にまかせて盲目的進出運動をとらざるを得なかったのである。敵駆逐艦は、わが艦の直上を幾度も往復する。そして敵の探信音はあちらからもこちらからもひっきりなしに聞えて来る。午前九時三十七分、神に念じながら上げた潜望鏡に山の様な敵空母がのしかかっているではないか、われとの距離約五〇〇米これでは近すぎて魚雷が敵の艦底通過をするおそれがある。この警戒厳重な敵を仕留めるには、一回で成功しなければならない、失敗してやり直しは不可能である。それには少なくとも八〇〇米から一〇〇〇米の間合をとらねばならぬ、敵を前にして三六〇度旋回を決心した。今まで騒々しく鳴り響いていた敵の探信音がピタリと止んだ。不思議でならない、時計を見ると九時半、即ち敵さんの昼食時である、航海長に「敵は昼食をとるため探信当番がサボったな」と冗談を言ったりした。
(六)発射・全魚雷命中
この時こそ襲撃だと潜望鏡を上げて、敵情如何にと観測すると距離一二〇〇米、しかもこちらの注文通りの位置にぐっと回頭して来た。「発射用意」つづいて「射て」第一回目二本、続いて二秒後第二回目二本と全魚雷命中一撃必殺を期して四本の魚雷を二本ずつ重ね射ちにした。一秒二秒三秒と時計の針を見つめる。四〇秒たった。命中音が激しく艦を震わせたかと思うと、引続いて重苦しい大爆発音が海も裂けよとばかりに耳朶を打った。乗員の魂をこめた四本の魚雷は有難や全部命中したのだ。艦内は命中音を聞くと狂喜して抱き合い万歳の連呼である。司令塔へ駆け上がって来てお目出とうと言う下士官もいる。一人の水兵がサイダーをコップに入れて持って
来てくれた。その心づかいに対し感謝の涙が流れた。それもその筈、敵発見以来約八時間潜望鏡の昇降台に立ちつづけていたので、一安心した今はむやみに渇をおぼえ、声もろくに出ない有様で、このサイダー一杯は本当に有難かった。乗員の喜びの声が落ついた頃合を見て「戦はこれからだ一層緊張せよ」と艦内に号令した。発射と同時に直に避退運動に移り沈みつつある敵空母に近づくような針路を採った。此のやり方は、一般的には落第である、沈みつつある艦には近よるなと教わったのであるが、これを敢えて行った。それは敵の乗員は海面に抛り出され泳いでいるだろうから、ここに突入しておれば敵も容易に爆雷は投下出来ないだろうと判断したからである。魚雷命中に敵は周章狼狽して一時は為すすべもなく附近を走りまわっていたが、約一時間後一隻の駆逐艦が頭上を右から左へ通過して爆雷二発を投下した。いよいよ爆雷攻撃が始まったのだ。敵駆逐艦は、われを四方から取り囲んで狙いを定めている。聴音員は、右舷に推進機音左舷にも、と頻りに報告して来る。その報告を頼りに面舵、取舵と蛇行して敵から遠ざかるように運動するが四方に敵がいるのでどうしようもない。敵は入れかわり立ちかわり、頭上を通過しては爆雷を投下する。発令所にいる先任将校から、いままでに六十発落されましたと報告を受けた。その直後であった真上を通過した敵の推進機音がやや遠ざかったかと思った瞬間爆発音と共に本艦
は一米ほどもはねあげられ、天井の塗料がパラパラと落ちて来た。電灯が消えて艦内は真暗闇だ。先任将校が「応急灯つけ」を命じている。艦内損傷箇所調べ」を下令する。「前部発射管室浸水後部舵機室浸水」を報じて来る。機関長から「電池破損」の報告がある。そのうち浸水箇所は乗員の適切懸命の努力で防ぎ止めたが電池筺の破損は全く致命傷である。漏出した硫酸液と艦底に溜って居た海水とが混ざってクローリンの毒ガスを発生し、艦内は次第に呼吸困難を感じ始めた。鼠が此の毒ガスに酔って、フラフラと足元に出て来る有様である。敵の爆雷攻撃は執拗に続き、なかなか止みそうもない。電池の一部が壊れたため電力が止り艦は停止してしまった。こうなると潜舵も横舵も縦舵も全然利かない。空気で注排水を行い、人員を移動して前後傾斜を直す以外に、潜航を持続する方法がない。先任将校の適時適切な命令により十数人の下士官兵は一団となって前部へ後部へと走り、あるいは停る軍医中尉も此の一団に加わっている。機関長と電機長は、ガスマスクをつけて、部下と共に電池の応急修理作業に死に物狂いである。ガスに中毒して電池室から抱え上げられる下士官もある。「日没まであと二時間、総員頑張れ」と号令して士気を鼓舞した。しかし、圧搾空気は残りわずかに四〇キロ、潜航はそう長くつづけられない。艦内の空気はますます濁り呼吸もいよいよ苦しくなって来た。応急灯も消え、わずかに懐中電灯が私達の運命を暗示するかのように点滅するだけである。
(七)浮上砲戦
午後一時四〇分頃万策つきて艦は三〇度の仰角をもって、浮上しはじめた、乗員のあらゆる懸命の努力も今ははや効果がない、ことここに至っては、一艦をひっさげて、肉弾突撃し敵と刺し違える他に途はないと決心した。「砲戦機銃戦用意」つづいて「急速浮上砲戦」を下令した。ハッチが開かれるのを待ちかねて艦橋に跳び上った。まず、近い所から四囲を見たが、敵の姿がない。「しめた」と思わず声が出た。眼を遠くに転ずると約一万米の彼方に敵の駆逐艦三隻を見出した。先程攻撃をした空母や如何にと探したが既に姿はない撃沈は確実である。このことを艦内に伝えて喜びを分った。しかし敵駆逐艦三隻は、わが艦を発見したのか、にわかに反転してくつわを並べて近よって来る。浮上前の報告では「電力なし、空気残り三○キロ」であったから「急速充電補気」を命じ、敵から離れるように全力で走った、両舷機からは濛々とした黒煙を吐き、之が彼我の間に漂い期せずして遮蔽煙幕となっている。
(八)われヨークタウンを撃沈せリ
しかし如何にせん速力においては、駆逐艦には及ばない、敵との距離は刻々につまってくる。敵駆逐艦三隻のうち一隻は途中で追跡を断念し両側の二隻だけとなった。通信長に命じて聯合艦隊あてに「われヨークタウンを撃沈せり」と打電した。その間も敵はいよいよ迫ってくる。艦橋にいる航海長や見張員は「敵が近づきます」と。その間も敵はいよいよ迫ってくる。艦橋にいる航海長や見張員は「敵が近づきます」と悲壮な報告を繰返す。艦内からは「電動機はまだ使えません」と潜航不能を訴えて来る。万が一の成功を期して潜航するか、このまま水上退避をつづけ時機を見て敵と差違えるか、決断を迫られ胸が張り裂ける思いである。空気いくら取れたかと先任将校に聞くと即座に「八〇キロ」まで採れましたとの返事である。百余人の乗員と、その家族のことが脳裡に浮ぶ。時計を見ると、日没まであと僅かに三〇分である、敵は、はや砲戦を開始しており其の弾着は、わが艦を挟んで前後左右に落下し始めた、一刻も逡巡出来ない「よし潜航しよう」と決心して、急速潜航を下令つづいて「深度六〇米」を命じた。所定深度に着こうとしたとき「電動機音がかすかに聞えます」と、伝声管に耳をあてていた伝令員から報告が来た。つづいて「電動機は使えます」と機関長からの報告だ、乗員の誰もがホッとした面持ちである。忍耐こそ真の潜水艦魂であることを痛切に覚った。敵の砲弾は見当違いの方に落下している、日はようやく暮れかかった。敵は威嚇的に最後の爆雷数発を投下した後頭上を去った。午後三時五〇分、本艦はやっと暗くなった海面に浮上することが出来た。接敵を開始してから苦闘死闘すること実に十三時間乗員一同文字通り飲まず食わずにその持場を死守したのだ、ほんとうによくやってくれたと感謝するのみであった。あたりが真暗闘になるのを待ちかねて「ハッチ開け、喚気始め」を下令して全員をかわるがわる上甲板に出した。艦内の将兵は如何に此の甘い清らかな空気を待ちわびていたことであろうか。ここに一応特別任務は果し得たがまだまだ大切な任務がつづいている。此の艦をこの乗員を無事に母国へ運ばねばならない。呉軍港を出発する時艦隊参謀からミドウェイを占領すれば油送船が行くから帰りの燃料は心配する事なく思う存分行動して任務を果すようにと指示されたがミドウェイは占領出来ず重油船は来ない。機関長から報告してきた燃料の現在高では、余程燃料を節約しない限り呉に帰投することは困難である。しかも明朝、夜が明けると敵機が襲いかかるにちがいないから敵が予想するであろう西方針路を採らずに、一旦北の針路を取り、遠まわりせねばならない。そこで日数は長くかかっても長距離を走ることの出来るために、片舷航行に切り換え、まず針路を北にした。途中若し油が少なくなって、呉軍港に帰れない場合は北海道でも東北の海岸にでも辿りつこうと考えた。六月十九日辛うじて呉軍港に無事着くことが出来た。「燃料残額四〇〇キロ」と報告を受けた時は余りの危ない芸当に我ながら驚いた。本艦が呉の工廠岸壁に近づくと工廠の人々が黒山の様に出迎えてくれたので、今までの疲れは一度にふき飛んだ。そして銃後の人々の此の温い真心が艦に籠り乗員に移っておればこそ困難な任務が達成できたのだと出迎えの人々に感謝しつつ艦橋を下りた。