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四、靖国神社の再建と遺族会の結成

大 谷 藤之助

(一)靖国神社事務総長になって

昭和二十一年六月終戦処理、復員業務も一段落し、永年の海軍生活に別れを告げ、新生活へのスタートを期して、復員の発令を貰い長い東京在住の生活に別れを告げて、家族とともに郷土の松江に引きあげた。

時に、たまたま靖国神社当局より、米内海相に対し、重ね重ねの懇請があり、又米内海相のおすすめもあって、其の任でないと固辞しつづけたけれども……終戦後国の手をはなれ、省みるものもない靖国神社を再建し亡き英霊の冥福を祈り御遺族の幸に献身することは、終始第一線の戦闘にたずさわりながら生き残った者の責務と考えて、……断りきれず遂に、予想もしなかった、靖国神社の事務総長を引受けることとなった。

この時、私は、二つの条件が容れられるならば、と神社当局に要望した。

@は追放、特に旧海軍々人の私であるが、就任にGHQの異議のないこと。

Aは、陸軍省 第一復員省当局も私の就任に異議のないこと…何故かと申しますと、曾て靖国神社は、陸・海軍両省の管理というものの殆ど、陸軍に任せて海軍は協力という姿であった。ここに私がとびこんで、戦後の主役となり、もしも陸・海軍の相尅がまた靖国神社で……などとなっては申し訳ないと考えたからだった。

右二つとも異議なしとのことで、踏み切った。この間、国の手をはなれ、外からは之を潰したい、又内からも白眼視するものさえあった戦後の靖国神社の存続、再建について、内外の政治的折衝、存続への苦心、財政の確立、祭礼の維持、社頭の復興、日本遺族会の結成等、凡そ想像もできない多くの苦労があった。いずれ又、稿を改めて、その苦労話、内輪話も明らかにする時があると思う。

幸いにして、英霊の加護と温い国民の支持により、敗戦後一人の参拝者もなく、顧みるものもなしとさえ云われた靖国神社も、おかげで今日、戦前にまさる社頭の復興隆盛をみるに至ったことは、洵に御同慶の至りに堪えない。

今まさに、御遺族始め我等国民悲願の靖国神社国家護持の立法が、国会の重要政治課題の一つとして盛り上り、自身が其の衝にたたされていることは、洵に感無量である。

(二)参議院議員に推されて

昭和二十一年より満十年間、戦後苦難の靖国神社の再建と遺族の福祉向上・日本遺族会の充実発展に微力ながら文字通り献身してきた。しかし、靖国神社、御遺族の問題、二つとも最終的には、政治力による打開なくしてその解決はあり得ない、との見地から、微力の私に、国会 参議院全国区に出馬するよう、関係各方面の方々から熱心な御推挙を受け、遂に、昭和三十一年立候補、幸いにして、初当選の栄を受けるに至った。

爾来、三期連続十五年間に亘り、全力をつくして、靖国神社問題、御遺族の処遇、傷病恩給、軍人恩給等始め、国政の諸般に取りくんできたつもりである。

しかし任重く、道なお遠し、更に皆さん始め、同志各位の御支援御鞭撻により、御期待におこたえしなければならぬと、決意を新たにしている。

今や、海外から我が日本は、「二十一世紀は日本の世紀」「昇る太陽日本」「沈まざる太陽日本」「経済大国日本の役割」云々と、高く評価されている。

たとえ国内にはいろいろと多くの悩みを抱えているけれども…。政治・経済・産業・文化の各般に亘り、又世界の平和と繁栄に寄与しなければならぬ、日本の役割と各国の期待は、洵に大きいものがある。

「米国は、日々、アジア・日本の平和の為に血を流している…。そのかげで日本は金をもうけて太りに太ってくる」 

「経済大国を誇持しながら、後進国援助も、アジア低開発国にも熱意がうすい…寄与が少ない」 

「隣国を楯とし、手をこまねき、傍観しながら、独り平和をむさぼる国」

「平和と繁栄をうたい文句にしながら、自らの国を守る決意と努力にも…又隣りの友邦、アジアの平和と安全に寄与する具体的協力の実もない」等、

きびしい批判の目が向けられている現実、我々は之を直視し、これをさけて通ることは許されないと考える。

一九七〇年代、内外に亘り重大な時局を迎え、世界平和の確立に、新たなる日本の役割、量よりも質を改善すべき日本の現実に緊褌一番、互に手を組んで邁進いたしたいものである。

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