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四、 山本聯合連合司令長官の戦死

野村 了介

(一) 巡視計画

連合艦隊は、虎の子の母艦航空部隊の大部分をあげて南東方面に進出し、ソロモン、パプアに対する一大航空作戦を実施し、連合軍の兵力増強を阻止しようという、いわゆる「い」号作戦を計画した。

「い」号作戦は、山本元帥が直接指揮されることになっていて、四月三日に連合艦隊司令部がラバウルに進出した。

「い」号作戦の発動は、天候の都合で七日になってしまったが、この作戦が終わったら、山本長官と宇垣参謀長とがソロモン方面の最前線基地を巡視して、現地各部隊の将兵を激励したいから、その具体的な計画を南東方面艦隊のほうで研究しておくように、とのことだった。私は次のような計画案を持って、連合艦隊参謀のところへ行った。

(1)視察していただく基地は、バラレ、ショートランド、ブインの三基地とする。

ショートランドは、日本軍がはじめてソロモン群島に進出した時以来の水上機隊、および飛行艇隊の基地で、そこには第一一航空戦隊の司令部があった。

ガダルカナルの補給戦では、輸送部隊の掩護隊として、鬼神のような働きをした部隊であって、輸送部隊の者は、ショートランドに足を向けては寝ない、といわれていた。

バラレは、ショートランド北方の小さな島で、椰子のプランテーションがあり、島全体が飛行場になっていた。ここはブインとちがって原住民がいないので、機密保持には好都合であり、ガダルカナル方面に対する攻撃部隊の前進中継基地として活躍していた。

ブインは、ブーゲンビル島の南端、ショートランド島に相対するあたりにある部落の名前で、そこには第二六航空戦隊の司令部があり、零戦隊の前進基地であった。

ブインの飛行場のことを原住民は、カヒリの飛行場と呼んでいた。そしてブインには、陸軍の第一七軍の司令部もあった。

(2)巡視の日程については、「い号」作戦終了後なるべく早い時期とし、一応X日としておく。巡視の順序は、バラレ、ショートランド、ブインとし、ブカは上空のみとする。時刻は、過去三ヵ月のショートランド、ブイン方面に対する敵機の空襲状況、とくに上空侵入時刻の統計をとってみると、午前一一時から午後二時ごろまでは一回も来襲していないことがわかったので、バラレ着一一時、ブイン発一四時とし、途中の所要時間を考慮して細部の予定を立てること。但し実際にはブインにおける訪問先が増えたため、多少でも安全な早朝の方に時間をのばすことになり、バラレ着は午前九時となった。

(3)万一の場合、長官と参謀長とが同時に事故に遭われては困るので、使用機は一式陸攻二機とし、長官と参謀長はそれぞれ別の一式に搭乗していただくこととし、掩護隊は零戦一コ飛行隊一八機とする。

陸攻の操縦員は、若い将校よりも老練な特准を希望する。ショートランド湾内の移動は駆潜艇を使用することとし、第八艦隊がバラレに準備する。

(4)航路は、往路はガゼレ岬からモイラ岬へ直行してバラレ着、帰りは一四時頃にブイン発、ブーゲンビル東岸に沿ってキエタ経由ブカに至り、一六時頃ラバウル帰着とする。

このような予定で行動すれば、途中で敵機に遭遇することはおそらくないだろうし、ラバウルに対する敵の夜間定期便にもひっかからないはずだった。GFでは大体この案でいこうということだった。

(ニ)その日のこと

当日の朝、航空乙参謀の私が案内役として一番機(長官機)に乗って行く予定だったので、飛行場へ一足先にいって、飛行機に乗り込み、GFの人たちが乗るのを待っていた。出発五分前ごろ、GF乙参謀の室井中佐が、GFの随行員が急に増えたので、君は降りてくれないかということだった。仕方がないので先導役を室井中佐に頼んで、私は一番機から降りることにした。山本長官の搭乗機が離陸してから、南東方面艦隊の草鹿長官が、「おい、ピコ(私のあだ名)、大丈夫かい」とおっしゃったが、

「近いから大丈夫ですよ」と返事して、長官の車に搭乗して司令部へ帰って来た。

当時、ブインへ行くのは、隣り村へ行くぐらいの気持ちだったので、誰も特に心配していなかった。ブインは航空関係者には少しも珍しい所ではなかったが、それ以外の人にはなかなか行けない所だったし、山本長官のお伴をして行けば最高の待遇が受けられる、ということで、随行希望者がつぎつぎと現われ、ついに私まで追っ払らわれることになったのだった。

そんなわけで、長官機のバラレ着予定時刻になって、着電が来なくても、誰ひとり電信室に問い合わせようとするものすらいなかった。一一時ごろになって、草鹿長官から着電はどうしたといわれて、私も通信参謀もやっと気がついて調べはじめた。しかし、どこにも来ていないのだ。二六航戦に問い合わせ電報を打ったのだが、その時でさえ私どもは、あまり偉い人が乗っておられるので、機長が上がってしまって、着電を打つのを忘れたんだろう、ぐらいに考えていた。

一二時ごろだったろうか、二六航戦から大変な電報が舞いこんで来た。長官機がブイン西方のジャングル内に不時着したらしいというのである。この第一報では何が何だかわからなかったが、間もなく掩護戦闘機が帰ったというので、その搭乗員の報告を聞きにすっ飛んで行った。

いちばん期待していた戦闘機搭乗員の報告がじつにモタモタしたもので、歯がゆいぐらい訳のわからぬものだったが、いろいろと綜合すると、「敵戦闘機二四機(ただし問いつめると、機数はあやふやだった)の攻撃を受けて、長官機は黒煙を吐きながらブイン基地西方のジャングルヘ、また参謀長機は海上へそれぞれ不時着した。参謀長機からは人が出て来て泳いでいたが、長官機の方はジャングルが深くてよくわからなかった。しかし、不時着時の角度わりと浅かったので、大丈夫かも知れない」というようなことだった。これを聞いていた幕僚どもは、矢つぎ早に質問をあびせるのだが、搭乗員の方は、自分たちも命がけの空戦をしている合間、合間に、チラッチラッと見ているだけなのだから無理もない。しまいには何も言えなくなってしまうのだった。

十八日は、結局これぐらいしかわからないうちに日が暮れてしまって、いまさらどうしようもない。現地へは一応緘口令を布くとともに、長官機の行方を捜すことに全力を挙げよというような電報をって、明早朝、私と参謀副長とがブインへ急行することになった。明日の飛行機は、司令部の九六式輸送機(九六陸攻から兵装を取りはずしたもの)に使用と考えているとき、草鹿長官から、「明日は何に乗って行くんだ。護衛戦闘機を何機つけるか」と訊ねられた。「護衛はつけません。九六輸送機で参ります」と答えたら、こっぴどく叱られた。

「昨日まで安全だったというが、今日こんな事態になった。戦時の情況変化は激しいのだ。何時までも過去のことにとらわれていないで、現情勢をもっと真剣に考えろ」と言われた。私には痛いご説教だった。もっと柔らかい頭をもとうと考えたが、私としてはブーゲンビルに入ったら超低空を飛ぶ、そうすれば九六の方が一式より操縦性がよいから、戦闘機から見れば攻撃し難いはずだし、いちばん重要なのは、艦隊司令部の輸送機隊パイロットは私と何回も敵地付近を飛んでいて、万事やり易いと思っていたからだ。あまり馴れていない護衛戦闘機について来られては、こちらの方が面倒をみてやらなくてはならない。ついに護衛戦闘機の件は頑固に断わってしまった。当日、私は九六のサブ(副操縦者席)に乗って、いざというときは自分で操縦してやろうと考えていた。ブーゲンビル島上空に入るとすぐ、海岸線スレスレの超低空飛行に移るように命じた。長官のご心配に反抗した私は、真剣になって前方見張りに専念していた。ブインに着陸したのは、十九日の午前七時ころだった。すぐ二六航戦の司令部へ行ったが、山本長官の行方はいまだわからなかった。

山本長官をとくに慕っていたGFの渡辺参謀は、水偵で現場付近へ行ってパラシュート降下をするのだ、といってきかなかったが、ブイン付近のジャングルは映画に出て来るようなジャングルと違って、一人で降りたって一日かかって一〇〇メートルも歩けないだろう。やっと皆で説得して、救援隊と一緒に陸上から行ってもらうようにした。長官の行方がわかったのが二十日の朝方だったと思う。御遺骸がブイン根拠地隊司令部へ搬び込まれたのが午後十時ごろで、その夜、幹部一同がお通夜に当たった。

(三) 疑念のかずかず

ブイン着後、私は二六航戦司令部、ブイン根拠地隊司令部、陸軍司令部その他を歴訪して、出来る限り多くの人たちから情報を集めて歩いた。

長官機がモイラ岬をまわってからの経過は、現在までに多くの人々が書いていることと大同小異なので省略する。ただそのときの飛行高度が遊覧高度(割と気流のよい、しかも涼しい所だが、敵機に発見され易い)だったことを指摘している人が少ないので、一言いっておきたい。私が調査した結果、抱いた疑念について述べてみよう。

1、暗号解読の問題

わが軍の暗号が解読されているかも知れないという疑念は、私自身だいぶ前から持っていた。その疑いを持つにいたった動機は、ガダルカナルの争奪戦のころ、イ号潜水艦がガダルカナルの北端付近で撃沈され、その船体が空中から見えていた。そこでこれを破壊しなければならないというので、特別の爆撃隊を編成して数回にわたって爆撃したが、直撃弾が得られなくて、船体爆破には成功しなかった。したがって、敵はこの潜水艦から暗号書を取り出したかも知れないということだった。次に一月下旬、ケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)が実施される前、私がムンダ基地の完成直前に、同基地の視察連絡に行ったときの出来事である。

私がムンダ基地での連絡を終わって、ショートランドの水偵隊の迎えの飛行機の派遣方を電報で要請したのだが、迎えの飛行機隊のムンダ着時刻を現地の記録にもとづいて、いちばん空襲の少なかった時刻に選んだ。それにもかかわらず、戦爆連合八○機にもおよぶ敵機の空襲をうけ、迎えの水偵の掩護に当たった水上戦闘機四機が撃墜され、私は命からがら収容されたのだが、その時、これは暗号の解読じゃないか、と思ったのが最初だった。

〇 疑点の第一

四月十八日、山本元帥の搭乗機がバラレまであと一分間のところまで来たとき、敵のP 38戦闘機隊が、南下帰投の姿勢から急きょ引き返してきて、陸攻隊の後下方から襲いかかった。P-三八は、当時の零戦隊に対して、一万メートル以下の高度での空戦では勝目がなく、かんたんにやっつけられるので、“ペロ8”という仇名を頂戴していた。ブインにもそれまでにしばしばやって来たが、いつも高度一万メートル以上で偵察だけして帰るのがおきまりだった。ところが、この日は掩護の零戦隊と、ブイン基地から急速発進した零戦隊の攻撃には目もくれず、ひたすら陸攻隊に襲いかかり、ジャングルの梢すれすれまで降下して、勇敢というより自殺行為とも思われる行動をとったのは異常なことで、陸攻隊を待ち伏せていたとしか考えられない。

当日、ブイン上空で長官機の掩護に当たった戦闘機の数について、いろいろなことがいわれているが、私の記憶では次のようなことである。

最初の計画は前述のとおり一コ飛行隊、したがって一八機だった。これは、戦闘機隊の戦闘力の単位として考えると間違いではない。ところが、「い」号作戦で全力運転をした結果、戦闘機隊の整備が間に合わず、掩護隊を一コ分隊に減らしてほしいと申し入れて来た。そこで、GF参謀と相談した結果、ここ数日来、ソロモンの敵機もおとなしいようだし、ブインには零戦隊がいるから九機でよかろう、ということになった。当日、陸攻は西飛行場、戦闘機は東飛行場から離陸したのだが、離陸して十分位で掩護戦闘機の第二小隊長機がエンジン不調のため引き返したが、列機までがそれについて引き返し、結局、ブインまで掩護していったのは六機だけだった。当時、なぜ予備の小隊をすぐ発進させなかったかということで、戦闘機隊は長官からお叱りを受けたはずである。この一コ小隊引き返しの件は、司令部へは報告もされなかった。

ブイン上空で空戦がはじまったのをみて、ブイン基地を急速離陸したのが四機で、結局、空戦に参加したのは零戦一〇機だった。ブインには零戦が二コ飛行隊ぐらいいたので、いざというときは、もっともっと多数の零戦が離陸できたはずだし、長官機の上空着の時間にはとくに基地の上空直衛をやってよかったはずである。それが四機しか離陸できなかったのは、GF長官の巡視だというので儀礼の準備に追われていたのと、ほんとにアッという間の出来事で、警報が出たときは、上空で空戦が終わっていたような次第だったらしい。

〇 疑点の第二

空中で飛行機同士がランデブーをすることはなかなか厄介なことで、場所と高度とコースとがきまっていて、正確な時間が打ち合わせてあっても、一方がコース上を往復運動するくらいでないと、たがいに行きちがってしまうことが多いものである。この日、モイラ岬の地上見張員は、モイラ岬とブカを結ぶ線上を十数機のP 38二隊が往復運動をしていたのを見ている。それが今から思えば、陸攻を待ち伏せしていたように思うというのである。また、掩護戦闘機隊の報告中、敵は二隊にわかれていて、一隊は長官機を、もう一隊は参謀長機を専門にねらっていた。さらに、その各隊内では、零戦隊の攻撃には全然対応しようとしないで、陸攻だけを追尾する機が二、三機いた。これから考えて、陸攻撃墜専門の配置が決められていたように思う、というのがあった。

〇 疑点第三

飛行機が地上基地を襲撃する場合、その侵入方向は太陽を背にするか、基地レーダー(この場合、ショートランド島のレーダー)のブラインド・ポイントを利用する方向からはいってくるのが常道である。

ブインへ侵入して来る敵機は、午前中はこの原則に従って、かならず南東方から入ってきたが、この日にかぎって南西方から入っている。しかもこの方向にはモイラ岬の見張所もあるのだから、これは単なる基地攻撃で偶然陸攻隊と行き合ったとは考えられない。

以上は、いずれもこの敵機と元帥機との遭遇が、たんなる偶然でないことをしめしていて、暗号の解読か、諜報による「企画された攻撃」と考えられるのである。

〇 疑点第四

元帥一行の各基地発着の予定時刻を知らせる電報は、陸軍および海軍のそれぞれ異種の暗号、それも暗号強度のちがう各種の暗号で、この方面の各基地に転電されていた。これは、暗号解読の絶好のキーを敵にあたえるものである。

2、電報について

巡視予定の電報〔A〕には期日をX日としてあって、X日が十八日であることは、前日の十七日に別の電報〔B〕で打ったはずである。また長官の搭乗機、および掩護戦闘機隊の機種、機数などは、別電〔C〕であったと思う。

というのは、電報〔A〕はGF参謀長が打たれる要務の性質をもったものであり、電報〔B〕は南東方面艦隊長官から搭乗機および掩護機の派出部隊に出される兵力派出の作戦命令電報であるから、戦務上からも別電であるべきだからである。もっとも〔A〕の電文中にカッコして、機種、機数が挿入されていたことはありうることだし、ある部隊が関係電報〔A〕〔B〕〔C〕を一つにして、他へ転電したかも知れない。そのへんのことは忘れてしまった。

しかし、もし〔A〕〔B〕〔C〕が別々の電報とすると、十七日中にこれらすべてを解読した米軍のブラックチェンバーは、大変な功績だったといえよう。しかし、主将の巡視日程のような重要なことを、数日も前に電報したわれわれの戦務上の過失は、重大といわざるを得ない。

終戦後、私はコーストウォッチャーの記録を読んだ。コーストウォッチャーとは、豪州海軍が戦前からパプア、ソロモンに居住する民間人で組織していた諜報部隊のことである。その記録の中に、ブイン、すなわちカヒリ北方の小山の中に、有名なメーソンというコーストウォッチャーがひそんでいて、ブイン基地を発着する日本軍航空部隊の行動を、ことこまかに電報していた。

その電報はいつもホノルル放送系の強力な電波で、ガダルカナルの司令部に通報されていた。

この通信のおかげで、ガダルカナルの連合軍は、レーダーよりよほど早く敵機の行動がわかり、邀撃態勢に万全を期すことができたし、被害を最小にくいとめることができたと書いてある。また、イサベル島のレカタ基地の日本軍指揮官は、一人の原住民の青年をとても可愛がっていた。日本語を教えたり、食べ物や日用品をやったり、自分の私室へ入ることすら自由に許していたが、その青年が実はコーストウォッチャーの下部組織で、日本軍の情報はすべてレンドバの司令部に報告されていた。

レカタ基地というのは、ショートランド水偵隊から出された派遣隊の基地で、ショートランドからは、ほとんどすべての情報が通報されていた。したがって、コーストウォッチャーにとって、警戒厳重なショートランドよりも、レカタのほうが情報のとり易いお得意先だったにちがいない。私も乱数暗号がそう簡単に解読できるとは思わない。しかしムンダでの経験、ガダルカナルのねずみ輸送の失敗、山本元帥機の邀撃等々から考えて、暗号解読以外にないとかたく信じていたが、戦後、米軍が暗号を解読したのだと発表したにもかかわらず、私は逆に、それよりもカヒリ、レカタ、ムンダなどにいたコーストウォッチャーが一役も二役も買っていたのではなかろうか、と疑いを持つようになった。

(四)ひと筋のけむり

山本元帥の御遺体の捜索状況は、草鹿中将がくわしく書いておられる。モイラ岬の沖合に不時着水して、手くびに重傷を負いながら無事救出された宇垣参謀長には、長官のご最期を知らせるべきかどうか迷ったが、協議の結果、お知らせすることになった。そのとき参謀長から、事故にかんする電報の制限と、電文中に長官は()、参謀長は()として書け、というような、通信戦務上からも、きわめて重要な指示があって、さすがにと思ったことを覚えている。

その後、昭和十九年には、私は宇垣中将の作戦参謀としてご指導をうけることになるのだが、いまでも奇しき縁という感が深い。お通夜の席で渡辺参謀からうかがったのだが、山本長官は一人だけ、焼けこげた機体から少し離れたところで、ジャングルでは珍しい芝生のように見える空き地に、飛行機の座席にあったカポックのクッションを枕にして、両手で軍刀を握った姿勢で、静かに横臥して居られたという。一見したところでは、事故直後は生きておられたのではないかと思ったという。私は戦闘機乗りとして、数多くの無残な墜落現場を目撃しているが、このようなことは本当に奇跡だと思う。翌二十一日に、根拠地隊で告別式をし、飛行場の北西方にある旧プランテーションの一隅で、検死のち荼毘に付することになった。かねがね元帥は、渡辺参謀に、「俺が死んでも検死は無用」といっておられたそうであるが、規則でもあり、かんたんな検死が行なわれた。

検死の軍医官は三名で、その結果、二発の機銃弾がそれぞれ元帥のコメカミと肺部を貫通していて、機上で戦死されたことは確実とのことだった。最初に元帥の棺に火をつけたのは渡辺参謀だったと思う。時刻は一一時頃だったろう。その日は、炎熱の地であったのにかかわらず、私の記憶では冬の小春日和のような、暖かいという感じの、どんよりした日だったような気がする。そして、今でも目にやきつくように残っているのは、元帥の棺から一筋の煙がまっすぐ、まっすぐ、どこまでもまっすぐ天まで昇って行ったことである。私は、名将の最期は常人とはちがう、と深く感じたのだった。

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