八、ロタ島を守りて
吉野 義雄
(一) ロタ視察中の敵来襲
昭和十九年五月下旬、私は、海軍艦政本部部員として、北海道に出張、造船用木材調達打合会議に出席中、東京より緊急電話があり戦地勤務の発令を受けた。会議を他に委せ、急いで帰京した。第一航空艦隊司令部に転勤することとなり、羽田より飛行機で着任。テニアン島の角田長官、三輪参謀長等に激励され、物資調達補給の兵站長と、かねて副官の職に就いた。
司令部はテニアン島ラソー山の丘の上で簡易折り畳みベッドに天幕という近頃流行のキャンプ生活。ドラム缶に水を入れて、牛車で運ぶという状況で、露天炊事、ドラム缶風呂、雨水を飲む。しばらくはなれるまで下痢する。無線機は洞窟に入れ、防空壕は露天堀。潅木すけて見え、全く戦場生活の簡素さ。作戦首脳部に対して申訳ない。せめて食べるものに不足させないようにしたいと心から念じた。現他生鮮食料品の自給体制確立の命令を受けて、これを急いで実施するため、南洋興発株式会社の社員に、現状を聞いてロタ島は、水が豊富で牧場もあり、野菜、魚等も調達できると聞いて長官に御願いして六月十一日、テニアン飛行場から朝早く出発、四十分位で南方ロタ島に着陸した。部下の食料担当の准士官は、ロタ島の負傷者手当のため乗込んだ医師のために座席をゆずり、明日来ることを約して飛行機から降りてしまった。
これが彼と永久の別れとなって、彼はテニアン島で玉砕した。私は、牧場を見て帰り道、敵グラマン戦闘機の空襲を受けた。高射砲及び機関銃が一斉に火蓋を切った。熱帯の暑い十時過ぎ、紅焔に包まれ黒煙を吐いて、真青な海に墜ちる敵機、あとは静に波。キーンという金属音を立てて体をかわしながら銃撃したばかりであった。
十一月の空襲は、敵航空母艦より発進した艦載機で爆弾投下もやり初めた。マリアナ諸島のテニアン、サイパン、グァムの三島を襲撃した敵太平洋艦隊が来たことはあとから判った。私はグァム、サイパンと廻って、十四日テニアンの司令部へ帰る予定のところ、輸送機損壊して、以後の計画は中止した。
十二日、ロタ島の陸上建物は一切焼尽され、部隊はかねての洞窟近くの陣地に移動奪戦した。戦死者を厚く葬り負傷者を収容した。麻酔薬のない外科手術、軍医も傷者も気をはりつめ、見る者の心胆を寒からしめた。十三日、敵艦船八百隻、ロタ島に接近、愈々敵上陸かと覚悟して配備に就く。トラックに兵員を乗せて真黒な道をライトもつけずにつっぱしる。フト空を仰げば星が満天に宝石のように様々の色の光を放ち大小強弱の輝きを見せている。キラキラと降る雨のようである。これらの星は、人間の愚かなる行動を笑っているように見える。泣いているようにも見える。甘藷畑の向うに黒い固まりが見える。もう敵の斥候が隠れているかと凝ったりする。樹の大きい根に足をとられ、枝に顔を打たれながら歩く。この暗闇の中を縫って、握り飯の配給、梅ぼしに紅しょうがの食なれど、ただありがたく涙がこぼれる。
警備隊のO大尉、歴戦の魂、筋金入り、その眼、その鬚、腰の軍刀をしめて、古武士然たる風貌は部下将兵を安心せしめている。紅顔の青年中隊長、命令は厳然明決なるも、気をはせり、将兵に落着きを失はしめる。海軍警備隊の分遣隊は、砲数門、機鈍、小銃程度、飛行機整備の整備兵は、入港早々乗船艦爆せられ、港内を泳いで上陸した着のみ着のままのものばかり。港にはその船が物資を積んだままマストを出して坐礁している。飛行場あれども、飛行機まだ来ていない。飛行場設営の軍属をも合せて二千人位であった。
陸軍は一ケ中隊の歩兵と一ケ小隊位の工兵で八百人位。戦車なし。敵上陸部隊を撃退するには、装備微力であった。この装備の状況は落着いてから各部の連絡で判ったので、当日は各隊予めの海岸線に配置したのであった。
(ニ)遙かにみるサイパン、テニアンの戦火
十四日、ロタ島二○○米の高地から、遙に北方を望めば、薄青くかすんでいるサイパン島、テニアン島が見え、その周囲に昨日の船団が東西に並んで大軍港を遠望するようであった。十三、四日と船砲射撃の響は、万雷の轟くが如く、飛行機の爆撃の煙は、噴煙の昇るが如くであった。特に夜間の花火の如き砲撃は、その下にある島の苦闘を想像するに余りあった。
十五日、サイパン島に敵上陸。ロタ島の洞窟の無線機によって、日米両軍の激闘は、烈しい怒号と命令、攻撃突撃の感声が英語日本語入り乱れて入ってくる。空と海から攻撃され、陸から数倍の米軍を迎え、我がサイパン守備の陸海軍部隊の苦悩は、補給を断たれて一層厳しいものがあったと思う。
七月上旬に敵はテニアン、グァム両島に攻撃を続け、同二十一日グァムに、同二十三日テニアンにそれぞれ上陸した。
テニアンの私の上官である角田長官から、私に対して司令部はフイリピン、ダバオに転進する計画があるから、ロタ島の補給のため着陸した日本の飛行機に出来れば便乗してダバオに行くよう、無線連絡があった。私は飛行場に六月十九日連合艦隊の航空母艦から発進した海軍機が二、三あったが、戦闘行動に差支えがあるのでこれに乗れず、ロタ島に残った。
私の所属した第一航空艦隊は、広大な太平洋の空の護りで敵艦船の偵察、輸送船団護衛、敵艦攻撃、島の防衛等々の任務を有していた。基地を陸上の島におく艦隊で連合艦隊の航空母艦の艦載機と共同作戦して、敵を包囲撃滅せんとする大切な部隊であった。然るに隣の占領された島、サイパンから攻撃も加わり、テニアン島も八月に入り玉砕した。
幾多の勲功に輝く海の勇士あたら英雄達を南洋の炎熱の太陽のもと、撃つに弾丸なく飲むに水なく、喰うに食なく、着るに衣なく、休むに暇なく、他に援けを求める術もなく、きらめく星をたよりにジャングルを辿り、責任の重圧に耐え、戦局を憂い、祖国を思い、君恩に感謝し、妻子父母を夢に浮べ、軍人として戦の勝敗は覚悟していても、現実に目前に死に直面した時の煩悶は、何事にも耐えがたい。軍人たるの本分に徹し、己を乗り越え、己を克服してのこの精神、これぞ武人の譽として、我等匹夫を奮い起たしめるものである。武運これまでと訣別の電報を打つ。その電文を読んで感泣せぬものはない。グァム島の部隊(海軍航空隊)長の勇壮なる最後電文は、男子の本懐ここにありと深く感動した。勝戦には、一局部の失敗は、糊塗せられ、勲功嚇々として、国民賞賛の嵐に胸を張り、手を拳げてこれに応える。勝戦の戦記には、英雄豪傑、軍神恩神、神出鬼没、快刀乱麻、痛快この上もない。然るに、幾多の武勲に輝ける将兵の最も悲惨な極限に立たされ玉砕した方々に対して、その遺族の嘆き悲しみを、気にはしていても、国民挙げて、その英霊の昇天を大々的に顕彰する気待がないのを、真に心から嘆き悲しむのである。
(三)ロタを死守せよ
戦局、硫黄島から台湾沖海戦、フイリピンへと移りて、ロタ島は敵上陸の危機を脱したかに見えた。連合艦隊からは、マリアナ基地奪回唯一の基地として死守せよとの命があった。
毎日飛行場の穴うめ、地ならしをやり、毎夜整備完了の電報を打って友軍機の着陸を待った。一度の補給物資もなく、通信便もなく夏草茂る飛行場は、僅に滑走路のみとなった。昼は海岸線に、坑道を堀り、銃眼を設け、夜は甘藷作りに精出して何時発つるともわからない我が運命に黙々と働いている。栄養失調の兵士あり、明日の運命に神経衰弱となるものあり、毎日の空襲十数回に及ぶ。若い陽焼けした顔に、赤い鬚を生やし、白いマフラーを首に巻いて、飛行機から身を乗り出して下を見ている横柄の米国機の搭乗員を見る。霧のように、つき刺さる音を立てて射ちまくる銃撃、水平に飛び来る機銃弾、焼火箸の列をなして光る夜の曳痕弾、夜半に上陸をほのめかす吊光弾等が、しばしばであった。岩を枕に上衣を蚊除けに頭に巻きつけ、防暑服の軍装のままゴロ寝する。爆音に耳をそばたてつつ睡眠する。間断のない空襲。B29の大爆弾で山も森も大崩れとなる。夜島を回りながらの行う艦砲射撃で、岩に炸裂する砲弾、全く神経衰弱を狙っているかとも思う。
友は撃たれた。土葬にする。暗夜珊瑚礁の地面を三○糎位堀り、屍体を横たえて土を盛る。大雨に洗われて露出することがある。鬼気迫る夜半、亡骸を横において、穴を堀る時、空にはまたたく星無数、その天然の美を打ち破るは、褐色の灯火をつけ、音を立てて飛びかう敵機である。
昼間、友の墓地を詣でて静かに、ジ−ツと足許を見る、オー何と無数の虫供、土中に動いている。雨と光に恵まれて成長する樹木草木、その通りに成長する虫供、人間の愚かなる行為を知らぬ気に動いている生命。ああ虫になりたい。虫ならば弾丸に当らぬから。月は、明るく照り昼の戦を忘れさせてくれる。月夜の海は、そよ風吹いて、日中の汗を去る。黒い顔も、みにくい地面も、明暗の白と黒のニ色に区分するのみ。南洋の島の乙女達も、夜の海の涼風に生き還り、月と星の光にすべて美女に見えて歌を歌い、踊り跳ね、楽器を奏でて恋を語る。宣なるかな。草木高く伸びて二米以上に達し、風ざわめいて、語りをさへぎる。恋を語るにも適すとかや。昼の殺伐に引きかえて、夜の憩いの一駒も欲しいが、敵中包囲の孤島では、土着人は二○○米の高地に移住した。海岸線の低地には、男ばかりの軍隊が配置されていた。金もない、女もいない、戦場の十五ケ月、人間は生と死との間に彷彿している。緊張と責任、防備と攻撃、毎日逐われ、食糧に狂奔する。原始生活のままの男性のみの熱帯の孤島の生活であった。
夜は明けて太陽の光りが鈍く照りかへして、また戦場となる。洞窟のもぐら生活では、色々の皮膚疾患にかかる。これを冶さんものと、空襲を冒して海中に入る。滑らかな珊瑚礁の岩洞あり、温水にして透きとおる海水、大陽の強い光が底まで達して、どんな名温泉もこれに及ばない。足の趾先まで見えて、大理石色に映える。あぁここに凝脂を洗うといえる昔の漢王の寵妃を浴みせしめたら、幾万の宣伝でポスターが生れんか。この水浴の夢破るものは空高く飛ぶ飛行機の思い出しの反転急降下掃射である。岩に身体をかくして射線を避ける。戦の庭にいつも油断はできぬ。
月と星を友とし、清らかな海を見て、僅かに心を慰やしている。南十字星は、南方水平線より三十度以上にも見え、北斗七星は、日本では北方七十度位に見たが、ロタ島では、北方三十度以下遥に薄く見え、祖国の上を思いやり、果つる時の判らぬ我が身の行未を考へなどし、戦の前途を気にしながら、流浪の生活は続いた。
日本本土では六月は梅雨のジメジメした時であり、この南洋の激闘苦戦は考へながらも気候のせいもあろう、明快勇断の決断もなく日は過ぎた。
十月末になりB29が、夕空に大鯨の浮ぶように六〇機〜八〇機〜一〇〇機と大編隊を組んで内地攻撃に向う。ロタ島から、この編隊の行動を連合艦隊に報告した。いずれもサイパン、テニアン、グァムの三基地からであり、この三島に包囲されたロタ島は、籠の中の鼠であり、この三島の猫があとからのご馳走のつもりで、もて遊んでいるような恰好である。
二十年に入り、内地空襲の焼け跡の写真入りの降服勧告の文書が飛行機から落された。ボール紙の黒い爆弾の形をしたものを投下する。中に上記のものが入っている。軍閥の手先に踊らされるな。日本本土はかく空襲されている。早く降服せよと。
食用かたつむり、やしガニ、バナナ、タピオカ等々食べものは次第に考へ出した。蛇もいない、マラリヤもない。水も豊富で、甘藷畑に水を通す水道が飲料に利用され大いに助かった。
(四) 孤島の終戦
籠城十四ヵ月目の二十年八月十五日、一日として欠かさなかった空襲の例を破り、飛行機は低空を飛び、爆弾をもっていても落さない、機銃掃射もしない。山に登って海を見れば、馳逐艦四隻、海上に停止して小さい大砲を空に向けて射ち上げ白煙を出している。演習かと思った。十二時過ぎ東京から長い電報があり、むずかしい言葉の詔書であった。特殊爆弾で敗けたという。そんなニセ電報は信用しない。問合せ確認の電報を打った。うそでないという。全員気抜けして張つめた気分が挫折して希望を失う。同年八月二十四日の米国駆逐艦上での予備交渉のことについて敵機は飛行場に通信文を投下した。同じ九月二日駆逐艦上で日米代表が正式調印した。生命以外は米軍に属するという。その無条件降伏文書に抗戦を唱へるもの、軍刀を試し切りするもの等あり。陛下の終戦の詔書を伝えて平穏に事を運ぶ。
九月三日早朝、武器を集め、全員は所定の場所に集結した。二八○○人、空には多くの飛行機が爆弾をかかえて飛び廻り、海には艦艇多く取り巻き、陸上に、土人を先頭に、ジープに武装兵が乗り、後から戦車が続いて取りまいた。海兵隊が両側に並び、戦車の間を武装点検され、船に乗る。夕方までかかった。すべての身廻品まで島に残されて、身体のみ船に乗る階級の上のものの軍刀を喜んで戦利品としたという。何処でも、戦利品ほしがる気持は、古今東西皆同じ。夕方雨降る中を上陸用舟艇は、南方に向け走る。グァム島に翌九月四日朝、煌々と電光輝くアブラ港に入港した。
浮ドック上に航空母艦あり、艦船何百隻、陸に上れば、水陸両用戦車、大砲、建設資材、食糧品の山、飛行場に各種の飛行機、所狭いまでであった。
収容所の天幕生活が始まり、朝七時から夕方六時までの農場作業その他が続いた。「のみ」と「しらみ」のもぐら生活だと云って、水道の水で全身を洗い、DDTをかけて、全部米軍の服装と取換えさせられ、最後の一品たる衣服をも一切棄却した。やはり降伏文書のとおり生命以外の一切の物は米軍に属した。
作業は暑い場所であるが、風はよく当り、始めは日本からグァム島経由で米本国へ帰った内地にいた米捕虜の悪宣伝の為に虐待されたが、次第に極めて好い待遇となった。飛行場作業から帰った兵員達が、米国の雑誌、新聞等を持ち帰り、私達に見せてくれた。
一九四四年(昭和十九年)のその雑誌に既に日本本土上陸作戦の構想を書いて、第一段に鹿児島県の有明湾に上陸して鹿屋航空基地を中心に攻略する。そこから北九州を襲うと論じている。
第二段には千葉県九十九里浜に上陸して霞ヶ浦航空基地を中心に攻略する。そこから東京を襲うとあった。また、日本降服後の政策を論じて、天皇の不可思議の力を論じて閥侵略の根源たる天皇制を廃止せよという。この理論は蒋介石支援派に多い。他方その力を利用して日本を降伏に導き叛乱が起きないようにせよという論があった。結局後者が日本占領政策に採用されたと考えられる。
収容所の生活には、夜はトーキーの映画を見せてくれ、二十一年四月からは、労働の賃銀を支払うことになった。これも階級に応じて、金額を異にしていた。米国はジエネバ条約の捕虜取扱に関する規定の遵守国であることを示した。一方では戦犯を処理しながら割切れぬものがあったが、ロタ島で二十年一月陸軍大尉の搭乗機を撃墜した。同大尉は落下傘で降りた。
生捕にせんとしたが、ピストルで抵抗した。海上から軍艦が来てボートを出して救出せんとしたので、生捕できず、やむなくこの搭乗員を撃ち、彼は戦死した。これがグァム島で詳細に審問され、屍体埋没状況の現地確認まで立会はされた。結局戦闘行為であることを認め、一人も戦犯にならなかった。これらは確に文化国家として賞賛すべきである。収容所生活十四ケ月目の二十一年十月末になり、帰還のため小さい海防艦が来るようになり、順次に帰り、私も二年半ぶりで、帰還艦に乗りグァム島を出て、ロタ島の西を通った。
ああ涙の島、戦友の屍を残して去る。忍びない。次に北方テニアン、サイパンを望み、無念の涙ハラハラと出る。米機のみ、その島から飛び立ていった。
(五) 感慨の祖国へ
久里浜の山は語らず、横須賀の海は黙している。東京湾に風吹いて寒さを感じる。熱帯生活三十ヵ月、お互いの黒い顔と顔、苦悩の戦場生活を経験し万感交々胸に迫る。もう国民に語ることはない。収容所生活中に米軍とかけごとして儲けたドル紙幣を服の裏、靴の敷皮、褌などに縫いこんだ者達も、復員消毒所で一切のもの一片の布片も押収されて復員服に着替えさせられ、ドル紙幣も何もかもグァム島のものは米軍のものと、あらためて無一物となる。
前に、ロタ島を出て無一物となりグァム島で米海軍の服を着た。今久里浜でその服を脱いで復員服を着る。かかる変転以上に日本国民は震天動地の大変動の中にあったのだ。
もう何も語りたくないが、遺族並びに当時の戦友たちの思い出のために本文を認める。今や月日は流れて二十五年、島は樹木に蔽はれ、草木繁茂して昔の跡もないであろう。英霊の遺骨など求むるも得られないであろう。洞窟も入口見当らず、大雨に水が入って何物もないであろう。とても入れるものではない。
併し、骨はなくとも、遺品がなくとも、英霊は護国の神としてあの島々で散華した。無念の涙に耐え切れなかったであろう。武士は戦争の際には護国の大任を果さねばならない。理屈はない。ただ大元師陛下の詔勅を奉載一億総動員だ。いはんや職を軍に奉ずるもの、固より身は鴻毛の軽きに置き、君の為、国の為、光栄ある帝国海軍七十余年の伝統を承けついで、忠誠心に燃えて働いた。
今ここに現代の世想と比ぶれば、割切れぬものが感ぜられる。しかし時代を離れては、事は割切れぬ。あの時は、あれでよいのだ。立派な軍人の亀鑑であった。現在も護国の英霊である。決して無でない。その精忠無比は、児孫に伝わり、日本国家の復興の礎となっている。ここマリアナ群島のサイパン、テニアン、ロタ、グァムの熱砂密林の島々に血を流し、骨を埋め、幾千米の深海に艦船と共に沈める海軍及び陸軍部隊の軍人軍属の英霊に対し、謹んで哀悼の意を表する。
太平洋の海も波も、雨も風も、島々の花も木も、鳥も虫も、空の星も月も、白雲黒雲天地万象相共に、平和の礎となった英霊に慟哭してほしい。いな、すべてのものは慟哭しないでおられない。
ここに英霊に対し重ねて哀悼の意を表する。
この「ロタ島を守りて」がせめても、御遺族に対してお慰めともなり、戦友の思い出ともならば私の満足の至りと感謝する次第である。