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五、海軍生徒等の終戦処理

宮 本 鷹 雄

終戦時私は海軍教育局に籍を置いていたので、たくさんの終戦処理をしなければならなかったが、その中寝食を忘れてもと真剣に取組んだことが二つあった。

その一つは海軍生徒の世話であり、あとの一つは復員者の再就学の問題であった。

終戦になったら勿論海軍はなくなるだろう。陛下の地位はどうなるかわからない。吾々の処遇もまたどうなるかわからない。然し私も他の海軍士官と同様に二色の赤色の劇薬を内ポケットに秘めて自ら処刑する方法を用意していた。終戦時の考えとしては無条件降服は或は止むを得ないとしても、なんとかして仇討ちをしなければな

らない。それは何時の日か、どんな方法かは今は見当もつかないが古い吾々を乗越えて、後輩或は子孫にお願いするより方法がない。

それには身近にある海軍生徒等の処遇に全力を注ぐのが第一と考えた。

(一)海軍生徒の処置

八月十日頃終戦に関する内意が察知された。その前後のことは記憶していないが、このまま無条件降服にでもなれば純情一徹の海軍の生徒はどんな行動に出るかわからない。何としても終戦発令以前に処置しなければならない。このため海軍生徒の各学校長を招集しようと決心し教育局長にその旨願い出た。実際問題としては、各学校の教頭を集めて次のように指令された。

(1) 生徒には直ちに夏季休暇を与え皈省させる。

(2) 機密書類を除き、書籍、衣服、食糧は各自に携行させ、金も所定の額を持参させる。

(3) 戦争の推移により必要あるときは、教官を県庁所在地に派遣して連絡する。それ迄は家庭にあって待機させる。

此の指令後において一部の学校で生徒が皈省拒否をやりトラブルを起こしたところもあったが、概ね終戦頃迄には皈省して家庭で待機していたことと思う。従って復員等の処置も後日教官を派遣して大過なく終えることが出来た。当時関係者の一人として本当によかったと思っている。

(二)復員軍人の再就学

海軍軍人特に若い軍人の復員後の学校教育については非常に懸念されておったが、昭和二十年九月頃、文部省、陸軍省、海軍省から担当官が各一名定められ、夫々補佐官を含めて約十名位が文部省の一室に篭城して研究処置することになった。文部省からは当時の大学専門局長、後に文部大臣になった剣木亨氏、陸軍は教育総監部の臼井大佐、海軍は私が担当させられた。

一口にいって文部省も戦争中は陸海軍のいうことはご無理ご尤もとたいていのことは受入れていたらしいが終戦後ともなるとそうはいかない。例えば海軍の予科練出身者は中学三年修学者として各中学校の四年生に入学させる、兵学校二年修業者は高等学校の三年生に入学させる等軍人として身命を賭して戦ったのだから国家的見地

からも優先的に之を認めるのは当然であると熱心に主張した。篭城すること一ヶ月有余を過ぎたが文部省側としても、各種学校の収容能力、戦災による文教施設の焼失、終戦後嵐のように吹きまくって来た排軍思想等の影響で、吾々が作った草案も出来ては壊れ、積んでは倒れ、なかなかものになりかねておった。しかし、当時の政府首脳の理解もあり遂に十一月初旬に閣議決定となり、一安心した。

終戦後二十幾年の今日、当時の若い軍人が復員後概ね各希望する学校に入学或は復学して現在社会の第一線で活躍する有様を見、本当によかったと感慨深いものがある。この処理が終った十一月末に私は復員した。

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