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一、自衛隊と昭三会の自衛官

杉 江 一 三

() 自衛隊創設と成長のあらまし

昭和二十五年六月二十五日北鮮軍の韓国侵入により朝鮮戦争がはじまった。七月マックァーサーは警察予備隊七万五千名創設、海上保安勢力八〇〇〇名増員を日本政府に対して指令した。

同年八月発足した警察予備隊は本部と総隊総監部以下の部隊からなり、四管区隊と管理補給隊が兵力の主体であった。管区隊(師団相当)は普通科(歩兵)連隊三、特科(砲兵)連隊一、その他衛生大隊、施設(工兵)大隊等で編成された。旧陸海軍の将校ははじめ入隊の資格はなかったが、二十六年六月から陸士、海兵出身者が採用されることになった。

海上保安勢力の 増強は海上警備隊として二十七年四月に発足した。海上警備官約六〇〇〇名の定員であった。総監部を東京におき、地方監部を横須賀、佐世保、舞鶴においた。艦艇は米国から貸与を受け、二十八年一月以降一、五〇〇トン級フリゲート鑑一八隻、二五〇トン級上陸支援艇五〇隻が逐次引渡された。

二十七年八月保安庁が発足した。国務大臣たる長官の下に内部部局と第一()第二()の両幕僚監部をおいた外保安研修所、保安大学校、技術研究所等の附属機関を持った。保安隊の設立によって治安維持のための陸海の部隊は出来たが、外敵侵略に対処する防衛力を整備する必要が論ぜられるようになり、国内各政党間の調整、対米折衝等の曲折を経て、二十九年防衛庁設置法と自衛隊法が制定された。陸海の部隊に加えて航空自衛隊が創設され、自衛隊はわが国の独立と平和を守り国の安全を保つため直接侵略に対してもわが国を防衛するものとして新しく発足した。

昭和二十五年警察予備隊が出来てから十九年、昭和二十九年自衛隊に改編以来十五年に、防衛力斬増の方針に従って緩徐ながら防衛体制は整備されつつある。

昭和四十四年初頭の各自衛隊の現勢力は概ね次の通りである。

陸上自衛隊

主力部隊は五コ方面隊で、十三コ師団が基幹となり、特科団、空抵団、施設団、戦車群、通信団、教育団などが一乃至数コ含まれている。外補給部隊、学校、病院などが各地にある。自衛官約一七万名、戦車装甲車約一三五〇、火砲等約五〇〇〇、航空機約三〇〇、ホーク(近距離防空ミサイル)二コ大隊

海上自衛隊

自衛艦隊は護衛艦隊、航空集団が基幹で新鋭国産護衛鑑約三〇隻、対潜航空機約一〇〇機を有し、外に掃海隊群、潜水隊群、補修輸送部隊を持っている。五コ地方隊が旧海軍軍港地に総監部を置き近海を警備している。自衛艦隊の外に教育航空集団、練習艦隊、補給関係部隊、学校病院等が附属している。自衛官約三七、〇〇〇名、艦隊を含めて艦艇総数約二〇〇〇隻約一四万トン、航空機約二三〇機

航空自衛隊

航空総隊は北、中、西、の三コ航空方面隊からなり防空戦斗機、ナイキ高射群が主力をなしている。外に飛行教育集団、輸送航空団、保安管制気象団などがあり、学校病院補修部隊等が附属している。

自衛官約四万名、戦斗機偵察機約五七〇、その他の航空機約五〇〇、ナイキ七〇基。

() クラスの自衛官

警察予備隊発足以来、その主要幹部として旧陸海軍の将校が採用され、隊の創設育成に大きな貢献をしている。予備隊では先陣が浦部君次いで土井君、海上警備隊では三上、魚住、福田君が草分けで久保、清水、飛田、横田、蔵富、杉江の各氏が続いて入隊し、航空自衛隊は発足時藤原君が入隊している。

以下後来の参考のため、各氏の経歴の概要を書き留めておこうと思う。

( )陸上自衛隊

 

浦部聖君

昭和二十六年六月一等警察正(大佐相当)として入隊、同年十二月総隊総監部調査部副部長として活躍、二十七年八月久里浜にあった総隊学校の教育本部長として陸上自衛隊初期の教育に力を尽し、二十九年七月陸将補に昇進した。クラスの将軍第一号である。その頃北海道帯広の第五管区副総監(管区はのちに師団と改称されたから副師団長に相当する)に就任している。三十年十一月同じく千歳の第一特科団長になった、即ち砲兵師団長である。海軍時代から海軍砲兵中佐の異名をとっただけあってこの仕事も難なくこなしている。三十三年五月伊丹の第三管区副総監、三十四年八月土浦の武器学校長となり、陸上自衛隊武器関係の教育と開発に並々ならぬ手腕を発揮している。陸上自衛隊でも彼れ本来の面目を発揮して名物男の一人であった。三十六年十一月五十五才の定年で退職した。

 

土井泰三君

二十七年七月入隊、浦部君のあとを受けて第一幕僚監部調査部副部長に就任した。インテリジェンスの中枢幹部として縦横に活躍すること三年余り、三十年十一月陸将補に進級して旭川第二管区副総監になった。豪放の土井君は熱血の浦部君と時を同じうして北辺の防衛に当った。三十三年五月又も浦部君の後任として北海道千歳の第一特科団長となった。三十四年八月第一管区副総監となり関東警備の重責を果し、三十五年八月静岡県の富士学校副校長として各科幹部教育の衝に当った。浦部君と同じく海軍出身でありながら陸軍出身の将軍に劣ることのない成績をあげたことは驚異の外ない。三十七年六月定年で退職、陸将(陸軍中将に相当)に進級している。

 

( )海上自衛隊

三上作夫君

二十 七年五月海上警備隊発足と共に一等警備正として入隊し、草創の事業に当った。二十八年一月第一船隊司令となり米国から貸与された一、四五〇トン級のフリゲート艦四隻の指揮をとり訓練や災害援助等に活躍した。その後第二幕僚監部の警備課長を経て、二十九年七月統合幕僚会議事務局第三班長に就任した。旧軍令部参謀本部の第一部長を合わせたような配置である。三十年十一月海将補に昇進した。クラス最初のアドミラルである。三十二年八月第二護衛隊群司令(水雪戦隊司令官と似ている)となり、三十三年十月海幕防衛部長に転じ海上自衛隊の防衛及び訓練の

元締の重職を勤めこと二年有半、三十六年二月練習艦隊司令官となり同年六月から九月にかけて遠航部隊を率い新任幹部約一五〇名の実習のため米国西岸メキシコ中米方面を行動した。同年七月海将に昇進している。同年九月護衛艦隊司令官、三十七年七月佐世保地方総監(鎮守府司令官に相当)三十八年七月自衛艦隊司令官、かつての連合艦隊長官に相当する海上武人としての最高の栄職に就いた。海上自衛隊創設の第一歩からその育成に努め、重要な配置を歴任して輝かしい功績を残し四十年一月退職した。

 

魚住順治君

二十七年五月三上君と共に第一陣として入隊した。横須賀地方監部技術部長として草創時代の困難な状況下で艦船兵器等の整備を指導した。三十一年八月海将補に進級。三十二年五月江田島の幹部候補生学校長として防衛大学校及び一般大学出身者の教育に当った。三十三年四月田浦の第二術科学校長となり主として機関補給等の教育に従事、三十四年五月防衛庁調達実施本部の副本部長の一人として主として艦船、航空機、武器等の調達行政に従事し、三十五年八月海幕技術部長として艦政本部長兼航空本部長的の技術の総元締めとなって活躍し大きな足跡を残している。

三十六年七月海将に進級し次で佐世保地方総監に転じ西辺の防衛に任じ、翌三十七年七月更に呉地方総監となり、広汎な業務を指揮する一方潜水艦関係の発展に尽力した。海上自衛隊創設以来主として技術部門において活躍し大きな功績をあげたが、三十九年十一月退職した。

 

福田宗正君

二十七年五月入隊(一等警備正)、海上警備隊総監部の技術部管理課長、同年八月技術部計画課長として主として技術部門のスタッフとして活躍したが、都合により二十八年三月退職した。

 

久保清君

二十七年八月一等警備正として入隊し、函館航路啓開隊司令として津軽海峡方面の航路啓開(掃海)に当り、二十八年九月大湊地方総監部警備部長兼基地警防隊司令に転じ、北辺警備の計画実施を担当した。二十九年十二月佐世保地方総監部防衛部長、三十年三月同総監部総務部長となった。この間大村航空隊の用地買収から同隊の設立まで幾多の困難に遭遇しながら見事な手腕を発揮して立派に目的を達成した。三十一年二月大型対潜航空機の基地である鹿屋における第二航空隊の司令となり隊の創設に尽し、同年十二月かつて自らが設立に努力した大村航空隊の司令となり飛行艇部隊の育成に専念した。三十四年八月海将補に進級し五十三才の定年で退職した。

 

清水秀政君

二十七年八月入隊、舞鶴地方総監部航路啓開部長の職に就き日本海沿岸の残存磁気機雷の清掃に当り、二十八年十二月第三船隊司令となり海上部隊の実力向上に手腕を発揮した。三十年四月海幕防衛部の訓練課長に転じ海上自衛隊の教育訓練の中枢にあって大きな成果をあげている。三十一年戦後初の国産護衛鑑(一〇〇〇トン級)三隻からなる第七護衛隊司令として縦横の活躍をし、対潜水艦作戦の基礎を作ることに大きな貢献をしている。三十二年十二月海上訓練指導隊司令(司令部は田浦にある)として新造艦船や再就役艦艇の基礎術力の養成指導に当った。典型的な海将補。シーマンである。三十四年九月定年で退職した。

 

飛田 清君

二十七年八月入隊、一等警備正、横須賀航路啓開隊司令として広い担任海域の航路の安全を確保した。二十八年一月第二船隊司令となり第一船隊司令の三上君と共に海上主力部隊の錬成に全力を傾注し、今日の基礎を築いた。二十九年七月米国から大型駆遂鑑二隻が貸与されることになり、その回航部隊指揮官として二百名以上の隊員を率いて渡米した。戦後はじめての大事業で、言語や生活様式の違う異国での艦船の整備、基礎訓練、受領事務等はまさに難事業であったが、君の卓越した人格技倆と絶大な努力によって、数ヶ月の後無事受領を了し、旭日の艦旗をなびかせて米国東岸からパナマ海峡を通り太平洋を横断してわが国に安着した。その後海上自衛隊の主力艦ともいうべきこの二隻の隊の司令として教育訓練を指導すること数ヶ月で、三十年六月舞鶴第二練習教育隊司令に転じ新入隊員の教育を指

導した。三十三年十月退職。

 

横田 元君

久保、清水、飛田の三君と同じく二十七年八月一等警備正として入隊、呉航路啓開隊の掃海船桑栄丸(約二、〇〇〇トン)の船長を命ぜられた。主として磁気機雷掃海面の試航に従事した。この船は古い商船を改造したものであったが、残存機雷の有無を確かめるため掃海海面を試航するのだから極めて危険な仕事であった。二十八年十一月舞鶴基地警防隊司令となり日本海沿岸の掃海、警傭に当った。二十九年七月海幕掃海課長に転じ日本沿岸航路、泊地の機雷掃海の中央計画を担当した。三十年五月横須賀基地警防隊司令、三十一年七月舞鶴練習隊司令、三十三年五月防衡庁技術研究所の久里浜試験場長となり水中機雷一般の開発、試験を主宰した。三十四年十二月退職。

 

蔵富一馬君

二十七年九月、一等警備正で第二幕僚監部警備部調査課長に就任した。その後の経歴は別冊の追悼録に詳しいからここでは略す。

 

杉江一ニ君

二十八年十月クラス海上自衛官としては最後の入隊、一等警備正、保安研修所所員、二十九牛七月海幕総務課長、三十一年九月横須賀地方副総監、三十二年六月自衛艦隊幕僚長、同年八月海将補、三十三年一月幹部候補生学校長、三十四年七月第一護衛隊群司令、三十六年三月蔵富君のあとをついで舞鶴地方総監、三十七年七月自衛艦隊司令官、三十八年七月海上幕僚長、三十九年八月統合幕僚会議議長、四十一年四月退職。

 

() 航空自衛隊

藤原一郎君

二十九年七月航空自衛隊創設時クラスからただ一人入隊、航空幕僚監部装備部の装備第二課長として、航空自衛隊初期の整備部門において活躍した。その頃わが国最初のジェット戦斗機F86と同練習機T33の生産計画と実施に見事な手腕を発揮したことが特筆される。三十一年二月空将補に進級して航空自衛隊補給処長に就任し整備補給の中枢業務を担当し、三十二年浜松の整備学校長となり機体発動機車輛等の整備の教育に当った。三十四年六月東京に戻り資材統制隊司令として補給点検の中央責任者となった。業務能率向上のためその頃まだ珍しかった電子計算機導入を主唱し努力の末これを実現している。主として整備補給の面で航空自衛隊の発展に大きな寄与をし三十五年三月退職した。

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