TOPへ    戦没目次     その3

石川誠三君らを偲ぶ(その四)

     田中 宏謨(大官市)

奇襲決行日時は昭和二十年一月十二日黎明ときめられた。単艦で行動するならば自分ひとりの失敗もまだ許されるが、同時刻にバラオ、ウルシーまた遠くはアドミラルティー、ホーランディアと別れ分れて、夫々襲撃する港湾は異なるが、回天襲撃を行なうわけであるから、自分ひとりうまく行けば良いなど、とは到底安易に考えられない。同じょぅに水中深く潜航して、敵の基地に夫々肉薄攻撃を加えんとしつつある、他の金剛隊の潜水艦の失敗を招くような行動があってはならない、という緊張感が先に立つ。十一日朝、アプラ港湾近くなって敵艦船の往来は活発である。潜航中、水中聴音機は単独で走っているらしい商船のピストン音を払える。水中測的員に対しては申訳ないが、性能のよくない水中聴音機が捉えるのであるから相当近くを通り過ぎたものと思われる。完全に敵の制海圏下に置かれてしまったグァム島は、近くを往来する艦船について何の警戒心や恐怖感も感じられない。次第に北に追いやられて詰められてゆく日本の姿を思うと些か淋しさを感ぜざるを得ない。昼間は勿論ノロリノロリと潜航を続ける以外に手がない。穏密のためには電探を使うことも差し控える。

午前11時頃、もうそろそろ「グァム」島が見える頃だ、というので潜望鏡を上げて観測すると、遥か彼方に雲の流れるかの如くまどう「グァム」島が水平線上に浮ぶ。航海長の真山大尉は正確な艦位の測定に懸命である。

行動半径の狭い回天にとっては洋上の数浬のちがいも許されない。回天搭乗員に対して、正確な発進地点を与え、少しでも負担のかからないように出発せしめてやらねばならない。狭い艇内にあって、独りで潜航操縦する回天にとっては、全くの闇夜に羅針儀一つを頼りに突っ走るようなものであって、水面に露項して観測することもままならず、自ら航路を求めて港湾深く侵入することは容易なことではない。

夕食時、敵前の海中で回天搭乗員と盃をあけて最期の食事を共にする。誰一人、とくに仰々しく口にする言葉とてなく平常と全く変りはない。静かな落着いた雰囲気の晩餐である。ただ、平常は慎まされる酒だけが最期の別れを示している。このまま、予定通り実行されれば明朝の食卓をもう再び一緒にかこむことは出来ない。石川君より「もし、無事に帰ることができたら、俺の広島の家に届けてくれ。ガラクタはかりでとくにたいした物ではないのだが」と言われて大封筒をあずかる。彼が艦内で徒然なるままに筆をとった草紙が一杯つめられている。私も果してこのまま無事帰れるものやら覚束ないので、帰れたら、という条件で受取った。必ず持って帰れると別れに際して約束できない点が非情である。表紙の赤い公式の手帳は艦長に差出す。帰って艦隊司令部に差出すものである。

午後九時、近くを通る商船を見過して、その後を浮上して追うこととする。攻撃目的さえ違えばこんな商船は魚雷で確実にし止められるのだが。

午後九時四〇分頃、浮上。敵の陣営を目前に控えて最後の水上航走を決行する。成果は天運に委せるより他にない。長時間潜航で、艦内の鼠共もいき絶え絶えに通路に放浪するようなむさ苦しい艦内は、浮上するや一瞬にしてさわやかな空気に入れ代り今までの暑苦しい気分を和げる。攻撃準備の締め括りである。何が起ろうとも、ここまで穏密肉薄してムザムザ退くわけにはいかない。水上速力は半速七節。艦尾波が白く目立たないように速力を配慮する。当然総員配置であるが、航海長は艦位測定に全刀を挙げねばならないので、何の能もない砲術長の私が代って哨戒長を命ぜられ見張に努める。艦長は艦橋に在って、敵情判断に余念がない。敵船をみつけたら、本来ならば潜航避退するのだが、この場だけは、ただ前進あるのみ。

浮上後、直ちに回天の点検整備を行う。回天と言っても、ただの魚雷である。連日の長い塩漬けで、細い各部の器材が相当痛んでいるにちがいない。冷走するようなことでもあれば、せっかくの発進も無駄になり、犬死同然となってしまう。然し綿密な点検までには、敵前ではいささか無理であることは言うまでもない。浮上後13分にして、敵信傍受の通信員から、「怪しき艦船発見」をグァム島から連送している、と報告してくる。果たして、われわれの潜水艦のことを怪しき艦船というのか、その点は判らない。注意しなくてはならないが、今更どうすることも出来ない。

浮上中、通信および電測員は受信に全力を挙げる。潜航中は本国からの超長波受信のみに頼るより他に連絡の手はないが、これも場合によって満足に受信できる時と、不満足の場合もあり、せめてわずかな浮上中は全受信機を動員して内外の連絡発信を片っ端から受信する。そして少しでも連絡指示に水漏れがないように努める。

 艦隊司令部から九日の飛行機偵察による「グァム」島敵情報告を送ってきた。激しい艦船の動きの中にあって、すでに相当日が経っているので、役にたつかどうか疑問だが、われわれにとっては、来ないよりはマシの程度である。それによると大型輸送船約二〇隻、小型輸送船約40隻、それに浮きドック四つが港内の目星しい獲物であるということで、生命と引換えの割には中身の薄いのにいささかがっかりした。先の飛行偵察では輸送空母が入港し、九日以来如何に日が経っていることでもあり、その後空母が入っているかも知れない、と艦長や石川君らは期待を寄せもし、また、慰さめあった。石川君は輸送船に体当りするよりも、浮ドックに体当りしてこれを破壊した方が重要な輸送路として効果的ではないか、とも話していた。自分のこの小さい生命を少しで効果あらしめんがために最期まで真剣である。また、走るに臨んで、「写真偵察のもっと詳しい状況が知りたかった。大体、敵の防禦状況、港湾の状況をちっとも教えてくれることなく出撃させるとは、いささか無責任ではないだろうか。出せば必ず戦果が挙るんだ、というふうに簡単に信じて貰いたくはない。人力の尽せるところまで尽してこそ戦果があがる。」と書き残した。功を焦らんとする司令部要員に対する警句であり、彼の心中がよく判る。

 どうやら敵に発見されたらしい。表向きは何事もないように静かに眼の前に黒く身を横たえて深い眠りに落ちているかのようなグァム島も、中味はさに非ず、アチラコチラと気ぜわしく動いているらしい。一部の者はわれわれの異なる接近を知ってか、敵味方の識別もはっきりせず、戸惑っているのではあるまいか。油断はならない。浮上中、万一のことが起ったら、というので、早目ではあったが甲板上からしか乗艇することができない二基の回天に予め定められた予科練出身の搭乗員に乗艇してもらうこととした。後には改造されて、全基とも潜航中に艦内から交通筒をつたわって艇内にはいることができるよう便利になったが、当時は敵前で一旦浮上し、搭乗員は潜水艦の甲板上から回天の扉を開いて乗艇せねばならなかった。これは潜水艦にとっては辛いことであった。

 白鉢巻姿の二人の若々しい搭乗員は、艦橋に立つ艦長に向って、一度は見たい見たいと思っていたのであらう、天空を仰いで南十字星はどれですか、と尋ねたが、未だ南海の空には大きな十字の姿を表わさず、あれだよ、と指さすことも叶わず、本人達はその眼でここまで来て南十字星をもみることなく、「乗艇します」と、元気一杯の声を残して、暗闇の中を後甲板に据付けられている自分の回天の許に走り去った。

 明けて十二日、わが糎波の艦船用電探に敵電探の電波が強く受信される。グァム島ではこちらに対して二ケ所から電探索敵をしているらしい。敵港湾にも近くなっており、こんな所で敵の駆潜艇にでも出てこられたらいっぺんに簡単に捕捉されてしまうだろう。回天に二人乗艇せしめた後でもあり準備は万端整った、と言える。できることなら潜航して進出したい。

 潜水艦としては輻射した電波が敵に捉えられることを恐れて電探の使用は13号の対空にせよ、22号の対艦用にせよ避けてきたが、この際限りだけは陸上との距離を測るために使用せざるを得なかった。潜航に際して若し陸上との距離が思いも寄らず遠くてはいけないから、対艦艇用電探を使って島までの距離を測ったら、巨離32キロ、予定の17マイル地点であり、あとは潜航して前進することとした。潜航後、私は専ら回天と司令塔との間の電話連絡に当った。潜航中は敵から何の攻撃を受けることなく、案外平穏裡に前進し、約二時間余の後、午前三時、回天を全基発進する。すべてが計画通り実行されていく。グァム港内まで約一時間半航走すると四時半になり、南国の海はスッカリ夜が明ける。特眼鏡で海面から外を覗いてみてもはっきり分別できる視界に変る。このための午前三時である。一方潜水艦も逆に夜が明け初めるまで水上避退し、少しでも湾口から離れることができるし、補気充電して次に備える機会を得ることができる。

 石川君らは軍刀を携え、自鉢巻の凛々しい軍装に身を固め、回天乗艇に当って先ず司令塔に上り、かわるがわる潜望鏡でグァム島をじっと見つめ、頭の中に地形を呼び入れる。先に乗艇している二人の搭乗員とも電話で軽く挨拶を交し、艦長ら一同に最期の別れを告げて司令塔を下りた。残る者も行く者もお互いに取り立てて仰々しい挨拶もなく、ただ服装がちがうだけで平常とほとんど変りのない会話に過ぎなかった。寧ろ、残る者に対して、逆に元気づけられ、また必ず無事帰れるようにと祈られる場面も不(びん)である。国運を賭した戦争ならずしては見られない光景であり、またそれぞれ敗勢挽回を徹力ながら期待してこその訣別の心境であって、遠く昔吉野時代に奮戦した楠公父子の湊川の訣別の心境も大同これとほとんど変るところはなかったのではないでしようか。後世歴史家が史実を飾り立てて美しくしたことも事実でしょうが。潜水艦の機械室から交通筒をつたって甲板上の回天にはいる。「異状なし」回天の中の石川君から発進準備が万端整整った、という報告があり、ひとり回天の中にあって発進を待つ間

目ン無い千鳥の 高島田

見えぬ鏡に いたわしや

曇る今宵の 金屏風

誰の科(とが)やら 罪じゃやら

千々に乱れる 思い出は

過ぎし月日の 糸車・・・

と薄暗い、身体一杯の鉄の回天の中で口笛を吹いていた。誰にきかすのでもない口笛の響きが、電話器を通じて受話器を持つ私の耳に響いてくる。口笛を吹く彼の死に臨む泰然自若たる姿が私の眼ブタに浮ぶ。回天の中には彼以外に誰もいない。孤独である。潜水艦即ち外界との連絡は今私が手にしている電話だけである。いいたいこともあろう、したいこともあろう、しかし今ではもう何も言うことはできないし、することなど到底できない。ただ、甲板上より事故なく無事に発進して、アプラ港湾の中にはいりこみ、目指す敵の空母に体当り。私はこの口笛の音から石川君の虚心坦懐の姿、また心のゆとりに触れることができて、これならば四基の回天の先陣を承って立派にその務めを果してくれることは間違いない、と確信した。眼では見えないが、受話器から触れてくる石川君の態度には、他の三人の部下よ、者共続け、と言わんばかりの沈着さを知ることができた。いまさら、私の言葉もない。

 他の三基からは練習訓線時と同様の報告が、言葉少なに司令塔に届いてくるだけである。何とても(つつが)なく発進させてやりたい、という潜水艦乗員全員の気持が寄せられる中にあって、潜水艦としては回天の固縛を解く作業が進められてゆく。発進寸前に受話器を艦長の手に渡し最期の挨拶を簡単に交した後、また私の手に受話器を戻す。最後のバンドが外されて、石川君の乗る一号艇は四名の第一陣を承って「天皇陛下万歳」の奉唱と共に潜水艦を離れ、電話線が切れた。聴音はこの回天の推進機音を捉えて至極正常に発進して行ったことを伝えてきた。ホッと安心した。

 二号艇、三号艇、ついで四号艇も夫々潜水艦を離れて石川君の後について発進して行った。今や四基の回天はグァム港湾を目指して水中を進撃している。

 全基発進するや、潜水艦は直ちに浮上して、港湾より少しでも離れるべく避退行動に移る。大きな肩の荷が下りたような気がして、ホッと安心する。敵船に対して魚雷攻撃を以て立向うことも、安心してできる。四基の回天を発進することは実に大きな重荷であつた。浮上してグァム島を後にして航走すること約一時問、その間アプラ港内に変ったことも起っていない、敵飛行機が接近してきたので急速潜航した。浮上中にグァム島変事を確認できないのは残念であるが致し方ない。ひとり私のみならず、艦内全員の疲れが一度にどっと出た感じで、士官室の石川君らの寝台には今日限り主人は居らず前歯が二本共抜けた感じでうら淋しい。(たと)えは甚だ悪いが、丁度、大黒柱の家族を失ってその葬儀が終り、親戚知人一同が全部帰ってしまった後の、ガランとした淋しさと似ている。狭い艦内で、不自由を忍びつつ一緒に暮した約二週間は極めて短い期間であるが、私の人生としては最も長い印象として心にとどまるものでした。

 潜航後は回天の結果を目で確かめることはできないから、水中聴音機にとくに命じて回天の爆発音をきかせるが聞えない。湾内のことででもあるので、相当離れると無理かも知れない。五時半頃、回天の航続時間からみても全員突入した後である、潜望鏡を上げ遥か東のグァム島をみると、外界はもうスッカリ明るくなって、黒雲か黒煙か二条天にうっすらと沖するのが認められるだけで、これが果して回天四基の攻撃によるものかはっきり言えない。(終戦後、米海軍軍人から伝えきいたところによると、当時、カサブランカ型改装空母一隻と大型油槽船一隻が轟沈し、わずかな乗員しか生残らなかった、という)。

 その夜は十一時まで休養の意味を含めて潜航し、水中ですでに去った四名の冥福を祈ると共に遺品整理を行なった。石川君出発直前の記は次のようにあった。

 「決行期日に至る。搭乗員四人とも元気旺盛。アプラ港を震駭(しんがい)せしめんとす。月淡く星影疎にして一月初旬の大宮島眠れるが如き姿態を浮ぶ。誰か知る数刻後の大混乱を。大君の御為、命の儘にわれ等は来るべき所に来たり。

 人生二十有二年唯夢の如し。生の意義を本日一日にかけ、日米決戦の一奇鋒として類勢を一挙に挽回、もって帝国三千年の光輝ある歴史を永遠に守護せんとす。大日本は神国なり。神州不滅、われらが後には幾千万の健児ありて、皇国防衛に身を捧げん、いざ行かん。人界の俗塵を振り払い、悠久に輝く大義の天地へ! 出発四時間前記す.

 伊58潜は一路北上し、一月二十一日早朝豊後水道に到着した。金剛隊各艦は「ウルシー」に向った伊48潜を除いて、無事相次いで呉に帰港したが、第一次攻撃隊として行なった菊水隊同様、直ちに外部に口外することは相次いで計画される作戦の関係もあって差止められたので、私が石川君から預かった遺品袋も私の机の中に蔵いこまれ家族にお渡しすることができぬままに、次の硫黄島作戦に出発しました。そして硫黄島から沖ノ鳥島を廻って帰港して後、広島に在る石川君の御宅で渡すことができたのは日頃の私の負担をとり除き、幸いだったと思いだしました。

(なにわ会ニュース21号19頁 昭和46年2月掲載)

TOPへ    戦没目次     その3