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石川誠三君らを偲ぶ(その三)

     田中 宏謨(大宮市)

 回天特別攻撃隊金剛隊(第二次玄作戦)

 豊後水道を出るのは陽がとっぷりくれてから、これが昭和19年末から20年終戦に至るまでの、少なくとも伊58潜の常套手段でした。

 つい先刻まで乗員で賑わっていた甲板上には誰一人いない。後甲板にはマッ黒な鉄のカタマリが黒い夜空を(にら)むが如く、4基どっしりと架台の上に据わっている。大津島を出発したときのにぎわいも今はすっかり失せてしまって、艦は愈々決戦の時を控えて、冷たい星の輝くセミ夜にドス黒さを増すばかりでした。

 ほんとに腹から出る笑い、というものがない。冗談もない。特攻隊員たちはこの神妙な中にあって、何か笑いを装い、余裕をつくろっていると思われるのも不(びん)でならない。自分たちのために固くなった雰囲気を少しでも和げようと努めている姿である。

 緊張しているのは、むしろ潜水艦乗員でした。伊58潜の乗員にとってはこれが初めての太平洋上への出撃ですから無理もありません。何としてでも、この初出撃を成功せしめたい、という気持は誰の胸の中にも納められており、この緊張感を解きほぐしてくれるのは逆に石川君ら特攻隊員の方々でした。

 中でも、性格の明るい大きな身体の石川君は三人の特攻隊員の長として、艦内の空気をむしろ和げるように、丸い眼をほころばせながら陽気に冗談をとばし艦内を笑わせるのでした。もう人間としての総てを終ったかのように来るべき明日を忘れて。

 しかし、運が好ければ再び生きて帰ってこられるかも知れない、という境遇にある乗員と全く生きては帰ることができない宿命を背負った彼等4人の間には、一つの大きな気持の上での解決できない隔たりがあったことは事実です。

 艦橋に立つ艦長以下の乗員は掃海水路、狭く限られた、またジグザグに仕組まれた四国沿岸沿いの掃海水路をヤミ夜に小さく浮ぶ浮標を懸命にさぐりあてながら、つぎつぎに流れくるこの浮標を唯一の道しるべとして掃海水路を抜けてゆかなくてはなりません。うっかり浮標をみつけ損なうものなら味方の危険な機雷堰の中に身投げせねばなりません。狭い暗闇の艦橋で哨戒直に立つものは浮標をみつけるのに真剣です。闇夜の中から突如ニューッと眼の前に浮び出てくる浮標を見出してはホッと胸をなでおろして舵をとり、変針するのでした。そして浮標から浮標へと渡って豊後水道を抜け太平洋に出るのでした。

 駆逐艦のような水上艦艇であれば、艦橋に気安めでも海図や羅針盤を置いて走ることができるのでまだ良いが、厳重な灯火管制下にあってたなざらしの艦橋には灯り一つとてなく、速力と時間と肩からブラ下げた懐中電灯を頼りにヤミクモに突っ走るのです。

 艦長はじめ航海長はかねがねこの水路に馴れているとはいえ苦労したものでした。日頃はあてになららない頼りにしていない電波探信義(対艦船用)も、グルグル左右に首を振り廻して小さな浮標捜しの大役の一半を背負ってもらわねばなりません。所詮、役には立ちませんが、ないよりはずっと気分的にマシなのです。

 無事の掃海水路を切抜けると、愈々太平洋の黒潮です。

 日本近海でありますが、これがまた厄介者です。当時は、敵潜水艦が二隻一組になって水道に出入する日本の艦船を常時待伏せし、跳梁していた黒潮でした。一歩外へ出る時は油断も隙もなりません。近海でもあり、飛行機や哨戒艇で対潜哨戒を怠りなくしているのでしょうが、日本の多くの艦船が残念ながら敵潜水艦の餌食となって不覚をとりました。

若年ながらも、日本の潜水艦の乗員として、アメリカから遠路遥々やってきた、少々疲れ気味の敵潜水艦の餌食なぞになってはたまりません。持っている電波兵器や通信機を全部駆使して、大きなジグザグ運動を繰返しながら、眼を光らせて全速力で南下しました。全速力と言っても、新造艦のなさけなさ、更にセメントとゴムの粉末をまぜこねたような防探塗料を艦全体に厚く塗りつぶし、また大量生産の単動機では17節でるかでないかという速力です。燃料を消費しないので航続距離は長くなったが、足はおそくなってしまいました。大型潜水艦に速力はいらないとでも考えられたのでしょうか。マサにドン亀的存在なのでした。

  針路西へと 波また波の

    しぶききびしい見張はつづく

  初の獲物に いつの日会える

   今日も暮れるか 腕がなる

 という歌が唱えた頃がなつかしい。

 私も一度はこの歌のように、針路西へ、を経験してみたかった。傾いた戦局はもはやそれを許さなかった。

 戦争末期、皆針路は西ではなくて、南へ南へと続き、印度洋上に獲物を捜すのではなくて、虎穴に入らずんば虎児を得ず、の(たと)えか、獲物の中へ自ら身を(てい)してか、獲物の中へ自ら身を挺して入って行かねばならなかった。

 豊後水道を出て一旦潜航し、しばらく黒潮に流されつつ時を稼いだ後、浮上して南下するのが安全かも知れない。今回は回天作戦としては先の菊水隊についで二度目でもあり、敵の警戒厳重を予想して目的地「グァム」島に近接したら、できるだけ穏密潜航策をとって敵に知られないようにするために、日数をその方に割くこととして、前半は極力水上航走で目的地に近付くこととした。攻撃予定日は一月十二日であり、二週間の余裕はあるが目的地グァム島は今更申すまでもなく、戦前は永くアメリカの統治下に置かれて太平洋上の一拠点となっていたのであるが、戦争が開始されるや、日本軍の上陸を許して一旦は日本の手に収められたものの、サイパン、テニアン両島の失陥と共に再びアメリカの手中に帰してしまった。 その後は中部太平洋の重要拠点として日本本土攻略に大きな役割を果した島です。先に菊水隊の「ウルシー」攻撃によって、敵の潜水艦に対する警戒がとくに厳重なことは当然予想されます。真正面からぶっかってみても、厳重な警戒に対して歯が立つまい。私達は少しでも警戒手薄な海面をねらって潜り込まねばならない、というわけで一旦南下して、南から近づくことにしました。敵中に入って、背後から近づくとなれば、これに相当の日子をさかなくてはならないのです。

 北東の季節風を真向うに受けつつ洋上を走る艦は、明けて昭和20年を無事迎えました。マリアナ作戦に次ぐ、比島レイテ作戦の失敗で海軍の大半の水上戦闘勢力を失い、悪戦苦闘に暮れた昭和十九年でしたが、今新しく迎える年も、既に本土上空の制空権も失いかけており、戦局の好転を期待できる年とは思われません。連合軍の反撃は日増しに急であり、本土空襲ははげしさを加えて焼土と化しつつあり、戦力の衰えは日に日につのるばかりです。斯様な周囲のきびしい環境の中で、歓呼の声に送られて第一線に立って働く者にとっては、否応なく、何としてでも負けられない、何とかして微力をつくしてこの類勢を挽回せねばならないという各自の胸の中に秘められた決意だけはつのるばかりで、敵愾心のみ煽られて焦りを感じるのです。考えていること、思っていること、それがすべて裏目、裏目へと期待を裏切られて現実化してくるのです。

 大津島出撃の際、早目に艦内で元旦を祝って休日を送ったのですが、あわただしい出撃準備の中での一寸ピントの外れた正月はシンから正月気分という新春の気になじまず、その際は形ばかりのものに終って心に残るものはありません。

 仮令、戦闘態勢で洋上を走っているとはいえ、元日は矢張り元日で、今は出撃前のいそがしさもなく、艦内は数日を経てむしろ平静で、東の水平線のそのまた果てから大きく浮び上ってくる初日は真黒い艦一杯に壮挙を祝福するかの如く暖かい陽を浴びせて、海面はその光に映えてまぶしく輝くのでした。

 石川君ら特攻隊員はとくに配慮されて、狭い艦橋に上って初日を仰ぎ、年を加えて更に決意を新たにするのでした。艦橋上の哨戒員は見張に専念しており、交わす口数も少ないが、大きい眼差しは尋常ではありません。

 きっと、遠く離れた広島にある母の姿や家郷の思いが、走馬灯のように頭の中を去来したことでしょう。美しく澄んだ洋上の景を、今の自分が置かれている境遇を忘れて、思う人々に見せたかったことでしょう。彼はひとり南の水平線にヂッと眼を据えて、再び艦内の人となりました。

 この辺りの海面は、会敵の公算も少なく、比較的気分の楽な海面ですが、水上を走っていたのでは不意を衝かれる(おそれ)もあり、落着いた気になれませんので一旦潜航しました。水上航走を極力続けてきた哨戒員にとって、潜航は大きな休養の場です。狭い潜水艦内にあっては豪勢な祝盃なぞ夢にも考えられないところですが、水上からの難を避けて気分にゆとりをもたせ、特攻隊員4名と一緒にこの日だけは量は少ないが禁酒を犯して、祝盃を挙げ武運を祈り、万歳を唱えました。缶詰の餅をあけて雑煮をつくり、司厨員の心づくしの正月料理に舌づつみをうちました。石川君は兵学校入校当初の正月の餅の味を忘れかねないのか、洗濯石鹸のような餅を思い出して、あの時はひどかったなァ、と語るのでした。特攻隊員4名の中、2名は予科練出身者で、この二人はこれでようやく数え年二十歳に達するという清純無垢な青年であって、このたび選ばれて予科練として初めて回天搭乗員出撃の機会を得た二人なのですが、今から思い出してみますと、若人の時代のあり方の変化、また考え方の相異という点について、うたた感慨無量なものがあります。

 二日からは、サイパン、グァムからの敵哨戒圏に入るので予め検討してある哨戒機が行動海面に哨戒のため到達する頃には、潜航してその行き過ぎるのを待つ、という方法をとりました。電波探信儀の機能が十分に発揮されないので、これに全面的な信頼を託す訳にはいかず、大和用連合通信隊で予めQコードを入手し、敵航空機通信の暗号解読を利用して難を避けた訳です。もともと潜水艦は殆ど敵の制海圏内にあって行動するために、敵信傍受には受信機の半分をこれに使って重点を置いていたので通信員も馴れており、敵哨戒機がグァムやサイパンの基地を発進するとその時刻および哨域方向などから大凡の見当が掴めるという訳で、これが実際と殆ど符号していたことは幸いでした。

 例えば、通信員が哨攻機発進の電波を捉えて、その内容を解読し、そろそろ予定時刻になって哨戒機が何度方向に見えてくると構えていると、哨戒員の見張る双眼鏡のレンズの中に、遥か彼方の視界の限界において水平線上を流れゆく哨戒機が現れてくるのです。馴れてくればくる程、敵哨戒網の間隙を潜り抜けることができる。

 戦闘航海中の特攻隊員の仕事は、潜水艦の乗員でありませんので取り立ててなく、目的地までの日数の大半を狭苦しい寝台の上に身を横たえて過す、という味気ない生活の日々が続くのです。硯箱を傍らに置いて、筆と墨を弄ぶ。徒然なるままに、思いを筆に託して半紙に墨書しては机の引出しにしまっておき、その枚数も重なってきました。あるときは大鯨に跨がり、日本刀を振りかざす自分が、敵中に深く殴りこむ、という勇ましい絵を描いてみたりしていました。今におよんで何も言い残すこともないのでしょうが、ひとり身の慰めとして、時間を潰す唯一の道具となっていたのでした。また心の和らぎを与えてくれたのでした。

 電信員が、艦隊司令部からの今回の回天攻撃目的地の航空倶察情報を受信して持ってきますが、グァム島に相手とするにたる大型艦船が碇泊していればいいなァト。また、航空母艦が入港していれば攻撃予定日まで、そのまま在泊していてくれればなァー、と。そのことばかりを気に留めていました。

 グァムはウルシーと違って、機動部隊の泊地というよちも補給船舶の出入りのはげしい補給港であったために、めぼしい戦艦や航空母艦という主力艦にありつく機会に乏しくウルシー偵察電報と比べると淋しさがありまじた。港内には、修理用の浮ドックがありましたが、商船なんかを沈めるよりも、浮ドヅクに体当りして、これを使えないようにする方が効果覿(てき)面じゃないか、などと航空偵察情報を入手するたびに、心はグァム島アプラ港内に移っているのでした。

港内に入ってみたら網の中は案外小魚ばかりだった、ということにならなければよいが、と偵察情報の変化を心配していました。

情報は新聞と同じょぅなもので、新鮮でないと全く興味を欠き、何の役にも立たない。

艦隊司令部からくる航空偵察情報も昨日の新聞のようなところがあって、その事情を追及すれば、遠い航空写真の判読なので致し方ないかも知れないが、身を挺して攻撃に立向う回天搭乗員の身にとっては歯痒い思いをさせました。最終の情報に搭乗員が全員回天と共に艦を離れてしまってから受取った、という次第で、これがないから特にどうのこうのうということはありませんが、もう少し早くしてくれれば永遠に旅立つ回天搭乗員にこれを知らせることができて、彼等を元気づけることができたのに、と思うと残念です。

 三直哨戒に立つ哨戒直員は余り水上航走期間が長く続くと、眼が疲れバテてくる。夜は二時間交代だから四時間置きに哨戒直が巡ってくる。食事や用を足し横になって、眠りにつくと、寝込んだ真最中にもう起されるから堪らない。四直哨戒の水上艦艇時代がうらやましい。

ようやくの思いで床を起ち、双眼鏡を臍の辺りにブラ下げて艦橋の見張に立つ。外は真っ暗、星のみ輝くばかり、潮風に吹かれているうちに眼も覚める。先任将校と航海長のサンドイツチになっているテッポー(砲術長)にとっては、潜水艦乗りの三号として三号の辛さがある。

ベテランの航海長は早目に起しにくるし、交代もおそいとあって、正味三時間は立たされることを覚悟しなくてはならない。朝夕二回、黎明薄暮の潜航は殆ど定期的に毎日行なわれ、この際は全員たたき起されるが、敵地に近づくに従って、この潜航時間が長くなると、潜航中は四時間交代なのと、「ツリム」さえ整えておけばよく、体力的に却って救われてくる。

六日にはグァム島の略々西方海面を通過し更に南下する。ここまでくると完全なアメリカの制海圏内である。水も漏らさぬ警戒網がしかれていると考えて対処せねばならない。潜水艦なればこそ、今時こんな海面を安穏として走っていられる。しかし、見つかったり、怪しまれようものなら、益々警戒は厳重になって所期の目的は達せられない。

 かくなってはあくまでも穏密、少しでもおかしければ潜航して身をかくす。海面にはアメリカ艦船が捨てていったのであろう箱や空瓶などが沢山浮いて、船足がいくつもいくつも海面に長く残っている。

 電探の能力発揮が思うようにいかないので、その非力を補うため伊58潜の常套手段として、「昼間もぐつて、夜また浮ぶ」.という潜水艦乗りの言葉を敢えて容れず、その反対に昼間と月明の夜に極力水上を走り、月明りのない夜間は潜航して敵の電探索敵から身をかわすこととしていた。寧ろ夜間は逆に潜航する結果となった。

案外なもので、敵中深く入れば、手薄であることに気がつく。優勢を誇るアメリカ軍でも何処彼処も万全を期する訳にはいかない。自分たちにとっては幸いなことであるが、反面日本軍の非力に対して舐めてかかっている、と感じられないでもない。グァムやサイパンから飛び立つ哨戒機のアイマを見て浮上し、充電と換気を行なう。少しぐらい長時間潜航しても充電と換気をする余裕は十分にある。また艦内から整備できない回天二基の整備もこの浮上中を利用して行ない、とくに事故は認められない。

 こちらから敵艦や飛行機をみつけても、絶対にみつかってはならない。奇襲決行予定日は12日でまだ相当日数がある。翌7日から昼間の浮上はやめて、夜9時から翌朝4時まで浮上し、その間に充電補気をすることにした。アメリカ人もわれわれ同様人間だ。夜はねむい。夜遊びならとも角、殆ど攻撃らしい攻撃も受けない日々が続いているのに真夜中まで張り切ってはいられまい。

 九日から?を転じて北上し、目的地グァム島に向う。

 十日、呉にある艦隊長官から、「各艦所定の奇襲を決行すべし」という電報を受取った。いよいよ予定通り決行である。ウルシーはじめ、アドミラルティ、パラオコッソル水道、ホーランディアへ夫々向った潜水艦も私のイ58潜同様、各々その攻撃目的地点を前にしてこの電報を受取り、一斉攻撃による回天の快挙を期待して全力投球していることでしょう。

 回天搭乗員やその整備員をはじめ、潜水艦乗員は直接回天に携わる者であろうとなかろうと、いやがうえにも緊張の度を加え、回天発進までに何かへマがあってはならない、少なくとも4基の回天を全基無事発進せしめ、アブラ港に送りたい、と誰しも心の中に深く刻み込むのでした。

回天搭乗員四名は相寄り、夫々必勝を祈願しつつ、墨をたっぷりと筆の穂ににじませて心の全部を文字に托して寄書きしました。まず、石川君は「一撃必殺」と、他の三名は石川君の四文字に続いて、「殉忠」 「皇国必勝」、「死殺」と。彼等は敵地を前にして、今考えていることはこれだけなのだ、と言わんばかりに、水中を潜る艦の中で何も語ることなく筆を寄せニッコリと顔を見合せたのでした。

 日本はどうしても勝たなくてはならない。今や一人一人の生命をかくなげうっても決して容易なことではあるまい。「回天」という名が示すが如く、日本の窮乏を救わんとして若人を代表して今やその実行に敢えてあたらんとする決意が脈々として各自の筆に現われたのでした。七生報国の楠公の精神は約六百年後も失われず、このひとりの力、それは微力であるかも知れないが「一撃必殺」失敗は許されず、必ず勝利に導いてみせる、その決意が石川君の顔面には溢れていたのでした。

 偶々一九六九年八月十五日の現代青年の日記という週刊朝日の記事を読んで、当時と思い較べてみますと、全く天と地の相異を眼のあたりに見せつけられます。その善悪良否の判断は別として今の若人が平和に馴れて、国家の敗亡という苦しい戦争体験のない、単なる忌わしい空想の中から発せられた数々の言葉に接するにつけ、既に過去の物になってしまったなァ、と感ずるのです。

(以下次号 その4)

(なにわ会ニュース20号12頁 昭和45年2月掲載)

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