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ネイビーブルーの残影

(伴 弘次中尉)

片岡 紀明

伴 弘次 弟 伴 辰三

苛酷な実戦を体験して生きぬいた海軍少壮士官たちは、兵学校教育のなかでいかなる精神的軌跡をたどったか、戦死した伴中尉の日記から探ってみる。

生きている海軍士官が語る太平洋戦争

ある青年の精神的軌跡

 筆者(片岡)は、この連載「ネイビ−ブルーの残骸」では太平洋戦争における実戦というものを、もちろん例えば予科練とか海兵団とか商船学校とか予備学生とか、あらゆる階層の人々が海軍を支えたということを承知の上で、海軍兵学校出の海軍少壮士官だった人々にしぼって直接うかがい、日記・回想録なども引用してまとめさせていただいている。

 十七歳にして、肉体も精神もいっさいを国家に捧げる教育を受ける。そういう場に自分自身を投入する。

 ここを卒業するかれらを即待ち受けていたのは、苛酷苛烈な戦場であった。筆者が書くは、かつて、そこで学んだ若者たちがいたという事実である。

その中の一人に、海軍兵学校七二期、伴 弘次という生徒がいる。

七二期というのは、昭和十五年十二月一日入校、昭和十八年九月十五日卒業の六百二十五名をさし、うち三百三十五名、五四%か戦没する。

 かれは九〇一空の大艇の機長として、二十一歳の時、台湾で作戦中、殉職した。あの戦争で、かれより若い人々も戦死し、年上の人々も戦死した。同年の人々も戦死した。多くの若い人々が戦死したのである。

  当時、中学を卒業するくらいの年頃の青年は何を、どう考えていたか。その一人の精神的軌跡は、どうであったかを、伴 弘次生徒の当時の日記や周囲の人々の回想によって見てみる。

 昭和四年(一九二九年)生まれの筆者は、あの戦争の開戦当時、中学に入ったばかりであったが、「ハワイ・マレー沖海戦」という映画に、やたらに興奮したのを憶えている。その冒頭で、兵学校生徒が白い夏服に短剣を吊るして帰省するシーンがあって、それが何ともかっこよく見えた。

わたしの叔父に京都の太秦(うずまき)撮影所の製作などをしている人がいて、かれは岩田豊雄(獅子文六)さんの、真珠湾攻撃に特殊潜航艇で出撃した横山正次少佐の新聞小説『海軍』という映画を撮っていたことがあって、江田島の兵学校

第1生徒館

にロケに行っており、海軍省との打ち合わせがあって東京のわが家に泊りがけで来ていたりしていたが、「兵学校はええぜえ」と、よく言っていたものだ。

兵学校生徒の日常生活ぶりが なんともキビキビとして、たまらなかったようなのである。朝六時に起床して、毛布をたたんで、事業服を着て洗面し終わるのが二分とか三分とか、それがまた見事な早さであると感嘆していた。感嘆というより、叔父は、われわれ中学生の寝起きをだらし無いと感じ、それを叱蛇し叩き直したいと思っているようだった。

兵学校生徒の起床動作については、当時の兵学校・機関学校・経理学校の紹介案内書の『輝く海軍生徒』などに「毛布をキチンとたたむ早さは寝台車のボーイより早く」というような記事があったのを憶えている。

戦争中のわれわれ中学生が海軍とか航空機とかの情報を得ていたのは、おもに雑誌『海と空』とか『海軍グラフ』】という月刊誌であったが、それにも兵学校の特集号というもがあったように記憶している。

また、写真家真継不二夫氏の『写真集/海軍兵学校』という物資のない時代の豪華本も出版された。

山岡莊八氏の小説『御楯』は軍縮時代の兵学校生徒が大正から昭和にかけての太平洋の暗雲が次第に増してゆく時代に巣立ってゆく、という物語で、雑誌『富士』に連載きれていた。

その中学時代

 さて、七二期の伴 弘次生徒は、感性豊かな人であった。もちろん理数系もできたが、筆跡は達筆で文章力があった。とくに人間性内観に意志がつよく働いたようである。

 かれは小学校六年のとき、東京四谷区から家の事情で、父の故郷である愛知県豊橋に、両親と兄と弟の家族五人で移ってきたのであった。
 県立豊橋中学校一年C組時代の作文―

 (僕が豊橋へ来た頃

 僕が豊橋へ来たのは、去年(注・昭和十年、十一歳)の三月十七日頃であった。

 朝倉の叔母は僕を連れて東田(あずまだ)の家、僕の家に来た。家は立派ではなかったが、割合大きかった。朝倉の叔母は、家に二、三日泊まって、いそがしいからといって、東京へ帰った。

 朝倉の叔母が帰られて二、三日すると、朝倉の叔父が手紙を寄こして、母に僕を欲しいといってきた。母はその手紙を僕に見せて、「あなたはどう思いますか」と聞かれた。

 僕は母に「僕は伴家の長男ではありませんが、僕は僕として件の家を立てて行こうと思います。」といって、母から叔父の所へ断りの手紙を出していただいた。すると、二、三日して紀念の叔母の写真を添えた叔父の手紙が来て「弘ちゃん、あなたとはもうお別れです。また何時か会う時迄、丈夫に幸福にお暮らしなさい」と書かれてあった。

僕は其の時「もうあのやきしい叔父さんと会えないいのだ」と思って、何かしら瞼に浮かぶ熱いものを感じた。)

 これについて、母すずさんは、

(あの子はよく出来た子で、小学校は東京の四谷尋常小学校に五年までいたのですけれど、わたくしなどが学校へうかがうと、担任の先生が、わざわざ「伴君のお母さんですよ」と校長先生のところまで紹介してくださったりしたんです。

 わたくしは、八人、子供を生みました。一番上の女の子は、生まれてすぐに亡くなりました。男の子は三人生みました。あの子は、わたくしが二十六歳のときの子なんです。わたくしは、明治三十二年生まれですから、九十四になるんです、いや五か、九十五になるんですが、お嫁に来たのは十六歳のときでした。いまと違いますから。そのころは、十六、七ということもあったんです。

 まあ、時代が時代ですから、あの子は軍人を志望していました。とくに海軍にあこがれていたようです。中学の四年のとき、陸士に合格したりしましたが、海軍兵学校を受けるために陸軍へは行きませんでした。。

 それで中学五年のとき、海軍兵学校を受けたんです。豊中(県立豊橋中学校)から何人か一緒に受けましたようですけど、受かったのはあの子一人だったんです。

 わたくしの妹が、若いとき三人の女の子を亡くしてしまったことがあって、それで、弘次を養子にくれないかとそんな話もありましたけれど、子供はやれない、と断ったことがあります。お国には、男の子はささげるために育てたのですから、それはお国にはあげるんです。でも養子には出さない。そういうつもりで断りました。)

 そう語ってくれたことがある。

 作文のつづき

(昭和十年四月一日、僕は豊橋市東田尋常小学校へ入学した。教室の床を雑巾でふいているのもめずらしく、また生徒の使う豊橋地方の方言もめずらしく思われた。

 その内に僕の近くにいる山本 博君と石原千秋君との二人の友達が出来た。此れは僕の級の夏目先生が此の二人に引き合わせて下さったからで、親切な夏目先生はまた僕を大そう可愛がって下さった。

 山本君と石原君は田舎の子供らしく純情で僕と交わって呉れた。殊に山本君などは日曜日になると僕と自転車に乗って豊橋近郊の名所や景色の美しい所に連れて行って、何故ここが名高いかなどという事をよく話して呉れた。僕が豊橋に来て、山の美しい所だと思ったが、山本君に方々の山々を案内してもらってなお一層其の感を強くした。・・・・・・・・春たけなわ、静かに登って行く山の細路を若葉の(緑)青いにおいが立ち込めて、若葉をそよ風がゆらぐ。山本君が僕の方を振り向いてひたいの汗をふく。僕もかすかにほほ笑んで、また勢いを出して登り始める。時々木の間を通して青く輝いた海が見える。山から見る豊橋は美しいものだ。家々が小きく続き、其の先は青い海、その美しい海に島がぽつんぽつんと見える。右手には之もまた美しい豊川が右に左に曲がって海に注いでいる。やがて頂上に着いた。山本君は岩に腰かけてあれが高師原、あれが本宮山などと一々指さして教えて呉れる。・・・・)

 この作文は、もう少し続くのだが、先生から九六点と採点が記されている。

 かれはまた、そのころ「友が自分から離れて行った、どうしてだろうか」という少年期特有の友情を見つめる作文も書いている。

キリスト教と軍国と

 兵学校生徒は、たしかに全国の中学校生徒から選りすぐられた生徒だったし、伴生徒もそのなかの一人であったのだが、小きいときからキリスト教の教会に通い、そこの千葉芳枝先生という方から薫陶(くんとう)を受けていたということ、また日ごろから父親の「人のためになれ。人のためになることをせよ」という言葉を聞いて育った(弟・辰三氏)ということはあるにしても、かれが特別の環境にあった人間だったというわけではない。

 この千葉先生という方との文通は、かれか兵学校に行ってからもつづき、女性名前の手紙ということに同じクラスの生徒からよく冷やかきれたようである。

兵学校で、かれはキリスト教について、

(昭和十六年一月二日。勅諭は、軍人の経典である。それを信ずるものにとって経典が、また「バイブル」が絶対の価値を有するごとくに、軍人の本分とすべてを規制する根源であるとともに、軍人にとって唯一絶対のものである。)

(同一月三日。夜、八時四十分から一名ずつ分隊監事の口頭試問、教会のことを聞かれた。「キリスト」を神とせずに偉大なる宗教家と見なし、彼について宗教観を研究し、神を求めていこうとする教会であります、と答えた。)などと記す。

 母親すずさんが「ああいう時代ですから」といった“あの時代”とは、少年たちが一括して軍国少年といわれる時代であった。理屈っぽくいうならば、日本は近代化をめざした“富国強兵”の時代延長にあり、欧米は植民地獲得に明け暮れていた時代である。

 伴 弘次さんが中学時代につけていた昭和十五年の博文館日記帳には、まず冒頭に、「皇室」関係、天皇皇后のお写其・お名前・お誕生日その他、各皇族のお名前など、宮城や御所・御苑・離宮・御用邸の場所など、今年の宮中式典などが四ページある。そのあとに「わが国の内閣、国勢関係」財政とか貿易とか工業生産・農林水産関係などが四ページ、そして「国防の知識」、帝国陸海軍の概要が四ページ。「支那事変略史」が二ページ半「国民防空の知識」が一ページ、「満州国要覧」と言うのが二ページ掲載されている。

 その他、もちろんその年の「歴」とか「世界各国の趨勢などもあるか、やはり国家主義の色が濃い。そういう時代に、筆者の兄くらいの人々は血気の青年期を過ごし、育ったということである。

 かれのこの日記帳、九月二十八日には(日独伊三国軍事同盟締結)と二行どりで大きく書かれ「今朝、発表があった。のるか、そるかの台上に立った感がある。第二の世界大戦も案外、近いのではないだろうか。)とある。

兵学校受験

 昭和十五年八月十四日から十八日の五日間、兵学校・機関学校・経理学校三校生徒入学の学術試験と口頭試問が、全国いっせいに行なわれた。彼の試験場は名古屋であった。

 

多くの青年があこがれながらも狭き門であった海軍兵学校の校門(裏門)

 海軍生徒の入学試験は、毎日の科目ごとに結果が発表になって、毎日、ふるい落とされてゆくという方式をとる。
 (八月十四日、晴。今日は数学、知っている問題が二問もあった。夕方、発表。落ちたのは海兵、三十数人。)

(八月十五日。昼前の数学は、五問題、全部できた。

昼から英語、大体よくできた。夕方の発表、また三十何人、海兵で落ちた。)

(八月十六日。朝、物理・化学。昼すぎに昨日の英語と朝の物理との発表があった。五十何人、海兵で落ちて大騒ぎだった。これで半分より減った。)

 伴 弘次さんとおなじ七二期の飯塚勝男氏(比島・戦死・戦闘機)も、東京で一〇五三名のなかで、「今日は百名、今日二百名、これで受験者の半数は落ちたわけだ」と当時の「受験旬報」に書いている。

(八月十七日。最後の学課。歴史。作文は一時間で、「任務」という題。ドキマギしたが、けっきょく書けた。一人も落ちたものはいなかった。)

(八月十八日。早く出かけた。四人目に口頭試問された。結果は上々。服、帽子、靴の寸法を計ってもらって帰った。石坂洋次郎の「若い人」を読み終わる。)

さて当時、中学生は受験にあたって、旺文社の参考書や「受験旬報」の添削などで、力をつけている人が多かった。それらで猛勉強をしたのは、さきの飯塚さんもそうだし、既にネイビーブルーに登場いただいた六七期の田中一郎氏(南太平洋海戦・「ホーネット」爆撃・艦攻)も『受験旬報』の添削ランクで競いあった相沢正さんが自分より。一年早く四年修了で兵学校に合格したのに、ようし、と闘志を燃やしたというのである。

 田中さんは新鴇に来た潜水艦を見て海軍熟が沸き上がったというが、お母きんは歯科のお医者さんであったので田中さんを医者にしたかったらしいし、祖母は大反対であった。自分も高等学校を目指してもいたというが、合格決定の早かった兵学校にきめたという。そういう人も多かつた。

 かれは昭和十五年の十月六日の日紀に(私は兵学校に入りたい。)と書く。

 かれは陸軍士官学校も受験している。兵学校の学術試験か終って、二十五日からの陸士の試験が近づいている。

(学課では海兵に確かに入れるという自信はあるのだ。しかし何故に心配している。何卒、この心配が杞憂でありますように・・・・・。海兵合格の通知を受け取ったならば、後は精神修養に力を尽くそう。。そうして勉強もして兵学校に於いて先頭に立って行こう。)′

 陸士の試験も終わり、十一月三日という日、合格者にいっせいに電報がくるのだが、それにいたる焦慮の日々。そして、その当日になる。

 海軍生徒合格の通知は、十一月三日、(注。当時の明治節。明治天皇誕生日、電報で海軍省から各人に通知されるのだった。

(十一月三日。起床、六時。晴。学校の式を終え、ふつふつとたぎるような思いの胸をおさえての中学校からの帰途、啓子叔母さんが海軍省に返電を打ちに行くのと行き合った。「おめでとう」といわれた。ついに海軍兵学校に合格した。がっかりするほど嬉しかった。一時にどっと押し寄せる感情の濤(なみ)にただうつむくのみであった。)

(十一月四日。晴。起床六時。学校へ行って合格を皆に話すと、おめでとうの一斉射撃だった。)

(十一月五日。晴。起床六時。豊中のほかの者は一人も電報がこなかったそうだ。在校生で合格したのは僕一人になってしまった。浪人では、海機に山脇、関谷の二君が合格したそうだ。夜は皆で御馳走を頂いた。英々辞典を買い、ダンテの英訳をかった。

江田島へ

(海軍兵学校生徒となれる日が、日一日と近づいてきた。十一月二十二日、豊橋発。)

(この五年間、本当にご苦労をおかけしてばかりいたお父さん、お母さん。最後のご挨拶をしてからお母さんに「弘ちゃん、あなたはもう家の子ではありませんよ、体に気をつけてしっかり勉強なさい・・・・」と言われたときには、お父さん、お母さんの弘次を育てて下さった最後の思いやりが偲ばれてならなかった。)

 東京、豊橋以外には伊勢参拝をしただけの弘次も、江田島に刻々と近付く嬉しさに長い汽車の旅も苦しいことなく無事、呉に着いた。軍港の桟橋にいたる通路の入り口で、番兵に敬礼されて通る。

(はじめて見る呉軍港。朝まだきにドラの音、汽笛サイレンが響き、数十隻の軍艦が淡い陽光に鉄の膚を輝かしている。遠くは霧、江田島は見えない。

内火艇を指揮してくる候補生の姿・・・・ああ、あこがれのあの姿、ずっと見つめる・・・・

定期便に乗って江田島に渡り、小用峠を越えて行く。)

(右も左も美しく色づいた蜜柑山、古鷹の峯が一きわ高く聳(そび)え立ってくっきりと青空を切っている。二川町の町外の様な軒並が続くとやがて校門である。)

 二十四日、着校。

 門衛の指示に徒って西田倶楽部におもむく。

 十数名の先着者が、東北の言葉、九州の言葉をあらわにあれこれと語り合っている。

 この時から入校迄の一週間、倶楽部の美しい小母さんのお世話になって、思い出深い入校前の日々を送った。身体検査で橋本達敏の尿に蛋白があって後日再検査を申し渡されたときなど、小母さんは、毎食々々ほうれん草を出してくれ、皆と一緒に橋本の合格を心配して下さった。

 弘次たちより二つか三つ年上のこの小母さんが、どうしてこんなにも立派な立居振舞いが出来るのだろうかと、不思議に思われたことすらあった。

 (毎夜の安元中尉の巡検と、第二十分隊監事・水野伝三郎大尉の倶楽部に来られたある日の午後のことは、忘れ難い印象である。入校教育の指導官になられた元気一杯の青年将校、安元至誠中尉、本当になつかしいオヤジだった。伝三郎大尉、今日はどこか東海の果てで日夜奮闘していられることであろう。)

(身体検査、体力検査、被服試着を終えて、十二月一日、輝く海軍生徒の入校式。海軍大臣から生徒を命ぜられ判任官・帝国海軍兵学校生徒となるのである。

 第二十分隊伍長の赤堀民雄生徒が生徒館を案内して下さる。通路以外、庭という庭は全部芝生である。そして、塵ひとつ止めぬ廊下、はたまた、磨き上げられた「リノリユーム」の床、行く処皆清浄の感に胸打たれるばかりである。こんなに綺綺麗な所で生活するのはいいなあと思った。)

シャバ気をおとす

しかし、そんな感激もつかの間、(真の晩、すぐに軍隊生活の一面も見る)ことになった。

(姓名申告―−上級生徒の落雷の如き大音声の前には、自習室の机の前に居並ぶ新入生徒の精一杯の大声も、蚊の鳴声ほどにも響かぬのである。)

兵学校の「姓名申告」とは、各分隊の−号生徒の前で新入生徒が出身校と姓名とを報告する自己紹介なのだが、それはたちまち一号生徒の荒々しい「聞こえん!」「やりなおせえ!」といった怒号や罵声が湧き起って、新入りの四号生徒は、度肝を奪われる。その瞬間、これまで抱いてきた夢のような気分、それを娑婆気というのだが、それが木っ端みじんに打ち砕かれる。

 この「姓名申告」は、一度で合格する者もいるかと思うと、何回もやり直しさせられる者もいた。

これを、地方の訛(なま)りをとることが一つの目的のようだ、という人もいる。また、えらいところへ来た、という人もいるかと思えば、このくらい軍隊の学校へ来たのだから大したこととは思わなかった、という人もいる。

 だが、これはこれから行なわれる特訓のほんの序の口にしか過ぎないということを、誰もが思いこまされることになる。

すべて入校教育は“娑婆気”を落とすことに集約される。これは“一般的俗世間の感覚から脱皮させる”という意味らしいが、まず俗世間の気分を脱色させ、そして海軍の色に染め上げようというのである。

(我も人間、人も人間。我も個人、人も個人。こんなことは二時間の間に、粉微塵に吹き飛んでしまった。上級生徒は絶対である。

一号生徒の意気は、新入四号生徒などにはまるで理解の出来ぬ程激しく高い。蚊の如き早口で小声の姓名申告は、何十遍となくやり直しをさせられる。自習室一杯の威圧感に身も心も死んだかの様であった。娑婆の自由主義、放逸主義が不動の金縛りに遇っているのである。)

鉄拳「修正」の意味

「お達示」ということもある。「お達示」とは、上意を下達することだが、兵学校では上級生の意志を下級生に伝えるという特別の意味を含む場合がある。このとき、下級生を殴って教える「修正」という行為が加わるのである。

(十二月三日、入校後三日にして、鉄拳を味わった。今から顧みると笑止千万ではあるが、娑婆気の致す所、また悲しいかなである。

「ニュース」映画見学許可の報を知るや、がやがやと小銃手入れもそこそこに自習室を出ようとした。

 途端に大声一喝、

「汝ら未だ事の軽重を弁えず、兵学校はただ一回の徒食を許さざるなり。常住不断もって錬成に努むべし・・・・」

 と寸言もって背くべからず、軍紀とはかくなり、との一端を窺いたり。)

 六七期の田中一郎さんのクラスは“四号を殴るのはやめよう”と申し合わせをして、田中さんもいっさい殴ることはしなかったというから、われわれは殴られっぱなし、といって笑う。

(入校教育は、心と体の革命とでもいうべきであろうか。娑婆の中学生の心と兵学校に流れる海軍の精神との隔たりは、娑婆の感情をもってしては、とうてい解釈がつけられないものばかりである。

 教官方の言われる精神訓育は、平易に見えてじつは極めて高いものばかりであった。結局、心構えを左右はしたが、入校当初の四号の心にしては、自ら其の根本を練るということは難しかった。

 しかし、起床前から就食後迄の上級生徒の誘導は、分一分、刻一刻と叩き上げられるような気がした。信念から出る言葉は強く恐ろし。

 一号生徒にひきかえ三号生徒は実に優しかった。弘次の対番の三号生徒は大岡高志生徒であった。何から何まで、それこそ何もかも、世話して下さった。

 弘次は事業服の「ボタン」を縫って頂いたり、軍装の「フック」を付けて頂いたりまでしてもらった。今から考えると、実に汗顔のいたりである。

 しかし、この下級生に対する奉仕(悪い言葉ではあるが)が、強靭な体力と綿密な習慣性の賜である、ということを知り得たのはずっと後のことであった。)

 (入校当初は、就食後、暗い「ベッド」の中で幾度か涙したことがあった。我儘一杯に育って父母の深い御恩を感ぜずに遇した弘次も遠く家を離れては、肉親め愛が強く強く偲ばれて来た。

 「お母さん」、

 弱虫ではない、卑怯ではないが泣いた。

 昼間は鬼よりも凄い一号生徒が、電灯が消えて、「巡検終り」があると、寒いのにわざわざ起きて来て毛布をきっちり巻き直して下さる。

 「風邪を引かない様に・・・・静かに眠れ・・・・」

 「明日は元気でやれ・・・・」

 短い言葉の中に無限の愛情が感ぜられて、本当に一号生徒は偉いと思った。よい立派な後継者を育むために、一号生徒は一生懸命になって居られるのだと、愚かしい四号の心にもはっきりと感ぜられた。

 一号生徒が昼間大声叱咤されるのは、決して怒って居られるのではない。凛然たる軍人の態度と強い信念を示きれて、剛(つよ)(かた)訓(おし)えられているのだ。四号には、まだまだあの張り詰めた心構えを持ち続けることは出来ない。しっかりやろう、しっかりやろう、お母さん、しつかりやります・・・・

 昼間如何に疲れ果てた四号も夜は安らかな明日への希望を抱いて眠ることが出来るのだった。)

待てえ!

菊村到氏の小鋭「ああ江田島」のなかの主人公にこんな場面がある。

「海兵では私たちは階段を上るときには、必ず二段ずつ、しかも駆け足でのばらなければならなかった。一号生徒はよく階段のおどり場に立って、階段を駆け上がってくる私たち三号生徒(注:ここに描かれる昭和十八年当時の最下級生)を待ちかまえていた。

私たちの動作が敏捷を欠いていたり不正確だったりすると、一号生徒は、待てぇ、とどなるのだ。それは階段をのぼる場合にかぎらなかった。私たちはいつどこでふいにうしろから、あるいは横あいから、この一号生徒の、待てぇ、におそわれるかわからなかった。」

そして、「ぴしぴし気合をかけられたり、なぐられたりする」というのである。

この階段の物かげから「待てぇ」をかけ、四号がピタッと動きをとめるその瞬間、足がすべったりするとその瞬間、「やり直せ!」と命ずる一号生徒を“赤鬼”とか“青鬼”とか、名づけて呼ぶ。

まだら鬼なんていうのもいて――と田中さんは、いまでは冗談めかして回想するが、これを何回もやり直しさせられるのは、キッいのである。

階段は二段ずつを駈け上がり、下りるときは一段ずつ、というのは艦内のタラップ昇降のための訓練から来ているらしい。

 さて、伴 弘次生徒たち新四号生徒は、兵学校独特の絶えまない猛訓練プロセスをこなして行かねばならない。

冬季の短艇訓練は、連日、相当な時間がさかれるが、誰でも尻の皮がすりむけて出血する。それが白い事業服のズボンに赤く染みだしている生徒もいる。それが治りかけたころ、また、訓練になって、そこの皮がまたむける。

(今日、とうとう尻の皮をむいてしまった。)とかれは書く。

「手あらく」というのは、海軍では“物凄く”“非常に”という意味で使われるが、伴弘次たち四号生徒は、さらに手あらく鍛え上げられてゆくのである。

夏の遠泳、十メートルの高飛び込み、秋の彌山駈足登山など、すべてクリアしてゆかねばならない。

昭和十六年、日米の関係は悪化をたどり、兵学校の生徒教程も短縮された。

「七二期は、三月二十五日の卒業に伴い三号になったが、新四号が入って来ないので、相変わらず最下級生徒であった。われわれは新三号として、再度、七〇期の一号生徒から入校教育を受ける羽目になった。しかし、考えて見ると、気の毒なのはわれわれ七二期より七〇期の方であろう。自分で手塩にかけた最下級生というものが存在せず、いわば六九期の生んだ子を養子として育てた格好になったからである。」と七二期の押本直正氏は書く。

 その年、十一月十五日、七〇期が卒業して伴弘次生徒の七二期は二号になった。

 そして翌月、十二月八日、太平洋戦争(日本側呼称 大東亜戦争)が勃発した。

(朝、総員集合がありて、監事長から「本未明より帝国は米英に対し交戦状態に入れり」との旨を達せられ、つづいて生徒としての現在あるべき道を(さと)された。身体一杯、心一杯がじんと引緊って、遂に来た・・・・と思った。

 

「生徒の本分は常に不変である。ただ此の際、本朝の新たなる決意を以って尚一層努力、勉強せよ。・・・・」と。

落着け、落着け、そしてやるぞ、

やるぞ。

其の内に帝国海軍航空隊が「ハワイ」「グァム」「フィリピン」「シンガポール」「ウエーキ」「香港」の奇襲爆撃に成功せりとの報がもたらされた。十一時 米英に対する宣戦の大詔が渙発せられた.)しかし、兵学校校内は静穏を保っていた。

(続 く)

(丸より)

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