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ネイビーブルーの残影A

片岡 紀明

猛訓練続く

かれらの−日は起床ラッパ(六時、冬季)に始まる。ラッパがなり終わると同時にはね起き、毛布をたたんで、事業服に着替え、洗面所へかけて行き、冷水摩擦をする。

伴 弘次の回想日記は(一日七時間の訓練と一秒の弛緩も許されぬ生活の入校教育、四号の心と肉体の苦痛は筆舌に尽くし難い。朝から晩まで、何くそ、何くそ、と心では泣きながらも苦闘しつづける。)と記す。

六時、    起床。

六時一五分、 体操の後 柔道・剣道。

六時三〇分、 室内掃除

六時五五分、 朝食。

七時五五分、 定時点検(分隊監事より訓示などがある)。

八時〇〇分―一二時〇〇分、同学年編成の「教班」での授業。

一二時一五分、昼食。

一三時一五分―一四時〇〇分、 授業

一四時二〇分―一五時〇〇分、 自選作業。

−五時三〇分―一六時三〇分、 教練および体育。

一六時三〇分―一八時三〇分、 手紙、床屋、入浴、洗濯など私用。

一七時三〇分、        夕食。夕食後、事業服を軍装に着替える。

一八時三〇ー二一時三〇分、  自習室にて自習。十五分間の休憩
二一時四五分         「巡検用意」の号令がありベッドに入る。

二二時〇〇分、         当直監事の巡検。

(この入校教育時、受けた苦痛はかつて知らなかつたことである。この肉体的苦痛に驚き、厳格な生徒館生活に追随出来ないほど、自分は苦しんだ。)

しかも日常、上級生徒の「お達示」「修正」「鉄拳」の教育がついて回る。

(就寝後、暗い「ベッド」の中で幾度か涙したことがあった。)

伴 弘次の日記―

(昭和十六年−月六日。今日は短艇と陸戦の査閲が行なはれた。

午後一時から短艇査閲、査閲官は校長閣下。「カッター」が表桟橋の前の直線「コース」に入った時は無我夢中だった。阿夕田(練習艦)−表桟橋−平戸(旧巡洋艦)の「コース」が随分短く感ぜられた。次は陸戦、閲兵式と分列行進)

(−月七日。今日は一学年の武道競技、八時から柔道場で四組に分れて試合開始、私は一組の一番最後、兵学校の一学年中で一番強いと見なされたわけ。十一時三十分いよいよ弘次と広瀬遼太郎との試合で今日の幕。それなのに校長閣下始め教官方が全部居られる前で敬礼を間違へてしまった。大失態。そして試合も技有り一本を取られて優勢勝を相手に取られてしまった。)

(一月八日。今日は海軍始め。校長閣下の前を軍艦マーチ吹奏裡に閲兵式。随分うまくいって講評訓示でお褒めの言葉を受けた。

一三三〇から総員訓練。総短艇。八班の十四ダビットは故障で使用できず遅れてしまった。明日からは愈々厳冬訓練。寒くてもしっかりやろう。頑張ろう。手の傷ぐらい(凍傷か?)なんのことかあらん。

(−月九日。今朝から厳冬訓練、起床動作で体操服を着そこなって随分慌てた。重湯も飲まず銃剣術道具を持って飛出したがとても早かった。八時、定時点検なしで課業整列、今日からは初めて上級生徒と同じ様に一人前の兵学校生徒として「ベグ」(注:バック)に一杯教科書を詰め込んで諷爽たる気持がした。一時間目は外国語、物理の小島教授はまるで優しい人だ。国漢の丹羽教授は熱血漢らしく忠義孝の話。

棒倒し

(一月十−日。総員訓練、棒倒し、二部の上級生徒が一人、気絶して倒れた。勝負がついてから横腹から血が出ているのを、人工呼吸をやっていた。

上級生徒は「見るな」「あんなものは見るな」と怒鳴られた。

次は弘次たちの番、全然負けたとは思はなかったのに相手の勝になってしまった。)

山岡荘八氏の小説「御盾」棒倒しシーン―

「・・・練兵場の青芝の上に、奇数偶数両分隊にわかれた江田島健児たちが爛々と眼を光らせ、呼吸をつめて対峙している。純白の作業服のズボンに、特製のシャツをまとい、裸足無帽の軽装で、いま、強烈な闘志と伝統に輝く棒倒ししにかかろうとする寸前なのだ。

 すでに肉と肉で台は組まれ、三段に重なりあった団結の人柱により、棒はがっしりと大地に立てられている。攻撃部隊は前面に並び、

左右の遊撃隊は拳をにぎって、それがいままさに開戦せんとする寸前の静にあるのだ。純白の服に築かれた闘志の城は、眼ざめるような青芝に映えて、鮮明な画面に盛上った銅像のように美しい。

「いいか! 棒を支えていると思うなッ。国を支えていると思えッ!」

一号生徒の叩きつけるような叱咤がはじける。

 やがて当直監事の各図によって、「気をつけ」の喇叭(ラッパ)がいよいよきびしく闘志をしずめ、つづいて「進め」「かかれ」のそれが喨々とひびいてゆく。

 白い列は喊声をあげて生き返った。火を吹く闘志でぶつかり合った。撲る、突く、蹴る、組む、追う、走る、跳る、踏む、柔道の手、相撲の手、ラグビーのタックル、幅跳びの跳躍・・・・おれは正しく競技ではなく戦闘であった。

 棒の根元に円陣を作って座り、台となった者の頭上には、最初から二重に味方の守備がのっている。その上へ、きらに敵の荒獅子が踊り上がって、人の上で人と人との乱闘がつづくのだが、台はただ歯を食いしばってこれに耐える。』

 そして、勝負がついた瞬同、待て!のラッパが鳴りひびき、振り上げた拳はそのままの位置、組み合った二人はそのままの位置で、全員が。“活人画”のごとく動きをとめる。

冬期の短艇(カッター)訓練と、夏期の水泳には、連日、相当な時間がさかれる。

(昭和十六年一月十五日。朝の短艇訓練で、ついに尻の皮をむいてしまった。)(日記)

(−月三十日。自選時の銃剣術。相当に寒かった。終って芳江先生に手紙を書いた。夜はニュース映画。外に出ると、寒い風がビユービュー吹きまくっている。就寝して間もなく、「荒天準備」の号令。寒風の吹きすさぶ中を艇に駆けつけた。)

(一月三十一日。兵学校に入ってからの寒さのレコード。細かい雪が塵か何かのように降り、風も吹きつけてずいぶん冷たかった。この中で、朝の陸戦、二時間。斥候と歩哨の動作。ビユービユーと吹きつける粉雪に、顔も何も感じがなくなった。)

 訓練はつづく。「乗艦実習」も行なわれる。

(三月−日。はじめての乗艦実習。眞夜中に九州北東端の杵築(きづき)に着く。)

(三月二日。豊予海峡から豊後水道に入る。午後三時から魚雷発射を見学。夕闇がしだいに濃くなるころ、宿毛に入港。美しい南国の入り江。)

(三月三日。七時半出港。防毒面装着。戦闘用意。三十三節の最大速力。)

(三月八日。対潜訓練。艦橋の機銃甲板で、右舷にも左舷にも潜望鏡を見た。)

 その他、兵学校生徒は、夏の遠泳、十メートルの高飛込み、秋の彌山駆け足登山など、すべてクリアしてゆかねばならない。

 夏期、午後は連日行なわれる水泳訓練。金鎚の赤帽組といえども、特訓の末、その期のおわりには遠泳に参加するまでになるし、「平戸」艦上からの十メートル飛込みなども全員こなす。

秋期の宮島の彌山登山訓練は、さすがの伴 弘次生徒も苦手だったらしい。

なんといっても、千六百段といわれる石段を一気に駆け上がるのだ。これを駆け上がる苦しさは並大抵でない。

(十六年十一月五日。苦手の弥山、悲痛な覚悟。終始、大塚生徒に励まされ、尻押しされて、上りたり。其の苦しさは表し難し、一生の思い出とならむ。大塚生徒には感謝言うべきことを知らず。)

 それらを伴 弘次生徒もクリアしてゆく。

 昭和十六年、日米の関係は悪化をたどり、兵学校の生徒教程も短縮された。

 七二期は同年三月二十五日に三号となり、十一月十五日に二号となった。

そして十二月八日。太平洋戦争(日本側呼称『大東亜戦争』)が勃発する。

兵学校の青春謳歌

兵学校というのは、瞬時のすきもない猛訓練と緊張の連続のようだが、分隊巡航という短艇を利用しての楽しい行事があり、またそれにともなっての外泊など、青年らしい快哉ぶりの発散もある。

(昭和十六年二月二十二日。大掃除を終って、直ちに分隊巡航出発用意。第三水雷艇に二〇カッターを曳航して行くのだ。

 カッターには、四号総員と毛布、食糧を積んだ。風浪強く、相当に揺れる。飛沫は散って、潮の洗礼・・・・。

 一時間ちょっとで、大カクマ島着。別荘の空いているのを借りて、宿舎にした。夕食は、二、三、四号生徒が腕をふるってゴチャマゼオジヤ。羊羹、飴、果物などを並べて分隊会がはじまった。実に面白い。

兵学校生徒って、みな芸人ばかりだ。不思議なくらいうまい。弘次はいささか気がひけた。三号生徒総員の巡航節は哀調切々。しみじみと聞かれた。

横になったのは十二時すぎ。洋角灯と球形灯と蝋燭(ろうそく)が一つ一つ消されて、磯を打つ波の音が次第にはっきりと聞こえてくる。寝たのは、三時すぎであった。

 兵学校人校以来、始めての外泊。・・・・素晴らしい会であった。

  ふと眼を開くと、カーテン下のガラスを通して、赤い美しい朝焼けが見えた。

  すぐ総員起床。瀬戸内海の朝は美しい。はるか本土の山峡から陽光がのぼる。

 パン、ハービス飴の朝食。終わって帰校準備。帰路、四号に水雷艇を操縦させてくれた。

 「津久茂の頂上、ようそろ」、フラフラフラ、艇首がいつも動いている。ジグザグコースだ。四号が舵輪を握っていることを知らない分隊監事が、前に何かあるのか、つて心配された。)
その日は日曜。朝、帰校。(夜は映画「美の祭典
」を観るなかなか良かった。)と書く。

二号生徒になると、“ゆとり”と人間味の横溢した面が隋所に出てくる。

(昭和十七年五月二十五日。今日は、並んだ隣の戦友、中西達二(艦攻にて沖縄方面特攻戦死)の誕生日。

 達二の御誕生日に、弘次より

達二 御誕生日おめでとう 達二が何時も朗かで楽しい人であります様に・・・・・と次の言葉を御贈りします。

“四方より艱難受くれども窮せず、為ん方尽くれども希望を失はず。達二 何時迄も御機嫌よう。

 夜は音楽会、達二が、″俺の誕生日を祝して”と勝手に決めて喜んでいる。今日のは、軍歌詞の賑やかなものばかり。

 楽屋裏で”森の水車”をやるときのせせらぎの音――甲板ブラシで太鼓をこする――を、のぞいて面白かつた。)

平和実現に向かいて・・

 伴 弘次生徒には、兵学枚生徒としての摸索の対象が、しだいに具体的なかたちであらわれてくる。思想の深化が見られてくる。

 卒業までの短い時間に、かれは、自分の使命について、死生について、若い自分の下士官・兵に対する指導力心構えについて、追究を強めてゆく。兵学校生徒は外へ一歩出ると、下士官・兵から敬礼きれる立場なのだ。

昭和十六年七月七日。支那事変記念日。正午黙祷。神に自らの正しき事を些かも疑うことなく死したる者を受け入れ給へ、と祈った。)

(八月十七日。巡航。朝凪の海の静けさ・・・・平和なる江田島の海山。明日の日本の戦士を育くる母胎・・・・余は美しき心の持主、平和なる強き武人たらまし。世界平和の実現、人類の闘争絶滅への理想に向かいて一進一退、世界は推移す。理想への途上、犠牲の多きは亦止むを得ざるべきなり。専ら我が死に際し、余は余の行為を最後迄正しと信じて死にたし、と希うのみ。)

八月二十日。我が青春のあまりにも短かきに嘆かざるべからず。青春を楽しむべからざれば、青春をして壮年の素地を養うべき時代たらしむべし。己が道を啓け。)

(九月四日。余は神に対し今日今迄生くることを許されたるを感謝す。神は愛なりとは、我罪深きにより実感すること切実なり。常に常に顧みて過ちを悔い、是を期せん事こそ肝要なれ。昨日の余は今日の余にあらず、明日の余は今日の余にあらざるべし。)

(十月四日。我武人として散り果てん後は

   “白露の生命ともがな 散り果てて

     澄み渡りたる秋の大空“)

(八月十二日。日曜日、倶楽部にて、「どん底」を読みたり。)

(十一月六日。哲学は解りはじめたら、面白そうだ。・・・・)

(十一月十日。大塚 正雄生徒より、新愛唱歌集をいただいた。「嬉しさにつけ、悲しさにつけ、楽しさにつけ、歌えよ、君。伴生徒へ」)(十二月七日。日曜。十時より西田倶楽部に於いて四号会開催、小母さんに借りて「ギルド・モーパッサン」の「女の一生」を読みたり。芳枝先生に「あなたにはまだ早い・・・・」と云はれしことありたるも心理描写に注目し、フランス人の心性を深く感ぜり。又人生の社会の一面を赤裸に示されたる如き感を受けたり。−何故に人は斯くももろきぞ。)
肉体滅亡の瞬間を考える

昭和十六年十二月八日。太平洋戦争開戦の報は、即刻、知らされたが、しかし兵学校内は興奮の気配はhsなく、静寂を保っていた。以後、彼の日紀に死生を考える内容の記述が多くなってゆく。

開戦劈頭の真珠湾攻撃における甲標的作戦は国民に衝撃をあたえた。

(十二月十五日。余は死生を超越し、肉体を完全に駆使し得る精神を錬成するに努めん。肉体滅亡の瞬間何を考ふべきや?)

(十二月二十五日。死は易し 生は易し。生は難し 死は更に難し。) 翌十七年、かれは二十歳になった。さらに。内省がすすむ。

(一月一日。余は死の目標を極めて身近に感ずる。この短期間に如何なる修養を積むべきかに就きては、大に考うるを要す。余の死をして、最大の効果あらしむべく努力せん。)

一月六日。余は無限なる余を信ず、愛とは? 十字架を負ふとは?自ら死して他に・・)

(一月十一日。一生は向上の一日の反覆にして、一日はまた人生の姿ならん。一日の終りを安眠に導く如く、一生の終りをば安眠に導かん。)

(二月十六日。昨夜「シンガポール」陥落す。他民族を使うに際し考うべき事如何。全滅を期して戦はば、彼の大要塞も大なる価値を発揮すべかりしを。)

(三月十二日。芳枝先生より御手紙を頂いた。まるで、弘次が特殊潜航艇に乗ると始めから決めている様なお手紙だった。)

(三月二十日。兄より手紙来る。余の死を恐れいるものの如し。死、あに怖るるに足らんや、何ぞ、弟を惜しむ。)

(四月七日。精神科学の時間に、“時間”に就いて学んだ。天地の其の中に動いて行く時間、昔と未来がある時間、死と生がある時間、将来部下を持った時に部下が安らかに死ねる様に立派な死生観を与へる事が出来ねばならぬ信念が大切だ・・・・と思った。死生観集を何十冊読むのより唯一つ己の信念があればよい。)

(五月十日。川尻倶楽部にて「アンドレ・モローア」著「フランス敗れたり」を読み、生を求めて流転しつづける世相に、生を擲って精神の高きを求める者無き欧洲を悲しく思いたり。)

 八月二日から八月十四日の夏期休暇日誌に、

(父母の膝下にありて、懇切なる訓戒を受け、また極力、自己の死生観、決心などを申し述べたり。父より注意せられしことのなかに「汝、若きがゆえに死を軽んじ、死して暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)なりと云われんか、そは大不忠、大不幸なり。一刻を惜しみてそれ自覚するに努むべし」と。これは吾人の死に際しては、修養の深浅により死をして価値あらしむるや否やを決すべき能力に大なる差異を生じ、死を誤ることあればなりと思考す・・・・)とある。

 死生を考えるかれは、二人の友人の死にあう。一人は、短艇競技を終わった直後における死であり、もう一人は、自殺による死である。

(昭和十七年五月十七日。第四分隊第二学年生徒、田村誠治は四部の予選にて第一着となり「ゴール」にて「櫂立て」を為したる後斃れ、遂にまた帰らず。兵学校の全生徒に大なる感銘を与へて死せり。

  田村生徒の斃れて後止むの精神を深く感ぜしめられたり。彼の死は彼の精神を表して余りあり。死の前の肉体的苦痛に克ちて競技に出場せる精神力の偉大さに打たれざるべからず。人の死に臨むとき最後の態度は実に其の人の平生の精神を表はすものなりと確信す。・・・)

 十一月十八日、一号生徒になった直後、ある生徒が倉庫のなかで、隠しもった小銃弾を小銃に装填して、足で引き金を引いて自殺するという事件があった。

(自刃に閑し己の所感を述ぶ。彼の死は、公を滅したる点において余の最も不可とするところなり。天職は自らを求め、完全遂行に努力すべきを悟らず、是空不可解を苦と観じて奮闘をなげうちたるは、最大の愚行なり。余もまた、精神科学教務に於いて学びたることを全幅理解し得ず。されど信念あり。彼にはこの飛躍なかりしなり。彼を責むるや、環境を責むるや知らず。ただおのれの修養努力の必要を痛感するのみなり。

指揮官たるの心構え

 死生の問題を追及し、精神科学、宗教を学び、さらにかれは、“下士官・兵の上官である将校としての責務とは何か”という問題に行きあたる。

(昭和十七年六月二十日。一週間の乗艦実習を顧み、下士官、兵を従容と死につかしむるには、指揮官たらんものは、連綿不断の修業によりて得られる高邁なる精神をもってかれらを指導せざるべからざるを痛感せり。)

二十一歳。昭和十七年十一月十五日、伴 弘次は−号生徒となる。

 兵学校の分隊というのは“家庭”に相当し、その“家庭”における長兄のような立場にあるのが最上級の一号生徒であり、当然、下級生を訓練する立場にある。

 かれはかっての四号時代を回顧して、

(上級生徒は総てのことで、皆下級生徒の模範である。上級生徒は下級生徒のすることは、なんでも全部立派に出来る。指導して下さる時はいつも、俺を見ろ、俺の通りにやれ、俺について来い、である。それが強靭な体力と綿密な週間性の賜物であるということを知り得たのは、ずっと後のことであった。)と書いた。

同じ分隊の伍長だった澤本倫生氏は「伴は、ぜつたいに三号を殴らなかった。人間は殴って教えるべきものでない、という確固とした思想をもっていたようだった」と、述壊する。

この下級生を殴る、殴れないということについて、それを、人間性に関係するという人もいるし、やたらに殴ることはいけないが殴らなければ駄目だという人もいる。戦時中の緊迫した訓練で、どれが正しいか、判断はむずかしい。

 これについて、ついに殴ることのなかった伴 弘次は、その人間指導の信念として、一号生徒がしっかりした態度をしめせば下級生たちはかならず見習ってくれる。と、つよく信じたようである。かれはまた、一号生徒の絶対性を求めた。


(昭和十八年一月十八日。第一学年生徒にして、点検に際し、不十分なる点、多々ありしは一号の指導いまだ徹底的ならざる証なり。)

(一月二十八日。夜、柔道場にて、論壇会あり。多数意見を述べる者あるも余はついに口を開かず。日常の生徒館生活を、さらにさらに反省し、これが改良進歩に努力せざるべからず。余が鉄拳を用いざるも、この熱意不足のためなりとせば、顧みて恥じざるべからず。)

(二月第四週。「鉄拳使用の不可」は余の信念なりしも、あまたの命令違反または命令の不徹底に対する憤念において、従来の信念に大なる動播を感ぜざるを得ず。余は、相手をして,おのれのを十分に感ぜしむるごとく、積極的なる態度を以って事にあたらん。)

(三月六日。短艇点検。索具の端止めの施しあらざるものありたるは、一号の非積極性を表せる一端なり。恥じざるべからず。)

(四月一日。一号にもなりて、馬術訓練中止きれたるを喜び、馬術に行きしつもりにて遊ばんなどというものあるは、もっての外なり。)

(六月第一週。小悪を見逃がす生徒館の怠惰、悪循環はこれに狎(な)れるべからず。・・・・「昔はかくなりき・・・」の言を羨望せず、余は良しと思うこと、理想的なることに向かい、最善を尽くさん。一号の奮起を信ズ。)

 かれは、鉄拳といい、新入校生徒を服従、という言葉を使うが、じつは卒業後、下士官などの部下をどう統率してゆくべきか、そのことが頭を占めていたようである。任官後、“自分の父親ぐらいの補充兵をどう教育したらよいか”という悩みの書簡もある。

(新入校生徒を導くに際し、まずぜったい服従を強要すべきか。

“否”というべし。まず、絶対服従とは何たるかを知らしむべきなり。さらに一号の諸命令伝達に対する実践躬行、二号の協力をまことに必要とする所以あり、と信ず。)

(卒業まで残るはただ一カ月。この間にわが最善をつくして、帝国海軍に必要なる生徒館の支柱・つっかいの棒の心構えを下級生に伝えん。最後の1ヵ月を如何にもして兵学校の弱点除去に対する努力に力を注がん

卒 業

 かれは「海軍の支柱・つっかい棒たれ」という心構えを把握したのだろうか。

(昭和十八年九月十五日。卒業式。ロングサイン」に、艀は表桟橋を放れて行く。校長、監事長、各監事教官方、また官舎の夫人、倶楽部の小母さん、下級生が岸壁にぎっしり並んで帽を振っている。

 左様なら! 写楽隊の吹き鳴らす「ロングサイン」が、“海行かば”“軍艦マーチ”が、高く低く響いてくる。

「今日は手を取り語れども明日は雲居を他所の空・・・・」別離の歌がふと頭に浮かぶ。

 ・・・艀が「阿多田」に着いて乗艦。「万歳」「万歳」の連呼。津久茂の鼻をまわると、生徒館が見えなくなる。

「さらば」再び見ることなき生徒館。三春秋を鍛えたる江田島よ、「さらば・・・・」)

伴 弘次生徒は、苛烈な戦場に身を投ずることになるが、かれは四号の巡航時、「・・・・平和なる江田島の海山、明日の日本の戦士を育む母胎・・・・平和なる強き武人たらまし。世界平和の実現。人類の闘争絶滅への理想に向かいて、一進一退、世界は推移す。」といった。

 同じ海軍兵学校で学んだ人々は、@ 戦争  A 武力をどうかんがえるであろう。

田中一郎氏(67期・艦攻)

 @ 戦争はいけない。避けるべきは当然である。しかし、世界では戦争、国際紛争の絶え間はない。

A 国際連合等、究極において、紛争を解決する手段がない以上、国際交渉を支える武力、抑止力としての戦力は必要である。

後藤英一郎氏(72期・駆逐艦「槇)

@ 闘争は人間の本能の結果おこるものであって、絶対になくならない。

A 国を守る戦力は、ぜったいに必要である。

小灘利春氏(72期・「回天」

@ 戦争は避けるべきであるが、国を守る意志は必要である。

A 武力がなければ、こちらの言うことも通らない。国家として相手のいいなりになる土下座。その屈辱を受けないための武力は必要である。

平野律朗氏(72期・艦攻)

@ 戦後というが、日本に戦争がないというだけで、戦争の絶え間はなかった。

A 国を守るための戦力、武力、国防の意識は必要。戦力は必然である。。

津洋正次氏(77期・大原校)

@ 第二次大戦以来の世界を見ると、戦争は連続して起っている。

A カギをかけるのも国防という考えも為る。国家総力戦だけが戦争ではない。むしろ地域紛争的戦争に備える武力は必要である。

中村 朗氏(78朋・予科兵学校)

@ 戦争はぜったい避けよ。。こんどの戦争は、第二次大戦の比でない。

A 国を守るにしても、武力を使わない方法を考えるべきだ。すこしくらいの戦力は無意味。ちがう力をもつことを考えよ。

(丸から)

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