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なにわ会のブログ 22年12月

121

この日の戦没者なし

 

この日の戦後物故者

辻岡洋夫 平成18121日  没

辻岡 洋夫君を悼む  向井寿三郎  の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tujioka-mukai1.html

辻岡君を悼む     左近允尚敏  の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tujioka-sakonjyou1.html

辻岡君を偲んで    山田 良彦  の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tujioka-yamadayosihiko1.html

 

はや12月に入った。昭和1912月には33名(水上艦艇11名、航空部隊16名、潜水艦6名)が戦没している。10月、11月の戦闘で水上艦艇の被害が大きく、戦闘行動可能の艦艇が減ってきたのと、航空要員が実践に参加し始めたこと、さらに潜水学校の学生を終了して潜水艦に配属されるものが出てきたこと等あって、上記の数となっているようである。

 

1130日常用漢字が改訂され、196次が追加、5字が削除された。これで、47都道府県は全部常用漢字で表記できる。また横須賀の須、鎌倉の鎌、韓国の韓も常用漢字に加えられた。その他、よく使われる単漢字の誰、頃、宛、貼、狙、謎、俺、賭、崖、嵐、溯、虹、餌、柵、匂、諦、且、闇、芯、瞳、憧、私も加えられた。

 

122

この日の戦没者 66年前 昭和19

吉羽 宏(46 潜水艦)

191019比島東方海面に向け呉出撃、1026船団を認め、報告後消息を絶つ(戦死認定)

鈴木敏旦・岩佐 肇(桑 駆逐艦)

7次多号作戦のためマニラ発比島オルモック着、揚陸作業中、敵駆逐艦・魚雷艇と交戦し、沈没して戦死

土井 仁(伊41 潜水艦)191018比島東方海面に向け内海西部を出撃、113比島東方海面で敵機動部隊攻撃後消息を絶つ(戦死認定)

(米護衛駆逐艦ローレンス・C・テーラの爆雷攻撃により191118沈没:米軍資料)

 

この日の戦後物故者なし

 

123

この日の戦没者 66年前 昭和19

鈴木 健治( 302 偵察) 29迎撃に向い本州東方洋上で消息を絶つ(月光)

海兵受験記      鈴木 健治  の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/sonota-kaihei-jyukennki-suzuki1.html

 

この日の戦後物故者なし

 

昨日 中川 好成 君の奥様浪子様からの喪中欠礼の葉書を頂いた。

体調不良とは聞いていたが突然のことで驚いた。 電話をかけてお悔やみを申し上げようとしたが電話に出られず、亡くなった日、病名等詳細が分からない。ご存知の方がおられたらお知えて下さい。

 

124

この日の戦没者 66年前 昭和19年 なし

 

この日の戦後物故者なし

大田 威夫 平成9年 124日 没

太田 威夫君を偲ぶ  浅村晃司の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-oota-asamura1.html

父の死  太田 学氏の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-oota-oota1.html

 

中川好成君の訃報を見て、70期の森田さんからメールを頂いた。

森田さんは終戦直前723航空隊で中川好成君と共に最高速の偵察機 彩雲に爆装する計画で、木更津で訓練をし、20.8.12 神風特別攻撃隊彩雲隊命名式の時の戦友であったそうです。

哀悼の意を表して頂いた。森田先輩、有り難うございました。

 

今までHPビルダー12を使用していたが、昨日HPビルダー15が発売されたので購入して、HPを修正している。

 

125

この日の戦没者・戦後物故者ともになし。

 

左近允尚敏君から彼が1976(昭和51)練習艦隊司令官として遠洋航海に行く歓送会の時の写真

↓を送ってもらいました。

 

左から

後 列 溝井、押本、(竜崎)、加藤、中村正人、堀、小松崎、上田

2列、渋谷信也、石津、槇原、藤井、間中、(増岡)、国生、中村元一、中西

前 列  品川、木村、冨士、左近允、高橋、市瀬、飯野

 

その遠洋航海は521日〜1022   北米・南米東岸に行きました。

34年前で、写真のクラスメイトは50歳代前半、皆若いですね。

懐かしい顔が沢山見られますのでヌログに掲載します。

クラス22名中、現在の生存者は上田、堀、中村正人、溝井、渋谷信也、市瀬と貴君の7名で、15名が故人になっています。

 

126

この日の戦没者 66年前 昭和19

齋藤 徳道(伊 37 潜水艦)

19118回天特別攻撃隊菊水隊の一艦としてコッスル水道に向け大津島出撃以後消息を絶つ(戦死認定)

(米護衛駆逐艦コンクリン及びレイノルズの爆雷攻撃により191119沈没:米軍資料)

齋藤君については、山田 穣君の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-saitou-yamada1.html

青木 孝太・麦島 修(伊 38 潜水艦)

191019■比島東方方面に向け呉出撃、11.4敵機動部隊を発見報告後、消息を絶つ(戦死認定)

(米駆逐艦ニコルスの爆雷攻撃により191112沈没:米軍資料)

 

この日の戦後物故者なし。

 

12 7

この日の戦没者 66年前 昭和19

宮林 久夫(杉 駆逐艦) 比島西方海面にて敵機の空襲を受け被弾負傷、その後戦死

宮林君については次の4つの記事がある。

故宮林 久夫君の母上宛の生徒のときの手紙

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/iboku-miyabayasi-titihaha1.html

宮林久夫君への弔辞  樋口 直

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-miyabayasi-higuti1.html

亡き弟を偲ぶ  土原弘子(姉)

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-miyabayasi-ane1.html

能登路に宮林君を偲ぶ  矢田次夫

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-miyabayasi-yadatugio-noto.html

 

難波 経弘(634 偵察) 比島パナイ島発進後発動機故障、不時着の際、頭部を打撲戦病死(瑞雲)

 

この日の戦後物故者なし

 

1号時35分隊監事であられた青木厚一氏(兵66期)が平成22年12月 6日 0400 肺炎で逝去された。青木先輩は終戦時初桜艦長で、その時国本鎮雄君が同艦砲術長、左近允尚敏君が同艦航海長だった。

12 8

この日の戦没者 なし

 

この日の戦後物故者

刀根康之輔 平成16128日 没

 

先月亡くなった故中川好成君の奥様から次の葉書を頂いた。

「夫 好成は以前よりがんを患っておりましたが、2007年暮に転倒骨折して以来寝たきり状態でした。幾度となく危険な状態に陥ったことがありましたが、持ち前の強靭な生命力で乗り切ってまいりました。

然し乍ら本年1113日がんの肺転移により逝去いたしました。

苦しまずに、安らかに旅立ったのがせめての救いでした。」

 

127日水交会で第2回海軍兵学校の会が開催されました。

参加者は68期の茂木明治先輩、70期の浅村 敦、高井太郎、三浦 節、宮崎富哉の4先輩、7T期の三神武雄先輩、72期の伊藤正敬、都竹卓郎の2名を始め、733名、749名、7524名、7620名、7719名、7812名、合計93名でした。
最初に三浦先輩の挨拶、次いで高井先輩の音頭で乾杯、次いで最長老の茂木先輩のスピーチがあって懇談に入り、テーブル席での話に花が咲きました。
 今年は76期が世話役でしたが来年は77期が世話役で会が開かれる予定です。

 

74期訃報

廣川 寛 様(1学年46分隊)

 平成211231日 逝去
牧田 明 様(1学年64分隊)

平成221113日 急性脳梗塞で逝去

 

12 9

この日の戦没者・戦後物故者 ともになし

 

昨日パソコンの文字入力が突然「かな入力」に変った。何時も「ローマ字入力」を使用しているので、「かな入力」では上手く入力出来ない。然し、「ローマ字入力」に戻す方法が分らない。やっと見つけて戻すことが出来てホットした。

Altをおさえて言語バーのkanaをクリックして戻った。ご参考になれば幸いです。

 

1210

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

藤範 純二(伊365 潜水艦)

19111小笠原東方方面に向け横須賀出撃、1125無線連絡後消息を絶つ(戦死認定)

(米潜スカッパード フィッシュに水上航行中を発見され雷撃を受け191128沈没:米軍資料)

濱田 正俊(佐伯空 大艇操)

豊後水道対潜哨戒に発進後九州南方洋上で消息を絶つ(二式練艇)

 

戦後物故者なし

 

左近允尚敏君から大昔、昭和285月故加藤孝二君で写した ↓ の写真を送ってもらった。

未だ30歳前後、若いですね。何故か皆嬉しそうな顔をしていますね。
後列 飯沢、池田武邦、中田、猿田、加藤、左近允、伊中
前列 來島照彦、渋谷信也、安藤(10人中5人健在)

 

 窪添龍輝君から4号以降のなにわ会だより配布のため年会費の振込表を送ってもらった。

今までに納付されたのは、次のとおりである。

会員    101名(兵80名、機12名、主 5名、会友 4名)

物故者遺族  43名(兵35名、機 2名、主 4名、会友 2名)

戦没者遺族 57名(兵52名、機 5名)

有志     6名    合計207

4号からはこの207名に送付する。

 

1211

この日の戦没者 66年前 昭和19

前田 政夫(卯月 駆逐艦)

比島方面作戦中比島オルモック湾で来襲した敵機と交戦、沈没戦死

 

この日の戦後物故者なし。

 

昨日は堀剣二郎君の書き込み、あらい様のコメントを頂き、とても嬉しかった。

 

1212

この日の戦没者 66年前 昭和19

水上 源一(戦401 戦闘機)

直衝を終え比島クラーク基地帰投時、他機に追突墜落し、戦病死(零戦)

 

この日の戦後物故者なし

中垣 義幸 平成9年 1212

 

昨日齋藤義衛君の「比島沖海戦 機関科の戦闘(10月初めブログ寄稿の記事)をHPに取り込んだ。

 

1213

この日の戦没者 66年前 昭和19

小松  弘(201 戦闘機)

神風特別攻撃隊第2金剛隊として比島ミンダナオ沖の敵艦に突入戦死(零戦)

 

この日の戦後物故者なし

 

京都在住の山本省吾君から丁重なメールをいただいた。その中の一部を転記する。

「毎日、ブログを見ていますが、貴兄のお陰で、よく、ここまで継続しており本当に感謝しています。クラスの人々も弱ったり、亡くなったりして減る一方で寂しい限りですが、一方遺族やその他の若い人たちが、HPやブログに関心を持ち、ファイルを開いてくれ、どんどん増えているのは有難いことです。戦争の実態が少しでも分かってもらえば幸いです。ぜひ来年も引き続き健康な限り、宜しくお願いします。

会誌のほうも、私の希望としては単に事務的な報告ではなく、ブログの面白い情報や会員の動向など出来る範囲内で載せてもらえば、PSの出来ない人はきっと喜ぶことと思います。

最後に私の方ですが、年々老化速度が進んでおり、最近は脚が弱って歩くのが大変です。

昨日、京都のセブンティ会で小西君に逢いました。彼は元気で奥さんの世話をして買物に出掛けたり、1時間近く掛けて教会の経理監査を続けたりしていて、まだまだ頑張っているようです。」

 

昨日は齋藤義衛君が書き込んでくれて、嬉しかった。多数の会員が書き込んで呉れること、お願いします。(何でも結構です。近況でも、思い出でも、簡単でも詳細でも)

 

1214

この日の戦没者 66年前 昭和19年 なし

片岡 啓造(201 戦闘機)

神風特別攻撃隊第5金剛隊として比島ミンダナオ沖の敵艦に突入戦死(零戦)

神保 政夫(戦804 偵察)

索敵攻撃の為基地発進後、比島スルー海で消息を絶つ(月光)

粒良 久雄(鹿屋空 陸攻操)飛行訓練後、宮崎基地に着陸時、エンジン発火、墜落し殉職(一式陸攻)

 

この日の戦後物故者なし

 

左近允尚敏君から次のメールを頂いた。

「昨日池田君から電話をもらったときも聞いたのですが、彼の一代記(戦争体験中心?)を読売の記者が取材を重ね書いて光人社から出版したそうです。ブログで紹介されてはと思い、お知らせします。」

この件については既に819日のなにわ会ブログで紹介しているが、念のため再度紹介する。

本の名前  軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争

著者名   井川聡

書籍紹介   新鋭軽巡洋艦の誕生から沈没の日まで466日の生涯にわたって艦橋に立ち、太平洋戦争後半の三大海戦に参加した若き士官―戦後、日本の超高層建築時代を拓いた建築家が初めて語る苛烈な戦場体験。21歳の海軍士官が見た日本海軍の最期。

価格    2,415

目次    第1 江田島精神

      第2 マリアナ沖海戦

      第3 レイテ沖海戦

      第4 沖縄海上特攻

      終章 魂は死なず出版社名

発行所   光人社

発行年月  20108

ページ数  445ページ/20cm

 

齋藤義衛君から頂いたメールの中から。

「機関科の飛行機乗りは20名、その内戦闘機乗りは10名、そして7名が戦死、戦後病没2名で現存は安藤のみ。その安藤が昨年以来入退院を繰り返し、目下足立区の老人施設。彼とは記念誌を二人で編集したりして取り分け近親の仲。毎月見舞っていたが夏以来面接も叶わす悲しい、筆記が交流の手立てなるも。今更携帯メールも薦められない。」

 

1215

この日の戦没者 66年前 昭和19

杉山 充彦(桃 駆逐艦)

比島西方海面で敵機・敵潜の攻撃を受け消息を絶つ 

太田 雄三(201 戦闘機)

神風特別攻撃隊第9金間隊として比島ミンドロ島沖の敵機動部隊に突入戦死(零戦)

本間 倫夫(攻 5 偵 察)

 敵空母攻撃の為基地発進、比島パナイ島で敵機と交戦戦死

 

戦後物故者なし

 

1216

この日の戦没者なし

 

この日の戦後物故者。

河口  浩 平成8年 1216日 逝去

河口 浩君を偲んで  富尾 治郎の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kawaguti-tomio1.html

 

有志会員の上原光晴さんが12月初め、学研から『「回天」に賭けた青春―特攻兵器全軌跡』を出版されました。419p 19cm(B6) \2,500(税別)です。

要旨  丹念な取材と史料の精査で“真実"に迫る「回天戦記」の決定版です。

目次は

序章 原案をつくる五人の少・中尉

1 黒糸縅の若武者たち

2 潜水艦戦の敗北まで

3 甲標的から人間  「回天」に賭けた青春

広範な聞き取り調査と徹底した史料の精査  

二度と書き得ぬ「回天戦記」決定版!

決死必中から必死必中への道程

優れた素質に恵まれ、洋々たる前途が開けていた若者たちによる、回天や神風といった特攻の悲劇を、二度と起こしてはならない。

平和への熱い願・・・

4 先陣を切る菊水隊、続く金剛隊

5 光基地を重点に部隊編成

6 魚雷併用の洋上攻撃へ;終章 大津島をわたる風

 

上原さんから頂いたメールと葉書から
「米側からの写真を載せるなど新しいデータを入れ、充実させました。これまでの類書の誤伝も訂正してあります。72期の皆様方のご活躍をご紹介いたしております。
人間愛、祖国愛の極地がテーマです。ご高覧賜われば幸いです。」

なにわ会HPが開設以来5年と10ヶ月(2125日)でHIT17万件を突破しました。1日平均80件です。

 

1217

この日の戦没者なし

 

この日の戦後物故者

安井四郎治 平成21 1217日 逝去

55期訃報

松本 公男 様 22.11.17 

 

1218

この日の戦没者 66年前 昭和19

山本 勝雄(332 戦闘機) 岩国から鳴尾基地に移動、着陸時失速、堕落殉職(雷電)

 

・戦後物故者なし

 

昨日齋藤義衛君から次のメールを頂いた。

「私は腰痛のケアーで週2回真面目に近くのK整形外科に通院している。ある日院長より週1回通院の海軍士官F氏を紹介される。慶応大学卒短現の海軍士官、89歳。

氏はジャワの海軍第21根拠地隊勤務で上官が機46期の安田機関参謀なるを知り吃驚。安田参謀は我々生徒時代の教官である。早速三鷹にお住まいの安田氏に電話。そして初めてジャワ戦記を伺う。同封資料是非各位にもお目に掛けたいと思い、教官の了解を得てお送りする次第です。」

と言う事で、ジャバ戦記を送って頂いたのでHPに掲載した。

 

 

 

1219

この日の戦没者 66年前 昭和19

古宮 弘一・椋田 郁哉・森本  徹・大垣浩一郎(雲竜 空母)

 マニラに向け重要物資の緊急輸送中、東支那海で敵潜の雷撃を受け沈没戦死

空母雲竜の最後  森野 広 様(73期)の ↓ の記事がある。

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kuubounryuuosaigo-morino1.html

 

この日の戦後物故者

清水憲太郎 昭和55 1219日 逝去

突然逝った清水憲太郎君   伊吹 明夫の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukenntarou-ibuki1.html

清水憲太郎君の思い出  伊中 四郎の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukentarou-inaka1.html

清水憲太郎君への弔辞  東條 重道の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukentarou-toujyou1.html

清水憲太郎君への弔辞  鳥取市海友会長 浜本 義郎様(65) ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-simizukentarou-hamamoto1.html

 

江藤 雄三 平成9年 1219日 逝去

江藤雄三君への弔辞  槇原 秀夫の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-etou-makihara1.html

 

出口 勝己 平成21 1219日 逝去

 

23年新春湘南なにわ会の参加予定者名簿に、誤りがあり訂正しました。

 

1220

この日の戦没者なし

 

この日の戦後物故者

浜田 一郎 昭和62 1220日 逝去

浜田一郎君を悼む  富尾 治郎の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-hamada-tomio.html

 

77期会報(H22.12 「江田島」92号)を頂いた。

1 平成8年創設されたコール77は今年1028日(木)に創立15周年記念講演会を開催された。

2 内容は地区期会便りが7頁、コレス(主)からのメッセージ5頁、23年度行事予定7頁、俺も77期が11頁等が中心となっている。

548頁の会報である。

 

1221

この日の戦没者 66年前 昭和19

久保  孝(千鳥 水雷艇) 御前崎沖で敵潜と交戦、雷撃を受け沈没戦死

 

この日の戦後物故者なし。

 

74期訃報

篠 憲二 様(1学年36分隊) 平成221215日 逝去

 

1222

この日の戦没者なし

 

この日の戦後物故者なし

秋山昇三郎 昭和60 1222 11 19851222日 逝去

秋山昇三郎君を偲んで  片山 勇の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-akiyamasyousaburou-katayama1.html

 

1223

この日の戦没者・戦後物故者ともになし

 

次の本が出版された。

監査法人を叱る男(副書名 トーマツ創業者・富田岩芳の経営思想)

出版社              発行所=プレジデント社

                早房長治

税込価格           1,680円(本体1,600円+税)

発行年月           201012月  判型     B6

冨田岩芳君は経33期である。

 

73期の会報 93号を頂いた。(A6判64頁)

内容から

1 22108日戦没者、戦後物故者のご遺族を含め86名が参加して参拝慰霊祭を行った。

  来年からは慰霊祭に代えて毎年322日の永代神楽祭に参加する。

2 クラス会の運営要旨

a 会報 従来どおり年2回発行する。

b 総会、全国幹事会 2210月をもって最終とする。

c 会費 会員及び準会員の年会費は22年以降徴収しない。

73期は基金が多いので、年会費を廃止しても、平成27年までは運営可能の見込み)

d 名簿は名簿幹事(正副)が協力して改訂維持する。

3 訃報(なにわ会だより3号掲載分以降)

  神尾義尚 様 22. 5. 4 没  原 真純 様 22. 5.18

  上垣 済 様 22. 7.10 没  高舘長冶 様 22. 7.26 没

  北郷隆昭 様 22. 7.27 没  阿部三郎 様 22. 8.24 没

  喜田 昭 様 22. 8.26 没  森脇輝雄 様 22. 9. 4 没

  古怒田務 様 22.10.20 没  松井一彦 様 22.11.13 没

 4 会員の現状

現存者 261名  戦没者 282名  物故者356

 5その他

  a ミニクラス会(6地区の地方クラス会)の記事が7頁、物故者9名関連の記事が15件、15頁、が掲載されている。

  b 戦記として戦艦大和の思い出と米海軍教会機関紙でインタビューを受けた長谷川 薫氏の記事がある。

 

1224

この日の戦没者なし

 

この日の戦後物故者

早崎 善範 平成16 1224日 逝去

 

74期訃報

河野善治 様(1学年53分隊) H22.12.22 逝去

 

HPを見た京都の学生さんから次の内容のメールを頂いた。

「今、京都の同志社大学の学生が中心となって、815日を平和記念日にする活動、『きょうから始まる温CO知新プロジェクト』 を発足させています。

今年の815日には京都みやこメッセに、1500人が集まり、平和の尊さを考えました。

プロジェクトでは、戦争体験を第三世代から第四世代へ語り継ぐ活動もしており戦争体験を集めたドキュメンタリー映画『語りを未来へ』も制作しました。

これは京都市教育委員会より、平和教育資料として採択され、来年度より中学校で教材として使用されます。

私はこの映画の監督をしているのですが、来年度にむけて、第二作を制作中です。まだまだ伝えなければならない戦争体験があるのですが、今回実際に戦地へ行かれた兵隊さんにお話を伺いたいと思っています。

そこで、突然のお願いで、大変申訳ありませんが、戦地へ行かれた兵隊さんをご紹介していただけませんでしょうか?」

HPはいろんな方が見ておられますね。上記の話に応じてもいいという方、ご連絡いただければ嬉しいです。

 

1225

この日の戦没者 66年前 昭和19

朝稲三知也(戦308 戦闘機)

比島に出撃、比島ルソン島でB24を迎撃、これと交戦戦死(零戦)

村上 敏雄(攻252 偵察)

レイテ島東方の敵輸送船団を攻撃後、消息を絶つ(天山)

 

戦後物故者なし

 

昨日逝去された足立之義君は今月初めの幸田正仁君企画の歩こう会の1泊旅行に元気で参加して見えたのに突然の逝去で驚いた。慎んでご冥福を祈る。

 

広島の特4号自任の田島明朗氏から呉水交51号を送って貰った。この本はA5版で本文85頁、広告36頁となっており900冊印刷されているが、この広告代で印刷経費38万円を賄っている。

この中に、秘話として田島明朗氏が山本五十六長官の手紙 沢本頼雄海軍次官に当てた8通の手紙の中の3通を紹介している。

沢本次官は故沢本倫生君の岳父で田島明朗氏の伯父にあたる。この8通の手紙は昭和168月から戦死(昭和184月)の前月までに出されたものである。歴史読本20109月号に2通、波濤(海上自衛隊幹部学校)20011月号に1通紹介されており、残り5通のうち3通が取上げられている。

その1

昭和17315日  旗艦大和 内海柱島

8月付貴簡拝受

1、私用にて度々ご配慮恐入候

2、選挙官営と決定自分等の不評を緩和する為鈴木、星野、武藤等かしきりに海相をかつき居れりとの巷説は結局デマと信居候へ共為御参考

3、艦隊は少しでも物の移搬に協力せむと申し出て第1艦隊は追々順次帰還するものあらむも出先各地に於ける算用の準備あるをきかす為念

4、首相は豪州印度も来合せされは攻略せむと公言せり之は兼陸相としては居られすと存じ研究を進め居候

5、此頃5日間呉にて改装整備等を為す此間保利医校長の顔をちらりと見ても一団に及ばすして訣れ不徹底にて出港致候

 餘寒祈御自愛候       敬具

 315日              山本五十六

澤本中将閣下

 

その2

 昭和17810日  旗艦大和  内海柱島

先□□御清廉慶賀

但し雀遊の成績はあまりあがらざる由の事

益々御□□祈御自愛

  810日    山本五十六

澤本中将閣下

 

その3

 昭和18年3月6日  旗艦武蔵  泊地トラック

 中村前副官着任東京高官各位御精励の由承慶賀の至に候議会等にて一層ご多忙と拝察ことに前□ニューギニア作戦も多難御心配をかけ不相済候しかしまだまだアリューシャンマーシャル及ラエ方面の血戦等いよいよ混乱惨閥ノ場面可生と存じ緊褌奮励の覚悟に候

餘寒御自愛祈上候       敬具

澤本中将閣下   3・6    山本五十六

  別封処理願上候

 

以上の3通の手紙には解説が記されているが転載はしなかった。

 

1226

この日の戦没者無し。 

 

この日の戦後物故者。

坂田善一郎 昭和62 1226

坂田善一郎君の遺骨を拾おうとは  高松 道雄 の ↓ の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakata-takamatu1.html

下駄ばきもナイス  西尾  博 の ↓ の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sakata-nisio1.html

 

押本 直正 平成13 1226日 逝去

 押本君は長年なにわ会ニュースの編集を担当されていた。

 そして、押本君を追悼する記事がHPに18件掲載されている。

 押本直正君の命日に当たって改めて長年のなにわ会ニュースの編集に尽力されたご努力に感謝し、ご冥福を祈ります。

 

昨日大阪在住のNさんから次のメールを頂いた。

「今回メールをさせていただいたのは、戦争を体験された方に、直接お会いして、お話を聞く会が、あれば教えて頂きたいと思いました。私は、今の自分や、日本が、あるのは辛い戦争を、経験された方達の上に、成り立っていると思っています。
 戦争を、二度と繰り返さない為に、自分たちが、子どもに、語って行かなければ、と考えております。
お会いして、お話を聞ける集まりがあればと思い、インターネットで、模索していた所、このサイトにたどり着き、なにわ会というお名前なので、もしや、大阪の方面の方かと思い、メールさせて頂きました。
ご迷惑でなければ、また、お返事頂けたら、嬉しいです。」

先日もありましたが、本当にHPいろんな方が読んで頂いているようです。

 

1227

この日の戦没者 66年前 昭和19

神 正也(201 戦闘機)スリガオ海峡強行偵察に発進後、消息を絶つ(零戦)

神 正也君が水谷 潤君に出した手紙 ↓ がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/iboku-jin-mizutani.html

 

この日の戦後物故者

鬼山 茂樹 平成8年 1227日 逝去

 

76期の会報 131号を頂いた。(B5版32頁)

内容から

1 平成22106日、京都のグランドプリンスホテル京都で総会、懇親会を開催している。

2 文芸春秋6月号196頁から202頁にかけて7頁にわたって、ノンフィクション作家 梯 久美子さんが「特攻生き残り 長すぎた余生」と題して書かれた文章の事を述べられている。

梯さんは、死者を悼む場での姿が際立って美しいと思った人として建築家の池田武邦氏(海軍兵学校代72期)を挙げている。その中に、第2艦隊の慰霊の旅の追悼の言葉を述べた池田氏の挙措は端正で、たたずまいは心身の重心が定まっている人の持つ独特の存在感があった。そして全身に漂う抑制された寂寥の気配。

 

また、次の記述があった。

「私の畏恵敬する先輩の森田禎介氏(海軍兵学校第70期パイロット)が、先日私に海軍兵学校第72期とコレスの先輩方のHPである「なにわ会」には、我々が今後あらゆる苦難を乗り越えてゆくための貴重なアドバイスの言葉が収録されていると教えられた。

早速そのHPを開いてみたら、池田武邦先輩が「軽巡「矢矧」40年目の鎮魂譜」 ↓

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-yahagi-ikedatakekuni.html

と「最後の巡洋艦・矢矧」 ↓ 

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-yahagi-ikeda1.html

と題して二つの投稿があり、読ませて頂いた」

そしてこれ等の文章から引用して論述されている。



1228

この日の戦没者無し

 

この日の戦後物故者

坂元 正一 平成18 1228日 逝去

坂元君は皇后さまをはじめ女性皇族方の産婦人科担当医を長年務めた東大名誉教授で、母子愛育会総合母子保健センター所長であった。坂元君についてはHPに7件の投稿がある。

 

1229

この日の戦没者 66年前 昭和19

林 宏一(765 艦攻燥)比島方面 サンホセの敵輸送船団攻撃に向い、消息を絶つ

 

この日の戦後物故者無し

 

1230

この日の戦没者 66年前 昭和19年・

栗原 信也(呉竹 駆逐艦) 比島北方バシー海峡で船団護衛中、敵潜と交戦、被雷沈没戦死

曽我  清(801 偵察) 台湾沖で敵機動部隊の来襲に備え、空中退避中、消息を絶つ(二式大艇)

この日の戦後物故者なし

 

平成22(2010)もいよいよあと1日になりました。今年はいろんな事件が多かった年だったと思います。また、この夏の猛暑には参りました。そして、政権交代して、鳩山内閣、管内閣となったが、政治が混沌として何も決まらず、最近は小沢問題で党内が揺れ動いて国政が心配です。

なにわ会会員も概ね米寿を迎え、平成21年の年頭186名だった会員が168名となり18名を失い、さらに今年は13名を失って現在の会員は155名となっています。平成20年までは1年間の逝去者は10名以下でした。やはり85歳を超え、高齢化したので逝去者が増えたのは、已むをえないことだと思います。

なにわ会だよりも今年8月発行の第3号で従来の形式のものは終りとし、来年からは会員の情報主体のものに変更して、従来約450名に送付していたのを、年会費を納入された約200名に送付することになります。

会員の中には、体調不良で、寝たきりの者、入院生活の者、養老院や施設に入っていて行動ままならない者も多くなってきました。来年も健康に留意して元気に過ごして行きたいと思っています。

 

 

1231

この日の戦没者・戦後物故者ともになし。

 

水交平成231・2月合併号から

 1  年賀 謹賀新年として次の名前があった。

左近允尚敏(湘南水交会名誉会長)、伊藤正敬、村山 隆

  2 73期訃報  北郷 隆昭 様 H22. 7.27 没.

  3 新刊書紹介として、「レイテ沖海戦の教訓 捷号作戦はなぜ失敗したのか」 左近允尚敏著が紹介されている。

  4 特攻兵器 人間機雷「伏竜」について常廣 榮一 様(7T期)の記事がある。

  5 軍艦の火薬庫事故からの日米海軍比較と題した谷光 太郎様の記事の中に戦艦陸奥爆沈事故について次の記述がある。

 「陸奥事故 太平洋戦争たけなわの昭和18年初旬、陸奥艦内では、時計・金銭の盗難事故が相次いだ。副長大野小郎大佐は衛兵司令中村乾一大尉に調査を命じた。調査を進めているうちに、第3番砲塔員の某二等兵曹が衛兵伍長として夜間巡回中に事故が多発しているのが分かった。中村大尉は宮本武先任衛兵伍長を呼び、某二等兵曹を尋問した。某は盗みを否定。

 大野副長は中村大尉に第1艦隊司令部(呉に碇泊中の大和に所在)の高頼治法務大佐に相談するよう命じる。中村大尉は高大佐に面会し、午後3時発の艦載艇に乗り呉を離れた。この時、既に陸奥は爆沈していた。

 某は中村大尉と宮本先任衛兵伍長が呉に出かけたことから軍法会議にかけられるのは必至と恐怖し、絶望的となって自殺を考え、第3番砲塔火薬庫の火薬に点火し、罪状隠滅と自殺を図ったものと推定された。

 某の生家に憲兵隊が踏み込んだ。父はアルコール中毒、母は万引常習者で、某も高等小学校を卒業する頃から窃盗で何度も警察に連行される経歴があった。爆沈から27年後の、昭和45723日、陸奥の引揚げが行われ、一つの砲塔が27年ぶりに海面に現れた。その内部からは一体の遺骨と印鑑2個が発見された。印鑑の1個は某の姓、他の1個は某の姓と名前が刻まれていた。

 (陸奥の爆沈については吉村昭の「陸奥爆沈」、文芸春秋別冊19877月号「戦艦を爆沈させた水兵」 に詳しい。)

  6 日米同盟50年における海上自衛隊の特別な役割と題してJ.Eアワー氏が平成221028日水交会で行われた講演が記載されている。

彼は5つの重要な出来事とその前の海上警備隊発足前の1950年の出来事について次にように述べている。

その1 1950年の北朝鮮に対する仁川上陸作戦における日本海上保安庁の掃海艇の活躍

その2は1960年頃の海上自衛隊の事です。この頃は、海上自衛隊は殆ど何も出来ず、日本の海上防衛はその多くを米国により担われていた。

その3 1989年代におけるソビエト潜水艦に対する海自航空部隊及び艦艇部隊の諸作です。日本のp3のコンプーターは7艦隊のP3のコンプーターとデーターリンクを通じてリアリタイムに情報交換が出来た。之はソ軍に対する抑止の真髄です。

その4 1991年のペルシャ湾への4隻の掃海艇の派遣です。

その5 2001年の護衛艦を伴った海自補給艦のインド洋への派遣です。これは2009年まで続いた。

そお6 2009年の海賊対処法を制定し、海自の護衛艦とP3Cをソマリア沖海域に派遣したことです。

(項目のみ転記した。)

 

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