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平成22年4月19日 校正すみ

帖佐さんと回天隊創生の頃

平成 7年 4月

小灘 利春 

 生き残った回天搭乗員の中で最古参であった帖佐 裕さんが、去る一月六日佐世保で亡くなられた。

 昨年七月十五日の回天50周年慰霊祭には元気な姿を靖国の杜頭に見せておられたので誠に意外な急逝であった。 

 帖佐さんには大津島基地に於ける指導的搭乗員の姿と、同期の桜の歌を作った人という二つの面が我々には最も印象的であろう。追悼の思い出にからめて、今は知る人の少ない回天隊創生期の状況を紹介してみたい。

 

 昭和十九年九月一日訓練的三基と共に二部搭乗員・整備員がP基地より海路大津島に到着、同五日から搭乗訓練が始まった。

 翌六日の訓練に出た一号艇が徳山湾の海底に突入、先任の搭乗員黒木・樋口の両大尉(当時階級、以下同じ)が訓練開始二日目にして殉職という壮絶な幕開けとなった。

 そのときの搭乗員の構成は兵学校70期が同期の機関学校51期と合わせて三名、71期が三名、72期・機53期が十四名、兵科3期予備士官十四名、水雷科下士官十名の合わせて四十四名の陣容であった。

 この兵学校・機関学校出身計二〇名は、二名がいきなりの殉職、あと出撃が始まると相次いで基地を離れ、一人残らず出撃した。終戦後生きて還ったのは九州南岸第33突撃隊の回天を指揮した帖佐大尉と、八丈島に進出した第二回天隊の私の二人だけであった。

 3期予備士官十四名は水雷学校出身で内十名が出撃し戦死、伊三六七潜で二回出撃の藤田克己中尉、33突の永見博之(吉平)中尉の二名が生き残り、ほか二名が中途退隊である。

 大津島にはその後搭乗員が次々と集まり賑やかになっていった。

 九月二十一日頃には甲飛13期出身の百名が威勢よく着任、兵科4期予備学生・1期予備生徒もその頃から着任が始まったように覚える。機関学校54期の回天隊参加は比較的早旬、そのため出撃者も多く出した。73期も加わって来たが纏まってでなくバラバラの着任であった。

 航海学校出身兵科3期の人々も加わって収容能力一杯となり、十一月八日の菊水隊出撃の後には光基地の開設があり搭乗員の移動・交流が始まった。

 黒木博司大尉は申すまでもなく、機関科初の甲標的艇長となり人間魚雷を着想、困難を排して実現に漕ぎ着けた人である。

 最初の回天操縦で殉職された樋口 孝大尉は、魚雷四本を抱く速力30KTの大型魚雷艇甲型の艇長から特四式内火艇の開発に転じ情島Q基地で部隊編成、訓練をひそかに進め十九年五月二十七日の海軍記念日を期して南洋群島の環礁内に在る敵艦隊を攻撃する計画であったが、この竜巻作戦が直前に中止こなったので希望して回天搭乗員となられた。

 上別府宜紀大尉も同じく特四内火艇出身の70期であり回天第一陣の菊水隊伊37潜でパラオ・コスソル水道に向い散華された。

 71期の仁科開夫中尉は潜水学校9期普通科学生卒業のあと十八年八月甲標的艇長となり黒木大尉と協力して人間魚雷の実現を進め、真っ先に菊水隊伊47潜で出撃された。

 同じ71期の加賀谷武中尉、帖佐裕中尉は潜水学校11期普通科学生から希望して搭乗員となられた。

 72期の久住宏、河合不死男の二人と機53期の五人、村上克巴、福田斉、都所静世、豊住和寿、川崎順二も同じく潜校の11期学生から直接回天隊に参加した。

 当時、潜水学校内では〇六金物は軍機兵器であるため殆ど知られておらず、特攻の気運もまだ無かったと潜校同期生はいう。潜校卒集の前に配置の希望を訊ねられるが、敢えて志望したのは黒木、仁科の二人と直接・間接に連絡があったのではないかと想像されている。

 72期のあとの七名は十九年八月十五日発令を受け大竹に集まった潜校12期学生である。

 開講の前日九月四日指名されて本部に集まると、空母ヨークタウンを沈めた田辺弥八教官が入口の石段の前に立っておられ「この七名はただちに一特基に行け」と指示された。それが何処にあるのが、何する所なのか、一切説明が無いまま荷物を持って潜校を出た。川久保輝夫が呉の潜水艦基地隊に行ってみようと強く主張するのでひとまず訪ねることにした。潜水艦関係なら大抵のことはここで判ると言う。彼の兄の一人は潜水艦乗りであった。基地隊では翌朝内火艇を出して我々をP基地に届けてくれた。

 甲標的搭乗員から回天にきたのは、同じ第一特別基地隊でありながら上記のように、人間魚雷を創出した黒木・仁科の二人だけである。あとになって当時兵科3期予備士官の甲裸的艇長などの指導官であった71期の湯浅(大河原)明夫大尉が移ってこられたが、母体P基地から転じた搭乗員は結局この三名にとどまった。

 同様に、特四式内火艇を開発し、これに乗込んで出撃しようこした十名の士官に甲標的の人員は皆無であった。特四部隊解散後、二名が回天に、六名が志望して甲標的隊に編入された。甲標的の部隊自体が縮小された時期があり、搭乗員の数が少なかったのも事実であるが、特四・回天に行かなかったのは別な要素のためと思われる。 

 

 帖佐さんは十七年十一月海軍兵学校を卒業、戦艦武蔵乗組を経て駆逐艦時雨にソロモン海域で三〇もの作戦に参加のあと十九年五月一日潜水学校11期普通科学生となり、同年八月十五日卒業次第回天要員として創始者二人に協力、呉海軍工廠魚雷実験部・水雷部と共に訓練開始を準備された。

 さて、潜校12期組の七名はP基地本部に着任の挨拶に行くと「お前達はここではない。明朝便を出すがらそれに乗って行け」とのご託宣である。変な言い方だなと思い乍ら表に出ると、同期の甲標的艇長が通りかかって「責様等は人間魚雷だ」とボンと一言。その感動は終生忘れ得ないものとなった。仮宿舎の一室で七名は一塊りになって夜の更けるのも知らす語り合った。生命線マリアナを既に奪われていた。ここから日本の本土まで、遮るものは何もない。このまま日本海軍が艦艇・航空機の消耗を続けてゆけば、米軍は日本沿岸のどこへでも上陸できる。桶狭間の大逆転を打た無い限り、本土上陸→国内戦闘→日本民族国土の破滅・・・と言う図式になることは火を見るより明らかである。何が打つ手は無いのかと日夜焦燥を覚えていたときである。眼のある魚雷が五十本、百本、敵艦隊の泊地に躍り込んで一挙に覆滅すれば、質・量ともに圧倒的な米軍をも喰い止めることができる。我々がそれをやるのだ、日本の前途に光明を覚えた。大津島に着いて落ち着く暇も無く全舟艇出動で行方不明的の捜索、荒天のなか分担海域を徹夜で調べて回った。殉職者の葬儀のあと、指揮官板倉少佐は搭乗員全員を士官室に集め、大声で「ここに居るものは総員、一ケ月後に敵艦隊目掛け突入する」と宣言された。全員粛然として聞いた。当然であろう。急がねばならない。

 しかし同時に一人ひとりの人生はあと三十日で断ち切られる。各々の心の中で、生命の終末に向けてのファイナル・カウントダウンがスタートしたのである。

(搭乗員の死生観・心理については別の機会に述べたい) 

 

 開隊後しばらくの間試作的が3基しがなかったが、前部の二空気蓄器が入っておらず、特眼鏡から前はガランドウであって、バラストの鉄塊が並べてあった。従って内部はゆったりとしているが、航走して二空を消費するにつれて気蓄器がある後部ばかりが軽くなってゆくので、前後ツリム調整の為の海水タンク漲水操作が、あとの実用型以上に重要であった。 

 

 搭乗訓練の計画・指導は帖佐さんにウエイトがかかって行った。毎夜の烈しい研究会が搭乗員の操縦技術の改善・向上に役立ったが、これを主催する先任搭乗員帖佐さんの万般の配慮は大変と思はれた。士空出身甲13期生百名が着任したとさ帖佐中尉が分隊長を勤められたが、訓練指導に専心する必要から間もなく私に引継がれた。

 

「同期の桜」の歌は大津島で帖佐さんから教わり搭乗員達が一緒に歌った。後に日本の各層に普及したこの歌も、その頃はまだ潜校周辺からどれほども広がってはいなかったであろう。

 帖佐さんが兵学校の生徒時代、クラブにレコードがあった西条八十作詞「戦友の歌」の歌詞を作り替えられたものと言う。この歌が有名になってからも帖佐さんは自分が作ったと言われないので、永い間作者不明とされ、昭和五十五年頃まで作者と称する人が数人も現れている。沈黙を守った帖佐さんであるが、その頃から「替え歌を作っただけ」と発言し、戦後歌わなかった「同期の桜」を人前でも歌うようになられたと言う。謙虚な方であった。

 光基地の先任搭乗員であった三谷与司夫さんの大津島着任の風景も面白かった。ある日、帖佐さんと私が発射場に立って海面を眺めていたとき、背の高い一種軍装の士官が後にたった。

ヨレヨレの軍帽の徽章は青錆、顔は真っ黒。

 帖佐さんがびっくりして叫ばれた「何だ三谷か、俺はスペさんかと思った!」

(註 スペさんとはスペシャリストの意味で、特務士官の隠語。努力と能力に対する尊称である)

楽しそうに笑う三谷さんは髭からして大層な貫禄であった。

 駆逐艦桐の水雷長として比島沖海戦に参加中、人間魚雷に着想し血書嘆願して叶えられ、入隊の運びこなった由。

 帖佐さんは大津島で髪を長く伸ばしておられた。適当なウエーブがかかって見苦しい感じはしなかったが、仁科開夫さんの蓬髪はがなり目立った。甲標的時代から黒木さんと一緒に伸ばし、初対面のとき板倉少佐の詰問に、黒木さんが「この髪は、敵艦に体当たりするまでは切りません」と拒否されたそうであるが、仁科さんは私に「身体髪膚これを父母に享く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」と威張っていわれた。旧制高校生の稚気と同じではないかと思ったが、やがて全搭乗員の髪が長くなり始めた。狭い艇内で忙しい作業をするので、頭をぶっつけても痛くない利点があったが、長髪になった本当の理由は大津島に散髪道具がなかったからである。

 かなり経って態勢が整ったこき、私が初めに頭を刈ったら一同の長髪をかねて苦々しく思っておられたらしい整備長浜口米市大尉など海軍生活の長い特務士官の人々が喜ばれて、人前で大層に褒めて頂いた。仁科さん出撃後は極度の蓬髪は見られなくなったが帖佐さんの髪も一時は肩に垂れる程であったと記憶する。

 帖佐さんは二十年五月宮崎県南部に進出の第33突撃隊、第3・第5・第9の各回天隊計二十六基の回天を率い、待敵配備に就いておられたが、終戦となって部隊が解散、隊員が復員した後、単身拳銃を秘めて壕内に寝泊まりし、回天を護って居られたとの事である。

 戦後京都大学で帖佐さん、三谷さん、羽田さんと私が偶然にも一緒になった。帖佐さんは親和銀行に入られ、銀座支店勤務の頃は時々お会いしたが、回天会が昭和37年に発足した時、既に佐世保の本店勤務で、東京に居られたら最古参搭乗員の責務として会の先頭に立って頂くべき筈であった。

 予て、回天隊の正確な記録の作成を伺度か御願いして来た。何等かの資料を残して頂いた事と期待している。

(追記 伊藤正敬)

 帖佐裕氏は佐世保中学の4年から海軍兵学校に入学された。中学時代、佐中28回生で私と中学は同期である。

 帖佐裕氏の妻ミチ氏逝去後、同氏の遺贈による多額の寄付金は佐世保市奨学基金として活用されている。

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