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追悼の辞
本日ここに大村海軍航空基地追悼式を執り行うにあたり、海上自衛隊大村航空基地の隊員を代表し、謹んで追悼の辞を捧げます。
遡ること89年前、大正11年12月1日、この地、大村に、横須賀、佐世保、霞ヶ浦に続く、4番目の海軍航空部隊として、大村海軍航空隊が開設されました。爾来、搭乗員の実用機操縦教育を行い、多くの搭乗員を送り出すとともに、昭和12年には渡洋爆撃の出撃基地となり、また、大村航空隊を中心として編成された部隊は、日支事変において、大陸で大変な奮戦、苦労をされました。
大東亜戦争では、特に戦争後半において、大村の第21海軍航空廠や北九州の工業地帯等を攻撃するために飛来する、米軍のB−29大型爆撃機を迎撃すべく、大村基地に、新たに第352海軍航空隊が編成され、大村航空隊とともに、九州上空において、必死の迎撃戦を繰り返しました。また、末期には、沖縄方面における作戦を支援するため、大村航空隊により特別攻撃隊が編成され、6回に渡り、計48名、すなわち残っていた搭乗員のほとんどが特攻隊として出撃し、終戦を待たずして、大村航空隊は解散しました。残る352空や、他の基地から移動してきた部隊は、その後も終戦まで消耗を続けながらも本土防空のために壮絶な戦闘を続け、戦艦大和の沖縄特攻出撃の際、最後の上空援護を実施したのも、大村から展開した部隊でした。
この間、多くの搭乗員が、今と同じく目の前に広がる大村湾、青々と連なる背後の多良岳の連峰を望みながら、この大村基地から飛び立ち、中国大陸で、この大村上空の戦闘で、そして特別攻撃隊として散華されました。 また、激しい訓練中の事故で50名以上が、この基地で殉職するとともに、今も少なからずの機体が、大村湾の底に静かに眠っていると認識しています。
祖国日本の青い空、美しい山や川の風景と大切な思い出、大事な家族を守るため、そして、国の誇りと繁栄を守るため、明日をも知れぬその身を顧みず、敢然と出撃され、武運つたなく若い命を大空に散らした英霊の、その高貴な魂に只々敬服するのみであります。
また、現在、我々が享受している平和で豊かな生活、国の発展の礎を、身を呈して築かれたのだと、心から感謝申し上げます。
皆様が活躍された大村航空基地は、現在、回転翼航空機約45機を擁する第22航空群の根拠地となり、我が国周辺における防衛・警備、とりわけ、最近の近隣諸国の軍事力の急速な近代化や海洋における各種活動の拡大・活発化等に対応した諸行動、遠くアデン湾・ソマリア沖における海賊対処活動、また、離島の人々の生命を支える急患輸送等、広範多岐にわたる各種任務、そして訓練に汗を流しています。
終戦から既に66年。最後まで生き抜かれた、当時の関係者の方々も既に高齢となられ、残念ながら少なからずの方が鬼籍に入られたと伺っております。海軍航空隊の末裔として、同じ大村において日々爆音を響かせている我々にとって、大村における海軍航空隊のご苦労と功績を顕彰し、追悼するのも、むしろ遅きに失したと言わざるをえませんが、私達、海上自衛隊大村航空基地隊員一同は、皆様が国と家族の安寧を想い、大切なものを、身をもって守ろうとした姿と、その想いを忘れることなく、次の世代に語り継いでいくとともに、国の誇りと国益を守るため、日々、努力を重ねていくことをここに誓うものであります。
どうか英霊の永久に安らかならんこと、そして、御遺族の上に慈愛に満ちた御加護を賜り、またこの大村航空基地における、私達の任務の完遂を温かく、見守り下さいますよう心からお祈りし、追悼の辞と致します。
平成23年12月1日
第22航空群司令 海将補 渡邊 剛次郎