昭和47年10月寄稿
海兵受験記
鈴木 健治
愈々また昭和十六年度の海兵の募集が発表された。思えば去年の今頃、中学四年の初陣に、希望と意気とに満ちて、海兵突破をめざして精進したのであった。しかし遂に奮闘空しく、ただ敗戦の通知を試験委員から受けたのは十二月初めのことであった。努力徒らなるものであったかとしばらくは悲嘆にくれ男泣きに泣いた。がまた奮然として捲土重来を期し、再び海兵を突かんとしている。
諸君も大いにがんばっておられると思うが、今私の述べんとする拙き敗戦の記録が少しでも諸君の参考になれば幸である。
身 体 検 査
僕はあまり体検に自信がなかった。ひょっとすると落ちるかもしれないという心配で相当苦しんだが、今考へてみるとあんなに心配しなくてもと思う。しかし当時としてはその程度が分からぬため心配せざるを得なかったのである。諸君の中に、もし体検を気にかけておられる人があったら、規定以上ある限り安心して可なりである。僕はいわゆるヒョロの仲間で、最も胸囲拡張にのみつとめたのであった。毎日ラジオ体操や腕立伏せまたは深呼吸をしたり、牛乳その他よいと思うものは、ほとんどやってみたが、生まれつきか少しも増さない。その中にとうとう七月二十五日の身体検査となった。志願者心得中の「交互ノ対照ヲ著シク失スルモノ」といふ項目を気にしつつ検査場の静岡へ行った。検査場にはみるからに頑丈なのが押しよせている。僕は自分の体とみくらべてうらめしくなった。その中に検査が始まる。まず一人一人軍医の所へ行き写真と、予め渡された検査票をまた示す。そして家族の人数、健康状態、自己の体歴等を尋ねられる。次は視力検査であったが、いつも一・二はあったからと思っていたが、漸く一・〇であったと覚えている。真夏の太陽がてりつける建物の側で行なっているので、片目でみているとぼうっとしてくる。だから視力検査の時は直感でいうのがよいと思う。今度は身長その他をはかった。身長一六九糎、胸囲七九糎(乳の下ではかる)体重五四キロであった。胸囲をはかる時は住所氏名等を尋ねられる。肺活量は四千三百立方糎で十分にあった。受検者中には三千に充たない者や全然できぬ者があったが、この検査は、一つは要領練習にもよるからできれば習っておいた方が得である。次に耳鼻咽喉の検査であるが聴力検査はしなかったと思う。歯は六本も修理してあったが、なおしてあればいいようだ。M検は何でもなかった。次に内臓や概括的全体的体格をみられたが、注意深く調べられるから平素から健康を保ち、当日は最良の状態にしておかねはならぬ。またこれを検査される時A、B、C等の記号が検査票へかかれる。これは最後に合格決定の時A合格かB合格か等級をきめる標準になるらしい。
腕力検査の綱へ下るのは五秒乃至十秒できればいいようだ。綱に結び玉がつくってあるから、滑ることはないが、手がいたい。それから体操のようなことをやり、いよいよ判定である。僕はびくびくしていたが、幸にも合格をいい渡された時はほんとに嬉しかった。けれども中には不合格となり消然として帰るのをみた時は全く同情した。これで体格検査は終ったのであるが、大抵は身長胸囲その他規定以上あれば通るようだ。けれども軽視は禁物、どっしりした立派な健康体にこしたことはないと思う。合格の種類が採用を定める際に大いに影響するという。
学 科 試 験
身体検査後はいろいろ対策をねり、悠々と構えていた。いよいよ天下八千三百名と戦うこととなった。これからその戦闘記を記そう。欧文社の入試詳解や受験旬報の四月中旬号の海軍生徒採用試験委員講評を参照して頂ければ便である。
第一日 海兵の最難関数学である。試験場に入り用紙を配はられ問題を見た時などはさすがに心が落ちつかなかった。一番の比例とグラフの応用的なもの、これには安心して手つけた。解き終って後再読すると誤りがあるのに驚いた。全く試験場では一つは平素の度胸が大切だ。二番はようやく苦心してといたのに、答案提出後に「周が足長ナルコト」を証明することを忘れたのに気がついたが後の祭。二番で時間がかかったので、あわてて三番をやった。これは容易だった。四番はどうにもわからなかったから五番を先にやった。ところがこの問題の答を、講評にもあるとはり「メートル以下二位迄求メテ四捨五入セヨ」というのを三位迄求めて四捨五入し、答を二位迄だしてできたと思っていたのだ。よく問題を熟読し題意を把握することが必要だと思う。四番へ戻って漸く解いたが、時間がなかったから逆の証明を余り簡単にやりすぎた。これで第一日の数学は終った。この日の発表は午後五時頃であったが、幸に僕の受験番号は赤線を免れていた。長い紙に番号が書いてあって、成績の著しく悪い者は赤線がひいてある。この赤線をひかれて写真を持ち、悲しげに帰った者は百二十三名中五十名
程であった。
第二日 数学と英語である。数学一番は無理式の大小問題、易しかろうと思ってやった所がさっぱりできない。そこでいらいらしてしまって二番へかかった。所がまたしてもこれにつかへてしまった。実根条件は `<−までだしてこれを−−<Q<−とするのがわからなかったのには後で不思議に思った程で、よほど上っていたらしい。それから「一板ガ他板ノ二倍ヨリヨリ大」を解くのに板と係数の関係ばかり使ほうとして失敗に終った。一番と二番で難渋し三番を始めた時は夢中であった。三番は容易に解き得た。四番もできたと思っていたが、後でよく考へてみたら全然でたらめをかいていた。そして五番は講評にあるとはり幼稚な解をした。一番へもどりやっとで仕上げた時は丁度時間一杯であった。今日の数学は僅かに二題しかできなかった。午後は英語であった。英文和訳一番は大体わかったが終りの方の構文を誤解してしまった。単語を一つ知らなかったが推量して書いておいたらあっていた。二番はできた。和文英訳も誤りなくできた。英文法の一問は直ちにわかったが二間を条件法としてしまった。三間四問もできたが五問では解が下手だったと思う。本日は数学で大失敗だったのでおちるかと思ったが、無事に通過した。今日も赤線をひかれた者三十数名であった。
第三日 苦手の国漢だ。一番では「或は」を誤解した。二番では、相当苦しみまず半分のできであった。三番、四番はできた。五番では訳が下手だったと思う所が多い。六番中「若夫」というのを「若シ夫レ」として大失敗をした。物理は、一番、二番、三番と難なく仕上げたが四番は途中迄でつかへてしまった。化学の一番、二番はよかったが、三番を途中迄かいて題意をとり違えているのに気がつきあわてて書きなおした。問題はよく見ることが大切で、早急に筆をとることのいけないといふことを感ずる。四番は易しかった。今日も振るい落される者二十名程あった。
第四日 日本歴史、一番では全くまいってしまった。ただ書いたたという丈。その他は大体できた。作文の題は精神力であったが、保坂氏著作文の総合的研究を読んでおいて助かった。受験者中には一時間でかききれず困っている者があった。
第五日 口答試問。十分間位であった。志願の動機、家族のこと、自己の理想、日本の世界無比なる所以などをきかれた。これでいよいよ戦闘終了である。あまりできはよくなかったが、それでも一種の望を持っていた。けれども遂に飛電来らず無念の涙をのんだ。結局、実力の不足だったのだ。また、この試験を通じて感じたことは、落着いていること、よく問題を熟読し、解く時は縦横無尽に考へること。答案は綺麗に、文字は大きくはっきりとかくこと、などである。海兵はさすがに天下の海兵、良問揃いだから、平素答案練習や添削などをやって大いに実力を養うことが必要だと思う。以上、駄言をのべたが、今夏愈々奮闘される諸兄に資し、以って栄冠を共にせん。
(編集部注、鈴木健治、静岡県立志太中学校出身、12分隊伍長、偵察学生、19年12月3日、302航空隊夜間戦闘機月光偵察負として出撃、犬吠岬東南方洋上に散りて還らず。
この文章は、昭和14年夏の受験記で、欧文杜「受験旬報」15年6月上旬号掲載分である。)