昭和51年3月寄稿
御訪米御召機あれこれ
山下 茂幸
日本列島沿いに停滞気味の秋雨前線上に低気圧も発生した模様で、雨風が大分激しくなってきたので多分前線は東南方へ移動してくれることを願いつつ、九月二十九日の午後十時には就寝した。
昭和五十年九月三十日午前五時二十分に目覚時計の音で飛び起きると、窓際のカーテンをまず引いて外を眺めた。はたして雨は完全にあがって水平線の彼方からは太陽も姿をみせかけようとしていた。幸先よし、斉戒沐浴といきたいところだが、熱目のシャワーでまず眠気をさまさせてから水を浴びた。兵学校時代の躾教育を思い起こし、新しい肌着を身につけた。
朝食後、午前七時二十分に運航業務部(飛行計画の作成、申請等の担当部)へ社長を初め乗務員一同が出頭すると早速、出発前のブリーフィングが開始された。今回の運航予定時刻表の作成に当っては数カ月前から宮内庁をはじめ関係当局の御指示に従い、各地の行事予定も勘案して、御召機の安全かつ正確な運航に万全をつくすため再三、再四にわたり検討を重ねられたものではあるが、各区間の飛行時間の算定には四半期毎叉は月別の平均気温と平均風速成分(対地速度と対気速度との差)等の統計資料に基づいて作成する以外には方法がないために、気まぐれな「女心と秋の空」にでもめぐりあえば、当日あるいは飛行中に目的地の到着予定時刻の大巾変更を迫られることも皆無とはいえず、出発及び到着予定時刻については、御召機運航乗務員が最も気をつかうことの一つである。
準備された飛行計画資料によると、出発地、目的地共に天候に支障はなく、追い風成分についても前述の統計資料より約二十節多く予報されていたので、第一日の飛行は順調に完遂できるであろうと関係者一同確信すると同時にまず安堵した。
午前八時二十分に駐機場に赴くと、準備完了した御召機の両舷には日章旗が翩翻(へんぽん)とひるがえり、一般歓送席にあてられたフィンガーデッキにも日の丸の小旗が多数みうけられた。また、御召艦に対する供奉艦に相当する予備機は移乗可能な位置に待機していた。乗務員による出発前の点検作業も順調に進行し、天皇皇后両陛下の羽田空港御到着の午前九時十分頃までには点検は総て完了した。
テレビ中継や新聞で報道されたような行事が終了すると、小池空港長の御先導でステップの下まで御進みになり、御召機の入口扉附近で朝田日本航空社長が両陛下を御迎えするのとほとんど同時にエンジン始動を開始し、入口扉も閉り、地上電源車等も機側から離れ航室管制塔から許可を得て、御召機は駐機場を定刻午前九時三十分に出発した。天皇陛下が一歩足をふみ入れられると同時に檣頭高く天皇旗が翻るという軍艦の光景とは異り、航空機にはその施設はないので残念ながら天皇旗とは御縁がなかった。離陸滑走路へ向う途中も護衛のための自動車が付き添っていたのが印象的であった。気温摂氏、二十度、風向風速、〇四〇度十六節、高度計規正値、三〇・〇九吋と管制塔から報ぜられ、引続き離陸許可を得てアラスカのアンカレッジへ向け、離陸したのは午前九時三十分二十五秒であった。
通常の航空路を飛行し、袋田温泉の近くの大子を経由して金華山沖の太平洋上で予定巡航高度三万三千呎(約一万米)に達したが、矢張り前日の前線の名残飛行がしばらく統いたので、食事のサービス開始が多少遅れ、客室乗務員は降下開始までほとんど休憩の余裕がなくなってしまった模様であったが、前線が通過し終わると次第に雲も低くなり気流も安定した。
中間点に近づきカムチャッカ半島南方の東経160度の位置通報も済み、アンカレッジ到着時刻も予定どおりと見込みがついた日本時間正午過ぎ、天皇陛下が操縦室を御覧になりたいとのご意向が我々に伝えられ、皇后陛下もお揃いで朝田社長の御案内で操縦室にお見えになったのは12時15分頃であった。狭い室内のため、天皇陛下は機長席の後方の予備座席に、皇后陛下はその後方の航空士席に、御着席いただいた。
気流も安定していたので、社長と小生は出入り口近くに起立し、まず社長が木本機長を御紹介申し上げ、機長は「順調に予定どおり飛行中」の旨奉答し、運行乗務員紹介に引き続き前方の操縦関係の計器をご説明申し上げると、「現在は自動操縦装置によって飛行中か」との御下問があり、右席の大形機長が自動操縦及び手動操縦による場合を夫々実地に御説明申し上げ、また、千島列島南方通過後のため機上レーダーには前方の雲がうつっているだけである旨申し上げると「前方何粁までわかるのか、雲だけで陸地はうつっていないのだな」と、確かめられたので航空図を御覧に供し予定航路、現在位置を小生が追加説明申し上げアリューシャン列島かコマンドルスキー諸島に近づくまでは島影はうつらぬ旨申し上げ、また、予報天気図を利用して風向風速のパターン等をお眼にかけた所、「追い風はどの位吹いているか」.との御下問もあり奉答申し上げた。
丁度御座りになった席が航空機関士パネル方向に向いていたので次に計器盤が御眼にとまり、一つ一つの計器について順次「それは何か」と次々に説明を求められたので渡辺室機関士が御説明申し上げたところ、特に与圧装置や航空機電源関係について興味がおありになったようである。皇后陛下からは特に御下問はなかったが、「ほんとうに計器がたくさんありますね」と室内をみまわされて驚嘆の御言葉を発せられた。
思いおこすと、昭和十八年十一月十八日にわれわれ海軍少尉候補生一同が列立拝謁を賜った時は一瞬竜顔を拝しただけで終了し、何かひとことでも御言葉が欲しかったようなことを語り合った記憶があるが、今回は、はからずも咫尺(しせき)の間に両陛下を拝し、御声咳に接し、はたまた奉答の栄にまで浴すという二十余年の航空界勤務中にも一度あるかないかの機会に恵まれたことに感激した瞬間であった。
約十五分間で操縦室御見学を完了され御座所にもどられたが、間もなくコマンドルスキー諸島とアッツ島の間を御召機は通過し、やがて太陽も西の彼方に姿を消し、アラスカのベッセル上空通過後降下を開始すると雲中飛行となり軽い乱気流に遭遇はしたが、雲の下に出ると間もなく安定し、街の灯が見え始めた頃には「アンカレッジの天候は曇り、気温華氏四十九度(摂氏約十度)、風向百八十度、風速十二哩、高度計規正値二十九・二四吋」との報も入手、管制塔からの着陸許可も得て、御訪米の第一着陸地(給油地)であるアンカレッジには現地時間二十九日午後九時四十八分(日本時間三十日午後三時四十八分)に着陸し、同五十二分予定駐機場に停止した。
小生の勤務はアンカレッジまでのため、第一訪問地のパトリックヘンリーへの飛行計画も事前の計算と大差ないのを確認し、東京―アンカレッジ間の勤務を完了して交替する客室乗務員六名と共に降機した。
今回使用された御召機について紹介すると、昭和四十六年御訪欧の際にも御使用いただいたDC―8―50型で、左図のような区分に特別改修が行なわれた。御座所、御寝室夫々広さは約十一平方米で、その後方に随員と随行員の方々のための通常の座席が準備された。前方ドアを入いった所には御座所のサービスにあたる客室乗務員と当直勤務外の運航乗務員並びに社長と秘書役が使用するための座席を用意し、御座所を通過せずに作業できるように設計された。御座所の中は右舷側に御食事用の伸縮自在なテーブルを挟んで座席二脚(四名分)が用意され、左舷側にはおくつろぎ用の二人掛座席一脚が取りつけられ、御寝所と同じ藤色のカーペットが敷かれ、御寝所には両陛下用のベッドが二台とコートルーム及びプラスチック製の姿見も用意され、また、予備機についても全く同じ仕様で準備された。余談になるが、日本航空は三月末から社長を委員長として各部門の責任者をメンバーとする両陛下御訪米準備委員会を設置し細目検討をすすめ、御召機の機番号は九月二十八日の試験飛行終了後宮内庁によって決定された。今回の御訪米板材のための各報道機関の予算は少なくとも一社当り五千万円前後と洩れきいたが、当社の準備段階からも含めた経費については諸兄の御賢察に任せる。
原稿依頼の電話で、運航乗務員は航空士を除いてダブルアサインメントとなっていた理由を説明せよとのこと故ひとことふれると、日本航空におけるジェット機の連続する二十四時間中の運航乗務員の勤務については運航規程に左表(略)の通り定められ、運輸大臣の認可を得ている。勿論組合との協定は多少異なっている。客室乗務員の勤務時間については組合との労働協約だけで認可事頃ではない。
さて、今回の東京=ウイリアムスパーグ間は運航ダイヤによると東京=アンカレッジ間は六時間三十分、アンカレッジ=ウイリアムスパーグ間は六時間五十分で合計予定乗務時間は十三時間二十分となるために上欄の編成を採用すれば乗務員の交替を行わずに済み、叉二週間以上も基地の東京から離れて行動するために途中で急病人発生等の場合に、東京から交替乗務員を送りこもうとしても間に合いかねることもあり得るので機長三名、航空機関士二名のマルティプル編成で全航程を消化するよう計画され、洋上飛行区間についてはジャンボやDC―8―62型のように慣性航法装置が装備されていたり、今回御使用いただいたDC―8−50型のようにドップラーレーダー航法装置とロラン受信機が操縦士席から離れることなく操縦できるように装備され、それ等についての教育訓練を終了し、資格を取得した運航乗務員で編成された場合には操縦士による航法が認可されているが、後者の場合は路線毎の最近一力年間の経験回数が法規で規制されているために定期便としてジャンボが就航している桑港―布唾―東京間に就いてはDC―8型機機長が最近の路線経験回数を満たさぬために航空士乗務が要求される。他方東京―アンカレッジ間についてはDC―8が定期便として就航しており、路線資格を保持している機長が編成に入っているが、全機長が有資格といえぬためと、洋上飛行の間航法作業に対する操縦士の負担を軽減し、他の方面により注意を分散できるようにとの配慮も加わって今回航空士乗務が決定されたものと推定される。従って小生が乗務したのは以上の三区間で十五日間おともしたわけではない。操縦士航法に利用される慣生航法装置はジャイロとアクセロメーター及び電子計算機と専用バッテリーによって構成され出発前に出発地とその飛行における変針点及び目的地の夫々の緯度、経度を装置に記憶させるだけで出発から到着まで必要とする航法諸元を表示し自動操縦装置をはじめ必要系統に供給する。当社の慣性航法装置の地上トレーナーは猿田兄の日本航空電子鰍フ製作によることを御紹介しておく。しかし、ドップラーレーダー航法装置は飛行中ロラン等により位置補正が必要あり、現在位置の緯度及び経度による表示もないので航空士が乗務すればロランに加えて天測の併用も可能となり、機位の確認がより容易となる次第である。
さてアンカレッジで一泊後帰京のため空港支店に出頭すると、東京空港ビル内で火災が発生し東京国際空港が一時閉鎖されたので定時出発が困難視されるというハプニングがあった。一日違いであったのは不幸中の幸と胸をなでおろしたのは関係者だけではなかったと思う。
十月八日当社2便でサンフランシスコに移った。桑港の街も、プキャナンのトレードセソクー附近に日米国旗が飾られている以外は普段と特に変わったことも目につかなかった。九日午後五時二十五分の桑港空港御到着の生中継放送でもあるかとホテルのテレビの前で頑張っていたが、生放送どころか六時のニュースでは御到着は報じても到着模様の放映はみられなかった。生憎、前線が通過し、九日午後からは雨となり、宮内庁で用意された両陛下御用の傘が御降機の際役に立つという唯一の機会となり、又手荷物の取おろしに従事した職員はずぶぬれとなった。
十月十日は雨もあがり、御召機の前には周辺都市から参集したボーイスカウトが整列し両陛下に記念品を贈呈する行事も行われ、スカウトの鼓笛隊の演奏に送られて両陛下が御搭乗になり、定刻より三分早く駐機場を離れ午後四時〇二分離陸した。
昨九日、到着時は雨雲のため御覧いただけなかったサンフランシスコ湾、市街をはじめ金門橋等を、空から御観賞していただきながら、米本土を離れ得るよう航空管制の承認を待て、通常の飛行経路に多少の工夫を加えて上昇し、米大陸との別離を瞬時味わっていただいたが、航空管制官からは「米国御訪問旅行が順調に進んだことを喜ぶと共に御帰国の飛行も恙(つつが)ないよう御祈りする」という要旨のメッセージが送られてきた。
前日雨をもたらした前線の影響が残っており、北々西の風が約百二十節(秒速約六十米)も吹いていたので多少の揺れが予想されたが、巡航高度二万八千呎(約八千五百米)に適して間もなく平穏となり、摂氏十八度の桑港から二十八度の布唾到着に合わせて機内での御召替えも完了された頃早着の見込が強くなり、飛行時間調整のため高度三万一千択(九千五古米)に上昇したところ、雲も次第に高くなり雲頂すれすれの飛行とはなったが依然としてスムースな飛行が継続できた。やがて南方左舷方向に噴煙をあげるマイナケア火山のあるハワイ島、続いてマウイ島と順次ハワイ群島の島々が雲の彼方に姿を見せ機上からの夕日も御覧いただけた。しかし、曇り気味でブルーハワイの日没を御観賞していただけなかったのは残念であった。
現地時間午後六時九分着陸し、定刻午後六時十五分にホノルル国際空港駐機場に停止した。
歓迎も美しいコーラスをバックに夕碁のなかで行われ、行事の半ば過ぎには万歳の声も聞こえた。到着時の歓迎セレモニーとしては最高であったと、全航程を乗務した人々の大
部分が口にしていた。
翌十一日は本年最初の冬型気象とかで、一中曇っていたが、テレビ生中継も行なわれた。日本総領事公邸の歓迎会の出席者はお年寄りが多かったのでカンカン照りよりはよかったが、到頭太平洋の彼方への日没は御覧になれなかったことと思う。
十月十一日附の英字紙ホノルルアドバタイザーは『天皇・皇后両陛下 御歓迎』と漢字のヘッドラインを冒頭に掲げ、別欄にローマ字と英訳を附し、東京から来布の書道家柳田泰雲氏の筆による旨と同氏の略歴を紹介し、紙面の中央には前夜の空港到着時御出迎えの有吉知事夫妻が両陛下にレイをおかけしている写真をおいて、最下段にはB・クラウス記者の歓迎特別寄稿をという構成で第一面を閑連記事だけでうめていた。
しかし、巷間伝えられるところによると「万歳斉唱は行わぬ」との希望が総領事館側からあったとか、なかったとかについて一部の一世からの不満が邦字紙に掲載され、それに対し総領事館側は「自然発生については特に差止めなかった」と応酬する等微妙な喰違いや、三世、四世の無関心組とのインタビュー等も話題にあがっていた。
両陛下は夕刻ハワイアンエアラインのDC―9でハワイ島へ御休養のため出発された。初期計画段階では当社機を御利用いただき、東京へはハワイ島から直行で御帰りになる案も検討されたが、DC―8が離着陸可能なヒロ空港から御宿舎マウナケアホテルまでは最近開通した道路を利用しても五時間前後は必要とのことで御疲労、御日程、行事、警備の難易等を考慮され、宿舎から至近距離にあるコナ空港を御利用いただくことに最終決定された。
十二日夕刻、天皇陛下は御風邪気味で外出されなかった由のニュースが伝えられ心配したが、翌十三日早朝は御疲れ程度と洩れ承り一同安心した。
出発前の打ち合わせを国際空港内の当社支店で完了し、隣り合せのヒッカム空軍基地に赴き、飛行前点検が完了した頃には御召機の前に陸海空三軍と海兵隊の儀杖兵の整列も完了するとやがてハワイアンエアラインのDC―9がDC―8の隣に到着し、二十一発の皇礼砲が轟くなかを御式台におたちになり、両国国歌吹奏に始まる米国における最後の式典を済まされ両陛下は御召機に搭乗された。
現地時間午後一時〇二分(日本時間十四日午前八時〇二分)離陸し、カワイ島上空通過後間もなく予定巡航高度三万一千呎に達し、多少危惧された乱気流にもあわず、フレンチフリゲートショールを右舷にみながら通過したのはハワイ時間十三日午後二時十分であった。ここはかつて唯一の真珠湾戦果偵察実施の二式大偵へ燃料供給を行ったわが潜水艦の先行泊地ともなったことを記憶しておられる方もあると思う。ミッドウェー島は南方約百五十浬を通過したために御覧にはなれなかった。天皇陛下は昼食後寝室に御入いりになったが約一時間位で御目覚めになった御様子で経度百八十度の日附変更線を通過したのは日本時間十四日午前十時四十四分(ハワイ時間十三日午後三時四十四分)、ところが向風が弱くこのまま順調に飛行すると東京到着が午後三時半頃となる計算ではあるが日本近海上空での偏西風の風速如何によっては、十分程度は軽く吹き戻されるので、まず高度を三万五千呎(約一万七百米)にあげ様子をうかがうこととする。高度変更をしても予報通り微弱ではあるが追風である。さらに巡航速度を絞り調整したが東経百五十度においても約二十分の早着は避けられないことが明らかになった。東経百四十六度から百四十四度の間で南下した秋雨前線上空を越えると雲高も低くなったので遂に、木本機長は速度調整のため高度二万呎(約六千百米)への降下を決意し、航空交通管制にその承認を求めた。更に羽田着陸を十五時五十五分とするために、十五時二十八分に千葉県御宿上空を通過するよう計画した。やがて左舷前方の雲の合間に富士山頂がかすかに見えてきたので連絡をしたが、客室の窓からでは見えにくく両陛下も御覧になれなかった模様である。
御宿上空通過は十五時三十分と梢々調整過剰気味となったので、進入速度管制が必要かどうかを管制塔に尋ねたところ、自由であるとの指示を得、午後三時五十四分に着陸、午後四時運行ダイヤ通りに駐機場に停止することができた。
空港での御帰国御出迎えの行事を済まされた両陛下が自動車で宮城に向われ、御出迎えの方々の車も姿を消した頃にわれわれは無事に大任を果し得た喜びを噛みしめながらステップを降りた。
後日、御召機乗務員を含め直接担当者に対しては御紋付銀盃壱個を賜り、さらに十一月十九日は三木総理、今回の御旅行の主席随員であった福田副総理以下関係者一同と共に宮中豊明殿におけるお茶の御招きにあずかった。
しかし、この行事が無事に完了できたのも宮内庁始め外務省、警察庁等の関係当局の御努力と、社内では唯黙々として日常業務の一端として準備作業を進めてくれた運航、整備その他の関係職員や、現地で到着から出発までの間僅か三時間そこそこの睡眠で裏方作業を行ったこともあった添乗員等の努力の結晶であったと感謝している。
民間航空に身をおいて二十余年となったが本当に一生に一度の光栄に浴することができたのは諸先輩の今日までの御指導、御鞭撻(べんたつ)のお陰であり、はたまた三十余年前に太平洋各方面で散華したクラスの英霊の御加護によるものと感謝して拙い文を終わる。
【追記】
御召機乗務員氏名が朝刊で報道された九月二十六日午前、編集委員で四号クラスメートの眞鍋正人君が小生の出先まで電話で追いかけてきたので何事かと思った所、御祝いの言葉に引続き会誌に寄稿せよとのことで、更に貴様は一度も寄稿していない筈だと強迫されたため思いがけず筆をとった次第であることを申し添える。