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平成22年4月23日 校正すみ

随        想

宮田 實

宮田 實 磯  風

 「磯風」の乗艦期間は、昭和1812月から20年1月まで1年余りの短期間であったが、その間、「あ号」作戦(マリアナ沖海戦)、「捷一号」作戦(フイリッピン沖海戦〉に参加したほか主力の直衛として行動し、また、船団護衛は5回に及んだ。

己一号輪迭作戦     (浅香丸 横須賀ーブラウンートラック)  
大瀬船団        (タンカー5隻 シンガポールーパラオ)
シミ08船団       (シンガポールーミリ〉
ミシ06船団       (ミリーシンガポール〉
87船団        (六連 ー 高雄)
 その間痛感したことは駆逐艦の対潜水艦探知能力は非常に劣っており、無力に近いように思われた。機動部隊の来襲を前に「武蔵」がパラオを脱出する際「磯風」の左舷近距離より発射された魚雷は雷跡を発見するまで探知できず、「武蔵]が回避することを祈るばかりであった。タウイタウイ泊地外、対潜警戒中の「谷風」、その他、「大鳳」、「金剛」、「浦風」、「信濃」、シミ08船団では「ウガ丸」が被雷沈没、いずれも事前に探知出来ず、直衛の任を全うすることが出来ずに「谷風」、「大鳳」、「金剛」、「信濃」の乗員の救助に努めたが「浦風」は司令、艦長以下全員を見捨てる結果に終わったことは痛恨の極みである。特に「浦風」については格別の思いがある。108日「磯風」がシンガールで入渠整備のため回航するにあたり司令駆逐艦を「浦風」に変更し、「磯風」が帰ったらまた帰ってくるから」と谷井司令は言われ、内田源吾庶務主任を伴って「浦風」に移乗されたまま、「捷一号」作戦が発動され、そのままになっていた。「金剛」の生存者救助後,「浦風」沈没地点に向かったのは数時間を経過した後になり、1名の生存者も見つけることが出来なかった。
 暗夜の海上で僚艦3隻のうち1隻は必ず救助のきてくれるものと信じて、待っていたであろう乗組員のことを思うと申し訳なく言葉もない。
 思えば駆逐艦の直衛は単なる見せかけだけの存在で,山田の案山子(かかし)のような単なる虚仮威しに過ぎなかったと思うのは言い過ぎであろうか。船団護衛以外は通常20ノットの航海速力で行動していたこともあってか多くの被害を生じ、役にたたなかったことは申し訳ないでは済まされないものがある。10戦隊では「涼月」は前部に被雷損傷、「秋雲」、「風雲」、「谷風」は被雷沈没、そのほかでも多くの駆逐艦が潜水艦の目標となり姿を消した。
 米軍の作戦に潜水艦による駆逐艦への攻撃も含まれていたようだが、それにしても犠牲が多かった。

 (なにわ会ニュース100号46頁 平成21年3月掲載)

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