平成22年4月18日 校正すみ
零 戦 記
西口 譲
その1 ジャングル上空の決戦
「ホンヒ1100ゴロ、インドヨウホウメンヨリ、テキオオガタへンタイニヨルクウシュウノオソレダイナリ。カクブタイハタダチニケイカイハイチニツケ」
第11航空艦隊司令部(在シンガポール)からの緊急電信命令をわし?みにして、通信兵があたふたと戦闘指揮所に駈け込んで来た。
第1区隊白石大尉(71期)以下3機、第2区隊西口中尉以下2機、合計5機の零戦邀撃隊が即座に編成され、濛濛たる砂塵を巻き起しながら勇躍大空に向けて飛び立って行った。強烈な太陽が、椰子林に囲まれた滑走路に惜し気もなく降り注ぐここバットパハの特設航空基地(シンガポールの北西約60浬マレー半島南西部)、昭和20年1月のことである。
愛機の調子は頗る快調、野も山も といっても、ジャングルまたジャングルであるが 、見る見るうちにはるか下界の彼方に飛び去って高度は早くも8千米、眼下にはマレー、そしでマラッカ海峡を隔てた遥か彼方にはスマトラ島が、静かに実に静かに横たわっている。2番機は脚が片方引込まないため、飛行場に引き返し、その修理待ちをした関係上、第1区隊とは別行動となり、結局唯一機、無限の大空の一角にふんわりと浮んでいるのである。併し甘い感傷に浸っている暇は毛頭ない。まず機銃の試射をやってみる。20耗2丁、7.7耗2丁、ダダダッと腹にしみ渡るような力強い轟音と閃光を発し、数十発の弾丸がほのかな煙の尾を曳きながら地平線の遥か彼方に消え去っていく。
眼を大きく見開いて四周を厳重に警戒しながら、海岸沿いにバットバハとシンガポール島との間を1往復余り、つと視界の一角に飛び込んできたものは敵編隊、思わず心臓が高鳴り手足が硬直するのを覚える。唯あまりにも遠距離であるため、すぐ戦闘に入ることは考えられず、下腹に力を入れて平静を取り戻した上でじっと観察してみると、機数は20から30、機種は大型機らしく、高度は同じく8千位、一路シンガポール目指して裕々と飛んでいるではないか。
「よしきた」とばかりスロットルを全開、敵前方に廻り込んで爆撃直前の出鼻を抑えるべく、我が永遠の恋人零戦の針路をシンガポールに向け変えたのであるが、彼等との距離はあまりにも遠く、しかも殆んど平行線を競走しているような関係位置にあるため、すぐ攻撃に移ることはできず、送り狼宜しく敵の退路で待ち伏せすることに決めた。今か今か、馬来半島南端附近上空で待つこと暫し。折からの強い太陽を背に受け、文字通りの銀翼をキラリ、ピカリ、と輝かせながらB-29の堂々たる19機編隊がやってくるではないか。よし、このままでは帰すものか。
攻撃態勢を整えるため暫く敵の左前方上空を北に向って同行、頃合いを見計らって反転、反航態勢。2千〜3千から空対空の三号爆弾1発を投下。当るか?不発か?・・・・パッと青白い煙の糸を四周に飛び散らかして敵編隊.上空で見事炸烈、併し無念、高度差をとり過ぎたため命中せず。
しまったと思う間もあらばこそ、瞬時に横転、背面飛行の姿勢かち真っ逆様に急降下、翼も千切れよとばかり猛烈なスピードで敵編隊の左翼後端機に狙いをつける。距離1800 まだまだ、500、まだ早い、400、発射、敵味方の曳光弾が花火のように交錯する中に、敵機胴体後方左上面からパッと黒煙、零戦の誇る20耗炸烈弾が1発命中!と同時に、「グワーン」と悩天に一撃喰わせられて一瞬ふっと気が遠くなってしまった。
「俺は生きている、しかも気は確かだ」というのが、意識を回復した直後の実感である。敵機は?と振り返ってみると、既に数千米の彼方、唯の一機も編隊を乱すことなく、悠然たる19機編隊のまま帰りを急いでいるではないか。無念遣る方なし。
それにしても右顔面が焼けつくように痛むし、右眼もまともに開けていられぬ程チクチクする。
徐に飛行手袋を外し、恐る恐る右手で顔をなぜてみると、何と紅顔の美少年のやわ肌?がまるで砂利のようにザラザラ、しかも掌にはベットリ赤いものがつくではないか。しかし敵弾が頭を通っていない証拠に気は確かだし、敵弾で破壊された風房硝子の破片を顔面に無数に被っただけであるからほんのかすり傷に過ぎない。
機体の方はどうかとみると、エンジンが煙を吐き、翼のつけ根にかけては潤滑油が黒い糸をひいているではないか。幸い燃料系統に異常なく、潤滑油系統がやられただけらしいから、エンジンが焼け付くまでまだ10分間位は飛べる筈、それまでに何とかして友軍の基地までたどりつこう。
しかし煙はますますひどくなる。潤滑油圧力は下り続けて遂に零、プロペラはハイピッチ一杯、エンジン回転数はガタ落ち、強い振動が身体中をゆすぶり、エンジンや機体をどう操作しようが高度はドンドン下る一方。眼下はジャングルまたジャングル。ああ、これが内地ならたとえ助からぬにせよ「何月何日、西口中尉は何県上空においてB-29との空中戦により戦死」が確認され、いつかは骨や遭晶を日本人に拾って貰えるものを。
現在位置ははっきり分らないが、とに角南に向ければシンガポール島に出られる筈、そして第11海軍航空隊のあるセレター飛行場まで何とかしてたどりつきたい。
空戦時6、7千米あった高度も今や2千米、ようやくにして遥か彼方にジョホール水道を隔ててシンガポール島が視認できる所まできたものの、到底そこまで滑空をつづけることはできない。いよいよ不時着だ。しかし天の助けかジョホール海軍飛行場が近くに見えてきた。尤も飛行場とはいっても細い滑走路がたったの一本、目下建設工事中のため約半分の600米程しか使えず、その上滑走路が急匂配になっている関係上、風向の如何にかかわらず、坂下の方から着陸せねばならない。
手動ポンプをついて無事脚とフラップを出し、エンジンが効かないから普通よりも着陸コースにおける高度をうんと余裕をとったまではよかったが、余裕をとり過ぎたため結局は着陸に失敗。そのままでは飛行場端のジャングルに激突することが必至になったため、着陸のやり直しを決意し、スロットルを全開、機首を上げ左急旋回に入ろうとした瞬間、今までプルンプルンではあるが何とか廻り続けていたプロペラがブスンと完全に停止すると共に、左翼端から失速に入ってグワシャーン!
呆然自失、それでも自力で機体から這い出し、無惨にも吹っ飛んだ左脚、飴のようにクニヤクニヤに曲ったプロペラ、ポッキリと折れてしまった左翼を眺めて何ともたとえようのない無念な思いにひたること暫し、トラックで駈けつけてくれた施設部の人(軍属)に助けられて飛行場脇の仮小屋で負傷の応急治療を受けた。
「飛行服が破けていますよ」と注意される。なる程右腕の所に裂け目があり、破れ.口を開いていて、見ると中が赤くなっているではないか。急いで服を脱いでみるとこれは如何に、肘から上の方で鮮血が吹きだしている。結局は二針縫って止血した程度の微傷ではあったが、平時であれば痛み位は当然感じている筈、それが他人から言われるまで自分では気がつかなかったのである。(この傷は不時着時受けたもの)2時間ばかり後、セレター基地から自動車で迎えに来てくれた同期の戸塚中尉が「貴様幽霊か」という。どうしてかと聞くと、貴様の頭を敵弾が間違いなく貫通している筈だ」というではないか。彼が大破した機体に乗って座席に坐り、風房を貫通した弾丸の入口と出口の間に棒を通してみると、どうしても頭の真中を通らざるを得ないとのことである。
それでもよく無事だったと今でも我ながら不思議に思うこともあるが、射撃中のため姿勢が平常より低かったのが原因で、それにしても右耳の少なくとも10糎以内を敵の13耗機銃弾2発がかすめたことは確かであり、時間にしても、ミリセコンドかマイクロセコンドの差が生死の分れ目になった次第である。
被弾合計は6発、2発が風房の右前から左後方に抜け、1発が偶然にもプロペラボスのど真中に命中したため機体に致命傷を与え、2発が主翼、1発が尾巽という内訳、弾道の方向からいって敵の2機からの射撃が命中している。
運とかツキというものは実に恐ろしい。大体爆弾を抱いたまま不時着する馬鹿はない筈なのに、あまりにも強烈なショックのため、それをやってしまったのである。両翼に一発ずつぶら下げて行った空対空の三号爆弾は一発落したがあと一発はまだ残っている。そしてグワッシャンやったのは既に爆弾を落してある左の方、右翼の方は逆に手の届かぬ程高くにあって爆弾はぶら下がったまま異常なし。
「為さざると遅疑するとは指揮官の最も忌むべきことなり」条件の悪い着陸(不時着)であがってしまっているし、右目はよく開けられず滑走路の端近くになってもまだ車輪が接地しない、無理に機首を下げて接地させればスピードがつき過ぎ、滑走路端からは逆に急勾配の下り坂が30米あってその先が行きとまりのジャングルの壁。あの時もし着陸やり直しを決意しないか、或は2、3秒その処置が遅れていたら結果は敢えていう必要はない。
まだある。あのエンジンの状態ではもう1回りして着陸のやり直しが出来る程飛べた可能性は全然ない。だから失速していなければあと2、3百米飛んで後、樹木に激突墜落したことは確か。
もう一つ、失速高度は約10米、急旋回したためもあって翼端失速に入り、まず左翼が下ってガッシャンやったため、左翼がクッションとなって墜落の衝激が緩和され奇跡的に命拾いしたのであるが、もしあの時高度が20米もあれば左翼の次には機首が下るから機体だけではなく人間も煎餅になっていた等。旋回しないで真直ぐ機首を引き上げて失速していたのなら文字通りの真っ逆様であったろう。
もはや21年も昔のことであり、追想はややもすると不連続になり勝ちであるが、戦闘場面の記憶だけはいかにも生々しく、70になろうが80になろうが、恐らく生きている限りは絶対に忘れることのできない懐かしい思い出である。
その2 忘れ得ぬ人々
当日の戦闘で71期の白石大尉は戦死された。空中からの捜索後、地上(水上)からも捜索隊を出し、ダイハツによりマングロープ林の間の小さな河を上がっていったのであるが、ようやくにして垂直尾翼のみ視認できたものの、密林に遮られて全く進むことが出来ず、ついに機体までは確認できずに終った。
元気者の戸塚 弘君は、名簿にもあるように、その後仏印方面でP-38との空戦で戦死された由聞いたのであるが、当時小生はスラバヤ(ジャワ)におり、隊も分れていたので詳しいことは知らない。しかしお互いまだセレターにいた初陣の頃の話であるが、矢張りB-29との戦闘の時、彼は自分の攻撃をかけた敵機の胴体に、ギャングが馬に乗ってピストルを打っている絵 今でいう西部もの が書いてあったという。あのマークは直径1米、或はそれ以上もあろうかという大きなものではあるが、実際の戦闘場面にあっては照準器内に敵機を捕えるのが精一杯であり、射撃を終ってすれ違う時は正に一瞬、とてもどんなマークが書いてあるかなど見る余裕は全くなく、小生などそういわれてみれば何かマークがついていたような気がする位のものである。全く同君の沈着豪胆さには敬服せざるを得ない。
そういった関係もあってか、別の戦闘の時、戸塚機の落した三号爆弾がいい所で炸烈し、B-29の1機が煙を吐きながら列を離れて退散したことが地上(セレター)からも確認された由である。あるいは突然の空襲で酸素マスクをつける暇もなく飛び上り、四千米位の高度で敵機を追掛けたため、アップアップしながら戻ってきたという話を聞いたこともある。話は違うがバイパスニュース第6号で故福山正通君の御父君のお便りを拝見し、特に岩国のことが出ていたので付言します。(御無沙汰のお詫びを紙上で失礼ながら申し上げます。)
19年の8月から9月にかけて戸塚君や小生等は、岩国を基地にして零戦を集め、9月下旬にシンガポールに向け空輸を兼ねて赴任したのであるが、矢張り半月というレスから岩国基地に1カ月近く通ったことがある。
大分か大村かで偶然元山航空隊の福山君に会ったのは当時のことであり、間もなく故国を離れたのであるが、いみじくもそれから二カ月後に福山君も同じ半月に泊り、岩国基地から飛び立ったことになる。小生等は岩国での滞在期間が比較的長く、ほろ甘い追想をも含めいろいろの思い出が残っているが、僅か数日間、故国最後の日々を福山君はどんな風に過したかと思う。
体操、水泳特級の上島君も東南アジア方面の零戦組では印象の最も強い一人である。彼が内地へ帰る途次、会った時に聞いた話であるが、パリックパパンにおいてB-24に体当り攻撃を敢行したとのこと、強く感動したことをまるで昨日のことでもあったように思い出す。
その3 航空雑誌のこと
零戦の実物を関西で展示する時、飛行服やライフジャケットを石井君が提供したそうであるが、ヒョンなことから小生の方にもお鉢が廻ってきた。愚息は中学一年生、親譲りかどうか知らないが、御多分に洩れず模型や飛行機が大好きである。それで航空雑誌に投稿だか投書だかしているうちに、雑誌社の方で零戦その他のネガを借りに拙宅を訪れ、写真、ついでに記事もということになった。最初座談形式ということで数名のクラス諸兄に電話をし、その中連絡のついたA・M・N・Sの諸君に内諾を得ていたものの、テープの関係上対談ということになり、止む無くS君一人に絞った。所が約束の時間所定の場所にS君が現われず、しばらく待ってKA氏に電話してみたものS君いまだ帰宅せず、止むを得ず編集者と小生の対談ということになってしまった。
正月号に載せる予定とかで、この第7号よりは先に発行されているのではないかと思う。正に子供のとりもつ縁である。貰った2000円也はそっくり子供にプレゼントしておいた代りにというわけではないが、特に熱を入れて書いて貰った零戦の絵、佐藤君の慢画休載の代りにでもカットとしてのせて貰えれば幸いである。(写真 略)
(なにわ会ニュース7号19頁 昭和41年2月掲載)