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五十年夢幻(9)
海軍の遺跡

押本 直正 

 今年は戦後五十年に当り、あちこちで記念の式典や慰霊祭が行われている。筆者の住んでいる横須賀は言うまでもなく軍港で発展した町であるが、呉や佐世保に比べて進歩的で民主的な市行政当局はその遺跡を保存する事に余り熱心では無いようだ。

 数年前から始められた吾が「歩き登る会」は、主唱者の幸田正仁君の熱心な指導により毎月一回神奈川の山野を跋渉し、大いに浩然の気を養っているが、今年は「三浦半島を歩いて巡る」計画で、既に横浜港ー三渓園−根岸公園を皮きりに、杉田ーシーパラダイスー金沢八景、金沢−横須賀三笠艦の三回を実施した。

 

横浜海軍航空隊

 二回目には横浜航空隊跡を訪れた。此処はかつて浜空と呼ばれた帝国海軍飛行艇隊の発祥発地である。現在は埋め立てられて高層の団地に様替りしているが、京浜急行富岡駅から下った隊門付近の桜並木は昔の儘で今は市民の公園である。隊門も浜空神社も立派に修復され、長文の由来碑が立っている。それを要約すると、

 「昭和十一年十月二日、飛行艇隊の主力として開隊、隊員千名、飛行艇二十四機。戦争勃発するや強大な航統カを利してハワイ・印度洋・アリューシャン・豪州・ソロモンと洋上大遠距離の索敵哨戒攻撃に参戦。その後八〇一空(横浜)八五一(東港)等に分離したが、沖縄戦には詑間航空隊に集結し、その総力を挙げて奮戦した。戦没者多数。浜空神社にはその英霊を祭ってある。」

 丁度訪れた42日は満開の桜の下、浜空神社で慰霊祭が行われていた。飛行艇隊の長老長谷川栄次(52期)、日辻常雄(64期)氏の他に石田捨雄夫妻も参列されていた。石田夫人の父有馬正文(43期)氏が昭和十四年から十六年まで浜空司令を勤めた縁からの由。

 

横須賀軍港

かつての横須賀軍港を望む一帯は臨海公園と称し、アメリカ海軍の空母や潜水艦が入港する度に反対運動の赤旗の林立する地区である。わが海上自衛隊は横須賀駅裏の一隅に閉じ込められており、残念ながら此処は正にUSNAVYの東洋艦隊の基地である。

 しかし臨海公園には帝国海軍の記念碑も少なからずある。
写真の軍艦長門碑もその一つ。戦後に建てられた物だが、長門がこの地を母港とし聯合艦隊の旗艦であった事が記されている。
戦前からの物は「軍港逸見門」と「逸見上陸場」の衛兵の詰所が残っている。
海軍の遺跡は現在米軍基地となっている地域に多い。米軍は故意か必然か日本海軍の建物や施設を大切に使用している。横須賀鏡守府は米軍司令部、海軍工廠の施設は工場ドック等その儘である。別掲写実の海軍病院は、USN hospitalとしての役目を果している。

 横須賀で最も重厚かつ古典的な建築物だった下士官兵集会所は取壊されて陳腐な高層ホテルになり果てた。頼むは米軍基地内に残存する帝国海軍の遺跡のみ。

 アメちゃん、大事に使って下さい。

 

霞ヶ浦神社と殉職者慰霊塔

霞ヶ浦航空隊の一隅に霞ケ浦神社があった。これは、大正末期副長だった山本五十六大佐の発案で、「当隊創始以来殉職者を出すこと既に二十余名(中略) 故き戦友の英志を永遠に偲び倍々吾人の雄志を奮起して、我航空界の躍進を図り以て先輩僚友の神霊に応うるに在りと思考す」と大正十四年に書かれた設立趣意書にある。その費用は全部航空隊士官の浄財により、敷地の地均しは隊員の奉仕によったという。

終戦に伴い神社は撤去されたが、英霊名簿は阿見村に保管された。戦後は毎年四月の第二日曜日に慰霊祭が行われる恒例となった。場所は霞ヶ浦航空隊の学生舎の跡である。

 今年は終戦五十年の節目ということで多胡光雄君と参列した。多胡と私は昭和十九年七月二十九日、霞空での飛行学生の卒業式を終り、その儘泣く泣く霞空の一次室に入った。当時霞空中練教官は貧乏籤の最たる物だったからである。それでも多胡は翌年三月、横須賀空に転出し戦闘機乗りになったが、私は終戦までの1年余り霞空教官で居残された。学生時代を加えると一年半、私の海軍生活の全てが霞ヶ浦に在ったと言っても過言ではない。

 61期の高橋勝作氏(水海道市在住)が祭主となり、65期の富士信夫氏が挨拶されたが、参列者は全て老齢、維持経費も掛かる事であり何時まで続くか疑問である。

荒川沖在住の74期池田啓裕君(43期飛行学生)の事でかつての中央格納庫等を案内して貰ったが、池田君は突然車を停めて一つの墓を示した。見れば「中島なを 大正十四年六

月二十九日没」とある。彼の説明によれば中島嬢は訓練中墜落した飛行機の巻添えで死亡したそうで、彼女を道づれに殉職したのは小島兼男少尉(兵学校50期、飛行学生12期)、初期の霞空神社の祭神の一人。こんな事を知る人も間もなく居なくなると思うと感寂蓼。

 

百里空 ここにありき

百里海軍航空隊は昭和十四年十二月に開隊した。兵72期、機53期を主体とする四十一期飛行学生の偵察92、艦爆35、艦攻13名、計140名がこの地を巣立ったのは十九年七月であった。そしてその65%が戦場に散った。

 今年五月十七日、戦後五十周年の慰霊祭が現在航空自衛隊百里基地の記念碑(別掲写真)の前で行なわれた。参列したクラスメイトは伊佐弘道、大槻敏直、押本直正、加藤孝二、門松安彦、渋谷了、鈴木保男、多胡光雄、平野律郎の九名。この地で職に殉じたのは北植武男、飯塚高志の両君。この地から飛立って沖縄に散ったのは牛尾久二、前橋誠一、中西達二、畑岩治の諸君であった。百里空全体では艦攻艦爆三十五機が沖縄特攻に出撃し、八十五名の若者が祖国のために散華したと言う。

 昭和五十年から五年毎に行なわれた慰霊祭も会員の年齢等から継続は不可能となり、今年で打切られた。正しく「ここに百里原海軍航空隊ありき」となってしまった。鳴呼。

 

南風多死聲 硫黄島

 本年五月十一・十二日と硫黄島を訪れる機会に恵まれた。詳細に就いては山下茂幸君が本誌に書いた通りで、山下はこの島で戦争し負傷、眞鍋正人の分隊監事赤田邦雄少佐(65期)は二十七航空戦隊参謀として、山田良彦と山下と私の百里空飛行学生時代の司令井上左馬二大佐(44期)は南方諸島空司令兼硫黄島警備隊司令として戦死された。

 「百聞は一見に如かず」というが、今回初めて硫黄島を訪問し認識を新たにした。この島は(古い辞書にはユワウジマとある)文字通り硫黄を噴出している島である。海上自衛隊で作った案内書によれば「噴気が無数にあり水蒸気爆発が発生する。年間30cmの隆起現象があり、地殻変動が著しく断層が存在する。戦前は硫黄の採掘が行われた。」とある。

 昭和二十年二月十六日米軍攻撃開始、三月二十六日に日本軍の組織的戦闘が終る四十日間に日本軍の戦死一万九千九百、負傷生還者一千三十三、米軍の戦死六千八百二十一、戦傷者二万一千八百ハ十五人。正に「鉄血覆山山形改」のすさまじい激戦場であった。

更に哀れな事実は五十年経った今なお噴気の燃える壊内に万余の屍が横たわって居るとの事である。屍の存在は判っているが残念ながら放置されているわけだ。東京都内にである。

島全体が戦争の遺跡といえるこの島であるが、下掲写真は「海軍の14糎砲、重巡洋艦の副砲で、二月十七日上陸作戦の開始二日前に上陸地点の掃海作業に出動した米艦艇に砲撃を加え撃沈した事から、米軍の艦砲射撃の的となり、十三門の火砲が破壊された。このため、この砲台は(勇み足砲台)という別名がある」そうな。

 この島で戦死したなにわ会員は五十三期の合志秀夫君だけだが、この島の攻防を巡る前後の戦いでは多くの飛行機乗りが戦死した。

昭和二十年二月十六日、米機動部隊は硫黄島攻略に先立って関東地区の航空隊に空襲を加えた。その名を挙げて冥福を祈ろう。

堀江太郎(偵察一〇二偵察員 機動部隊索敵 犬吠崎東方

阿部宏一郎(六〇一空艦爆隊 機動部隊攻撃 犬吠崎南方)

赤井賢行(三〇二戦闘機隊 敵艦載機迎撃 関東上空)

村田善則・立川鶴雄(谷田部空戦闘機隊 敵艦載機遊撃 関東上空)

福島俊一、池田秀親・斎藤敏郎(筑波空戦闘機隊 敵艦載機遊撃 関東上空)

三谷吉甫・前原博生(北浦空水偵 銃撃地上死 北浦航空隊)

石川幸夫(鹿島空水偵機動部隊索敵 本州東方)

佐伯照夫(攻撃七〇四偵察員 硫黄島攻撃 小笠原海面)

飯島晃・桜庭正雄(第二御盾特攻隊偵察員 硫黄島攻撃)

かく言う小生は霞ヶ浦空周辺の機銃指揮官として敵艦爆(sb-2c1機を協同撃墜したのみ。

 

 「南風多死聲 眼前一杯酒 誰論身後名」

(南風二死声多シ 限前一杯ノ酒 誰カ身後ノ名ヲ論ゼン)とは、中国南北朝時代の詩人庚信の連作「擬永慎二十七首」の結句であるが、標高百七十メートルの摺鉢山の山頂に立ち眼下に島を一望すれば、この詩の感慨が胸に突き刺さり、死者の声が太平洋のうなりと共に耳朶を打つ。

 

トラ トラ トラ 真珠湾

今年の八月十五日はハワイに居た。フォード島の東北東にある米軍潜水艦基地からアリゾナ記念館を望み見た。此処は村田重治少佐の率いる艦攻雷撃隊の射点の針路上にある。数十の雷跡と水柱が残っているかに思えた。

見よ檣頭に思い出の Z旗高く翻る

時こそ来れ令一下 ああ十二月八日朝

星条旗まず破れたり 巨艦裂けたり沈みたり

  あの日旅順の閉塞に 命捧げた父祖の血を

継いで潜った真珠湾、ああ一億は皆泣けり

遣らぬ五隻九柱の 玉と砕けし軍神

        (大東亜戦争海軍の歌)

あの日八日の朝まだき 聖史に薫る突撃の

命令叩く電鍵に 栄光燦と輝きぬ

         (偵察飛行学生の歌)

 思わずこれらの歌を口ずさんだ。そして先輩の偉勲を偲び快哉を叫ぶと共に、この地に散華した英霊の冥福を祈った。

 

むざんやな甲のきりぎりす

 この基地の一隅も黒塗りの回天が一基置かれていた。余りにも大きいので、私には特殊潜航艇ではないかと思われた。小灘利春君に確かめた所、回天に間違えないが、実戦に使われなかった四型で横須賀にあった試作品だそうだ。ハワイで回天にお目に掛かろうとは、懐かしく、悲しく芭蕉の句を思い出した。

 

遠洋航海 候補生の夢の跡

ダイヤモンド・ヘッドに登った。この岬は、その昔、練習艦隊の候補生たちが艦位測定に睨みつけたに違いないと思うと一木一草にも親しみを感いた。頂上から望むホノルルの景観もさることながら、太平洋の紺碧一入目にしみた。

762Ft250m KA同行

 (なにわ会ニュース第73号 37頁  平成7年9月)

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