TOPへ 戦記目次

五十年夢幻(7) 
沖縄・鹿屋

押本 直正

 

 飛鳥船上での洋上慰霊祭に参加するため、沖縄にでかけた。思えば沖縄の旅は今回で四度目になる。最初は昭和21年の12月、戦争中本土に疎開していた沖縄県人を、海防艦二百

七号で鹿児島から与覇原港まで送った。戦後間の無い時で中城湾には沈船のマストが林立していた。桟橋付近を歩いただけで上陸は出来なかった。二回目は48年の2月、沖縄の移民史調査目的の出張で、本土復帰直後で未だ右側通行だった。

三度目は53年の12月に開かれた海外移住研究会に出席した外国人学者を案内した。いずれも公的な仕事を持っての訪問だったが、今回は慰霊が目的。

(海軍司令部壕)

 観光バスは新装成った首里城を通って、海軍司令部跡に立寄る。48年に訪れた時には境内に大田実司令官(41期)と参謀の人形が置いてあり、「身はたとへ沖縄の辺に朽ちるとも 守り遂ぐべし大和島根は」の辞世の歌や降伏文書が展示されていたが、その後は何故か取除かれている。

 

 「沖縄島二敵政略ヲ開始以来(中略)県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集二捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃二家屋卜財産ヲ全部焼却セラレ(中略)若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ゲ看護炊事ハモトヨリ 砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ(中略) 沖縄県民斯ク戦へり 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

 

 大田司令官が昭和二十年六月六日、海軍次官宛てに発信した電報がパンフレットに印刷されていた。それまでTシャツにGパンで傍若無人に振舞っていた数人の若者達もバスに戻ると流石にしゅんとなった。

 (伊江島)

 二日目は本部半島の、逢か沖合に伊江島を見はる国営沖縄記念公園の一隅にあるホテルに宿を取った。東支那海に沈む夕日が見たかったからである。伊江島は東京宝塚劇場にその名を残したアーニーパイルが戦死した島だと観光案内に述べている。然し悲しく痛ましく思い出すのはクラスメイトの伊藤叡君の事である。

 筑波空戦闘機隊の伊藤中尉は昭和20428日、伊江島附近で戦死とクラス会名簿には書かれている。その僅か二十日前の7日、父君の第二艦隊司令長官整一中将(39期)は大和と共に沈んだが、伊藤はそれを知って居たに違いない。父の仇を討とうと心に誓ったに違いない。これと同じ事に猪口智君の話がある。父君の武蔵艦長敏兵少将(46期)は昭和191024日、艦と共にシブヤン海に沈んだが、その後を追って智中尉は113日タクロバン上空に散った。(その状況は叔父の猪口カ平(52期)著「神風特別攻撃隊」に詳しく述べられている)

 東支那海の落陽は見事であった。夕日の沈む伊江島は、戦死した父を追って散った息子の熱血に染められてか、真っ赤に照り返って居た。鳴呼。

 

 (鹿屋航空基地史料飽)

 新装成った史料館の正面玄関は桜島のステンドグラスで飾られている。原画は東京芸術大学学長平山郁夫氏。桜島を眺めながら出撃していった特攻隊員の心を思い、鎮魂と平和

の願いを込めて作られたと言う。1階には海上自衛隊航空隊の現状、2階には帝国海軍航空の歴史と伝統を伝えて居る。中央に復元成った零戦52型が鎮座し、周囲に数々の先輩の遺品や功績物が飾られている。

 中でも興味深かったのは佐久間艇長の遺書。それも「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艦ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠二申訳ナシ」で始まる例の遺書では無く、「韓崎」ノ私室ノ抽斗に残サレタ私的な遺言である。

亡き後の遺産の配分を細々と書いた物で、しかも真筆である。

 次いで目を引いたのが65期生徒全員の寄書き。卒業前指導官に送った物で掛軸に表装されている。石隅辰彦、柳田益雄、安元至誠を始め懐かしい名前を見出だした。

 因みに、平山郁夫夫人の令兄は71期の松山愛氏で、39期飛行学生の戦闘撥乗り。眼を痛めて兵器学生に転向しフィリピンで戦死したが、生徒時代彼の作った支重立泳(重量物を捧げ持って立ち泳ぎ出来る時間を競う競技)の記録は、64期山内重安生徒の342秒を遥かに上回る25分数十秒で、私はその記録の作られた時をよく記憶している。

 なお、帰宅してから、我がクラス内山敬三郎君の遺品、50期寺崎大佐の飛行学生戦術教科書、67期木塚大尉の電波探信儀参考書(いずれも軍極秘、6522ヘージ参照)を鹿屋在住の67期肥田真幸氏に依頼し、史料館に寄贈・展示方をお願いした。

 

(桜花、神育隊別盃の地)

 神之池基地及びその他の基地より志願して来た特別攻撃隊員は、日本最南端の九州鹿屋の野里小学校に結集、昭和二十年三月より同年六月二十二日まで出撃を継続し散華して行った。神雷部隊の後続は竜巻部隊と呼称、その中には桜花隊攻撃隊爆戦隊があった。私もこの時海軍報道班員として野里村の百姓家に住み、隣家におられた特攻隊育ての親岡本基春司令の警咳に接し、戦況の推移を具にこの眼に焼きつけたが、連日紅顔の還ること無き出撃隊員を血涙で見送った辛い想い出がある。この若き戦士達の鎮魂を希い、全日本人の感激を籠めて撰文と為す。

  昭和四十三年三月吉目

    於世田谷空中庵茶経室 山岡荘八

明治12年に創建された野里小学校も昭和31年に移転し、そこには桜花の碑がひっそりと立っていた。辺りの田園風景と小鳥の囀りは、かつてこの地が神雷隊の若者たちが眦を決して出撃行った場所とは思えない静けさがあった。鹿屋空の自衛隊員が毎週花を捧げ清掃を行っていると聞いて、ホットした気持ちになった。

 

 (特攻隊慰霊碑)

 既にニュース56号に平野律郎君が詳しく書いているので重複を避けるが、要するに鹿屋から出撃して行った九百八名の慰霊塔で、その日時と氏名が全部名牌として刻まれている。

懐かしい名前が出て来る。努頭にある大岡高志と三橋謙太郎大尉(71期)。彼等は共に昭和1611月編成の20分隊員、私も所属したこの年の20分隊は近距離と宮島遠槽の両競技に優勝した。手許に増田佐輔係補佐が誇らしげに優勝旗を持ち、メタルを胸にした分隊員が並んだ記念写真が残っている。大岡生徒は短艇係でマンリーナイス、竹を割ったような豪快な性格。三橋生徒は剣道係で71期きっての美少年。大岡大尉は昭和20311日、ウルシーを攻撃した梓隊の先任偵察将校、梓隊は戦場到達が遅れ攻撃が薄暮になり「クラシ クラシ カンシュフメイ」の電文を打ちながら突入していったという。私はこの電報を打ったに違いない大岡大尉の無念さをしのんだ。三橋大尉は同月21日、沖縄に突込んだ神雷桜花隊の隊長、野中五郎少佐に率いられた18機の中攻・神雷は総員未帰還。この二人は僅か十日の間隔で壮烈な戦死を遂げたが、この鹿屋基地で兵馬倥惚の十日問に何を語ったのだろうか?

 クラスでは小原正義、古関健治の両中尉が野中隊長のお伴をした。さらに412日の田中、野上、14日の合原中尉。私はクラスメイトの名牌を一人ずつ指で撫でながら冥福を祈るのみであった。また、622日、神雷部隊の攻撃隊に伊藤正一中尉を見出だした。彼はクラスの伊藤孝一君の弟さんで、神雷隊最後の攻撃に参加して戦死した。

 

Pー2Jの操縦)

 今回の鹿屋旅行は左近允尚敏君の特別の配慮によるもので、「海軍文人の会」の臨時会員という資格で山田良彦と私が選ばれた。斉藤茂太、松永市郎氏や女優の応蘭芳さんなどの本当の文人約20名と共に往復とも自衛隊機便乗させて頂いた。厚木〜鹿屋はYS11、帰途はP2Jという潜水艦哨戒機に乗せて貰っただけでなく、操縦梓を握る機会を得た。急降下爆撃をしたかったが、高度がオートバイロットで九千沢にセットされた儘なのでそれもかなわず。ともあれ、天候にも恵まれ飛行撥野郎の冥利これに過ぐるは無し。

 鹿屋を訪れたのは始めてであった。昭和6110月、門松安彦幹事の主唱で行われたクラス会の「南九州慰霊碑巡礼の旅」(ニュース56号参照)には、胃の手術の直後で参加出来ず残念に思っていたが、今回やっと念願を達した。しかも何の因縁か128日の開戦日。

 鹿屋には帝国海軍が残っている。昭和11年鹿屋海軍航空隊開隊当時そのままの庁舎、今年の台風13号にびくともしなかった戦前の格納庫(戦後の物は破損した由)、グラマンの弾痕の残る烹炊所の煙突などなど。然しこれら物的な建造物もさる事ながら、精神的な海軍の伝統が自衛隊のみならず市民や市民の中に残っていたのが嬉しかった。

 (なにわ会ニュース第70号 24頁  平成6年3月)

TOPへ 戦記目次