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五十年夢幻(5)

宇佐海軍航空隊

押本 直正

 『隊内生活にもだんだん慣れた十一月に、親しくしている海兵出身の野中中尉に搭乗を頼んだところ、九七艦攻の編隊訓練に乗せてやるので来いという連絡があった。

 早速、衣服庫に行き航空服、靴など貸与されて着用し飛行隊長の前に整列した上、命令をうけて私は指揮官成田大尉(偵察)、野中中尉(操縦)の一番機に搭乗した。三機編隊で宇佐空より宇和島、防府、下関を経て帰隊する約一時間の飛行であった。

 風防より顔を出して眼下の景色を見ようとすると、強い風圧でいたくて下界を観察できなかった。しかし、編隊長の成田大尉は上半身を風防外に出して、後続機を手合図で指揮しておられた。この飛行は初めての経験であり、俺も栄ある海軍航空隊の一員であるという意識を強くした。

 次に艦爆の深井中尉より試飛行があるので乗せてやるからすぐに来いとの知らせがあった。早速、飛行服を着用して指揮所に行くと、旧式の九六艦爆が既に起動して、私を待っていた。約三千メートルの高度に上昇すると、補助翼と方向舵などの操縦機能のチェックを繰り返して行い、今から宙返りを行うと言いだした。太陽が真下や真横に見えて、回転するたびに呼吸を止めて、腹部に力を入れること数回、これでは景色を見る余裕など全くなかった。更に「高度二千五百米より急降下する」と伝声管で言ってきたので、勘弁して下さいと頼んで中止してもらった。当乗員は十分な体力と訓練と判断が大切だと実感した。

 昭和二十年四月に、成田大尉、野中中尉は神風特攻第一八幡護皇隊として出陣、四月六日串良基地より、九七艦攻十六機をもって沖縄へ突入されて戦死された。』

      

 これは「宇佐航空隊の世界U−さらなる証言−」という本に、加戸敏勝という整備予備学生出身の人が書いた文章の一郎である。成田大尉とは成田金彦(71期)、野中中尉と深井中尉は、言うまでもなくクラスの野中繁男と深井良のことである。67号に書いたように41期飛行学生は、この他に岡本操、東条重道が宇佐空に勤務した。

 宇佐に生れ、住み、育った若者たちが、その郷土の歴史を後世に残そうと地味な活動をしている成果が、「宇佐細見読本」として「横光利一の世界」(昭和6310月)、「双葉山の世界」(平成元年11月)、「麻生豊の世界)(311月)、さらに「宇佐航空隊の世界T(32月)、U(411月)、V(411月)」として発行されている。

 「宇佐航空隊の世界」は、宇佐空に勤務した人、その周辺で生活を営んだ人等の経験談だけでなく、宇佐空を全く知らなかった若い世代が自分の足で遺稿を調べ発掘し、保存しようとする努力か生々しく描かれている。更に、引続き研究調査が行われているようである。

 宇佐に育ち、毎日、宇佐空の飛行機を見上げながら宇佐中学に通い、そして海軍航空に身を置いた私にとっては、他人事とは思えないので少し蛇足を加えてみたい。

 

(宇佐空と飛行学生)

 宇佐海軍航空隊が開隊されたのは昭和14101日であった。同年121日、大分航空隊とともに第12聯合練習航空隊が編成され、大分空では戦闘機、宇佐空では艦攻、艦爆、偵察の実用機教程を教育することになり、飛行練習生、飛行学生の訓練が行われた。

 飛行学生の宇佐空での最初のクラスは32期であった。32期飛行学生は6564名からなり、1491日に百里原空に入隊し3式初練、11月に霞ケ浦空に移り、93中練の操縦訓練を受けた。15417日に飛行学生を卒業し、大分・宇佐空の隊付に発令され、補修学生という名目で実用機の教程を915日に終了した。

 それ以降、

33期(66期)、34期(66期)、35期(67期)、36期(6768期)、37期(69期)、38期(70期)、39期(68697071、機5051期)、40期(71・機52期)の艦攻、艦爆、偵察学生がいずれも約半年問、宇佐空で訓練を受けた。

42期(73期)の偵察学生の一部も宇佐空を卒業している。われわれ41期(7172、機53期)は、40期に遅れること約2月で飛行学生教程を受けたため、時期的に40期と重なり、実用機は宇佐空ではなく、百里空であった。

 宇佐は別府に近い。別府は昔から聯合艦隊の泊地であり、保養地でもあった。その関係で、宇佐で学んだ飛行学生には別府の思い出が強烈であったらしい。われわれも学生時代、先輩教官からその事を教えられていた。大分・宇佐で学生をやるということは、別府でヘベ゙ル事につながっていた。特に、私にとっては、宇佐は郷里であり、宇佐で訓練を受けることを予想して、艦爆学生を希望したという経緯もあった。しかし残念ながら、われわれ41期飛行学生は宇佐空ではなく、ホコリ(埃)高き百里空で訓練を受けた。

 

(宇佐空の思い出)

宇佐空が開隊した昭和14年、私は大分県立宇佐中学校の四年生、中学への通学路は誘導コースの真下であった。複葉の九六艦爆の降爆擬襲の引起こし時に発するあの金属音、赤く塗った九七艦攻の編隊飛行の機影、ときおり町で見掛ける海軍士官のマント姿、いずれも中学生を魅了するに十分であった。ときどき射撃訓練の吹流しにプロペラが触れて飛び散ることがあった。それを追いかけて田圃の中を走った少年の日の思い出もある。

 私が飛行機というものに初めて乗せて貰ったのは、昭和16年の兵学校生徒の夏休暇の時であった。そのことについては既に本誌66号に「飛行機野郎」と題して詳述した。

要するに、宇佐空は「我が青春であり、顧みる時の微笑」である。

  〔付記〕

大正時代から始まった飛行学生の教育訓練についてのまとまった資料が皆無に近い。海軍空中勤務者(士官)名簿(海空会昭和38年)を基礎資料にして、誰が、何時、何処で、如何なる方法で行われたかについてまとめてみようと、先輩に聞込み調査を始めたが、誰か良い資料を卸存じの方は教えて下さい。

 

(なにわ会ニュース第68号25頁  平成5年3月)

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