平成22年4月23日 校正すみ
2009年09月09日
旧海軍兵学校74期生の一人、広島出身の元タカキベーカリー社長景山崇人さんは沖縄特攻に出撃する直前の戦艦大和に一時乗艦し、原爆投下の翌日、家族を捜しに広島で入市被爆した。5日に85歳で急逝したが、朝日新聞では今年5月から今月初めまで数回に分けて直接、景山さんから聞き取りをした。戦前から戦後にかけての証言を5回に分けて紹介する。
(このシリーズは中川正美が担当します。)
♯花は散りても香(か)を残し
人は死しても名を残す
天晴(あっ・ぱ)れ佐久間艇長は
日本男児の好亀鑑(き・かん)
呉出身の母が女学校時代、海軍の第六潜水艇(佐久間勉艇長)が安芸灘で沈没した。1910(明治43)年で、潜航訓練中の事故でした。(乗組員が持ち場を離れず任務を果たした様子を記した)佐久間艇長の遺書をもとにした歌が流行し、私は母から子守歌代わりに聞いて育った。
それで、子どものころから潜水艦に乗ろうと思っていた。乗るなら士官がいいと。でも勉強せずに、剣道と米の配達ばかりしていました。家業は米屋です。当時、父は食糧営団の広島支部長で、家が広島市竹屋町(現・中区)の米穀配給所になっていた。
旧制修道中(現・修道高)を出て海軍兵学校を2回落ちて、3回目に入った。入学したのは1942(昭和17)年12月1日です。同じ兵学校に入った4歳下の弟は75期で、私と1期しか違わない。戦局は悪化の一途で、卒業したらすぐに死ぬんだなと思いました。覚悟はしました。
兵学校では入るとすぐ、1年生から3年生までの生活分隊に配属される。分隊の3号生徒(下級生)で潜水艦志望は1人だけ。大半は花形の飛行機が希望で、3割ぐらいが船舶だった。1号生徒(上級生)から「貴様は変わったやつじゃのう」といわれた。
44年秋ごろから(特攻兵器の人間魚雷)回天の戦力化が進むと、自分で思ったんです。「(潜水艦志望の)景山は回天にいく」、そう周囲に思われていると。でも回天に行くのは恐ろしい。当直の教官に「実は回天に志望しようと思うたら、恐ろしくてできないんです。どうしたらいいですか」と相談すると、教官はじっーと私の顔を見て、「おれだって恐ろしい。恐ろしくなくなったら行けばいい」といった。ホッとした。気持ちが吹っ切れました。
戦艦大和に乗り組む42人が決まったのは、卒業式のすぐ前でした。兵学校を卒業すると少尉候補生になりますが、がっくりしましたよ。乗組員3300余人の大和には自分より上の階級が大勢いますから。それよりもこまい駆逐艦の方がおもしろい。駆逐艦なら上から3〜4番目(の階級)になれる。いばっていられる。幼い考えですよ。
45年3月30日の卒業式後、それぞれ配属先に散りますが、大和はどこにおるか分からんのです。実は(沖縄への)特攻作戦で、すでに呉港を出ていた。4月初めに山口・三田尻にいることが分かったが、それまでは江田島の兵学校で寝泊まりしていました。
大和が沖縄に行くとはまだ知らなかったが、卒業式の翌日、外出許可をとって竹屋町の実家に帰ったんです。特攻に行くとは言えませんが、別れのあいさつのつもりだった。おやじがびっくりして、「お前、逃げて帰ったんか」と聞いた。
大和乗艦のため兵学校を出発したのは4月3日です。宮島口から汽車に乗った。桜がきれいに咲いていた。汽車も桜も見納めだと思った。
3日の日没後、大和に乗艦した。(正面の入り口にあたる)舷門(げん・もん)の黒板に天一号作戦発動とか書いてあった。ははぁ、沖縄に行くと分かった。この作戦で大和は沈むだろな、と思いました。
◇プロフィール◇
景山崇人(かげ・やま・たか・と)さん
海軍兵学校74期生。67年にタカキベーカリー入社、80〜89年に社長、89〜95年に会長。85〜90年はアンデルセン社長も兼務。91〜94年に広島商工会議所副会頭、89〜00年に旧広島水交会長を歴任。
【天一号作戦】
東シナ海周辺地域における航空作戦。米軍の沖縄上陸作戦が迫るなか、連合艦隊が45年3月26日に発動した。同4月5日、戦艦大和と巡洋艦矢矧以下の第二水雷戦隊による第二艦隊(計10隻)に海上特攻が正式に発令。作戦は「沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべし」とされ、突撃は4月8日の設定だった。第二艦隊は6日に山口・徳山沖を出港。沖縄に向け航行中、7日午後に東シナ海で米軍機の攻撃を受け、大和、矢矧を含む6隻が沈没、4千人余りが戦死した。
突然の「退鑑命令」
2009年09月09日
1945(昭和20)年4月、沖縄特攻に出撃する直前、戦艦大和を含む第二艦隊に数日間だけ乗艦した少尉候補生グループがいる。同年3月末に江田島の海軍兵学校を卒業した74期生だ。乗り込んで3日目、「候補生はいまだ教育課程にある者で、特攻出撃に参加させるのは適当でない」という艦隊上層部の判断で急きょ退艦が決まったという。いったんは戦死を覚悟しながら終戦を迎えた人たちを追った。(中川正美)
海軍兵学校の卒業と同時に少尉候補生になった74期生のうち、大和と矢矧に乗艦が決まったのは計66人。一行は45年3月30日、江田島の海軍兵学校の表桟橋から機動艇で呉港へ。ところが両艦は沖縄出撃のため前日の午後、ひそかに山口・三田尻沖に向けて出港していたため、候補生は兵学校に戻り、校内のクラブに使われていた「養浩館」で待機した。ようやく両艦の所在が分かり、同4月3日に宮島口に渡り、汽車に乗り換えて三田尻へ向かったという。
三田尻沖の大和はすでに出撃態勢で、艦の入り口にあたる舷梯(げん・てい)(タラップ)も上がった状態だった。江田島にあった海上自衛隊少年術科学校(後に第1術科学校に併合)校長を務めた辻邦雄さん(83)=横須賀市=は「短艇を引き上げる後部のボートデッキ近くに網がかけてあり、それをはい上がって乗艦した」と話す。
第二艦隊に沖縄海上特攻の出撃命令が出た後の5日夕、大和の艦内スピーカーが突然、「候補生総員退艦用意」を告げた。驚いた候補生一同を代表し、艦橋で指揮をとる有賀幸作艦長に嘆願にいったのは阿部一孝さん(83)=横浜市旭区=だった。戦後、日本鋼管で設備設計など手がけた阿部さんの記憶――。
「戦闘配置ですから、有賀艦長は鉄かぶとをかぶっている。連れていってほしいと直訴した。しかし、まだ乗って3日目で、足手まといだという話なんです。意見具申を退けられて戻ると、仲間に怒られました。もう一回行けと」
同日夜、沖縄出撃を前に大和乗員は酒保を開き、各分隊ごとに無礼講で酒を酌み交わした。退艦が決まった候補生も第一士官次室(ガンルーム)で別れの宴に加わった。
候補生が退艦したのは6日午前2時ごろだった。横付けした駆逐艦に竹ざおを伝って乗り移ったという。少尉候補生のほか、出撃直前には海軍経理学校卒の主計少尉候補生や重患者らも退艦している。
矢矧に乗艦した候補生でいち早く退艦情報をつかんだのは、通信士だった青木和男さん(83)=福岡市早良区=だ。「5日に候補生全員が大和にあいさつに行って帰った。上甲板から大和を見ていると発光信号が始まった。大和の候補生は一時、(航空母艦の)葛城に、矢矧の候補生は一時、(同)龍鳳に移乗せしむ、と読めました。それでみな騒然となった」
夕方、矢矧のガンルームでも候補生の送別会が開かれたが、未成年者が多かったためアルコールとたばこ抜きだったという。
■海軍兵学校「精神勉励の一途」
西洋列強諸国に対抗するため、明治政府は1872(明治5)年に陸軍省とともに海軍省を創設。東海鎮守府(横須賀)に続く西海鎮守府の候補地として、呉と江田島が有力になった。1886(同19)年に交通の不便な江田島が見送られ、呉鎮守府が決まった。
一方、海軍省創設の3年前に、海軍修学生を教育する海軍操練所が東京・築地に置かれた。翌年に海軍兵学寮(1876年から海軍兵学校)に改称され、海軍士官の養成拠点となった。
海軍兵学校を東京から地方へ移転させる話が出たのは、呉に鎮守府設置が決まる時期と重なる。候補地が江田島になった理由について、江田島町史は「(江田島は)西海鎮守府並びに造船所設置の最有力候補にあがり、兵学校移転地に大きくかかわったものと思われる」としている。移転は1888(同21)年で、「世事の外聞を避け精神勉励の一途」をめざすことになった。
海軍兵学校74期生は太平洋戦争が始まった翌年の1942(昭和17)年12月に入学した。45年3月末の卒業時、1024人が在籍。平均年齢は20歳前後で、卒業後の配置は航空関係348人、艦艇乗り組み242人、術科学校349人、司令部など実施部隊85人。艦艇乗り組みのうち、第二艦隊旗艦の戦艦大和が42人、それを護衛する第二水雷戦隊旗艦の巡洋艦矢矧(や・はぎ)に24人が配置された。
沈没の報・・・敗戦
大和と矢矧を退艦した66人はその後、ほかの艦船や術科学校、実施部隊などに配属された。大和乗艦組の宇都勝巳さん(84)=川崎市宮前区=と佐藤昇二さん(83)=東京都江東区=はともに大竹町(現・大竹市)の潜水学校で広島への原爆投下、そして敗戦を迎えた。
「あの日、広島方向で閃光(せん・こう)が走り、何事かと思った。あとで新型爆弾で広島が全滅したと知らされたが、(被害などを)考える間もなく、とにかく潜水艦で特攻的に攻撃するための訓練に明け暮れた」と宇都さん。戦後は機雷の掃海作業に携わり、海上自衛隊の護衛艦長も務めた。
終戦のとき、潜水学校では「日本はまだ負けていない。我々は立てこもるんだ」とゲキを飛ばす指導官もいたという。「学生たちも手分けしてトラックに乗って遊説に行った。私は宮島で演説しました」と、戦後は竹中工務店の建設現場責任者を務めた佐藤さんは述懐する。
矢矧から龍鳳に移った青木さんは、第二艦隊の暗号電文を翻訳して候補生室に張り出したことを記憶している。沖縄に向けて出撃した大和や矢矧が戦闘中に沈没したこともいち早く察知したという。戦後は九州大学教授や福岡工業大学長を務めた。
呉市出身で矢矧乗員組の岩野正彦さん(83)=大阪府豊中市=は退艦時、矢矧の水雷長(45年4月7日の戦闘で死亡)から遺髪とつめを託された。矢矧の撃沈を知った数日後、呉市内の水雷長の家族に届けた。終戦で復員輸送にかかわった後、住友商事副社長を務めた岩野さんは「沈んだのは分かっていたが、家族には南方でご活躍だと思いますといって渡した」と語った。
海軍兵学校の歴史
1869年 海軍操練所を東京・築地に創設
70年 海軍操練所を海軍兵学校寮と改称
76年 海軍兵学校寮を海軍兵学校と改称
86年 建言書「兵学校ヲ僻地(へきち)ニ移転スルノ理由」起草。同年6月、視察団が江田島へ
88年 海軍兵学校が築地から江田島に移転
93年 生徒館(通称赤レンガ)など完成
1917年 大講堂完成
36年 歴史資料を保存する教育参考館完成
45年 終戦後、米占領軍進駐。海軍兵学校閉校
46年 英連邦軍進駐
56年 兵学校跡地が連合軍から返還。海上自衛隊術科学校が神奈川・横須賀から江田島に移転
57年 海上自衛隊幹部候補生学校発足
58年 術科学校を第1術科学校と改称
70年 少年術科学校創立(82年に廃止され、第1術科学校に併合)
98年 大講堂改修
2008年 教育参考館改修
吉田満著「戦艦大和ノ最期」
海軍兵学校74期の乗艦、退艦の場面――。
【45年3月29日】 (呉軍港から)「大和」出港(山口の)三田尻沖ニ仮泊ス
【同4月1日】 米軍沖縄本島上陸
【同2日】 米機動部隊近接、明日来襲ノ公算大トノ報
【同3日】 カカル非常ノ時、数日前兵学校ヲ卒業セル新候補生、乗艦シキタル 「大和」乗組ノ光栄ノ故カ、紅顔、夜目ニモ鮮カナリ
【同4日】 早朝、米機来襲ノ報 配置ニ就ク
【同5日】 艦内各部ノ訓練再開 聯合艦隊司令長官ヨリ第二艦隊司令長官宛、出動命令発令アリ 一七三〇(五時半)、艦内スピーカー「候補生総員退艦用意」「酒保開ケ」無礼講開始ノ下命ナリ 候補生ノ退艦用意極メテ迅速 終ッテ一次室(ガンルーム)ニ招ジ入レ別レノ盃ヲカワス 気負ッテ赴任シキタリシヨリ僅(わず)カニ二日ナルモ、彼ラナオ春秋ニ富ム 決死行ニ拉致スルニ忍ビズ
【同6日】 〇二〇〇(二時)、候補生イヨイヨ退艦横附ケノ駆逐艦ニ移乗ヲ完了 一六〇〇(四時)出港
【同7日】 一二二〇(十二時二十分)対空用電探、(米軍の)大編隊ラシキモノ探知ス 戦闘開始 第六、七、八波(攻撃)相継イデ来襲ス 大和轟沈一四二三(二時二十三分)
(2) 4日目の退艦
2009年09月10日
終戦の年に旧海軍兵学校を卒業した元タカキベーカリー社長の景山崇人さんの配属先は、戦艦大和だった。乗艦したのは沖縄特攻に出撃する3日前である。
戦艦大和での配置は主砲発令所で、分厚い甲板の下に部屋があった。主砲を撃つときの距離や角度、風向、風速などのデータを入力し、砲塔に送り出す。そこが死に場所だと思いました。
大和は10階建ての巨大なビルのようで、主砲発令所は甲板を下りて左右どっちにあるのか分からない。まるで迷路のようでした。指導教官の一人が第一士官次室(ガンルーム)の室長だった臼渕磐・大尉(当時21)。スマートな人柄で、動作がきびきびしていた。
艦内の配属場所を覚えるのに精いっぱいだった1945(昭和20)年4月5日夕のことです。私たち少尉候補生は、駆逐艦が大和に給油する作業を甲板から見学していた。突然、艦内スピーカーが「候補生総員退艦用意」を告げた。候補生の代表がすぐに艦長に談判しに行ったが、だめだった。その夜、ガンルームで皆で酒を飲んだ。当時のことを、少尉で大和に乗艦して生還した吉田満さん(79年死去)が戦後、「戦艦大和ノ最期」で沖縄特攻をめぐる士官同士が激論を交わしたと書いているが、覚えがない。つかみ合いになったような記憶はないです。
少し話はそれますが、70年代初めごろだったと思うが、日銀に勤めていた吉田さんを広島に招いて経済の話を聞く機会があった。大和に乗艦していたと私は名乗り出たが、吉田さんの反応は打てば響くという感じではなかった。この人は苦しんでいる、話をしたくないんだ、と思いました。部下がたくさん死んでますから。
話を大和に戻します。候補生は4月6日未明に退艦しました。大和は同日夕に山口・徳山沖を出港。私たちは呉港に戻り、航空母艦の葛城に集まった。その翌日か翌々日だったと思います。内火艇(艦艇搭載の小艇)の指揮官として呉港の川原石に上陸員を迎えにいったら、桟橋からラジオ放送が聞こえた。「沖縄海上特別攻撃隊、戦果発表」と。第二艦隊はええぐあいに沖縄に着いたのかなと思ったら、「味方の損害、戦艦1」と伝えた。沖縄特攻で出撃した戦艦は大和しかいない。沈んだことを知った。人間の運は分からんもんです。
その後、葛城から軍艦大淀に移り、45年6月から大竹の潜水学校に行くことになった。そこで基本的な操艦訓練を受けました。3カ月ぐらいで潜水艦に配置されるが、そのころ残っていた艦はもう少なかった。実戦に使えるのは(特攻兵器の人間魚雷)回天か小型潜水艇ぐらい。海軍兵学校時代、回天に乗るのは怖いと思ったけれど、大和に乗艦した時点でそれは消えました。覚悟が決まりました。
広島に原爆が投下される2日前です。私は一晩、広島市・竹屋町の実家に帰った。両親と妹2人が暮らしていた。翌朝に大竹に戻るとき、妹たちには「元気でやりなさい」と声をかけた。それが家族の顔を見た最後になりました。
「戦艦大和ノ最期」】
大和に副電測士(少尉)として乗艦し、生還した吉田満さんが戦後まもなく文語体で執筆。雑誌掲載は連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で「軍国主義的な作品」として全文削除されたが、47年に口語体で発表。講和会議後の52年に文語体の初版が出版された。沖縄特攻をめぐる士官同士の論争で、若手士官の教育係だった臼渕磐大尉が「敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ」といって収束した場面が知られる。
(3) 原爆の歌
2009年09月11日
沖縄特攻の出撃直前、戦艦大和の退艦を命じられた海軍兵学校74期生の景山崇人さんは、大竹の潜水学校で潜水艦の操艦訓練を受けていた。あの日、家族が暮らす広島市は一発の原子爆弾で壊滅した。
1945(昭和20)年8月6日朝、私は大竹の海軍潜水学校の2階廊下を講堂に急いでいた。学科の始まる直前でした。急に遠雷のような音と地震にも似た震動があり、校舎の窓ガラスが震えた。学校の目の前に見える宮島の山の向こうに一筋、白雲が昇り、上部がゆっくり傘型になった。宇品で爆薬か何かが爆発したと思いました。
当日、大竹の人が広島市内の建物疎開作業に出ていて、みな大けがをして戻った。口々に己斐の駅に爆弾が落ちたという。市内中心部の竹屋町に両親と妹2人が住んでいましたから、翌朝、潜水学校から3日間の休暇をもらって家族を捜しに行きました。
ちょうど呉の海兵団のトラックが帰るところへ飛び乗った。己斐駅のプラットホームから見渡すと、比治山まで焼け野原だった。人はほとんど歩いていない。街がシーンとしている。爆心地近くの相生橋を渡ったとき、電信柱に外国人が座ったままくくられ、死んどるんですよ。
米穀配給所になっていた竹屋町の自宅(爆心地から約800メートル)は焼け落ちていた。市内を歩いて家族を捜しました。最初に足取りが分かった父は海田まで逃げ延び、親類の病院で終戦後に亡くなった。病院で会った父は額を深く切って死にかけているのに、「(自宅の)池のそばにのう、一升瓶の酒が3本埋めてあるけぇ、出して飲め」と言っていた。
広島の女学校に通っていた妹は宇品まで行って、そこから船で似島に逃げたものの、まもなく死亡したそうです。消息が分かったのは1カ月ぐらい後でした。山中高等女学校に行っていたもう一人の妹と母はいまも行方不明のままです。ただ、自宅の焼け跡で(身元の判別がつかない)遺体を六つぐらい焼きましたから、そのなかに二人がいたかもしれません。
焼け跡を歩きながら、自然と歌を口ずさんでいました。家族の敵討ちをしよう、米国との決戦への思いを込めた自作の「原爆の歌」です。
口人道を唱えてし 汝が言葉今何処 わが父母も妹も 殺せし者は彼なるぞ
(敗戦が決まった)
8月15日夕、潜水学校の仲間とともに宮島に渡り、交番の前で民衆に演説したのを覚えています。「日本はまだ負けていない。まだまだ戦える」と。学生4〜5人でアジったわけです。聴衆は10〜20人ぐらい。巡査は何も言いやしません。今から思えば、ばかなことをしたもんです。
戦時中は、軍隊に入って日本の国の役にたとうと思っていた。敗戦でその志が折れ、何が本当か分からんようになりました。
(5) 不滅問答
2009年09月12日
原爆で家族を失い、国の役に立つという志は敗戦で砕かれた。海軍兵学校74期生の景山崇人さんは「この世に不滅のものはあるのだろうか」と自問の日々を送っていた。
海軍兵学校時代の1943(昭和18)年の夏休み、親友と一緒に広島文理大(現・広島大)の西晋一郎教授から話を聞いたことがあります。西先生は京都大学の西田幾多郎博士と並んで、「西洋哲学の東の西田、東洋哲学の西の西」といわれた著名な人でした。休暇中の行動を記した当時の日誌に、「一道ニ秀デタル人士ノ思想信念ハ終極ニ於テハ必ズ一致スル」と書き留めました。
その影響もあって、敗戦後は哲学を勉強したかった。46年春に東京に行きました。飯も食えんのに無謀なことですよ。ところが東京の大学に入ってすぐ病気になり、広島に帰って来て倒れた。東京には戻らず、その後は知り合いに頼まれて木材会社を手伝ったり、米の空俵を回収する仕事をやったりしていた。
占領下の48年夏でした。広島市内の焼け跡に立っていた東警察署の前を通ると、剣道場から竹刀の音がする。私も剣道をやっていましたから、稽古の相手を尋ねました。皇宮警察の武道場「斎寧館」の師範をしていた羽賀準一郎先生。剣道の達人だった。
敗戦により、自ら進んで身を投じた海軍が忽然と消え、原爆で自宅は焼失。両親と二人の妹も全滅。暗澹たつ心境だった私は稽古後、とっさに羽賀先生に質問したんです。「先生、滅せざるものとは何ですか、不滅とはいかなることですか」と。先生は「それは後継者をつくることよ」と答えた。その言葉は私の処世の大事な指針となりました。
人の役に立ち、後世に経験を伝えられれば何でもいいと思った。そんなときに、広島で製パン会社のタカキベーカリーを創業した高木俊介社長(2001年死去)と出会いました。
実家が米屋だった関係で、最初は米の配給所に入ったが、公職追放で失職。その後、誘われて広島食糧協同組合に入った。小麦粉を配給する得意先がタカキベーカリーだった。米屋の私がパン屋をしようとは思わなかったが、67年ごろに高木さんから「大きな希望を持っている。本気でやりたいから援助してくれ」と頼まれた。会社のためではなく、高木さんの役にたつならと、経営の参画を引き受けた。酒飲みだが、人物だと思った。
戦後まもない創業のタカキベーカリーは私が入社したころ、従業員250人ぐらいに大きくなっていた。高木さんが体調を崩し、80年から社長を引き継いだ。後継者を育ててほしいという気持ちに応えたいと、社長を9年、会長を6年務めました。
【タカキベーカリー】
48年に高木俊介氏が広島市で創業。59年の欧米視察中、デンマークの代表的菓子のデニッシュペストリーに感銘し、日本で初めて紹介。67年、広島市・本通りに「アンデルセン」を開店し、デンマークとの関係を深めた。現在はアンデルセン・パン生活文化研究所がグループを統括する持ち株会社で、タカキベーカリーはその子会社の一つ。同研究所の高木誠一社長(60)は俊介氏の長男で、在広島デンマーク王国名誉領事も務める。
(5) 負け字魂
2009年09月13日
敗戦後、海軍兵学校74期生の景山崇人さんは公職追放に遭うなど失意の時代を過ごした。やがて、「世の中のために仕事で報いていく」と誓いをたて、後継者の育成に力を注ぐ。
1960年代後半、タカキベーカリーの東京地区責任者だったころの話です。友人が、私たちの海軍兵学校時代の校長で、当時、神奈川県内に住んでいた井上成美さん(元海軍次官、75年死去)の自宅に行くから、土産に(会社の販売用の)ケーキを出せという。チーズケーキを渡しました。間もなくして、井上元校長から手紙が届きました。「海軍にご奉公して国の役に立つも、おいしいチーズケーキを焼いて国民の役に立つも同じ」と書いてあった。うれしかったですね。
井上さんは偉い人でした。44年8月に海軍兵学校長から海軍次官で出ていかれるが、そのときにクラスを集めて話をした。おれは海軍次官になりたくない、とはっきり言いました。みなと一緒にここで勉強した方がいいと。当時、英語は敵国語で陸軍の士官学校では教えなかったが、校長は敵国の言葉を話せずにけんかできるか、という考えだった。発想が違っていた。
私の人生観をつくったものがある。西郷南洲(西郷隆盛)の遺訓や言志緑です。「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些(か)とも私を挟みては済まぬもの也」「総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るる」。中学2年のときに古本屋で見つけた。人生経験を積み、世の中が多少分かってきたとき、南洲の言葉は間違いないと確信した。軍隊に入って日本の役にたとうと思ったが、敗戦で挫折した。生き残り、「財を成すためではなく、世の中のために仕事で報いていく」と誓いをたてた。
89(平成元)年から呉水交会と合併する2000年まで、(旧海軍士官らの親睦団体を引き継ぐ組織の)広島水交会の会長を務めました。旧海軍にいくつもの短所欠点があったことは否定できません。伝統を重んじるあまり、新しい思想や科学技術を取り込むのに躊躇した。無欲、清貧、沈黙を金とし、言うべきを言わずして日本を窮地に引き込んだ。しかし、これらを差し引いてもなお、「スマートで、目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」という合理的な海軍精神は、現在でも通用すると思う。
最近、残念に思うことがある。呉商工会議所が中心になって、東シナ海に沈んだ戦艦大和の引き揚げを計画していることです。最初の報道をみて、商売にしちゃいけんがのうと思った。大和だけで乗組員の約3千人が死んだ。海底に沈んだ大和は墓標そのもの。大和の引き揚げは10億、20億円じゃできんでしょう。引き揚げてどうするのかという気がします。僕には商売に見えます。
(おわり)
◇
2009年9月5日に脳出血で急逝した元タカキベーカリー社長の景山崇人さん(享年85)は2006年夏、広島経済大学(広島市安芸南区)の研修会に招かれ、学生たちに「生かされたいのち」をテーマに話した。沖縄特攻が決まった戦艦大和に一時乗艦し、戦死を覚悟した景山さん。「生き残った負い目は」という学生の質問に、「負い目というより、ひとつの役割だと感じた」と答えた。「一日の生必ず為すべき事あるべし」。景山さんが好きだった言葉の一つである。
(このシリーズは朝日新聞広島支社の中川正美氏が担当されたもので、同新聞から転記した。)