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平成22年4月23日 校正すみ

江田島に母校の跡を尋ねて
戦友の霊よ 安らかに 群馬県出身戦没者慰霊祭
 

林 藤太

 戦後、各地で、各クラスで、慰霊祭が行われた。戦没者の霊を慰めるのは、復古主義でも軍国主義礼讃でもない。一身を顧みずして戦場に立ら、若くして死んでいった彼等は純粋であった。国の危急を救わんと命を捧げたのであって、そこには、政治的な欲望もなければ軍国主義にかられたのでもなかった。ただひたすらに、祖国の平和と繁栄を信じて戦ったのである。

 

 戦後37年(昭和57年)群馬県においても江田島出身者の会合の度に「期別を超えて出身戦没者の慰霊祭を江田島で」が懸案となっていた。たまたま咋年(昭和56年)本県出身の第75期田村海将が海自幹部候補生学校長に在任中を幸いに、春4月、江田島を訪れた。本県関係の卒業生は74名いるが、その半数をこえる42名が戦死していたのである。(わがクラスは7名中4名 木村 力、神保政夫、戸塚 弘、登丸 肇の諸兄が戦死。)

 

 御遺族及び関係者有志約80名は、4月3日朝9時、旧海軍兵学校教育参考館内の銘碑の前に並んだ。大理石の壁面に刻まれた銘碑に往時を偲びご遺族の新たな悲しみを思い感無量であった。越天(えてん)(らく)の曲で献灯、名簿奉安と進み、荘重な「海行かば」の調べの中で礼拝黙祷、祭文朗読、続いて全員献花し「海行かば」を合唱して慰霊祭を終わった。司会進行をつとめた私は感極まって暫し言葉を詰まらせたが、戦友達もこの醜態を笑って許してくれたであろう。ひとり一人の名前を仰ぎ見て感慨一入であった。

 

 無事慰霊祭を終え春雨にけぶる桜を見ながら校内を見学。今でも表玄関といわれる桟橋から自衛艦で宮島へ上陸解散した。関係者一同「これでやっと肩の荷が・・・」 の思いでいっぱいであった。

 

 終わりにご遺族などから寄せられた言葉を抜粋する。幾年経ても変わらぬわが子、我が友への熱き思いに、ただただ感涙にむせぶのみである。

 

 “波騒ぎ 山も哭()きなん 遥かなる 

          戦に散りし 戦友をしのべば”

 “大君に 捧げまつりし 亜子なれど 

          帰り来る日の なきは淋しき”

 “まごころの こもりし母の 手向け草
 
          うけて安けく眠れ いとし子

 “靖國の 宮にみたまは 鎮まるも 

          折々帰れ 母の夢路に”

 

(三度江田島を訪れて  72期 木村 力大尉 母堂)

 

幾年変わらぬ温かき 戦友の情けの慰霊祭 

八十路の坂を越えたれど 子等に守られはるばると 

思いもよらず江田島を 三度訪ねる嬉しさよ

ああ江田島の美しき 山よ 海よ 木よ 草よ 

わが子のごとき懐かしさ 集いし人はそれぞれに 

ありし日偲ぶ胸の内 わが亡き夫も共々に 

この感激に咽(むせ)ぶらん

 

祭 文

 この度 我等群馬県出身並びに在住の海軍兵学校出身者有志は、共に相諮り 今日江田島に母校の跡を訪ね祭壇を設(もう)けて 同県出身戦没者42柱の霊を祀(まつ)り慰めることといたしました。 請い願わくは天降りまして我等が祈りに耳を傾け給え。

 

 諸霊は英俊の身を挺して海国日本海軍の根幹たらんと志し海軍兵学校に入校 常に我らと起居を共にしつつ、切磋琢磨 心を磨き 徳を修め 武を練り 体カを強健にし 知識を深め 学理を探り、科学者たる武人として将校たるの道を究め、  卒業して実施部隊に出でて戦場に臨むや 克く部下を統率指揮して狂瀾(らん)怒涛(どとう)に抗し、 炎熱酷寒に耐え、海に空に陸に、頑敵との戦いに、幾多の偉勲を樹てられつつありしが、遂に大義に殉じて一命を祖国に捧げられました。

 想えば諸霊は等しく殉国の士であり国家が崇敬すべき神であります。然るに諸霊の尊い犠牲にもかかわらず、祖国は大東亜戦争に敗れて海軍は解体せしめられ悲しくも母校は廃校となり、諸霊の祭事すら例祭として続け得ぬ結果となりしは真に痛恨断腸の念を禁じ得ず、今、母校の跡に立ちて往時を偲べば、諸施設は海上自衛隊に引き継がれて残存すると雖も、生徒館には祖国の象徴たりし御紋章すでになく、江田内、古鷹山と共に校庭の桜花は爛漫として我等を歓迎するも諸霊の姿なく、共に祖国の将来を語り得ざるは悲しみの極みであります。

 翻って、祖国の現状を思えば、幸いに経済的には驚異的発展を遂げ国民等しく物質文明の恩恵に浴して、これを謳歌しつつありとはいえ、その陰には精神的廃頽の忍び寄りつつあるものありて、物で栄えて心で亡ぶの轍を踏むの憂いを感ぜしめ、今こそ人の道の基本たる義の精神が高揚されねばならぬ秋なるを感ぜしめられます。

 この時に際し、我等が母校の跡に集いて諸霊を祀(まつ)るは 改めて悠久の大義に殉ぜられた同窓戦没者のご威徳を偲び、共に修得した江田島精神に思いを新たにして世に訴える事こそ 我等が使命であり諸霊を慰め道なりと信じる故であります。

 我等が人生 残されたるところ 既に多からずといえども、誓って諸霊の犠牲に応(こた)えんの決意であります。

 諸霊乞い願わくは御遺族と祖国の将来には限りなき御加護を賜ると共に、我等を導いて大義の道の継承に誤りなきを期させ給え。

 今、年を経て母校に跡を訪ね同窓戦没者の銘碑を拝して往時を追憶すれば 万感去来して心定まらず、いささか蕪辞(ぶじ)を連ねて諸霊のご遺徳を顕彰すると共に遺業の継承をお誓いして祭文といたします。

 願わくは来たり饗()けよ。

 昭和57年4月吉日

  海軍兵学校群馬県出身戦没者慰霊祭 参加者一同

 (なにわ会ニュース100号64頁 平成21年3月掲載) 

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