平成22年4月23日 校正すみ
特攻生き残り付け足し人生
編集部
一九九五年十一月のジス イズ 読売に坂元正一君と内館牧子さんの対談記事があった。大谷友之君からそのコピーの送付を受けたので掲載する。 (編集子)
内館
坂元先生は皇室の御用掛として三十年もやっていらして、美智子皇后の手術をされたり、紀子さまの主冶医でもいらっしゃるわけですが、この間、読売新聞の「わだつみの声」特集でご自身が特攻隊の生き残りだったことを書かれていましたね。
坂元
ええ
内館
私はずっと特攻隊に関心があって、ずっと調べているものですから、本当に驚きました。戦後五十年の企画が多い今、どうしても坂元先生にお会いしたいと思いまして。
あれが初めて
坂元
特攻隊の話はいろいろ伝えられているのですが、本当の心情は、言ってもなかなか分かってもらえないので、あれが初めてです。
内館
私は戦後の生まれで戦争は具体的にはもちろん知らないのですけど、ライフワークとして一年に一遍は戦争のドラマを書きたいと思っているのです。そのきっかけが二つありまして一つは広島の原爆、一つは特攻隊だったのです。特攻隊のほうは、航空自衛隊の基地に行った時、そこに飾ってあった特攻隊員の遺品が、ショックなんてものじやないくらい衝撃だった。「桜花」という飛行機が展示されていましたが、あれはエンジンもついていなくて、別の飛行機が敵機の上まで抱えて行って、パチヤンと落とすのですね。初めて知ったので本当にショックを受けました。だけど、一番ショックを受けたのが、亡くなった人たちの着ていた何て言うのですか、あれを、航空服ですか?
坂元
飛行服ですね。
内館
展示してあった飛行服の肩幅の小ささにびっくりしたのです。当時、「お国のために」と玉砕した少年たちというのは、こんなに小さかったのかな、どんな思いで死んで行ったのかなと思いまして。
坂元
・・・・・・・・・
レクイエム書ければ
内館
私なんか、いかにミーハーに何も考えないで生きてきたかということを思い知らされた。それで、これは必ず毎年何とかドラマにして、風化させないようにしたいと思ったのです。それは、平和を願うとかいうよりも、しんでいかざるを得なかった方たちへのレクイエムとして書ければと思ったのです。
坂元
(うなずく)
内館
先生の場合は、出撃直前に命令が出て生き残ったわけですが、読売新聞にジャン・タルジユーの言葉を書かれていましたね。
「死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は何がわかればよい?」といぅ。それが生を預かる産婦人科医師として第二の人生の指針になった。
坂元
・・・・・・・・
内館
そして今春、ジャン・タルジユーが死んだと知り、第三の人生を決められた。新聞に書かれていましたね。
「二つとない祖国のために、もう一度、情熱を傾けたい。世界中から愛される国、尊敬される民族になるべく若者と共に力を尽くしたい。それが、若くして世を去った戦友たちのみならず、世界の友人たちに報いることになると思うからだ」と。
坂元
ええ。
内館
生き残った人間として、その心の軌跡というものはいかがだったのでしょうか。
坂元
それは、はっきり言って、僕は生き残って帰った時、もう付け足しの人生だと思いましたよ。
内館
その時点で既にですか。
坂元
喪に服して生きようと考えました。僕は真っ先に死ぬべき立場だと思っていましたから。
内館
じや、それはもう二十代の時にそう思って・・・・
坂元
ええ、生きて帰ってきた時に。世の中の価値観は全部逆になっていましたね。その時に、一番責任のあるのが生き残っているのは申し訳ないと。だから、今の人生は、運命で生かしていただいているのだ、という思いは、いまだにありますよ。悪かったのではないかという気持ちが。
内館 (うなずく)
真っ赤な血は同じ
坂元
一つの経験があるので。世界産婦人科学会を東京でやったことがあるのです。会長として、その時に言ったのです。「バストウールは『科学に国境はないけれども、科学者には国境がある』と言ったが、これはもう古い。科学者には国境も要らない。皮膚の色は違っても、流れている血は同じ真っ赤じゃないか」とね。その大会は非常に成功したのですが、閉会式の時に、壇上の私ところへ黒人が飛んできた。
こうやって、不動の姿勢をとって、「サンキュー・サー」と言う。何を言うのかなと思ったら、「あなたは、白人に勝ってくれた。」とぼろぼろ泣いているのです。その三年後に、僕はベルリンへ行って、学会の合間にヒットラーの作ったスタジアムを見てやろうと思って、夕暮れに、一番上段に立っていたのです。そしたら黒人がダーツト上がってきて、だきつくのです。見たらその男なの。あれから勉強して、こういう地位を得たと。今度はこちらがほろっとしちやって。その後、どこの学会へ行っても、必ず外人が僕の顔を見て声をかけてくるのですね。「We need you」と言って。僕はその時、本当に思ったのですね。僕の祖国に「we need youと言って欲しいなと。
内館
・・・・・・(うなずく)
坂元
ですから、若い人たちが、同じような気持ちで努力してくれることを願うわけです。そのためには、僕はこれから、自分の領域だけでもいい、若い人と一緒に勉強して、国境を越えて尽くしていきたい・・・・。
今までは言いたくなかったのです。いろんなことを、ただ、それをすることによって、僕には二つとない祖国が愛されて、「we need you」というふうに世界の連中に言ってもらえたらどんなに幸せか。平均余命からいうと、あと四年しかありませんから、その間にやっておきたいなと思っている。
内館
私は今年、終戦五十年の企画として、特攻隊のドラマの企画書を作り、民放局に出したのです。結局、その企画は通りませんでしたが、坂元先生にどうしても伺いたいことがあるのです。
過去、原爆で死んでいった軍国少女の物語を書いた時も、たくさんの反響があって、その中に必ずあるのです。「内館さんは戦後の人間だから何も分かっていない。お国のためになんて、誰が心底から思っているものか。そんなものは建前で、皆逃げ出したいと思っていた」という手紙が。
坂元
あるでしょうね。
特攻隊員の本心は?
内館
特攻隊の企画書を書きながらも、ずっとその部分が不安でした。私は軍国少女の日記のコピーではなく、ポロポロになったその物を読みましたが、どんなに几帳面に読もうと、どう行間を探ろうと、心底「お国のために」と思っているとしか受け取れませんでした。特攻隊員の本心はいかがだったのでしょう。
全員が「熱望」と書いた
坂元
僕は、航空隊の教官として、特攻要員の養成も出撃の人選もやらされました。その時、学生たちに言いました。
「悠久の大義なんて口で言うのは易しいが、実際はそんなもんではない。それぞれ事情があるだろう。絶対に誰にも見せないから本心を書いてくれ〕と言って紙を配った。そしたら全員が「熱望」と 書いてきた。
内館
それさえ教官の手前、建前だとは思われませんでしたか。
坂元
思いません。すごいと思った。人間というのは素晴らしく純粋なものを持っているのです。それがああいう時に出てきたのですね。
内館
十代の少年や二十歳前後の若者ですものね・・・・。
坂元
僕は人間否定よりも、むしろ信じたいのです。それだけのものを持っているのだと。もちろんいろんな人がいるから、そうでない物語もある。しかし、それは今の平和の世の中においても余り役に立たない人かもしれない。本当に役に立つ人というのは、状況に応じて、最後にたどりついた結論に忠実であろうとするのではないでしょうか。
内館
『特攻基地知覧』なんて本を読んでみても、すごく衝撃的だったのは、とにかく飛びたいと思うのですね。やっぱりああいう極限状態に置かれた少年たちというのは、その時やっぱり、国をどうにかしなくては、おれがここで頑張ればと思うものなのですね。
坂元
思います。例えば、自分のお母さんや恋人が、目の前で殺されるとなったらどうしますか。立ち上がるでしょう。戦後、すべての日本人が悪かったというふうに書かれていますから、当時の若い人たちを見る目が変ってしまっているのですね。歴史は長い目で見なければいけませんが、一人の人間にとっては、生きている瞬間の積み重ねなのです。そこを考えてあげなければ、真実が伝わってこないと思います。無理してあれを書いたのではないかとかね。
内館
そうそう、そういう手紙ばかりくるのです。必ず来ます。
坂元
オランダの少年が水門の間に腕を突っ込んで、水が流れ込むのを防いだ話と同じでしよう。自分が犠牲になることで国や愛する者たちが残る。そう思えば、若者だからやりますよ。
内館
先生は、この前、「お母さんは、子供が生まれた瞬間に泣くのではなくて、生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこ して、ホツペをつけると、突然はつと涙が溢れてくる」といっていましたけど、戦時中のお母さんたちだって、それと同じ思いを持って息子を育ててきたわけですよね。それで、「お母さん、ぉ世話になりました。僕の分まで長生きしてください」という手紙を残して飛んでいく時に、母親の気持ちというのは、国のためなんか死ななくていいから私のところに戻ってこいと思ったお母さんだって多かったと思うのですけど。
侍の気持ちになったと思う
坂元
僕は、軍国の母なんていう言葉は大嫌いだけれども、やはり、女性にしても、あの時、国民が一体となって国を守ろうという気持ちがあった。そうすれば、やはり武士の世界がしつけとしてそぅされたように、一般の農家であろうと、商家であろうと、侍の気持ちになっていたと思うのですよ。
内館
侍の気持ち・・・・。よく分かります。
坂元
戦災で自分の家だけが焼け残ると何か悪いような気がするではないですか。それと同じで、うちだけがといぅのは言えない。いつその裏側は、やっぱり死なせたくないですよ。それは本当ですよ。「うちのおふくろはしつかりしていてね。」なんて生き残ったやつが言っていても帰ってみると、一人で泣いていたって。だけど、僕は「お国のために立派に死ね」というのも「死ぬな」というのも、両方とも、当時としては本音だと思いますね。
内館
やっぱり戦争というのは、異常な時期だとつくづく思いますね。
坂元
それが日本だけかといえば、そぅじゃない。英国にだってあったのですよ。どの国でも、自分の民族や国家なりを守っていこうという気持ちがある。男というのは、遭伝子がそうなっているのですから。
内館
遺伝子ですか・・・・・.
坂元
守っていこうという本能はそうです。
内館
とすると、今の世の中の若い男の子たちがマスコミに取り上げられるのはピアスをつけて、ちゃらちゃらしているのがありますけれども、そういう男の子たちも、いざそういう戦局に立たされたら、そうなっていくということですか。
坂元
なっていくと思いますよ。ピアスをつけた男の子だって、何か表現したいからやっているだけのことで、いざとなったらちゃんとしますよ。大震災のボランティアを見ればわかります。とかく、今の男の子は情けないと言われますが、じや、永遠に年取るまで、頭を紫色に染めているかといったら、そんなことはない。ほっておけばちゃんとなりますよ。
内館
本当にそうですね。ずつとそういう人というのは、単純に萌が悪いのですよね。(笑い)。
坂元
そう、解剖学的にね。ですから、今の子供たちだって、イザとなれば、さっきの「彼女のためにおれは死ぬ」といぅ気になりますよ。ですから、やっぱり僕はそういうのは肯定してあげなければ嘘だと思う。
内館
「お国のために」というのが信じられなくても、「愛する者のため」という動機はとてもよく分かります。
戦争の時は「お国」に
坂元
そう、動機というものは、もっともっと身近なものなのですね。ところが、戦争という異常事態の時は、それが「お国」になっちゃうわけですよ。だから、自分の中の非常に身近な体験をそこに還元しちゃうわけ。
内館 とてもよく分かります。
坂元
自分の周りの愛する人たちが生きていくためには、国が残っていなくてはいけない。これが無くなってしまったら皆だめになってしまうと思ったら、犠牲的精神というのは、自然に出てきますよ。でも、それをうまく文章に書く力がない少年たちですから言葉が決まってくる。それが、「お国のために」とか、そういう言葉になってしまう。だから、行間を見なくていいから、その言葉の裏にどんな切ない気持ちがあるかということを見て欲しいと思いますね。
内館
「お国のために」というのは、あらゆる意味で納得できるパターンの言葉だったのだ・・・・。何か・・・・つらい。
坂元
人間は深いところで本当に純粋なものを持っている。母親への手紙、父親への手紙、あるいは恋人や妹への手紙の中に、どこか自分の真実を入れながら、それに心配をかけたくないから「僕は笑って行くよ」と書いている。それをやっぱり二重に重ねて見てほしい。僕は自分で書いたから、分かりますよ。
内館
お書きになったのですか。
坂元
書きました。安心させようと思うから。「僕は元気でやっている」というふうに、年が進むにつれ、余計に明るく書きました。
内館
それでも、生き残ったとなれば、「付け足しの人生」といわれる気持ちも本当にあるのでしようね。
人間に返ろうとする姿
坂元
私は、特攻隊編成の時に、必ず自分の名前をトップに書いたのですが、教える者もいなくては困ると上官に言われてはずされる。それで、今の鹿児島国際空港、あそこは一本の滑走路しかない、ちょうど空母みたいな基地でした。そこから出撃を見送りました。朝の三時起き、四時起きで。暗いうちに飛ばなくては落っことされますから。でも、行ってすぐ出るわけではないですから、じつと待たなくてはならない。天候が悪くて外出許可がでると、そこでピアノを弾いてくるとかいうのがあるわけですよ。その間のわずかな時間に、一人の人間、自分に返ろうとしている姿がありありと分かるわけです。
内館
そして出撃命令が下る。
坂元
そう、その時が解脱するための、一番つらい一刻です。愛機に向かって走り出した時は、もう現世の人間ではなく なっているのです。今晩は寝ておけと言っても、皆寝ていませんよ。こつちだって寝られない。徹夜で黙って見回ります。うつかり声なんかかけられません。それは涙しているやつもいるし、ろうそくを立てて毛布をかぶっているやつもいる。遺書を書いているのもいる。目の前に、定められた死が迫った時の人間の対応に胸打たれ、そして数時間後に「いのち」に結論を出してゆく人間そのものに畏敬の念を感じました。自分もそうなりたいと思ったのは本当です。僕はあの時に死んでいった連 中は、人間の価値とは何かを教えてくれたと思っています。
内館
しがらみや、すべて余計なものを取り除いた裸の人間としての尊厳なのでしようか。
坂元
ええ。その時に、「あいつ、出来たやつだな」と思うのは、どこの大学を出たとか、どういう家柄だとか関係ない。全くないのです。その人のその瞬間のあり方が、本当の価値を物語るのですね。それしかないと思ったのです。それ以来、僕の人生観は、人間には差などあるものか、ということになりました。でも、いざ出る時は、人間って思い切りますね。本当に真直ぐ、一回ぐらい旋回して、さっと行っちゃいますね。思い切って行くのでしようね。いいやつが死んじゃった。長い年月、なぜ人間は戦争をするのかと、問い続けました。
内館
坂元先生、複雑な思いで生きていらしたでしようね。五十年間。お話を伺っていて本当にそう思います。
坂元.
今、特攻隊は正真正銘の士官は温存して、予備士官とか、ほかの連中を殺したなんて書かれるけれども、私の期は海軍兵学校では、絶対数で一番死んだクラスですからね。隊長としてどんどん出ますから、みな死ぬわけですよ。それが残っちゃいましたから、いろんな複雑な思いが私の中でこんなになっていますよ。(と、手を胸の前で揺らして)
内館 何か・・・・つらいことばかりお伺いして・・・
「攻撃したら帰って来い」
坂元
実際、特攻なんて、上の方はこれしかないと思ったかも知れませんけれど、現場はそうじやない。パイロットで、特攻が得策だと思ったやつはまずいなかったのではないかと思うのです。ただでさえ大事な人間を、それに一人のパイロットを作るのは大変ですよ。単にそのこと一つとっても、僕は「攻撃したら帰って来い」と言いましたよ。ほかの隊長なんかもみな言うのです。「誰も死ぬなよ」と。
内館 「帰って来い」と。
坂元
言います。死に杯をかわして、「ついてこい」と言っても「さあ、死んで来い」とは言いませんから。
内館
しかし、どうしてそういう話がちゃんと伝わっていないのでしょうね。
坂元
立派な指揮官ほど、部下を殺さないものなのです。だから、いろんなことを聞かれても、本当に理解して書いてやろうとか、理解してあげようという人でないと話す気にならない。
内館
去年、『シンドラーのリスト』という映画が大評判になりましたが、私は強烈なショックをうけました。監督のスピルパークが私より一つ年上なのです。スピルバークがユダヤ系として、ああいう形で立ち上がった。でも、私たちは原爆を落とされた唯一の国の人間として、まだ語り足りないのではないかと。神風特攻隊にしても原爆にしても、戦後の私たちがなすべきことを考えさせられました。
坂元・・・・・
生きているうれしそうな顔
内館
もう一つショックだったのは、とかくユダヤ人虐殺のシーンばかりが取りざたされましたけど、スピルバークは生きている人間たちのうれしそうな顔を、さらつと撮っているのですね。あ、今日も生きられたといって、生きている時のうれしそうな顔を撮っている。
坂元
・・・・・(涙ぐんで)
内館 あの映画は単にスピルバーグがアカデミー賞ねらいで作ったと世界中が言いました。でも、私は絶対に違うと思った。今日も虐殺されずに、とにかく一日生きられたという人間の顔を丁寧に撮っているのを見た時、感じました。この映画はスピルバーグが、ああいう形で死なざるを得なかった人たちへのレクイエムとして作ったのだと。だから、アカデミー賞は結果に過ぎない。最初から「アカデミー賞ねらい」という野次は下品だと、週刊誌に書かせてもらいました。
坂元
今日はよく話しました。僕がさっきから涙ぐんでいるのは、わかってもらえたという・・・・。
内館
そういっていただくとホツといたします。本当に有難う御座いました。
坂元 こちらこそ、お会いできてうれしかったです。
(なにわ会ニュース87号77頁 平成14年9月から掲載)