平成22年4月21日 校正すみ
転勤大旅行
阿部 克巳
「危ない所なら、使って呉れるよ」
私は、昭和19年(1944)3月15日主計少尉に任官し、5月にリンガ泊地(スマトラ島中東部)で、約半年乗って居た巡洋艦鳥海を降りた。実は、5月1日付けで第30隊付の転勤辞令を貰って居たのだが、その30駆逐隊(第3水雷戦隊所属)が何処に居るのか知れず、リンガに居る機動艦隊の武蔵で聞いたりしたが分からない。却って艦長の有賀幸作大佐(海兵45期、鳥海艦長、水雷学校教頭を経て、大和艦長として、昭和20年4月7日沖縄特攻で戦死)に、「貴様は自分の転勤先の事なぞ心配する事は無い。今まで通りの仕事をして居れ。」と叱られた。
5月11日の朝、後甲板で、艦長が私を呼び止め、「庶務主任、転勤先判ったか。」と聞くから、「艦長の言い付け通り、何も調べて無いので分かりません」と返事したら、背の低い達磨のような艦長は、手を延ばして海上の一点を指差し、「あそこに煙を出して居る駆逐艦が居る。間もなくシンガポールに向かうから、お前は直ぐに荷物を纏めてあの艦に乗れ。シンガポールからパラオ、トラック、サイパンを経て横須賀に行き、艦の所在を探せ。もし、戦況次第で行先に迷ったら、危ない所、危ない所と探して行けば使ってくれるよ」と言う。
荷物と言っても、柳行李一つに入るぐらいの衣類や、着替えだけだから、簡単なものだ。離艦の挨拶もそこそこにして駆逐艦に行くと、沢山の転勤者がすでに便乗して居た。転勤者用の駆逐艦は、もう1隻居たと思う。リンガに居る艦隊全艦の転勤決定者全員を、一度に陸揚げするのだ。と言う事は、艦隊は直ぐ何処かに出動することを意味する。事実、後で知ったが、リンガ泊地を覆って集結していた艦隊は、我々を降ろすと、その夜の内にタウイタウイ(ボルネオ近くのフィリッピン南西端、スルー諸島)に向かって出動したのだった。
甲斐田との邂逅
便乗した駆逐艦の上で、海経同期の甲斐田(信之)に会い、久闊を叙した。甲斐田は、候補性時代から巡洋艦鈴谷乗組で、今度転勤となったのだが、艦がパリックパパンを根拠地としているので、そこへ行くと言う。転勤先がちっぽけな2号哨戒艇と聞いて、大いに同情した。
しかし、後に、私自身30駆逐隊に着任してみると、艦の大きさも、悪い居住性や酷い使われ方なども、2号哨戒艇と何も変わる事は無かった。
因みに、2号哨戒艇は、旧型1等駆逐艦「灘風」で、大砲(12サンチ砲)2門と発射管全部を卸して機銃に換装し、また機関の半分を使用止めとして、速力は20節に落ちたが、兵員250名の収容設備と、艦尾に傾斜を付けて大発2隻の搭載、発進設備を設け、言はば駆逐艦型輸送艦(Destroyer transport)となった。但し実際に上陸作戦に使はれた事は無かった。同艦は、18年には第1海上護衛隊に編入され、高雄を中心として門司、サイゴン、シンガポール、マニラ方面の船団護衛に従事した。
18年12月25日第22特根に編入され、パリックパパン(ボルネオ南東部)を中心として南西方面の船団護衛に従事中、終戦直前の昭和20年7月25日ロンボク海峡で、英潜スタボーンの雷撃で沈没し、甲斐田も艦と運命を共にした。
甲斐田とは経理学校の4号(新入生)時代、3号時代と同じ第3分隊だった。福岡県八女中学出身で、日頃無駄口をきかず、口数は少ないが、大事な時には、はっきりと自分の考えを主張した。それで居て、皆の意見が正しいと思った時は、潔くそれに従った。背は高くは無いが、がっちりした体付きで、見るからに水泳向きだった。子供の時から近くの川で鍛えたとかで、水泳、特にクロールは見事で、長距離でもペースが落ちないのには驚いた。当然の事ながら生徒時代水泳係りで活躍した。彼にバタ足の要領で足首を動かして貰ったら、とても柔らかく、足の甲がぐっと内側に曲がるのでびっくりしたものだ。足首の柔軟さはバタ足の決め手になる。
リンガ泊地からシンガポール迄は、数10海里だと思うが、駆逐艦が高速を出したのか、甲斐田との話しに気を取られたのか、短時間で着き、甲斐田と一緒にシンガポールの水交杜に投宿した。此処からスラバヤ迄は、甲斐田と一緒の転勤旅行が始まった訳だ。
水交杜は英国時代の高級ホテルで、繁華街のオーチャードロードや有名な植物園に近く、私が割り当てられたのは、樹木の多い庭園の中のバンガロー風の部屋で、冷房は無いが、天井が高く、そこからレースの蚊帳が垂れて、清潔なベッドを覆って居る。窓や扉はすべて鎧戸で風通しが良い。日本軍が占領してから大浴場や食堂を付け加えたが、他はそのままだった。戦時中の日本の生活水準からは想像も出来ない豪華さである。
(この水交社は、旧名グッドウッドパーク・ホテルと言う名で、今でもあるそうだ。勿論改装されているだろうから、戦時中の面影は無いだろうが。)
「貴様、死にたいのか」
翌日早速2人で、司令部の機関参謀の所に出頭し、転勤のためシンガポールに立ち寄った事を申告し、有賀艦長に言ほれた通り、内南洋(パラオ、トラック、サイパンなど)を経由する内地への便を頼んだら、参謀は目を丸くして「貴様、死にたいのか。あっちの状況が今どうなって居るか知って居るか」と呆れ顔をした。言われる迄もなく、米海軍部隊は、19年始めマーシャル、ギルバート諸島を制圧してから、2月にはトラック、3月末にはパラオと恣に艦載機の大空襲を繰り返し、被害を受けた。艦隊の主力だけは、事前の情報で脱出出来たが、残された多数のタンカー、補助艦船、輸送船や陸上の基地施設、飛行場等は、トラックでもパラオでも全滅に等しかった。米軍は、更に進んで、近くサイパンを狙って居るのは、誰の目にも明らかだった。
日本海軍の方は、ミッドウェイ、ソロモンその他の海戦で母艦と航空戦力を消耗し尽くし、戦艦、巡洋艦等の主力艦は、敵機動部隊の襲撃から、言はば、丸裸で西太平洋を逃げ回ったのだ。母艦航空機の援護のない戦艦、巡洋艦は実に惨めなものだ。私の乗って居た鳥海(第4戦隊)も、3月29日パラオの空襲を避けて出港してから、フィリッピン南東海域を走り回り、最終的には、4月1日リンガ泊地に辿り着いたのだが、ここには差し当たり敵の攻撃も及ばず、一息つけた。シンガポールやスマトラの油田に近く、泊地を囲む多くの島々の間を機雷で封鎖すれば、200隻の艦隊が安全に訓練可能であり、マラッカ海峡を押さえる要衝としても、これ以上の場所は無いと言えた。海軍はここに出来る限り多くの空母やその他の艦艇、補給されて来る艦載機、訓練途上の搭乗員を集結して、来るべき大反撃「あ号作戦」に備え、日夜猛訓練に励んだ。
私が鳥海を降りたのは、実に此の「あ号作戦」の前夜だった訳だ。緊迫した状況も知らぬ気に、逃出して来たばかりの「内南洋回り」で帰りたいと言ったのだから、機関参謀が呆れたのも無理はない。
東南アジア空の大旅行
参謀は、それでも、親切に代案を決めて呉れた。それによると、シンガポールからスマトラ上空を通り、バタビヤ、(今のジャカルタ)、スラバヤ、(以上ジャワ)、(ここ迄は、甲斐田と同行)、マカッサル、メナド(以上セレベス)、ダパオ、マニラ (以上フィリッピン)高雄、台北、那覇、福岡、羽田と飛ぶプランで、当時としては正に大旅行であった。
(後で知ったが、私の赴任先30駆逐隊が所属する第3水雷戦隊は、当時所属の駆逐艦をすべて船団護衛に振り向け、本来の水雷戦隊としての機能を喪い、司令官中川少将以下司令部は、サイパン島の陸上に在った。若し、万一にも、シンガポールの機関参謀が、3水戦司令部が居ると言うだけの理由で、何かの便で私をサイパンに送って居たら、私は司令部と共に玉砕していたろう。もっとも、シンガポールからサイパンまでの便は、当時見付けられなかったのが実情であった。)
旅行計画は出来たが、緊迫した戦況下であり、飛行機に乗れるまで長い日数を待機せねばならない。しかし、私も甲斐田も良い骨休みとばかり、喜んでシンガポールの町の見物や、買い物に出掛けた事は言うまでもない。
水交社の売店で、接収品の立派な綾織り木綿のカーキ色生地で、折り襟のスマートな陸戦服を誂えた、白皮の短靴やワイシャツ、ネクタイ、薄い牛皮製の飛行機用旅行カバンなども、
日本では見られない品物を買い込んだ。(それまでの衣類は、柳行李に詰め込んで船便で内地に送るよう手配したが、途中で沈んだのか遂に届かなかった。)
ラッフルス博物館は、水交社の近くで、余りにも有名だから直ぐ見物した。ビール工場を見学して、冷たい生ビールと、飛び切り旨いパパイヤを御馳走になった事は忘れられない。飛行機待ちは二週間位あったと思うが、正確な事は覚えて居ない。
父との出会い
ある朝甲斐田と二人で、水交社で食事をして居ると、後ろの方で「阿部大佐・・・」と誰かが言う声が聞こえた。はてなと思って振り向くと、父が同僚と食事に来た所だった。父子共に海軍で戦争に従事して居る以上、何処で会っても不思議は無いが、それにしても突然の出会いだった。
父は、シンガポールの第1南遣艦隊司令部附として内地から着いたばかりだった。
長くなるが、此処で簡単に開戦前からの父の略歴を辿って見る。
父は昭和14年暮、工作艦明石副長を最後に予備役となった。父は海兵時代には柔道4段の腕を誇り、同期の木村昌福氏(中将、柔道5段で、戦時中キスカ島撤退、レイテ島第四次多号輸送作戦やミンドロ島上陸米軍攻撃作戦の司令官として有名)と共に41期の双璧と言われ、機械体操でも大車輪を得意技とするなど、体力には自信があったが、大尉時代に体を壊し、一時待命になって進級が遅れた。また、実家の問題などでも色々悩みがあったらしく、文太郎と言う名を耕運と改名したりしたのも、厄払いの積りだったのかも知れない。しかし、後になっても胃の持病で苦しむ等で、早々と前途を諦め予備役に入ってしまった。所が、戦雲急を告げると、昭和15年12月末には充員召集を受けた。私は、その直前の12月1日附で海軍経理学校に入校したのだが、父は大変喜んで、入校式には母と一緒に来てくれた。父は私が自分の代りに海軍に入ってくれたと思ったのだろう。召集を受けてから、父は特設砲艦の艦長や、徴用商船の監督官をやり、開戦間もない昭和17年3月1日には、西部蘭印のバンタム湾上陸作戦(バタビヤ攻略作戦)で、妙高丸にあって上陸船団の援護に当たった。
その頃は、戦況も、まだそれ程酷く無かったので、時々乗艦が内地に帰ると逗子にあった自宅に戻り、日曜日などに帰宅した私や、母、妹達と一緒に過ごしたり出来た。この頃は、陸軍の兄も東京周辺の防空隊に居たので時々は帰って居たようだ。
昭和17年の10月になると、マーシャル諸島のクェゼリン環礁にある第6根拠地隊附となって赴任し、63駆潜隊司令となった。
駆潜隊と言っても木造の駆潜特務艇を集めたに過ぎず、戦力と言うには程遠かった。当時既にミッドウェイ海戦に大勝した米軍の反攻が始まって居たが、その矛先は先ずソロモン諸島に向けられ、クェゼリンには敵機の爆撃はあったが、本格的上陸作戦はまだ無かった。
しかし米軍が準備を整えて中部太平洋で反撃に出れば、日本軍勢力の東端にあるクェゼリン守備隊は、真っ先にその標的になることは間違いなく、一方、ソロモン、ニューギニヤの消耗戦で苦闘する日本軍には、この辺り(マーシャル・ギルバート諸島)を援護する戦力が無かったので、敵が上陸して来れば、島々の守備隊は、太平洋の人柱となる事は明らかだった。
果たして、中部太平洋での反撃準備を整えた米海軍は、先ず昭和18年10月6、7日の両日ウエーク島を砲撃で粉砕した。戦局からして、もう父に会える事はあるまいと思ったのだが、父は着任後1年余り経った昭和18年12月20日には、横須賀鎮守府附となり、翌年19年の始めには内地に帰還した。米軍は、19年1月23日頃にはギルバート諸島のマキン、タラワ両島を攻略し、更に進んでマーシャル諸島のクェゼリンに上陸したのが、19年2月1日、守備隊の玉砕は6日だから、辛くも虎口を脱した事になる。
私は、これより先、昭和18年11月末、鳥海乗組の第2期候補生としてトラックに着いた。当時、偶々鳥海は、マキン、タラワ方面に策動する米艦隊迎撃のため、11月24日クェゼリン、ブラウン、ルオット方面に出撃して不在の為、12月5日迄臨時に戦艦武蔵乗組となった。この時の鳥海他の行動は、航空兵力を欠くなど、申し訳的な示威運動に過ぎなかったと思うが、もし私の着任が間に合って居れば、艦上から父のいるクェゼリン環礁を望見したかも知れない。但し、鳥海はこの時クェゼリンには入港しなかった。
父がクェゼリン駐留1年あまりで内地に帰ったのは、不健康な島での駆潜艇暮らしで健康を害した為で、横須賀帰着後昭和19年2月から1月余海軍病院に入院して居る。
病が直ると、19年5月10日には、第1南遺艦隊司令部附の発令を受け、サラワク王国(ボルネオ西岸)のミリで、第1海上護衛隊の方面司令をする事になった。司令と言えば聞こえは良いが、ここでは電信員を含め数人の所帯で、ミリに石油を積みにくる船に対する積み荷や護衛の手配等、今で言えば荷主の代理店みたいなものだ。
父はこの頃余り健康ではなかったが、最後の御奉公の積りで、地味な裏方の仕事を引き受けたらしい。母が残したメモでは、「5月15日羽田から出発した」とあり、私がシンガポールで父に会ったのは勿論それより後で、当時の交通状況を考えると、父のシンガポール着は、幾ら早くとも5月20日過ぎだったと思う。5月24日頃には甲斐田も私も飛行機便が取れて、ジャワに飛び立ったから、もう少しで父とは擦れ違いになる所だった。
父は明治24年(1891)生れで、シンガポールで会ったのは昭和19年(1944)だから、まだ53才だった。私自身の事を考へても、53、4才では、まだ働き盛りだったと思うが、久し振りで父に会うと、体の痩せ具合、顔の薮、そして何よりも、曲がりかけた背や腰つき等、背が低くなって、すっかり老けこんで見えた。若い時は、子供にも容赦なく鉄拳を振るう怖い親父だったのが、今までの勤務がそんなに応えたのかと思うと、心が痛んだ。
父は直ぐに司令部(第1南遣艦隊)に挨拶に行くから、お前も一緒に来いと言うので、差し回しの車で挨拶に行った。父は、「小人閑居すれば不善を為す」とでも思ったのか「遊んで居ないで司令部で使って貰え」と言う。
どうも有賀艦長も、親父も、海軍の先輩は、若造の士官を鍛えるのが好きらしい。「出発も迫って居るから」という理由で、これは勘弁して貰った。
我々の出発前に、父は私と甲斐田を呼んで一緒に食事した。戦局が戦局なので、余り景気の良い話しをした覚えはない。父とは、その後昭和19年9月にミリで会ったのが最後だった。英豪軍のボルネオ奪還を逃れ、父はシンガポールに戻り、特務艦自沙の艦長として、終戦直前の20年6月8日戦死したが、死ぬまで私の事を、死んでしまったと思っていた節がある。長くなるから、それに付いては別に書こう。
スラバヤへ
長い飛行機待ちも終わって、甲斐田と私はシンガポールを後に、第1日行程のスラバヤ行きダグラスDCに乗り込んだ。機内は海軍士官で満席だった。大日本航空からの徴用機で、パイロットも大日本航空の職員だった。
この頃ジャワ方面は、敵襲も余り無く、天候にも恵まれて、空の旅は楽だった。スマトラの沖を給油地のバタビヤ(現在のジャカルタ)に向かって飛ぶ時、2、3千米の上空から青い海に絵の具を流したように、黄橙色の帯が数千米に亘って伸びて居るのを見掛けた。
後にも同じような現象を見たが、何だったのか今でも分からない。プランクトンか魚の卵では無いかとも言うが、真偽の程は知れない。
バタビヤでの給油の後、午後スラバヤに着いた。飛行機はここで整備の為2、3日滞在すると言う。
恐らく戦時中の事で、部品の供給や整備員の手配が間に合わないかも知れない。それにしても、この戦時下にのんびりした話しだと思った。
恵美純吉に会う
スラバヤはバタビヤ(ジャカルタ)に次ぐオランダの植民地経営の拠点で、海軍基地もあった。
水交社に泊まったが、そこで同期の恵美純吉に出会った。恵美純吉は広島一中出身で名前の通り、ハートナイスな純情青年で誰からも好かれて居た。余り真面目なので、クラスの悪童が「恵美の純ちゃん初なもの」と戯れ歌でからかったりしたものだ。彼は当時36号哨戒艇乗組だった。同艦は旧2等駆逐艦「藤」改造の兵員輸送兼護衛艦で、甲斐田の2号哨戒艇を小型にしたような艦である。開戦劈頭の蘭印方面攻略作戦に参加した。昭和19年以降は第2南遺艦隊(スラバヤ)麾下の22特根に編入され、主としてパリックパパン方面の船団護衛に従事し、19年3月30日パラオ空襲で損傷、5月4日スラバヤに入港修理を受けた。17日修理中に敵機動部隊艦載機の爆撃で大破した。
恵美が何時頃この艦に乗ったのか、今となっては分からないが、我々に会うと、先ずドックで修理中の36号に案内してくれた。
5月17日の空襲は、ジャワ始めての敵襲で艦の入渠中に、爆弾が乾ドックの岸壁と、艦との間の狭い隙間に落ちたと言う。艦の機関部外鋲は外され、機械室一杯に収まったタービンの羽根の列が、腸の様に熱帯の太陽に曝されていた。17日の空襲は、彼にとって始めての戦闘で、敵機の侵入方向など熱心に説明してくれた。それにしても、爆弾が直撃しなかったのは、幸運と言へよう。
5月26日には先輩海経31期の小池英作主計大尉を南西方面艦隊司令部(GKF)に訪れ挨拶した。写真好きの小池さんは、その時我々を同氏の宿舎の前に立たせて写真を撮ってくれた。数年前に、小池さんから、その写真を送って貰ったが、裏には、「昭和19年5月26日(金)スラバヤ小官宿舎前にて」と書いてある。写真の4人のうち1人はネシャ人だが、他のクラスメートは私を除いて2人とも戦死してしまった。3人とも20歳か21歳で、皆若々しく撮れている。日付まで入ったこの写真を見るに付け、50年前の戦いの日々と、逝った同期生の事を思い出す。
恵美はその後、36号哨戒艇から新鋭防空駆逐艦若月に転勤となったが、昭和19年11月11日レイテ島オルモックへの第3次多号輸送作戦に参加、オルモック湾口で米艦載機300機に襲われ沈没、艦と運命を共にした。また、彼の遺族は広島在住だったが、原爆で一家全滅し、今は後を弔う人も居ないと聞く。合掌。
それはともかく、甲斐田、恵美、私の3人は、若さの故で、その後夫々に待ち構える運命など気に掛けもせず、束の間の平和と旨い支那料理を堪能した。
恵美は地元だけあって、旨い支那料理屋を知っていた。その店で、彼は両手の指を耳の側に挙げて、ひょうきんに蟹の鋏の真似をしながら、片言のネシャ語で、「蟹の爪、蟹の爪」と注文する。店の支那人も心得たものだ。待って居る内に、確かに蟹の爪を姿のまま揚げた料理が出てきたが、爪の殻が被って居ない。肉はとても柔らかく、こんなに旨いものがあるかと思う位だ。どういう料理か知らないが、恐らく脱皮直後の蟹を掴まえて殻を剥いたのでは無いかと思う。もう一度、あれを食べて見たいものだ。
スラバヤの町では、軍服を着たネシャ人の青年たちが、日本陸軍の軍人の指揮の下、木銃を肩に、隊伍を整え、軍歌を歌いながら堂々と行進するのを見掛けた。これは、兵補と言って、ネシャ人に軍事教練を施して、民族自立の精神を植付け、戦争目的に協力させる事を目的とした。日本の敗戦と共に、軍事教育で独立に目覚めたこれらの青年達が、旧植民地体勢の復活を目論んだオランダ、英国軍に対して武力蜂起し、遂に独立を勝ち取った事は有名で、日本占領時代に残した数少ない善政の一つと言われる。
スラバヤは時間も少なくて、余り見物出来なかったが、港の設備などはシンガポールに比べれば貧弱で、町の建物も官庁街、植物園や、白人用のホテル等はともかく、商業地区は見劣りした。緑は多いが、スラバヤの中を流れる川(カリマス川)は、ろくな堤防もなく、岸には草が生え、流れは土色で、道路も舗装のないものが多く、町中埃っぽかった。
万事、田舎臭い印象を受けたものだが、英国とオランダとの国力の差の他に、通過貿易に頼り、狭い島に商業都市、港湾、要塞造成のための集中投資を行ったシンガポールと、後背地に広い農業生産地を持ち、カリマス川の舟運に頼って、農産物の輸出港として、自然発生的に発展した土臭いスラバヤとの違いもあると思う。
甲斐田とはスラバヤで別れる事になった。適便を求めて、パリックパパンに向かうと言う。甲斐田、恵美両君とは、これが最後となった。
セレベス島を経てダバオへ
予定通り、DC3は、5月末私の他満席の乗客を乗せて、スラバヤを後にし、セレベス島のマカッサル、メナド経由でフィリッピンのダパオに向かった。マカッサル、メナド共に短時間の給油と休憩だったため、余り印象が残らないが、飛行場で見る限り、地上勤務員に余り緊迫感はなかった。どちらかの飛行場で経理学校時代の教官だった南(正一)さん(海経22期)に御目に掛かったが、どこだったか覚えて居ない。確か南さんは人を見送りに来られたのだったと思う。
この辺りの洋上を飛ぶときは、運命をパイロットに任せ切りなので、楽なものだが、それは、私が、戦局に疎い為だったに過ぎない。
青い空と紺碧の海の此の方面にも、戦雲は、ひたひたと押し寄せて居た。此の頃ニューギニア北岸を西進するマッカーサー麾下の連合軍部隊は、4月21日800機の艦載機で、ニューギニア北西部のホーランジアに展開した陸軍第6飛行師団を奇襲し、壊滅させた。無線連絡も途絶し、軍司令部では、何が起きたか全く分からなかったと言う。地上勤務員を主とする第6飛行師団の残存者は、戦意を失ってジャングに逃げ込み、生存者は殆ど無かったと言はれる。これは、米軍に言はせれば、空爆だけで基地を占領した珍しい例の由である。米軍は、更に西進して5月27日(丁度私がダパオに向かって旅客機に乗って居た頃!)ビアク島に大挙上陸し、当面の目標としたフィリッピンへの一歩を進めて来た。
陸軍の私の兄は、百式司令部偵察将校(陸軍独立飛行第70中隊)として、丁度此の頃、セレベスとニューギニアの間にあるモルッカ諸島のセラム島基地に居た。司偵機の長大な航続距離を利用して、パンダ海、モルッカ海周辺(セレベス、ハルマへラ、ニューギニア西部、モルッカ諸島、カイ諸島、チモール等)や、パラオ辺りの太平洋迄をも広範囲にカバーして居たから、ホーランジァやビアク島にも偵察を行った。敵との最も緊迫した接触点に居った訳である。勿論、海軍の私は、知る由も無く、セレベスからダパオ迄の空の旅を楽しんで居たのだ。(兄はその後比島に転属、私が第9次多号作戦で海没し同期の高田の乗る「桐」に救助されてマニラに上陸した3日後の12月16日、マニラーリパ間で戦死した。敵のミンドロ島上陸に関連したと思われる。)
ダパオから台北へ
ダパオには一泊した。此処には、大東亜戦争前から移住してミンダナオ島の開発に従事し、住み着いた日本人家族が沢山居た。一泊だけだったので、これらの人々の様子も、町の有様も見る訳には行かなかった。只フィリッピン人には、反日感情が強く、米軍に内応するゲリラが多いから注意せよとの情報は、前から知らされて居たので、いよいよフィリッピンに入って見ると余り良い気はしなかった。インドネシアでは、対日感情も良く、不愉快な思いをする事も無かったが、日本に近付くほど、住民が反日的になると言うのも不思議な話だ。ダパオからマニラ、高雄経由で一気に台北に飛び、確か2泊位したと思う。この頃は、5月末で、日本の態勢もフィリッピン人にはまだ余り反映しなかったが、間もなくサイパン島の失陥、マリアナ海戦の大敗が知れると、敏感に反応し、米軍の進攻を期待して反日感情、インフレが悪化した。そのうち、米機動部隊のフィリッピン攻撃が始まると、艦載機の攻撃やゲリラ活動も活発になり、我々が飛んだコースは、もう危険で、旅客機が安心して飛べる空路では無くなったのである。
台北では久し振りの日本語の応対で、やっと日本に辿りついたと感じたものだ。
沖縄、福岡経由羽田へ
愈々日本へ帰れる事になった。途中の沖縄の飛行場では、飛行場一杯に、銀翼を輝かせた陸軍の新鋭戦闘機が並んで居るのを見て、心強かったが、同時に、こんなに並べて、空襲を食ったらどうするのかと心配だった事を思い出す。無事に前線に出ていった事を祈る。
福岡(雁の巣)で給油して、飛行機は更に飛び続け、夕方曇り空の羽田に着いた。窓から見て居ると、大日本航空の制服を着た若い女性(今で言えばグラウンドスチュワーデス)が2人で、車の付いた階段を、飛行機のドア口に押して来た。全く久し振りに、若い日本女性を見て感激したが、内地では、女性がこんな力仕事をせねばならなくなったのかと、驚いた。飛行場の建物も貧弱な木造で、今まで見てきた東南アジアの空港に比べて、酷い見劣り様だった。空港から逗子の母の下に帰ったが、途中の電車の中でも、人々は疲れ、暗い雰囲気だった。横須賀人事部で、赴任先の第30駆逐隊の所在を確かめて貰ったが、それが判るには、更に2週間掛り、司令駆逐艦の秋風に徳山で着任したのは、6月14日(あ号作戦発動の前日)だった。
(なにわ会ニュース69号28頁 平成5年9月掲載)