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平成22年4月23日 校正すみ

戦い済んで日が暮れて

森嶋通夫の『追記―O氏に答える』を読んで

大谷 友之

 

 全く赤の他人であった森嶋通夫と文通を始めてから五年になった。(以下文中、敬称は省略する。)

森嶋通夫は著書『血にコクリコの花咲けば』の中で、‥‥‥私は彼(鈴木中尉)がまだ生きているかどうかは知らないが、一度会って、あの頃の三四三空のことどもを話したい気がする。‥‥‥と書いており、これを読んだ大谷は親切心から鈴木中尉に旧友森嶋通夫が会いたがっていることを知らせ、鈴木中尉から聞いたことを森嶋通夫に知らせた。

(森嶋通夫の記述には、所々に、どうも聞き違いや思い違いをしているらしい箇所があったので指摘し、重版、再販時には訂正されるように申し入れた。(これについては、なにわ会ニュース七七号及び七八号に概略を投稿した。)

その後、文通は数次に及んだが、途中から森嶋通夫の多忙が理由で中断していた。昨年、『血にコクリコの花咲けば』の続々編として発行された『終わりよければすべてよし』に『追記――O氏に答える』として、O氏即ち大谷友之に対する回答と称するものを発表した。

A五版の著書の巻末、十四頁にも及ぶもので、市井の一浪人にかくも長文の回答を掲載したことに対し、敬意を表すると共に、森嶋通夫の生々しい人柄を、紙面を通じて感じている。

長文の回答のうち、六頁は『大和』の沖縄への特攻出撃に関することであり、四頁は『海兵予科のチンピラ』についてであって、この二つで回答の約七割を占めている。

森嶋通夫は、大谷が‥‥吉田満の書いた『戦艦大和ノ最後』は文芸作品としては優れているが、歴史の書物でないと主張した‥‥としている。

(正確には、吉田満の著書『戦艦大和ノ最後』は実録の価値は低く、文芸作品(小説)として高く評価されているものである、と連絡した。)

大谷はその例証として『初霜』救助艇についての吉田満の記述が全く出鱈目(でたらめ)であることを知らせた。

これに対し、森嶋通夫は次のように書いている。

それは吉田の記憶違いであったかも知れない。砲術士の話を彼が聞き違えたのかも知れない。しかし、そんなことはどうでもよい。大切なことは、吉田の書いたことは、歴史じゃないと言って棄ててしまってはならないということである。それは歴史的事件に遭遇した数少ない一人物の手記である。それが事件の全貌を公平に記述していないとしても、それを無視せよという結論は出てこない。吉田の記録を無視することは、歴史を歪め、場合によっては全ての悪を抹殺してしまうことになる。苦しかったであろうが、死ぬまで訂正しなかった吉田の勇気をほめたい。

この部分は、何度読み返してみても理解も納得も出来ない。吉田満の書いたことを全部捨ててしまえと言っているのではない。記憶違いがはっきりすれば、その箇所を直せばよい。話を聞き違えていたことがわかれば修正すればよい。間違いに気付いたなら、それを正す方が勇気のあることで、歴史を正しく伝えることではないだろうか。それをやらないのは、この作品が実録ではなく文芸作品であることの証明でもあろう。

大谷が『初霜』に乗り組んでいた者から聴取した所では『初霜』が救助したのは『矢矧』と『濱風』の乗組員であり、この二艦の「砲術士」と称する者は『初霜』に救助されていない。即ち衝撃的な発言をしたとされている「砲術士」は実在しない。

また、森嶋通夫は 救助艇には必ず日本刀を持って行けと注意するベテランもいたかも知れない とも書いているが、『初霜』駆逐艦長・先任将校に会って確かめてみたが「そんな馬鹿なことを言うはずがないだろう」と一笑に付された。

このように、ありもしない事件をデッチあげたことに対し、明白な証拠を付して、取り消しを求められても応じなかったのは、伝聞として挿入したこの架空の物語が、戦場での残忍非情さを誇張して表現するのには必要とした為で、正確に沖縄での海戦の実態を伝えようという気持が薄かったからだとしか思えない。

吉田満の『戦艦大和ノ最期』の中で『霞』の生存者救助のため、横付けした『冬月』についての記述にも切迫感を強調するための甚だしい誇張と言うよりも嘘(うそ)がある。

横付ケ時間ハ五分間‥‥‥五分ヲ経過セバ、残留者ヲ目撃シツツモ一斉ニ横木ヲ叩キ落トス‥‥ と書いているが、あの場面で横付けを五分間と制限する理由はなかった。『霞』を離れるに当り、先任将校等が艦内をくまなく見回り残留者が一人もいないことを確かめている。横木(道板)はスルスルと『冬月』艦内に取り込まれ、叩き落としてはいない。これが真相である。

『初霜』救助艇の『船ベリに犇(ひしめ)く腕斬り捨て事件』について、詳細な検証を木暮賢三が、『松井中尉の場合』と題して『針尾』(七十八期機関誌)に発表している。吉田満の記述が全く架空の物語であり、森嶋通夫の主張が如何に説得力のないものかがよく分るので、本投稿の次に付して置く。大谷が下手な文章を縷々(るる)書くより遥かに分りやすく説得力がある。

 森嶋通夫は『大和』が呉出港時から特攻が決っていたことの証明として、『血にコクリコの花咲けば』の中で、吉田満の文章を引用しつつ次のように書いている。

(『大和』は)その日(三月二十九日)は三田尻沖に仮泊した。管制下の暗夜に総員が上甲板に整列し、訓示を聞いた。

「艦長、天一号作戦ノ目的‥‥‥、本艦ノ使命‥‥‥ヲ述ベラレ、全海軍ノ期待ニ応ウベク、総員ノ奮起ヲ切望セラル。

副長『時至ル、神風大和ヲシテ真ニ神風タラシメヨ』

明らかに大和の出撃は最初から特攻攻撃を目的としたものである。と

即ち、この吉田満の記述をもって、『大和』は呉出港時から特攻攻撃が決っていたという自説を証明する記録であるとしている。

しかし、この吉田満の文章を冷静に読むと、艦長の訓示は、天一号作戦が発動され、決戦場に近い三田尻沖に移動し、出撃が近いことを知らせ、総員の奮起を求められたものであり、副長が述べられた「神風大和」は平素から有賀艦長が口ぐせのように言っておられた言葉であったようで、特に特攻を表したものではないようである。

『大和』については、吉田満の他に森嶋通夫のいう歴史的事件に遭遇した数少ないもう一人の手記がある。

『大和』の副長であった能村次郎の著書『慟哭(どうこく)の海』である。

この著書には三月二十九日の総員集合の記述はなく、四月五日十五時十五分、准士官以上に対し艦長より、沖縄への特攻出撃の連合艦隊命令が伝達され、その直後、「総員集合、前甲板」が下令され、艦長・副長より訓示をされた時の様子が詳述されている。為念、『慟哭の海』より三月二十八日と四月五日のこれに関連する部分を次に転記して置く。

 

「副長」、大佐の襟章をつけた黒詰め襟の一種軍装に身をつつんだ艦長は、一呼吸おいて、「本艦は明二十九日十五時出港、三田尻沖に向かうことになった」と言われた。

いよいよ出港である。呉より内海西部の三田尻沖へ移動するのは、出撃の際、豊後水道を一気に南下できるためであろうか。とはいえ巨艦『大和』が外海に出られる水路は、いずれにしても豊後水道しかない。

(森嶋通夫は、『O氏に答える』の中で、もし、大和が関門海峡を通過できない程の大艦なら、そんな艦をつくったのは完全な設計ミスだというべきだ。と書いているが、これは森嶋通夫の面目躍如たる見解というべきであろう。)

 

 四月五日は、朝からうららかな日だった。午前、午後の整備作業は平常通り‥‥‥というより、いつ開始されるかわからぬ出撃、戦闘に備え、休養の意味を含めて気楽に実施した。

 十五時ごろ、私は午後の艦内作業の見回りを終えて最上甲板に上がり、折からの陽光を浴びながら、主砲第一砲塔右舷のそばでひと休みしていた。

有賀艦長が、平素と少しも変らぬ温顔で、つかつかと無造作に私の前に歩み寄られ、頬にかすかな笑みを浮べながら、無言で一枚の紙を私に差し出された。私も姿勢を正し、黙って受け取り、目を通すと、それは予期したことながら突如下った機密命令文の写しであった。

 

「発 連合艦隊司令長官、

 宛 第二艦隊司令長官」

「第二艦隊『大和』以下は、水上特別攻撃隊として、沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃撃滅すべし。」

 

(以下要点を記す。)

私は直ちにマイクの前へ行き、艦内スピーカーで、

「准士官以上集合、第一砲塔右舷、急げ!」

を令し、同時に下士官、兵にも布達すべく、

「課業やめ」と「総員集合五分前」を予告した。

集まった准士官以上八十人余り。 

(中 略)

艦長から連合艦隊命令が伝達された。

(中 略)

私から出港前になすべき作業部署を説明した。

緊張、われを忘れる数分であった。

時計を見る。十五時十五分。続いて「総員集合、前甲板!」を下令、総員を前甲板に集めた。 

(中 略)

艦長は、臨時に設けられた低い壇に上がり、兵たちの敬礼にこたえた後、さきに准士官以上に伝達した連合艦隊命令を読みあげた。終るとその命令書を左手に持ち、静かながら迫力のある声で、

「出撃に際し、いまさら改めてなにも言うことはない。全世界がわれわれの一挙一動に注目するであろう。ただ全力を尽くして任務を達成し、全海軍の期待に沿いたいと思う。」

(中 略)

続いて、私が壇上に上がり、

「ただいま艦長の読まれた艦隊命令のとおり、いよいよ、その時が来たのである。日ごろの鍛錬を十二分に発揮し、戦勢を挽回する真の神風大和になりたい」と述べた。神風大和とは、平素から有賀艦長が口ぐせのように言っておられた言葉であった。 

(後 略)

 

先日『初霜』の松井通信士に会って、沖縄への特攻出撃についての連合艦隊司令長官よりの電令受領時の様子を聞く機会があった。

「受信した暗号電令は自分で翻訳したのでよく覚えている。(特)(別)(攻)(撃)(隊)と一字ずつ暗号書から訳出される文字に、今までの出撃電令では感じなかった身震いを感じた」と言い、「この電令受信は出撃の直前、徳山海軍燃料廠の岸壁に横付けして、重油の補給中のことであった」と言う。

第二艦隊に対する特攻の発令を四月五日とすることは間違いないと思う。

 

森嶋通夫は『O氏に答える』の中で、出撃直前『大和』に飛来した草鹿参謀長の「一億総特攻の先駆けになってもらいたい」との説得に対し、伊藤長官は「そうか。それならわかった」と即座に納得したと『戦史叢書』にあるが、何がわかったかの説明はない。私はそれに続けて「わかったよ。お前たち(連合艦隊の首脳)が馬鹿であることが」と私の解釈をつけている。と書いている。

この解釈は果たして正解だろうか。

先に引用した『慟哭の海』の中に、草鹿参謀長の話が載っているので、次に転載する。森嶋通夫の解釈とは、大分かけはなれた対話であったようである。

 

〈同期の桜〉である、このときの二人の会話はどのようであったか、誰も知らなかったが、戦後草鹿参謀長の話によると・・・・として・・・・伊藤中将に会って、この絶対成功を期しがたい特攻攻撃を行わなければならない理由をいろいろ説明した。

伊藤中将は『よくわかった。何のわだかまりのない、きれいな気持ちで出発する。』という意味のことを言ってくれた。 

(その後二人は、具体的な戦闘について、肚(はら)を割っての会話を交わした。)

伊藤中将はニッコリ、喜色を満面に、『ありがとう、安心してくれ、これで気も晴れ晴れした。』といって、あとは最後の杯をかわし、‥‥‥(読売新聞社連載『昭和史の天皇』から。‥‥

 

海軍では、伝統的に、事が決まるまでは、大いに議論し、堂々と反対意見も述べるが、一度決すると、決まった命令に対しては、黙々として全力を挙げて邁進するものである、と聞かされてきた。

伊藤長官は森嶋通夫の言うように、‥‥わかったよ。お前たち(連合艦隊の首脳)が馬鹿であることが、‥‥だったのか。それとも、草鹿参謀長の言われるように、「よくわかった。何のわだかまりのない、きれいな気持ちで出発する。」だったのか。大谷は草鹿参謀長の言われることの方が、遥かに説得力があり、納得できるものであると思う。

 

森嶋通夫は『血にコクリコの花咲けば』の中で『将旗』が司令部についているもののような記述をしているので、『将旗』とはどんなものかを知らせた。即ち『将旗は指揮権を有する将官の旗章として、海上勤務の司令長官、司令官が坐乗する艦船に掲揚するもの』である。と

これに対し、森嶋通夫から将旗を移揚する』の件を含めて、あなたが提起した問題の大部分を私が降伏した形で交信が終ったものと了解します。と潔く、物わかりのよい返事をもらっていたので、この問題は解決ずみとばかり思っていた。ところが『O氏に答える』には‥‥‥O氏はこれに対して「将旗を『初霜』に移揚したのは『大和』ではなく、『矢矧』だ」という解釈を引き出しているが‥‥‥としている。こんなことを知らせた覚えは無い。まだ、よくわかっていないようだ。こちらの知らせたことを曲げて発表されては甚だ不愉快である。

将旗を『初霜』に移揚したのは、二水戦司令官古村少将であって、伊藤司令長官ではない。(伊藤長官は『大和』に乗ったまま戦死されている。)と知らせたのである。古村少将が『初霜』に救助されたのは、四月七日一七二〇であり、将旗移揚はそれ以前ではない。連合艦隊が沖縄突入作戦中止を命じたのは、それより早く一六三九の電令によってである。

従って森嶋通夫の言うように、発令艦所も発令時刻も不完全電報によって、戦艦は『大和』といえども飛行機に対して非常に弱いと結論だけ出すほど簡単なものではないのである。

 

『回天』について、森嶋通夫の記述は、回天とはどんなものであったかという、基本的な知識の欠如したままで書いたようである。

上山春平(元京大人文科学研究所長、元回天要員)と面談した時に「回天が発射されれば、速度を調節したり、進路を変えたりすることは出来ない」と言った。と書いている。これには、温厚な上山春平も、「この誤解にもとづく誤謬を、機会あれば訂正するよう」に申し入れられたようだ。

森嶋通夫は『血にコクリコの花咲けば』の中で次のように書いている。

回天がいったん発射されれば、爆発して死ぬか、不発で洋上を漂流して餓死するかのいずれかである。と

これに対しての大谷からの抗議に対し、私が餓死と書いたのは『例えば餓死』という意味であった、と弁解している。

爆発して死ぬか、不発で洋上を漂流して餓死するかの「いずれか」と書いておきながら、この文章は「たとえば餓死」という意味だったという。これは全く承服出来ない言い逃れである。論文は学者の生命であり、一言一句に責任を負うものだとばかり思っていた。大学者である森嶋通夫がこんなおかしな言い逃れが通用すると思っているのであろうか。森嶋通夫は、多忙だろうが、回答に当って『回天』はどんなものであったかを謙虚に調べてからにしてもらいたかった。

 

森嶋通夫は『血にコクリコの花咲けば』(第一刷)の中で「‥‥‥その証拠に(宇垣に従い)生贄(いけにえ)とされた一七名は、特攻隊並みの二階級特進をしているが‥‥‥」と書いているので、これは誤認であり、一人も二階級特進した者はない、これを訂正しないとそれだけでも、事実を曲げて自己の主張を補強していると非難されてもしかたがないと伝えた。

これに対する回答は「‥‥‥『戦史叢書(そうしょ)』には「突入した者は全部戦死として長官以外は進級した」とある。『叢書』一七巻、六一三頁を見よ。ただし、二階級特進とは書いていない。

これは、大谷に対する回答ではなく、大谷から森嶋通夫への言い分の根拠である。特攻隊並みの二階級特進をしていると書いたから、そうでないと指摘したのである。森嶋通夫の回答は答になっていない。しかも、第三刷では大谷の指摘通り記述を変えている。

即ち第一刷では、特攻並みの二階級特進をしているとした部分を第三刷では特攻戦死者に対する恩賞を与えていない。と訂正している。 

森嶋通夫は大村空の飛行長は飛べない飛行長であると私は書いたが、O氏の言う通り、飛べた飛行長である。とし、その後に、しかし、技術進歩が激しかったあの時代には、昔の飛行機では飛べた人も、飛んでいなければ新鋭機では飛べないという蛇足が付いている。

飛行機乗りの期友は、この蛇足をどう思われるのだろうか。正論なのか、暴論なのか、聞いてみたい。 

ここに何となく引っ掛かる森嶋通夫の言い分がある。千早正隆に対してである。

‥‥‥彼(千早正隆)は戦後、連合軍のGHQ戦史室歴史課に勤めているが、そういう経歴を見て私は唖然とした。私ですらアメリカの土を踏んだのは戦後一二年もたってからであった。何回かのチャンスは私自身が拒否した。‥‥‥

一寸見ると、「森嶋通夫は格好いいなァ」と読み通してしまいそうだが、よく考えてみると、戦いが終り、双方の手の内を示しあって反省するのは大切なことではないだろうか。

〈昨日の敵は今日の友‥‥‥〉(水師営の会見)という歌を子供の頃、よく歌った記憶があるが、如何なものだろうか。

さて、‥‥‥私ですらアメリカの土を踏んだのは戦後一二年もたってからであった‥‥‥。としているが、この私ですらの前に、どんな形容詞が入るのであろうか。「変わり身の早い」ではあるまい。「好奇心の塊のような」でもなさそうだ。まさか「厚顔無恥な」ではあるまい。

森嶋通夫は、どんな形容詞を頭にえがいて、私ですら、と書いたのだろうか。聞いてみたい。

 ガンルーム士官は、その日、その日の仕事をし残してはならない。転勤命令を受けたら、即刻トランク一つで出発出来るよう、常に身辺を整理しておかねばならないと教えられていたし、実行していた。

森嶋通夫は、大村空解隊後、新任地の二二連空司令部に転勤するまで、日時がかかりすぎている。

 森嶋通夫の文章から判断すると大村空が解隊されたのは五月初めのようである。しかるに、転勤通知を受け取ったのは六月上旬であり、その間、海軍省からの配置替えの命令は来なかったという。

誰が言ったのかは不明だが、「いっそのこと、この機会に暗号士は休息されてはいかがですか」と言われて、これに従い、所属のハッキリしないまま、一ヶ月以上も宙ブラリンの状態だったようである。

自己の所属部隊が解隊したのに、転勤命令が来なければ、どうなっているのかを積極的に問い合わせするのが普通であろうし、常識というものである。ところが、対応が緩慢であり、結果的には、二二連空への着任が発令二ヶ月後であったようだ。そして、こういう私や大村空の処置のどこが悪いのか、と開き直られても、ああそうですかと、同意する訳にはいかない。

 

『海兵予科のチンピラ』の上官殴打事件誤認の「いいわけ」には四頁を費やしている。

浪高一年先輩で、海軍の事情にうとい新米の軍医見習尉官が、針尾海兵団にお客様の身分でいた森嶋少尉に予科の生徒が、僕たちが軍人らしくないと言って、ゲンコツで殴るのでね。僕たちで相談した結果、君に頼んで、彼等にそうしないよう命令してもらいたい。と訴えられ、この話を鵜呑みにして引き受け、予科の分隊長に会って、生徒たちを説得すると約束してもらった。‥‥‥その後数日して、事件は思いもよらない仕方で完全に解決した。‥‥‥予科を針尾からどこかに移動させてしまったのである。‥‥‥と書いている。

ところが、森嶋少尉が針尾海兵団に来た時には、針尾にいたと思っていた予科生徒は一人残らず防府に移動を完了していたのである。この物語は、ハッキリ言えば予科生徒に濡れ衣を着せていたのである。

犯人は、森嶋通夫からチンピラと呼ばれた予科生徒ではなく、針尾にいた誰かであったということになるが、これは予科生徒が出て行った後に入って来た『海軍特別幹部練習生』だった(らしい)ということにして、解決だとしている。そして、濡れ衣を着せられた予科生徒に対する非礼について、一言の詫()びもない。

果たして、『海軍特別幹部練習生』の犯行だと言い切る確証があるのだろうか。若しこの事件の犯人が、予科生徒でなく『海軍特別幹部練習生』であったとすると、『血にコクリコの花咲けば』の中で森嶋通夫が書いた‥‥‥予科を針尾からどこかに移動させてしまったので、その後数日して思いもよらない仕方で完全に解決した‥‥‥という先の説明はおかしくなってしまう。予科生徒の後に入ってきた『海軍特別幹部練習生』は引き続き針尾にいた筈であり、辻褄があわない。

海兵団には森嶋少尉のように、雑多の人間が一時滞留するプールのような作用もあったようなので、どんな種類の人間がいたか分からない。予科生徒でなければ、即ち『海軍特別幹部練習生』が犯人だと断定したようだが、そう簡単に振り替えることは出来ないと思う。如何なものだろうか。

そんなことで、『終わりよければすべてよし』とする森嶋通夫の考え方は甘いし、到底ついて行けない。

『終わりも曖昧(あいまい)な言い訳に終った』というのが大谷の実感である。

『海兵の予科のチンピラ』については、チンピラの一人である木暮賢三が『針尾』に詳細を投稿しているので、これを巻末に添付してご参考に供することにする。

 さて、本投稿の冒頭に記した、森嶋通夫が会いたがっていた鈴木中尉については、全く意外な記述である。

鈴木中尉から「自分はそのことに触れられたくない。自分はそのことを妻にも息子にも言っていないから、今後一切触れないでほしい。」と書いてきた。‥‥

私は彼がこのように哀願するのは、私が言っていることを彼が承認した証拠だと断定し、それ以上は追及しないことを約束した。‥‥‥とある。

 今後一切触れないでほしい、と頼まれ‥‥‥それ以上は追求しないことを約束した。のに、こんなことをここで記述するのは信義に悖(もと)ることだと思う。約束したことを破り、ここまで踏み込んで自己の正当性を主張しようとするなら、大谷との交信の途中で言って来たように、京大工学部で入学許可の書類を調べてもらい、黒白をハッキリ付けてもらいたい。その方がスッキリする。大谷は今でも鈴木中尉から聞いたことを信じている。

 長々と駄文を書いたが、よく考えてみれば「蝸牛(かぎゅう)角上の争い」であったかも知れない。

論争を職業の一手段としている天下の大経済学者にとやかくクレームを付けたのは「盲(めくら)、蛇(へび)に怖()じず」の蛮勇であったかもしれない。単細胞の老耄(おいぼれ)老人の蟷螂(とうろう)の斧(おの)など鎧袖(がいしゅう)一触、歯が立つ訳がない。

 

五年間に及んだ文通は終ったようだ。「戦い済んで日が暮れて」振り返ってみると五月晴れのような爽(さわ)やかさはない。梅雨空のようで、モヤモヤしたものが残ったままだ。

それでも、少しはこちらの言うことも聞き入れてもらったことで満足すべきなのかも知れない。

この間、多くの先輩、同僚、後輩の諸氏、さらには今まで全く付き合いのなかった方々にも、不躾な質問をしたにもかかわらず、貴重なご教示やご意見を得たことは、大変有難かったし、勇気づけられた。誌上を借りて、厚く御礼を申しあげる。

森嶋通夫が、思ってもいなかった藪から棒の無鉄砲な奇襲攻撃から解放され、本来の経済学の研究に没頭され、大きな成果を挙げられることを祈って、この拙稿を閉じる。(平成十四年五月二十七日記)

七十八期機関紙「針尾」に掲載されていると本文中に出てくる二つの論文は別途掲載する。

(なにわ会ニュース87号32頁 平成14年9月から掲載)

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