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終戦後の特攻出撃

編集部

この記事は、佐伯市平和祈念館「やわらぎ」に所蔵されている。「戦争の思い出」といった種類の、寄稿文集に掲載されていたもので、Y氏が送って呉れたものです。甲飛会会報誌よりとありますので、甲飛13期の方が書かれたものと思われます。この記事には、想像や創作が多く盛り込まれており、辻褄の合わぬことが散見されるるので、その点お含みの上お読みいただきたいと思います。

水中特攻隊−蛟竜−

 昭和208171900(午後7時)頃、1隻の特殊潜航艇「蛟竜」が、静かに九州北端の基地の岸壁をはなれて行った。何人かの見送りの人はいたが、何れも声なく、不得要領な面持ちで「帽ふれ」で見送った。

 蛟竜の姿が夕闇につつまれ、エンジンの音がかすかなものになると、見送り人も引きあげて行った。

 「あいつら、今頃になって何をしでかすつもりなんだろう」

 「昼すぎ、呉鎮守府の参謀長が来て、軽はずみなことをしないようにといって帰ったばかりだから、馬鹿なまねをするわけはないだろうが」

 

 港外に出た蛟竜は、水上航送で、フルスピードで陸地を遠ざかって行った.

 1時間位、航送を続けたであろうか、豊後水道を出たあたりで、艇長は針路を南にとらせ、あらたまった調子でいった。

 「皆そのままよく聞け。十五日の玉音放送以来、日本が無条件降伏をしたというデマがしきりにとんでいる。聞く所によると、厚木航空隊では、そのデマを吹きとばすため、総決起を行なうという。それにさきがけ我々は、これより沖縄に向い、特別攻撃をしかけ、我々の突撃隊(基地に配備されていた蛟竜隊、海竜隊の特攻部隊)の、否、特攻戦隊(突撃隊を統括する特攻戦隊)―ひいては日本帝国海軍の名誉を挽回しようと思う。無敵の蛟竜隊が、無条件降伏などという不名誉な汚名をきて、おめおめ生き恥をさらせると思うか。しかし不承々々俺についてくる必要はない。不賛成の者は、途中の基地に寄港して降りても良いのだ」

いい終らないうちに、通信機の前に座っていた林田一飛曹(一等飛行兵曹−仮名)がいった。

 「誰が不賛成の者がいますか、やりましょう」

 発信機の具合を調べていた岸本一飛曹(仮名〕

 「腕がむずむずしていた。思い切ってやりまくりましょう」

 「さっきの面舵ヨーソローで大体の見当はついておりました。やりましょう」と川井一飛曹(仮名)

 水雷の山本上曹(仮名)は先任らしく落ちついた口調で、半ば一人ごとのようにいった。

 「今なら敵さんも油断してるだろうから、効果も100%だろうな」

 「みんな賛成してくれるな。この艇の搭乗員5人は一蓮託生、靖國神社でもかたまって席がとれるわ」

艇長の畠山大尉(仮名)は笑い声でいったが表情はこわばっていた。

 

8月15日正午、終戦の玉音放送があったが雑音がひどく、内容が聞きとれず皆、勝手な解釈をした。

停滞しがちな全軍の士気を鼓舞するために、天皇自ら大号令をかけられたのだとか。ソ連参戦、正体不明の新型爆弾が、広島、ついで長崎に投下されたことで一時的に停戦協定を結び、それを天皇が声明されたのだとか、その外、敵の謀略等、諸説がいろいろに取り沙汰された。

 その基地には蛟竜ばかりではなく、水上機、陸上機の航空基地もあり、当時の日本海軍の最も重要な拠点の一つとなっていた。

畠山艇の艇付には予科練出身の下士官が3名いた。昭和19年8月末、分遣隊、また滋賀航空隊で特攻兵器要員募集の時、熱望の印、二重丸を書いて提出し、選抜された甲13期生である。他の一名は兵科出身の上曹であった。

夜間訓練を行なうから、食料、水、燃料を満載し、1900頃には出港できる準備をしておくように」

艇長にいわれて、艇付たちは判断に迷った。夜間訓練に、長期航行するような準備が必要なのだろうか。15日の玉音放送の時はあいまいであったが、日時が経つうちに戦争が終ったことがはっきりした。はっきりはしたが、それは上層部だけの考えで、我々第一線部隊に終戦はあり得ない、我々が無傷だというのに、戦争をやめたなどとはとんでもない。米軍がやってきたら、一泡も二泡もふかせてやる―。が、特攻隊員たちの心の奥底に、わずかずつであるが、生きてなつかしい故郷に帰れるかもしれないという希望が湧いてきていた。だから、艇長から突然、特攻出撃をするといい出されて一瞬、皆戸惑った。しかし、皆賛成したのも嘘の気持ちではない。

特攻出撃の言葉を聞いただけで、心の姿勢はすぐ立直った

特攻隊員になってから一年近くもたつから特別攻撃を特別のこととは考えなくなって、自分たちの当然の使命だと思っているし、日常生活の、諸々の行動とさして異なるものではなくなっていた。だから、艇長から特攻出撃のことをいい出されて、何のためらいもなく賛成した。

 しかし、航行を続けていくうちに、妙な重苦しい雰囲気が醸成されて行った。

 そうしたことに敏感な岸本一飛曹が、重苦しさを払いのけるようにわざと陽気にいった。

 「沖縄の海は、敵艦船で埋っているというからな、あたりはずれはないだろうが、ちゃちな艦に当たらないように気をつけなくちゃ」

 いつもなら、その後をうけすぐ冗談をいう相田一飛曹は、その時どうしても言葉が出なかった。岸本一飛曹の心がわかるから、なお気の利いたギャグをと考えたのがいけなかったのだろう。

年かさの山上上曹が、やはり皆の気をほぐすため、別のことをいった。

「川井兵曹、針路をまちがえて、アメリカ本土に向かっているんじゃねえだろうな沖縄だよ、沖縄」

川井一飛曹は返事をしなかった.重苦しさは、誰かが何かをいえば一層ましてくるようだった。そして、ぞれが、こんな筈ではないと思いながら、自分で自分をどうすることも出来ない窮屈な枠の中にはめ込んでいくのを感じていた。

艇長はしきりと「原速前進」を命じた。蛟竜の最高速度で、原速をつづけると、1時間位しかもたない。操縦専門の川井一飛曹はそのことをよくこころえているので、エンジンに無理をさせないよう時々スピードを落して微速前進することもある。スピードダウンすると艇長の青白く、焦れている顔が折々視野に入ってくる。艇長ばかりでなく、全員が次第に何かに追いたてられているようであった。

夜が白々とあけそめて来た。エンジン航走をし、充電し、モーター航走に切りかえる。それをくり返しながらやって来た。今どのあたりを走っているのだろうか。右手に陸地が薄ねずみ色に細長く連なって望まれる。

「腹がへっては戦にもならん。食べようよ」

誰も何もいわなかった。いい出した相田一飛曹も、缶詰を「一缶とり出しはしたが、あけないでしまい込んでしまった。無言の行のように重苦しく切なかった。

大隅半島南端にさしかかった頃、エンジンの不調に気づいたのは、操縦を交替していた岸本一飛曹ばかりではなかった。微速にして艇長の顔をうかがったが、艇長は皆の心配を無視するような固い表情で、チャートをひろげ見入っていた。

やがて、当然のようにエンジンが、力なくあえぐような音をたてて停止した。蛟竜は惰性で、しばらくそのまま進んで止まり、艇体を波にゆだねて漂いはじめた。

エンジンがオーバーヒートを起したのである。充電も充分にしていなかったので、モーター航走も出来ない。

艇長は何も指示しないで、ハッチをあけた。艇外に半身を出し、南のまぶしく輝く積乱雲を見上げていた。

相田一飛曹は、カンメンボウ(乾パン)の袋を出し、皆に手わたした。艇長だけ手をふって断った。

エンジンの音のしなくなった艇内は、声を出すのがはばかれる程の静けさであった。

浪のうねりがかなり大きいのだろう。艇は大きくローリング、ピッチングをくりかえし、時々、波が艇腹にぶつかってはじける音がした。

カンメンポウをかじる音が、異様に高く聞こえる。喉がからからになっているので、水で、お腹に流しこんだ。

岸本一飛曹は艇内の蓄電池の上で横になった。相田一飛曹も、反対側の蓄電池の上にねそべった。川井一飛曹と山本上曹は諸装置の点検をしている。二人はいつの間にかぐっすり眠ってしまった。

 何か銃声のような音が聞こえて、二人同時に起き上がった。

 艇外で、川井一飛曹と山本上曹が何かしているが、人の動きが尋常ではないのが一目で察せられた。

 「何をもたもたしている。早く手をかせ」

山本上曹がどなった。

 ハッチから身をのり出してみると、二人で艇長を抱かかえて艇内にひっぱりこもうとしている。

 「どうしたんだ」

 「艇長がこれやった」

 川井一飛曹が右手で、自分のこめかみのあたりを打つ恰好をした。

 ようやく艇内にひき入れたが、艇長は虫の息だった。

 山本上菅が情況を説明した。ハッチをひらいたまま漂っているうち、大波を真横からくらい大量の海水が浸入し、転輪コンパスをぬらした。これは一旦水に濡れたら作動しなくなり、方角の見当がつかなくなる。沖縄出撃は断念しなければならない。その無念さに艇長は艇外に出て、自決を計ったものと思われる。

 艇長が苦しげな息づかいで何かをいおうとしている様子だった。四人は言いあわせたように顔を寄せ、耳をかたむけた。

 「沖縄出撃は司令官の命令であった。それが果せなくなって、おめおめ基地に帰ることはできない。これまでなら、機会を見て再挙もはかれようが、今となってはそれも出来ない。しかし、お前たちは直接命令をうけたわけではないから、気にしないで基地に帰投するよう。

 現在位置は、佐多岬よりSE10度、20哩位の所。目測で、桜島の蛟竜基地まで航行し陸路帰隊し、ことの次第を司令に報告するよう。俺が息を引きとったら、帝国海軍軍人として、水葬をやってくれ」

 とぎれとぎれにいっているのではっきりはしなかったが、要旨はのみこめた。

 「しっかりして下さいよ、艇長」

 「一緒に基地に帰りましょう」

 艇長は時々、力なくうす目をあけたが、やがてそれもしなくなり息が絶えた。

気抜けしたような状態でも、手足はきめられたことをしているように自然に動いた。軍艦旗で艇長の遺体をつつみ、さっきまで相田一飛曹が寝ていた所に安置した。

 「俺もやるぞ」

 眼を真赤に泣きはらしていた相田一飛曹が腰の拳銃を抜いてさけんだ。先をこされたような気持ちで後の者も挙銃を抜いた.が、先任としての責任を感じたのであろう。山本上曹が皆を落ちつかせた。

「自決は基地に帰ってからでもで出来る。それより艇長の遺言通り、基地に帰って報告しなければならないだろう」

 いきりたっていた皆は、その一言でおとなしくなってしまった。

 艇長の遺言は命令であった.自分たちは命令通りしかなくてはならない。基地に帰ることは決まったが、艇長の遺体を水葬にすることは、戦時なら名誉な戦死者に対する儀式としてできたかもしれない。が、沖縄出撃が挫折し、出撃も司令官の命令だとはいうものの、終戦になってからの出撃は何やら大義名分にも欠けているように感じられる。今、水葬にするということは、遺体遺棄につながるような後めたい気持ちがつきまとう。水葬のことは誰もいわないし、桜島基地に寄ろうと誰も言い出さなかった。

 結局、困難はあろうが、海岸伝いに辿って航行すれば、コンパスなしでも基地に帰れるだろう。そうすれば艇長の遺体も、海に棄てることなく、基地に持ち帰られる。

話し合いで決まったわけではなかったが、皆の想いは同じなのだろう。蛟竜のエンジンがなりひぴき、川井一飛曹はごくあたりまえのように、大隅半島東側に針路をとっていた。

 艇長の遺体を基地にもちかえること、事の顛末を司令に報告すること−それだけが4人の念頭にあり、帰路、コンパスなしで航行することがどんなに困難であるか、そして基地についてから、彼等が、未だかつて経験したこともない屈辱的な仕うちをうけることになるなど予測もできる筈もなかったし、ただ北へ、北へとひたばしりに航行を続けた。

 天測で、はるか北方に望まれる陸地が、大隅半島、佐多岬であると見当をつけた。艇長がもっていたチャート(航空図)を見ると、その佐多岬東方二十哩の所で、鉛筆の線が止っている。それを逆行していけば、基地に辿りつけることになるが、転輪コンパスが作動しなくなった今、天測と、地文航法に頼るしかない.(地文航法は、専ら陸軍の航空機が行なっていた航法で、上空から望まれる地形と、地図を冊合して飛行する方法である)眼高の低い蛟竜が、地図と、見た感じがまるで養う様々地形を見て航海するのは至難のわざである。晴れているから、時間と太碍の位置で方角の見当はつくものの、陸地の見えなくなった大洋に出たら、殆ど盲同然で、あてずっぽうの航海をするしかない。先任の山本上曹が、艇長代理をつとめたが、彼とて専門は機械、電気であるから、航海術が得意なわけではない。かといって、予科練出身の他の艇付にしても、一応、航海術を習得したとはいうものの、その技術は、山本上曹と大差ない.艇長の任務の重要さを今更ながら認識するのだった。

 転職コンパスだけに頼らなければならない夜間航行は危険だからと、できるだけ昼間のうちに距離をかせおこうと、原速にあげて走るが、それをいつまでも続けていたら忽ちオーバーヒートを起こす。その上、潜航した方がスピー†も出るのに、たえず一人は艇外に出て、陸地と太陽の位置をみはっていなくてはならないから、潜航することもならない。気はあせるが、蛟竜はわざとのようにのろのろと北上を続けた。

 長い夏の日もかげって来たと見るや、四人の気持に猶予をあたえないように、あっさり沈んでしまった。

 夜間航行には慣れている筈である。が、コンパスなしで、沿岸航行するのは、大洋をコンパスなしで漂うよりはもっと危険である。その上、宮崎県の北部から大分県にかけては海岸線が入り組んで、溺れ谷になっている所が多い。基地に帰りつくためには陸地だけが頼りになるので、うんと陸地に近づき、殆ど手探りするような慎重さで、一つ一つの湾、入江の奥まではいり込み、また出て、次の湾に入りこむ。見張りと操縦はいうに及ばず、後の二人も、神経がズタズタになる想いだった。昼間は3時間位で見張り、操縦を交代していたが、1時間になり、30分になった。意識がもうろうとして、急に岩が目の前に迫ってもう駄目だと観念したことが何回もあった。

その度に急角度の変針をするので、艇位不明になることもある.果して、基地への方向を辿っているのかどうかさえ怪しくなってくる。

 昨夜、基地を出発して食事をしたのは一回きり、それも、カンメンポウ1袋を水で胃の中に流しこんだだけ。それ以来、誰も食事の事はいい出さなかったし、空腹感もなかった。喉がひりつくように渇いたが、水を飲もうという気持も起こらなかった−空腹感やかわきを感じる気持の余裕も時間もなかったのかもしれない。皆眼を血走らせて、神経を針のようにとがらせていた。ただ基地に帰りつかなければならぬという執念のようなものだけが頭にあった.何のため基地に帰り、その後どうするかということも念頭にはなかった。

 「面舵!」

 「取舵いっぱい」

 矢つぎ早に叫ぶので、声もつぶれて来た。チャートを開いて、どのあたりを航行しているのか全くわからない。ただ、波の大きさによって、湾の内か外かの判断がつく。陸地を左に見えるように航行すれば良いということだけで、右に左に舵をとっていた。

 8月19日の朝がやって来た。湾や入江を何十となく出入りしたのだから、もう基地も近いのではないかと思う程度にしか艇位はわからない。明るくなってくると、陸地を少し速く離れて安全な航路をとった。

 昼すぎになってやっと見おぼえのある風景が見えてきはじめた。もう基地は近い。声には出さなかったが想いは皆同じなのだろう。その場へへたりこみたいような安堵感を顔に出していた。

 行きの時間は十二時間位だったのに、帰りはその三倍近くかかってしまった。

基地の桟橋が涙でかすんで見える。艇長代理の山本上曹は、ハッチから上半身を艇外に出し、操縦員の川井一飛曹に、艇長がいつもやっているのと同じように、次々号令を下し、桟橋に艇を横付けした。

何人かが迎えにかけつけた。しかし皆の表情が固く、迎え入れるという温かい態度ではなかった。

 「艇長はどうした」

副長は強い語気でたずねた。

 「自決されました」

 まさかというような表情の劉長は、それをくわしく詮索せずにいった。

 「上陸してはならない。このまま司令部に直行し、そちらでの指示に従え」

 何のことかわからなかったが、山本上曹はおうむかえしに答えた。

 「このまま司令部に直行し、その指示に従います」

 蚊竜は再びエンジンをかけた。だるそうな音をたて、桟橋を離れた。

 特攻戦隊司令部は、港の奥まった所にある。わずかの距離であったが、疲れ切った皆の頭の中はいろいな憶測でうずまいた。しかし深くは考えなかった。

 司令部で一体何が起こるか、どうせ良いことではなかろうが、沖縄で死ぬ筈だった生命。何があってもかまうものか!

 司令部の桟橋上には、着剣をした銃を肩にかついだ衛兵が5名と、指揮刀をもった士官が待ちかまえ、4人が上陸すると士官の号令で衛兵が銃を四人に向けて構えた。

 唖然とした四人は、それでも気をとりなおし、±官に敬礼をした。

 

「藤山大尉の遺体はそのまま。お前達を司令部に連行する。」

馴染みのない司令部の建物にそのまま連行され、一室につれこまれ、外から錠をかけられた。

 「どうなっているんだ、これは」

 「沖縄に出撃しなかったのが悪かったのだろうか」

 「やっぱり、艇長と一緒に自決すべきだった」

 待たされている時間は1時間ぐらいであったろうか、それが無限に長く感じられた。今まで忘れていた空腹感が激しい飢餓感となっておそって来た。四人とも根まけしたように床の上に転がり、すいこまれるように眠ってしまった。

 「起きろ!」

 地獄の底から急上昇するような勢いで眼をさました4人は、バネじかけのように立ち上がり、不動の姿勢をとった。

 数名の幕僚をつれて、特攻戦隊司令官春日少将(仮名)が入って来た。

 「この者たちか」

 挙手の礼をしている4人を見る眼は冷たかった。幕僚の一人が小声で司令官に何かいうと、また冷たい一べつを投げかけて部屋を出て行った。

 机と椅子が運びこまれたが、それには3人の参謀肩章を吊るした幕僚が座り、4人は立たされたままであった。

 「右から、官等級、氏名を名のれ」

 順番にいいおわると、その中の一人が射すくめるような眼で4人を見廻していった。

「お前達は何をしたか分っているのか」

山本上曹が答えた。

「沖縄の特別攻撃のため出撃いたしました。」

 「それがどういうことかわかっているのかと聞いてるんだ」.

 もう一人がかみつくような声でどなった。4人とも一体何をきかれているのかわからなかった。黙っていると、後一人から雷がおちてきた。

 「お前たちは命令違反。いや、抗命罪をおかしたんだ。それがわかっているのか」

 司令官の命令で出撃したのが、どうして抗命罪になるのだろう。4人は疲れた頭を忙しく働かせた。

 林田一飛曹が、かん高い声で叫んだ。

 「司令官の命令で出撃したのがどうして抗命罪になるのですか」

 「司令官はそんな命令は出しではおられん」

 威嚇するようなどなり声であった。

 「艇長は息をひきとられる前に『司令官の命令で出撃した』と言われました」

 川井一飛曹が居直ったような声でいった。

 「藤山大尉は口からでまかせをいったのだ.十七日鎮守府から参謀長がこられ、軽挙妄動を慎め。それを犯したものは大逆罪に処すといって帰られたのはお前達も知っていた筈だ。藤山大尉の罪状ははっきりしている。

抗命罪、逃亡罪。お前たちは意を翻して帰って来たから情状酌量の処置をとりたいと考えている。しかし素直に本当のことをいわなければ正式に軍法会議をかけることになる」

矢継早に3人の参謀が浴びせかけるように言う。どうしても、藤山大尉が独断で出撃したということにしたいことがありありと分って来た。司令官の責任のがれのため俺たちは責められているのではないのかと思い始めると4人とも腹がすわって来た。

「艇長がそういう罪になられるのなら、私たちも同罪です。艇長が死ぬ間際に、司令官の命令だといわれたのを私たちははっきり聞いています。事の次第を報告するように艇長に命令された私たちは帰って来ました。報告が終わったら4名とも自決するつもりでいたのです」

「しかし、亡くなられた艇長に罪をきせたままにもしておけません。軍法会議にかけるといわれるのでしたら、そこで艇長の潔白を証明したいと思います」

4人が必死の面持で、かわるがわるしゃべっているうち、参謀たちは、最初の頃の威嚇するような態度にかわって困惑の表情があらわれてきた。4人が話すことも全部は聞いておらず、さりげなくみせかけて三人で小声で話し合っていた。

「お前たちのいうことはよくわかった。しかし終戦になってから、司令部から特攻出撃の命令を出す筈もない。かといって当該者の藤山大尉は自決しているから、その真偽をただすわけにもいかない。お前たちは直接の命令受領者ではないから、お前たちを責めてもどうなるものでもない。そこで司令部としては出撃に失敗して帰投してきたお前たちにあらためて命令を下す。

 この特攻出撃は、はじめからなかったものとする。従ってお前達は17日から今日まで基地にいたか、夜間訓練を行っていたということになる。」

「艇長の抗命罪はどうなりますか」

すかさず林田一飛曹がいった。

「訓練中の事故死ということになるが、お前たちの上官を想う気持に免じて戦傷死として扱うことにしよよう。」

4名の顔に喜色が漲った。それにおいかぶせるように参謀の一人がいった。

「藤山大尉の死を名誉あるものにするためには、このこと一切、氷久に口外してはならない」

あの事件があってから三十年経った。もともと口の重い岸本一飛曹は、参謀たちとの約束を守って、あの事件のことを口にしたことがなかった。

特潜会や、甲13期の会等で、昔の仲間が集まる機会が多くなった。特攻戦隊の司令官や、尋問に当った参謀たちはなくたという話も聞いた。

戦時申の諸々のことが、風化作用によって、忘れ去られたり、美化されている中で、17日から19日にかけての事件は昨日のことのようになまなましい形でだ心の中で生きつづけている。

彼にとって、司令官を擁護するための謀略とも考えられる参謀たちの約束より、艇長の名誉の方が大事だった。三十年間、口をつぐんで来たのもそのためであった。

彼は同じ県内に住んでいる川井といつとはなしに旧交をあたためていた。その川井と語らって、三十を年一つの区切りとし、今まで背負い続けて来た重荷をおろすことにした。

その方法は、一番心にかかっている艇長のお墓まいりをすることであった。

艇長の母親は八十歳をこして、未だに健在であった。墓参りをすませ、座敷に招じ上げられた二人は、今まで口をつぐんできた、すべての事の顛末をくわしく話し、岸本が大切に保管していた艇長の遭体を包んだ軍艦旗を渡した。

今までこらえていたのであろう。艇長の母が初めて涙をこぼした。拭きもあえずにいった。

「軍人になったときから、息子は死んだものと考えておりました。自決は当然のこと、別にほめることでもありません。しかし今お話を聞いて、若いあなた方を巻きぞえにしないで基地に帰したということだけは、今あらためて、良くやったとほめてやれます。私も近いうちにあの世にまいりますが、息子によい土産ができました。本当にありがとうございました」

今まで、心の底に澱んでいた重苦しさが、艇長の母親の言葉で一掃されたように思った.帰路、二人ともそのことについては話さず、口数も少なかったが、お互いに艇長の母親の言葉を、心の中で反芻し、俺たちの戦後は、今終ったと、しみじみと思うのだった。
(甲飛会会報誌より)

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