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平成22年4月18日 校正すみ

沈みし潜航艇  又浮かぶ

艇長 生地は山口県 海軍大尉 名は勉

笹川 

昭和2526年と本社勤務で在京していた。弟が兵学校にいたという東大法卒の先輩に、ミリタリズムの洗礼を受けた者は読売新聞(よみうり)が好きだと冷やかされていたが、ある日の夕刊の記事に目を見張った。

伊豆東方沖で深海探査艇よみうり号≠フテストで200米潜った(或いは潜る)、これはかつての海軍特殊潜航艇の出した最深記録を更新するものであると。

サイパンが陥落し戦局も芳しくなくなった昭和1910月中旬4隻の特殊潜航艇(甲標的)は910号輸送艦でダパオに向け呉を出港した。9号については松永先輩の著書に記載されている。途中マニラで南西方面艦隊司令部より、レイテに対応すべく行き先を急遽変更されて下旬にセブ第33特根に赴任した。ご存じの如く司令官は特潜生みの親、ハワイの千代田艦長原田覚少将である。

20年3月24日深夜レイテ島北西部僅か1マイルの海岸線に追い詰められた陸軍のレイテ最高司令官・第35軍の鈴木宗作中将を、敵の重囲をかいくぐり救出。敵の追撃を逃れ26日夜セブ近くまで帰投したが、既に当日早朝米軍が上陸し街は真っ赤に炎上中。巳むなくリロアンに回避、起電力のない艇を処分する迄の6か月が波乱に満ちた海の戦いであった。

レイテ湾攻撃は潮流6ノツトのスリガオ海峡と航続距離の関係上許可されなかった。米軍が12月ミンドロ島に上陸した後はネグロスのズマゲテを基地とし、その大輸送船団を迎撃した。それまではオルモック湾の哨戒攻撃が任務であった。

11月の中旬、例によって勇躍出撃したが、数年に一度という台風に遭遇した。レイテ島近くまで来たものの勿論敵影はなく、数米の波浪で浮上出来ない。30米の深度で潜望鏡(特潜では特眼鏡というが)を上下してツリム (釣合い)をとりながら水中に停止、電池・空気の節約に努めた。

6時間経過し、もうよかろうと徐々に浮上を試みるが、15米位になると艇は大揺れ又沈下する。これを一昼夜繰返し遂に海岸線に突入し、ボトム(沈座)することとし水深80米で成功した。以後何回も浮上を図ったが徒労に終わり、結局3日間海底で過ごす羽目となった。

南方とはいっても水温は低い。食事(缶詰)は全く受け付けない。 狭い空間での糞便の悪臭に、身体が拒否反応を起す、余りの苦しさに危険を承知で浮上を決行した。しかし依然として荒天は続いており、小山のような波が押し寄せてくる。

電池を消耗したのでデーゼルで充電しながら浮上航行するしかない。敵の制海空圏内にあり、見張り、操舵及びジャイロを波の浸水から防ぐため、小生ハッチを閉めて司令塔の外に出た。舵・速力・異常時の合図は手にしたハンマーでハッチを叩くこととし、暫く航走していたが高波で海中に叩き落とされた。返す波に反射的に司令塔から艇尾に張ったワイヤーを掴んだ、艇がにぶいので命拾いをした。

以後飛行服のベルトをハッチに縛りつけたが中から艇付が潜望鏡を回して確認する度、合図を送った。辛うじてセブの近くまで辿りつき艇内に入り一息入れた。ふと、潜望鏡を覗くと目の前にグラマンの一機が小型爆弾23個こちらに向かって投下するのを発見した。距離数十米。慌てて急速潜航、下舵一杯全速でベラを回し前部タンクのみ注水してしまった。細長い構造物、途中で幾らタンクをブローしても立て直すことが出来ず、加速度もつき急角度で沈下していった。正に奈落の底に真っ逆様−(実際には30度位の傾斜であっただろうか)−深度計は100米、120米…どんどん下がる。突然バーンという大音響がした。爆弾の命中か、艇が水圧で潰れたか、一本残っていた上部の魚雷が破裂したか考える間に、数回大きくバウンドして止まった。

深度 正に 168米 ヤレヤレ。堅い珊瑚礁の海底に下部発射管の中の水が緩衝装置として働いたのだ。30分たって艇付にハッチ開け″を命ずるも、どうしても開かないという、不思議に思いながら潜望鏡を覗くと真っ黒。アッ沈んでいた。

一週間も不眠不休、水だけ飲んで、高温多湿、電池の廃ガス、特に整備不良による圧搾空気筒の空気艇内に漏れて、気圧は優に1,000ミリバールを超えて意識朦朧としていた。何しろ艦隊決戦の10分間の特攻兵器、動物の生存の限界を超えている。(後に続く悲惨な陸戦よりマシであったが)

ハッチを開けると何分間もシューッと真っ白な汚染空気が出てくる、呼気のくさいこと甚だしい。哀れなのは艇付整備員、何時に帰ってくるかと桟橋の上で寝ずの番、もう駄目かと諦めかけた時、目は落ち込み痩せこけた幽鬼の如き姿にびっくり。

 

生きて帰るとは夢にも思わず記録など全然ない。加えて、病気などしたこともなく比島に行ってなければ、120歳迄生きると豪語し、樋口兄がのたまう絶倫の主も、最近老化とボケが始まった。

もし内容に誤りがあればお許し願いたい。

 

(なにわ会ニュース76号 平成9年3月掲載)

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