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第8章 豊後水道海戦

三月十八日の佐伯の夜は暗かった。常にも増して厳重な灯火管制が敷かれ、人々はいつでも防空壕に飛び込める用意をして薄暗い夕食の膳を囲んだ。

 そこに生まれ育ち、そこで日々の生活を営んできた町が、初めて敵国に襲われたのである。明日もまた、いやもしかすると今夜にでも、再び空襲があるかもしれない。夕食の席が明るい団欒になろうはずはなかった。

 それにしても、文太郎の家の食卓にはとびきりぎこちない雰囲気が漂っていた。

 桂佑が入学試験に合格していたからである。変な話だが、順を追っていくと、そうなる。

 吉報を持ち帰ったのは恵美子だった。

 彼女は空襲を防空壕の中でやり過ごしたが、敵機の気配が去り、人々がおっかなびっくりで表に出始めたのに混じって這い出し、それから木材組合に行った。仕事はたっぷり昼過ぎまでかかり、それから港に戻る前に、回り道をしてようやく佐伯中学にたどり着いた。

 ひととおり校庭を見回してみたが、合格者の名を書いた紙が張り出されていなかったため、職員室まで乗り込んで弟の合格を確かめた。有頂天になって門を飛び出し百歩も歩いたあと、引き返してもう一度職員室を訪ね、今度は重雄の合格を確かめた。

「ほいてな、早う帰ろうと思うたけんど、定期が出ちょらんでなあ」

 港まで来てみても空襲警報が解除されておらず、渡しの定期船は欠航中だった。

 警報が解除されたのは午後五時をまわってからで、彼女が運行を再開した渡し船にようやく乗り込めたのは、さらにそれから小一時間も後のことだった。

 渡船を待っていた人々が等しく抱いていた心配は、例外なく家族の安否についてであったが、渡し船の漕ぎ手である船長はとも綱を解きながらこう言って、まず皆を安心させた。

「今しがた堀切《ほりきり》の役場から言うてきての、島ン衆はどげえもねえそうじゃ、心配いらんぞ」

 そのおかげで恵美子は父母や弟妹たちを案ずる苦痛から解放されたが、それと同時に、彼女自身の安否について両親が気を揉んでいるだろうということまで失念してしまった。

 渡船が守後浦の岸壁に着くと、恵美子は舟べりから飛び降りた勢いのまま家に駆け込んだ。同時に奥の台所からは徳が飛び出してきた。

 娘の勢いは弟の合格を伝える喜びに気が急いていたからであり、母親が跳びついて来たのは日も暮れる時分なのに戻ってこない娘の安否を、それも最悪の事態にまで想像を広げて案じていたためであった。当然のことに会話がかみあわない。

「母ちゃん、母ちゃん、受かっちょったよ」

「お前、どうもねえか、怪我しちょらんか」

「父ちゃんに早う言おう、桂はどこにおるん?」

「良かったのう、良かったのう」

「ほんとになあ、良かったわァ」

 徳はすでに自分より上背の高くなった娘を抱きしめて鼻をすすった。

 恵美子はその時やっと、母親が自分のために泣いてくれているのだと気づいた。

 

 やがて夕食になる。香代子を除いて、家族全員が揃った。

 桂佑の合格は、本来であればまことに喜ばしいことなのだが、この家族はそれを夕食の席で大っぴらに祝うことができなかった。

 なにせ災厄の日のことである。島の鼻先の海で戦死者さえ出ている。この時代の日本、特に大入島のような地域共同体では、私の慶事が公の弔事に優先することはありえなかった。

 また隣の坪根の家では、息子を案ずる園が、あれやこれやと想いを巡らせているだろうに、そこに桂佑の将来を祝う声など聞かせられるわけがない。

 彼らの家は、安普請というわけではなかったが、すでに結構な古物で、ちょっと大きな声を立ててしまうと隣家には筒抜けだった。その坪根の家は鎮まりかえっている。

 それだけではなかった。

 文太郎も徳も、そして桂佑も、朝の空襲で否応なしに戦争の現実に直面した。

 自分の住む町が戦場になったのだ。もはや当たり前に暮らしていける時勢ではなくなった。中学へ進学しようがしまいが、それはさほど重要な意味を持つことのように思えなかった。

 徳は息子の合格よりも、敵機の来襲が、彼が渡し舟に乗る前であったことを祝った。

 大衆丸をはじめ多くの特務艇が被害を受け、戦死者も出ている。生身むきだしの手漕ぎ舟でもし機銃掃射を受けていたなら、今ごろはお前の通夜だったと言い、言ってから自分の言葉にブルと震えた。中学合格は誇らしいことだ。しかしその何億倍も、いや、比べる意味さえないほどに、生きていてくれたことだけが、ひとすじにありがたかった。

 いつもなら、子の慶びごとには誰よりも無邪気にはしゃぐ徳さえそんなだったし、さらに、こういう時ムードメーカーとなるはずの恵美子もこの夜は黙っていた。

 桂佑が仏頂面のままめしを食っていたからでる。

 当人はそもそも中学進学を望んでいないのだから、合格もさしてうれしくはない。ところが彼はそのことを恵美子にも打ち明けていなかったので、このだんまりが、彼女に小さな誤解をさせることになった。

(こん子はまあ、うれしいくせに一人前に黙りこくって)

 恵美子はちょっと感動していた。

 つまり桂佑は手柄を立てたのである。ところがこの家には、こういうとき広瀬中佐ならば、という教えがあるものだから、彼は自分からそれを自慢するわけにはいかないのだ。

(自分の手柄を自慢しちゃいけん、ちゅうのも、ホドホドでエエのに)

 せっかくの合格祝いの空気が湿気ている中で黙ってめしを食っている弟を、しかし恵美子はむげしねえ《かわいそうだ》、とは思わなかった。

(大人らしゅうなったなあ)

 恵美子はつねに弟たちを可能な限り立派に思おうとした。桂佑は合格という手柄を立てたがただ静かにめしを食っている。祝いの席が盛り上がらぬことも全く意に介している風がない。これは桂佑が、少なくともその点では一人前の男に成長したと言うべきではないか、恵美子はそれが自分の半分カン違いだとは露ほども思わずにそう確信し、その満足に浸っていた。

 

 その日の夕食はボラの琉球であった。

 さつま汁といい琉球といい、その名についての薀蓄をこれ見よがしに並べることになるが、島の人々にとってはこれもごく当たり前の料理であったから、その食卓風景を描こうとするとこれは避けて通ることができない。

 琉球はいわゆる「ヅケ」である。醤油を基本に酒や味醂で味付けしたタレに、魚の切り身を漬け込んで作る。

 現在では主にサバやカンパチなどで作るのが主流で、博多の名物料理である「ごまサバ」もこれに近い。ボラには申し訳ないが、この場合はそれらの魚の代用と見るのが正しいと思う。

 もっとも、魚を特に限定しないのも島のやり方で、たとえば鯛の琉球もあれば、アジやチヌなどでも作っても旨い。

 名称は現在の沖縄県の旧国名である琉球そのものに由来していると言われており、亜熱帯の酷暑の中で、あしの早い魚の保《も》ちを良くするために漁師たちが考案した料理法らしい。

 ボラは隣の園が持ってきてくれた。息子のために網を打ちに行った重蔵が、思いがけずその群れを捕まえたのだと彼女は言った。それから、

「徳ちゃんな、琉球にしたらエエわ。今のうちに作って置いちょけるじゃろ」と言った。

 午後になっても空襲警報は解除されていなかったから、彼女たちには何時また敵機が飛んでくるかも知れぬという危機感がまといついていたが、なるほど琉球にしておけば保存が利き、いざというときは鉢のまま防空壕に運び込むこともできる。

 空襲を受けようが息子が出征しようが、家族にめしを食わせるのが彼女たちの役割だった。気を落として呆けているような真似は、園にも徳にも許されなかった。

 ボラ程度なら魚をおろすのが苦手な徳にも扱えた。切り身を漬け込むタレは自家製の醤油をダシ汁で少し薄めただけのものである。味醂や酒があろうはずもなく、せめてもの香り付けに塩漬けで保存しておいた紫蘇を使う。この日の夕食に出てきたのはそういう琉球だった。

 琉球という名は大分県の沿岸部で一般的だが、佐伯ではこれを特に「あつめし」とも呼ぶ。熱い飯にそのまま載せて掻きこむからだという話も聞くし、最後に熱い湯か茶をかけて食べるからだとも言われている。

 碗に盛った飯の上に琉球を載せる。一切れづつではなくたっぷりと載せる。口にする最初の一切れはまだ冷たくヅケそのままだが、二番手以降の切り身には少しづつ飯の熱が伝わって、その旨さが活性化される。生だが生より旨くなる。 

 同時に、切り身にからまっていたタレがじわりと飯粒の隙間に染み渡り、これまた飯の熱が醤油の香りをプンと舞い上げるものだから、魚と飯とを別々に食うのとはまるで旨さが違う。

 さらに醤油の染みた飯はそれだけでも旨いから、そんな具合に「あつめし」で掻きこむと、わずかな魚でも十分に飯の友として足る。

 これで二杯も食ったら次は茶漬けにする。その段になると切り身はあらかた食い尽くされているので、皿鉢に残った魚の肉くずをタレもろとも飯にかけて、それから茶を注ぐ。

 当時は茶葉も貴重品だったのだが、この家では畑の周辺の生垣代わりに茶の木を植えていたので、番茶であればだいたい足りていた。

 魚の身はまさにくずほどの大きさなのだが、それが熱々の番茶で煮えてほこりと甘くなる。醤油の香りに、かまどの置き火で炙った番茶の香ばしさが加わり、この三杯目も一気にいける。

 もっとも、最後に茶漬けで食うのは別に美食を求めてのことではない。

 茶は嗜好品ではなく食あたりを防ぐための養生であったし、タレまで飯にかけてしまうのは醤油一滴とて残さないという始末であり、茶漬けはそれで飯碗を洗う、いわゆる「すすぎ茶」をするためである。

 とは言っても、旨いものは確かに旨い。十歳になったばかりの亮でさえ、酒飲みが仕上げにやるようなそういう作法で茶漬けを食った。左の肘を水平に張って碗を持つのを見て、まるで講談に出てくる豪傑みたいじゃなあと、恵美子が笑った。

「ほいて、亮よ、あんたはどこに隠れちょったん」

「隠れちょりゃせん」

 豪傑と持ち上げておいて、どこに隠れていたかはないだろう。これは恵美子が悪い。

「ああ、そうじゃなあ、ごめんな。空襲の時はどこに居ったん」

「下駄履きの中尉ンとこ。お宮の下んとこに着ちょった」

「中尉さんじゃろ。また危ねえとこに居ったんじゃなあ」

「危ねえことはねえよ。じゃけ、下駄履きもそこにおったんじゃ」

 あらまあ、理屈が通っちょる、と恵美子は妙に感心した。

 

 理屈が通っているどころではない。もし米軍機がこの水偵を目標に機銃掃射をかけていたら亮の命もこの日で終わっていたかもしれない。水偵の搭乗員が敵に一矢報いようと、搭載した機関銃で対空射撃を行っていたら、敵機に反撃される確立はさらに高まっただろう。

 亮の記憶では、搭乗員はその手の敵対行動をとらなかった。彼らは至近に住宅地があるのを知って、とっさにその判断を下したのかもしれない。

「亮、あんた、お宮の下におったち言うたなあ」

「うん」

「そりゃあな、神様が助けてくれたんよ」

 恵美子はしみじみそう言ったが、横から桂佑がちょっと自慢そうに聞いた。

「亮、グラマンが落ちるのを見たか」

 桂佑には、目の前でそれを見た興奮がまだ残っている。

「見た。竹島のねきに落ちたやつじゃろ」

「火だるまになって落ちたけ搭乗員もお陀仏じゃろう。生きちょったら島に上がって来るかもしれんがの」

「けんど、生きちょったんなら、落下傘で逃げたじゃろう」

「おう、あの奴どもは命を惜しがるけの。けんど今日の奴あ、その間もなかったの」

「なあ桂、日本の戦闘機は何で迎え撃たんのか」

「そりゃお前、あれよ」

「あれちゃ、何か」

「敵機は高射砲で落とすんじゃ。ほいてな、日本の戦闘機は敵空母に突っ込むんよ。この方が勘定がエエけの」

「けんど、高射砲で落としたのは一機だけじゃねえか」

「なかなか勘定通りには行かんなあ。ほいても、それが分かったけ次は戦闘機が出てくるわ。なあお父ゥ。航空隊には戦闘機がようけ居るんじゃろ」

「黙って食え」

 文太郎は抑えた声で、しかしはっきりと言った。兄弟は理由を問わず父親に従った。

 文太郎には、目の前をかすめて急降下していった搭乗員の顔が思い出された。

 あの敵機と、撃墜されて海上に墜落した機とは、同じではなかったかもしれないが、それは関係なかった。祖国のために戦い、はるかな異国の海にその骨を沈めることになった若者と、ふるさとで息子の無事を祈っているであろう彼の両親のことを、痛ましく思わずにはいられなかった。「むげしねえことよ」と、彼は胸のうちだけでつぶやいた。

 この日、佐伯湾に墜落したコルセアの搭乗員は、ローラン・S・イスレイという名の、海軍予備少尉だった。予備の文字は大学から志願入隊した学徒兵であることを示している。

 日本における学徒出陣は「学生を繰上げ卒業させてまで戦争に駆り出した」という意味で、日本の軍国主義の象徴として語られることが多いが、合衆国ではむしろそれよりも早くから、学生の軍隊への参加を呼びかけていた。真珠湾攻撃の直後には、国中の大学から入隊希望者が殺到したということである。このイスレイ少尉もまた、若い熱血をもって志願した彼らの中のひとりだったのかもしれない。

 

 闇が深くなろうとしている。

 夜のあいだは敵艦載機の来襲はないと考えてよかったが、翌朝になればさらに熾烈な空襲が再開されるだろう。清田の予想では、二日目こそ正念場となるはずだった。

 基地は夕方から、昼間よりむしろ慌しく動き始めている。

 第四章で触れたが、佐伯基地には新造の海防艦で編成された対潜訓練隊が配置されていた。その全艦が出港準備を急いでいたのである。

 海防艦の外板は装甲と呼べるほどの堅牢さを持ち合わせていない。敵機が本格的な雷爆撃を加えて来たら、全滅に近い大損害を覚悟しなければならない。この日は広い佐伯湾に分散して退避していたことと、敵がその目標を飛行場に指向したおかげで難を逃れたが、明日もまた、そう上手くいくとは限るまい。

 対潜訓練隊の司令は西岡茂泰少将である。ふつう組織としての「隊」の司令は大佐が勤めるが、西岡はベテランの船乗りで実戦経験も豊富であった。その、いわば年季の入ったところが買われて選ばれたのかもしれない。

 西岡の下には指導官と呼ばれる直属の部下たちがいた。彼らは海防艦の新米艦長や乗組員の指導にあたるインストラクターである。指導官の階級は下士官から大佐というように層が厚く、それぞれが専門分野を活かして指導にあたっている。

 彼らはこがね丸という雑用船を庁舎兼宿舎として使っていた。宿舎というのがユニークだが、これは当時の佐伯基地に居住施設の余裕がなかったためである。

 もっともこがね丸は、制度上は雑用船に分類されているが、もともとは大阪商船のれっきとした客船である。神戸と別府を結ぶ一泊航路に就航していた船だったから、厨房や風呂などの設備が充実しており、駆逐艦などの小型艦よりもはるかに居住性が良かったという。

 また徴用船舶の責任者は当然ながら軍人なので、船長とは呼ばず指揮官と言うらしいのだが、こがね丸の指揮官は現役の海軍大佐で中島千尋といった。現役の大佐とは巡洋艦なみの格式で、普通の徴用船のそれではない。このふねの格が推察できる。

 十八日、そのこがね丸は大入島の西側の水域で避退行動をとっていた。

 このふねの武装としては、わずかに対空用の十三ミリ機銃が一門あるだけである。この日の空襲ではそれがむしろ幸いしたのかもしれない。上空から見ただけではまったくの客船でしかないから、コルセアの目標にされずにすんだのであろう。米軍のパイロットは、その乗客が、味方の潜水艦にとって最大の敵を育てている集団だとは知らずに、こがね丸を見逃した。

 その船内で、指導官の最先任である伊藤義一大佐は西岡に呼ばれた。午後三時ごろだったと伊藤の日記にある。

「敵さんは明日も来るだろうというのが呉防戦の判断だ。そこでな、伊藤君」

 西岡は指揮下の海防艦全艦の出港と、伊予灘での訓練を発令すると言った。

 伊予灘は瀬戸内海の西端にあたる。要は佐伯を出て内海に引っ込むというわけである。

「手配を頼むよ。燃料その他の補給にはどのくらいかかるかな」

 伊藤はしばらく考えて、それは日没を過ぎるでしょうと答え、それから首を捻った。

「どんなもんでしょうね」

 伊藤はざっくばらんに聞いてみた。佐伯も伊予灘も危険度は変わらんでしょう。むしろ敵の主目標と思われる呉軍港に近いぶんだけ、伊予灘のほうが危ないかもしれませんよ。

 伊藤としては別に不満はないが、西岡の情勢分析を聞いておきたかった。

「伊予灘まで引っ込めば味方の戦闘機の掩護を受けられるってことでしょう。しかし西岡さん、航空隊も呉軍港の防空で手一杯じゃありませんか」

「いや、伊藤君には言うがね」

「はあ?」

「これはな、あれだ」

「ああ」

 伊藤は眉を八の字にしている。もっともそれは彼のいつもの表情だったが。

「あれですか」

「そうだ。では夜間出港訓練および航法訓練として発令する。よろしく頼むよ」

「はあ。では手配いたします」

 伊藤はぜひもなく命令を受領して部屋を出たが、それから、やれやれ困ったものだとひとりごちながら廊下を歩いた。

 西岡は、決して妖しいものではないのだが、ちょっとした信心に凝っていた。今夜の突然の出港もそのお告げによるものだと、伊藤に言ったのである。

 近代海軍の上級将校が、神様のお告げでものを決めるというのはちょっと信じがたい。

 西岡を知らない者が聞いたらとんでもないことだと怒るか、何を埒もないことをと笑うかのどちらかだろう。そんなわけで、西岡はこれを、伊藤とごく数名の直属の部下にしか知らせていない。

 しかし、伊藤は西岡の信仰に理解を持っていた。

 もともと船乗りは信心深い。

 海は人智を超えた存在である。時に神とも仏ともなり、時に魔ともなるその前では、人間は超越者の存在を信じずにはいられない。海軍のふねの中にも神棚がある。無神論の船乗りは、むしろ異端と言えるだろう。

 もしも西岡が下手くそな船乗りで、無能な上官のくせに、神様のお告げにばかり頼っているような男であれば、伊藤も彼を信頼はしない。しかし実際の西岡はまったくその逆であった。伊藤は現場から叩き上げのベテラン士官だが、西岡は、その伊藤が上官として認めるに十分な船乗りであり軍人だった。

 だから、伊藤は今まで西岡の「あれ」に目くじらを立てたことはない。部下の若い指導官が首をかしげても、彼はこう言うのである。

「俺たちだって、あれこれ考えても、最後の判断ではサイコロを振りたくなる、ということもあるじゃないか。そんな時に何か験を担ぐのと同じだろう」

 そういうわけで伊藤は西岡の理解者だったのだが、しかしこの時は機嫌を悪くした。

 伊藤は清田と同じく海軍兵学校四十二期で、この時五十一歳である。

 その顔は、持ち主の海上勤務の長さを想像させるのに十分なほど日に焼け、潮風に洗われていたが、妙にファニーフェイスで、丸顔に二本の眉が垂れて八の字を作っている。このために彼の表情はいつも優しく微笑んでいるようにも見えるし、何かに困っているようにも見えた。

 この八の字眉が、西岡の前では微妙に困ったらしい表情を作ったのだが、もともとそういう顔なので、上官も、彼の表情の微妙な違いに気付かなかったようである。

 

「だいたいお告げが遅い」

 西岡を責められない以上、伊藤の文句は神様に向けられる。

(伊予灘に移動すべきだというのなら、敵の空襲の前に教えてくれれば良さそうなものだ)

 彼の不機嫌の理由は出港が夜半になってしまうことである。新米の乗組員にとって、夜間の出船入船ほど危なっかしいものはない。操艦の下手なのがいて、岸壁にコツンと当てるくらいならまだしも、艦どうし衝突でもされたひには死人だって出かねない。

 海防艦の艦長は、そのほとんどが海軍兵学校を出た本職の軍人ではなく、商船学校を卒業し、民間商船の船長などを務めていた予備士官である。

 この士官補充制度は戦時の指揮官不足を補うためのもので、本家は英国である。合衆国海軍でも採用されていた制度であって、別に日本海軍だけが人手不足だったわけではない。

 彼らは、こと操艦にかけては正規の海軍士官にもひけをとらなかった。中には歴戦の艦長が舌を巻くほどの手際よさを見せる者さえいた。

(ところがこれが、艦隊運動をやらせると駄目なんだ)

 伊藤にはその点が頭痛の種だった。

 艦隊運動とは、指揮官の統一指揮のもとに、複数のふねが一個の有機体のように変幻自在の運動を行うことである。それまで単独航海の経験しかない民間商船出身の艦長たちは、これが苦手だった。彼らは体操の個人競技ではメダルをとれたが、マスゲームのような団体競技には習熟していなかった。

 夜の海は暗い。しかも敵の潜水艦を警戒して、ほとんど無灯火での航海である。狭い水道内では衝突の危険はさらに高まる。まだ訓練途上の彼らを率いる伊藤としては、決して大げさな心配ではなかった。

 伊藤は自分が不機嫌でいることに対しても不機嫌だった。船乗りが不機嫌なまま出港するのでは、それこそ験が悪いというものだ。

 しかし命令は命令である。彼はさしあたり、湾内に散っている海防艦に命令を伝えるため、通信関係に習熟しているひとりの部下を探した。

「樋口中尉はどこにおるかな」

 誰かが通信室ですと答えた。ちょうどいい。

「いや呼ばんでいい。私が行くよ」

 

 その長身の士官はまだ若かった。彫りが深く端正な顔立ちで目が鋭い。ただしそれは闘魂や殺気を放つ鋭さではなく、むしろ怜悧とも言えそうな透徹した知性の鋭さに見えた。

 海軍中尉、樋口直は海兵七十二期。井尻や竹崎の同期生である。

 樋口は伊藤からの命令を受領すると、ものの二十分もたたぬうちにこれを完了させ、ブリッジにいた伊藤のところに出向いて復命した。

「ご苦労。さすがに早いな」

 樋口はそれから、お尋ねしてもいいですかと伊藤に許しを請うた。

「内海西部への移動はリスクが大きくはありませんか」

 この程度の英語は彼らの日常語である。

「敵はきょう飛行場を叩きました。明日は当然艦隊を狙ってくるでしょうが、その第一目標は広島湾の大和でしょう。だとすると瀬戸内海西部はむしろ危険ではありませんか」

 後学のためにお尋ねしますと樋口は言った。

「今夜の出撃は夜間の航法訓練だよ」

 伊藤はまずとぼけてみせたが、すぐに思い直した。この中尉はなかなか面白い男だったな。ちょうどいい。この男ならお告げのことをどう論評するだろう。

「うん、ちょっと出ようか」

 伊藤は樋口を誘って、客船特有のプロムナードデッキに出た。

「夜間訓練とは表向きでな。樋口くん、実はな、この出港は司令のあれだ」

「あれとは何ですか」

「知ってるだろう。神様のお告げだよ」

「はい、噂では聞いておりますが」

「お告げも結構だが、大和のとばっちりを受けるのも困るなあ。え、どうだい、このお告げは」

 どうだいと聞かれても、樋口には答えようがない。

「君のような若い者には、非科学的と見えるだろう。それとも不合理というやつかな」

「はあ、それはそうですが」

 樋口は少し考えてから、今度ははっきりと言った。

「しかしお告げとやらも、見方を替えれば情報のひとつだと考えます」

(こいつはやっぱり面白い男だ)

 伊藤は、ほうと答えて続きを誘った。

「敵の通信を傍受しても、全部がぜんぶ事実とは限りません。そこで、我々はその情報を分析し、打つべき手を考えるわけですが、考えるのは人間の仕事です。今回の場合も、お告げという情報を司令が分析された結果の命令なら、つねの命令となんら変わるところはないと思いますが」

(ははあ、神様のお告げを分析したのか、うちの大将は)

 伊藤はそう考えておかしくなった。

(まさかこの男が、西岡さんの神がかりを認めるとは思わなかった)

 それもおかしかった。

「ははは、面白い。いや。ありがとう」

 樋口には、どうして礼を言われたのかが分からない。

「うん樋口中尉。今回きみは一番艦に乗るといい。司令の横で神がかりをじっくり見るんだな。ひょっとしたら何かの役に立つかもしれん」

 伊藤は最後に、案外真面目な顔をしてそう言った。

 

 樋口中尉についてしばらく書く。

 海軍兵学校を卒業した者はそれから一定期間、少尉候補生として実務の研修を受けることになっている。飛行機の搭乗員になる者は飛行学生として霞ヶ浦航空隊に配属され、それ以外の者は一部の例外を除き、連合艦隊直属の練習艦隊に配属される。七十二期卒業生の練習艦隊は、戦艦「山城」などの旧式艦で構成されていた。

 ところが樋口は、その一部の例外に属していた。彼は実戦部隊である第五艦隊に配属され、その指揮下にある第一水雷戦隊・第十八駆逐隊の駆逐艦「霞《かすみ》」に乗り組むことになる。

 彼の配置は司令承命服務といった。つまり駆逐隊司令の直接配下ということである。

 候補生は実務に習熟していない。いきなりの実戦配置は無理である。しかし少尉に任官後は直ちに将校として下士官や兵の指揮を執らなければならない。そこで艦橋にいる指揮官の傍におき、実務の全体を体感させることが教育上有効であると考えられたのだろう。

 戦艦に配属された同期生は一隻につき数十人単位で乗り組んだが、駆逐艦配属の樋口はその艦隊ただひとりの少尉候補生である。当然のことに、彼を教育すべき上官たちとの付き合いも濃くなる。そういうこともあったのだろうか、樋口はここで、その後の彼の軍歴を決定づける知遇を得る。

 第五艦隊の構成艦に「木曽」という巡洋艦があった。艦長を川合巌大佐といい、樋口が着任する半月ほど前、のちに奇跡的な大成功と呼ばれたキスカ撤退作戦に参加しているが、その後ほどなく海軍省に転出して人事局第一課長となる。

 彼と樋口が第五艦隊に同居していたのはわずか二週間ほどだったが、川合は樋口に何か期待するところがあったらしい。樋口に、海軍の高等教育機関のひとつである電測学校への入校を強く勧め、人事局に転出すると、実際にそのように手配した。

 電測学校は主にレーダーの技術者を養成する教育機関である。この方面で遅れをとっていた日本海軍が同校を設立したのは昭和十八年九月だった。樋口が兵学校を卒業した月である。

 日本海軍が最終的に敗北した原因のひとつとして、連合国の海軍に比べて、レーダーなどの電子兵器が著しく劣っていたという点が挙げられる。

 つまるところ、海戦は敵艦をより多く沈めたほうが勝ちとなる。そのためには砲弾なり魚雷なりを、敵よりもより早く、より多く、より正確に命中させればいい。その時代の人類最高のテクノロジーを駆使した近代兵器といえども、この単純な原則に支配されている。

 ところで敵にたまを当てるためには絶対に必要な条件があった。

 敵が見えていなければならないのである。

 日本海軍は兵員の見張り能力を極限まで高める訓練を施し、闇夜の海上に敵艦を目視できるほどのレベルに高めた。さらに、目標との距離を正確に把握するための光学兵器においても、世界第一級の性能を誇っていた。

 余談だが、こんにちの読者にもなじみがあるだろうブランド名なので紹介しておくと、この当時、世界の最高峰と認められる光学兵器を製造していたのが、ドイツのカール・ツアイスと、我が国の日本光学である。戦艦大和の「目」はニコンのレンズであった。

 しかしこの超人的な見張り能力も、世界最高水準の光学兵器も、それらには見えない目標を見ることのできるレーダーにはかなわない。

 合衆国海軍は、昭和十七年の後半にはレーダーによる射撃管制を実用化している。見えない敵の位置を電波で探り、見えないまま撃って、しかも最初の一弾を命中させるという、およそそれまでの常識では夢物語であった離れ業を、日本海軍を相手に演じて見せた。

 レーダーを持つ艦隊と持たぬ艦隊が戦うのである。勝敗は明らかだった。

 日本海軍は大きすぎるほどの犠牲を払って電子兵器の重要性を悟り、昭和十八年になって、初めてそのための本格的な研究教育機関を設立した。樋口が入学した電測学校とは、そういう成り立ちをもつ学校であった。

 

 昭和十九年の秋、フィリピンをめぐって台湾沖航空戦や捷一号作戦が展開されていたころ、樋口は電測学校を修了して埼玉県の大和田通信所にいた。

 ここは日本海軍最大の通信基地である。電測学校は電子兵器の運用士官を育成するのが主眼なのだが、電子兵器とは、要するに敵情を正確に分析把握するためのものである。必然的に、通信関係もまた樋口たちの守備範囲に入っていた。

 大和田通信所は、遠く洋上にある艦隊や、海外占領地に展開した各部隊への通信はもちろん、敵の通信を傍受して解読する任務も負っていた。大和田でこれを担当していたのが、合衆国で生まれた日系二世兵士たちである。

 樋口たち海軍兵学校出身者は英語の教育を受けてはいるが、ネイティブの通話を理解できるほど英会話のレベルは高くない。半端には解る。だからこそ、中途半端にしか解らないことの危険性も解る。

「ふむ。敵の言葉が解るというのは大事なことだなあ」

 樋口は妙に納得した。英語を話す敵と戦っているのだ。それなのに英語は解りませんでは、いくさにならんかもしれん、とも思った。

「校長の言うとおりだ。今の日本では、英語が解るというと、逆に白い目で見られたりする。そんなざまでは、この戦争には勝てんのだ」

 校長とは、海軍兵学校時代の校長、海軍中将井上成美のことである。

 

 井上は日本海軍きってのリベラリストとして知られた人物である。

 彼が海軍兵学校の校長だった時、兵学校の入学試験科目から英語を外そうという意見が出た。

 英語嫌いの陸軍では受験科目に英語がない。だから英語が不得手な者は陸軍士官学校を受験する。そんなことで優秀な人材が陸軍に流れてしまうのは惜しい、というのが、その表向きの理由だったらしい。

 この案は兵学校の教員会議で採択され、校長である井上はその最終的な認可を求められた。

 このとき井上は次のように答えて、明快にこの案を退けたという。

「どこの国に外国語のひとつやふたつ話せない海軍士官がいる」

 さらに続く彼の言葉に、その真骨頂が窺える。

「今日において英語が国際海事の標準言語であることは、好むと好まざるとに関わらず事実であって、事実は事実としてこれを認めざるを得ない」

 井上にとって、それは単に英語がどうというだけの問題ではなかった。その主張は、海軍というものの本質に根ざした考え方に基づいていると言っていい。

 海は世界と繋がっている。

 その海に、一国を代表する軍艦に乗って出てゆく海軍士官は、国際人でなければならない。国際人とは自国の国益を守りつつ、かつ国家間の平和を望み、その実現に寄与できる者のことである。

 井上は、英語が世界標準言語であることを好まざる者たちを知っていた。事実を事実として認めることのできない者がいることも知っていた。そういう連中がこの戦争を始め、あげくに日本を破滅に導こうとしているのではないか。

 校長時代の井上は兵学校の生徒たちに徹底した教養教育を行った。その目的は、彼の言葉でいう「真にジェントルマンライクな海軍士官」を育成することであった。

 樋口らの述懐では、兵学校では数学や幾何といった理系の勉強以外に、外国の詩を読まされたりベートーベンを聞かされたりして、まるで普通の高校に進んだようだった、という。

 むしろ「中学校のほうが軍事教練や精神教育だらけで、よほど軍隊らしかった」らしい。

 そういう一見ウエットなようでいて、じつは極めて冷徹に海軍士官のあり方を規定していた井上に育てられた樋口は、その合理的なものの考え方にも強く薫陶を受けていたようである。

 興味深い符合がある。

 終戦のとき井上は軍事参議官の職にあった。ポツダム宣言の受諾を伝達された会議の席上、誰もが悲嘆に暮れ落涙する中、井上ひとりだけは超然として、むしろ清々しい表情に見えたと海相の米内光政は伝えている。

 樋口は能登半島の七尾で終戦を迎えた。このとき同港に停泊中だった海防艦二二五号の航海長で、兵学校同期の都竹卓郎の述懐によれば「樋口だけは恐ろしく泰然としていた」といい、そのことが強く記憶に残っているということである。

 

 捷一号作戦のあと、樋口は対潜訓練隊に着任する。

 訓練隊には特に参謀というものが置かれていない。このためすべての指導官が、司令である西岡の幕僚のようなものだった。そんな事情で、樋口も呉防備戦隊司令部と合同の作戦会議に出席することになる。このとき同戦隊で清田の首席参謀を務めていたのが、樋口が兵学校時代、その主任教官だった原田耕作大佐である。

 樋口はここで、佐伯基地に日系二世の通訳士を配置する必要性を訴えた。

 司令の西岡も先任指導官の伊藤も、船乗りとしては一級のベテランだが、情報戦については何の知識も経験もない。下から上がってくる意見や要望の中で、やれ飛行機が欲しい、ふねが欲しいというものは多いが、通訳を呼んでくれというのは初めてである。少し驚いた。

「面白いのが来た」

 伊藤には男子が三人おり、次男の正敬《まさよし》が樋口と同じ海兵七十二期だった。そんな縁もあって樋口に好意的な興味を持った。

 通訳士を置く当事者となる呉防戦の原田は、この少し変わった教え子の意見を真剣に聴き、その理が通っていることに満足した。このようにして通訳士の配置はほどなく実現することになる。

 樋口は確かに変わった士官だった。

 兵学校出身者は将来の艦長や司令官職の候補と言ってよく、ほとんどの卒業生はその方面に進むことを期す。それには少尉や中尉のころから艦隊勤務や航空隊勤務を志望するのが普通であって、樋口のような情報戦のセクションを指向する者はまずいない。

 そこは冷飯食いの部門であり、落ちこぼれの吹き溜まりと見る者さえいたという。情報戦についての日本海軍の認識はその程度であったと言ってもいい。樋口は、いわば好きこのんで、冷飯を食う道を選んだようなものである。

 情報担当士官のことを、英米の海軍ではインテリジェント・オフィサーと呼ぶ。

 このインテリ中尉を妙に気に入った上級士官がいた。このひとの場合も、あるいは日本海軍きってのインテリであると言えるかもしれない。

 視察のために佐伯基地を訪れていた海軍大佐、高松宮宣仁親王である。親王はたまたま上陸していた樋口を捕まえると、にこりともせずに夕食に誘った。

「樋口くん。ぼくはまだフグチリを食べたことがないんだが、ひとつ食わせてくれないか」

 昭和十九年の、年の瀬も押し詰まった十二月二十九日のことであった。

 

 この当時、皇族の男子には陸軍士官学校または海軍兵学校に入学し、士官として軍務に就く義務があった。これは憲法に規定されていたわけではなく、明治天皇が定めた方針であったと伝えられている。

 宣仁親王は大正天皇の第三皇子で、大正十三年に少尉候補生に任官された。海兵五十二期で、同期には源田実や、真珠湾攻撃で攻撃隊の総隊長を務めた淵田美津雄がいる。

 このころの親王は横須賀砲術学校の教頭兼研究部長という職にあり、佐伯基地への来訪は、海防艦によるレーダー射撃の実験に立ち会うためであった。これは樋口の専門分野であるから、当然ながら親王の滞在中、樋口はこの宮様に最も近いところで付き合うことになった。

 実験はまず成功裡に終了し、親王はこの二十九日に飛行機で帰京することになっていたが、離陸してまもなく吹雪に遭遇してしまい、飛行機は佐伯に引き返してしまった。親王が佐伯に滞在する際の宿舎は海軍の公設クラブである水交社が通例となっていたから、親王はその日もそこへ泊まった。

 筆者は「高松宮日記」を参考に、この稿を書いている。

 これは親王自身の筆になるわたくしの日記で、記述の内容はほとんどが彼の周辺でおこった出来事に限られているが、大正時代後期から終戦後にかけての日本を知る上で、まず第一級の歴史史料と言っていいだろう。

 日記によると、この日の親王は佐伯基地に戻ったあと「時間半端ナノデ司令部デ理髪シテ」、そのあと水交社に戻り、「フク」を食べたことになっている。フクとはフグのことである。

 フグは大阪などでは「鉄砲」などという。中ると死ぬというのがその由来だそうだが、逆に「なかなか簡単に中るものでもない」とも読めるあたりが面白い。

 これが主に九州あたりでは、ふぐという音韻を嫌ってのことか、濁らず「ふく」と呼ばれる。するめをアタリメ、はしをお手元と呼ぶのと同様の、一種の縁起かつぎなのかもしれない。

 ところが東京では、フグはふぐである。日記はわざと九州での呼称を用い、知らない者にはフグを食べたと分からないようにしている。という気がしないでもない。

 

「聞くところによるとたいそう美味いものらしいが、水交社では刺身しか出さんのだ」

 日記によれば、確かにその三日前に、親王は水交社で「サシミ」を召し上がっている。

「フク」モッテコイト云ッタラ「サシミ」モッテキタ。という記述があって、明らかに親王の不満が伺える。

(そりゃそうだろう)

 樋口は即座に理解した。なにしろ頭の回転が速い男である。

 フグには毒がある。もちろんきちんと調理すれば安全なのだが、なにも好きこのんで宮様にフグを食わせるような酔狂はおらんだろう。万一あたりでもされたら切腹ものだ。

 日記によれば、水交社で乞われるままに刺身を出した従業員は、あとで親王のお付き武官に呼ばれてこっぴどく叱られてしまっている。そういうものらしい。

「では、今夜おともしましょう」

 しかし樋口は、いとも簡単に親王の依頼を引き受けて、船頭町の料理屋に誘った。日記には樋口の名は一切出てこないし、町場の店に出かけたことにもまったく触れられていない。

 この日は予定外の滞在だったため、親王は思いがけない自由な時間を過ごすことができた。こういう時には、人はえてして妙な遊び心を持つものである。

 樋口は樋口で、もともと合理的なものの考え方をする男だから、フグ中毒についても統計上なんの問題もないという自信があった。彼らはしょっちゅう食べているのだ。

(だいいち宮様だからって、あれを食ってはいかん、これを飲んではならぬでは、お気の毒というものだ)

 樋口は、親王がフグなどという下世話なものを食べたいと言ったのも気に入った。

 今では滅多に庶民の口には入らないフグだが、このころはちょっと事情が違った。この魚は毒をもっているせいか食料統制の対象外だったのである。網にかかったぶんだけすべて自由に流通させてよかった。 

 料理屋の方でも材料不足で商売が成立たなくなっていたころだから、統制外のフグは救いの神だった。そんな事情で樋口たちもよくこれを食った。別にぜいたくをしていたわけではない。フグしか食うものがなかったのである。

 フグチリは切身やアラを白湯《しらゆ》で煮る鍋料理である。昆布でダシをとる場合もある。佐伯では、生醤油にダイダイの果汁を加えたポン酢で食べるのが一般的だが、一緒に煮た肝を生醤油に溶いた、いわゆる肝ダレで食べるのが通なのだという。

「おいしいね。いや、実においしい」

 親王は何度もそう言ってこの禁断の美味を堪能したが、先に述べた通り、日記にその真相は書き残されていない。ただその日の記述の最後に、親王は次のようにお書きになっている。

「今度ハ御附武官モ叱ラナカッタラウ」

 日記を読んだだけでは、これが宮様の、忍び笑いを含んだジョークであることはわからない。

 

 もっとも樋口はとっちめられた。翌日、上官から宮様をどちらにご案内したのかと問われ、よせばいいのに本当のことを言った。とっちめられたが、樋口はしれっとしている。

「お毒見はしましたよ」

「ばかものッ。貴様、自分が何をしたか解っておるのか」

「私は絶対安全だと確信してご案内申し上げたのです。そこまでおっしゃるのなら、ご自分で召し上がって、危険な食い物かどうか確かめてください」

 もしあなたが中ったら私も腹を切りましょうと言った。

 この上官の姓名は分かっているが、このあとのことがあるのでここは何某大尉としておく。売り言葉に買い言葉で、ではその店に連れて行けということになった。

 店は開いていたが、電力節約と灯火管制で店内は薄暗い。大尉の目には、それもどことなく胡散臭げに思えたかもしれない。

「親父さん、昨日俺たちが食ったのと同じフグはあるか。昨日と同じものが食いたいんだ」

 店の親父は、前日の長身の海軍大佐が宮様であることを知らない。

「ちょうど正月前じゃけな、ようけ仕入れちょりますよ」

「うんうん。そうだ、チリ鍋だ。肝も忘れずにな」

「ははあ、中尉さん、よほど肝ダレが気に入ったみたいじゃな」

 親父は機嫌がいいが、大尉のほうは顔面蒼白になっている。よりによって肝を食わせたのか。もとい、お召し上がりいただいたのか。いや、そうじゃない。俺にも肝を食わせるつもりか。

「親父、そ、その肝だがな」

「へえ」

「中らんか」

「中らんなあ」

「なぜそういい切れる」

「その男前の中尉さんが生き証人じゃ。それから昨日の背の高い大佐さんもじゃな。はあて、あん人は防備隊の将校さんと違うんかの」

(あん人とは何事だ) 

「そう言えば見たようなお顔じゃったが、中尉さん、あの大佐さんは誰じゃったかな」

 樋口はにやにやしている。大尉だけが声を大きくする。

「ああ、もういい。もういいから早く食わせろ」

「慌てさせたらいけん。包丁がすべって、それこそ中るがよ」

 などと言っているうちに用意が整い、樋口が肝ダレを作って大尉に勧めた。大尉は碗の中の肝ダレで汚れた身を気味悪そうに見ていたが、意を決したように口の中に放り込んだ。

 それからが騒動であった。

 何某大尉はしばらくすると気分が悪いと言い始め、やがて泡を吹いて座ったまま畳に倒れた。樋口も親父も仰天した。まさかここで本当に中るとは話が出来すぎている。

 しかし冗談ではすまない。フグ中毒は生命にかかわる。親父は店を飛び出して、近所に住む医者を呼びに行った。その間、樋口は大尉の口に指をつっこみ、腹の中のものを吐かせようとしたが、大尉が小刻みに顎を振るわせるので上手くいかない。

「こいつは本当に切腹かもな」

 樋口は観念した。ところが、それは結局笑い話になった。

 駆けつけた医者は、大尉の脈を診て瞳孔を確かめ、体温を触り、そのほか通り一遍の診察をすませると、

「ただのてんかんじゃ」

 よほどフグの肝が怖かったんじゃろう、といい捨てた。

「精神が緊張の極に達すると、こうなる衆がおる。なるほどのう」

 肝をつぶしたとはこのことよ。そう言って、しゅしゅしゅと妙な笑い声を立てた。

 やがて正気に返った大尉だったが、さすがに格好がつかないらしく、二度とはフグのことを言わなかった。樋口への罰は、彼の指に残った大尉の歯形だけですんだ。

 

 昭和二十年三月十九日に戻る。

 夜が明けたころ、西岡が指揮する対潜訓練隊は伊予灘の広い海面に展開して、訓練を始めるための陣形を整えつつあった。

 樋口は伊藤に言われたとおり西岡が座乗する一番艦に配乗され、彼の専門であるレーダーの運用を指導するため電測室にいた。

「おいでなすった」

 そのレーダーが南から接近する編隊を捉えた。このころの日本の対空レーダーは、ある方向から飛行機が飛んでくるのが分かる、という程度の代物で、その数はもちろん、機種も、敵か味方かもまったくわからない。

「敵でしょうか」

 レーダーにとりついている水兵が、スコープを凝視したまま興奮した口調で樋口に聞いた。

「どちらでもいい。方位をできるだけ正確に測れ。以後、逐次艦橋に報告せよ」

 樋口はそれだけ言うと電測室を出た。いずれ敵には決まっているだろうが、レーダーがその影を捉えた以上、艦隊は対応を迫られる。樋口は西岡に詳細を報告するため艦橋に上がった。

「反応が大きいです。B29かもしれません」

「各艦の距離をとるよう信号してくれ」

 西岡は艦隊を広範囲に展開させた。被害の局限態勢をとるためである。敵が大型爆撃機なら一度に多数の爆弾をばらまくから、密集隊形をとっていると同時被弾の危険率が高まる上に、回避運動がやりにくい。各艦は徐々に距離を開いていく。

 やがてその編隊は双眼鏡で目視できるところまで近づいてきた。見張り員が叫ぶ。

「敵艦載機、大編隊ッ」

「オ、はずれたな」

 西岡が呟くように言った。まさしく敵機動部隊の艦載機群である。

 米軍の記録によればその数およそ一六〇機。確かに大編隊だが、それはこの日ミッチャーが放った矢の、ごく一部にすぎなかった。

 艦載機による近接攻撃に対応するためには、各艦が相互に掩護射撃を行える陣形をとらねばならない。西岡は全艦に再集合を命じた。

 樋口は西岡の斜め後ろに控えていた。敵機はすでに目の前だ。この段階に至るとレーダーの出番はない。彼は少し余裕を持って空を見上げることができた。

たしかに大編隊だな。反応が大きかったのはこのためか)

 

 

 樋口は自分の情報分析が外れたことを素直に認めたが、これは今後のデータとして活かせるから無駄にはならない。それより、外れたといえば西岡の神様のお告げのほうである。

(そっちは当たらぬも八卦というやつだな。まあそんなもんだろう)

 艦隊にとってはさらにありがたくないことに、この日の敵は戦闘機のほかに急降下爆撃機を伴っていた。その腹に抱かれた爆弾は、海防艦など一発で撃沈できる破壊力を有している。

(命中率一割以下としても、艦隊の半数は撃沈される)

 この男はこの状況でもそんな計算をしている。樋口は戦死を覚悟したが、腹は妙に据わっていた。

 西岡は艦長に向かって、いつもの調子で話している。

「艦載機とやり合うのは初めてだね。早撃ちせんように気をつけることだ。旗艦が撃ち出すと全艦がそれに倣ってしまうからね、うん、早撃ちはいかん」

「はい」と答えた艦長の声が強張っている。

 ところが敵編隊が接近すると、その針路が艦隊の正面から微妙にずれているのがわかった。

 艦橋では、敵は徳山から呉方面に向かっていると判断した。

(はてな、こいつはもしかすると大当たりと言うやつか)

 樋口がその考えを訂正したとおり神様のお告げは当たったようである。敵編隊は小物に目もくれず、広島湾の大和以下、連合艦隊の残存艦艇に襲い掛かった。

 猛烈な対空射撃が侵入者を迎えた。

 対空機銃の数を比べたら大和一隻でも海防艦十隻に相当する。さらに日本の戦艦や巡洋艦は主砲からも対空砲弾を発射できた。

 これは三式弾と呼ばれた秘密兵器で、空中で炸裂して数百の焼夷弾子を飛散させ、広範囲の目標に打撃を与えることができるとされている。対潜訓練隊からさほど離れていない空にも、その三式弾の花火がいくつかあがった。

「対空戦闘配置そのまま。敵から目を離さんようにな」

 西岡が言った。彼らも高みの見物というわけではなかった。

 対潜訓練隊の前方上空、高度三千ほどには戦闘機の編隊が遊弋している。彼らは爆撃機隊が大和以下を攻撃しているあいだ、その空域を制圧しておくのが任務なのだろう。

 目の前で悠々と飛ばれるのには腹が立つが、対空機銃の射程外である。どうしようもない。

 さらに、それらの敵機が矛先をこちらに向ければ、爆弾を持たない戦闘機であっても油断はできない。猛烈な機銃掃射は必ず多数の乗組員を殺傷するだろう。各海防艦の機銃員たちは、弾が届かない目標に照準を合わせたまま、息を呑んで敵編隊を見つめていた。

 突然見張り員が叫ぶ声が聞こえた。それは思いもかけない報告だった。

「味方戦闘機、突撃します」

 語尾が「まあす」と延びたその声は、弾んでいるように聞こえた。艦橋では西岡と操舵手を除く誰もが窓辺に寄り、上空を見上げた。

 十数機の戦闘機が急降下してくる。それは見慣れた零戦とは違う逞しい機影だった。

 その空中戦を戦ったのは、松山に基地を置く第三四三航空隊の紫電だったらしい。

 三四三空は別名を剣部隊といい、新鋭機「紫電」と「紫電改」で編成された防空戦闘機隊で、米艦載機群に対抗する海軍の切り札として期待されていた。

 このとき樋口たちの上空に駆けつけた紫電隊はその一部にすぎなかったが、彼らは果敢にも、十倍に近い数の敵に挑んだのである。

 紫電隊は敵のはるか上空から急降下をかけ、すれ違いざまの銃撃でたちまち数機を撃墜し、これをもう一度繰り返したあと、散開した敵戦闘機との格闘戦に移った。

 格闘戦をドッグ・ファイトという。互いに相手の尻尾に食いつこうと円運動を行うさまが、犬の喧嘩に似ているからだという。したがって、戦いは組んずほぐれつの乱戦状態となる。

 樋口はそこで芸当を見た。

 六、七機の紫電が見事な編隊を組んだまま低空に降下してきたのである。この修羅場でよくそんな真似ができるものだと感心したのも束の間、彼らの背後に二機のグラマンが見えた。

 紫電は完全に敵の銃口に背中を曝していた。後ろに食いつかれていることを知らないのかと樋口は息を呑んだ。やがて十数本の火箭が紫電を射抜くだろう。

 グラマンが発砲したのと、紫電隊が左右に散開したのが同時だった。紫電はすでにほとんど海面まで降下していたため、それを猛追してきたグラマンはその重い機体を引き起こしきれず、二機とも海に激突した。

(なんと、たいしたものだな)

 樋口が腹の中で感嘆しているあいだに、紫電の編隊は再び乱戦の中に飛び込んで行った。

 

 戦闘終了後、西岡は指揮下の全艦に命じ、洋上に墜落した友軍機の生存者を捜索させた。

 樋口にはあの時の紫電の搭乗員たちが気になっていた。あのあと彼らがどのような空中戦を繰り広げたのか、艦橋からそれを見届けることはできなかった。

 樋口が見たのは、ただ両軍の機体が次々に被弾して墜落していく姿だけである。

 落ちていくのが敵味方どちらの機体なのかは簡単に判別できた。紫電は黒煙をなびかせて、時には炎上しながら墜落するが、米軍機はほとんど煙も見せずに落ちるのである。

 やがて上空から銃撃の音が消え、編隊を組み直した米軍機が南の空に去ると、海上には幾筋もの黒煙が立ち昇っていた。それはまるで紫電の墓標のように見えたという。

(あれほどの腕になるまでには、並大抵のことではなかったろうに)

 神技にさえ思えたその技術が、わずか数分後には海に沈んだのか。樋口の胸にはそのことが暗い影を落としている。

 彼らは僅か一個小隊の十機ほどで十倍の敵に挑んだ。数の上での圧倒的な不利は明白だった。格闘戦になればいずれ押し包まれてしまう。ならば無理をせず、最初の一撃を加えたら、敵が態勢を立て直す前に離脱するという手もあったのだ。しかし彼らはそうしなかった。

(我々を守ろうとしたのだろうか)

 事実、対潜訓練隊が無事でいるのは彼らのおかげなのだ。もし敵が空中戦で燃料を消耗していなければ、帰りがけの駄賃とばかりに、こちらに襲い掛かっていたに違いない。

 樋口は、せめて彼らが不時着水に成功していてくれと祈り、波間にその姿を探し求めたが、それはついに見つからなかった。

 不思議だったのは、敵機の搭乗員の遺体だけは五体ほども発見できたことである。

 さらに奇妙なことに、その中に女の遺体があった。それはうつ伏せの状態で浮かんでおり、長い金髪が波に漂って見えたという。

「敵さんには女のパイロットがおるんか」

 驚いた水兵のひとりがそう言った。

 この当時の米海軍に女性の搭乗員がいたとは思えない。長髪の男性というのも考えにくい。しかし樋口たちは確かにそれを見た。たとえそれが幻であったとしても、その時、その戦場にいた彼らにしか見ることのできない幻だった。その幻まで否定することは誰にもできない。

 西岡の神がかりはあたった。対潜訓練隊はまったく被害を受けることなく、この翌々日には全艦佐伯湾に帰投した。

 

 三月十八日と十九日の空襲は、戦争もいよいよここまで来たかという感を人びとに与えた。

 長距離戦略爆撃機B29による本土空襲は、すでに前年の終わりごろから始まってはいたが、その敵機は遠い中国やマリアナ諸島から飛んでくるのであって、文字どおり飛道具に撃たれているようなものだった。

 ところが航続距離の短い艦載機の空襲を受けたということは、敵艦隊の本土接近を許したということである。それは本丸の内庭まで敵兵が侵入したのに等しかった。人びとは、敵を迎え撃つべき連合艦隊がすでに壊滅状態にあることを、その事実をもって思い知らされた。

 もちろん、日本海軍もただ黙って撃たれていたわけではない。

 ミッチャー提督の機動部隊に対しては、鹿児島の鹿屋を基地とする第五航空艦隊が、全力を挙げて反撃に出た。第五航空艦隊を略して五航艦と呼ぶ。

 またしても言葉がややこしい。

 航空艦隊と名乗るからには、空母を有する機動部隊のように聞こえるが、五航艦の場合は、実はまったく最初から、陸上基地の航空隊集団として編制された戦力単位である。

 五航艦はおよそ二百機でミッチャー艦隊を攻撃し、そのうちの三隻の空母に命中弾もしくは有効な至近弾を得た。

 イスレイ少尉機の母艦である「イントレピッド」もその一隻であったが、被弾した三隻とも的確なダメージコントロールによって戦闘行動に支障をきたさなかった。

 日本軍の損害は約二百五十機。出撃機数より損害が多いのは、陸上基地で破壊されたものや基地上空での防空戦闘を受け持ち、空中戦で撃墜されたものを含むからである。

 米艦隊の空中防御態勢は、台湾の時と同様に鉄壁だった。

 ミッチャーはこの十八日の戦闘で日本軍の航空戦力が相当に弱体化したと判断し、翌日には連合艦隊の根拠地である瀬戸内海に槍先を伸ばす。

 広島の呉軍港には、燃料不足で動けずにいた、連合艦隊の残存戦力が相当数在泊していた。ところがこの時の空襲部隊はさほどの戦果を挙げていない。駆逐艦以上の戦闘艦艇で沈没した艦は一隻もなく、被弾した艦艇の損傷も軽微であった。前述の三四三空や、岩国から上がった零戦隊の奮戦もこれに寄与していると考えていい。

 それよりも米機動部隊のほうが、より大きな災厄に見舞われて深刻な損害を蒙っていた。

 ミッチャーは図に乗りすぎたのかもしれない。

 彼は室戸岬の沖八十キロまで艦隊を接近させた。航続距離が短い艦載機を瀬戸内海まで往復させるためには、艦隊も日本本土に近づかなければならなかった。それを狙って襲いかかった日本機が空母「フランクリン」を大破させ、そのほか二隻の空母に戦線離脱を強いる大損害を与えた。

 これらの被害は特攻機によるものではなく、五航艦の通常攻撃によって生じたものである。ミッチャーの行動は大胆ともいえるが、少し敵を甘く見すぎたきらいがある。

 この一連の戦いは九州沖航空戦と名づけられた。結果を検証すると、攻防両軍ともに多くの犠牲を出しながら、どちらも決定的な勝利を得ないで終わったと言える。

 ミッチャーにとっては「沖縄攻略に先立ってカミカゼの脅威を排除する」という戦略目標を、とりあえず達成したというほどのことでしかなかった。この空襲の効果は、相当ではあったが持続性において弱かった。

 米軍はこの直後に沖縄攻略戦を開始する。その初期段階では、日本海軍の反撃能力は確かに弱体化しており、彼らは抵抗らしい抵抗を受けずに、沖縄本島全土に悠々と艦砲射撃を加えることができた。

 しかしその後、本格的な上陸作戦が開始された四月一日のころになると、態勢を立て直した日本海軍は、それまで以上の特攻機を送り出して米軍を襲い始める。米艦隊はふたたび執拗なカミカゼの襲撃に悩まされ、実質的な損害も増やしていった。

 特攻作戦による戦果を、戦果と呼んで良いものならば、それは絶息寸前の日本海軍が挙げた死物狂いの戦果と呼んで良かったが、それは皮肉な結果として、さらに苛酷な運命に、佐伯と佐伯の人々を導くことになる。しかしそれはまた次章の話としたい。

 

 ここからは、ミッチャーの呉軍港空襲によって惹き起こされた、今までほとんど戦史として語られていいない、小さな海戦について語ってみたい。

 先に書いたとおり、瀬戸内海にあった連合艦隊の残存戦力は、燃料である重油の不足のためその行動を著しく制限されていた。

 制限されているどころではない。

 南方資源地帯からの石油燃料の輸送はまったく途絶して国内の備蓄は底をつきかけている。いまでは基地のタンクに残っている油だけが最後の財産だ。滅多なことでは使えない。

 三月十九日の呉軍港空襲での艦艇被害は少なかった。生き残った各艦は、それまでさんざん味わった空襲の経験を活かし、行動可能水面が狭小な瀬戸内海でも、敵機の雷爆撃を効果的に回避して、その被害を最小限に押さえることに成功している。

 だが、それも腹に燃料があってのことであった。

 これからも米軍の空襲が続き、そのたびに回避運動で対応するなら、遠からず重油タンクは空になる。そうなれば据え物斬りだ。艦艇は爆弾や魚雷を避けることもできず、なぶり殺しに合うしかない。

 さらに、もし米軍が瀬戸内海の東西両端を機雷で封鎖したらどうなるか。

 それは爆撃機からばらまくだけでいい。B29の数機があればこと足りる簡単な作業である。しかしそれだけで、連合艦隊は瓶詰めにされたのも同然となる。

 まだ燃料があるうちに、敵が機雷封鎖に出る前に、というあせりが背中を押したのだろうか連合艦隊司令部は、大和の佐世保回航を決定する。

 

 この時点では、大和の沖縄特攻はまだ発令されていない。

 米軍の沖縄攻略作戦はすでに開始されていたが、これに対抗する海軍の作戦は、特攻を含む航空攻撃が主体となる方針が決まっていた。大和を含む水上艦隊は、有体に書けば使いみちが決まらぬままであった。

 出撃させるとすれば行く先は沖縄しかありえない。しかし行けば間違いなく撃沈されるのが分かっている。そこで連合艦隊司令部は、大和をいわばオトリとして使おうと考えた。

 大和を中心とする第一遊撃部隊を、沖縄により近い地点まで進出させて、米海軍を牽制するというのである。

 日本主力艦隊の出撃が近いという情報が伝われば、米艦隊も迎撃態勢をとらねばならない。そのためには沖縄へ向けている艦隊戦力を幾分か割かねばならず、それだけでも沖縄守備軍の負担は減るだろうという計算である。

 佐世保は長崎県の北部にあって外海に面し、九州最大の軍港を有しており、いざ沖縄方面へ出陣となった場合、瀬戸内海から出るよりはずっと近い。

 もし敵が積極的に大和を撃とうと考えるなら、機動部隊を九州の南岸近くまで接近させねばならない。そうなれば思う壺である。海軍はその航空戦力を九州方面に集中させつつあるから沖縄まで出かけていく場合の数倍の密度をもって、ミッチャーを叩くことができる。

 さらに航空戦力が集中しているということは、その地区の防空能力も高いことを意味する。大和を守りながら、しかも敵を叩くことができるではないか。

 以上が、大和の佐世保回航を決定した理由らしい。いささかこちらに都合が良すぎる計算、という気もするが、少なくとも、やみくもに大和を沖縄に突っ込ませるよりは、健全な発想と言えるかもしれない。それはともかく問題点は、呉から佐世保までのコースであった。

 本州と九州を隔てる関門海峡を通過する北回りのコースが距離的にも近く、敵からは遠い。しかし関門海峡は狭小なうえに潮流が複雑で、艦船が航行する水路がかなり限定されており、それを見越した米軍がすでに機雷をばらまいていた。このため大和は、豊後水道を南に抜け、九州の南岸をぐるりと回って北上するという、大回りのコースをとることになった。

 豊後水道を通過する艦隊の援護は、いつものように呉防備戦隊の任務である。

 

 三月二十七日、清田は佐伯防備隊庁舎の会議室で、数名の将校と向き合っていた。

 清田の隣には対潜訓練隊司令の西岡がおり、向かい合った将校たちの中には、先任指導官の伊藤がいた。

「すでに承知のとおり、大和は明日、豊後水道を出て佐世保に回航します」

 清田はそう切り出した。

「ついては、君たちのふねで第三特別掃蕩隊を編制し、伊藤くんの指揮の下、大和の露払いを務めてもらうことになりました。ご苦労ですが、しっかりと頼みます」

 伊藤の横に並んだ将校たちはみな少佐の階級章をつけていたが、どうも場慣れしていないというか、緊張気味に見えた。

 彼らは全員が対潜訓練隊に所属の、新造の海防艦の艦長だった。

 連合艦隊司令部は大和の佐世保回航にあたり、その針路哨戒と敵潜水艦の排除を呉鎮守府に要請し、鎮守府司令部はこれを呉防備戦隊に命令した。

 清田はこれに応える形で、彼の直接指揮下にある特設駆潜艇などをもって対潜掃蕩隊を編成したが、それとは別に対潜訓練隊から四隻の海防艦を選抜し、臨時の部隊を組んだ。

 対潜訓練隊は、制度上は海上護衛総司令部に属するが、この時は軍隊区分と呼ばれる戦時の部隊編成で、呉防備戦隊の指揮下にあった。有力な対潜艦艇を自前で持たない清田にとって、対潜訓練隊の海防艦は、訓練途上とはいえ貴重な戦力となるだろう。

 いま彼の目の前にいる艦長たちは、それらの海防艦の新米艦長たちである。つまり指導官の伊藤は「教え子」たちを率いて実戦に出て行くわけである。

 清田が続けた。

「作戦の詳細についてはすでに西岡司令から達せられていることと思うが、なにぶん諸君には初陣であるから、何より落ち着いて操艦するように。以上だ」

 清田は短くまとめると、伊藤に視線を投げた。

「お任せいただきます」

 伊藤は微笑をもって応えた。笑うと、大黒天のような温かみのある顔が、その温度をさらに増した。

 伊藤は戦前まで巡洋艦や戦艦の航海長などを歴任し、対米開戦は工作艦「明石」艦長として迎えた。昭和十七年秋からは給油艦「鶴見」の艦長を務め、十九年十月に佐伯の対潜訓練隊に着任した。

 給油艦は単なるタンカーではなく、戦闘艦隊に随伴して行動し、停泊中はもちろん洋上でも燃料補給を行える、いわば海上を航行するガソリンスタンドである。ただし戦闘艦艇としての性能や武装はほとんどないに等しく、その点では民間船とあまり変わりがなかった。

 艦の任務の性格上、伊藤は艦長在任中、それこそ休む暇もなく、激戦の太平洋や南シナ海を走り回らなければならなかった。

 そこは最前線であった。何度も空襲を受け、魚雷の回避運動も散々やった。防御装甲を一切持たない給油艦は、爆弾か魚雷を一発もらえばまず沈没である。敵を撃つ力はなく、ただ敵に撃たれぬことだけを考えねばならない。とにかく生き残ることが、このふねにとっての勝利と言えた。伊藤はそういう戦いを勝ち抜いてきたことになる。

(続く)

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