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6章 蜜柑一枝

正月が来た。

 文太郎の家では雑煮を食べることができた。餅を搗くもち米は配給で手に入った。配給量は限られていたから、たらふく食えるというには程遠い数であったが、なにしろ餅はあった。

 雑煮は味噌仕立てである。ただし、この土地、あるいはこの家の、古来の風習としてそうであったのかどうかはわからない。

 雑煮を味噌仕立てにする習慣は関西に多い。佐伯には瀬戸内海流通や、藩主毛利氏の出自の影響で関西の文化もけっこう流れ込んでいるから、もしかするともともと味噌仕立てが本流であったのかもしれないが、いずれにせよこの当時の山本家にとっては、それが唯一可能な調理方法だった。

 これの対極にある雑煮の味付けといえば澄ましだが、それを作ろうと思えば、昆布や鰹節といったダシが必要になる。これがなかなか手に入らない。

 しかしイリコならたっぷりある。そしてイリコのダシと相性がいいのはやはり味噌である。この家の味噌は麦の白味噌だった。徳が作ったものである。

 餅以外の具は白菜だけである。味噌汁の中に白菜が入っているというよりは、葉と葉の間に味噌汁がある、というほどにたっぷりと入っている。餅は焼かずに茹でただけで加えるから、ねっとりと溶けかけた餅の表面に白菜が貼りつく。野暮と言うならこれ以上野暮な雑煮もないかもしれない。しかし、これはこれで旨い。

 この家の正月は朝から祝い料理が並ぶ。

 手作りの蒲鉾が出た。

 本来ならエソの身で作るのだが、白身の魚ならほとんど何でも使う。ここではキスや小型のフカがけっこう獲れた。これらも蒲鉾に向いている。

 時にはハモやイトヨリのような上物や、ヤガラなどという妙な魚も網にかかるが、そういう魚は大方一尾二尾の半端にしか揃わない。それをいちいち別の料理に仕立ててはいられない。まとめて蒲鉾にしてしまう。すり鉢で身を擂《す》って練り上げ、木の型にはめて蒸し上げるまで、すべて昨夜の内に徳と恵美子が丹精したものである。

 白身魚の中でもヒメジだけは別格である。大入島ではヒメイチと呼ばれるこの魚は、淡白で旨味に乏しく、普段ならさつま汁にされるのが相場なのだが、祝いの膳にふさわしい鮮やかな桃色をしているおかげで、正月だけは尾かしら待遇である。本来は昆布巻きにされる魚だが、昆布が足りないために、鮮やかなその桃色を露出させて地味な食卓を彩っていた。

 おせちに欠かせない田作りもたっぷりある。くどいようだがイリコには不自由していない。醤油は自家製のものがあり、さらにとっておきの合成甘味料サッカリンも使われる。それらを使ってイリコを甘辛く煎り付けたのが田作りだ。本尊のイリコより、その身にまとわりついた甘い醤油のべたつきが何よりのご馳走であった。

 塩煮だが真子の煮付けもある。数の子の代わりというわけかもしれない。するめもあるし、山のものなら干椎茸の煮しめがあった。ホウタレの唐人干しもたっぷり焼かれた。

 日本中が食糧難にあえいでいた昭和二十年の正月にして、この献立は法外である。

 この正月、全国で餅の入った雑煮を食べられた世帯は全体の何割何分であった、などという統計が残っていれば興味深いのだが、むろんそういうものはない。

 ただ庶民の台所事情の全国平均がかなり窮迫していたことは間違いなく、史料をめくると、里芋をつぶして餅のようにしたもので雑煮にしたとか、小麦粉を練った、いわゆるスイトンで代用したなどという証言が次から次に出てくる。それらに比べれば、この家ははるかに幸福であったと言うしかない。

 これはまったく、大入島という、活け簀の中に家が浮いているような環境だからこそ可能であったのだが、なにしろ家族に飯を食わせることについては、文太郎は徹底していた。

 日ごろの献立は貧しかったが、彼らは少なくとも飢えたことだけはなかった。その代わり、それ以外のあらゆる貧乏を、親子がともに、食うために耐えた。

 その忍耐は生きるためにあった。

 親は子を育てるために生き、子はやがて、国家か郷土か、世の中か、あるいは家族のために生きねばならなかった。そこには、自分自身のために生きるという価値観はなかった。彼らは自分以外のもののために生きねばならず、生きるために食べねばならず、食べるために貧困を耐えねばならなかった。

 正月は年に一度だけたらふくご馳走を食べて良い日である。それはそこから始まる一年分のほとんど貧しさに起因する苦労を、耐え忍ぶ覚悟をするための儀式だった。この幸福な正月の膳にはそういう意味が込められている。

 

 そういう幸福な朝食のあと、家族はそろって浦のやしろに参った。

 やしろは守後浦のほとんど南端にある神社で、この集落の、多くの家の氏神である。

 海に面した山肌に少しばかりの平らな場所があって、狭く急な石段をそこまで登り終えると、そこにひと間かぎりのつましい拝殿が建っている。敷地にあるのは一対の狛犬と拝殿だけだがそこに立てば対岸の佐伯市が見えて気分がいい。

 大入島は漁業の島である。漁船も多い。船乗りというものはおそらく日本人の中でもっとも信心深い人々であり、その信仰は宗教というより、もっと原初的ないのりの色彩が濃いように思う。彼らは自然の恩恵と脅威の両方を身に沁みて知っているからであろう。たとえば彼らが乗る小さな漁船の中にも、必ず神棚があったりする。

 そういう人々によってこの神社は祭られていた。文太郎の本業は漁師ではない。それでも、それこそ神棚など置く場もない小船で漁に出ることもある。桂佑の歳になれば知り合いの漁の手伝いで沖に出ることもある。当然、海の神に安全と大漁を祈願する。

 しかしそれでは終わらない。本業は行商である。食う上ではむしろ自前の畑での、野良仕事への依存度が大きい。そこで、商売繁盛と、行商の旅の安全と、麦の豊作と、野菜の出来と、蜜柑の実の、つきの良さを祈願する。

 それから女子挺身隊で博多に行っている香代子と、徳の腹の中にいる次の子の無事を祈り、さらに今ここにいる家族の健康と成長を祈る。

 まだ続く。先祖への感謝はふつう墓や仏壇に対してするものなのだろうが、神前にもそれを念じ、加えて、この島を守ってきた、山本家以外のすべての先祖に対して感謝を捧げる。

 それらが終わってからついでのように戦勝祈願をする。文太郎は当然のことに、戦争に勝つことを願ってはいたが、それはここで祈願するような筋合いのものではない気がしていた。

 そういうことは、明治神宮あたりの立派な神社で、何年戦っても勝てないでいる大将や大臣どもが祈願すればいい。この氏神様に自分らがそれを頼むのは筋が違うではないか。神様にも荷が重かろうし、いい迷惑であろう。

 自前の願いはさんざん祈願しておいて、神様の荷が重いもないものだが本音である。

 家族が健康ならそれで十分だという。それはアナーキズムではなく個人主義でもない。

 健康であればこそ国家や郷土のために尽くせるのだ。自分たちにできるのはそこまでだし、それだけは必ずなしとげるという諦観と使命感の両方が、文太郎の祈りの根底にあった。

 桂祐と亮は戦勝祈願を第一にした。それは心にある願いの優先順位のままではなかったが、そうせねばならないと思った。ただし、それが純粋な愛国心に拠るものであったか、となると疑わしい。彼らは父母や家の困窮が戦争を原因としていることを知っていた。

「お父ゥやお母ァどもが苦労しちょるんはみんなアメリカのせいです。早うキャンと泣かせて降参させてください」

 九歳の亮であれば、まずこの程度の願いであった。背を伸ばして手を合わせる二人の少年の足元は、真冬だというのに裸足にワラジだった。

 家族が初詣をすませて帰りの石段を降りかけた時、飛行機の音がした。

 腹が大きくなっていた徳は、恵美子に手を添えられてまだ最上段にいた。文太郎はのりえの手をとり、慶子を抱いてそのあとに続いていたが、桂祐と亮は、もうすでに石段の中ほどまで駆け下りていた。そこからは、視界をさえぎる木立がないため、上の境内よりむしろ見通しが利いた。

 桂祐の目に光るものが写った。大きな飛行機であった。四すじの飛行機雲を引いて、空中に停止しているのではないかと思えるほどゆっくり飛んでいる。

「ありゃあ、アメリカの飛行機じゃねえか」

 その時彼らは、生まれて初めて実際に敵国の飛行機を見た。それは米空軍の新鋭戦略爆撃機B29であった。ゆっくり飛んでいると見えたのは、彼らが今までに見たどの日本軍機よりも、はるかな高々度を飛んでいたためであった。

 

 敵は単機だったので、呉防備戦隊ではこれを偵察飛行と判断した。現実に爆撃は行われず、当然ながら被害もなかったが、元旦早々頭の上を飛ばれたのでは気分が悪い。気分は悪いが、このころ佐伯には敵機を迎え撃つ戦闘機は一機も配備されておらず、高空を悠々と飛ぶ敵機をただ見送るしかなかった。

 井尻文彦は、この敵を見たことがあった。

「キラキラ光ってるだろ、B29だよ。なんでも、ジュラルミン剥き出しの、無垢の機体らしい」

「十一月に東京をやったやつか。詳しいな貴様」

 竹崎が聞いた。東京は彼や井尻の地元である。

「十月に大村がやられただろう。その時見た」

 井尻の原隊である佐世保航空隊が展開していた長崎県の大村には、この当時東洋一の規模を誇っていた海軍の軍需工場があったが、約二ヶ月前、比島沖海戦の真っ最中に、中国大陸から飛来したB29の空襲によって壊滅的な被害を受けていた。

「ああ、あの時俺たちはフィリピンに気を取られてて、詳しく聞かなかったが」

「海軍工廠がやられたんだ。海軍工廠と言ってもな、働いてたのはほとんど普通の人たちだ。勤労動員の女学生や中学生も大勢やられた」

 井尻は淡々と答えたが、飛び去った敵機が残した、白い飛行機雲を睨みつけるその表情に、竹崎は少しだけ思いつめたものを感じた。

「何にせよ気分悪いな。今日は搭乗割りもないし、井尻、町に出ようや」

「出たって、どこも開いてるもんか」

「神社の参道ならお神酒《みき》も出るさ。大分まで繰り出そう。な、付き合え」

 竹崎は井尻の袖を引いてその場を無理に立ち去らせた。正月なのだ。陽気に過ごさなければこの一年に味噌がつく。竹崎はそう言って宿舎に戻るとすぐに詰襟の軍服に着替え、井尻にも着替えろと言った。

「何といってもこの一種軍装だ。これでないともてん」

 一種軍装は紺色の詰襟である。襟には桜二つの中尉の階級章がついている。いつもは略式の三種軍装に身を包んでいる彼らだが、これに着替えれば粋な青年士官に見える。

「いや、タケ。実はな」

「なんだ」

「俺は午後から原隊に公務出張だ。大分までは無理だし、酒も飲めん」

「原隊? 佐世保か。正月だというのに何の用だ」

「いや、だから公務だ。今後の派遣についての打ち合わせとか、な」

「おかしいぞ貴様。さっきから、いやいやと。さあ言え。公務のついでに誰のところだ」

「いや、誰って」

「また、いやと言ったぞ。さては貴様、例の人形のひとりか」

 人形というのは、井尻が持っている手作りのマスコット人形である。それもひとつやふたつではない。この男はどういうわけか外出のたびに、その手の贈り物をもらって帰ってくる。

 このころの海軍士官といったら好男子の代名詞みたいなもので、それは町場の女学生などの、いわばアイドル的存在であった。井尻の人形はそういう娘たちからの贈り物だった。

 もっともそれは、現在の、芸能人とファンのような関係ではなかった。憧れるほうは、その対象となる人が、明日は死ぬ身であることを承知していたから、せつないほどの厳粛な敬慕を抱いて彼らを見つめていたし、だからこそ、いっそう想いが募るのかもしれなかった。

 しかし、それならば何も海軍士官でなくとも、一般兵や陸軍士官でも条件は同じなのだが、なぜか不公平なことに彼らの人気は飛びぬけていた。アイドルと書いたゆえんである。

 その中でも井尻はMMKであった。海軍の符丁で「モテて・モテて・困る」を意味する。

「いや、そんなんじゃないってば」

 井尻は学生の時のような口調になってしまっている。

「だいいちあれは、あの人形は、知らない子から貰ったものがほとんどだ」

「ほうほう、ほとんどか」

「あ、いや」

「一瞬の油断というやつだな。これが空中戦なら貴様を撃墜だ」

 竹崎は大笑いすると、よし、大分は勘弁してやるから早く着替えろと言い、塩屋あたりか、船頭町まで出ようと言った。両方とも市内である。塩屋には原田教官の言うところの、純真な青年仕官には相応しからぬ店が多く、船頭町には飲食店が何軒かあった。その界隈では、食糧不足のこのころでも、基地の者には融通をきかせてくれる。

「飲むのはまかせろ。貴様は雑煮でも汁粉でもたらふく食えばいい」

 竹崎は張り切って、井尻は不承不承に部屋を出ると、ちょうどそこで、彼らとは対照的に、野暮な飛行服を着た士官と行き会った。同じ水偵隊の関根大尉であった。ふたりが敬礼すると大尉は後輩のぱりっとした姿を見て一瞬少し驚いたようだったが、すぐににっこり笑った。

「お、貴様たちは非番か」

「は、そうであります」

 竹崎もにっこり笑って答える。関根は海軍兵学校の一期先輩だから顔なじみである。

「うん、一種軍装とはいい心がけだなあ。正月だから、いわば羽織袴というわけか」

 関根は、井尻が兵学校時代に、同じ分隊にいた先輩である。なんとなく決まりが悪い。

「ちょうどいい。ほかの連中にも言っておいてくれんか」

 今日は元旦である。正午には雑煮と酒が出るので、水偵隊は食堂で必勝祈願の乾杯をする。

外出許可日にあたっている者も外出せずに、必ず集合するように、という。

「司令も顔を出すだろうから必ず集まれ、とな。頼むぞ」

 ふたりの敬礼を受けて出て行った先輩を見送りながら竹崎がしぼんでいると、今度は井尻が

「中隊長はお見通しだよ」と笑った。

 何をいいやがる、と竹崎は思った。

 元はと言えば貴様が辛気くさい顔をしていたから、俺が気を利かせたのではないか。

「ようし、ただでは、そのナイスのところへは行かさんぞ」

 結局井尻は竹崎に挑戦されて、雑煮の餅の食い比べをする羽目になった。竹崎はそのせいでせっかくの刺身や伊達巻を食い損ね、井尻は餅で膨れた腹を抱えたまま佐世保に飛んだ。

 彼の家族の述懐によれば、井尻はこのころ、佐世保の市外に居を構えていた海軍法務少将の何某という将官に気に入られ、休日などは良く訪ねていたそうである。もしやこの公務出張はその将官の肝煎りで、ついでに年始に寄れよ、というような事情だったのかもしれない。

 そしてこの将官には、妙齢の美しい令嬢が、ひとりいたということである。

 

 さて守後浦。ここにも妙齢がひとりいた。恵美子はこの年、満ではたちになる。

 三が日を過ぎたころ、守後浦の家に博多の香代子から葉書が来た。恵美子の下、桂祐の上の娘である。のちに詳しく書くが、女子挺身隊で福岡に行き、陸軍の兵隊用の装備を作る工場で働いている。葉書は恵美子が受け取った。

「母ちゃん、香代子から葉書が来たわ」

 家には郵便受けというような物はないので、配達に来た初老の局員は戸口から声をかけた。恵美子は慶子を抱いて、のりえや隣家の娘たちとかるたをして遊んでいたが、彼の声を聞くと慶子をその場に寝かせて玄関まで立ち葉書を受け取った。そしてそれが妹からのものであると分かると、台所の奥で白菜を漬け込んでいる徳のところへすっ飛んでいった。

 札を読み上げてくれる恵美子がいなくなった幼い妹たちは、かるたの続きは彼女が戻るのを待つことにして、脇にあった福笑いを始めた。

「ちょお、香代子か」

 徳も喜びを素っ頓狂な声に出して表現したが、あいにく彼女の手は白菜の漬物を漬けるのに塞がっている。彼女は娘に、手が離せんけえ、そこで読んじょくれ、と頼んだ。

「ほいたら読むで」

 恵美子は背筋を伸ばして葉書に一礼した。

「あけましておめでとうございます。お父上様お母上様、みな様、お元気でお正月をお迎えのこととお慶び申し上げます。あらあ、大人《おせ》らしい文句を書くもんじゃなあ。なあ母ちゃん」

 徳は白菜を漬けながら聞いている。

 香代子の葉書はそれから、正月に帰省できなかったことを詫び、元気で働いているが衣服の支給が十分でないため夜が寒いと続く。そこで半纏《はんてん》を送ってほしいと無心して、できたら島の蜜柑も一緒にとねだっていた。

「半纏は持って行ったじゃろう」

 徳が聴きとがめた。古い布団をほどいて縫ってやったはずだと言った。この場合の半纏とはいわゆる綿入れ半纏である。恵美子はそれを母親の憶え違いだと言う。

「いいや母ちゃん、荷物になるけえ言うて、後から汽車便で送ってやったんよ」

 同じことではないか、と徳は思った。恵美子はひとりでしゃべっている。

「いや、違うわ。荷物になるけえやのうて、作るんが出発に間に合わんじゃったんよ」

「もうエエ。先を読んじょくれ」

「さようなら。もう終わり」

「ちょお、無心して終わりか。愛想がねえの」

「それがほら、見てみ。最初に字を大きゅう書いたもんじゃけ、あとのほうで紙が足らんごとなったんよ。「左様なら」が小せえこと、ははは」

「そこに置いちょけ。あとで読むけ」

「なあ母ちゃん。ウチが博多に陣中見舞いに行ってエエじゃろ。そうじゃ、それがエエわ」

「お父ゥに言えやい」

「それじゃったらさっそく半纏を作ってやらにゃ。なあ母ちゃん」

 恵美子はひとりで盛り上がっている。徳には幸いなことに、ここで慶子が泣く声が座敷から聞こえてきた。姉たちの遊びに加われなくて癇癪をおこしたのかもしれない。

「あら、いけん。慶子を忘れちょった」

 恵美子は「はんてんはんてん」と呟きながら、言葉の調子に合わせて跳ねるように、座敷に戻って行った。

 

 香代子が福岡で働いている制度を、正確には女子勤労挺身隊という。

 これは地域や学校ごとに民間の子女を編成し、各種の労働に従事させる制度である。仕事は官民を問わず多くの職種にわたっており、一般労働者と同等の給与が支給されることになっていた。出身の地域や学校ごとに「隊」を編成して就業する。

 徴兵によって男性の労働力が不足したのを補うための施策であったが、ただし「徴用」とは異なる。徴用には徴兵と同じで強制力がある。しかし挺身隊は、建前としては自由意志による参加であった。

 建前は自発参加だったが、この国には昔からこんにちに至るまで、言語の法則を超越した、便利な言い回しが存在している。

「参加は自由であるが、全員参加していただくことになっている」

 嫌味をやめて正しく解説するなら、この言い回しの根底に流れる思想をファシズムという。制度としての強制力を待たず、社会全体の空気として人々を従わせる全体主義である。

 この手の全体主義を現実に運用するために政府が利用したのが、軍隊や警察よりも、むしろ地域において人望を集めていた、地区の学校長や婦人会長などであった。

 政府や軍が、強制力や罰則を伴う徴用の制度を適用しなかったのは、それによって国民から「娘まで取り上げるのか」という批判を受けることを嫌ったためである。それよりはむしろ、そこをなんとか、と頼み込める地域の有力者に任せようというわけであろう。場合によっては近しい人々の恨みを買うことになる役割を押し付けられた、彼らこそ気の毒だった。

 募集係を任された彼らは、それでも国家に付託された責務を忠実に果たそうとした。受持ち地区の有資格者の家を、一軒一軒まわって親と本人に協力を要請するのである。

 史料によれば、募集に対してもっとも参加率が低かったのは東京都である。逆に地方部では参加率が高い。当然と思える。村八分という言葉に象徴されるように、地域共同体は、制度や法律などではなく、狭い世間の目というくびきによって律せられている。町や村の世話人が、頭を下げて持ち込んでくる依頼を断ることはできない。それは大入島も同じであった。

 挺身隊の有資格者とは、在学中の者、重要な仕事にすでについている者、「家庭ノ根軸タル者」などを除いた、未婚の健康な少女、というもので、山本家では香代子が明らかに有資格者であり、恵美子が微妙な立場にいた。

 文太郎は、香代子の参加を即座に了承した。心配がまったくないわけではなかったが、仮に自分が守後浦の世話役なりであれば、やはりこうして頭を下げて近所をまわっていただろう。彼の祖父の市五郎はそのような立場にあり、文太郎は物心ついたときから青年期に至るまで、浦の世話役として気遣いごとの多かった祖父の姿を見てきていた。香代子に相談をすることも必要なかった。子供は親の都合に従うものであった。

「じゃけんど」と、文太郎は言った。

「上のは、あれでも木材組合では、出征した衆の代わりまで務めておりますけ」

 そう言って筋を通し、恵美子の参加は断っている。

 そういう事情で恵美子は、香代子を身代わりにしたなどと気にしたわけでもないのだろうが、ひとりで親元を離れて行った妹がいとおしく、折にふれて小包などを出していた。

 最初は小遣いを同封したが、

「姉ちゃんは忘れているようですが、私もお給料をいただいておりますのでご心配なく」

 と返事が来た。それよりお金があっても買うものがない。唐人干しでも干芋でもいいから、食べるものを送ってほしいと書いてあった。

 それが今度は半纏である。恵美子はいそいそと押入れを開け、中に入れる綿を引っ張り出す古ぶとんを物色しはじめていた。

「けんど、半纏を縫いよったら、博多に行くんが亮どもにわかってしまうなあ」

 そんなことをつぶやいている。

 香代子の留守は、とくにその弟妹たちにとってはつまらないことであった。

 子供たちにとって恵美子はすでに母親と同じ大人の女性に思えた。どれほど優しく、大いに甘えさせてくれる存在であっても、それは母親の甘さであり、母親のにおいに近かった。

 それだけに、香代子だけがまとっていた十七歳の娘の、大人にも子供にもない青春の輝きが一家から失われた時は、家の中の灯かりがひとつ消えたような気さえしたものである。

 正月にはその灯かりがまた点るはずだったが、十二月には、正月の帰省は無理だという旨の葉書が来た。増産で正月休みが短縮されたことと、鉄道の切符が入手し難いというのが、その理由だった。

 桂祐も亮も口にこそ出さなかったが落胆していたのがわかった。のりえも寂しそうだった。もっとも、弟たちの場合は博多の土産を楽しみにしていたということもあったかもしれない。いずれにせよ、自分だけが香代子に会いに行くということを知らせてしまうと、彼らを大いに羨ましがらせることになるだろう。

「半纏は、送ってやるんよ、ちゅうことにしておけばエエんじゃろうけど」

 しかしそれでは、男の子に、嘘をつくことを教えることになってしまう。それは良くない。そんなことを考えて恵美子はひとりで困ってしまう。

「みんなで行けたら楽しいじゃろうなあ」

 ありえないことを承知で、彼女は少しの間だけ、その幸福な空想に遊んだ。

 

 戦局はさらに悪化の一途をたどっていた。

 連合艦隊が、レイテ周辺の海域で壊滅的な打撃を受けたのはすでにふた月前のことだったが、本格的な地上戦はそれからであった。

 この島の攻防戦で、米軍は必ずしも常に圧倒的な優勢を保っていたわけではなく、陸上では泥濘のジャングル戦に苦しみ、海上では艦載機による支援にあたっていた機動部隊が、連日の神風特攻によって多くの損害を出している。彼らもまた血を流していた。

 しかし兵力装備ともに劣勢だった日本陸軍は、やがて戦闘部隊としての体力の限界点に達し島の各所で米軍に敗れ、海上からの補給も絶たれて孤立してしまう。この段階で同島の失陥は時間の問題となった。

 レイテ島を事実上制圧した米軍は、その矛先をフィリピンの主島であるルソン島に向ける。

 まずマニラの南一五〇キロほどに浮かぶミンドロ島を占領し、ここに航空基地を設営して、ルソン島上陸作戦の空中援護態勢を完璧なものとした。それが十二月下旬のことである。

 米軍のルソン島侵攻が確実となった昭和二十年正月二日、日本では内閣総理大臣小磯国明がレイテ島の防衛戦をフィリピン全体に拡大すると発表した。正直に翻訳すれば、レイテ島では負けました、という意味でしかなかった。ものは言いようである。

 ルソン島への攻勢は四日の空襲で始まった。九日には、首府マニラから北一五〇キロほどの位置にあるリンガエン湾に、米軍約十八万の上陸が始まった。

 この時、司令官ダグラス・マッカーサーが、スラックスの裾を濡らしながら大股な足取りでまるで千両役者のように、同地に上陸する写真が残されている。弾雨を恐れぬその堂々とした彼の態度は、米軍の余裕の証明であり、対照的に日本軍の無力を象徴しているようでもある。 

 筆者は右のように紹介しようと思い、少し詳しく調べてみたのだが、該当の写真はいわゆるやらせだそうである。上陸作戦の約一ヵ月後、浜に幕僚や兵を集め、上陸用舟艇も用意させて、つまりオールセット、オールキャスティングで撮られた写真らしい。

 言われてみると、確かに彼に付き従う兵士は誰一人として小銃を持っていない上に、まるで映画の素人エキストラがそうであるかように棒立ちである。

 画面左側の将官が、上目づかいにレンズを見つめながら、下に向けてVサインを出しているのも気になる。まさか「こっそり教えるがね、これは二回目《テイク・ツウ》なんだよ」と訴えているわけでもあるまいが、筆者にはこれがむしょうに気になる。

 いささか興ざめな話ではあるが、この一枚は事実ではないにせよ真実を写している。

 これを撮ったカール・マインダンスは「マッカーサーの見栄を撮ったのさ」と、のちに冗談めかして語っており、彼の報道写真家としてのそういう姿勢は、たとえばキャパや沢田などが一線を画すところかもしれない。

 しかしそれを割り引いても、この一枚の写真が伝えている米軍の勝利という真実は、微塵もゆるがない。戦後、これはやらせだと指摘された時の対応も含めて、マインダンスは、広報というものの手段と目的とを、肝太く区別できていたジャーナリストであったと筆者は思う。

 しかし小磯の発表はその逆であった。事実ではあったが真実はその正反対であった。

 話を戻す。

 ルソン島は前述のように台湾に近い。バシー海峡を挟んでひと飛びの距離にある。この島を米軍に占領されると、日本本土と、インドシナ半島やインドネシア方面の、いわゆる南方資源地帯との交通は遮断されてしまう。

 バシー海峡には以前から米潜水艦隊が展開して通商破壊戦を実施していた。日本の輸送船にとってはそれだけでも脅威であったが、ルソン島を奪われて航空部隊の進出を許せば、これに空からの脅威が加わることになる。輸送船団は空と海中の両方向から袋叩きにされるだろう。その結果、すでに細い一本の糸でしかない輸送路は完全に断ち切られる。それは日本にとって、戦争の継続が不可能になることを意味していた。

 ルーズベルトがマッカーサーに与えた命令は「日本人を四つの島に閉じ込めよ」というものだった。物資輸送の面で日本本土を孤立させてしまえば、四つの島の住人はいずれ飢えて死ぬしかない、ということを彼らは理解しており、そしてそれを、すでに達成しつつあった。

 日本人は飢えていた。とにかく主食の米が決定的に不足していた。最大の原因は、海外米を日本に運ぶ輸送能力の貧弱さであった。

 現在のわが国では、熱量換算の食糧自給率が四〇パーセントという低水準にありながらも、主食の米だけは完全自給を達成できている。ところが戦時中の国産米の生産量は意外に低く、海外の占領地で採れるいわゆる外米に頼らなければ、国民の胃袋を満たせなかった。

 戦争が激化し輸送船が不足してくると、限られた輸送力でどの種の物資を運ぶかという優先順位が問題となったが、結局は石油と、ボーキサイトなどの金属原料といった戦争資材が優先されることになり、外米の輸送量はさらに落ち込んだ。

 米不足を補うために、主食に格上げされたのが麦や雑穀や豆類である。

 これらも国内産だけでは足りず海外からの輸入に大きく依存していたが、こちらは主に北の作物であるため、日本海を挟んだ中国東北部、いわゆる満州が生産地であった。輸送路となる日本海にはまだ米軍の侵攻が及んでおらず、このため多少は安定した供給が望めたが、それが脅かされるようになるのも、もはや時間の問題と言えた。

 米潜水艦のひとむれが、その乗組員から「裕仁天皇の浴槽」と呼ばれていた日本海に侵入を果たし、ルーズベルトの「日本人を四つの島に閉じ込める」戦略が完成を見るのは、これからわずか半年後のことである。

 

 ところがたびたび書いてきたように、文太郎の家ではとにかく食えていた。これは大入島が食糧生産地であったからで、食糧不足は、大消費地である都市部から順に深刻化していくのが当然だった。たとえば東京であり、香代子が働いている博多である。

 この物語で書いてきた博多とは、正確には福岡市である。

 江戸時代までのこの地域では、福岡城を中心に武士が住んでいた町を福岡と呼び、那珂《なか》川を挟んで対岸にある商人たちのエリアを博多といった。

 明治になって市制が施行される際には、市の名を福岡市にするか博多市にするかで、議会はかなり紛糾したらしい。投票が行われたが、これも得票同数引き分けとなり、結局議長採決で福岡に決まったという経緯がある。その埋め合わせとして、開通した鉄道の駅には、博多駅の名が与えられることになったという。

 現在でも、博多山笠《やまかさ》や博多どんたく、博多ラーメンなど、元来は博多の文物が福岡市を代表している事例は多いが、この物語でもまた、文太郎たちがこの街を指して普通に呼んでいた、博多の名で通している。

 香代子が働いていた工場は、現在の博多駅から南に一キロ半ほどの、箕島と呼ばれる地区にあり、陸軍兵士用の靴を作っていたらしい。恵美子が語るところによれば「日本ゴム」という名称だったというのだが、その名前から察するに、第二章で書いた、民間会社の統制を図った国策合併による合同企業だったのではないだろうか。

 女子挺身隊として労働に従事した少女たちの勤務形態は一様ではなく、通勤者もいれば寮で共同生活をする者もいた。香代子のような地方出身者は当然ながら寮に住む。

 実のところ、娘を送り出さねばならない立場の親たちが特に気にしていたのが、この住環境であった。住居そのものの良し悪しではなく、要は保安と風紀の点についてである。なにしろ嫁入り前の娘たちである。変な虫がつかないか、都会の悪い色に染まらないか、といった種の心配であった。

 娘たちを受け入れる企業は国営の軍需工場に限られていたわけではない。このころになるとすべての業種で人手不足が慢性化していたから、認可を受けた企業はこぞってこの新労働力を誘致した。

 その最大の売り文句が「設備の良い建屋で、優しく真面目な女性監督官のもと、規律正しい集団生活を送っていただけるよう配慮している」といった筋合いのものだったから、親たちも、それならば、と納得せざるを得なかった。

 寮に住むことになる彼女たちへの食事は、基本的には受け入れ側の企業によって保証されていたが、これに対する満足度については、「隊」によってかなり差があったようである。

 挺身隊は少女たちの出身地や出身校ごとに組織されから、香代子の隊は大入島の者ばかりで構成されていたはずである。彼女たちから見ると、それがかなりわびしい食膳に見えたことは、まず間違いないだろう。

 とにかく魚がない。博多は玄界灘の旨い魚で知られる街だから、魚がまったくないわけではないのだが、なにしろ消費者の数が佐伯とは桁違いである。膳にのぼる機会も量も、大入島の家とは比べ物にならない上に、鮮度がまるで違うから食味の点でも勝負にならない。

 ある時珍しく、ひとりあたりに一尾の、尾かしら付きの魚が皿に盛られたことがあったが、娘たちはそれを見ると、みな顔を見合わせて黙ってしまった。

 それは体長十センチほどの、どす黒い黒鯛のような魚であった。正しくはスズメダイという魚だったのだが、誰もそんな名前など知らなかった。

 博多ではこれを「アブッテカモ」と呼び、その名のとおり炙って噛む。つまり焼いてから、身をせせらずにそのまま噛み付いて食べる。

 ところがこの魚、小ぶりなくせに骨だけは本家の鯛並みに太く硬く、しかも小骨が多いので実に食べにくい。博多では酒の肴としてこれを珍重する者も多いが、食べるのに手間がかかるところが、むしろ通好みということなのであろう。博多の左党の名誉のために書いておくが、身の味自体は確かに旨い。単に食べにくいというだけである。

 しかし寮長の婦人が、アブッテカモの名の由来を面白そうに話して聞かせた時、香代子らは仕方なく、ふふふと愛想笑いの相槌を打つしかなかった。

 この魚は、佐伯では「おせん殺し」と呼ばれていた。

 その昔、せんという娘がその骨を喉に刺して死んだという、まことにありがたくない来歴で知られており、いわゆる猫またぎの部類に入る魚とされていた。小骨が多すぎてさつま汁にも向かない。結局肥料になる。香代子たちは生まれて初めてオセンゴロシを食べた。

 食事がそんなだったから、間食についても、海幸山幸の国から来た娘たちが満足するような食べ物が、十分に配給されるはずがない。香代子は蜜柑を食べたいと家族への葉書に書いた。たった一個の蜜柑が簡単には手に入らない。このころの日本の都会はそんな有様だった。

 

 文太郎の蜜柑畑は、守後浦の家から海岸線を南に少し離れた、山に入っていく途中の、南の斜面にあった。正確な伝承は残されていないが、そのあたりは、昔はいわゆる隠し田のような場所だったらしい。

 畑は結構な広さがあって、出荷の最盛期になると、収穫作業には近在から手伝いを雇わねばならないほどであった。天気のいい日を選んで一日で済ませるために人手は十人ほどになる。

 彼らは収穫した蜜柑を竹で編んだカゴに詰め、文太郎の家までそれを背負って運ぶのだが、山から下りると家までの三百メートルほどは海岸線を通る。

 道沿いには土壁と黒瓦の家や蔵が並んでいる。その前を、カゴを背負った一団が歩いていく。彼らの野良着も背景に劣らず地味な色合いだったから、竹カゴの小さな隙間から見える蜜柑の黄色だけが、晩秋の澄んだ空気の中に輝いて素朴に美しかった。

 母屋の前に積まれた蜜柑は、そのあと大小良悪に選別されて木箱に詰め直され、船に乗せて出荷されるのだが、この選別作業には文太郎の一家が総出であたった。

 傷がついていたり、へたが取れてしまっていたり、成長が悪くて皮の内側が縮こまっているものが選別ではねられるのだが、それらがこの家の人々の口に入るぶんである。

 こういう大掛かりな収穫は旬の時期に一度だけ行われ、はしりや名残の時期は家の者だけで適当に摘むのだが、この正月のころにはまだ十分に遅い実がついていた。

 博多に行く許しを文太郎にもらってからの恵美子は、妹への土産にするために、無心された半纏を丹精するのはもちろんのこと、サツマイモを蒸して干し芋を作ったり、近所に干し柿を分けてもらいに行ったりと、旅行の準備に浮き立っていたが、いよいよ明日は出発という日の朝食の席で、桂祐に蜜柑のことを頼んだ。

 もともと桂祐から言い出したことである。

「姉ちゃんが畑に行けるころは真っ暗じゃろ。ミカンかカボスかも分かりゃせんが」

 この季節、恵美子はまだ薄暗いうちに家を出る。帰宅は日没後である。

「エエよ、俺が、姉ちゃんが出かける前ン日にもいで来ちょく」

 桂祐は、恵美子が博多に行くことを聞いて「エエのう、博多か」とは言ったが、それ以上は羨ましがって姉を困らせるようなことはしなかった。それどころか自分の代わりに蜜柑畑まで行ってくれると言うものだから、この、弟びいきの姉はしみじみ喜んだ。

「オオキニ。ほいたら頼みます」

 大人に使うような丁寧な言葉で、恵美子は弟にそれを頼んだ。

 

 出発の朝、恵美子はいつもより早く起きて、昨夜のうちに作っておいた握り飯で弁当を包み頼んでおいた貸切の手漕ぎ舟で町に向かった。

 まだ夜は明けていない。定期渡船の始発便にはまだ時間があり、それを待っていたのでは、汽車の時刻に間に合わなかった。彼女は佐伯駅を六時四十三分に出る便の切符を買っていた。それは文太郎のアドバイスであった。

「混むけえの、ちょっと無理をしても、佐伯が始発の汽車に乗ったほうがエエ」

 定期渡船では間に合わないから、誰かに送ってもらえるよう頼んでおいてやるとも言った。

 顔見知りの漁師に酒代を包んで、ちょいと送ってもらうだけのことである。頼まれたほうも、恵美子が香代子に会いに行くと聞くと、そりゃあ偉いことじゃとふたつ返事で引き受けた。

 手漕ぎが葛《かづら》港に着くと、恵美子は用意していた礼金の包みを渡そうとしたが、相手はそれを受け取らず「香代ちゃんに土産でも買うてやっちょくれ」と言って押し返し、ほとんど同時に棹で岸壁を突いた。

 恵美子が手を伸ばす間もなく船は岸を離れていく。彼女は深々とお辞儀をして感謝を伝えるしかなかった。

 港から佐伯駅までは歩きでも十分ほどで着く。

 当時、佐伯から博多に行くための交通機関は鉄道しかなかった。

 鹿児島から門司にかけて、九州東海岸を南北に結ぶ路線を日豊本線という。佐伯からはこの路線を使って現在の北九州市にある小倉まで行き、そこから西向きの鹿児島本線に乗り入れて博多に至る。現在では直通の便があるが、当時は小倉で乗り換えなければならなかった。

 現在の佐伯博多間は、最速の特急列車ならば三時間少々で走ってしまうのだが、このころはすべての便が各駅停車の運行で、しかも鈍足の蒸気機関車だったから時間がかかる。恵美子が選んだ便は、小倉での乗り換えの待ち時間を入れて九時間半の旅程であった。

 しかもダイヤ通りに運行されるとは限らない。国鉄でも多数の職員が徴兵されて人手不足が深刻化し、それを臨時職員で補充したことで、運行システムにもかなりの悪影響が出ていた。 

 ダイヤの乱れにさらに追い討ちをかけたのが空襲警報である。実際に敵機が来襲しなくても警報が発令されただけで、列車は徐行や停車などの措置をとるから、そのぶん到着が遅れる。

 こんにちでは大雨や大雪の時にしか発生しないあの混乱が、このころは日常であった。

 

 恵美子は土産のせいでかなりの大荷物になった持ち物を、リュックと、麻の大きな手提げと風呂敷包みの三つに分けて持ち、三等車に乗り込んだ。もちろんこれが一番安い車両なのだが実のところ、一等車や二等車はすでに廃止されていて選択の余地はなかった。

 その理由は輸送の効率化である。一台の客車に、できるだけ多くの乗客を詰め込んで客車の数を減らせば、物資輸送用の貨物車を増やすことができるという勘定であった。

 当時としてはやむを得ない措置と言うしかない。国鉄は国内の流通の大動脈であったから、食糧を生産地から都市圏に輸送するため、言い換えるなら、都市の住民を飢えさせないため、という一事をとっても、旅行より輸送が優先されるのはぜひもなかった。

 そのしわ寄せで、客車は大混雑となるのがつねとはなってはいたが、恵美子が乗った汽車は佐伯が始発駅である上に早朝の便だったから、まだ座席を選ぶ余裕があった。

 彼女は進行方向に向かって右の窓側に座ることにした。この席なら海が見えて気分がいい。まだ外は薄暗いがそろそろ夜明けである。うまくすれば、海沿いを走っているうちに日の出を見られるかもしれない。そう気づいて、恵美子はこの便を勧めてくれた文太郎に感謝した。

 機関車は石炭を燃料とする蒸気機関車である。現在でもごく限られた路線ではあるが実際に運行されていてファンも多い。しかし乗り心地は必ずしも良くはなかった。

 問題は蒸気を作る罐から吐き出される煤煙である。客車には空調が備わっていないから夏は窓を開けるのだが、そうするとこの煤煙や嫌な匂いが座席まで入り込んでくる。

 一番やっかいなのがトンネルを通過する時である。うっかり窓を閉め忘れていようものならその車両内はたちまち黒煙で満たされてしまう。

 したがって窓側の席に座る者は、同じ車両に乗り合わせたすべての客に対して、トンネルの前後での、窓の開閉の管理責任を負わなければならない。居眠りさえできないのである。

 しかも佐伯から北上する路線はトンネルだらけであった。そもそも駅を出たとたんに最初のやつが口を開けて待っている。そこから別府までの、約二時間のあいだだけでも三十本からのトンネルをくぐらなければならない。

 こうなると窓側の乗客は、ゆっくり景色を眺めるどころではなくなり、客なのか、窓の開閉係なのか分からないほど忙しくなる。冬でよかったと、恵美子は思う。

 佐伯駅を出てふたつ目のトンネルに入る直前に、海を隔てて守後浦が見える。

 桂祐や亮はそろそろ学校に出かけるころだ。今時分はちょうど朝ごはんを食べ終えたあたりだろうか。恵美子はそんなことを思い、彼らを連れて行ってあげられないことを、申し訳なく思った。別に彼女の責任ではなかったのだが、そう思った。

 

 臼杵《うすき》を過ぎたところで車内はほぼ満員となった。大分に着くと多くの乗客が降車したのだがそれと入れ違いに乗車してきた客で、それまで以上の満員となった。

 座席は入り口付近がお見合い式のロングベンチで、それ以外はふたりがけの席が向かい合うボックスシートである。

 大分から乗り込んだ五十がらみの男が恵美子の向かいに席をとった。彼は窓の上に張出した棚に荷物を置き、それから腰をかけて、こう言った。

「こりゃあ、なんと風流な汽車じゃのう、ミカンがなっちょる」

 言われて恵美子はにっこりした。棚に置いた恵美子の手提げ袋からは、袋に納まりきれない蜜柑の枝が突き出して、客席の上まで伸びているのである。

「お姉さんの、かの」

「はい。妹にお土産です」

 恵美子は桂祐に頼んで、葉と、実が三つほどついた枝を一本折ってもらっていた。おそらく寮の部屋は殺風景だろうと思い、花代わりに活けてもらうつもりだった。食べてもらうための蜜柑は良く熟れたものを持ってきたが、枝のほうは、まだ少しばかり若い実がついているのを弟に頼んでおいた。それらは活けているうちに食べごろになるだろう。

 姉妹は枝から摘んだばかりの蜜柑の、もぎたての香りを楽しむのが好きだった。皮をむいたときの芳香のほとばしりは、蔵に積んでおいた蜜柑とは比べ物にならなかった。そのひと枝についた実が放つ鮮やかな香りは、妹が故郷や家族を偲ぶ、いいよすがになるだろう。

「そうか挺身隊でなあ。ご苦労さんやなあ」

 ボックスシートに乗り合わせた客同士が、こうして話をするのは珍しいことではなかった。何よりは長時間の行程の退屈さを紛らわすためだったが、このころの日本人は、現在と比べて他人に対して人見知りをしない人種だったようだ。それは、おなじ日本人同士という連帯感が戦争という空気の中でより強くなっていたためであろう。

 その席の四人も、普通ならそのまま家族のことなどを語り合っていただろう。しかしそれは中断されることになった。大分駅を発車して四十分ほど走ったあたりで、驚くべきイベントが始まったのである。

 車両と車両をつなぐ通路に車掌が立った。彼は間もなく杵築《きつき》に到着することをいつもと同じ調子で告げた。そこからである。

「杵築を発車いたしますと防空訓練が開始されます。どなた様もご協力をお願いいたします」

 

 たとえば私たちが新幹線で旅行中に、車内で防災訓練が始まったようなものである。

 それは米軍の空襲に備えた訓練であった。

 先にも書いたように、鉄道は国家という肉体の大動脈であったから、敵国にとっては必須の攻撃目標であった。日本の鉄道の建設期には、海岸線に鉄道路線を設けることは、有事の際に敵国の艦隊の艦砲射撃による攻撃を受けやすく、それは国防上よろしくないから、鉄道路線はよろしく山間部を通すべきである、という議論さえなされたほどである。

 むろん、民間人が乗車していることが明らかな旅客列車への攻撃は国際法に違反している。ところが何といっても敵は「鬼畜米英」と宣伝された国の「残虐無法ナル」軍隊だったから、旅客列車といえども油断はできないとされ、駅の構内はもちろん、運行中でさえ、列車内での防災訓練が義務付けられるようになっていた。

 汽笛が長く短く規則的に鳴らされ、列車の速度が落ちた。それが訓練開始の合図だった。

 乗客たちは意外なほど無表情のまま訓練の動作に入った。棚に置いていた荷物を下ろして、窓を塞ぐように積み上げていく。敵の機銃掃射から少しでも身を守るためである。そのために窓側の席に座っていた恵美子は、体を小さくして場所を開けねばならなかった。

 恵美子は職場や守後浦での防空訓練は経験していたが、列車内のそれは初めてだったから、勝手が分からなかった。向かいの席の男はそれを聞くと、このようにしなさいと実際にやってみせて、彼女に要領を教えた。

 荷を窓側に積み上げると、彼らはその場にうずくまった。通路に立っていた者は膝をかがめ席についていた者は足元にくぐもって姿勢を低くする。もっとも、全員がそのようにして床にかがみこめるほど車内は空いてはいなかった。なかには不安定な中腰のままの姿勢を余儀なくされた者もいた。片手で背もたれを掴み、ようやく体を支えている。

 けっこうな苦行であった。それでも不平を言う者はひとりもいなかったが、それは必ずしも人々の訓練に対する勤勉さによるものではなかった。それよりも、誰もが耐えているのだからという、いじらしいほどの連帯感に発した忍耐によるものだった。

 それから汽車は、ちょっとした小山に沿ったところで臨時停車した。

 長い車列をすべて隠すことはできないが、少しでも敵の照準が困難な地形に停車するのだと恵美子の向かいの男は言った。列車が止まって静かになると、恵美子は積み上げた荷物が気になって窓のほうを見上げた。

 蜜柑の枝が入った袋は、ほかの荷物に押しつぶされることなくちゃんと立っていた。それは向かいの男が気を遣ってそのように置いてくれたからだった。たった一枝、たった三個ほどの蜜柑が、そこではそれほどに大切にされていた。

 

 汽車は一時間ほども遅れて小倉に着いた。佐伯駅を発車してから七時間が経過していたが、恵美子はまだ弁当をつかっていなかったので、どこかで昼食にすることにした。汽車の中では弁当を開きにくかった。人前で食べるのが恥ずかしいわけではない。遠慮だった。

 彼女は車内で、弁当に握り飯を持ってきたのが迂闊だったことに気づいた。

 それは麦七分の飯を握ったもので、種は梅干だけという、決して豪華なものではなかったが米は米である。いくら麦の割合が多くても、米の飯というだけでそれはやはり贅沢だった。

 このころは、家庭の経済レベルと食生活のレベルは必ずしも一致しない。田舎では貧乏でも米の飯が食べられた。街では金があっても食糧が手に入らなかった。

 恵美子がそれに気づいたのは、彼女のはす向かいに座っていた中年の婦人が、おそい朝食の弁当を、まわりに断ってから遠慮がちに食べ始めた時である。

 周囲の乗客は「どうぞどうぞ」と、婦人の遠慮をいなしたあと、さりげなく視線をそらせて彼女の手元を見ないようにしていた。その弁当はふかした芋だったが、彼女はそれを手拭いに包んで見えないようにし、少しづつ割り取って口に運んだ。

 そういう人々の前で、米の飯を見せつけるような真似がこの娘にできるわけがない。

「ウチも芋をふかしてくれば良かったなあ」

 恵美子はホームを少し歩いてみたが、人目につかずに弁当を開けられるような場所はない。仕方なく、空腹には耐えることにして昼食はあきらめた。考えてみれば割に合わぬ我慢だが、恵美子はさほどには気にせず、早めに博多行きのホームに行って並んでおこうと思い、荷物を持って歩き始めた。

 現在の小倉駅では、別のホームへ移動する時には線路の下に作られたコンコースを使うが、この当時では、ホームの上に渡されている囲いつきの陸橋を渡らねばならなかった。もちろんエスカレータやエレベータは設置されていない。

 恵美子は階段の手前で、背中のリュックをよいしょと背負い直した。その時であった。

「お姉さん」と声がした。

 まさか自分のこととは思わず、それでもごく近いところから聞こえたその声の主を見ると、少年がひとり立って、恵美子のほうを見ていた。

「私ですか」と、恵美子は子供と侮らずに丁寧に答えた。たとえ亮のような子供であっても、よその男の子に対しては、彼女はいつもそうであった。

「ぼくが荷物を持ちますけん」

 少年はそういって手を差し出した。

 

 現在でも、電車やバスの車内ではお年寄りに席を譲りましょう、という公共マナーがある。少年の申し出はそれに近い。

 このころの小学校、すなわち国民学校では、子供たちにこの手の公共心を教える修身という科目があった。そこでは高齢者に対してはもちろん、戦地で負傷して体の自由を失った者や、夫が戦死したかあるいは出征中で、力仕事などに困っている婦人には、すすんで手伝いをするようにと教えていた。

 恵美子は高齢でも、けが人でも、寡婦でもなかったが、大きな荷物を多数抱えた、かよわい女性であり、今から急な階段を上ろうとしている。少年はそれに気づき、可憐な義務感を発露させて、助力を申し出たのであろう。

 それにしても、恵美子に声をかけるのには、ずいぶんな勇気を振るい起こしたようである。彼の表情は怒っているように堅かった。顔色も、少し赤い。

「まあ」

 恵美子は感激のつぶやきを、胸の奥から笑顔の形になった唇まで、ゆっくりと送り出した。

 

 念のために書いておく。

 修身教育について、戦傷者や戦没者の遺族を例として挙げたが、これはなにも戦争のための教育科目というわけではない。これらの例をもって「子供たちも戦争に協力させられていた」などといった類の、軍国主義批判の材料にすることは、恵美子がこの日小倉で出会い、名前も聞かずに別れた、小学生の子供にさえ恥じねばならない不見識であり、非礼であろう。

 さかのぼって1923年の関東大震災のさい、来日中だった欧米のジャーナリストたちが、驚きと賞賛をもって本国にレポートしたのは、彼らの国ではこういう場合にしばしば起こる、いわゆる火事場泥棒のような略奪行為がほとんどなかったことと、それどころか罹災者自身が我がことを後回しにして、他の援助行動に奉仕していたという点である。

 この時代までの日本人にとって、そういう公徳心は、身を修める上での必須の科目であり、それを、小倉駅の少年も健気に実践しようとしていた。それだけのことであった。

 

「ありがとう。ほいたらお願いします」

 恵美子は少年に一番小さな風呂敷包みを手渡したが、相手はさらに、その手提げ袋のほうも持ちますと言い、結局そうした。結局そうしたが、それでは袋を片手で提げることになって、少年の上背が足りないために、袋の底が地面をこすった。

「それでは持ちにくいでしょう。じゃあ重たいほうだけ持ってくれますか」

 恵美子は風呂敷包みを返してもらい、少年は手提げ袋を両手で抱えて階段を上り始めた。

 いずれ国民学校の生徒であろうが、何年生だろうかと恵美子は思い、それを尋ねた。

「五年生です」

 少年は抱えた荷物のせいで恵美子のほうを振り向くことができず、前を向いたまま答えた。

「桂佑の、いっこ下じゃなあ」

 恵美子はふたりの弟とだぶらせながら、少年を見ていた。都会の子らしく、つぎがあたって粗末ではあったが、上着とズボンの整った服装をしている。肩から斜めに木綿の雑嚢を提げ、足元は裸足にズックの靴。また、制帽をかぶっているのが恵美子には印象的だった。

 国民学校の制度は昭和十六年に施行されたが、その名称は、小学生にも国民としての自覚を徹底させるというところから採用された。施行の時期から考えても、対米開戦を予期しての、国家総力戦の戦時体制を確立するための施策であったことは間違いない。

 そういった為政者の思惑はともかく、この「国民としての自覚を持たせる」という部分を、恵美子などの言葉で翻訳するならば「一人前として扱う」ということになるのだった。だから彼女は、遠慮なく彼の好意を受けなければならなかったし、むやみに彼の負担を斟酌しては、むしろ相手に恥をかかせることになる、ということを理解していた。

 それでも弟たちと変わらぬ年恰好の少年が、そのように健気に手伝ってくれているのである。この娘の甘い部分が出てこないわけがなかった。ちょうど良い。弁当を食べられなかったのはこのためだったのかもしれない。あの握り飯はこの子にお礼として食べてもらおう。恵美子はそう思いついて、うれしくなった。

「学校から帰るところですか」

「はい。いいえ、学校の帰りに、おばさんの家に芋をもらいに行くところです」

 この少年は、本来は遊べるはずの放課後の数時間を費やして、家族の食糧を確保するために働いているのだ。恵美子の顔はさらにほころんでしまう。

 小倉は、現在では北九州市に含まれているが、昭和三十八年までは独立した小倉市だった。隣接して八幡市があり、そこには日本最大の製鉄所があって、当時のこの一帯は九州における最大の商工業地域である。

 そのために八幡は米軍の戦略爆撃の目標となり、すでに前年の六月という早い時期に空襲を受けている。それは日本本土に対する、B29による戦略爆撃の第一撃であった。八幡や小倉の人々は、東京が同様の被害を受ける五ヵ月以上も前に、その恐怖を体験していたのである。

 八幡は続いて八月にも空襲を受けた。この地域はすでに戦場であった。そのような危機感が社会に対する義務感に変質して、この少年を動かしていたのかもしれない。

 恵美子の思いがそこに至っていれば、彼女は少年の後姿を見つめて「むげしねえなあ」と、つぶやいたに違いない。しかし彼女はそれを失念していた。空襲被害を現実に体験したことがない身には無理もなかった。恵美子はただ、少年の健気さを愛でて気分が良かった。

 博多行きのホームに着いたが、少年はさらに歩く。

「前のほうが良かとでしょ。あっちが博多です」

 どうやらこの少年は、前寄りの客車の方が例の煤煙による被害が少ないことを、知っているらしかった。恵美子は言われるままついて行きながら、どのタイミングで弁当を渡したものか考えていた。朝の船で謝礼を渡しそこなったことが気になっている。別れる時がきたら、この少年は、きっと引き止める間もなく、すっ飛んで行ってしまうだろう。

 少年が恵美子の方を肩口だけでちょっと振り向いた。

「お姉さん、これは普通のミカンですか」

「ふつう? そうですよ、普通のミカン」

「ふうん、こんなふうになるんやなあ」

 少年は、抱えた手提げ袋から目の前に飛び出している枝を見ながら、半分ひとり言のようにそう言った。

「枝についているミカンを見るのは初めて?」

「はい。おばさんのところは芋とかカボチャばっかりです」

「そう」

 それから恵美子は、それまで考えてもいなかったことを、それまで考えていたことのようにさらりと言った。

「ほいたら、そのミカンをもらってください。たいして実もついちょらんけど」

 少年は驚いて息を止めたようだったが、すぐに言った。

「だめです。駄賃をもらったらいけません」

「お駄賃ではありません。おれいです。わけを話して、ご両親に差し上げてください」

 少年はそれきり黙ってしまったが、そろそろこの辺でというあたりで、恵美子は足を速めて彼に追いついた。それから、彼女から手を出して荷物を受け取りながら、その枝を引き抜き、少年の胸の前に、立てるようにして差し出した。

 少年はいちど恵美子を見てから、蜜柑の枝に目を移した。彼にとって、それは跳びあがって喜んでいいほどの贈り物のはずだった。

 しかし、たったいま言葉にしたように、それを受け取ってしまえば報酬を得ることになる。それを認めるわけにはいかない。自分は日本の男の子として当然のことをしただけなのだ。

 蜜柑を貰えることはうれしい。でも欲しいとは思わない。もっと大切なものがほかにある。それを蜜柑一枝と交換することなど絶対にできないという思いが、少年に怒ったような表情をさせている。

 恵美子にはそれが理解できていた。ここはひとつ考えねばならない。

「むかし佐野源左衛門というさむらいは」

 彼女は自分でも意外なほどすらすらと、まるで文太郎のような口調でものを言えた。

「大切にしていた盆栽の梅の枝を伐って囲炉裏にくべました。知っているでしょう」

 能楽「鉢木《はちのき》」にある鎌倉武士のものがたりは、修身の教科書にも出ていた。

「はい。知っています」

「源左衛門さんはほうびが欲しくて大事な鉢の木を伐ったのではないでしょう」

「はい」

 少年は素直にうなづいた。そうだ、だからぼくはその蜜柑を貰うわけにはいかないのだ。

「でも、だからこそ北条の殿様は、源左衛門さんに篤くお礼をしたのではないですか」

 恵美子はやや堅い口調でそう言ってから「ね」と微笑んだ。

「はい。ありがとうございます」

 少年はもう逆らわずにそれを両手で受け取ると、深々とお辞儀をしてさようならを言った。そしてもと来た方へ駆け出したが、しばらくして立ち止まり、振り向いて、もう一度お辞儀をした。恵美子も両手を膝に乗せてお辞儀を返した。

 握り飯なんぞ渡さんで良かったなあ、と彼女は思った。もしそれをしていたら、彼に対してとんでもない無礼になるところだった、そんな気がして、自分の機転に感謝した。それから、自分がまるで文太郎のようだったことに気づいて、あらまあと思った。

 桂佑が折ってきてくれた蜜柑の一枝は、こうして恵美子の手を離れた。

 

 香代子の寮に着いた時には、時計の針はもう夜の八時を回っていた。

 博多駅到着は午後四時のはずの予定で、汽車はわずかな遅れで走っていたのだが、博多駅のふたつ手前の箱崎という駅で停まったきり、まったく動かなくなってしまったのである。

 なんでも博多駅のほうで不具合があったらしく、いつ走り出すか見通しがつかないという。

 恵美子は仕方なしにそこで汽車を降り、歩いて寮のある箕島に向かった。ざっと八キロほどの道のりを、何度も道を尋ねながら暗くなりかけた町を歩いた。途中で夜になった。

 寮で待っていた香代子はずいぶんと気を揉んでいたらしい。

 姉妹が久しぶりの再会を喜んだのはもちろんだが、同じ寮にいる娘たちが、ほとんど全員で出迎えたので、再会の場は食堂ということになった。彼女たちは全員が大入島の出身だった。故郷そのものが尋ねてきてくれたように感じたのかもしれない。

 寮長は四十代半ばぐらいの元気のいい女性で、工場の職員の夫人ということである。彼女は空いている部屋があるのだからと恵美子に泊まるように勧め、夕食はどうしたかと聞いたが、恵美子は食べ損なった弁当があるからと、その好意を謝した。

 恵美子は二升ほどの五分搗きの白米を土産に持ってきており、皆さんでと差し出した。

「田舎のことで、気の利いたお土産がなくて」

 恵美子はそう言ったが、おそらく何よりだっただろう。この米を、二十人を超える娘たちにもれなく割り当てるなら多寡の知れた量にも思えるが、そうでもない。

 二升の米を二十合の飯、つまりドンブリに二十杯分の米と勘定するのは現在の感覚であって、筆者が代わって計算させていただくと、恵美子の握り飯と同じ割合なら、二升の米は約五升の麦と混ぜて炊かれることになるから、この米でドンブリ七十杯分の麦飯ができる計算になる。七分の麦飯でさえご馳走であることはすでに書いてきた通りである。

 しかし香代子は、この土産を予期していたようで、少し別のことを考えていた。

「先生」と、香代子が言った。彼女たちは寮長の婦人をそう呼んでいた。

「姉が持ってきたものを、私が言うのはいけんと思いますけど、このお米で白いお粥を炊いて増田さんに食べさせてあげていいでしょうか」

 寮長は、あらあらと笑い、「いいも悪いも、ああた《あなた》が頂いたお米ですよ」と言った。

「香代ちゃん、どなた?」

「日向泊《ひゅうがどまり》から来ちょるひと。ずっと熱が下りんで休んじょるんよ」

 結局米の粥は「あたしが炊きまっしょ」と寮長が言ってくれたので、香代子は姉を案内して日向泊から来たという娘の部屋に見舞いに行った。

 日向泊は大入島の北部にある浦のひとつで、正確には日向泊浦という。その昔、神武天皇が東征の際に立ち寄ったという伝承が残っており、この名がついた。

 居室は八人部屋であった。といってもその数のベッドが並んでいるわけではない。畳敷きの和室で、壁に向かって文机が二卓だけ並んでいる。手紙などを書く時には交代でこれを使い、あとは、部屋の中央におかれた飯台が寛ぎのスペースである

 私物類は、部屋の隅に行儀良く並べられた行李に収められている。プライバシーのすべてはその中に詰め込まれていて、それ以外は、完全な共同生活の空間になっている。

 窓側には布団が一組敷かれて、その娘がふせっていた。枕辺には同室の者がいたが、看病が必要というほどの病状でもなく、交代で付き添っているだけということだった。香代子はその付き添いの娘に、もうすぐお粥ができるから、と告げた。

 香代子が増田さんと呼んだ娘は、咲子といった。彼女は申し訳なさそうに、枕に置いた頭を会釈させて言った。

「さっき、晩ご飯をいただいたのに悪いわあ」

「そう言うても、お芋のおもゆみたいなもんじゃったろ。せっかく山本のお姉さんが、お米をどっさり持って来てくれたんよ。いっぱい頂きんさい」

 付き添っていた、こちらの伸江という娘が恵美子に語るところでは

「私たちも少し前まではお米を頂けたんですけど、今年になってから配給が少なくなって」

 今ではうどんや、そばを練ったスイトンのようなものが増えたという。

 これらの献立の名前だけを見ると、それはそれで旨そうではないかという気もするのだが、その味や食感は、現在の感覚ではとても計れない。ダシや調味料が、ないも同然なのである。

 また、うどんといってもそれは小麦粉だけで作られているわけではなく、雑穀類や豆かす、つまり大豆から食用油を絞ったあとの残り滓を、粉に挽いたものが混ざっている。おそらく、私たちの想像を超えた味気なさだったのではないか、と思う。

 そういう中にあって、米だけの飯や粥は最高の美味だったのである。米という穀物の偉大な特長は、一切の調味料を必要とせず、私たちに旨いと感じさせるところだろう。

 やがてそれを香代子が運んでくると、咲子は伸江に支えられて敷布団の上に体を起こした。伸江は衣文《えもん》かけに提げてあった、綿入れ半纏をとって咲子にかけてやった。

 恵美子はその半纏に見憶えがあった。徳と彼女が交替で縫ったものに間違いなかった。

 そういうこと、と妹を見ると、香代子は、ごめんね、というふうに、顔だけで姉を拝んだ。恵美子は新しく一週間ほどかけて縫った半纏の、丹精した価値が、二倍に膨らんだような気がしてうれしくなった。

 香代子は、姉が土産に持ってきた、徳が漬けた梅干の小瓶をさっそく一緒に持ってきた。

 粥は、純白の米粒が半透明に透きとおって輝いている。その上に、赤紫蘇で真紅に染まった梅干をのせて、香代子が言う。

「これは久保浦でとれた梅の実。それから守後の紫蘇」

 ところが、これで咲子が胸を詰まらせてべそをかきそうになったので、恵美子は気をつかい妹を促して部屋を出た。ウチたちが見ていたら食べられんじゃろ、そう言ったのだが、じつは粥を見て、自分自身の空腹を思い出したのである。

 そのあと香代子は寮長に呼ばれて、恵美子に泊まってもらう部屋に自分の布団を運ぶよう、なかば命令されるように、言われた。

 こうでもせんと、ああたは他の人たちに遠慮して、お姉さんとろくに話もできんでしょう。寮長の目はそう言っていた。香代子にはわかっている。

 姉妹は水入らずになると、灯火管制の薄暗い電灯の下で、恵美子がずっと持っていた弁当のふたつの握り飯を、ひとつづつ食べた。

 

 翌朝、香代子が出勤すると、恵美子も帰宅のためにすぐに寮を出て駅に向かった、その日も一日がかりの汽車の旅である。それでも荷がほとんどないので足取りは軽かった。

 その日の弁当はふかした芋だった。昨夜、姉が弁当を残していたことを訝しんだ香代子が、事情を聞いてしみじみと笑ったあと、

「ほいたら姉ちゃん、明日のお弁当はどうするつもり」

 そう言って、寮長の婦人にわけを話し、たくわえを分けてもらって蒸かしたものだった。

 香代子はそれから紙幣の入った封筒を出し、徳にあげてほしいと姉に頼んだ。

「ほんとは父ちゃんにあげんとイケンのじゃろうけど、母ちゃんが一番大変じゃろ」

 香代子はそう言い、姉のリュックのいちばん底にその封筒を押し込んだ。

(あれで先手を打たれてしもうた)

 恵美子は妹へあげるはずだった小遣いを渡しそこなってしまった。しばらく会わない間に、彼女は少し大人びたようだ。そんなことを考えながら歩くうちに、恵美子は駅に着いた。

 この当時の博多駅は、現在の場所から北西に六百メートルほど離れた祇園町の界隈にあり、ルネサンス様式で設計された二階建てのモダンな建屋だったという。

 もっともそんな知識を持たない恵美子には「ずいぶんハイカラな建物」というだけのことで、見とれたり、感心するような対象とはならなかった。

 確かに、大理石がふんだんに使われた床や、彫刻を施された柱や、アーチを多用した室内のデザインは豪華そのものだったが、恵美子の視野のほとんどを占めていたのは人の波だった。

 彼らはおそらく買出しに出かけるところなのだろう。大きなリュックを負い、竹篭を両手に提げて、切符売り場に長い行列を作っていた。

 彼らはみな芋粥をすすって生きており、その芋を手に入れるためには、そうして、ほとんど一日をかけて、つてのある農村部まで出かけて行かなければならなかったのである。

(大変なんじゃなあ)と恵美子は思い、

(それに比べると守後はなんとエエとこなんじゃろう)とふるさとを思う。

 恵美子は文太郎の血を引いて結構な読書家だったが、このとき彼女は以前に読んだ、芥川のその料理と同じ名の短編を思い出した。

 あるとき下級貴族の何某が、彼にとってまったく贅沢な味である芋粥を、一度は腹いっぱい食べてみたいものだと言う。田舎に地盤を持つ別の貴族がそれを聞いて、彼を地元に招待し、芋粥をいやというほどおごるという筋立てだった。

 物語の中の芋粥は、自然薯を甘葛《あまづら》の汁で煮溶かすというたいそう旨そうな料理で、今どきのサツマイモを刻んで煮ただけの芋粥とはものが違うのだが、都では高級料理とされるそれが、田舎ではふんだんに食えたという点が、恵美子には今の世の中に重なって思えるのである。

 そうすると、この博多駅のハイカラな建屋は平安京の豪壮な伽藍《がらん》や寝殿造りであり、そこに並ぶ人々は大昔のみやこびとということになる。

「ここがみやこなら、守後はさしずめ、田舎の豪族の里ということになるなあ」

 辛気臭い芥川今昔物語も、恵美子にかかれば御伽草子のようなファンタジーに変わる。

 恵美子の空想の中で、文太郎は頭に烏帽子をのせた村の長者になり、桂佑や亮は、野で兎を追い回す小冠者の姿になった。女房殿の徳がこしらえているのは芋粥ならぬさつま汁だ。

 もくねんと仏頂面を並べる人々の列の中で、彼女は烏帽子を被った父親を想像して、ひとり笑いがこみ上げてくるのを抑えるのに苦労した。もし戦争中でなければ、大入島や守後浦は、確かに御伽草子にでも出てきそうな、浦の豊かな里であったに違いなかった。

 恵美子はそれから旅行許可証を提示して切符を売ってもらい、来る時と同じ路線をつかって佐伯に帰った。大分を過ぎてそろそろ家が近いことをふと意識したとき、家族への土産を何も手に入れていなかったことに気がついた。

 しかし良く思い出してみれば、その時の博多には、これといって土産にしたいようなものは何も売られていなかった。大入島には生きていくために必要な、すべてが揃っていた。

 

 女子勤労挺身隊について残された史料の中で、私たちが一般に見る機会の多いのが、当時のニュース映画の映像である。そこには彼女たちや、同様に勤労奉仕する中学生などが、大人と同じ労働環境で、突貫作業に精励している姿が映っている。

 戦時中に制作されたこれらのニュース映画は、報道と呼ぶには少々無理があり、まったくは国民の戦争協力への意識を高めるためのプロバガンダであった。ところがこれが戦後になると今度は逆に、国家がいかに国民を苦しめていたかというプロバガンダに転用された。

 流れる映像は同じでも、封切では「こんなにがんばっています」というキャッチフレーズがついていて、再放映では「こんなに働かされていました」というわけである。どちらにしてもその時そこで、青春を機械油にまみれさせて働いていた彼女たちの、誇りと苦悩とを、中正な言葉語りで後世に伝えるためのものではない。

 香代子が就業していた軍靴の製造作業は、十七歳の娘の仕事として、とりたてて何かを語るようなものではない。皮を裁断し、型にはめて整形し、ミシンで縫ってゴムの底を貼り付けるといった作業は、いわゆる普通の女工さんの仕事とさほど変わりがない。

 むろん衣食住の点での我慢は多かったし、人手不足によるノルマの増大などで、楽な勤務というにはほど遠かったが、彼女の労働環境は、次に述べる航空機製造工場での労働に比べればまだましなほうであった。

 航空機は当時の決戦兵器であった。なによりもその数が戦争の勝敗を決するということを、政府はヒステリックなほどに宣伝し、その増産が戦時下の最優先事項とされていた。

 前章で紹介した対潜哨戒機「東海」を製造していた、同じ福岡の九州飛行機では、それこそ不眠不休で生産ラインを稼動させていた。

 この飛行機について調べるうちに、工場の床にむしろを敷き、そこで仮眠をとる工員の姿を捉えた写真も見た。その背景には、別の工員が、同じ工場で製造されていた零式水上偵察機に取り付いて作業をしている姿も見える。睡眠も交代制だったということだろう。

 なにも工場の床に寝なくとも、宿舎なり自宅に戻り、短い時間でもぐっすり休んだほうが、作業の効率が向上するのは分かりきっている。だが、そうはいかない事情もあった。

 八幡が空襲されて以来、彼らは常に敵の攻撃に備えていなければならなかった。宿舎や家にいる間でも、寝巻きに着替えて熟睡するなどということは許されず、空襲警報が発令されたら即座に避難できる服装で、仮眠する程度の休み方しかできなかった。それならばどこで寝ても同じだということであろう。

 また、最優先されていたはずの航空機関係でさえ、製造ラインを臨時停止させざるを得ないいわゆる「待ち状態」という事態がたびたび発生していた。

 機体を構成する外板のプレス整形は終わっているのに、それをフレームに固着させるための鋲が届かない。鋲の製造が遅れているのは、マグネシウムの在庫が払底してしまったからだ。あるいは、鋲を作る工場の空襲被害が原因だ。などというリレーの拙さによるものである。

 この「待ち時間」は彼らに休息のひと時を与えただろうか。必ずしもそうではないと思う。

 その部品はいつ来るか分からない。しかし届きさえすれば、たとえ深夜であっても、仮眠を始めてわずか一時間後であっても飛び起きて、ただちに作業を再開しなければならない。

 そのためには常に現場に待機しておかなければならないし、作業再開後は、遅れを取り戻すために、さらに厳しい時間的制約の中で作業を進めなければならない。

 このように不規則な労働環境では、生産効率を高めるどころか維持することさえ困難である。そして、さらに深刻な問題は、作業の精度を保つことができなくなるということであった。

 彼らが苛酷な労働に耐えれば耐えるほど、そこで作られた航空機の品質が低下するという、皮肉というにはあまりにも残酷な現実が、そこにあった。

 

 昭和二十年二月十三日の火曜日。

 いつものように、大入島の石間浦から守後浦にかけての水面を滑走し離水した、零式水偵の四機編隊は、大入島東岸最大の集落である荒網代《あじろ》浦から約六キロ東に浮かぶ竹ヶ島を目標に、降下爆撃の訓練を始めた。それは井尻文彦の分隊だった。

 これらの訓練は基地から見られている。双眼鏡も用いられるが、直線で七キロほどの距離は船乗りである海軍の将兵には「ちょいと先」ていどであって、直接目視で見ることも多い。

 編隊各機は何度もダイブを繰り返したが、さすがに上手くなっている。基地では予定された降下の回数を数えており、そろそろ終了というところで、術技おおむね良好との判定を下した。 

 同じころ付近の海面に出張っていた例のトンボ釣りも、そろそろ訓練終了だろうと見極め、一足先に着水海面に移動するために機関を始動させた。

「竹崎中尉、ちょいとがぶります。波をかぶらんで下さいよ」

「がぶってくれ。久しぶりに船に乗ったのはいいが、揺れが気持ちよくて眠くなっとる」

 その日竹崎は、竹ヶ島のすぐそばで降爆訓練を見て研究しようと思いたち、ペアのふたりも一緒に、救難艇に同乗させてもらっていた。自分たちが爆撃目標としている米潜水艦からは、上空の水偵がどのように見えているのか知っておくためだった。

 三人とも飛行服を着用していた。防寒のためである。温暖な瀬戸内海気候の佐伯でも二月の海上はまだ寒い。

 救難艇が針路を大入島の南に向けたころ、一機が降下体勢にはいった。それがその日最後のダイブになるはずだった。機体が翼をひらめかせて爆撃コースに乗った時には、その降下角は目標から四十度にぴたりと定まっていた。それは模範的と言っていい操縦だった。

 竹崎の耳に聞き慣れた降下音が届いてくる。エンジン音と、機体が空気の壁を切り裂く音がひとつになり、降下につれて近づいてくる。救難艇はその水偵に尻を向けることになる針路で走り出したため、竹崎は水偵が正面に見える後甲板に移動しようとしていた。

 彼の視界に入った水偵は、その時引き起こしに入ったと見えたが、次の瞬間、機体から翼がちぎれて飛び、続いていた急降下の音が途切れ、そのものは海に落ち、水柱を上げた。

 一瞬だった。

 

 竹崎は無意識のうちに、感情を一切排除した頭で次にとるべき行動を計算し、まず操舵室に向かって回頭するよう求めた。求めてから、何が起こったのかを考えた。

 その機体は引き起こしに入った直後、右翼が中ほどで空中分解を起こして飛散、浮力を失いそのまま海上に墜落。爆発および火災は認められずも、搭乗員の脱出は視認できず。

 竹崎はそれらを信じたくなかったが、操縦員として鍛えられた彼の動体視力は、わずか三秒ほどの瞬間に起こった現実を確実に捉えており、捉えた瞬間には飛行気乗りとしての判断力がそれを事実としてすでに認識していた。事実の否定を求める感情はそのあとについてきたが、それは何の役にも立たなかった。彼は自分の感情を、今度は意識的にそこで封じた。

 救難艇は全速力で墜落地点に急行したが、もともとが鈍足のふねであったから、竹崎たちの気ばかりが急いた。上空では編隊機が高度を下げて旋回を始めた。竹崎は上空で心配しているはずの、井尻の顔を思い浮かべた。貴様の部下はきっと助けてやる。

 竹崎は、偵察員の工藤と電信員の大石に集合を命じると、操舵室にいる艇長に歩み寄った。艇長は予備役から応招者らしく、年かさの准士官で、階級は兵曹長だった。

「艇長、俺たちにはこの船の要領がわからん。指示を願います」

 艇長は、兵隊としては大ベテランで、竹崎の五倍を超える軍務経験を持っていたが、階級は竹崎のふたつ下位である。その自分の指揮下に入ると申し出た若い中尉の顔を、彼は見つめ、強く大きくうなづいて、

「わかりました」と答えた。

「まず何をしたらいいか」

「見張りを頼みます。もし搭乗員が放り出されていれば、必ずしも墜落地点におるとは限らんのです。見張りはひとりでも多いほうがいい。機体の揚収は任せてください」

「了解です。工藤」

 竹崎は操舵室の外で待機していたふたりに、マストに登って、海面に生存者を捜索するよう命じた。偵察員の工藤はいつも機上で愛用している双眼鏡を持ってきていた。

「大石、来い」

 工藤はマストに取り付いた。マストは、要は一本の柱であり、登るための梯子などはついていない。登る時には便利でも、一気に滑り下りるにはむしろ邪魔だからである、小学校の校庭などにある登り棒のように、手足を器用に使って猿のように登るしかない。

 救難艇は全速力で走っているために船体は大きくがぶっている。工藤は首に掛けた双眼鏡が振れないように革の紐を咥え、一気に登り詰めた。大石もこれに続いた。

 竹崎自身はマストの基部に立って、前方左右を捜索した。竹ヶ島と、墜落した機体のほかは漁船の一パイも見当たらない。彼は、搭乗員を救うことができるのはこの船だけだと知った。

「分隊士。機体が沈みます」

 大石の泣きそうな声が上から響いたが、それはとうに竹崎にも見えている。

 海軍機は、海面に不時着水してもしばらくは浮いていられるように設計されているのだが、墜落の衝撃で機体に破孔を生じ浸水を誘発したのであろう。零式水偵は、頭から、垂直尾翼を向こうに傾けた横倒しの体勢でゆっくりと沈んでいこうとしている。

 もう少しのところに見えているのにどうしようもできない。竹崎は海に飛び込みたい衝動に駆られたが、それが無意味であることも良く分かっていた。この鈍足の救難艇でも、彼が泳ぐよりは、まだいくらかは早いのである。

「大石、見張りだ。飛行機はいい、搭乗員を探せ。広く見ろ」

 工藤の叱咤は竹崎にも届いた。そうだ。搭乗員が海上に脱出できていることを祈ろう。

 やがて機体は完全に水没し、救難艇は、そのタイミングが時間の神の悪意であったかようにその直後に墜落点に到達した。

 せめてものことにと言うべきか、澄んだ海水を通して機体がまだ見えている。

 波というものは、海面下でもうねるものなのだろうか。機体は大きく回転しながら、時には浮上し、また沈むというふうに、波の下に沈んだあと海中で浮いていた。いや、浮いているのではなく、潮がうねって、沈ませないのだ。

 艇長は墜落点に艇尾を向けるように位置を維持しながら、接近中にすでに用意が済んでいたロープを海中に放り込ませた。その先にはU字型の鉤がタコの脚のようについており、これを機体のどこかに引っ掛けて、起重機で引っ張り上げるのである。二度ほどこれを試みてみたが鉤は二度とも空しく揚がってきた。

「よし、ここは俺が潜る。艇長、もう一回鉤を入れてくれ」

 竹崎は飛行服を脱ぎ始めた。機体のところまで潜り、鉤を引っ掛けてくると言うのである。

「いけません、中尉」

 艇長はしかし、きわめて落ち着いた声でこれを止めた。それから乗組員には、今まで通りの作業を続けるように命じた。竹崎も、興奮していると見えるのは逆効果だと思ったのだろう、むしろことさらな落ち着き振りを、相手に見せて応じた。

「潜りは得意だ。この気温なら水温もたいしたことはない」

「潮が速いんです。見てください、何トンもある機体が振り回されておるでしょう。波の下で渦を巻いている。あの島の」

 艇長は大入島のほうを見て、それから続けた。

「魚みたいな連中でもこの辺で溺れた者がいる。中尉まで死なせるわけにはいきません」

「搭乗員が乗っておるかも知れんのだ」

 結局、最後は艇長を威圧するような語気になってしまった。竹崎は言ってから少し悔いた。だが、戦友が目の前で死にかけているかもしれない、という竹崎の主張は、他のいかなる理由よりも正当で、しかも強かった。それを言ってしまったのだ。あとには引けなかった。

 しかし、艇長は瞬きもせずに竹崎を見つめ、こう言った。

「中尉は先ほど、わたくしに、指示を頼むと言われました」

 お互いの沈黙のあと、竹崎は「そうだった」と言って奥歯を噛み、艇長に従った。

「沈みます。今度は速い」

 工藤が言うように、その零式水偵は、今度こそ深い水の底への、最後の急降下に入った。

 胴体の日の丸の赤が、濃い紫に変わって、そして見えなくなった。

 艇長以下の救難艇乗組員は甲板から挙手の礼を贈った。やや後れて、三人の搭乗員もそれに倣った。

 

 波に浮いている飛行靴を発見したのは、乗組員のひとりだった。

 工藤と大石は離れた地点を捜索していたためにそれに気づかなかった。靴は、機体が沈んでいった地点に漂流していた。そこに遺留品が浮いたということは、やはり搭乗員が乗ったままだったのかもしれない。

 結果だけ書けば、三人の搭乗員の遺体は結局発見されず、遺留品もこの靴ひとつを回収しただけで、捜索は打ち切られることになる。

 救命艇に拾い上げられた靴は、艇長の手から竹崎に渡された。彼はそれに黙祷を捧げたあと外側を丹念に検査し、やがて内側を覗き込んだ。彼はしばらくじっとそこを見つめていたが、それから胸の前でそれを両手に掴んだ姿勢のまま、泣いた。

 想いは声にはならず、涙だけが出た。

 その飛行靴は右足用だった。内側に「細心」の二文字があった。

 

 海軍中尉井尻文彦の葬儀は、この三日後、彼の原隊である佐世保海軍航空隊で行われた。

 井尻の父と次弟が列席したが、この時のことは、またのちに書く機会がある。

 そのころには大入島の住民の間でも、竹ン島のねきで下駄履きが一機落ちた、ということが話題になっていた。漁に出る時には船の上から手を合わせ、あるいは手元にない酒の代わりに飲み水を海に献じて殉難者の冥福を祈った。

 また、子供たちの間では、誰ともなしに説く者がいて、それからは水偵の訓練を眺めながら上手いの下手のと好き勝手を言うものは、ひとりもいなくなったということである。 

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