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5章 下駄履き

 文太郎の家には風呂があった。

  昭和十九年の当時、家庭風呂の普及率は言うまでもなく現在に比べて低い。昭和三十年代に入ってから六割に達したという資料があるから、このころは半分以下と考えても良いだろう。 

  都市部では町ごと横丁ごとに銭湯があって人々の社交場としても賑わっていたが、世帯数が少ない守後浦では客の数など知れているので、銭湯の経営は成り立たない。そういう事情から、この浦の家庭風呂の普及率は、この当時であってもほぼ百パーセントに近かったらしい。

 風呂は五右衛門風呂である。

 浴槽全体が鋳鉄でできており底部は緩い球状の釜型をしている。釜底の下で燃料の薪を焚き直火で湯を沸かす。厳密には、全体が鉄製のものは長州風呂というのだそうだが、一般的にはこれも五右衛門風呂で通っている。

 その名前は、豊臣時代の盗賊と言われる石川五右衛門に由来する。

  この人物については詳しい史料がほとんど確認されておらず、複数の史料を総合した結果、ただ鉄釜の中で、油で煮られたという凄惨な最期が窺えるだけである。これが五右衛門風呂の名の出所であるらしい。

  彼についてのそれ以外のエピソードについてはすべて創作物に由来しており、特に江戸期の歌舞伎や浄瑠璃が原典となっている。極端な例では、絶命の直前に辞世を詠んだというものや母親や我が子と一緒に処刑されたというものまであるが、いずれも伝承や風説、または創作の域を出ない。

  なにしろこの男は、自身の処刑のパロディとも言えるネーミングの、この風呂釜によって、その名を後世に残すことになったわけであるが、彼が与えられた刑罰自体は「釜煎りの刑」といった。熱湯で煮られるのを釜茹で、油で煮られるのを釜煎りというらしい。

  五右衛門は盗人として処刑されたが、詳しい罪状はわかっていない。彼が捕縛された京都における、当時の司法長官は京都所司代の前田玄以《げんい》である。

  彼については佐伯の初代藩主毛利高政の、関が原合戦に付随した田辺城攻めを紹介した際に少し触れた。玄以はもと比叡山の僧でありながら、還俗して秀吉に仕えた時にはキリシタンに理解を示し、彼の息子たちはその影響でキリスト教に改宗さえしている。そういった宗教家としての精神性から推察すると、この玄以が、進んで釜煎りのような残酷な刑罰を裁定したとは思いにくい。おそらくは秀吉の意向であったのかもしれない。

  釜茹でや釜煎りの刑は、戦国時代においてはさほど珍しい刑罰ではない。一揆の処罰など、見せしめの要素が強い場合に良く用いられている。

  義賊としての五右衛門を描いた創作の中には「格別の慈悲をもって、すでに煮えた油の中に落として云々」というくだりがあったりする。その意味するところは、おまえの義心に免じて苦しむ間を与えず、すぐに死ねるようにしてやる、というわけである。であれば、そこから、慈悲を垂れる必要などない見せしめの場合はどうであったかが、おおむね推察できる。

  おそらくは、鉄釜に水や油を満たして罪人を浸からせておき、その下から火を焚くのだろう。中の人間は熱さに苦しみぬき最後には悶え死ぬしかないのだが、さらに火勢を加減することで苦痛を与える時間をいかようにも長くできる。単なる死刑というよりは、拷問やなぶり殺しの色彩が強い残酷な刑罰であった。見せしめであれば、そのほうがむしろ効果的であろう。

  少し残虐な記述が続きすぎた。

 しかしそういう因みを持つ人物の名を、本来ならばゆったりと疲れを癒すための風呂の名にもってくるというのは、いささか洒落の限度を超えてはいないだろうか。

 一般的には、石川五右衛門が釜茹での刑にされたのにちなんで、この風呂を五右衛門風呂と呼ぶことになった、というのが定説である。この説自体に異論はないが、先に書いたように、それだけでは洒落にならない。もう少し、石川五右衛門の処刑について想像してみたい。

 彼の最期を伝えている史料からは、五右衛門が後の世の創作にあるような義賊であったとは読み取れない。であれば慈悲は必要ないことになる。罪人はまだ冷たい油の中に立たされる。

 五右衛門は都を荒らしまわっていた盗賊団の首領とされているから、このころ流行していた、人を食った傾き者だった可能性がある。どのみち死ぬのだ。熱くなってきたら見物人に見得のひとつも切り、秀吉を愚弄して「いい湯加減にて候」くらいのことは言ってみせようと、案外ふてぶてしく開き直っていたかもしれない。

 ところがそうはいかなかった。彼が立っている釜底が直火で焙られ始めると、油自体はまだ冷たくても足元はすぐに火の熱さになる。いかに傾き者でもこれには我慢ができまい。仮に、比較的に温度の低い側面に足を踏ん張って体を支えようとしても、釜の中に満たしてあるのは湯ではなく油だから、足が滑って姿勢を保つことができない。

 結局、五右衛門にできるのは、片足づつ交互に釜の底を踏む、絶望的な足踏みを続けることだけである。足踏みのサイクルが早ければ早いほど、足の裏に感ずる苦痛は少ない。ところが水よりもさらに抵抗の大きい油である。これは苦しい。だが続けなければさらに苦しい。

 しかし本人にとっては命がけのそのステップも、動作そのものはむしろ滑稽に見える。彼に対して悪意や敵意を抱く人々に、それはこの上ない見世物となったろう。

 こうして、天下の大泥棒もついには人々の笑い者となり、最後は力尽きて油の底に沈むしかない。彼の死にざまが、実際はどうであったのかを伝える史料は一切残っていないが、それはこのさい関係ないとしよう。というのも、さすがの石川五右衛門も、足の裏だけは弱点だったというのが、五右衛門風呂のネーミングのみそになる、と思えるからである。

 

 五右衛門風呂の名には、アキレス腱や弁慶の泣きどころと同様に、どんな強者もここだけは弱かったという体の部位を意識させ、風呂を使う者に注意を促す仕掛けが練り込まれていると考えていいだろう。

 五右衛門風呂は直火で湯を沸かすのだが、風呂として使うのだから沸騰させることはない。湯が冷めるのを計算して熱めに沸かすとしても、せいぜい四十度台の半ばごろで火を落とす。その後は、完全には消火していない熾《おき》の残りが湯を適温に保つ役割を果たす。五右衛門風呂が長時間にわたって湯が冷めにくいという利点を持つのは、これが理由である。

 この場合、火があたる浴槽の底頂部はかなりの高温になるのだが、上部に行くにしたがって湯温と同じ程度の温度に落ち着いていることになる。だから火を落とした五右衛門風呂では、鉄製の浴槽に背中をもたれかからせても熱さの刺激はないが、足を置くべき釜底の部分だけは熾き火のせいで火のように熱い。そこで、この風呂をつかう時は、釜の底に木製の床を敷いてその上に座りこむように入る。

 この床板は、だいたい釜底の直径に合わせたサイズになっている。文太郎の家では、巾木を並べて円形に整形した、鍋の蓋そっくりの物を使っていた。

 誰も入浴しない時は、この床板が湯の上に浮いて風呂桶の蓋の役目を果たす。直径が上縁のそれよりはふた周りほど小さくて密閉こそできないが、それでも保温には相当の効果がある。

 片面には鍋蓋と同様に持ち手がふたつ付いている。○の中に二の文字を書いたデザインで、この持ち手の面が下になるように、釜の底に沈めるのである。木製だから当然浮こうとするがこれを両足で踏み下ろすようにして、自分も湯に入りながら体重で沈める。最初は少しコツがいるが、慣れれば片足でもできるようになる。

 これで足元の安全は確保される。先にも書いたように、釜側面の温度は湯温に近いところで落ち着いているから背をもたれかからせても熱くない。微妙なのが尻のあたりで、熱源に近いだけに、火傷はしないが熱いのは熱い、という程度に熱い。

 さて、五右衛門風呂は、以上のような手順を踏んでつかわないと非常に危険な風呂である。知らない者が初めてこの風呂に入ろうとすると、たいていはまず湯に浮かんでいる床板に気をとられる。プカリと浮いている様も妙にユーモラスで気が緩み、蓋にしては半端な大きさだななどと、思考をあさっての方向に向けたまま「蓋」をはずし、そのまま足を入れたりする。

 そこで五右衛門風呂という名が生きてくる。

 歌舞伎が庶民の娯楽だったころなら、彼が釜茹でにされて悲壮な最期を遂げたことは誰もが知っているから、なんとも恐ろしい名前の風呂だと皆が思う。

「なに、五右衛門とはあの石川五右衛門がことか。おいおい釜茹でにされちゃあ叶わんなあ。なにかい、そんなに熱いのかい」

 そこで宿屋の主人なり、風呂桶屋の親父なりが、コホンと咳払いのひとつもしてから、こう言うのであろう。

「いやもう、それがまったく恐ろしく熱い風呂でございまして、かくかくしかじか」

 この口上を聞いた客は、なるほど洒落が利いておると膝を打つ。そして、これや面白いと、むしろその面倒な入浴の手順を楽しむことになり、しかも、それで彼らの足の裏の安全は確保される。

 風呂の名が五右衛門風呂でなかったらこうはいくまい。入浴の手順をきちんと説明しても、それで安全だけは確保されるが、客には単に面倒な風呂だと思われる。逆にこの名なればこそ「いい湯加減にて候」などと、傾き者気分も味わえると言うものであろう。

 この名を考えた、おそらくは市井の無名の人は、いささかブラックユーモアのカテゴリーに属するこのネーミングのそういった効果を、十分に計算していたのではないかと筆者は思う。薬は毒からできるのだと。

 

 さて、文太郎の家の五右衛門風呂。この風呂を焚くというのが、ひと仕事であった。

 何度も書いたように水道もガスもない。蛇口をひねればお湯が出るなどという環境は夢にも出てこない。井戸から汲み上げた水を、木桶で風呂釜まで運ぶという作業を何度も繰り返す。

 文太郎の家の五右衛門風呂は、上の縁の直径が三尺ほどもあったというから、これに六分の湯を張るだけでも一八〇リットルの水が必要になる。灯油のポリタンク十杯分である。さらに体を洗って流してしまう分の補充用の水も、風呂場の隅に置いた大ガメに貯えておかなければならない。

 風呂は別棟にされている。風呂場に溜まる水気が建物を傷めるからで、母屋の庭先あたりに二坪ほどの風呂の棟があった。当時の農家作りとしては一般的な配置である。そこに井戸水を運ぶのは桂佑と亮の仕事で、九歳にしては小柄な亮などは大きな木桶を使えず、二十回ほども井戸と風呂とを往復しなければならなかった。

 焚きの担当は文太郎か桂佑だったが、亮が手伝うことも少なくなかった。その他の手伝いはできれば避けたい苦行だったが、どうも男の子というものは火を焚くことを好むようである。

 マッチは貴重品であったから、台所の火消し壷を持ってくる。その中に残っている消し炭をふうふう吹いて小枝に火を移し、これを焚き口に差し込む。焚付けには松や杉の枯葉を使う。それから小枝の類でだんだんと火を大きくしていき、最後に太い薪をくべる。

 これらの枯葉や小枝を集めておくのは子供たちの仕事で、材木を斧や鉈で割って、手ごろな薪にしておくのは文太郎の仕事であった。

 

 文太郎が竹田から戻った翌日のことである。文太郎と亮が風呂を焚いている。十月も後半になると、風呂を焚くころはすでに夕陽が沈みかけていた。

 この日、彼は朝から家を出て近くの浦をまわり、石間浦で運良く鯛を仕入れると、久保浦の安藤武士《たけし》を訪ねて借りていた金を返した。

 武士は美弥にいいつけてその鯛をすぐに刺身に下ろさせ、かしらを吸い物に仕立てさせて、台湾での大戦果の祝いだと文太郎に振舞った。そんなことでつい時を過ごし、彼が家に帰ったのはもう夕方に近かった。ちょうど、亮が水を運び終わったところだったので、一緒に風呂を焚くことになった。

「ああ、亮、それはの、最後のほうくべる木じゃ」

「お父ゥ、木はどれも同じじゃねえんか」

「違うのう。燃え易うて、すぐ燃えきってしまうのもありゃァ、燃え難い代わりに、ええ熾《おき》になる木もある。そういう木は最後に入れちょくとな、湯が冷えんで具合がエエんじゃ」

「ふうん。お父ゥ、これは何ちゅう木か」

「ナラじゃろうな」

「ナラ」

「そうじゃ、こう、楢と書く」

 文太郎は焚き口の灰に、木の枝で字を書いてみせる。

「この木は杉じゃろ」

「杉じゃ。ホウ、書けるンか」

「習うた」

「杉は早う燃える。くべてみい」

 亮は、自分が放り込んだ薪に火が廻り、燃え上がるまでじっと見ている。炎は一瞬たりとも同じ形をとどめずに舞い、少年の頬を赤く染めている。その肌は艶がなくなりかけ、かさつき始めてもいる。風が冷たく乾燥し始めたからであろう。栄養も足りないのかもしれない。

 炎の形だけではなかった。文太郎にとっては、息子との、何と言うこともないカマドの前の僅かな語らいも、決してそこに留めることの叶わない、ひと時かぎりの温かい灯しであった。

「こん亮と、こうしちょられるンも、いつまでか」

 そんなふうに思うことは、いつもの文太郎にしては感傷的に過ぎた。男の子というものは、いつかは必ず軍隊に送ることになるもので、それは十分に承知していたし、だからこそそれを前提の父と子であり続けてきた。

 しかし、今までのそんな覚悟と共にあった日々も、無駄だったのではないかと思わせるほど、戦局は待ったなしの状況になってきている。

 台湾での戦果は、文太郎が竹田を発って家に帰り着くまでの二日間に、さらに拡大していた。この日までの戦果を総合すると、航空母艦十を含む米艦艇十六隻を撃沈したと発表されており、全国各地で戦勝祝いの提灯行列が催されていたが、しかし文太郎は浮かれてはいなかった。

「サイパンの時も、確か十パイやそこらの空母を沈めた、そう言うちょったが」

 文太郎は大本営発表を信用してはいた。しかし、それでもサイパンは玉砕したではないか。

 アメリカという国はまったくたいした国だ。空母十隻の損など、損の内に入らないのだろう。十円の損も、二十円しか入っていない財布では大損になるが、一万円持っている者にはどうということはないのかも知れん。

 損と数えるのがこの男らしい。アメリカは空母十隻の損でサイパンを獲った。その勘定なら台湾も危うい。なにせ、敵空母をまだ十隻しか沈めていないのだ。もし台湾を敵に獲られたら、九州にもじきに危なくなる。その時、この子らを、どうやって守るのだ。

「亮、今日はの」

「うん」

「お父ゥと一緒に入ってもエエけの、一番風呂に入れ」

「エエん?」

「エエぞ、寒うなってきたけの。その代わり、お父ゥの背中を流さにゃいけんぞ」

 この家の五右衛門風呂は、比較的大き目の風呂釜であった。それを据えた頃は今より家族の人数が多かったので、大人と子供ならふたりづつ入れるようにと、大き目のものを奮発したという。亮と一緒に膝を交わして入るくらいの余裕はあった。これが桂佑ほどに育つと、もう少々きつい。戦争のことを抜きにしても、亮と一緒に入れなくなるのは、さほど先のことでもないだろう。文太郎は、今さらのように、そう思った。

「晩飯はの、美弥ネェが鯛のアラ炊きを持たせてくれたけの」

 それは、文太郎が武士と食事をしている間に、美弥が、残った骨身や中落ちを使って作ったものであった。美弥は子供たちに食べさせてやってくれと言った。

「親父は竹田でアラを食い損ねたというに、子どもは鯛のアラを食うか」

 文太郎はその話をして、妻の妹を笑わせた。

 アラ炊きは格別なご馳走である。何といっても貴重な醤油をふんだんに使っている。武士の家であれば味醂も使っているかもしれない。味が濃く、甘い。煮汁を飯にかけただけでも旨い。

 文太郎が食い物のことで息子に優しい言葉をかけるなどは驚くべき珍しさであったが、亮は表情を変えずに「うん」と答えただけでずっと薪の火を見ている。

 男の子が、たかが食い物のことで、喜んだりはしゃいだりしてはならない。そう教えたのは文太郎自身であった。この息子はすでに、それを忠実に守るようになっていた。 

 夕陽は完全に落ちて、あたりを闇が覆い始めている。そのせいだろう、文太郎には亮の頬が一段と赤く染まって見えた。

 

 文太郎と亮が一緒に風呂に入り、長い広瀬武夫ばなしに息子がそろそろのぼせかけたころ、ラジオは台湾沖の戦いについて、これを総括する戦果発表を始めていた。

 それによると日本海軍の航空部隊は、台湾南方洋上に来寇した「敵機動部隊を猛攻」して、「其の過半の兵力を壊滅」させ、「之を潰走」させたという。

 ラジオはさらに戦果と損害の詳細を伝える。敵空母十一隻を轟沈または撃沈し八隻を撃破。そのほかの敵戦闘艦艇二十六隻を撃沈撃破。日本軍の損害は未帰還三一二機。

 そして、およそ一週間にわたったこの一連の戦闘が「台湾沖航空戦」と命名されたと結んで、大本営発表は終わった。

 大戦果ではあったが、ここ数日の間にすでに伝えられていた戦果に対して、さほど突出した数字が追加されたわけではなかったため、ラジオを聴いていた人々は、大晦日の後に必ず来る元旦のように、わりと冷静にこれを祝した。

 大勝利を祝って例の提灯行列をこの夜も繰り出した町は少なくなかったらしいが、ラジオを持つ家がほとんどない守後浦の夜は静かであった。

 風呂からあがった亮と入れ違いに、猿股一丁の桂佑が母屋を飛び出してくる。釜の焚き口に薪を数本放り込み、風呂場の中に向かって声をかける。

「お父ゥ、くべたけの、熱うなるぞ」

 火を強くするのは、先に入った人間が流した湯の量だけ水を追加するからである。こうしておいて桂佑も風呂に入る。文太郎はもう湯から出て、やせた体を手ぬぐいで拭いている。

 

 大戦果は、大誤報であった。

 米艦隊で沈没したふねは一隻もなかった。僅かに二隻の巡洋艦が航行不能の大損害を蒙り、空母その他数隻に軽微な損傷を受けたが、その後の艦隊の作戦行動に支障はなかった。

 この戦闘と戦果の誤報の問題については、これまでにも多数の著作で紹介されているので、あえて詳述は避けるが、このあとの物語を理解していただく上で、重要と思われる点をひとつだけ書いておきたい。

 この戦争中の日本軍の戦果は大本営発表という形で国民に伝えられたが、これが多くの場合、負け戦の事実を隠匿するために、誇大な戦果発表を伴う虚報が創作されて公表され、全国民を騙し欺き続けていたというふうに、一般的には理解されている。

 この認識は正しい。しかし完全ではない。

 戦後からこんにちにいたるまで、当時の軍部の専横や腐敗の象徴として、ひとからげに批判されているこれらの虚報は、大きくふたつに分類することができる。

 ひとつは明らかに捏造した大戦果である。ミッドウエイ海戦の、絶望的な大敗北についての戦果発表が好例で、大敗した事実が国民の戦意に与えるマイナス効果を恐れ、七分勝ち程度の勝ち戦として発表したと言われている。

 しかも、そもそも国民の戦意云々というのが言い条に過ぎず、実は軍部の責任回避が目的であったという意見もある。これはいわゆる確信犯の部類に入る。

 もうひとつは、その幻の大戦果を軍部自身も信じていた、もしくは信じようとした、というケースである。こちらの方が、むしろ問題が深刻で、しかも悲劇性が強い。

 台湾沖航空戦の大戦果はこちらに属している。確信犯ではなく、未必の故意と言って良い。大まかに書くなら、現場からの過大な戦果報告を上級司令部が鵜呑みにして、それを大々的に発表してしまった、というのが実情である。

 日本軍の主力となったT攻撃部隊は、敵戦闘機による防御が手薄な夜間に攻撃を集中したが、ほとんど灯火のない暗闇の戦場では、上空からの正確な戦果視認がほとんど不可能であった。

 その結果として、多数の搭乗員が、海上に上がった火柱を見て、自分の爆弾や魚雷が敵艦に命中したのだと誤認し「敵空母に魚雷命中」という戦果報告を持ち帰ったのだという。そしてこれを集計すると、計算上はあのような大戦果になった、というのが本当らしい。

 ところが彼らが見た火柱は、実はそのほとんどが、日本機が撃墜されて海面に激突した時のものだった可能性が高い。残酷だが、彼らは、味方の被害を、敵に与えた損害として勘定していたことになる。雷撃機は低空飛行で目標に接近するから、そのとき魚雷を抱いたままで被弾すれば、確かに海面に巨大な火柱を上げただろう。T部隊の未帰還機は、大本営発表の二倍を超える約六五〇機を算している。

 帰還した搭乗員の申告だけをもとに算出した、このあまりにも出来過ぎの大戦果に、疑問を抱いた現地の上級将校も少なくはなかったらしいが、最終的に大本営海軍部がこれを公認し、マスコミを通じて発表されることになった。

 大本営は戦時におかれた制度で、天皇直属の、いわば日本国軍の最高司令部と言っていいが、事実上は、陸軍の最上級司令部であった参謀本部と、同じく海軍の軍令部で構成されていた。 

 この両者は名前こそ異なるが機能権限は同じと考えていい。どちらも戦略、作戦、兵備等を担当し、実戦部隊に作戦実施を命令する権限を持つが、現場での指揮はとらない。

 つまるところ台湾沖航空戦の戦果は、その作戦を立案し実施を命令した当事者によって公認されたことになる。結果から見れば、それはお手盛りの最も醜悪な見本であった。客観的かつ冷静に考えれば、とてもあり得ないはずのこの大戦果を、それを企画した軍令部だけが信じ、かつ、これに酔った。

 彼らは毒を薬として使う途を知らなかった。代わりに砂糖をたっぷりぶち込んだ悪酒の酔いで大怪我から気を逸らそうとした。第二遊撃部隊に残敵掃討の任務を与え、呉防備戦隊にその出撃援護を命令したのは、いわばこの祝い酒の迷惑なお流れであった。

 第二遊撃部隊が出撃した翌日、鹿児島の鹿屋を発進した索敵機が有力な米機動部隊を発見し、その直後には第二遊撃部隊自身も敵艦載機の蝕接を受ける。司令長官志摩清英中将は、艦隊を奄美大島まで退避させて難を避けたが、これらの事実によって、連合艦隊の司令部は敵艦隊の健在を確信した。ところが信じがたいことにそれでも軍令部の酔いは醒めず、むしろ悪酔いの様相を呈していく。

 彼らは、それでも相当の損害を敵艦隊に与えているはずだと強弁し、負けた賭博の穴埋めにさらに掛け金を積むように、大規模な次期作戦を発令した。これが、フィリピンを戦場とした捷一号作戦である。

 彼らはここで、これまた信じられない罪を犯す。

 フィリピンの占領地そのものを防衛するのは日本陸軍だが、軍令部は、米機動部隊の健在という新情報を陸軍に伝えなかった。当然ながら陸軍としては、同方面に襲来する米軍の戦力がかなり弱体化していることを前提に作戦を構築することになる。それから後の戦局をいっそう悲劇的にする原因が、ここで生まれた。

 軍部が嘘の大戦果で国民を騙していた、という認識だけでは、この悲劇性は理解できない。今も昔もこの国に軍部という名の組織はなく、国民はラジオの前にいた者だけではない。

 海軍軍令部の自己愛の犠牲となった現地軍将兵こそ、最大の被害者であろう。

 

 佐伯航空隊の動きが、このところ活発になっている。

 台湾沖航空戦の端緒となった沖縄空襲以来、九州南西洋上への哨戒は連日、しかも高密度で実施されている。さらに第二遊撃部隊の出撃に続いて、捷一号作戦の発動に伴い、瀬戸内海にあった第三艦隊の出撃が決定して、航路にあたる豊後水道の厳重な哨戒が求められていた。

 このころの佐伯航空隊は、水上偵察機と飛行艇を主力にした哨戒専門部隊だった。

 その佐伯空の識別記号を垂直尾翼につけた三人乗りの水偵が、五機編隊で、水道上空を南へ飛んでいる。

 識別記号は「サヘ」である。普通これはカタカナ一文字、例えば横須賀航空隊なら「ヨ」となるのだが、「サ」の記号は佐世保航空隊に割り当てられたため、佐伯空には旧仮名づかいのサヘキからサヘがあてられている。

 彼らは第三艦隊の針路前方哨戒に向かうところだった。

 先頭機を操縦しているのは若い中尉で、その後席のやや年上と見える下士官が操縦席に声をかけている。座席間の会話には、伝声管と呼ばれる単純な構造の通話器を使う。

「分隊士、左三十度。妙なのがおります」

 注意を促された操縦員の竹崎中尉は、とっくにそれに気付いていたが、それを聞くと機体を少し左に傾けて海上を見やすくし、後ろのふたりに答えてやった。

「あれは伊勢と日向だ。航空戦艦というやつだろう」

 それは前七分が戦艦で、うしろ三分が空母という、実に珍妙な格好をしたふねだった。

 空母の不足を補うために、戦艦の後部のみを空母ふうに改造し、小型空母ほどの航空戦力を持たせたものだといわれている。その二隻は、これが改造後の、最初の出撃であった。

「よく見ろ。前半分は確かに伊勢型だ」

「はあ、確かに。じゃあ、あれが四航戦ですか。しかし空母がおらんですよ」

「空母は三航戦の四杯だけみたいだな」

 第三艦隊は六隻の空母を主力とする機動部隊である。

 艦隊を構成する小単位が戦隊である。第三艦隊の空母戦力は、第三航空戦隊の空母四隻と、第四航空戦隊の空母二隻、航空戦艦二隻で編制されていた。

 ところが第四航空戦隊の空母は姿を見せていない。さらに航空戦艦の飛行甲板にも、肝心の艦載機が載っていない。

「まさか連れて行かんつもりじゃなかでしょう」

「連れていかんのだろう。たぶん載せる飛行機がないんだ」

「はあ」

 後席の工藤一飛曹は釈然としなかったが、むだ口を叩いている暇はなかった。艦隊の上空を通過すると、竹崎中尉は手信号で後続の編隊機に展開を命じた。その四機は高度を下げながら、間隔を狭めて横一列に並び、竹崎機はその後上方に占位する。

 竹崎の目の前下方で各機が横間隔を三〇メートルに保ち、高度約五〇メートルの低空飛行で海面を舐めていく。今で言うエア・ショーの模範演技のような隊形である。

 これは潜水艦探知のためのフォーメーションである。

 横一列に並んだ零式水偵には磁気探知機というセンサーが搭載されていた。

 潜水艦の艦体は鉄でできているから、これが原因で周辺の海中に磁場の乱れを発生させる。それを探知することで敵潜の伏在を発見するというしかけなのだが、そのためには編隊各機がぴたりと横一列に並んで飛び、しかも互いの間隔をつねに一定に保っていなければならない、という制約があった。

 いわば雑巾がけと一緒で隙間を作ってはならないのである。事実、彼らはこれを雑巾がけと呼んでいたが、これが簡単そうでなかなかむつかしい。編隊は同型の水上偵察機で構成されているといっても、各機ごとにエンジンのコンディションも違う。風も吹く。そこをうまく調整しなければならないから、一時たりとも気が抜けない。

 首尾よく敵潜水艦を発見したなら、後背に控えていた一機、この場合は竹崎機が、搭載した対潜爆弾でこれを攻撃するという段取りになっている。爆弾は鋼鉄で覆われているから、鉄に反応する磁気探知器を積んだ機体には爆弾を積めない。そのための役割分担である。

 編隊の針路が確定すると、後上方で追尾するかたちの竹崎機には、やや余裕ができる。

 後席の工藤は、途切れた会話をつなごうと上官に声をかけた。

「ばってん分隊士、四航戦の連中も、あんがい太か編隊ば組んで訓練しよったやないですか」

「それがな、出来上がった連中から順に、例のT部隊に持っていかれたらしい」

「はあ、台湾じゃ、かなり派手に暴れたらしかですなあ」

「連中はそのまま向こうから出るんだろう。台南あたりからなら、母艦を使わんでも敵に届く。

 今ごろは大戦果の祝杯で、たっぷりガソリンを詰めこんどるんじゃないか」

 工藤は短く、は、と答えて話を打ち切った。彼は自分の上官ほどに、大本営発表を信じてはいなかった。台湾に持っていかれたのであればおそらく四航戦は傷だらけだろう。実戦経験を竹崎の倍は積んでいる、この叩き上げの下士官はそう思った。

 

 第三艦隊は四国の宿毛湾沖にほぼ集結を終わっていたが、外海への最終的な出撃はこの日の夕刻になるという連絡が入っている。

 佐伯空の哨戒機は、呉からの応援機も含めてフル稼働し、数時間交代で常時哨戒にあたった。この日、水道出口までの海域には異変はなく、上空哨戒線の南端に近い大隈半島の東方海面で、潜望鏡発見の報告が二件あったが、敵潜水艦自体は確認されていない。

 実際には、それまで三隻の米潜水艦が水道内に侵入して索敵にあたっていたのだが、彼らが推定した日時になっても日本の機動部隊は出てこなかった。そこで彼らは機動部隊が別針路、たとえば紀伊水道経由を採ったという事も勘案し、まさに機動部隊出撃のこの日、水道を出て外縁部に展開するよう配置を換えたのである。

 空母に載せる飛行機が足りず、ぎりぎりまで掻き集めていたことが、はからずして敵の裏をかくことになった。第三艦隊は十月二十日夕刻、豊後水道の東出口から敵に知られることなく太平洋に出て行った。それは日本の機動部隊最後の出撃であった。

 

 哨戒を終えて基地に帰投した水偵が、佐伯航空隊の岸壁に引き上げられて翼を休めている。逆に、これから夜間哨戒に出る機体もあるが、それは浮上中の敵を発見するための電波探信儀、いわゆるレーダーを備えた機体で、竹崎の編隊にこの機体はない。

 士官である竹崎と下士官である工藤たちは宿舎が違う。地上に降りると、しばらくは一緒に隊舎のほうに歩いていくが、やがて別々の棟に入る。

「明日もきついぞ、しっかり休んでくれ」

 別れ際に竹崎が声をかけた。

 軍隊というところは各々の身分や階級が厳密に区分されていて、それがたとえば宿舎の違いということになる。しかし若い新米パイロットの竹崎などは、軍隊経験が豊富な古参下士官の工藤には何かと世話になるし、実戦では最も頼りとする相棒だからこれを重んじて、上官風を吹かさない。何といっても機上では生死を共にする仲である。だから割とくだけた付き合いになり、下級者のほうも、時には遠慮のない質問をしたりする。

「分隊士、台湾は、ホントのところ、どげんなっとるんでしょうか」

「どげんって、貴様、何が心配か」

「いやあ、空母十杯撃沈ちゅうのは、なんぼなんでも、これですけん」

 沖田は飛行手袋のまま人差し指を舐め、眉をなでた。

「ブーゲンビルでもギルバートでもそうです。大戦果は出とりますが、どうもおかしかです。こっちは艦攻の十機ばかり出しただけで、敵空母二杯轟沈だの三杯撃沈だのと景気の良かこつ言うとりましたが、ありえんでしょう」

「おいおい、台湾につぎ込んだのはざっと一〇〇〇機だぜ」

「サイパンの時もそうです。ばってん味方は散々でした。みんな死にました」

 言われてみればその通りである。

 竹崎慶一は海軍兵学校七十二期を一年前に繰り上げ卒業したばかりの新米将校である。

 卒業が半年繰上げられたということも、着任早々から編隊指揮を任せられたということも、彼の先任者たちの多くが戦死してしまったことを証明していた。

 実戦経験の少ない竹崎には工藤の疑問が実感として伝わらない。彼はあまり悲観的な推測を部下の者たちに言わぬよう釘を刺しただけで工藤と別れ、憮然としたまま士官室に入った。

 ちょうどそこに兵学校同期の矢尾正衛中尉がいて紅茶を飲んでいた。卓上に銀製の砂糖壺とミルクポットが置いてある。おそらくは彼も飛行任務から帰投したばかりで、その疲れた体にたっぷり甘い紅茶で一息入れていたのであろう。

 同期生の顔を見て、竹崎に考えが浮かんだ。

「矢尾、ちょっと顔を貸さんか」

「いいぞ。返してくれるんならな」

「貴様、今夜の搭乗はないんだろう。教官のところに行くんだが、付き合わんか」

 矢尾は戦友の表情から、ただの息抜きばなしではないことをすぐに悟った。

「わかった。着替えてから行くか」

 矢尾も水偵搭乗員である。この時は竹崎同様、飛行服のままだった。

「いや、このままで行こう」

 ふたりはそれから、宿舎に隣接する航空隊庁舎に足を運んだ。庁舎には呉防備戦隊司令部が間借りしている。竹崎たちが教官と呼んでいるのは、清田の首席参謀原田耕作のことである。原田大佐はこの若い中尉たちが兵学校に入校した時の主任指導官だった。

 竹崎は原田に面会すると、台湾での戦果について呉防戦ではどう判断しているかを尋ねた。

 搭乗員同士の気さくさとは違い、通常、軍隊においては、下級者が上級者を気軽に訪問し、特に戦況や作戦についての質問をぶつけるなどという真似は許されない。

 まして、原田の大佐という階級は戦艦や空母の艦長に相当するもので、昨日や今日、中尉になったばかりの新米士官にとっては雲の上の存在である。しかし兵学校の縁というコネは特別だったようで、原田のほうも彼らのために下宿を世話してやったりして、案外、この生意気なもと教え子たちを可愛がっていた。

「貴様ら、それを聞いてどうするのだ」

 原田はにやりと笑って質問を受け流した。こっちが知りたいくらいだ。しかしそれを言えばこの連中が動揺する。ここはこの一手に限る。それだけ言って、若いのを睨む。

 睨まれると、竹崎も矢尾も、もういけない。黙ってしまう。その隙を原田が衝いた。

「それより貴様ら、この基地を爆撃するとしたら、貴様たちならどう攻めるか」

 これで攻守は逆転した。突然の、しかも予期しない質問の内容に、二人の若い中尉は言葉を失って顔を見合わせた。

「なんだ、毎日この上を飛んでおって、そんなことも考えてなかったのか。よし、では今から考えろ。竹崎中尉、貴様がアメリカならどうやる」

 竹崎は目の前の教官の、ネクタイの結び目のあたりを睨んで少し考えていたが、やがて体を大入島のほうに開いて、その方向を指差して言った。

「自分であれば、あの大入島の向こうから侵入します。北から南に抜ければ滑走路脇の列線を掃射可能です。爆撃針路を、島の頂上と基地を結ぶ線のちょい上に置けば、大入島を盾とすることになり、対空射撃を封殺することも可能です」

「矢尾はどうだ」

「竹崎の意見に同感ですが、敵が艦載機であれば、夜明けから数時間以内の空襲になることも考えられます。この場合、晴れておれば東から侵入するのが定石です」

「うん、まあまあだな」

 原田は、そこでだ、敵が貴様らの言うようなコースを採ったとして、と続け、

「その場合、貴様らの水偵はどこに避退させておくのがいいか」

 それを考えておけ、と言った。

「避退、でありますか」

「そうだ。隠しておく、とは言えんがな、まあ同じことだ。近いうちに正式に通達することになる。飛ぶ時は、上から地形をよく見ておけよ」

 

 航空隊の庁舎を出るとすでに星が出ていた。営庭の向こうに大入島が見える。

「うまい具合に煙にまかれてしまったなあ」

「いやあ、教官の言い方は、ありゃかなり危ないってことだ。立場上はっきりとは言えんから

 ああいう言い方になったんだろう。カタブツの教官にしては出来すぎだよ」

「水偵を隠すというのは、つまりここに敵の空襲があるってことか」

「そうだ。もし本当に台湾で敵を叩いたんなら、そんな心配はいらんだろう」

 何気なく交わしていた会話の結論は、言葉の上では単純だったが、それが意味するところは重大でしかも深刻だった。ふたりはしばらく黙りこんだが、やがて矢尾から口を開いた。

「隠すとなると、大入島の、どこか入り組んだ海岸線ということになるなあ」

 こういう時、彼らは自分自身に与えられた課題に対してベストを尽くすだけだった。ひとりびとりのその積み重ねが全体の勝利につながる。それが、彼らが教えられてきた、海軍という集団の、ものの考え方だった。

「俺と貴様が言ったとおりの爆撃針路だと、死角になるのは島の西側だけだ。明日からは良く見ておこう」

「うん」

 話しているうちに宿舎に着く。腹が減っていた。ふたりはそのまま士官食堂に入った。

 肉体的にハードな勤務でもある搭乗員の食事は一般兵よりも優遇されており、視力の低下を防ぐために、ビタミンなどの栄養配分にも気が遣われていた。特に飛行勤務のある日の献立はなかなかに豪勢で、卵や牛乳などの当時としては貴重な材料もたっぷり使われる。

 海軍中尉といっても、その体は食い盛りの若者のそれである。よく食う。士官であるから、食いたいだけ注文しておくことができるが、その分の代金は俸給から天引きされる。それでも彼らは良く食った。両親に仕送りするほかには、別に金の遣い道もなかった。

「俺の分隊の村松を知ってるか」

「知らんな。操縦員か」

「そうじゃない。江田島の分隊だ。村松義隆」

「すまん、憶えていない」

「一式陸攻だったんだが、先月台湾でな」

「先月? じゃあ敵はとっくに台湾まで出張ってたのか」

 一式陸上攻撃機は双発の大型雷撃機である。T部隊にも相当数が配備されていた。

「いや、俺も奴の戦死を知ったのは昨日だ。良く食う奴でなあ」

「思い出した。あのでかいやつだろう」

「一式は中が広いから弁当が豪勢だって、そんなことを威張ってた」

 対米戦争が予期されるようになってから、戦時の中級指揮官を大量に養成するために、海軍兵学校の採用者数は大幅に増員されていた。昭和十五年に採用された彼らのクラスの卒業生は六二五人に達しており、現在そのほとんどが、ある者はふねに乗り、また飛行機に乗っていた。

 ほとんど、と書いた。それに含まれない者はすでにこの世にいなかった。彼らの卒業は半年繰り上げの昭和十八年九月だったが、それから僅か一年とひと月ほどのうちに、六十名以上が戦死もしくは訓練中の事故で殉職している。

 竹崎たちの勤務地である佐伯は、地理的には後方勤務地と言える。彼らは、この夜のようにそれなりにまともな飯も食べられたし、風呂にも入れる。最前線に進出した者たちに比べれば恵まれた環境に置かれているとも言える。まだ若く熱血な彼らにとっては、時として、それが同期生に対する負い目となることがあった。

「台湾にはずいぶん行ってるはずだ。フィリピンにもな。俺たちも負けられんぞ」

 戦争である以上、敵に対する憎悪や敵愾心は彼らの心に溢れていたが、むしろ、それよりも遥かに大きく彼らを動かしていたものは、むしろ自己の内に向いた責任感や義務感というべきものであった。それはいかにも若者らしい無邪気な正義感と言ってもいい。

 単純で素直な死生観が、それを後押ししている。死ぬことはすでに前提であった。であれば、その死をより意義あるものにするためには、その瞬間までをどう生きるべきか。それを考え、実践するのが、まだ二十歳をわずかに過ぎたばかりの彼らの日常であった。

 この時代の若者のすべてがそうではなかったかもしれない。しかし彼らは、そうあることを自分に課していた。

 戦場は日ごとに彼らに迫っていた。この三日後の十月二十三日、世界の海戦史上最大にして、連合艦隊最後の海戦となった、比島沖海戦が始まる。

 

 フィリピン中部のレイテ島を巡り、足掛け五日にわたって戦われたこの海戦で、連合艦隊は壊滅的な打撃を受けた。

 第三艦隊は、作戦に投入した空母のすべてである四隻を喪失、主力であった第一遊撃部隊は「武蔵」を含む戦艦三隻、巡洋艦八隻を失った。激戦から辛うじて生還した艦艇もほとんどが損傷し、そのうちの数隻は本土へ帰投中、あるいはマニラ近海で、落ち武者狩りのような敵の攻撃を受けて失われる。

 第二遊撃部隊は遅れて参戦し、ほとんど戦闘らしい戦闘を行う機会がなかったために全艦が生還したが、海戦後マニラ港に在泊中、敵機動部隊の空襲を受けて那智も沈んだ。

 原田が「私のクラス」と言っていた、那智艦長 鹿岡《かのおか》円平大佐もこの時戦死している。

 鹿岡は、原田が語ったように、海軍大学を首席卒業のエリートで、対米開戦の二ヶ月前から首相秘書官を務め、サイパン島陥落後、東條英機の退陣による移動で那智艦長に転じた。

 この人事を担当した軍務局長は、前章で紹介した三戸壽《ひさし 》少将である。三戸の述懐によれば、鹿岡の艦隊転出は本人の希望であったという。

 以上のように連合艦隊は大打撃を受けたが、全艦隊の航空戦力もまた消耗し尽くしていた。つまり日本海軍は、その決戦兵力をほとんど失ってしまったと言っていい。

 これ以後、組織的かつ積極的な艦隊動員は二度と行われず、海軍の攻勢はゲリラ的なそれに終始することになる。戦闘機に爆弾を積んで、搭乗員もろとも敵艦に体当たりする、神風特別攻撃隊が誕生したのもこの海戦であった。

 人間が海を沸きかえらせていた。

 長い人類の歴史の中でも、昭和十九年というこの年ほど、人間がその母であったはずの海を自らの血でここまで赤く、むごく、染めた例はない。この年の太平洋は、それを挟んで争ったふたつの国にとって、まさに血の海であった。

 

 十一月になった。守後浦では、あいかわらず平穏な日々が続いている。

 この島の人々にとって、海は昔からありがたい冷蔵庫のようなものだった。岸から少しだけ漕ぎ出して網を打てば、それが雑魚であっても、とにかく何かしらの魚は獲れた。それだから食糧難の時代でも餓えに苦しまないで済んできた。外には嵐が吹き荒れていたが、島の人々は母なる海のふところにまだ抱かれたままだった。

 それでも母の機嫌が良くない日もある。そんな時、人々は磯に行く。

 岩に張り付いたアオサは味噌汁の実になったし、薄く干せば海苔の代わりになった。流れて着いたワカメも味噌汁。テングサでは寒天ができる。海草はほとんど食べることができたし、貝も同様だった。

 もっとも彼らは贅沢でもあった。フジツボやカメノテなどは食べない。今ではこれがむしろ珍重される地方もあるほどに旨いのだが、彼らには「そんなものを食わずとも」程度の人気でしかなかった。

 子供たちになると、今では高級品のウニでさえ、誰も手をつけようとはしない。針が生えた殻を割る手間ばかりかかって腹がふくれぬ上に、あんないびしいものを、というわけらしい。いびしいとは気色悪いということである。少し意外な気もするが、それほどに豊かな海の幸に恵まれていたということであろう。

 彼らが捕っていた貝の中に、ニイナと呼ばれるものがある。

 特定の貝の名ではなく、クボガイやイシダタミなどの、ずんぐりした小粒の巻貝をおおむね総称してこう呼ぶ。貝自体は日本中の磯で普通に見られるものだが、今では食べられることを知らない人も増えているらしい。

 大きくても直径三センチほどしかなく、サザエのように、開口部から楊枝などを刺し込み、くるりと身を引き抜いて食べる。上手にやらないとツノの部分がちぎれてしまうのもサザエに似ている。

 一般的にニナと呼ばれている貝とは違う。ニナは円錐状の細く尖った殻を持っていて、その殻の先端を五円玉の穴にひっかけてへし折り、反対から中身を吸い出す、という食べ方をする貝である。ややこしいことに佐伯ではニナもニイナのうちに入るらしい。地元で尋ねてみたがそれで別段不便もないらしい。

 ニイナは茹でて食べる。

 茹で上がりなどは、見事なほどに鮮やかな磯の香を楽しめる。身も旨い。ツノの苦味が実にいい塩梅である。

 ツノの苦味は、好きな者には珍味だが、たとえばサザエほどの大物になると、子供などには案外きつい。しかしニイナは子供でも喜んで食べる。

 ニイナの場合は、貝じたいが小粒だからツノも小さい、ということもあるが、小さいだけに食べる時は身とツノを同時に口に入れることになる。こうすると、わずかな量のツノの苦味と独特の潮の香りが、程よく抑えられた薬味のように身の旨みを引き立てる。この、身とツノを同時に味わうというのが旨いのである。

 ニイナは岩場でよく採れる。

 守後浦から、海岸線を時計の針の逆まわりに行くと久保浦である。何度も書いたが海沿いに道はなく、浦と浦の行き来には山越えの道を使うか、海岸線沿いに船で移動する。

 海岸線にはいくつかの小さな入り江があったが、ほとんどが岩場で、そこから浦につながるまともな道もなかったため、島びとが船を入れることもない、まったくの空き家のような場所だった。

 こういう人の手が入りにくい場所は、アオサやニイナを採るのに向いていた。誰の縄張りということもなく、近在の主婦たちが時おり岩に下りてきて、翌日の味噌汁の実を採っていく。  

 彼女たちは草むらを掻き分けて岸に出なければならないが、ちょうどいい按配に、そこには萱の葉が踏み固められた、道とは言えぬ小道がきちんとひとすじ通っている。それは子供らの通った後だった。

 子供はどんなところでも遊び場にしてしまう。それらの小さな入り江は、親の目が届かない彼らだけのちょっとした秘密基地のようになっていた。昭和三十年代くらいまでのことだが、こういう場所を、男の子たちは「陣地」と呼んでいた。

 

 その日、亮は守後浦の子供らと一緒に遊んでいたが、その中の誰かが牡蠣を採りにいこうと言い出した。

 天然の岩牡蠣である、そろそろ旨くなる季節であった。少年たちはいったんそれぞれの家に帰って、木桶や肥後守《ひごのかみ》を持ち出すと、一団になって入り江の陣地のひとつに向かった。

「まだちょっと早うねえか」

「けんど、早うに行かんと、久保浦のやつどもが先に採るぞ」

 そこは地理的に久保浦と守後浦の中間にあたるので、どちらの浦の子供たちも来る。彼らは同じ学校の生徒で友達どうしでもあるから、別に、こういう場所で、浦と浦との縄張り争いをするようなことはなかったが、食いものがらみとなると、どうも話は別らしかった。

 ところが、目指す入り江にとりついてみると、案の定、久保浦の子供たちが先に来ている。

 しかも相手は年上ばかり三人であった。

 こういう時、その場の支配者は自動的に決まる。だいたい一番年上で、その中でも日ごろの実績と人望を認められているものが、自然と大将になる。敵は全員が六年生であった。亮たち守後浦の三年生小隊に勝ち目はない。

「しもうた」と、皆が顔を見合わせたが、亮だけは平気な顔をしてこう言った。

「フがエエ。重ニィがおる」

 久保浦の大将は金田重雄という六年生だった。足が速く、素潜りがうまかった。

「おう、亮か」

 重雄のほうから声がかかった。彼は桂佑の同級生であった。それだけならどうということはないのだが、重雄と桂佑にはいちど一緒に死にかけたという凄まじい縁がある。子供とはいえそれは格別の間柄だった。

 

 この島の少年たちは何かにつけて男ぶりを競う。

 その年に、いちばん最初に海で泳いだものは誰か、などということまで張り合う。その結果、節分を過ぎたころには、もう幾人かは初泳ぎを済ませているというような具合であった。  

 それは極端としても、端午の節句を過ぎれば元気の良い連中が泳ぎ始め、梅雨明けの頃にはみな海に入る。

 そうなると、泳いだ距離だの、速さだの、どれだけ高いところから飛び込めたかに至るまで、あらゆる競争をするのであるが、もっとも人気の高い種目が素潜りであった。

 桂佑も素潜りではかなりやるほうで、重雄とは良い取組であった。そのふたりが、そろって例のダイナマイト漁の被害を受けたのである。この夏の真っ盛りの頃だった。

 爆発物を使ったのは、沖に錨を下ろしていた特務艇の乗組員たちである。距離があったので油断したのだろうが、爆発の水圧は、水中ではかなり遠くまで伝わるのである。

 桂佑たちは水深十メートルほどまで潜っていた時、いきなり胸を突き飛ばされた気がした。それは自分の胸と同じ広さの大きな手の平で、いきなり押し突かれたような感じだった。

 彼らはパニックに陥ったが、さすがに海の底を庭にしているような連中だから、パニックに陥ったことを自覚するだけの冷静さは残していた。ふたりとも一気に海面に出ようとはせず、ほとんど無意識の内にゆっくり海面まで浮上し、岸まで泳ぎ着くとそこで倒れた。

 彼らはそれから丸一昼夜寝込み、起きられたあとも一週間ほど呼吸困難に苦しんだ。やがて全快した後は後遺症も残らなかったが、それまでたっぷり持っていた、海軍への信頼や好意といったものも、同じように残っていなかった。

 それは大入島の周辺に浮いている特務艦艇の乗員に限ってのことであったが、彼らはむしろそういう海軍を小馬鹿にするようになった。

「連合艦隊は外地で命がけに戦こうちょるのに、あの田舎水兵どもは魚を捕って遊んじょる。ほげえ《あほう》どもが」

「漁を邪魔しちょるのを、こっちが我慢しちょるのも知らんで、いい気なもんじゃ。俺ン方のお父ゥどもが本気で怒ったらよ、あんなウラナスビ、どいつもこいつもキャンとも言わせんでフカのエサじゃ」

 彼らに言わせると、海軍でございと肩で風を切っている連中が、投げ網のひとつもまともに打てずに、爆弾で魚を捕ってはしゃいでいるなどは、笑い話にもならなかった。島の子なら、たとえば九歳の亮でも網を打てるし、たかが食い物のことであれほどガツガツしたりしない、と言うのである。良く考えれば、海軍のふねに投網を積んでいるわけはないのだが。

「笑えるどころか泣いちょるがよ。テイコクカイグンの看板がよ」

 死ぬような目にあったのは気の毒だが、それにしても根に持ったものである。だがこれは、単なる意趣ではなかった。

 わずか十二歳かそこらの少年たちにさえ、海軍のそのざまは情けなかった。

 戦争はどんどん苦しくなっている。配給は日ごとに細くなり、新聞には昆虫の食い方までが載るようになった。それでも勝利のためには我慢が大切だと彼らは教えられている。

「欲しがりません勝つまでは」

「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」

 学校周辺の塀にも電柱にもそんな貼り紙が掲げられている。だというのに、である。

「だいたい何のための爆弾か」

「シゲ、ありゃあ爆弾じゃのうて手榴弾じゃろう」

「どっちでもエエ。投げるんならアメリカに向かって投げえ。テイコクカイグンの爆弾は魚を捕るためのもんか」

 国家の存亡をかけた戦争に命を投げ出してご奉公しているはずの水兵が、腹がへったというだけで、戦争そっちのけで面白がって魚を捕っている。それは少年たちにとって、重大な背信行為であり裏切りだった。許せないのはそこであり、肉体に受けた苦痛は、怒りを撃発させる引鉄でしかなかった。

 しかし、長年の憧れであった海軍をまったく否定してしまうのは、少年たちにはあまりにも切なかったのだろう。ふたりはそこで、水兵はだめだが、航空隊はさすがにたいしたものだという、妙にひねた結論に達するのである。

「そこへ行くと航空隊は違うのう。何ちゅうても海鷲じゃけ、スマートじゃ」

「ふん、ほいたら水兵どもはウじゃな。鵜飼いのウ」

「おお、そいつはエエたとえじゃのう」

 そんなふうに息の合ってしまった彼らには、いわば戦友意識のようなものが芽生えていたが、そこに、文太郎が司令官を呼びつけて謝らせたという話が、おそらくは多少の尾ヒレもつけて伝わったものだから、重雄としては、山本の兄弟は友人の中でも別格の扱いであった。

 

「兄貴はおらんのか」

 重雄はにこりともせずに亮に聞いた。親友の弟だからといって亮に特別な物言いはしない。上級生が下級生に対する、当然の態度をとった。

「来ちょらん」

「そうか。何しに来た」

「牡蠣を採りに来た」

 亮がそういうと、同級生たちはみな「ほげ《アホ》」と腹の中で舌打ちしたが、どのみち皆が木桶や肥後守を手にしているのである。ごまかしようはなかった。重雄は承知していたように表情も変えずにうなづいた。

「俺たちもじゃ。けんど、まだいけん。まだ採るなよ」

「なし《なぜ》」

「まだ小せえ」

 重雄が言うには、このあたりの岩場の牡蠣はまだ育ちきっていない。もう少し我慢すれば、丸々と身の肥えた牡蠣を収穫できるのに、それをむやみに採り急いではならない。というのである。

「エエな。今日はニイナでも採って我慢せえ」

 良く見ると、重雄たちはみな半ズボンだったが、全員がその尻の部分までを海水で濡らしている。股ぐらまで海に浸かって調べていたのだろう。上級生たちがそうやって決めたことに、下の者が異議を唱えることはありえなかった。

 下級生たちは別にニイナを食いたいわけではなかったが、成行上、磯に入って小粒の巻貝を集めることになってしまった。これはこれで旨いのだから悪くない。そして、いったんそれを始めてしまうといつの間にか夢中になっている。子供らしい単純さだった。

 上級生たちはしばらくそこで、少し前に終わった運動会の、騎馬戦での武勇伝をそれぞれに自慢しあっていた。時おり笑い声があがった。

「あれは敵ながら天晴れじゃった」

「へえ、あのコマイのがそうか」

 そんな声が聞こえる。亮はピンと来た。騎馬戦でやった人間爆弾の話にちがいない。

 亮は組打ちには強いが上背がないために騎馬戦では不利だった。腕を延ばしても敵の騎兵に届かないのである。そこで亮の組の大将は一計を案じ、馬上から亮そのものを敵に投げつけ、敵の馬上で組ませるという荒業を思いついた。

「おまえはコマイけえ、投げやすいしの」

 そこで怖がるほど可愛げのある亮ではない。作戦は実行され、亮は宙を飛び、馬上の敵将に組みついた。徳と恵美子だけが目を丸くしていたが、会場からはやんやの喝采だった。

 彼らはそのことを話している。

 亮は、こういうふうに人から賞賛されるのがどうにも苦手であった。照れくさいのではない。そういう時、どんな顔をすればいいのかわからないのである。

 文太郎はいつも、男の子が誉められてヘラヘラするものではないと、きつく言う。ところが、ではどういう態度をとれば良いのかとなると、それは教えてくれないのである。

 亮は居心地が悪くなって、上級生たちから見えない岩場の方に行こうとして立ち上がった。背を伸ばして海のほうを見ると、海軍の水上機が、海面を滑走して入り江に向かってくる姿が見えた。

 

 エンジンの音には重雄たちも気付いていたが、航空隊の水上機がこの水域で訓練をするのは珍しいことでもなかったから、別に気にはしないでいた。

「重ニィ」

 亮は上級生たちに声をかけた。

「あの下駄履きが、どんどんこっちに来よるがの」

 彼らは水上機のことをこう呼ぶ。水上機は水面を滑走路として使用するための装置として、胴体や主翼の下に大きな浮舟をぶらさげている。そのさまを称してこう呼ぶのだが、そこには少しばかり、その鈍重な姿を揶揄するニュアンスが含まれている。

「ほんとじゃ、ぶつかりゃせんか」

「危ねえぞ、おい、岩におる者は浜に上がれ」

 重雄はそういって、岩場にいた下級生たちを浜のほうに呼んだ。

 水上機と岸との間にはまだ結構な距離があったが、船などの水に浮かぶ乗り物が、たとえば自動車などと違い、簡単に方向を変えたり、停止できるものではないことを彼らは良く知っていた。

 仮に舵を右に切ったとして、それが効いて船が実際に右に転回するまでには、相当の時間がかかる。停止しようとしてスクリューを止めても、船はそこからかなりの距離を惰性で進む。これらの惰性運動を行き足というが、船を操る上で最も難しいのが、この「行き足を見る」という技術であった。

 島の少年なら誰であっても物心ついたときから船に親しんでいる。直感的にその水上機には行き足が見えていないように思えた。

「大丈夫じゃろうけんどな、上にあがっちょこう」

「わからんぞ。このごろは下手糞が多いけの」

 少年たちは背後の低い崖を登って陸に避難することにした。亮もニイナがこぼれぬよう桶を両手で捧げ持ち、腰から下だけを使って器用に崖を駆け上がった。

 崖の上に茂っている萱は大人ほどの丈があった。彼らは自分の背よりも高いその茂みを掻き分けて立ち、沖を見つめた。

 水上機はプロペラの回転をいくぶん落としながら、まっすぐ入り江に向かってきた。やがて操縦員の後ろの席からひとりの搭乗員が身を乗り出して主翼の上に降り立った。

「降りたぞ」

「降りたな」

 子供たちには彼の行動の意味がわからないので、会話もそれより続かない。

 その搭乗員は、次に主翼の縁に座ったかと思うと、足を前に投げ出してそのまま滑るように、今度は浮舟の上に降りた。その重みで機体が少し傾いたが、彼は片手で浮舟の支柱をつかんで体を支え、もう片方の腕を大きく伸ばしてしきりに動かしている。飛行靴と呼ばれるブーツは座席に脱いできたのであろう。裸足であった。

「ありゃあ、ここに入ってくるつもりじゃねえか」

 重雄が首を捻ってつぶやいた言葉はまわりの少年たちを大いに驚かせたが、次の瞬間には、彼らの胸を歓喜の興奮でいっぱいに満たした。下駄履きといっても海軍機である。少年たちの憧れの的である。それが、我らが陣地の入り江に入ってくる。なんと光栄なことだろう。

 浮舟に立った搭乗員が大きな声で何か叫んでいるのだが、エンジンの音が大きくてまったく聞こえない。軍用機のエンジンはガソリンエンジンだが、現在の自動車のような排気音の消音装置は備えていないからそれこそ爆音である。しかしやがて、そのエンジンがまるで咳払いをするように、それまでとは違う低く断続的な機械音をたて、そして止まった。

 瞬間的に今までとは正反対の、のどかな静けさが訪れる。そのベースにあるのは打ち寄せる波の音と上空を飛ぶトンビの声だけであった。そこに例の搭乗員の声が朗々と響いた。

「よーそろ、ちょい右、よーそろ」

 

「ほれ、間違いねえ、こっちに来よる」

 重雄が息を呑むようにうなづきながら言った。

 ようそろは海軍語である。英国海軍に学んだ明治海軍が、彼のオーライを和訳した言葉で、こんにちの海上自衛隊でも使われている。候がいかにも昔のことばなので、あるいは明治海軍ではなく、薩摩海軍や幕府海軍あたりの翻訳かもしれないが、もともとは飛行機ではなく、船を運航する際に使われる号令のひとつである。

 水上機の浮舟の尾部には舵がついていて、着水運転中はそれで針路を調整する。その機体は明らかに少年たちの入り江に向かって舵をとっていた。浮舟に立って誘導している搭乗員は、パイロットから見えない岩礁を避けるために、特に水面下に注意を払って針路を誘導していたようであった。

 水上機はそこで大きく右に回頭し、少年たちの目に横腹をさらした。主翼の先端が、陸地をかすめそうであった。機体は陸の方に、斜めに尻を向けた姿勢で停まった。

 茂みから見ている少年たちは、手を伸ばせば触れそうな近くまで、憧れの海軍機が近づいてきた興奮を押し殺すのに苦労している。

「間違いねえ、ここに入れるんじゃ」

 本当なら快哉を叫びたいところだが、ことの成行き上、なんとなく覗き見をしているような気分になっていたので、誰もが息を呑んで、搭乗員たちの作業を見守っていた。

 彼らが恍惚として見とれていたのは、飛行機そのものの格好良さだけではなかった。彼らが小船を操る時でも、行き足を読んで、狙ったところにぴたりと船を入れることができる者は、一丁前の腕前として賞賛される。この下駄履きの搭乗員はその点でも見事だった。

「なかなかやるもんじゃのう」

 少年たちにめでたくその腕前を認められた操縦員は竹崎であった。ただし彼には気の毒だがこの時の運転の見事さは、工藤の誘導によるところが大きい。

 

 竹崎は操縦席を囲っている風防のフレームに手をかけ、体を持ち上げると、後席に向かって呼びかけながら主翼に降りた。

「大石、基地に打電だ。竹崎一番避退完了。位置はよろしくたのむ」

「了解、竹崎一番避退完了。位置」

 最後尾の電信員席にいた大石一飛曹は復唱に詰まって、浮舟に降りた工藤に声をかける。

「先任、位置は、こりゃあ、どう言えばいいですかねえ」

「守後浦北ふたひゃく、ってとこやな」

「了解、位置、守後浦北二〇〇」

 大石は通信機にとりついた。通信機はツートントンのモールス送信なので、彼がキーを打つ音だけがそれからしばらく聞こえた。

「モリゴっちゅうたぞ」

「久保浦のほうが近けえんじゃねえか」

「黙っちょれ、聞こえるが」

 少年たちは出るに出られず、目の前に憧れの海軍機があるのにそれを放って帰りたくもなく、そのまま萱の中でざわめいていたが、竹崎たちはとっくに観客に気付いている。

 工藤は裸足のまま水に入ると、そのまま岸まであがってきた。崖の上を見あげて、こらえていた笑いを吐き出すように声をかける。

「おい、もう出てきて良かぞ。飛行機が見たかったら下りて来んしゃい」

 少年たちは驚き、それからどぎまぎして重雄を見た。重雄も照れくさいやら少々おっかないやらで、動けずにいる。

 主翼をつたわって岩場に降りた竹崎が。工藤の肩を叩いて笑いながら言う。

「先任、任せろよ」

 竹崎は、笑顔を消して凄みのある怒り顔を作ると、重雄たちが潜んでいる茂みに向かって、大声で怒鳴った。

「貴様たち。日本の男の子が、泥棒みたいにこそこそ隠れとるのはどういう料簡か。飛行機が見たかったら堂々と下りて来い」

 それから一呼吸おいて、「整列ッ」と号令した。

(続く)

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