第2章 頬垂れ
少年が駆けてくる。
体は小さく、この時代の子供たちが皆そうであったように痩せこけてはいたが、陽に灼けた肌の下にはすでに少年らしからぬ筋肉の躍動が見えていた。
とにかく足が速い。足元はわらじで、しかもボロボロにささくれていたが、それでも石ころだらけの山道をウサギのように走り抜けていく。
少年はやがて守後浦の後背にある山道を抜けて文太郎の家の裏手に出ると、一目散に、その勝手口へ飛び込んでいった。
家に飛び込んだあともその勢いは衰えず、彼は一気にかまどにとりつき、載っていた、竹で編んだ蓋をつかみ取るとその中を覗き込んだ。釜の中には蒸かした芋が十本ほどあった。
少年はその芋を手に取るとためらいもせずに真っぷたつに割った。一瞬その断面を見てから何を思ったか、彼はそれを釜の中に放り出すと勝手口から飛び出した。
その勢いのまま今度は隣家の台所に飛び込んで同じように釜の蓋を開ける。するとそこにも同じように蒸かした芋が数本入っている。彼はここでも芋をふたつに割ると、その断面をやや不機嫌そうに眺めたのち、今度のそれは放り出さずにかぶりついた。
しばらくして、その家の夫人が井戸で水を汲んで台所に戻ってみると、上がりかまちに腰をかけて芋を頬張っている少年がいる。それ自体は彼女にとって意外でもなんでもなかったが、この日ばかりは少し事情が違った。彼女は大声で少年に呼びかけた。
「あきらァ、帰ったんか」
「お園ネェ、芋ォもろうちょるで」
「おお、芋はエエが、おまえンがた、今日はエライことじゃったのう」
「何が?」
「知らんのか。昼前に基地の司令官が来てのう、お前のお父ゥはたいしたもんじゃのう」
「誰が来たんか?」
「防備隊の司令官じゃ。海軍の少将様じゃ。金モールつけたサンボウをようけ連れての」
「どこに来たんか?」
「お前の家じゃち言うちょるじゃねえか」
その少年は隣家の夫人が言っている意味がすぐには理解できなかった。
文太郎の次男、山本亮はこの時まだ九歳だった。いくら大入島《おおにゅうじま》の子だとはいえ、海軍少将が庶民の家を訪問することの意味など理解できようもなかった。お園ネェが興奮して喋るのを、不思議そうに聞きながら芋を食っていた。
同じころ、文太郎の妻が台所に戻ってみると、釜の蓋が行儀悪く開けっ放しになっている。誰の仕業かわかっているが念のため中を覗いてみると、案の定ふたつに割れた芋がころがっていた。
「亮じゃな」
彼女は勝手口の向こうを睨んだ。息子の行き先も、ふたつ割れになった芋の事情も分かっている。
このころ彼らの口に入るサツマイモにはふたつの種類があった。人々がアメリカ芋と呼ぶ、甘くて柔らかい肉質の芋と、品種名は伏せるが、大きくて食いでがある代わりに甘みが少なく硬い肉の芋である。
食糧不足が深刻になってきたころ、政府は、栽培が簡単で栄養価も高いサツマイモの生産を奨励し、農家には配給用にあてるための供出を義務付けた。
事情が事情だけに、この供出はその量が最優先された。お達しを見ればサツマイモ何キロとしか定められていない。当然のことに、生産する農家のほうでは、味よりも耕地面積あたりの収穫量で優るほうの品種を選ぶことになる、こうして大量に栽培され、配給にまわされたのが大きくて不味いほうの芋だった。
サツマイモは軍需物資としてのアルコールの原料でもあったので、その不味い芋はもともと食味を問題にしない品種だったのだろう。
ところが食わされるほうにしてみれば、これがまったくありがたくなかった。子供たちは、アメリカ芋の配給あると喜び、不味い芋しかないときには顔をしかめた。
敵国の名がついた芋を有難がるとはけしからん、というわけで、この芋もナントカ芋と改名させられたらしいが、亮たちは平気でアメリカ芋と呼んでいたらしい。
さて、食いでだけが取り得の芋のほうも、徳が子供たちの間食用に蒸かすのは小ぶりなものばかりである。ちょっと見ただけでは、それがどちらの種類の芋なのか良く分からない。判別するのにもっとも手っ取り早い方法は、割って肉の色を見ることだった。
文太郎の家と、隣の、坪根重蔵の家の間には垣根もなく、それと同様に家人も家族づきあいだったから、どちらの家の子がどちらの芋を食べてもよかった。
そうなると九歳の亮などは、美味いほうの芋を選ぶのに遠慮しなかった。まずは自宅の芋を割ってみて、これがアメリカ芋でなければ釜の中に放り出し、次に隣の台所を襲うのである。しかしこの日はあいにく、どちらの家もありがたくないほうの芋であった。
「亮ァッ。またおまえは芋を粗末にしちょるッ」
母親の怒声を聞くなり、少年は隣家の土間から飛び出して裏山に駆け上っていった。
文太郎の妻は徳《とく》といい、この時夫婦の間には六人の子があった。子の名を歳の順に記せば、恵美子、香代子、桂佑《けいすけ》、亮《あきら》、のりえ、恵子という。
多産が奨励されていた。「産めよ増やせよ」が国家的スローガンだった。人口が増えるほど、生産力にせよ兵隊の動員数にせよ国力の増大につながるからである。大入島の文太郎の世代であれば、三人以上の子持ちというのが普通だった。
徳は守後浦の生まれで父親の名を東《あずま》岩蔵といった。母親はサクというひとだったが、徳が十代の半ばに亡くなっている。
徳は長女だったので、母親代わりとなって幼い弟妹たちの世話をみていたが、十九歳の時に文太郎に嫁いだ。このとき文太郎は二十九歳。やや晩婚と言ってよい。
文太郎の父である太十郎としては、息子に早く身を固めてもらいたかった。
彼は徳のことを彼女が子供のころから見知っていた。浦の中では、誰がいくつまで寝小便をしていたかまで皆知っている。そんなわけで、太十郎は彼女が働き者で孝行娘だということも十分に分かっていたから、息子の嫁として不足はなかった。
この当時は、結婚は親同士で決めるのが当たり前であった。太十郎と岩蔵のあいだで縁談が進められ、文太郎もこれを了承した。
しかし徳自身はこの結婚にかなり抵抗があったという。
「ウチはお父ゥの所に来るのが嫌で嫌でしょうがなかった」
徳は晩年このように述懐している。もっとも、婚前の彼女が文太郎をどう思っていたのかは解らない。徳の心を何より痛ませたのは、彼女が母親として育ててきた、まだ幼い弟妹たちと別れなければならないことであった。少女時代を学校へも行かずに、ただ家族のために生きてきた経験は、わずか十九歳の娘の内にすでに大きな母性をはぐくんでいた。しかし彼女には、親が決めた縁談を拒否する権利は与えられていなかった。
徳は大正十三年に山本家に嫁いだ。
結婚の翌年、長女の恵美子が生まれた。恵美子は当時の佐伯や守後浦のことを、大人の目で見た経験を持つ最後の世代である。昭和十九年の秋のこの時、十九歳であった。
このころ彼女は佐伯市の木材会社に勤めている。
佐伯は海湾に向かって開けた町だが、その後背は山地である。また沿岸部の山林から原木を伐り出す場合や、製材したものを今度は町から出荷する場合などに、ろくな道路のない時代に海路を使えるという利点もあって、林業と製材業が盛んであった。
特に昭和になって佐伯に海軍航空隊が設置されることが決まってからは、基地やその周辺の環境を整備するための資材を扱うことになる木材産業は、大いに活況を呈すことになった。
しかし戦争が長期化し、やがて日米開戦が懸念されるころになると、あらゆる物資の流通が非常時の統制化に置かれることになる。
木材の流通は昭和十六年に公布された「木材統制法」に沿って、昭和十七年から地方の民間各社が合同して運営する「地方木材株式会社」が統制管理することになった。
この辺の事情は前章で触れた「合同新聞」とよく似ている。あくまでも民間企業なのだが、要は国策による合併であり、戦争遂行のための物資統制が第一義であった。たび重なる徴兵によって、各社ともに深刻な人手不足の問題を抱えていたから、その解消のためでもあった。
大東亜戦争は国家総力戦だった。民間の企業といえども、第一線の後方支援のためにのみ、その存在が許される時代だったのである。
大分県では「大分県地方木材株式会社」が設立された。それまで恵美子が勤務していた川崎製材という民間会社もこれに統合され、同佐伯支店に含まれることとなった。
恵美子はそのまま在職することになったのだが、その間のいきさつから、彼女自身は自分の勤務先のことを「木材組合」と呼んでいる。
さて、その木材組合に勤めていた恵美子が、この日もまた連絡渡船に乗って帰宅してきた。
ふねはいわゆる伝馬船で手漕ぎである。漕ぎ手の初老の親父は、親について子供のころからこの仕事を続けていたので、島の住人のすべてと顔なじみだった。
「恵美ちゃん、あんた、ここんとこ帰りが早えなあ」
親父が声をかけた。
「今な、香代子が博多に行っちょるんよ」
香代子は恵美子のすぐ下の妹である。
「それでウチが家の手伝いをせんといけんから、五時に引けたら一目散なんよ」
徳がそうであったように、恵美子もまた母親のように家族の面倒を良く見た。それをむしろ楽しむように明るく笑う彼女を、親父は眩しいと思った。
「ホウ、香代ちゃんは博多に行っちょるんか?」
「うん、女子挺身隊。兵隊さんの靴を作っちょる言うたわ」
「そりゃご苦労様なことじゃ。お、ほれ岸に着く。揺れるけえ、つかまっちょれ」
船が接岸すると僅かな乗客が船着場に降りた。この乗客同士もまた全員が顔見知りである。
彼らはそれぞれ挨拶を交わしながら家路についた。恵美子の家は船着場の目の前だったから、彼女がそのまま門内に駆け込みながら「ただいま」と発した元気な声が、岸壁を離れた渡船の櫂をとっていた親父の耳にも届いた。
「あらあ立派なチヌじゃなあ。これ、どうしたん?」
恵美子が台所に来てみると、文太郎が持ち帰った魚が俎板に横たわっていた。
台所は当時としては一般的な土間づくりである。これは文字通り土の間で、踏み固めた土の床が玄関から続いて一番奥の台所につながっていた。
このころ水道はまだ整備されておらず、水は勝手口の外にある井戸で汲む。煮炊きはすべてかまどでおこない、燃料は薪である。
電気だけは来ていたが、この家でそれを必要とする機器は電灯だけである。
灯かりを点すのも夜だけだ。こんにちのように日中でも暗ければ電灯をつけるという感覚は、この当時の人々にはなかった。電気代がもったいないなどという段ではない。電気そのものが貴重であり、戦争遂行のための重要な資源なのである。それを可能な限り倹約するのが国民の義務だった。
だからこの台所でも、勝手口から入る僅かな外光だけが灯かりだった。かまどから立ち昇る煙が、その光を拾ってさほど広くない台所に橙色の霞をたなびかせている。大鍋では里芋でも煮ているのか、イリコのダシの香りが恵美子の鼻をくすぐった。
徳はその時なにやら菜を刻んでいたが、娘の顔を見るとほっとしたように言った。
「そのチヌな、梅ニィがくれたんと。お父ゥが下ろすけえ、ウロコを剥いじょけ」
文太郎が三枚に下ろすから、恵美子にウロコを剥がしておけという。この母親は、大入島の女性としては信じがたいことに、魚を下ろすことができなかった。
こんにち、特に都会部では、鮮魚類はスーパーマーケットでパック入りの切身を買うため、多くの若い主婦は魚を下ろすことができない。
これはやや批判的な意味合いで語られることが多い、いかにも現代らしい風潮と言えるが、現実には生ゴミの処理に困るという事情もあって、まず仕方のないことだと理解されている。しかし徳の時代と、大入島という土地柄のもとでは、一家の台所を預かる主婦として、これはまったく怪しからぬことであった。
徳がそれをできないのは「むげしねえ」からである。
「可哀相だ」いう意味の方言で「むげねえ」とも言う。「無下にするな」が語源ではないかという気もするが、実際に使われるときの語感としては「かわいそう」より、やや深刻な痛みを伴うように感じられる。
徳は存外勝気なところもある女性だったが、なにしろ血を見るのが苦手だった。
これは戦後のことになるが、プロレスリングが人気を博しブラウン管を賑わしていたころ、子や孫がこれを見ていて流血シーンにでもなると、徳は「むげしねえ、むげしねえのう」と、おぞ気をふるって台所に逃げていたそうである。
イワシやアジ程度の小型魚ならなんとかなるのだが、大型魚の、自分の両手ほどもある頭をざっくり切って落とすなどはとてもできない。しかし生理的に無理なものはどうしようもないというわけで、山本家では魚を下ろすのは文太郎の仕事になっていた。
もっとも漁師の家では、さばくのに力を必要とする大型魚の場合、亭主が出刃を振るうのは別段珍しいことではない。文太郎も魚の行商を生業としているだけに包丁の扱いも玄人はだしだったから、これはまず徳にとってさいわいであった。
これはしかし笑い事ではすまされない問題だったらしい。この夫婦の縁談ばなしの内には、徳の父親である重蔵のほうから、「なにぶん娘はこのようであるが、それでもよろしいか」と、ことわりがあったほどだという。
文太郎の父の太十郎は、人々から「仏の太十ニィ」といわれたほど気優しい男だったから、この苦手については文太郎が助けるという約束が、その時からできていたのだろう。
太十郎が入り婿であったことは前章でも触れたが、その立場上妻のいたわり方や、たて方といったものを自然と学んでいた。
男権社会かつ家長制度の時代であるから、あからさまに妻をかばったり、本来女性の仕事とされていることに進んで手を貸したりすることはできない。それは逆に妻の顔をつぶすことになってしまう。この場合文太郎は、自分のほうが上手いのだから出刃は任せろと、徳の仕事を奪った形にしなければならなかった。実際に文太郎はそのようにしたのだが、おそらくそれは太十郎の教えだったのだろう。
こうして徳は結婚以来ほとんど魚をさばかずに済んできたのだが、それが文太郎の意図的なでしゃばりのおかげであったとは気付いていなかったふしもある。それはそれで文太郎の面目躍如なのかもしれない。
文太郎の母、つまり徳の姑にあたる人はヤエといったが、彼女もこの点に関しては徳に寛容だった。
この嫁は家事のあらゆることに手を抜かなかった。家族の誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝た。一日中コマネズミのように駆けずり回って家族のために働いていたという。
水汲み、薪採り、野良仕事、炊事、洗濯、風呂焚き、繕い物、農具の手入れ、それに年少の子供たちの世話と、「子から見ても気の毒なくらいキリキリ舞いして」働いていたというのが、恵美子以下子供たちの述懐である。繰り返すが水道はなく燃料は薪、電化製品などはまったくなかった時代のことであるから、この表現は必ずしも子の贔屓目による誇張とは言えまい。
さてヤエはといえば、この嫁に対してむしろ家族全員で手助けをするように家中を宰領していたという。聡明な女性であったと言ってよいであろう。息子が家事を助けることについて、嫌味めいたことを口にしたことは一度もなかった。そのヤエもすでに亡くなっている。
チヌを恵美子に任せると徳は表へ出て行った。その辺で遊んでいる子供たちを呼び戻して、食卓につかせるためである。食膳が整い、そこに家族全員が並んで初めて父親が食卓につくというのがこの家の決まりであった。
年少の妹たちは家の周りでままごとなどをしているのが常だったが、桂佑と亮は、まず目の届く範囲にいたためしがない。
そこで徳は、その界隈を時には十分ほども、わが子の名を呼んで歩くのである。
一日中働きづめに働いた徳にとっては、このひとときだけが、すべての家事から解放され、子供たちの優しい母親になりきれる幸福な時間であった。
外に出ると、対岸に沈み始めた夕陽が、浦前の海を金色に染めかけていた。
「桂よォィ」
「亮よォィ」
母親が呼ぶ声は、岸壁に繋がれた漁船から網を打って魚を獲っていた桂佑の耳にも、裏山でアケビをもいでは頬張っていた亮の耳にもよく届いた。よほどの都会でない限り、このころの日本の夕暮れどきは、まだそれほどに静かだった。
食卓につくのは父親が最後。息子たちはそれより先に座って待っておかねばならない。
しかし早ければいいというものでもなく、膳が整うまでは、食卓についてはいけない。
このふたつの決まりは、文太郎の方針だった。
前者は目上に対する礼儀を教えているのだろう。くだいて言えば「遅れてきて親や年長者を待たせるようなことをしてはいかん」ということになる。
後者は少々難解である。おおげさにいえば男としての矜持を教える躾であった。
要は、「男が座って飯を待つような、みっともない真似をしてはいかん」ということであり、今の日本人にはかなり縁遠くなった考え方である。特に若い読者にとっては、まったく理解に苦しむというのが正直な感想であろう。
理解不可能かもしれないが、あえて解説を試みると次のような理屈になる。
「男はどんな時でも潔くなければならない。人はよく、夏には暑い、冬には寒いと口にするが、これは潔くないことである」
確かに口に出したからといって何とかなるものでもないが、潔くないとはまた厳しい。
「そんな中でも、腹が減ったと泣き言をいうのが一番みっともない。口に出して言わずとも、いかにも腹が減ったというふうに早ばやと食卓につき、餌を貰う犬のようにめしを待つのでは同じことである」
筆者としては、文太郎のこの考え方を、文太郎自身の口から語らせてみたいところである。たとえば文太郎が亮に対して、このことを言い聞かせる場面などを再現して描いてみたいとも思うのだが、実際にはそのような事はまったくなかったというから困る。
桂佑と亮がしつけられたことといえば、この場合「お母ァが呼ぶまで飯台に座っちゃいけん」ほどのことであり、それも文太郎ではなく母や姉からのいいつけであった。それでも彼らは、なんとなく文太郎の考え方を理解できていたというから、このへんが当時の躾や家庭内教育といったものの凄味なのかもしれない。
子の名をもういちど年齢順に記すと、恵美子、香代子、桂佑、亮、のりえ、恵子である。
このうち次女の香代子はこのとき家にいない。恵美子が定期船の親父に語ったように、女子挺身隊に参加して福岡で軍靴を作る工場に勤務していた。女子挺身隊とは、地域ごとに民間の女子を一定数選定し、有給で各種労働に従事させた制度であるが、この制度の詳細についてはのちにもう一度香代子について語るときに譲りたい。
徳と恵美子が食卓に配膳を終えるころになると、三歳の恵子の子守をしていたのりえが来て、恵子を母の脇に座らせ、父と兄たちを呼びにいく。息子たちは、親を待たせてはいけないので何をおいても食卓にとびつき、正座して父親を待つ。
文太郎はその頃合いを見計らって席につくのだが、その時の彼は、この儀式じみた段取りの他人行儀さを打ち消すかのように「桂、ボラはようけ来ちょるか?」などと、てんで他愛ない話題を向けながら腰を下ろすのだった。
食卓はたたみ一畳ほどの広さの座卓で、飯台《はんだい》と呼んでいた。
家族がひとつの食卓を囲む形式の、飯台あるいはちゃぶ台と呼ばれる座卓が使われるようになったのは明治に入ってからである。
それまでの日本の食卓は、一人にひとつの小型テーブルがつく、いわゆる銘々膳《めいめいぜん》であった。こんにちでは時代劇で描かれる武士の食事場面や、和室での宴席などでしか見ることができず、いくぶん高級で堅苦しい印象を受ける食膳のかたちである。しかし飯台が一般的になるまでは、庶民の家庭であっても銘々膳が当たり前だった。
これは日本のタテ社会が生んだ食文化のひとつである。公式な食事の席はもちろん、たとえ家庭といえども、そこには厳然たる「身分制度」が存在していた。そこでは上位者と下位者を厳しく区別するために、各々の身分に応じた膳と料理が用意される必要があったのである。
明治になって四民平等が唱えられるようになると、特に都市部の市民階級から飯台の導入が始まる。そこには文明開化という時代の空気感が大きく作用しているが、庶民にとっては狭い家屋の中で銘々膳は不合理であるという、実用上の理由も強かったらしい。
山本家がいつごろから飯台を用いるようになったかの記録はないが、文太郎の代にはすでに銘々膳は姿を消しており、家族全員で飯台を囲むことになっていた。
文太郎は息子たちの躾についてはかなり厳しかったが、家族を身分で区別することはなく、そういう意味では必ずしも前時代的な封建主義者ではなかった。想像をめぐらすなら、これも入り婿だった太十郎の影響かもしれず、あるいは商売で養われた現実主義によるものだったのかもしれない。
もっとも上座には文太郎と息子ふたりが座ることになっていたし、それぞれの皿の中身にも男女の違いや年齢で微妙に差があった。これは、封建主義や銘々膳時代のなごりというよりは文太郎独自の方針であった。それについて語る前に、まずこの夜の献立を見てみたい。
なにしろその晩の食卓は豪華だった。チヌの刺身とアラ骨の味噌汁に、ボッコの煮たのと、ホウタレの唐人干しが飯台に並んだ。
チヌは別名をクロダイと呼ぶようにタイ科の魚で、こんにちでもやや高級魚の部類に入る。秋が旬で、この十月ごろはちょうど旨くなる頃であった。
ボッコとは里芋のことである。これは米麦の消費量を抑えるのにも役立つ。
ホウタレはカタクチイワシのことをこう呼ぶ。うまくて頬が垂れる、というのが名の由来であると言われている。
この魚は関東などではセグロイワシとも呼ばれ、成魚でも十五センチほどの小型魚である。稚魚はチリメンジャコや畳イワシ、幼魚はイリコや煮干などに加工される。成魚は干物にして焙って食べるほか、煮干同様ダシをとるのにも使われる。
そのように愛用されるだけの旨みを持った魚ではあったが、それらの食べ方をした場合は、別に「頬が垂れる」と言うほどの旨さではないだろう。
頬が垂れるのは刺身で食べた場合である。
刺身は包丁を使わずに料理する。
「手開き」といって頭を手でもいだあと指で腹から開き、内臓と背骨を外し、背側をはがして半身に分けたものを一片づつ豪快に食べる。ダシとしても利用される魚だけに旨みは十分で、それに新鮮なあぶらの甘みと清冽な潮の香が加わり、じつにうまい。
ただしこの魚には大きな弱点があってとにかくあしが早い。傷みやすいのである。チリメンジャコなどは「浜茹で」といって、水揚げしたその浜で茹でてしまうほどである。ホウタレも水揚げ後すぐに腐るというわけではないが、品質や味は時間と共に急速に劣化する。
漁は早朝におこなわれる。だからホウタレのうまい刺身を食べたいと思ったら、朝食の膳で食べるしかない。朝から刺身というのは浦ならではのぜいたくであった。
獲ったばかりの魚を、その地で食べるしかない、というぜいたく。島びとはこれをひそかに誇りに思い、一般には安物とされているこの魚に「頬垂れ」の名を与えたのかもしれない。
佐伯の人々はホウタレを縮めて「タレ」と呼ぶ。タレの真骨頂は刺身であったが、日干しにした丸干しは常備できる安価な副食として人々によく利用されていた。
丸干しは内臓を抜かずにそのまま天日に干し、長期保存が可能なように、水分を十分抜いた「唐人干《とうじんぼ》し」に加工される。軽くあぶって食べるのだが、噛みしめると滲みだす旨みに内臓の苦味がスパイスとして加わり、やや左党向けの風味になる。これを頭からガリガリ齧る。
文太郎の家ではこの「タレの唐人干し」が毎食ごとに飯台に並んだ。この日のように、別に立派な副食がある場合でもそれは変わらなかった。
「タレは骨が強うなるからようけ食え」が文太郎の口癖だった。このためか山本家の人々には、この時代の日本人にしては長身だったり、あるいはがっしりとした骨太の体格の持主が多い。栄養学的な関連の詳細は筆者にはわからないが、無関係ではあるまい。
時代は深刻な食糧難の中にあった。主食の米麦が不足したために、代用食というものが宣伝され始めたのは昭和十五年ごろのことである。
これはおもに小麦粉を使った麺類や芋類のことだったが、戦局が悪化し、海外の産地からの食糧輸送が滞るようになると、こういった代用食でさえ国民の胃袋を満たせなくなっており、昭和十九年のこのころには、代用食のさらに代用として、昆虫や雑草の食べ方までが、雑誌や新聞で大真面目に紹介されるという末期的な状況であった。
その時代を実体験したか、もしくは知識として知っている読者は、この夜の山本家の献立に大きく違和感をおぼえるかもしれない。あの食糧難の時代に刺身と魚の味噌汁を食べていたとあっては、どうにもリアリティがなさすぎるように感じるかもしれない。しかしすでに書いたように、この島の人々は魚にだけは不自由していなかったのである。
たとえば筆者が取材中に聞いた話では以下のような事例がある。
佐伯市の西南に宇目《うめ》という町がある。平成十七年の市町村合併で、現在では佐伯市の一部となっているが、ここは食用の猪の放牧が行われているほどに、山の幸に恵まれた里である。
この山里で、大正生まれの猟師が語ってくれたところによると、戦争中でも肉には不自由はしなかったという。
これは山に自生する猪や鹿の肉のことで、時には雉《きじ》やウサギなども獲れたらしい。
とは言うものの、やたらと猟をして根絶やしにしてしまっては元も子もない。さらにお上に目をつけられると自分の口にまわってこなくなる恐れもある。だから猟はたまに食える程度にしておく。猪や鹿は一頭をとてもひと家族で食いきれるものではなく、肉や内臓は近隣の家で分け合っていたということである。
このように、海には海の、山には山の幸があり、土地の人々は自身の良心が許す範囲内で、その恵みを享受していた。山本家の子供たちは当時「芋と唐人干しばかり食わされてうんざりしていた」と言うが、食糧難の時代でもその程度には食べることができていたわけである。
「おう、チヌか」
飯台につきながら、長男の桂佑が不機嫌そうな声で言った。
桂佑はこの時十二歳だったが、すでに大人のような口ぶりだ。
なんといってもチヌはご馳走である。うれしい。ところがそれをそのまま言葉にすることはできない。この家では美味いものを見て喜ぶのも、男の子の場合「みっともない」の内に入る。
「久保浦のな、梅ニィがくれたんと。立派なチヌじゃったんよ」
恵美子が麦飯をよそいながら声をかける。
彼女には幼い弟妹たちのうれしさが十分わかっているが、男の子の桂佑を一丁前に扱おうとするならば「ご馳走で良かったね」とは言えない。その代わりに、弟の不器用で不機嫌な声に表現された喜びを、受け止めてあげた返事がそれだった。
「ほいたら、食おうかのう」
最後に席に着いた文太郎がさりげなく家族全員を見渡しながらこう言うと、それが箸を取る合図となる。子供たちはいっせいに手を合わせ、「いただきます」を言って食べ始める。親はそれを言わない。家族の関係性においては、親は「食べさせてやる」立場であるからだ。
すべての家庭がそうだったとは断定できないが、日本人が食事の前に家族全員でこの言葉を唱えるようになるのは、まず一般的には戦後のことと言われている。
チヌの刺身は大皿に盛り合わせているのではなく、めいめいの小皿に取り分けられていた。同じ魚の刺身でもその部位によって旨さには差が出る。
桂佑の小皿には、胸から腹にかけての脂が乗った一番旨い部分が盛り分けてあった。これは父親の皿の刺身と同じ部位だが、さらに細かく書くなら、文太郎の刺身は上身《うわみ》であり、桂佑のそれは下身《したみ》だった。
魚はふつう頭を左手に、腹を手前に向けて置く。このとき俎板に触れる下側を下身といい、上に見えている側が上身である。両者を厳密に区別した場合、魚自身の体重がかかった分だけ下身は肉の状態が劣化すると言われ、上身の方が上等とされている。
つまりチヌの一番旨いところを食べるのは文太郎で、桂佑はそれに準ずる格付けということになる。その次に上等な部位を食べるのは九歳の亮で、母親の徳以下、女性たちが食べるのは尾の方のやや味が落ちる部位だった。
刺身を取ったあとのアラ骨は味噌汁の実になったが、文太郎の椀にはかしらがはいっており、桂佑と亮の椀にはかまの部分がはいっている。そして僅かな肉が薄くこびりついた背骨部分が徳や恵美子の汁の実となる。
当時は確かに男権社会だった。男尊女卑という言葉で表現されたように、男に対して、女は卑下するのが美徳とされる時代ではあった。だが文太郎がたとえ妻子といえども男女の食事を明確に区別する方針をとったのは、そのためではない。
文太郎は言う。
「桂と亮はな、はたちで死ぬるんじゃ」
この時代の男子には兵役の義務があった。徴兵年齢はもともと二十歳だったが、苦戦が続くこのころには十七歳にまで繰り上げられている。
いずれにせよ戦時である。徴兵されることは、同時に戦死を覚悟することであった。だからそれまでは、せめて家の中では一番上等なものを食わせてやろうという、非常の時代の父親としての、それは非常の覚悟だった。
非常も毎日続けばそれが日常となる。
亮はもちろん桂佑にとっても、死の意味はこの時まだ明瞭ではなかったが、自分は二十歳で死ぬのだという漠然とした運命感だけは、その幼い心に定着を始めていた。母や姉よりもいいめしを食うという毎日の習慣が、彼らにそれを教えたといえる。
食卓は躾の場であるという。
それは正しい考え方であろう。だがその躾とは何を指すのか。
少なくともこの家族にとっては、行儀作法や、感謝を学ぶという程度のことではなかった。
少年たちが手にした一椀の味噌汁に盛られていたのは、生死という命題だった。
しかし息子たちに悲壮感はない。彼らは遠慮なく刺身を頬張り、味噌汁のアラ骨から、脂の旨さをたっぷり含んだ肉をちゅうちゅうと吸った。いくら海の幸に恵まれた土地柄とはいえ、ふだん唐人干し以外に食わせてもらえる魚は、ボラやヒメジといった雑魚ばかりだったから、チヌはなにしろご馳走だった。
恵美子が目を細めて亮を見ながら、徳に話かける。
「母ちゃん見てみ、亮が上手にアラを食べるんよ」
「おせらしゅうなったなあ、なあ母ちゃん」
大人っぽいという意味である。この場合は「お兄ちゃんになったなあ」とでも訳す。
アラは食べるのに少しコツがいる。魚の身をそのまま口に含み、口の中で肉と骨により分け、骨だけを出す。この一連の動作そのものは簡単であるが、それを見苦しくなく下品でもなく、スマートにやるのが難しい。
肉を吸う時に音は立ててもよい。しかしその音も、たとえば蕎麦をすする音にも良し悪しがあるように、小気味よく旨そうに立てなければならない。九歳の亮が、そうやっていっぱしにアラを食べこなしているのを見れば、つい昨日まで弟のおむつを替えていた気分の恵美子は、やはり誉めてやりたくなるのだった。
だが誉められた方は迷惑である。うれしいが照れくさい。聞こえないふりで飯をかきこんでいると、恵美子がさらに話しかけてくる。
「亮、美味しいじゃろう?」
「ようけ食べんさいね。まだお汁はあるで」
「いつからそんなに上手に食べられるようになったんじゃろう、なあ母ちゃん」
たかがアラの食べ方をここまで誉められては亮も居心地が悪い。
恵美子はそれに一向気付かず、ただにこにこと笑っている。
徳は黙って三歳の恵子に汁を吸わせている。
飯は麦飯である。といっても麦だけで炊くわけではない。米に麦を混ぜて炊くのだが、麦の割合が増えると炊き上がった飯はボソボソとしたあまり美味くない食感になる。このころは、おおむね米三分麦七分くらいであったというが、この割合で炊く麦飯はお世辞にも美味いとはいえない代物だった。だから桂佑などは飯のおかわりをする時、
「おこげはうめえのう。おこげをくれ」
などと言う。
おこげは確かに美味いものだが、魂胆は別にある。
米と麦を一緒に炊くと、軽い麦が上方に集まるので、釜の底には米の割合が高い飯ができる。炊きあがった飯はいったん杓子で混ぜるから、米麦はそれなりに均等に混ざってしまうのだが、釜の底にこびりついた焦げ飯だけは混ざりようがなく、それをすくえば美味い米の飯が食えるというわけである。桂佑の腹は見え透いていたが、それでも恵美子は「はいはい」と、むしろうれしそうに焦げた米の飯をよそってやるのだった。
もっとも穀物の確保それ自体については、この家ではさほど苦労をしていない。
米こそわずかな配給量だったが、島にそこそこの麦畑を持っていたことと、副食として魚を十分に食べられたおかげで何とか腹を満たせていたためである。
もちろん飽食というわけにはいかない。餓死の心配がないというだけで、桂佑と亮はいつも腹をすかせていた。しかし二人に対しては「日干しにはせんけえ心配せんでええ。それで十分じゃろう」と言うのが、息子たちへの父親の口癖だった。
食事がすむと相撲がはじまる。
テレビはもちろんラジオもない。夜の憩いの時間に楽しむことといえば、本を読むくらいのことしかなかったが、このころには佐伯でもすでに灯火管制が敷かれていて部屋の中は薄暗く、本なぞ誰も読む気にならなかったという。
灯火管制とは、敵空軍の目標とならぬよう夜間の照明を制限することである。一般家庭では電灯の笠に黒布をまきつけて灯りが戸外に漏れないようにし、空襲の警報が出たなら、即座に電灯を消すことになっていた。
文太郎はまた「夜まで勉強するのは良くない」とも言った。
人間はお天道様が出ている間に働くものであり、勉強もそれと同じように、昼間学校にいるあいだに一心集中してなすべきであるという主義で、宿題などは学校でなまけていた者がやるものだと息子たちに教えた。
文太郎自身が読み書きに長じており、小学校に行かせてもらえたことを生涯恩に感じていたという話は前章でも紹介したが、学校の勉強は学校でやるものだという考え方は、その学問的向上心と矛盾するものではなかろう。
そのかわりこの家では、座敷をきれいに片付けて畳相撲をとるのが夕食後の日課だった。
「ほいたらマワシを締めえ」
文太郎がそう言うと桂佑と亮は着ているものを脱ぎ捨てて猿股一丁の半裸になった。猿股は今でいうトランクスに近い形状の下着である。
ふたりは隣部屋に駆け込むと、タンスの中から着物の帯を取り出しにかかる。それがマワシ代わりだった。帯と言っても自分たちの兵児帯では長さや幅が足りないから、徳や恵美子の、それもよそいきの分まで引っ張り出す。
「桂よい亮よい、母ちゃんの紫の帯だけは使わんでおいちゃれな」
以前、恵美子は二人に懇願したものである。
「あの帯はなあ、むかし祖母ちゃんに買うてもろうた大事な帯じゃけんな」
ところがそんな帯ほど見栄えが良いもので、弟たちには「聞いたことか」であった。
その夜は桂佑が、すでに縁の部分がささくれ始めたその紫の帯を締めていた。徳も恵美子もすでに諦めているのであろう。このころはもう何も言わない。
さて、この家の相撲は文太郎が子供たちのぶちかましを二十番ほど受けたあと、今度は子供同士で立ち合うのであるが、ひとつだけ決まりがあった。
体格の勝る方は、その両膝を畳につけた形で相手と組まなければならないことになっている。文太郎は子供たちに対して、桂佑は亮に対してこのハンディを負う。膝小僧が僅かでも畳から浮いたら黒星である。
これは一見弱者への思いやりのようにも見えるが、その実は、体格差をいいわけにさせず、真剣勝負をさせるためのルールだった。これまた、いいわけは潔くないということだろう。
もっとも桂佑や亮が国民学校に入るころまでは、文太郎も突かれれば尻餅をついてやったし、投げを打たれれば畳に転がってもやった。
だがすでにこのころには、容赦なく息子たちを弾き飛ばすようになっており、桂佑と亮が、このために打ち身や擦り傷を作るのは毎日のことであったという。男ざかりの文太郎にとってこれを真剣勝負というにはいささか無理があるが、息子たちには気を抜く余裕などあればこそである。
この夜も桂佑はしたたかに畳へ打ちつけられて鼻の頭をすりむいたし、亮はポンと跳ねとばされて、こちらは無傷であったが代わりに襖の破れ穴がひとつ増えた。もっともいまさら穴がひとつふたつ増えようが増えまいが、もはやどうでも良いような襖ではあった。
「亮、おまえはの、腰が入っとらんけえ簡単に放られるんじゃ」
再び組み付いてきた亮を抱きとめながら文太郎が叱咤する。
亮には心外だった。この少年は同年代の中でもっとも小柄な方であったが、どういうわけか足腰が異常に強く、小学生同士の相撲では、投げを打たれて腰を浮かしたことはなかった。
こんな話がある。
文太郎は所用で佐伯市本土の町に出かける際、たびたび亮を連れていったのだが、うしろを歩かせているといつのまにか姿が見えなくなっている。
それを心配するような文太郎ではないが、かと言って放っておくわけにもいかず引き返して探してみると、亮はそこらにいた街の子をつかまえて相撲をとっている。相手はみな亮よりも上背があり体格も良かったが、小兵の亮に手もなく土をつけられていた。
亮にしてみれば勝つのが面白いから、これを町に行くたびに繰り返す。
路地裏で、メンコなどをして遊んでいる子供たちがいると、そこへてくてくと歩いていき、
「よう、相撲じゃ」と声をかけ、相手の返事も待たずに組み付いていくのである。
自分より小さな子に勝負を挑むのは卑怯だとされていたから、亮が選ぶ相手はみな大きい。彼らは生意気なチビすけが突っかかってきただけだと考え、なんの、ひと思いに投げ飛ばしてやろうと技をかける。
そこが運のつきだ。亮の腰は浮かない。技をかけたほうこそ体勢を崩す。そこを一気に亮が突き落とす。
まるで辻斬りである。これがあまりたび重なるので、とうとう亮は父親の後ろを歩くことを許されず、常に前を行かされるようになってしまったほどである。
その息子に文太郎は「腰が入っていない」と叱咤する。
「入れちょる」
亮はむきになって文太郎に食い下がるが、畳についた文太郎の膝小僧には根が生えている。
「おまえはの、攻めよる時に攻められたら腰が抜けるんじゃ。ほれ」
すっ飛ばされた亮の足が、またひとつ襖に穴を開ける。
「辛抱がたらん。辛抱はとことんやるのが辛抱じゃ」
そう言われて亮は再び父親に突っかかっていく。
脇では桂佑が「毎晩おなじことを言うのう」と、ぼやいている。
二人の兄弟がのちに回想した言葉を借りれば、これは文太郎のスキンシップであった。
だが「はたちで死ぬ」それも「戦争で死ぬ」。わが子の運命をそう思い定めた父親が、毎晩息子たちと相撲をとるその光景は、スキンシップなどという温かなひとことで表現するには、あまりにも重くはないか。
男の子は肉体的に強くなければならないという考えが、こんにちよりはるかに強固な時代であったから、息子たちがやがて徴兵されて入営したとき、過酷な軍隊勤務や上官からの制裁に耐えうるだけの体と精神を鍛えてやらねばならないという親心であったかもしれない。
また、平地がごく少なく、遊び場といえば山か海しかなかった大入島の子供たちは、自然と足腰腕力が鍛えられており、相撲をとらせれば街の子など敵ではなかった。だからこそ辻斬り勝負でいい気になっている息子たちの、その慢心をたしなめるためにあえて徹底的に負かしていたのかもしれない。
しかし当時の文太郎の真情をもっとも正しく表したのは、筆者の取材に対して亮が漏らした次の言葉だと思える。亮は言った。
「あれはね、親父が俺たちを抱きしめていたんですよ」
至言というべきであろう。
夜も更けて一家は眠りについた。最後に寝るのは決まって徳だった。
この母親はどういうふうに探すのか、毎夜きまって、家人がみな床についた後、「そうじゃ、あれもしちょかんと」という、家事の些細な部分を思い出しては寝巻きで台所に立っていく。
まだ幼いのりえと恵子を寝かしつけるのは恵美子のしごとだった。時には亮に添い寝をすることもあったが、その機会はこのころめっきり減ってしまっている。
ひとつには、寝ても元気のあり余っている亮が無意識の内に振りまわすげんこつに閉口したためでもあるが、それよりも弟のほうが姉の添い寝を嫌がるようになったことの方が大きい。
それは男の子が成長していく過程で当然の成り行きだったから、恵美子にしてみればむろん寂しくはあったが、まあ仕方ないことよと、あくまで自然に弟の成長を受け入れて来ていた。
だがこの夜に限って、寝息を立てている亮の横顔を布団ひとつ離れてみつめていた恵美子は、次第に言いようのないやるせなさを感じはじめ、そしてひとつため息をついた。
その寝顔は、九歳の男の子がようやくむき出し始めたきかん気や意地、俗に突っ張りとでもいうべき未熟な大人らしさを、夢の渕に沈めてしまっているかのように、あどけなく無垢で、無防備であった。
「むげしねえなあ」
声には出さず思った。彼女が十二歳の時から背に負ってきたこの弟は、父親の勘定によればすでに人生の半分近くを生きてしまったことになる。
むろん彼女が父親の考え方にまったく共感していたわけではない。むしろ持ち前の楽天性と女性ならではの母性が、今まではそれを無意識のうちに否定してきていた。
しかしこの時の彼女には、突然理由もなく、この日まで亮と過ごした日々が幻だったように思えた。それは思い出そうとすれば鮮明に思い出せる映像なのだが、背に感じた、弟の重さや声や体の温かさを実際に伴わない、とても儚いものに感じられた。そうしてそのあと彼女は、夕食のとき弟の成長ぶりを無邪気に喜んだ自分を後悔した。
「大きゅうなったら兵隊にとられるんじゃもんなあ」
「このまま、もう大きゅうならんじゃったらエエのになあ」
愚かしい願いであった。恵美子も本心からそう願ったわけではなかった。そう願うことが、彼女にとってはつねの心を取り戻すために必要なのであって、ただそれだけだった。
恵美子は「戦争が早く終わればいいのに」と願うべきだったのかもしれない。
だがそれは、彼女の意識の外にある可能性だった。恵美子が物心ついたとき、すでに戦争は日常だった。戦争はいつか必ず終わるものであるという考え方は、理屈としては成立したが、感覚としては彼女に無縁だった。
戦争と平和という一対の概念は、その両方を認識できて初めて成立するものであろう。
たとえば戦争という概念への認識が著しく退行した現在の日本では、私たちの意識野中に、戦争と平和は必ずしも対極に配置されない。
日本は平和だとまではわかる。しかしその平和が崩れた時この国がどうなるかを、私たちは現実感を持って想像することができない。戦争自体が不可知な概念になってしまっている。
それと反対に、この当時の恵美子の世代にとっては平和こそが不可知な概念だった。物心がついたときから戦争中という環境に育ったのでは、よほどのインテリでもないかぎり、意識の中に戦争のない平和な時代を構築することは難しい。
この当時、世界は弱肉強食の外交の舞台であり、戦争は、利害を異にする国家同士が白黒をつけるための、ごく当たり前の政治的手段だった。しかも恵美子たちにとっては、この戦争は売られた喧嘩ということになっている。相手が「きゃん」と泣かないかぎり、終わらせようもない戦争なのである。
ましてや、軍隊の必要さえない平和な世界などは、夢にも出てこない。
このころ米軍による日本本土空襲はまだ始まっていない。当然ながら国内のどこにも戦闘は発生していない。平和ではなかったが、少なくとも国民の安全は保障されており、その安全を維持しているのは軍隊だったからである。
人々が政府や軍に対して「もういいかげんにしてくれ」という思いを持つようになるのは、本土空襲が始まり、特攻が世に知られるようになってから、つまり軍がその責任を果たせなくなった事実を認識したあとのことである。
ことの是非を論ずるつもりはない。だが、生まれた時から戦争が日常であった人々の意識がどのようなものであったかに思いをめぐらさず、こんにちの常識感覚をもって、当時の人々の想いや行動を理解しようとすれば、それには非常な困難を伴うだろうし、同時に甚だしく礼を失することになるだろう。ここはそう思ってあえて行を加えた。
大入島が浮かぶ佐伯湾が日本海軍の作業地であり、そこが連合艦隊の停泊地であったことは前章に詳しく書いたが、佐伯の町そのものは、海軍航空隊の町だったと言っていいだろう。
航空隊がここに開隊したのは昭和九年だった。
佐伯の市街地をおおむね東西に流れる川がある。番匠《ばんじょう》川という。九州屈指の清流といわれ、佐伯北西の三重《みえ》町と本匠町をまたぐ佩盾《はいたて》山に発し、弥生町を経て佐伯湾に注ぐ。
佐伯航空隊はこの番匠川の河口付近に造成された広大な埋立地に置かれ、海軍航空草創期の時代から、国内有数の訓練拠点としての役割を果たしてきた。
航空隊があれば、それに関係する人々の町への出入りも多くなる。航空隊じたいが消費する物資も併せて、これが佐伯で商売をする人々にも少なからぬ利益をもたらしたから、航空隊に対する市民の人気は高かった。
海軍の指揮系統の上では、この佐伯航空隊は呉防備戦隊の隷下に置かれていた。したがって戦隊司令官の清田孝彦は、佐伯航空隊に命令を下す立場にもいたわけである。そういう事情もあって、佐伯に出張《でば》った清田の司令部は佐伯航空隊の庁舎の中に居所を定めていた。
この建物は四階建てのコンクリートづくりで、佐伯に米軍の空襲が加えられるようになってからも幸運なことに損壊を免れ、現在でも海上自衛隊の施設として使用されている。
清田が文太郎を訪ねてから数日後、恵美子は初めてそこを訪れることになった。
現在のJR佐伯《さいき》駅に降りて駅舎を背に立つと、左右と正面の三方向に向かって道路が伸びており、正面の道を進むとほどなく橋がある。現在では海運橋と呼ばれているが、戦時中までは海軍橋といい、佐伯の人々はこれを、民と軍の境界にかかる特別な橋として意識していた。
橋を渡ったところに、佐伯航空隊と隣接する佐伯防備隊の隊門があり、衛兵という、隊への出入りを監視する立ち番任務の兵隊がいる。彼らは銃剣のついた小銃を装備し、特に民間人の立ち入りについてはこれを厳重にチェックする任を負っていた。
衛兵には専任の兵隊がいるわけではなく、基地の兵隊が交代で勤務につく。ところがこれを歓迎する兵隊は少ない。重要な任務であることは承知しているが、なにしろ退屈なのである。しかも重い小銃を抱えての、立ちっぱなしの勤務なのだから、不人気だったのも無理はない。
だからこのとき衛兵に立っていた若い一等兵は、海軍橋を渡ってくる、モンペ姿の若い娘を見止めた時、ささやかな楽しみを伴った、この日の勤務に当たった巡り合わせに感謝した。
恵美子が来意を告げて深々とお辞儀をすると、その一等兵は、これ以上はないというほどの生真面目な表情と声で答えた。
「伺っております」
恵美子の訪問は事前に文太郎から清田へ連絡されており、清田はその旨を衛兵司令に伝えていた。若い娘であっても司令官の客である。衛兵の態度は謹直そのものだった。
「ただいまお取次ぎいたしますが、ここでお荷物を拝見させていただきます」
恵美子はひとかかえの風呂敷づつみを持っていた。彼女はその場にかがみこんで、そろえた両膝の上でそのつつみを解き、中を見せた。
ザルの上でヒバに包まれた、見事な鯛が姿を現した。
(こういう味な通行証は初めてじゃな)
ともかく「若い婦人が魚を持って訪ねてくる。姓名は山本恵美子」という、衛兵司令からの達しどおりである。彼は恵美子をそのまま待たせておき、司令官室に報告するため隊内電話がある詰所に入った。
清田からの迎えが、隊門に駆け足でやってくるまでたっぷり五分かかった。それまでの間、恵美子は立ったままじっと待っていたし、衛兵はつねの勤務に戻って身じろぎもしなかった。
両者はともに無用の会話を慎まねばならなかった。
衛兵が上番中に外来の客と立ち話をするなどは論外であったし、恵美子にしても、気やすく「兵隊さん」に話かけられる立場も技術も持ち合わせていなかった。恵美子はずっと、視界の外にいる、たった今言葉を交わした衛兵の仕事についてただ考えていた。
「こうやって何時間、じいっと立っちょるんじゃろう?」
「桂じゃったら務まろうが、亮はどうじゃろう? あの子は気ぜわしいけなあ」
衛兵のほうは、相手が司令官の客であり、しかも若い女性ということで少し緊張していた。対面した時に、ずいぶん背の高い娘だなと思ったことと、鼻の下にちょこんと座ったほくろ、このふたつが彼女の印象のすべてであった。彼はそれ以上のことにむしろ関知すまいとして、いっそうの謹厳さを自分に命令していたが、それでも、その緊張感のどこかにある心地よさの成分が、彼を少しの時間、幸福にしていた。
司令官室までは清田の従兵が案内した。従兵とは士官の身の回りを世話する役で、一般兵が持ち回りでこれに上番することになっていたが、清田のような司令官の従兵ともなれば、その専任の者がいた。
恵美子が最初に通った門は、佐伯防備隊の隊門である。門のすぐ脇に防備隊の庁舎があり、恵美子は従兵に先導されてその前を通り過ぎた。そこから航空隊の庁舎まで少し歩くのだが、途中には航空隊に所属する兵士たちの居住区などもあって、割と人かずが多い。
すれ違う兵隊たちがみな自分のほうを見ていく。それにつれて恵美子の緊張も高まる。何と言ってもそこは軍隊なのだ。ふつうは女子供が出入りするところではない。彼女は高い背丈を縮めるようにして歩いた。
航空隊の庁舎は上から見るとL字型をしており、外側に向いた角の部分に玄関が来るように配置されている。そこから中に入り、階段を上り、今度はしばらく廊下を歩く。
歩きながら、恵美子はエライところに来てしまったなあ、と思った。そこは、彼女が今まで入ったことのある建物の中で、もっとも広く、どこよりも堅苦しい雰囲気だった。
(だいたい木材をあんまり使うちょらん)
それだけで、彼女にはそこが、なにか監獄ででもあるかのような冷たいざらざらした感触の空間に感じられた。木材組合の、歩けばしなるような木の床の柔かさと対照的に思われた。
別に、この建物が意図的にそういう演出をされたわけではなかったが、この頃の日本人にはコンクリート作りの洋風建築はそれほど馴染みがなかった。人によっては外国映画に出てくるような、ハイカラな建物と目に映ったかもしれないが、恵美子には温かみのない石の箱としか感じられなかった。
やがて司令官室に着くと従兵が先に入り、清田に客の到着を告げる。
清田の公室も特段のしつらえがなされているわけでない。だから、そういうモダンなような殺風景のような部屋に入ったとき、恵美子の目に格別に強く焼きついたのは、清田が着ていた純白のカーディガンの、いかにも場違いなその色の鮮やかさだった。
さて、相手はなにしろ軍の高官であり、場所はほとんどの一般人が一生立ち入ることのない司令官室である。恵美子は、この娘が生来持っている楽天的でのんびりとした性格に似合わず緊張の極にあったが、それでもなんとか型通りの挨拶を述べ、風呂敷に包んだ鯛と文太郎から託された手紙を手渡すことに成功した。それは先日の清田の好意への礼物であった。
そのあと恵美子は清田に促されて来客用の椅子に座ったが、そのころには何とか我に返り、ものを考える余裕を得ることができたのは、まだしも度胸が据わっていたほうかもしれない。ふたりの体は卓を挟んで対座していても、その身分にはそれほどの開きがあった。
(また洒落た服を着ちょるんじゃなあ)
その少しばかり生まれた余裕の中で、恵美子は思った。第一印象がまだ尾を引いている。
海軍少将であり司令官である。いかめしい軍服に身を包んだ、鬼瓦のような顔の豪傑を想像していた恵美子には、日焼けこそしているが柔和な顔つきにチャプリン髭をたくわえ、女性が好むような純白のカーディガンを着た、まるで学者のように見える目の前の紳士が、泣く子も黙る帝国海軍の提督とはとても思えなかった。
清田は文太郎からの手紙を一読したあと丁寧にそれを畳み、一礼をほどこして卓に置いた。それから恵美子に使いの労をねぎらう謝辞を述べたあと、聞いた。
「恵美子さんとおっしゃいましたね。おいくつですか」
「はい。わたくしは十九歳です」
恵美子はいつも、自分のことを「ウチ」という佐伯では当たりまえの女性一人称で呼ぶが、この時は妙に堅くわたくしといった。言ってから、わたしで良かったかな、と思った。
それから清田は恵美子の仕事やきょうだいのことなど、さわりのない話題を二、三むけて、彼女がそれに過不足なく控えめな態度で答えるのを、姪に対したやさしい叔父のような表情で聞いていたが、そのあと少しだけ膝を詰めて恵美子に言った。そのとき彼は、ほんのわずかに照れたような表情を見せたが、恵美子はそれに気付かなかった。
「じつはあなたにお願いがあるんですが」
依頼であった。
実は十日ほどのちのことだが妻がこの町に来る。市内の旅館に宿をとることにしているが、妻には不慣れな土地であり、わたし自身も旅館までの道を説明できるほど、まだ市内の地理に詳しくない。といって基地の者を迎えに差し向けるのも公務ではないから憚られる。そこで、あなたが佐伯駅で妻を迎えて、旅館まで連れて行ってもらえないだろうか、と。
とうじ市内には、軍関係者の家族知人が面会等に訪れた場合に宿泊するための、といってもそれ専用の宿というわけではないが、それらの人々の常宿となっていた旅館がかなりあった。
それらの旅館にも格付けがあり、将官、一般士官、下士官、兵と、階級によって家族知人を宿泊させる宿が分かれていた。
別にそういうところまで軍の階級制度が厳しく適用されていたわけではないらしい。これは自然とそうなっていったと考えるのが妥当だろう。仮に、同じ旅館に兵と士官が宿をとれば、兵だけでなくその家族までが、士官家族に対して様々な点で遠慮せねばならない。
また、士官の方でも、下級者が自分にへりくだる姿を、その妻や子に見せては情に欠けるというものである。
ぜんたいに日本海軍というところは、上級者ほどそういう気配りをする風があったらしい。清田は妻のために、そういう意味で、最上等の旅館を手配していた。
「旅館は御城下の菅《すが》旅館というんですが、ご存知ではないですか」
「ああ、それならわたしの勤め先の近くです」
その旅館は以前木材組合の社員が出征するさいの壮行会で、恵美子も手伝いに行ったことがある。そういえばその界隈では、制服の海軍士官を何度も見かけたことがあった。
あれほど近くであれば、仕事を丸一日休む必要もないし、ほかならぬ司令官の頼みである。上司も承知するだろうと思ったから引き受けることにした。
「はい。それでお迎えに行かせていただきます」
「ありがとう。では汽車の時刻を書いてお渡ししますから、ちょっと待っていてください」
清田は机に歩み寄って紙片に要点を書き、それを恵美子に渡しながら言った。
「お父さんによろしくお伝えください。それからお母さんを大切にね」
それを辞去するきっかけの言葉と理解した恵美子は立ち上がり、書付けを両手で受け取って深々とお辞儀をした。
それから清田は机においてあった紙袋をとり、恵美子に手渡した。
ご家族へのお土産にと言われて受け取ったそれには、桃の缶詰が二缶と「光」の煙草二箱が入っていたが、恵美子がそれを知るのは家に帰り、徳が紙袋を開けたときである。
清田が従兵を呼び、客を隊門まで送るよう指示するあいだ、彼女はこの部屋に入った時には体に充満していた緊張が、今はきれいに消え去っているのに気付いて、胸の内でだけ、大きく息をした。
「それがな母ちゃん、真っ白なカーディガンを着ちょるんよ。海軍少将ちゅうてもハイカラなもんじゃなあ」
その夜、恵美子は使いの役を無事に果たしたことを父親に報告し、清田夫人を出迎える件を話したあと、司令官がいかに洒落人で、人あたりのいい紳士だったかについて家族に語った。いつになく熱っぽかったのは、基地を訪問した際の緊張の余熱であったのだろう。
「桂、カーデンガンちゃ、なんか?」
亮が兄に聞いたが、桂佑はそれに答えず恵美子に反駁した。
「海軍少将がそんな格好をしちょろうかの? 恵美ネェの見間違いじゃろ」
「見間違いちゅうてあんた、目の前におるのんに見間違えようがあろうかよ」
「のう恵美ネェ、カーデンガンちゃ、なんか?」
「カーディガンちゅうのは毛糸で編んだ上っ張りのことよ。ここんとこ涼しゅうなったけな、司令官は風邪でもひいとったんじゃなかろうか」
文太郎は黙って聞いていたが、それを聞くとさすがに苦笑してこう言った。
「どうして海軍がそんなことで風邪なんぞひこうか。それはの恵美子、お前のためにわざわざ着てくれとったんじゃ」
文太郎は清田の配慮を洞察したが、恵美子には理解できなかった。
「そうじゃろうか?」
別に、ウチに会うのにお洒落をすることはねえじゃろう、と言った。
恵美子が他人の好意に鈍感であるといっては気の毒であろう。
若い娘が軍隊を訪問する際の心情をあらかじめ察し、その緊張を和らげる用意をさりげなくしておく。しかもその気遣いを相手にはまったく悟らせないという、いわば一流に洗練された接客作法は、この片田舎の街では誰にとってもあまり縁がなかった。
文太郎がそれを理解できたのは、ひとつには彼自身の洞察力もあるが、もともと日本海軍はそういうところであると、知識として知っていたためでもある。
スマートであれ、というのは海軍士官の心得のひとつであった。この場合のスマートとは、むろん容姿や体型のことではない。
日本海軍は明治以来世界の第一流であった英国海軍に範をとったため、戦略戦術はもちろん軍人の心がまえやマナーといった、日常的な生活態度についても彼の国に多くを学んできた。
英国におけるジェントルマンシップは、輸入されたのち、日本人に合うよう多少は手直しをされたが、海軍の士官にとっては必須の徳目として彼らに叩き込まれていた。恵美子に対する清田の心遣いはまずそういう筋合いのものであった。
もっとも清田自身の修養によって、それが見事に磨き抜かれていたということはある。まだはたちにもならぬ娘には、その呼吸を読むことはいささか舞台が勝ちすぎた。
「まあエエ」
文太郎はそれで話を打ち切ったが、それは、娘にどう説明しても清田の心遣いを理解させることはできないと諦めたからではなかった。そういった心遣いも見方を変えれば対人関係上の技巧と言えなくもない。そのたぐいのものを恵美子に理解させ、ひいては身につけさせる必要そのものがないように思えたのである。
「女子《おなご》には女子の愛嬌ちゅうものがあろう。それでエエ」
文太郎はそう思った。
恵美子はそれ以上、文太郎の言ったことにこだわらなかった。それより彼女は、清田からの土産である桃の缶詰を早く桂佑と亮に食べさせてやりたかった。だからその宰領権をもつ母の顔色のほうが気になっていて、カーディガンのことは別にどうでも良かったのである。
しかしその夜、ついに缶詰のことは話題にも上らず終わった。
清田スミエが佐伯駅に降り立ったのは、それから数日後、秋晴れの日の正午すぎである。
恵美子はいつもよりやや早く出勤して午前中の仕事を昼前に片付けてしまい、上司の許可を得て駅にむかった。徒歩である。十五分ほど歩いて正午前には駅に着いていた。
黒い煙を吐きながら汽車がホームに入ってくる。蒸気機関車、いわゆるSLである。
昭和の終わりごろに民営のJRとなるまで日本の基幹鉄道は国営であり、人々からは国鉄と呼ばれていた。
このころの国鉄は誰でも自由に利用できるわけではなく、切符は、いまふうに書くなら限定発売されていて、利用者はそれを、結構な努力をして手に入れなければならなかった。
戦争による物資の不足が、汽車の燃料であった石炭の供給に制限を強いていたために、便数そのものが大幅に減らされていたためである。さらに、運行される列車は、客車より貨物車の割合が圧倒的に多かった。人々の移動より軍需物資や食糧などの輸送が優先されたのである。このため、切符を求めるためには旅行許可証なるものの交付を受けねばならなかった。
だから乗客は商用や公務の者が多く、そうでなくとも何かの用事を抱えた者がほとんどで、みなどこか忙しそうであったり、大きな荷物を抱えていたりする。暢気に旅行といった風情の乗客はまずいない。
しかしそのおかげで、恵美子は苦労なしに初対面の客人を見つけることができた。
そのホームを、到着をさもうれしそうにゆっくりと歩いてくる女性がひとりいる。恵美子はそれが清田夫人のスミエさんであるに違いないと思った。
その人は当時の婦人がみなそうであったように木綿のモンペをはいていたが、上衣は瀟洒な白のあわせだった。もともと呉服であったのをモンペに合うよう仕立て直したものであろう。
「司令官の奥さんともなると、やっぱり洒落たもんじゃなあ」
清田のカーディガンを思い出して、恵美子は少しおかしくなった。夫婦というものはこんなところまで似てしまうものか、と思った。
「恵美子さんですね」
スミエから声をかけた。彼女はきれいな標準語のイントネーションで、おっとりと話した。
小太りの体とその話し方は、いかにも良い所の奥様だという印象を恵美子に与えた。
「山本恵美子です。遠いところをご苦労さまでした」
恵美子は両手を膝の前にそろえ、最敬礼のお辞儀をした。
清田スミエが佐伯を訪れるのはこれが初めてではなかった。すでに書いたように彼女は夫の佐伯着任のころ、いちど大入島の山本家を訪問している。しかしこの時、恵美子は木材組合に出勤中だったから、ふたりはこれが初対面である。
それでも恵美子は、父母の知己であり、国家のために重責を担う清田を陰で支えているこの婦人に、私的にも公的にも、自分が気持ちよく仕えなければならないことを弁えていた。
恵美子はスミエの荷物を持たせてもらえるよう申し出たが、ふたつの荷物のうち、ひとつを渡されただけであった。もうひとつはそれが清田個人の物であり、あなたに運ばせることは、軍人が民間人を私用で使役することになるからよろしくない、という理由で夫人が持った。
「そういうものなの。堅苦しいわねえ、ごめんなさい」
スミエがそう言ってすまなそうに笑うと、恵美子もつられて微笑んだ。ふたりはそれから、線路沿いの道を旅館に向かって歩きはじめた。歩きながら、
「恵美子さんはおいくつ?」
と、スミエが聞いた。清田と交わした雑談の、最初の質問と同じであった。
ふたりはやがて、当時の佐伯の目抜き通りにさしかかる。
その右手の奥まったところには毛利家家臣の武家屋敷が立ち並び、明治の文豪国木田独歩が寄寓していた旧家などもあって城下町佐伯の風情をたっぷりと残していたが、彼女たちの歩く道から直接それを見ることはできない。
それでも恵美子は、その武家屋敷通りのさらに奥には毛利家の菩提寺である養賢寺があり、その門前で藩士たちが武芸を練った馬場の跡には見事な松の並木があって、それは馬場の松と呼ばれている、などといったことを遠来の賓客に案内しながら歩いた。スミエはそれを素直に聴きながら、品のいい笑顔で時どき相槌を打つばかりである。
菅旅館のあった場所は、現在では中村西町と呼ばれている界隈なのだが、すでに旅館はない。筆者が訪ねた時、その跡地には書店が建っていた。
その場所を特定できるあてはなかったのだが、この辺かと目星をつけた界隈でひとに聞いてみると、実はまったく的外れで離れた場所だったにも関わらず「ああ、それはもっと先でな」と、すぐに教えてもらえた。良く知られた宿だったようである。
ふたりがその須賀旅館に着くと、中年のこれまた人の良さげな女将が出迎えに立った。
彼女は二階の客室までスミエを案内し、型どおりの挨拶を述べたあと、昼食の仕度ができている旨を告げた。スミエはそれを一緒に食べるようにと恵美子に言った。
「恵美子さんの分も頼んであるのよ。だからご遠慮なく」
「ありがとうございます。でも、わたし、お弁当がありますから」
恵美子はそう言って肩から斜にかけた雑嚢を上から押さえて見せた。職場を出る時に持って出たものだった。列車が予定より遅れて到着することはままあることだったから、その時には駅で待ちながら食べられるようにと思案したのである。
「あら、それならここで一緒に食べましょう。私も一人で食べるより楽しいから」
スミエはそう独り決めして、女将に言った。
「すみませんね、せっかくご用意いただいたのに」
「エエんですよ。ほいたら一人分な、いまお持ちしますけ。お姉さん、お箸は持っちょるん?」
恵美子がうなづくと女将も同じようにうなづき、それからこう言った。
「お姉さん、木材会社の衆じゃろ。いっぺんウチに来たことがあるなあ」
「はい、清家《せいけ》さんの出征の時にな、手伝いに来ました」
「ああ、そうじゃった。あんたのな、そのホクロにな、なんか見覚えがあったんよ」
それから女将は「そうじゃった、清家さんの時じゃ」と、独り言を繰り返しながら、階段を降りていった。
その日旅館が用意したのは、煮魚と煮しめと漬物と味噌汁、それに麦飯という献立だった。
煮魚がついているあたりが高級士官の家族向けということであろう。須賀旅館は仕官以上の軍人家族が宿泊する宿だったから食糧の仕入れにもそれなりのルートがあり、手に入りにくい肉や魚も一般よりは融通が利いていたらしい。
煮魚は土地の者が「紋ダイ」と呼ぶマトウダイの切身だった。体に丸い模様を持つのでこう呼ばれている。刺身でも旨いが、醤油や味醂はこのころすでに貴重品であったから、煮付けはむしろ贅沢な料理の内に入った。これも客が司令官の令夫人ということで、宿側がいちだんと奮発した献立かもしれない。
膳は脚付き膳だった。それを挟んで二人は向かい合って座った。
スミエが手を合わせて「いただきます」を言い、箸をとってから、恵美子は同じ手順を踏んで弁当箱を開けた。すると、この婦人は何を思ったか、急に照れくさそうな顔をして、恵美子に言った。
「まあ、恵美子さん。それはなあに?」
「はあ? わたしのお弁当ですか?」
恵美子は思わず自分の弁当箱に目を落とした。
それはこの朝、自分でよそってきたもので、麦飯を敷き詰めた弁当箱の片側に、小指ほどの大きさの、イカの煮付けが十杯ほども押し込んである。墨を抜かずに煮ているので、煮付けはそれに汚されて真っ黒であった。
煮付けと飯の間には仕切りがなく、その煮汁のために、飯の半分ほどもがイカと同様に黒く染まってしまっている。しかも冷めた飯は片寄って箱との間に隙間を作っており、見た目にはいかにも不細工な弁当であった。
「イカです。墨を抜かんもんですから真っ黒になってますけど」
「まあまあ、それはイカのお煮付け? おいしそうだこと」
スミエがまじまじと自分の弁当を見つめているので、恵美子は箸をつけられなかった。そのほんの僅かな隙を突くように、スミエが言った。
「ねえ恵美子さん、わたくしにそのお弁当をいただけないかしら」
「はあ。これを、ですか?」
「いじがきたないことね。だけどとても美味しそうなんですもの。イカの墨のお煮付けなんて初めてなのよ。だから、ね、いいでしょう?」
そんなものか、と恵美子は思った。自分らにとっては日常の、それも食べ飽きているほどのイカの墨煮であったが、考えてみれば外来の客には珍しいものかもしれない。清田夫人が東京住まいであることは、駅からの道で聞いている。
(東京の衆は、イカの墨煮なんか食べたことないのかもしれんなあ)
恵美子はそう思った。いったんそう思うとこの娘のつねで、相手が喜ぶことならば無条件で許してやりたくなるのであった。
「ほいたら、粗末なもんですけど」
「いいかしら。ごめんなさいね。じゃあ恵美子さんはこちらのお膳を召し上がって」
恵美子が弁当箱の蓋をかぶせ直している間に、スミエは自分の脚付き膳を、恵美子の前に、向きを変えて置き直した。
主客の料理が入れ替わった。スミエが曲げ物の弁当箱を持ち、黒塗りの膳の前に、恵美子が座ることになった。
スミエはイカの墨煮をひと口食べると、まさしく驚いたような口ぶりでその旨さを賞賛し、次にこう言った。
「恵美子さん。あなたはお幸せね」
「はい」
恵美子はそう答えて微笑んだが、その笑顔は相手の言葉に応えたというよりは、この粗末な食べ物が、遠来の客をそこまで喜ばせたことに対する、彼女自身の喜びに由来していた。
「あらまあ、イカがそんなに美味しいんじゃろうか。良かったわあ」
この娘には根っからそういうところがあり、今風に書くならホスピタリティに富む、とでもいうのだろうか、なにしろひとが喜ぶことをしてあげるのが好きだった。
その体内には、お節介好きの文太郎と、子供の時から幼い弟妹の母親代わりだった徳の血が流れている。その隣人愛には血統書がついていた。
しかし商売人である父に比べれば、箱入りではないにせよ、いまだ世間知らずの娘のことである。その愛情には純粋を通りこして、どこか浮世ばなれした、お人好しなところがあった。
たとえば亮のアラの食べ方に弟の成長を認め、ひたすらに喜び讃えるのは良いのだが、当の亮が大いに迷惑していることには一向気付かない。
恵美子がいま箸をつけている黒塗りの膳はその弁当よりもはるかにご馳走だったが、彼女はそれを有難がることもてんで忘れている。
この無欲で温かな鈍感さが、この娘の持ち味だった。
だから司令官職にある海軍将官の夫人ともあろう者が、初対面の人様の弁当を意地きたなく欲しがってみせるという、およそ信じられない振舞いに対しても、その裏にある彼女の配慮を忖度するなどは不可能であったし、また必要もないことだった。
イカの墨で真っ黒に染まった、冷えた麦飯をさも旨そうに食べ終えるスミエを見つめながら、恵美子はそのとき確かに幸福であったし、それを知るスミエもまた幸福だった。
昭和十九年の秋、日本人はなべてこのように貧しかったが、このように美しくもあった。